P59 ①

  [No.23329] Re: 石飛先生、輪廻と涅槃にはいかなる差異もない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/08(Mon) 11:42:07


> > 水平・平等な心を持ちたいですね。

>
> あなた の 心に起こす
> 自分の混ぜ方で なんでもいっしょくた ・ 平板 な 思考

> それが、 「 平等 」 ですか ?


春間さん、芳和さんはここには投稿できないようになっているのを百も承知で、何故、わざわざ先々月の芳和さんの投稿文に今になってこのように噛みつくのですか?
芳和さんはそれに対し何か言いたくても返信できないのですよ。
上から目線の酷い仕打ちだと思いませんか?

昨日も、芳和さんに対して、『ここも マニカナ ここで マニカナ ナゼカナ』と、お気楽掲示板でしか投稿できないことを揶揄してましたね。
制限がかかった後、ミチオくんにも『ミチオ君の檜舞台 目立つだけなら サルでも出来る 猿の知る 猿真似』とからかっていました。

しかし、芳和さんが初めてこのマニカナに投稿した当初、芳和さんをべた褒めしていたのは春間さんです。
そして、ミチオくんが初めて投稿したときにすかさず『ミチオちゃ-ん』と大歓迎していたのも春間さんです。
それまでは、新しく投稿した人に対しては、すべて否定的な言葉や嫌みのようなことしか言わなかった春間さんが、この2人に対してだけは、大歓迎していましたね。

私は、芳和さんが和弘さんだとすぐ気づきましたし、ヤフ-時代と変わっていないこともわかりましたから、たぶんそのうち春間さんの嫌みに芳和さんが激怒して収拾つかなくなるだろうと見てそれから何ヶ月も投稿を控えました。

しかし、春間さんは芳和(和弘)さんとヤフ-掲示板で何十年もいっしょに多くの投稿してながら、全く気がつかなかったようです。



できれば、新しく投稿する真摯な人に対しても、あのように大歓迎されれば新しい人や閲覧だけの人が投稿しやすくなるのではないでしょうか。


 

  [No.23331] Re: 石飛先生、輪廻と涅槃にはいかなる差異もない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/08(Mon) 13:40:29


> > しかし、芳和さんが初めてこのマニカナに投稿した当初、芳和さんをべた褒めしていたのは春間さんです。
>
> あなたはそれを 歓迎 だと 思う

ミチオくんにいの一番に『ミチオちゃ-ん』と歓迎していたのは、誰ですか?

>
> > そして、ミチオくんが初めて投稿したときにすかさず『ミチオちゃ-ん』と大歓迎していたのも春間さんです。
> > それまでは、新しく投稿した人に対しては、すべて否定的な言葉や嫌みのようなことしか言わなかった春間さんが、この2人に対してだけは、大歓迎していましたね。
>
> > しかし、春間さんは芳和(和弘)さんとヤフ-掲示板で何十年もいっしょに多くの投稿してながら、全く気がつかなかったようです。
>
> 何十年とは !
>
> 開いた口が塞がらない
>
> ( もっとも、 あなたにとっては、 何十年にも、 思えてしまううのでしょう が 、、、、 )
>
>
> 事実 は 何年も とまでも 言えない ( いうのを憚られる )
>
> 二・三年 の こと ですよ
>
> あなたが、 何十年にもわたって、 投稿していて、
> その事実を観ているのであれば
> その事実 とは なんとも不思議な事実です
>
>
> ヤフ-掲示板 への 投稿 は マニカナへと、 ほとんど同時期 に 起こしたことです

十何年の間違いですね。
2007年には投稿してませんか?
二、三年というのは嘘ですね。どこから二、三年が出るのですか。


> > できれば、新しく投稿する真摯な人に対しても、あのように大歓迎されれば新しい人や閲覧だけの人が投稿しやすくなるのではないでしょうか。
>
> そのように、 “ 大歓迎 ” を用いて、 あたかもそれが、 事実のように 固定化したいのは なぜですか ?
>
>
> わたしは、 「 マニカナ へ いらっしゃい 」 とは 勧めました
>
>
> それは、 掲示板のように 消えてしまう投稿 では 問題がある と 思ったからです
>
>
> ここでは、 「 道場 」 などは、 永久保存です
>
>
> あなたの ( 為したような )事実に基づかない断定 は 通りにくい のです
>
>
> あなたの投稿 も 残ります


> あなたが、 管理人エム 様 と 対抗しようとすれば、
>
> 結局 の ところ 、 あなたは ( 過去に 何人もの常連が去ったように ) 去ること となります


石飛先生に対抗しようとなど思ってもいませんが、去れと言われればいつでも去りますよ。
しかし、春間さんの芳和さんへのレスに対して書いているのに、なぜ、石飛先生が関係あるのですか?

それに、春間さんが歓迎したのは、私ではなく、ミチオくんや芳和さんですよ。
話をすり替えるのはやめてもらえますか。


> 結局 の ところ 、 あなたは ( 過去に 何人もの常連が去ったように ) 去ること となります

そうですか。春間さんは自分の気に入らない人をどんどん排除していったのでしょうね。
石飛先生はあれほど寛容なのですから、春間さんも少しは、参加者に温かい目線で接したらどうでしょう。


 

  [No.23336] Re: 石飛先生、輪廻と涅槃にはいかなる差異もない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/08(Mon) 18:45:57


> > > そして、ミチオくんが初めて投稿したときにすかさず『ミチオちゃ-ん』と大歓迎していたのも春間さんです。
>
> 過去ログ が 残っています 立証できますか ?


※※※※※※

[No.18804] Re: ミチオちゃ-ん 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/11/30(Mon) 07:21:48

浄土 の 教え


> どうやって阿弥陀仏が救うのだ。

こうやって 救われている
※※※※※※





> わたしは、 誰でも 歓迎しますが、
> その、歓迎の仕方 は あなたの気に入らない
> ただし、 芳和 さん や ミチオ君 に対して “ 大歓迎 ” などは、 したことはない


※※※※※※

[No.17874] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/09/28(Mon) 07:17:24

> 芳和さまのお話は、・・・・
> 大乗の三輪清浄ともつながる素晴らしい解釈ですね。
> 七施のお話もしみるお話で。 体験談のようにも見える法の談話と受けとめました。

よかったですね

よき理解者 と 巡り合えて 、、、、

※※※※※※


別に歓迎したのが悪いと言っているのでは全くありません。むしろ、真摯な人であれば、新しい人に否定的なことを言うのではなく、温かく受け入れてあげるのが最善だと思っています。
芳和さんとミチオくんに関してあれほど受け入れていたのであれば、他の新しい真摯な人たちも同じように温かい言葉をかけてあげたらいいのに、と思うだけです。



> わたしは、 すべて、 「 仏教 」 から 投稿しています
>
> “ そのようには、 読み取れない ” のは、 わたしが悪い のですか ?
>
> ( この表現 は あなたには、 理解しがたい )
>
> 何故 これが、 「 仏教 」 なのか
> ということ



そうですか。
石飛先生に認められていることを葵の御紋にして、気に入らない者を追い出そうとするのが『仏教』なのですか?

> あなたが、 管理人エム 様 と 対抗しようとすれば、
> 結局 の ところ 、 あなたは ( 過去に 何人もの常連が去ったように ) 去ること となります

私は、春間さんの芳和さんへのレスについて意見しただけです。
石飛先生には何の関係もありません。
なぜ、ここで石飛先生の名前を出して、『あなたは去ることになります』などと言うのですか?
何の関係もないところに、石飛先生の名前を引っ張り出してきて『去ることになる』と脅すのが、春間さんのいう『仏教』ですか?


私は、仏教とは、執着や依存を少なくしていくことだと思っています。
依存しているかどうかは、簡単に離れることができるか、離れることで痛みは感じないか、何日も何年も痛みなしで離れることができるか、で判断できるでしょう。
アルコ-ル中毒の人は、1日も苦痛なしに離れることができないでしょう。
私はお酒を楽しみますが、もし断たれても、何か月も何年も苦痛なしでいられます。
すべてのことや人とも、このような『楽しむけれど依存しない』関係になればなるほど、仏教に近づくのかもしれません。

私には、春間さんがいつも葵の御紋を振りかざし、葵の御紋に極めて依存しているように見えます。
仏教からは程遠いと思いますよ。


> 結局 の ところ 、 あなたは ( 過去に 何人もの常連が去ったように ) 去ること となります

という言葉は、本当の仏教からは発せられない言葉ですね。


 

  [No.23342] Re: 石飛先生、輪廻と涅槃にはいかなる差異もない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/08(Mon) 21:51:35


> 気に入らない者を追い出そうとする わたし を、
> 管理人エム 様 は 認めているのですか ?

> 管理人エム 様 は わたしの 「 仏教 」 を 認めているだけです




そうですか。
よくわかりました。
これ以上言っても仕方ないようです。
草鞋を頭にのせて出ます。


 

  [No.23337] Re: 石飛先生、輪廻と涅槃にはいかなる差異もない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/08(Mon) 19:21:27

あ、それから、春間さんは勘違いしていますが、
私は、石飛先生に対抗しようとか、自分を正しいと認めさせたいとか全く思っていませんよ。

先生と私は、正反対の立場で、それでいいと思っています。
先生には、龍樹が仏陀と全く同じことを説いたのだということを証明していただきたいと本気で思っています。
私は、能力的にそこまで広げられないので、後世のすべてを白紙にして調べている段階ですから。

立場が違うものが議論したら結構白熱して盛り上がることも確かです。

店でもそうですが、閑散とするのは淋しいものです。
特にこのような良質な仏教のホ-ムペ-ジは稀なのですから、
閲覧者の人も気軽に書き込める雰囲気にして、盛り上がっていけばいいなと思っています。

確かに春間さんには、厳しいことばかり言ったかもしれませんが、
それは、新しい投稿者にも水をかけるようなことばかり言う気がしていたからです。

全く初めてのサイトに投稿するのはとても勇気がいることです。
いきなり否定的に言われたら、それで委縮してしまう人も多いでしょう。
少なくとも、否定的でない言葉を使った方が、このサイトにはプラスになると思いますが。


 

  [No.23229] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 06:22:22

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


揺れることなきわたしを得たのに、揺れる道を歩んできたのですね(驚)


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く


岸が揺れ動いては駄目でしょ(笑)


 

  [No.23231] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 06:47:03

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く




道が揺れて、心が揺れて、岸まで揺れ動いては、目が回りませんか?(笑)

道も岸も揺れ動いていて、『わたし』だけ揺れることがないのであれば、なぜわざわざ舟に乗るのですか?


 

  [No.23234] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 07:11:38

> > 道も岸も揺れ動いていて、『わたし』だけ揺れることがないのであれば、なぜわざわざ舟に乗るのですか?
>
>
> 分かる人 分からぬ人も 乗せる 大舟
>
> はんじゅざんまい 渡世の小舟



岸は揺れ動かないから、舟で岸に渡ろうとするのでしょう?

揺れ動く岸なら、流れる川と何も変わらない。

揺れ動く岸にわたっても、揺れ動いているだけではないですか。


> ( 揺れることなき わたしを得た )

揺れることなきわたしを得たのであれば、わざわざ揺れ動く岸に渡るのは何故ですか?
揺れることなきわたしが岸であり、揺れ動くようなものは岸ではないでしょう。



 

  [No.23235] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 07:23:08


> > 道も岸も揺れ動いていて、『わたし』だけ揺れることがないのであれば、なぜわざわざ舟に乗るのですか?
>
>
> 分かる人 分からぬ人も 乗せる 大舟
>
> はんじゅざんまい 渡世の小舟





揺れ動く岸に行く舟に乗ってはいけないでしょ。
分からぬ人を揺れ動く岸に案内したらまずいですよ(笑)

乗るなら、揺れ動かない岸に行く舟に乗りたいですね。


 

  [No.23239] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 07:53:07

>
> > 乗るなら、揺れ動かない岸に行く舟に乗りたいですね。
>
> 揺れぬ思い が あなたに起きる
>
> 起きて 始めて 歩む道



その『歩む道』も、春間さんによれば『揺れる道』なのですね。

> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


 

  [No.23241] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 08:25:01

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く




春間さんは、二十歳のとき、一瞬だけ揺れることなきわたしを見たものの
それからはずっと揺れ続けてきた、と解釈してもいいですか?(笑)


 

  [No.23247] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/03(Wed) 10:25:05

> > 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> > 心が 揺れている
> > 舟に乗る 心が 移り 揺れる
> >
> > ソウ で あっても
> > 岸 は 揺れ動く
>


> 春間さんは、二十歳のとき、一瞬だけ揺れることなきわたしを見たものの
> それからはずっと揺れ続けてきた、と解釈してもいいですか?(笑)

ショ-シャンクさま おはようございます。

わたしは、ここに「現成公案」を見ています。


人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

人がはじめて法を求めるときは、法の終極(限界)を離れている。法がただしく自分に伝わったとき、たちまち法の本分はその人(自身)である。
人が舟に乗って進み、遠くに眼をめぐらして岸を見ると、まるで岸が進んでいくようにみえる。。眼を親しく舟に引き戻して見るならば舟の進んでいるのを知るように、身心が乱れた状態で思いながらあらゆる法を了解していこうとすると、自分の心や自分自身は常住であるかのように思いあやまる。もし、日常の行住坐臥をしたしく現にあるものとして眼をむけるならば、万法に我がないという道理は明らかである。(または、万法がわたしではないという道理はあきらかである)

こんな風に読めるかと思うのですが、

> > ソウ で あっても
> > 岸 は 揺れ動く

というのが、ようわからん、

世間とともに歩む、と言っているのかな、と思うけど、わかりません。

【2021/11/03(Wed) 10:33:48 投稿者により修正されました。】


 

  [No.23250] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 10:59:09

石飛先生、おはようございます。


> 人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
> 人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
>
> 人がはじめて法を求めるときは、法の終極(限界)を離れている。法がただしく自分に伝わったとき、たちまち法の本分はその人(自身)である。
> 人が舟に乗って進み、遠くに眼をめぐらして岸を見ると、まるで岸が進んでいくようにみえる。。眼を親しく舟に引き戻して見るならば舟の進んでいるのを知るように、身心が乱れた状態で思いながらあらゆる法を了解していこうとすると、自分の心や自分自身は常住であるかのように思いあやまる。もし、日常の行住坐臥をしたしく現にあるものとして眼をむけるならば、万法に我がないという道理は明らかである。(または、万法がわたしではないという道理はあきらかである)
>
> こんな風に読めるかと思うのですが、
>
> > > ソウ で あっても
> > > 岸 は 揺れ動く
>
> というのが、ようわからん、
>
> 世間とともに歩む、と言っているのかな、と思うけど、わかりません。



おっしゃるように、正法眼蔵の言葉やパ-リ涅槃経の言葉、六祖慧能の非風非幡などから成り立っているのでしょうけど
> > ソウ で あっても
> > 岸 は 揺れ動く
これで、尻尾が出てしまった感じに見えます。

仏陀や六祖慧能道元の言葉には破綻がないのですが、
同じようなことを言っても、私たち凡人が言うと、どこかにほころびが見えてしまいます。


 

  [No.23251] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/03(Wed) 14:13:06


> 仏陀や六祖慧能道元の言葉には破綻がないのですが、
> 同じようなことを言っても、私たち凡人が言うと、どこかにほころびが見えてしまいます。

ショ-シャンクさま、う-む、そう簡単にはいかないような気もします。

正法眼蔵』「現成公案」の、始めの方には、

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。


このようにあって、「そうであっても、華は愛おしく散っていき、草はいやらしくおがってくるのだよ」とありますので、

「そうであっても、岸は揺れ動く」という言い方もできなくはないですが、そう知っても、自然界のできごとが変わるわけではない、ととるのかな、などと思ったり。。

解釈にはいろいろありますね。


 

  [No.23256] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 17:59:25

石飛先生、こんばんは。

> 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
> このようにあって、「そうであっても、華は愛おしく散っていき、草はいやらしくおがってくるのだよ」とありますので、
> 「そうであっても、岸は揺れ動く」という言い方もできなくはないですが、そう知っても、自然界のできごとが変わるわけではない、ととるのかな、などと思ったり。。
> 解釈にはいろいろありますね。


先生は、春間さんが何か悟ってるという前提なので、私も突っついて反応を見てます(笑)
今のところ、いつもの決まりきった反応です。
もう少し、何かキラッとした著語の一つでも出れば、何かがあるとわかるのですが。

『岸は揺れ動く』を『華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』に見立てるのはちょっと無理があるかもしれません。
華は散り、草は生えるのが世の習いですが、岸は揺れ動きませんので。

岸を、青山常運歩の意味で『動いている』と言ったのであれば、少し、『ひょっとして』と思ったかもしれませんが。

いずれにしても、『岸は揺れ動く』で道元が言っているのは、舟に乗って揺れている者は岸が揺れているように見えるということですので、
実際は揺れてないけれど迷いの衆生には揺れているように見える例えですから、春間さんが『岸は揺れ動く』と見るのであれば、乗ってる舟が揺れているだけでしょう(笑)


 

  [No.23258] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/03(Wed) 20:04:59


ショ-シャンクさま こんばんは。

> 先生は、春間さんが何か悟ってるという前提なので、私も突っついて反応を見てます(笑)

概して適切だと思います。ときどき自分でもわからなくなりますが(笑)
ご本人が、マジなときとそうでないときがあるような気がしますね。混ぜてる感じ。

> 『岸は揺れ動く』を『華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』に見立てるのはちょっと無理があるかもしれません。
> 華は散り、草は生えるのが世の習いですが、岸は揺れ動きませんので。

いや、そうではなく、「岸が揺れ動く」のと、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」のは、相応すると思います。

自己を中心にみるとき、岸が動くように見えるわけです。
自己を中心にみるとき、華はいつまでも咲いていてほしいのに散っていき、雑草は生えなくていいのにどんどん生長するわけなのです。
どちらも、自己を中心に見ている立場ですが、同じように見えても、ちがうときがあります。

初めは何も知らず、仏法には気づいていないときも、自分中心にみたり、人によっては見なかったりします。仏教の見方を学んで、そして、「迷悟あり修行あり」と知り、「万法の我にあらぬ道理あきらけし」となっても、そうであっても、なおも「岸が揺れ動く」ようにみ、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」と見るのは、また一つの生き方だという気がします。

ある種、ものの見方を得ているけれども、そうであっても、ほかの何も仏法を知らない人と同じように生きていくという生き方を選ぶこともできます。

> 岸を、青山常運歩の意味で『動いている』と言ったのであれば、少し、『ひょっとして』と思ったかもしれませんが。

これも、ことによると同じかもしれません。
>
> いずれにしても、『岸は揺れ動く』で道元が言っているのは、舟に乗って揺れている者は岸が揺れているように見えるということですので、
> 実際は揺れてないけれど迷いの衆生には揺れているように見える例えですから、春間さんが『岸は揺れ動く』と見るのであれば、乗ってる舟が揺れているだけでしょう(笑)

そうかな?揺れてないんとちゃいますか。
「そうであっても岸が揺れ動く」というのは、わかったうえで、あえて自分で選んでそうしている、ということですから。

こういう人は、いろいろと生き方を変えられそうだとも思いますね。


 

  [No.23263] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/04(Thu) 09:59:48

石飛先生、おはようございます。

> > 先生は、春間さんが何か悟ってるという前提なので、私も突っついて反応を見てます(笑)
>
> 概して適切だと思います。ときどき自分でもわからなくなりますが(笑)
> ご本人が、マジなときとそうでないときがあるような気がしますね。混ぜてる感じ。


そうなんですかね。
まあ、祭りの露天のくじ引きでいい賞品が当たる確率のような気もしますが、時々くじを引いてみます。


> > 『岸は揺れ動く』を『華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』に見立てるのはちょっと無理があるかもしれません。
> > 華は散り、草は生えるのが世の習いですが、岸は揺れ動きませんので。
>
> いや、そうではなく、「岸が揺れ動く」のと、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」のは、相応すると思います。
>
> 自己を中心にみるとき、岸が動くように見えるわけです。
> 自己を中心にみるとき、華はいつまでも咲いていてほしいのに散っていき、雑草は生えなくていいのにどんどん生長するわけなのです。
> どちらも、自己を中心に見ている立場ですが、同じように見えても、ちがうときがあります。
>
> 初めは何も知らず、仏法には気づいていないときも、自分中心にみたり、人によっては見なかったりします。仏教の見方を学んで、そして、「迷悟あり修行あり」と知り、「万法の我にあらぬ道理あきらけし」となっても、そうであっても、なおも「岸が揺れ動く」ようにみ、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」と見るのは、また一つの生き方だという気がします。
>
> ある種、ものの見方を得ているけれども、そうであっても、ほかの何も仏法を知らない人と同じように生きていくという生き方を選ぶこともできます。

咲いてる花を楽しみ、その散りゆく様を惜しむのはありだと思います。
庭の雑草は刈らなくては大変なことになります。
しかし、岸が揺れていると思い込む必要はないですね。
足下の舟に目をやれば舟が揺れていて岸は揺れてないことがわかると道元も言っています。
草を抜くのはいいのですが、岸が揺れ動くと思い込んでしまうのは巻き込まれているだけです。
周囲の人に合わせて岸が揺れ動いていると見るのはどうなんでしょうね。
周囲の人と、散る花を惜しむのは生き方としてはありでしょうけど。

> > 岸を、青山常運歩の意味で『動いている』と言ったのであれば、少し、『ひょっとして』と思ったかもしれませんが。
>
> これも、ことによると同じかもしれません。

やはり違うような気がします。
仏陀が岸の喩えをしてから仏教では岸というのは悟りの境地の喩えで、まともな仏教者であればそれを外してないでしょう。道元も岸が揺れ動くのではなく、舟が揺れ動いていると言います。
青山常運歩の意味で岸を使うのは、仏教者としては筋が悪い気がします。


> > いずれにしても、『岸は揺れ動く』で道元が言っているのは、舟に乗って揺れている者は岸が揺れているように見えるということですので、
> > 実際は揺れてないけれど迷いの衆生には揺れているように見える例えですから、春間さんが『岸は揺れ動く』と見るのであれば、乗ってる舟が揺れているだけでしょう(笑)
>
> そうかな?揺れてないんとちゃいますか。
> 「そうであっても岸が揺れ動く」というのは、わかったうえで、あえて自分で選んでそうしている、ということですから。
>
> こういう人は、いろいろと生き方を変えられそうだとも思いますね。

かなり凝り固まっているような気もしますが(笑)
二十歳のときに、見性のような体験、一瞥体験はあったのだと思います。
見性する人は禅を中心に数多いでしょうから。
ただ、その体験をほとんどの人は、自我に組み入れてしまって、『俺は悟った。偉いんだ。お前たちは悟っていない。俺が教えてやろう。』となってしまいます。
かえって自我が膨張してしまうのです。
悟った自分が一番偉いのですから、他者をことごとく否定して回ります。

なかなか生き方を変えるのは難しいでしょう。


 

  [No.23268] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/05(Fri) 05:38:22

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 草を抜くのはいいのですが、岸が揺れ動くと思い込んでしまうのは巻き込まれているだけです。

「思い込んでしまう」というところに、ちょっとした誤解がありますね。

汽車の歌で「畑もとぶとぶ 家もとぶ♪」というのがあるでしょう?
歌にあるからと言って、誰も、家が飛んだり畑が飛んだりするとは思っていません。
でも、そう歌っても、誰も目くじらはたてませんよね。
そんな感じだと思います。

> 周囲の人に合わせて岸が揺れ動いていると見るのはどうなんでしょうね。

この書き方が、どこかちがうなと思わせますね。
常識人としてのショ-シャンクさまの様子がうかがえます。


> 仏陀が岸の喩えをしてから仏教では岸というのは悟りの境地の喩えで、まともな仏教者であればそれを外してないでしょう。道元も岸が揺れ動くのではなく、舟が揺れ動いていると言います。
> 青山常運歩の意味で岸を使うのは、仏教者としては筋が悪い気がします。

言ってみれば「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と言うことを、様々な喩えで述べている、とすれば、同じことをことばを変えて述べているとも言えます。

岸にこだわらなくても、山にこだわらなくても、それぞれの現象にこだわらなくてもよいのだと思いますが。
万法と自己との関係を考えていきなさい、ということだと受けとめています。

> かなり凝り固まっているような気もしますが(笑)
> 二十歳のときに、見性のような体験、一瞥体験はあったのだと思います。
> 見性する人は禅を中心に数多いでしょうから。

> ただ、その体験をほとんどの人は、自我に組み入れてしまって、『俺は悟った。偉いんだ。お前たちは悟っていない。俺が教えてやろう。』となってしまいます。

それは、見性ではないですね。
一時のことではなく、ものの見方が変わるということで、異なる見方に立って,それ以後ものを見ていくということですから。

> かえって自我が膨張してしまうのです。
> 悟った自分が一番偉いのですから、他者をことごとく否定して回ります。

たぶん、「ものの見方」ががらっと変わるという体験をしても、今までどおり生きる人と、まったく違った生き方になる人と出てくるのではないかと思います。
しかし、どこかにその生き方が見え隠れするのではないでしょうか。

世の中の毀誉褒貶には、惑わされなくなるとは思います。

それだけでも、だいぶちがった生き方です。


 

  [No.23270] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/05(Fri) 10:10:47

石飛先生、おはようございます。

春間さんが悟っているという結論が先にあって、その結論を読み込んでいったために、ちょっと違和感を感じる表現でも、『何か悟りに裏付けされた意味がある』と解釈されているような気がします。

春間さんは、私が指摘するまでは、さかんに『縁起を見る者は私を見る』もしくは『縁起を見る者は仏を見る』と言う言葉を多用していました。
仏陀は、『縁起を見る者は法を見る』とは言いました。
そして別のところで、『法を見る者は私(仏)を見る』とは言いました。
しかし、勝手にこの2つの言葉をごちゃ混ぜにしたとたん、台無しになりました。

それと同じ事が、下の文章にも起こっているような気がします。

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く



これは先生が挙げられた、道元の『 人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。』と言う言葉と、
六祖慧能の『非風非幡』、
この2つを混ぜたものです。

『非風非幡』
六祖、因みに刹幡をあぐ。
二僧有り、対論す。
一は云わく、幡動く。
一は云わく、風動くと。
往復して曾て未だ理に契わず。
祖云わく、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くに非ず、仁者の心動くのみと。
二僧悚然たり


道元の喩えでは、岸と舟だけが出てきます。岸が揺れ動いていると見えるが、足下を見れば舟が揺れ動いているからそう見えるのであって、岸は動いていない、という喩えです。

これに、『非風非幡』の『心が動いている』を混ぜ合わせたものです。
幡という、見ている対象が動いているのではなく、心が動いているのだということを、『動く』ことが共通なので安易に混ぜ合わせたために、意味が曖昧模糊となってしまいました。

ごくごく短い文章に、『道』『岸』『川』『心』『舟』と揺れるものが5つも出てきています。

道元は、揺れる舟を心の乱想に喩えているのであって、舟という心の喩えがあるのに、ここに『心』を出してしまうと、どれも比喩として成り立たなくなります。
例えば、『舟』で何を喩えているのか『川』で何を喩えているのか、舟と川の違いは何かなど、重複するものを出せば出すほど意味をなさなくなっているのです。

禅語の何個かを適当に組み合わせていけば、仏教を知らない人には何か禅語っぽい、深遠な悟りを示唆するような言葉に見えてしまうかもしれませんが、違和感を感じる人もいるでしょう。

私は何か、この『詩』に、
『縁起を見る者は私を見る』という造語と同じようなにおいを感じてしまいます。


もちろん、これは私の勝手な感想を書いただけのことです。
先生の、この春間さんの『詩』が悟りに裏付けられたものだというお考えに反対して論争したわけではありません。

ひとつの『詩』への感想が、先生と私で違っているということです。

ご説明、ありがとうございました。


 

  [No.23272] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/05(Fri) 14:47:56

ショ-シャンクさま こんにちは。

> 春間さんが悟っているという結論が先にあって、その結論を読み込んでいったために、ちょっと違和感を感じる表現でも、『何か悟りに裏付けされた意味がある』と解釈されているような気がします。

ああ、なるほど、そう見えるかも。
ショ-シャンクさまが、そんな風に見えているだろうなというのはわかりますが、「悟っている」と思ってみるから悟ってみえるのだろう、という程、そこまでひどくはないです(笑)
自分で、確かめてますから。

> 春間さんは、私が指摘するまでは、さかんに『縁起を見る者は私を見る』もしくは『縁起を見る者は仏を見る』と言う言葉を多用していました。
> 仏陀は、『縁起を見る者は法を見る』とは言いました。
> そして別のところで、『法を見る者は私(仏)を見る』とは言いました。
> しかし、勝手にこの2つの言葉をごちゃ混ぜにしたとたん、台無しになりました。

これ、もしかすると、引用したのではないのでは?わかりませんが。
その場で、その場面に当てはめて出てきたことばのような感じですね。しかし、確かに多用しますから、パタ-ン化した印象をもちます。それは、安直な印象を与えますし、安直でもあります。

ちなみに、「縁起を見るものは法を見る」は、サ-リプッタ尊者の言ったことばだと思います。ブッダのことばではないと思います。

「縁起を見るものは法をみるのかあ、仏は見ないんだな」と、以前経典を読んで思った記憶があります。縁起を見るものは仏を見る人もいるだろうと思います。また、「縁起を見るものは、わたしをみる」の方ですと、これは引用ですかね?
そうでなければ特別の意味で言われたか。。わからんですが。

> > わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> > ( 揺れることなき わたしを得た )
> >
> > その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた
>
>
> > 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> > 心が 揺れている
> > 舟に乗る 心が 移り 揺れる
> >
> > ソウ で あっても
> > 岸 は 揺れ動く
>
>
>
> これは先生が挙げられた、道元の『 人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。』と言う言葉と、
> 六祖慧能の『非風非幡』、
> この2つを混ぜたものです。
>
> 『非風非幡』
> 六祖、因みに刹幡をあぐ。
> 二僧有り、対論す。
> 一は云わく、幡動く。
> 一は云わく、風動くと。
> 往復して曾て未だ理に契わず。
> 祖云わく、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くに非ず、仁者の心動くのみと。
> 二僧悚然たり

わたしは、こっちは思いつかなかったです。
しかし、「心が動く」という点については、『スッタニパ-タ』を思い出していました。「二種の随観経」に出てくる「動揺(インジタ)」ということばです。
「何であれ苦しみが発生するものは、すべて動揺を縁とするから」とあります。
>
> 道元の喩えでは、岸と舟だけが出てきます。岸が揺れ動いていると見えるが、足下を見れば舟が揺れ動いているからそう見えるのであって、岸は動いていない、という喩えです。
>
> これに、『非風非幡』の『心が動いている』を混ぜ合わせたものです。

いや、そうではない、とも言えます。なぜなら、「自心自性は常住なるかとあやまる」とあって、すでに心は出てきますから。
というか、二つの話を混ぜたと解釈するのはショ-シャンクさまであって、春間さまの意図を知るのは、やはり春間さまの書いた通りに読まないとわからないのでは?、と思います。
自心自性は常住であるとはあやまることはなくなったが、しかし、なお、「揺れる舟に乗っている」というのは、どういうことなのか、もう少し説明がいるかな、と、わたしは読みました。
わたしは、「現成公案」を思い出しましたが、ほかの経典を思い出す人もいると思います。

それにしても、ショ-シャンクさまは、「動かない方」に関心が強いんだなと思います。
揺れないものを求めようとしますよね。

> 幡という、見ている対象が動いているのではなく、心が動いているのだということを、『動く』ことが共通なので安易に混ぜ合わせたために、意味が曖昧模糊となってしまいました。

この幡の話は、さらに複雑ですね。わたしなどが考えると風性常住の引っかけも絡んでいるような感じにみえますが、しかし、実際は話はちがうかもしれません。
そこまで言っているわけではなくて、二人の僧が争っているその心をただ見たとおりに言ったのかもしれないのです。

自然現象としては、風が動くから、幡も動く、となりますが、そういうことではなくて、ただ「言い争うおまえたちの心は揺れうごいていて落ち着くところがない」と言ったのだとおもいます。僧たちはまさしく言い当てられて、慄然としてしまった、というところから考えると、特にそんな感じがします。

ただ、ここから、さらに参究することは可能です。風性常住、無処不周の道理に従うなら、風につれて幡も動くのですが、それを認識するのは、われわれの心と身体です。そう見えるとき、そう思うのです。揺れると見るとき揺れており、止まると見るとき止まっている。だから、寂滅した心には、「風が動く」も「幡が動く」もない、と言われるなら、そうだろうと思います。

> 道元は、揺れる舟を心の乱想に喩えているのであって、舟という心の喩えがあるのに、ここに『心』を出してしまうと、どれも比喩として成り立たなくなります。
> 例えば、『舟』で何を喩えているのか『川』で何を喩えているのか、舟と川の違いは何かなど、重複するものを出せば出すほど意味をなさなくなっているのです。

喩えではありますが、象徴的なメタファ-のようなものではなく、そのまま見たとおりのものでもあるのが、仏教的な見方だと思います。舟は心の「喩え」ともみえますが、そのまま舟で考えていっても成りたつ話でもあるところ、ただの比喩ではないと思います。
舟に眼を引きつければ、舟が揺れている、と分かりますし。
>
> 禅語の何個かを適当に組み合わせていけば、仏教を知らない人には何か禅語っぽい、深遠な悟りを示唆するような言葉に見えてしまうかもしれませんが、違和感を感じる人もいるでしょう。
>
> 私は何か、この『詩』に、
> 『縁起を見る者は私を見る』という造語と同じようなにおいを感じてしまいます。

それは、残念ですね。ことば遊びだと。
まあ、春間さまの日頃の書きぶりから、そう取られるのも仕方ありません。しかし、別にわたしが言い訳することでもないかもしれませんが、そう解釈すると、もったいないです。

ショ-シャンクさまに、そう見えているということは、「岸は揺れ動く」を実践しているようにもみえるからです。そのとおりだな、という気もしないではありません。
もしかして、ショ-シャンクさまのお気に障るかもしれませんが、よくわからないので、そのまま書いてしまいます。お気に障ったらすみません。

> もちろん、これは私の勝手な感想を書いただけのことです。
> 先生の、この春間さんの『詩』が悟りに裏付けられたものだというお考えに反対して論争したわけではありません。

わたしも、論争ということは望みませんし、そもそも無理でしょう。ものの見方の問題なので。
わたしは、実際のところ、春間さまが悟っているのかどうかは、ほとんど興味がありません。

わたしが書き込みで読んでいるのは、春間さまが自己を偽っていないかということだけです。
たぶん、春間さまもわたしのものを読むとき、その点に注意をはらっていると思っています。

わたしの印象では、ショ-シャンクさまは、見聞したものや文字で書いたものや一般的な知識を大事にされる方だと思います。

その点で、読みは、最初のうちは同じようですが、だんだんずれて離れて行くような気がしますね。自己の真実、というのが、わたしにとって優先されているせいかな、と思っています。

どうも、ありがとうございました。


 

  [No.23300] 道元と喩え(舟と岸は何を喩えたか) 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/06(Sat) 05:26:22

ショ-シャンクさまの書き込みを、一部、足がかりに、道元の「現成公案」の解釈をやってみようかと思います。

ショ-シャンクさまが述べているのは、春間さまの文章についてなのですが、そこに道元が使われていると思うので、道元解釈に引っ張って行ってみます。

> ごくごく短い文章に、『道』『岸』『川』『心』『舟』と揺れるものが5つも出てきています。
> 道元は、揺れる舟を心の乱想に喩えているのであって、舟という心の喩えがあるのに、ここに『心』を出してしまうと、どれも比喩として成り立たなくなります。
> 例えば、『舟』で何を喩えているのか『川』で何を喩えているのか、舟と川の違いは何かなど、重複するものを出せば出すほど意味をなさなくなっているのです。


道元の「現成公案」の解釈にも通ずると思うので、喩えと喩えられるものを使って、お話ししてみます。
わたしは、道元は、龍樹をがっちりつかんでいたと思っています。そうとしか読めないところがいくつもありすぎます。


===「現成公案
人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
====

道元の場合、喩えが巧みだと思います。
「喩え」と思わなくても、そのまま理解できるようになっています。

この場合も、そうです。
人には、大きく分けると、心と身体があります。多くの人は、「自己」ももっています。

心(と身体) ⇒ (自己) ⇒ 人 ⇒ 舟

舟に乗っている限り、人は舟と一体と考えてよいとも言えます。
ここに書いてある、「心(と身体)」「(自己)」「人」「舟」は、一つのことがらを指し示すものと考えられます。

一つの舟から見ると、岸が過ぎ去っていくようにみえる。しかし、実際は、眼を親しく舟に近づけて観察すると舟が動いているのだと分かる。

こういう内容ですが、龍樹が「随言生過(ことばどおりに取ると誤りを生ずるもの)」と呼ぶ例を思い出します。
たとえば、「山を焼く」というが、ことばどおりに取ると意味が合わないだろう。どうして山を焼くのか。実際焼いているのは、眼にみえている草や木であるのに、と難ずるものです。

この批判を間に受けると、あらゆることは喩えでしかないことに気づきます。人と言い、心と言い、舟と言っても、どれもかりに名づけて呼んでいる、喩えのようなものです。

「草木を焼くのだ」と言えば、これをさらに分解して行くこともできるでしょう。どんどんやっていけば、元素(四大)にまでいたることになりましょう。しかし、元素でも、それも究極というわけではありません。現代人なら、最終的には素粒子の段階にまで分けて述べたとしても、たとえられるものが何で、喩えているものが何なのか、正確に述べることはできないことに気づきます。

そういうことに気づいて、なお、
何が動いて、何が動いていないのか、じっと見ていくと、道元の場合、一つ見えてくるものがある。

万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

あらゆるものごと(それを表すことばも)は自己ではない、という道理は明らかだ。
言い換えれば、
あらゆることがわれ(自己)の喩えにはならない、と言っているとも、受け取れます。

もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば (行住坐臥に親しく眼をつけてその現状を見つめるならば)

あらゆることは自己ではない(=非我?)

あるいは

あらゆることには自己はない、でもいいですか。「自心自性」の語に気づいた人は「自」を取っ払って考えるでしょうから。

で、春間さまの次の文章の解釈になります。

> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く

(20歳の時に)この真理に気づいたけれど、行住坐臥一々にそう見ていると、言挙げしていうことはない。

それはわかったのだけれど、つまり、そうであっても、「岸は揺れている」かのように生きている、ということですかね。

そう読んでいます。


 

  [No.22940] 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/15(Fri) 17:08:51

石飛先生、こんにちは。
前から、先生のお考えをお聞きしたいと思っていたことがあります。
私がずっと疑問に思っていたことでした。

仏陀は、五蘊非我を説きました。
そして、四念処の実践で、身・受・心・法 の4つがどれも無常であり(生じれば滅するということ)、苦であり、私ではない、と観じることを説きました。

病身の仏陀を見舞いに来た弟子に『このような老い朽ちていく私の肉体を見て何になろう。私の説いた法を見る者は私を見るのだよ。』と説きました。

仏陀の説いた理法からすると、当然、仏陀の肉体が仏陀なのではないはずですし、
まして、仏陀の遺体が仏陀であるはずがありません。

仏陀の遺骨を特別なものとすることは、仏陀の理法からはあり得ないと思うのです。

しかし、仏陀は入滅の前に、『私の遺体は、世界を支配する帝王のようなやり方で火葬し、ストゥ-パを作って遺骨をまつり拝むべきである』と言いました。

白骨観を説き、
『私の肉体はまさしくこのように朽ちていって白骨となるものであって私ではなく私のものでもない』と観ずることを教えた人が
なぜ、自分の遺骨を特別視して拝めと言ったのでしょうか?

仏陀が生涯をかけて説いた理法からは、『私の肉体は私ではない。遺体は私ではない。そのようなものにわずらわされることなくガンジス川に流しなさい。』と当然言うだろうと思えるのに、なぜなのでしょう?

親鸞は、自分が死んだら賀茂川に捨てて魚に与えよ、と言いました。

また、今でもそうかもしれませんが当時のインドでは遺体はガンジス川に流すことがほとんどでした。

しかし、仏陀はわざわざ、転輪王のようにして、自分の遺骨の塔を作るように言いました。

なぜ、『肉体は朽ち果てるもので私や私のものではない。そんなものにとらわれずにガンジス川に流し、お前たちは修行に励みなさい。』ではなく、
塔を作り礼拝するように言ったのでしょうか。

先生はどう思われますか?


 

  [No.22946] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/16(Sat) 10:36:47

ショ-シャンクさま おはようございます。

おもしろい話題をいただき、ありがとうございます。

> 仏陀は、五蘊非我を説きました。
> そして、四念処の実践で、身・受・心・法 の4つがどれも無常であり(生じれば滅するということ)、苦であり、私ではない、と観じることを説きました。
>
> 病身の仏陀を見舞いに来た弟子に『このような老い朽ちていく私の肉体を見て何になろう。私の説いた法を見る者は私を見るのだよ。』と説きました。
>
> 仏陀の説いた理法からすると、当然、仏陀の肉体が仏陀なのではないはずですし、
> まして、仏陀の遺体が仏陀であるはずがありません。

なるほど。おっしゃる通りです。
>
> 仏陀の遺骨を特別なものとすることは、仏陀の理法からはあり得ないと思うのです。

たしかに!

> しかし、仏陀は入滅の前に、『私の遺体は、世界を支配する帝王のようなやり方で火葬し、ストゥ-パを作って遺骨をまつり拝むべきである』と言いました。
> 白骨観を説き、
> 『私の肉体はまさしくこのように朽ちていって白骨となるものであって私ではなく私のものでもない』と観ずることを教えた人が
> なぜ、自分の遺骨を特別視して拝めと言ったのでしょうか?
> 仏陀が生涯をかけて説いた理法からは、『私の肉体は私ではない。遺体は私ではない。そのようなものにわずらわされることなくガンジス川に流しなさい。』と当然言うだろうと思えるのに、なぜなのでしょう?
> なぜ、『肉体は朽ち果てるもので私や私のものではない。そんなものにとらわれずにガンジス川に流し、お前たちは修行に励みなさい。』ではなく、
> 塔を作り礼拝するように言ったのでしょうか。

わたしは、『大般涅槃経』を読んで、「ストゥ-パを作りなさい」という遺言(?)を全く疑問に思わず、「そうか、それが良いだろう」と思ったのですが、そのわけは、こうです。

大般涅槃経』は、ブッダが次第に身体が弱くなって死に近づいていることを想像させるような、いわば、死への準備のような経典であり、それに加えて、死後のお葬式の様子なども描かれるブッダの死の前後を描いた経典です。

わたしが、ここで、ブッダについて読んでいることは、ブッダは最後の最後まで人々を指導し、又、指導する意志を持ち続けていることでした。

死の準備というのは、葬式費用はどこから出すかとか、そういう世間のことがらではなくて、ブッダ涅槃の後も、どうやって人々を救っていくか、ということだったと思います。

テ-マが、全部それ1本にしぼられています。
ア-ナンダは、ぼんやりで、「長生きしてください」と頼まないし、チェ-ティヤ(聖地)にいって「ヴェ-サ-リ-は楽しい」「ウデ-ナ霊樹は楽しい」と訪れる聖地を礼賛しているのに、ア-ナンダはブッダの気持に気づきません。

これは、死に近づいたブッダが感慨をもって言ったというより、ア-ナンダに心清らかにする聖地にいけば、聖者ブッダに思いが行って、ブッダに「長生きして、わたしに教えを説いてください」という思いが湧くのではないかと思ったような節があります。

しかし、ア-ナンダは気づかず、ブッダは悪魔の誘いを受け容れ、三ヶ月後に涅槃に入ると約束してしまいます。

約束したら、ブッダは守りますから、もはや死へのカウントダウンが始まりました、というところかと思います。その後、しばらくして、ア-ナンダは号泣しますが、時すでに遅しです。

ブッダは、ア-ナンダが号泣する前だったと思いますが、信仰心のあるまじめな人であれば、心清らかになる4つの場所がある、といって、今現在四大聖地になっている「生まれたところ」、「悟りを開いたところ」、「説法を開始したところ」、「亡くなったところ」を教えます。そこを聖地にすると、多くの人に利益になると考えてのことです。

こうして、転輪聖王のお葬式をしてストゥ-パを作るのも、すべて、聖者を頼りにして清らかな心をめざす人々の修行を進める手段として、ブッダが定めたことだと思っています。

ア-ナンダに、「比丘たちは葬式には関わるな」と教えながらも、聞かれると、ちゃんとお葬式の仕方を教えているのは、ア-ナンダの中に、比丘ではありますが、在家者の要素も見てとって、ア-ナンダには在家者の意識で教えているのかもしれません。

仏舎利を分けてストゥ-パを作れば作るほど、お参りのチャンスも増えますので、人々は楽しみながら、聖者を偲んで、心を改めて清らかにするという行為を行っていけるというわけです。巡礼がさかんに行われるようになりますね。

こうして仏塔崇拝がさかんに行われ、ヒンドゥ-教の側からは、仏教徒は変な土まんじゅうを作って拝んでいる、と揶揄されたりするようになります。

また、比丘たちは修行に身を投じてブッダのお葬式や仏塔の崇拝とは関係しないかと思いきや、何の何の、その後、比丘や比丘尼達の寄進も多く、仏塔崇拝は、教団に関係していても、さかんに行われたことが知られます。

つまり、ブッダを尊敬し慕う気持は、比丘や比丘尼達にはいっそう強かったのでしょうし、そういうブッダを頼みにする心は、在家の人々と変わらないということではないでしょうか。

わたしは、仏塔崇拝は、すばらしいシステムだなあと感心しています。
経済の流通や、産業の促進にもつながりますし、世俗的な側面でも、聖者を敬う心の側面でも、よいことが起こるシステムである、と思って「さすが、ブッダ」と思っています。

ガンジス河中流域は、栄えて行きましたね。争いも多かったかもしれませんが、聖地巡礼は、ある程度平和でないとさかんになりませんので、平和な社会を実現するもとにもなります。

こういうことを考えると、死んでも、ただでは死なないのが、ブッダだな、って思います!


 

  [No.22947] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/16(Sat) 13:27:50

石飛先生、ありがとうございます。

> わたしが、ここで、ブッダについて読んでいることは、ブッダは最後の最後まで人々を指導し、又、指導する意志を持ち続けていることでした。
> 死の準備というのは、葬式費用はどこから出すかとか、そういう世間のことがらではなくて、ブッダ涅槃の後も、どうやって人々を救っていくか、ということだったと思います。
> テ-マが、全部それ1本にしぼられています。

確かにそうですね。仏陀は強烈に、自分の死後の弟子や在家の人たちのことを考えていますね。
仏陀の言葉には、それだけを考えている凄みがありますね。

> ア-ナンダは、ぼんやりで、「長生きしてください」と頼まないし、チェ-ティヤ(聖地)にいって「ヴェ-サ-リ-は楽しい」「ウデ-ナ霊樹は楽しい」と訪れる聖地を礼賛しているのに、ア-ナンダはブッダの気持に気づきません。

仏陀は、悟っていないア-ナンダに対し『大丈夫か?』という気持であったのではないでしょうか。
『お前、ここまで言っているのに気が付かないのか?このくらい匂わしたんだから気づいてくれよ。お前の成道のためにもう少し生きようかと思ってたのに』と考えたように思えるのですが。

> これは、死に近づいたブッダが感慨をもって言ったというより、ア-ナンダに心清らかにする聖地にいけば、聖者ブッダに思いが行って、ブッダに「長生きして、わたしに教えを説いてください」という思いが湧くのではないかと思ったような節があります。

ア-ナンダに対して、『いい加減、言葉の表面だけでなくその奥の気持ちを察するようにしてくれよ』という気持ちがあったように思えます。
他の高弟たちと比べ、いつも一緒にいて仏陀の言葉を最も聞いているのがア-ナンダなのに、なかなか一歩踏み込めていないと心残りだったのではないでしょうか。

> しかし、ア-ナンダは気づかず、ブッダは悪魔の誘いを受け容れ、三ヶ月後に涅槃に入ると約束してしまいます。
> 約束したら、ブッダは守りますから、もはや死へのカウントダウンが始まりました、というところかと思います。その後、しばらくして、ア-ナンダは号泣しますが、時すでに遅しです。

これは『悪魔の誘いを受け入れた』ように表現はされていますが、ア-ナンダの鈍さにがっかりして、無理やり寿命を延ばす気がなくなったことを、そのような表現にしたような気がします。


> ブッダは、ア-ナンダが号泣する前だったと思いますが、信仰心のあるまじめな人であれば、心清らかになる4つの場所がある、といって、今現在四大聖地になっている「生まれたところ」、「悟りを開いたところ」、「説法を開始したところ」、「亡くなったところ」を教えます。そこを聖地にすると、多くの人に利益になると考えてのことです。

これはなんとも凄いですね。仏陀が実業家になったら大成功しているような気がします。
仏教徒はほとんどいないインドですが、この仏陀の言葉のおかげで、海外の仏教徒の大観光地になって、インドは潤っています。

> こうして、転輪聖王のお葬式をしてストゥ-パを作るのも、すべて、聖者を頼りにして清らかな心をめざす人々の修行を進める手段として、ブッダが定めたことだと思っています。
> ア-ナンダに、「比丘たちは葬式には関わるな」と教えながらも、聞かれると、ちゃんとお葬式の仕方を教えているのは、ア-ナンダの中に、比丘ではありますが、在家者の要素も見てとって、ア-ナンダには在家者の意識で教えているのかもしれません。

転輪聖王の葬式にせよというのは、大変なことです。
火葬自体、その時代では、莫大な費用がかかるので一般的ではなく、ほとんどの人はしませんでした。
火葬だけでなく、それにきわめて高価なものを巻いたりするのですから、成し遂げた弟子たちも凄いですね。


> 仏舎利を分けてストゥ-パを作れば作るほど、お参りのチャンスも増えますので、人々は楽しみながら、聖者を偲んで、心を改めて清らかにするという行為を行っていけるというわけです。巡礼がさかんに行われるようになりますね。
> こうして仏塔崇拝がさかんに行われ、ヒンドゥ-教の側からは、仏教徒は変な土まんじゅうを作って拝んでいる、と揶揄されたりするようになります。
> また、比丘たちは修行に身を投じてブッダのお葬式や仏塔の崇拝とは関係しないかと思いきや、何の何の、その後、比丘や比丘尼達の寄進も多く、仏塔崇拝は、教団に関係していても、さかんに行われたことが知られます。
> つまり、ブッダを尊敬し慕う気持は、比丘や比丘尼達にはいっそう強かったのでしょうし、そういうブッダを頼みにする心は、在家の人々と変わらないということではないでしょうか。
> わたしは、仏塔崇拝は、すばらしいシステムだなあと感心しています。
> 経済の流通や、産業の促進にもつながりますし、世俗的な側面でも、聖者を敬う心の側面でも、よいことが起こるシステムである、と思って「さすが、ブッダ」と思っています。
> ガンジス河中流域は、栄えて行きましたね。争いも多かったかもしれませんが、聖地巡礼は、ある程度平和でないとさかんになりませんので、平和な社会を実現するもとにもなります。
> こういうことを考えると、死んでも、ただでは死なないのが、ブッダだな、って思います!

おっしゃるように、仏陀仏陀を思い起こして浄心となるシステムを作り上げたと言えるかもしれません。
その通りだと思います。
それに加え、私は、最後の最後に仏陀が『自分の遺骨を入れた塔を作り礼拝せよ』と言ったことから、後世の大乗仏教が興ったのだと考えています。
仏陀が死後も衆生を導くという意志を示したと捉えた人たちが、大乗仏教を興したのだと思うのです。
ですから、法華経には、さかんに塔が出てきます。
方便品では子供が戯れに土で塔を作っても成道するとあり、見宝塔品では空中に巨大な塔が出現します。
塔が仏陀の説いたことの正しさを証明するという筋です。
これは、舎利塔から仏陀の意志をくみ取った人が書いたのだと思います。

死後も衆生を救おうとする意志、つまり久遠に衆生を救おうとする意志を仏陀の遺言から感じ取り、大乗仏教を興したのではないかと思えるのです。

私としては、肉体など自分ではないと言っていた仏陀は、遺体などにかかわらず川に流しなさいと言った方が自然だと考え、あんなに高価で盛大な葬式を指示したことに違和感を持っていましたが、仏陀は最後の最後になって久遠に通じる意志を表したと考えると、感慨深いものがあります。


 

  [No.22948] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/16(Sat) 17:36:22

ショ-シャンクさま こんばんは。


> 仏陀は、悟っていないア-ナンダに対し『大丈夫か?』という気持であったのではないでしょうか。
> 『お前、ここまで言っているのに気が付かないのか?このくらい匂わしたんだから気づいてくれよ。お前の成道のためにもう少し生きようかと思ってたのに』と考えたように思えるのですが。

そうですよね。ア-ナンダは、気の優しい青年で、他の人々とブッダの間に入って、いろいろとお世話をしていたので、自分自身のことはそっちのけだったのかもしれませんね。

> ア-ナンダに対して、『いい加減、言葉の表面だけでなくその奥の気持ちを察するようにしてくれよ』という気持ちがあったように思えます。
> 他の高弟たちと比べ、いつも一緒にいて仏陀の言葉を最も聞いているのがア-ナンダなのに、なかなか一歩踏み込めていないと心残りだったのではないでしょうか。

知識は一番あって、法の理解もできるのに覚れないア-ナンダ。心残りだったでしょうねえ。

> これは『悪魔の誘いを受け入れた』ように表現はされていますが、ア-ナンダの鈍さにがっかりして、無理やり寿命を延ばす気がなくなったことを、そのような表現にしたような気がします。

ああ、見る人によっていろいろな感慨の湧くところですよね。
確かに、異様に鈍いところが、「悪魔にとりつかれていたからだ」となっていて、何となく、妙に、この気持ちわかります。
こうしちゃいけない、と思いながら、ずるずるそっちに行ってしまうとか、何かわたしも、ア-ナンダみたいなへまをやりそうだな、って、すごく思いますね。他人ごとじゃない、って感じです(笑)
>
> これはなんとも凄いですね。仏陀が実業家になったら大成功しているような気がします。
> 仏教徒はほとんどいないインドですが、この仏陀の言葉のおかげで、海外の仏教徒の大観光地になって、インドは潤っています。

ほんと!ブッダが実業家だったら、世界は、ものすごく豊かになっていそう。
覚る、というのはたいへんなことですね。
>
>
> おっしゃるように、仏陀仏陀を思い起こして浄心となるシステムを作り上げたと言えるかもしれません。
> その通りだと思います。
> それに加え、私は、最後の最後に仏陀が『自分の遺骨を入れた塔を作り礼拝せよ』と言ったことから、後世の大乗仏教が興ったのだと考えています。

確かに、大きなきっかけになったでしょうね。
それまで、サンガに入らず一人で修行してきた人たちが、仏塔を通してつながっていくことができましたものね。在家も出家も、両方ともに、集まることのできる場所というのは貴重ですね。又、出家と在家を離れて、ブッダを慕う人々として、平等であるのも良いですよね。

> ですから、法華経には、さかんに塔が出てきます。
> 方便品では子供が戯れに土で塔を作っても成道するとあり、見宝塔品では空中に巨大な塔が出現します。
> 塔が仏陀の説いたことの正しさを証明するという筋です。
> これは、舎利塔から仏陀の意志をくみ取った人が書いたのだと思います。

法華経』については、そうかもしれません。『法華経』は、この他にもいろいろな教えが入っているような気がするむずかしい経典ですね。
>
> 死後も衆生を救おうとする意志、つまり久遠に衆生を救おうとする意志を仏陀の遺言から感じ取り、大乗仏教を興したのではないかと思えるのです。

実は、わたしは、ブッダの死後ではなくて、もっと前から大乗への道筋は作られていっているような気がするのですが、ただ、詳細に関してアイディアがありません。
>
> 私としては、肉体など自分ではないと言っていた仏陀は、遺体などにかかわらず川に流しなさいと言った方が自然だと考え、あんなに高価で盛大な葬式を指示したことに違和感を持っていましたが、仏陀は最後の最後になって久遠に通じる意志を表したと考えると、感慨深いものがあります。

ブッダは入滅しましたが、彼自身としては、入滅で終わらせる気は、さらさら無かったのじゃないかと思います。「久遠に通じる意志を表した」というのは、しびれる表現ですね。良いですねえ。

あらゆる人々に向かって語りかけるブッダがいますよね。出家者だけでなく、在家者にも、仏教の教えに預からない人々さえも考えているように見えます。
やっぱり、人として亡くなったことを考えると、「人」とも理解できるなと思うのですが、やっていることは完全に人を超える偉業を成し遂げていますね。


 

  [No.22949] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/16(Sat) 18:48:06

石飛先生、こんばんは。

> > 死後も衆生を救おうとする意志、つまり久遠に衆生を救おうとする意志を仏陀の遺言から感じ取り、大乗仏教を興したのではないかと思えるのです。
>
> 実は、わたしは、ブッダの死後ではなくて、もっと前から大乗への道筋は作られていっているような気がするのですが、ただ、詳細に関してアイディアがありません。


ここが先生の核心部分ですよね。
そうだと思います。

私も、大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動だと思っているので、歴史上の仏陀の真意を甦らせようとしたわけですから
最初期の想いが打ち出されていると思います。
大乗仏教は部派仏教へのアンチテ-ゼとして興った面があります。
大乗仏教のメインテ-マは四無量心特に慈悲だと思います。
法華経でも浄土経典でも大日経でも、慈悲が強く打ち出されています。
部派以前の原始仏教でも慈経は極めて大切にされていたと思います。
部派仏教にも慈悲の瞑想はあるのですが、涅槃に至らないという経典の言葉があり、
時代を経るたびに四無量心の地位が下がっていった、少なくとも慈悲をメインとはしなかったように思えます。
大乗仏教はそれへの反発があったように感じます。
もちろん、これは私が考えているだけで、的外れかもしれませんが。

ただ、大乗仏教がいきなり興ったわけではなく、仏陀最初期からの道筋を打ち出したものだというのは
先生と同じ想いを持っています。



>やっぱり、人として亡くなったことを考えると、「人」とも理解できるなと思うのですが、やっていることは完全に人を超える偉業を成し遂げていますね。

仏陀の死の凄いところは、人間として何の変哲もない死が、仏陀の理法の根幹である、生じたものは必ず滅するという偉大なるメッセ-ジになっているということですね。
日本でも、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすとして謳われるくらいですから。


 

  [No.22950] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/17(Sun) 00:30:31

ショ-シャンクさま こんばんは。
だんだん話しがむずかしくなってきますね。

> 私も、大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動だと思っているので、歴史上の仏陀の真意を甦らせようとしたわけですから
> 最初期の想いが打ち出されていると思います。
> 大乗仏教は部派仏教へのアンチテ-ゼとして興った面があります。

そうですね。大乗(マハ-ヤ-ナ)という名称を考えると、部派に足りないものを見たというのは、あるのでしょう。

> 大乗仏教のメインテ-マは四無量心特に慈悲だと思います。
> 法華経でも浄土経典でも大日経でも、慈悲が強く打ち出されています。
> 部派以前の原始仏教でも慈経は極めて大切にされていたと思います。

なるほど、ショ-シャンクさまは、原始仏教と部派仏教を分けて考えられるのですね。
原始仏教で言えば、『スッタニパ-タ』の「八偈品」の最後にある「サ-リプッタ経」に「慈しみ」が教えられています。
慈しみは、空とも関わると思っています。ですから、空がわからないと、慈しみは育てにくいのではないかと思います。

> 部派仏教にも慈悲の瞑想はあるのですが、涅槃に至らないという経典の言葉があり、
> 時代を経るたびに四無量心の地位が下がっていった、少なくとも慈悲をメインとはしなかったように思えます。

現在の日本のテ-ラワ-ダ仏教では、「慈悲の瞑想」と名づけられる瞑想は行われていて、特に大事なものとされているようです。ここを強調するのは、スマナサ-ラ長老の考えによるところも大きいのかなと思ったりします。

> 大乗仏教はそれへの反発があったように感じます。
> もちろん、これは私が考えているだけで、的外れかもしれませんが。

そう言われますと、空をメインにする大乗で、慈悲を説くのは、自然なことかと思います。わたしが思うことなのですが、倫理的に追究して行くと、その語りは論理的にどんどんなっていき、逆に、論理を求めて行くと、その語りはどんどん倫理的になっていくということのような気がします。
仏教を見ていると、そんな気がします。「何か善いこと」を求めて出家した沙門ゴ-タマは、論理と法の地を歩んでいきます。
また、逆に、大乗になって、龍樹のような人が出てくると、論理の世界に足を踏み入れて語りますが、その語りは非常に倫理的な側面が強く出てきます
心解脱を求めて阿羅漢をめざすと、語りは論理的に限定されてきて、慈悲の側面が出てきにくいのかもしれないとは思います。慈悲がないのではなく、語りの論理性の中に入っている、と言えるかもしれません。

> ただ、大乗仏教がいきなり興ったわけではなく、仏陀最初期からの道筋を打ち出したものだというのは
> 先生と同じ想いを持っています。

サンガを作らない人々は、その活動は目立たなくて、社会的に認知されにくかったとは言えると思います。種々様々な人が、勝手に自分の道を模索していたとすれば、大乗の流れは、あっても一つの大きな運動になるには、時間を要したことだろうと想像しています。

> 仏陀の死の凄いところは、人間として何の変哲もない死が、仏陀の理法の根幹である、生じたものは必ず滅するという偉大なるメッセ-ジになっているということですね。
> 日本でも、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすとして謳われるくらいですから。

ブッダを見るものは法を見て、法を見たものはブッダを見てますね。日本でも、正しく仏教は伝わったのだなあと感慨深く思います。
ナ-ガの道だなあ、と思います、ほんと。


 

  [No.22951] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/17(Sun) 05:29:52

石飛先生、おはようございます。


> > 仏陀の死の凄いところは、人間として何の変哲もない死が、仏陀の理法の根幹である、生じたものは必ず滅するという偉大なるメッセ-ジになっているということですね。
> > 日本でも、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすとして謳われるくらいですから。
>
> ブッダを見るものは法を見て、法を見たものはブッダを見てますね。日本でも、正しく仏教は伝わったのだなあと感慨深く思います。
> ナ-ガの道だなあ、と思います、ほんと。


大般涅槃経仏陀の死の場面が日本人に与えた影響は大きいものがありますね。
例えば、頭を北にして亡くなったことから、北枕が悪いという言い伝えになります。
しかし、インドでは今でも、そして昔から北に頭を向けて寝るとよいとされているようで、
仏陀も慣習通り、普段通りに頭を北に向けて横になったのでしょうけど、
日本では縁起が悪いということになってしまいました。
私は頭の向く方向を気にしたことはないのですが、まだ北枕は悪いと思っている人もいるようです。

北に頭を向けて寝るといいというインドの風習はどこから来たのでしょう。
司馬遼太郎の小説で、高杉晋作が『高杉家では代々、頭を西に向けて寝るんだ』と新婦のお雅に言う場面があって
お雅は『北枕は聞いたことがありますが』と聞くと、
晋作は『江戸、つまり将軍に足を向けて寝るんだ』と答えてたことを思い出します。
この場合の西枕には意味があるのですが、北枕がいいというなにか理由があるのでしょうか。

仏陀の死は、大安、友引、仏滅として、最も悪い日という意味合いで使われてますね。
仏教国にとってはそれほど衝撃だったのでしょう。

ア-ナンダも気をきかせて、延命を頼めばよかったとは思います。
モ-ツァルトがせめてあと1年長く生きていれば、人類にとって大きな利益になったと思いますし
仏陀の延命はそれどころではないような気もします。
握り拳がないと言ったことから語りつくしたと考えられたのかもしれませんが。


 

  [No.22953] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/17(Sun) 09:24:06

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 例えば、頭を北にして亡くなったことから、北枕が悪いという言い伝えになります。
> しかし、インドでは今でも、そして昔から北に頭を向けて寝るとよいとされているようで、
> 仏陀も慣習通り、普段通りに頭を北に向けて横になったのでしょうけど、

それは、そうなんですか?
北を枕にして寝るとよい、というのは、実は、よく知りませんが、聖者は眠るとき、右脇腹を下にして寝るとは言われています。つまり、顔は西を向いていることになります。
これは、現代では医学的に心臓の位置など、いろいろ言われていますが、詳しいことはわかりません。

> 日本では縁起が悪いということになってしまいました。

これは、仏陀の死にならって死者を北枕にするのと、日本古来、死穢を忌む伝統がまじって、嫌うようになったのではないかと勝手に思っています。亡くなることを「成仏する」と言ったりしますしね。

「右脇腹を下にして寝る」というのは伝わらなかったようですね。

> 私は頭の向く方向を気にしたことはないのですが、まだ北枕は悪いと思っている人もいるようです。

そう言えば、わたしも北枕で寝ています(笑)
風水では縁起がよい、と検索したら、載っていました。

> 北に頭を向けて寝るといいというインドの風習はどこから来たのでしょう。

いや、わからないですねえ。『大般涅槃経』の、仏陀の言葉「沙羅双樹の間に頭を北に向けてとこを用意してくれ」という言葉しか、思いつきません。ウパニシャッドとか他の文献でも見たことがありませんねえ。

> 仏陀の死は、大安、友引、仏滅として、最も悪い日という意味合いで使われてますね。
> 仏教国にとってはそれほど衝撃だったのでしょう。

これは、中国から伝わった暦にからむ伝承で、「六曜」と言われるものですね。
仏滅と書きますが、もともとは「物滅」とも書いたようで、仏教とは関係しないようです。
しかし、連想から仏陀の死に結びつけて、解釈されるようになったかもしれません。

わたしも昔調べたことがあるのですが、中国の道教などに絡む民間信仰から来るようで、唐の時代の暦算学者李淳風が説いたのが始まりらしいです。

> ア-ナンダも気をきかせて、延命を頼めばよかったとは思います。

いや、これこそが、「縁起」なんじゃないでしょうか。
たぶん、ア-ナンダには、あらゆるできごとがバタバタと過ぎていって、本人は気づこうにも気づけない状態であったのではないかと思います。まさしく悪魔が取り憑いたと言われる状態に陥っていたのかな、と思っています。

そう考えると、その後の展開も、何となく納得されます。
一人だけ覚れないア-ナンダは、仏典結集からはずされ、マハ-カッサパ主導で話しが進む中、ア-ナンダ必死の修行で何とかぎりぎり間に合って覚るという、劇的な展開を見ます。

ア-ナンダは、出家者でありながら、出家者ではなく在家の如くであって、あらゆることがらがア-ナンダにとっては、在家的な世俗世界のできごととしてとらえられているのかなと思ったりもします。亡くなるとき、想受滅に入ったブッダを、亡くなったと誤解するのもア-ナンダです。ア-ナンダだけが、ちぐはぐですよね。

でも、これは、仏教にとっては必要であったのだろうと思います。
心は在家に身を置きながら、経典を一番よく知っている心優しいア-ナンダ。
その一方
厳しい頭陀行を一途に行い、心清浄を身をもって体現していたマハ-カッサパ。

この二人が、ブッダの教えを守ったと言うことなのだな、と思っています。
だから、二人合わせてブッダの大きさになるのではないかと思うのです。

どちらも必要な要素として、阿羅漢と正等覚者の呼び名が、ブッダについて唱えられています。

阿羅漢は、マハ-カッサパに代表され、正等覚者は、多聞のア-ナンダが引き受けたということかと納得しているのです。


 

  [No.22954] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/17(Sun) 09:47:13

石飛先生、ありがとうございます。

> > ア-ナンダも気をきかせて、延命を頼めばよかったとは思います。
>
> いや、これこそが、「縁起」なんじゃないでしょうか。
> たぶん、ア-ナンダには、あらゆるできごとがバタバタと過ぎていって、本人は気づこうにも気づけない状態であったのではないかと思います。まさしく悪魔が取り憑いたと言われる状態に陥っていたのかな、と思っています。
> そう考えると、その後の展開も、何となく納得されます。
> 一人だけ覚れないア-ナンダは、仏典結集からはずされ、マハ-カッサパ主導で話しが進む中、ア-ナンダ必死の修行で何とかぎりぎり間に合って覚るという、劇的な展開を見ます。
> ア-ナンダは、出家者でありながら、出家者ではなく在家の如くであって、あらゆることがらがア-ナンダにとっては、在家的な世俗世界のできごととしてとらえられているのかなと思ったりもします。亡くなるとき、想受滅に入ったブッダを、亡くなったと誤解するのもア-ナンダです。ア-ナンダだけが、ちぐはぐですよね。


少しこれから出ますので、後で書きたいと思いますが、先生のこの部分を読んで、とっさに思い浮かんだことを書いておきます。忘れますので(笑)

ひょっとすると、キリスト教におけるペテロが仏教におけるア-ナンダなのではないかと、ふと思いました。
実際、あの、やらかしてばかりのおっちょこちょいのペテロを何故イエスは一番弟子にしたのか、とても不思議でした。
しかし、ペテロは、キリスト復活後に一変します。

ア-ナンダも仏陀在世中はぼんやりとして依頼心の強いひとだったのかもしれませんが、仏陀滅後に一変したのかもしれません。

思い付きですので、自分でもくだらないことを言っている感じはしますが。


[前のログ(P 0058)]   検索結果:90件 [次の30件]

▲TOP