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  [No.17453] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/28(Tue) 19:31:22

石飛先生、こんばんは。


> まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
> ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)


先生が太っ腹なんで助かります(笑)

無量寿経の経文では十八願は、
『設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法』
ですね。
訳としては
『わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。』

十回の念仏で極楽浄土に生まれるのですから、やはり阿弥陀仏の方が太っ腹ですね。




> 結果を先に持ってきて、「救われているのなら、念仏は感謝の意味しかないだろう」というのは親鸞の説く説き方ではありません。
> 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。
> かれは、そうは言わなかった。

 


そうですか?報恩感謝の念仏が親鸞の念仏の本質だと思いますが。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと 信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」

念仏をしたから助けられるのではなく、念仏しようと思い立ったときにはすでに助けられているということですよね。
そうして助けられていることへの報恩感謝が念仏として自然に出てくると言うことだろうと思います。
通常とは逆ですね。



> 当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。



そんな人は少ないでしょう。
ヤフ-掲示板で、浄土真宗の寺の長男でしかし僧ではなく寺を手伝っていた人がよく来ていましたが
その人は無量寿経の「唯除の文」を知りませんでした。

もし、無量寿経を本当にそのまま信じるのであれば
念仏は10回で極楽浄土に生まれるわけですし
唯除五逆誹謗正法 のはずです。

しかし、親鸞は、五逆誹謗正法も摂取不捨から外れないとしました。

このように日本仏教特に鎌倉新仏教においては、宗祖が絶対であり
経典は二の次、歴史上の仏陀の言ったことなどは三の次でも四の次でもなく、考慮もされません。

浄土真宗の寺のその一人息子でさえ、親鸞に関するものでも歎異抄をさらっと読んだだけくらいです。
経典までチェックしている人はごく少数でしょう。
先生のようなインテリくらいです。



>誤解を恐れずに言うなら、自らの意思や自力を否定していくことは、ブッダの教えならばないと思います。
自己を洲とせよ、というのが教えでもあります。


そうなのです。仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)の教えには、自力否定なんてありません。
他力を頼むという考えもありません。自らを洲とせよ島とせよ、ですから。
絶対他力親鸞浄土門は、やはり仏陀から来たものではなく、仏教以外から来たと思っています。




>また、逆に聖道門に行った人たちが、自力だけしか使わないかと言うと、そうではない。



聖道門は、大乗を浄土門と聖道門に分けたものであって、聖道門が仏陀の教えそのままでは無いと思います。
仏陀が直接説いた教えでは、他力という考えはないと思っています。

【2020/01/29(Wed) 09:28:42 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17459] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/30(Thu) 07:15:41

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 大無量寿経の経文では十八願は、
> 『設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
> 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法』
> ですね。
> 訳としては
> 『わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
> わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
> ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。』
>
> 十回の念仏で極楽浄土に生まれるのですから、やはり阿弥陀仏の方が太っ腹ですね。

 


太っ腹な第18願は、とても大事ですね。



> > 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。
> > かれは、そうは言わなかった。
>
> そうですか?報恩感謝の念仏が親鸞の念仏の本質だと思いますが。
>
> 「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと 信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、
> すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
>
> 念仏をしたから助けられるのではなく、念仏しようと思い立ったときにはすでに助けられているということですよね。


そうです。



> そうして助けられていることへの報恩感謝が念仏として自然に出てくると言うことだろうと思います。



上の文では、報恩感謝までは書かれていませんね。
摂取不捨が説かれています。この確信を得たとき、念仏が口をついて出てくるところだと思います。
ここは、道元の「本証妙修」と、論理としては、同じことが起こっています。

「報恩」までいうのは、行き過ぎだと思います。念々に「阿弥陀仏の摂取不捨の利益にあづけしめられている」自分を、みずから感ずる瞬間でしょう。

感じないとき、阿弥陀仏に対する報恩感謝はやって来ません。
この順序は、非常に微妙ですが、重要です。



> 通常とは逆ですね。



「通常」というのが、おおざっぱだと思います。

妙修を放下すれば、本証手の中にみてり。
本証を出身すれば、妙修通身におこなわる

道元の説く、この理屈と同じものが親鸞にもあります。

自分を放下すれば、阿弥陀仏の本願が手の中に満ち、その時念仏が出てくる。
翻って、阿弥陀仏の本願を出身すれば、(正定聚の)信が通身におこなわれ、その時、念仏は出てくる。

まあ、大体10回くらい言うことになるのかもしれません。
そこで、浄土に行ける切符を手にすることになります。

その後も、阿弥陀仏への信は途切れることはないので、おりに触れて、念仏するでしょう。

深く感じ入った時、真宗の信者さんたちは自然に念仏が出てくると言われますし、実際、そうです。

或る人が言う。
「もう、往生が決まっているのに、なぜ念仏するのだ。阿弥陀仏が救ってくれることが決まっているなら、十遍言ったのなら、そんなに何度も言うことないじゃないか」
そこで、答える。
「いや、今言ってるのは、報恩感謝の念仏だよ」


この道筋を無視して、「すべての衆生は救われているのだから、報恩感謝の念仏を阿弥陀仏に捧げなさい」となると、一神教の理屈になってしまいます。

 



> 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> すべての衆生はすでに救われているのです。
> 修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
> 念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。
(No.17428)

 


このようにショ-シャンクさまは述べられたのですが、ここを読んだ印象は、上に書いたように、一神教のような理屈を述べている親鸞、という風に見えてしまうのです。

そうではないと思っています。

 


>
>
> > 当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。
>
> そんな人は少ないでしょう。
> ヤフ-掲示板で、浄土真宗の寺の長男でしかし僧ではなく寺を手伝っていた人がよく来ていましたが
> その人は無量寿経の「唯除の文」を知りませんでした。
>
> もし、無量寿経を本当にそのまま信じるのであれば
> 念仏は10回で極楽浄土に生まれるわけですし
> 唯除五逆誹謗正法 のはずです。

 



ここは、少々考えなければならないところなのだと思います。
だから、ほら、第18願をしっかり読むことになるでしょう?

なぜ「唯除…」と言ったかをですね。


>
> しかし、親鸞は、五逆誹謗正法も摂取不捨から外れないとしました。

 



「縁起」が根本にあると、だんだん分かってくると思います。
「信」を持つとき、正定聚の位にあると知るのと同じように、五逆などを排除するためではなく実はかれらをも救わんとして、こういう言い方をしているのだと、気づくのだろうと思います。

「気づき(サティ)」と同じことです。
五逆・誹謗正法の人たちは、迷いに迷い、こういう結果になってしまった場合も多くあります。そういう人には自覚を促すのと、また、特に確信しておこなっている人は、阿弥陀仏など邪魔でしょう。頼みもしないのに救わないでくれ、という人もいるわけですから、阿弥陀仏は出しゃばらないという風にも考えられます。
決断は、自力なのです。
信に行くまでは、自己を洲として、自力そのままです。



>
> このように日本仏教特に鎌倉新仏教においては、宗祖が絶対であり
> 経典は二の次、歴史上の仏陀の言ったことなどは三の次でも四の次でもなく、考慮もされません。



そういうこともあるのかもしれませんが、そのようにやっていると仏教は廃れます。
宗祖は、ブッダと繋がっていると思うからこそ、宗派の人々がついていくのだと思います。
たえず、「ブッダに帰れ」というブッダルネッサンスは、いつの時代もおこなわれていると思います。


>
> 浄土真宗の寺のその一人息子でさえ、親鸞に関するものでも歎異抄をさらっと読んだだけくらいです。
> 経典までチェックしている人はごく少数でしょう。
> 先生のようなインテリくらいです。

 


まあ、文句をいわんでよ。経典読んでも読まなくても、仏教に行く人は行くし、いくら読んでも行かない人は行きません。
私も、喩えとして言ったのです。自分ならそうするという意味です。

仏教にはいろんな道がある。人の話を聞いて、すぐに悟る人もいます。「ラジョ-・ハラナン(塵を払う)」で悟る人もいます。
「唯除」を知らないお寺の息子さんは、それはそれで、何となく気持は分かります。



>
> そうなのです。仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)の教えには、自力否定なんてありません。
> 他力を頼むという考えもありません。自らを洲とせよ島とせよ、ですから。
> 絶対他力親鸞浄土門は、やはり仏陀から来たものではなく、仏教以外から来たと思っています。



そこが、ショ-シャンクさまの「こだわり」なのですね。
なるほど。。そういうことか。
絶対「絶対他力」の「絶対」は、取り除かないぞ、という固い決意が見えます。

こだわったら、仏教じゃないです。
どんなにそう思っても、どんなにそう信じても、一つにこだわって言うなら、その時、その言葉は仏教外に落ちると思います。

 


> 聖道門は、大乗を浄土門と聖道門に分けたものであって、聖道門が仏陀の教えそのままでは無いと思います。
> 仏陀が直接説いた教えでは、他力という考えはないと思っています。



他力に満ちているのが、ブッダの教えだと言う人もいます。

声聞乗と辟支仏乗は、ブッダに習うから出てくる道だ、という考えもあります。
習うとおりにするから、早く覚れる、というわけです。
辟支仏乗も、入っているのが面白いと思いますが、これも十二支縁起などを教えとして受けとっているのだ、と見ているのでしょう。

そういう意味では、自力の要素が強いのは、むしろ菩薩乗かもしれません。
教わったとおりではなく、自分でどんなことでもやって開発していく道だからです。
その菩薩乗にいて、弱くて力がなくてもいける道はありませんか、というので、易行道というのが龍樹によって言われていますが、これも、また、ちゃんとブッダから来ているのです。

菩薩は、ブッダの授記を受けると、確実にブッダになります。ゴ-タマ・ブッダも、かつて燃灯仏の授記を受けています。そういう意味では、他力の入らないものはない、とも言えます。なぜなら、他者と自分で世界が構成されるからであり、その世界に生きるのが、ブッダだからです。

「自力でやれ」と言われて自力でやってる自分は、何なのさ、であります。
一番ブッダの言葉に忠実な他力依存者ではないか、という文句も出て来るかもしれないのです。
そういう意味で、沙門ゴ-タマが覚りにいく前の、最後の悪魔の大軍の闘いで戦っていたのは、自力の「自」、すなわち、「自我(慢)」を殺す闘いであったと思うわけなのです。

純粋に他力なしの至高の存在は、天地創造の神でしょうか。


 

  [No.17463] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 14:47:07

石飛先生、こんにちは。

>そこが、ショ-シャンクさまの「こだわり」なのですね。
> なるほど。。そういうことか。
>絶対「絶対他力」の「絶対」は、取り除かないぞ、という固い決意が見えます。


それほど固い決意ではありません(笑)
絶対他力の『絶対』は別に取り除いて『他力』だけでもかまいません。

私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。
仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
他力を説くこともありませんでした。

その考えはバラモン教(ヒンズ-教)から来ているのだろうということです。
それは別に貶しているわけではなく、歴史的な事実としてそうではないかということです。

そして、それだから浄土教がいいとか悪いとか正しいとか間違っているとは思いません。
ただ、仏陀の教えとは違うものだ、ということ、
そして私は仏陀の教えが本当は何だったかを探求しているのです。
しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。

浄土教で救われる人は、妙好人など数多くいると思いますよ。
私がよく知っている人でも、毎年、本願寺に家族で奉仕に行っている人を2人知っていますし
どちらもいい人ですよ。

ただ、歴史上の仏陀の言っていることを、親鸞の言葉を引用して解釈するのは間違いだとは思います。


歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。

親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。

娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。

ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
好き嫌いは平行線になるだけでしょう。


 

  [No.17465] Re: 親鸞への疑問 投稿者:赤い実  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:17:08

石飛先生、お邪魔します。 仏教に詳しくないので、議論には参加できません。
ショ-シャンクさんのこのご投稿に感じたことを書かせていただきたくです。

> 親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
> 親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
> そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
> 本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。
>
> 娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。
>
> ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
> 好き嫌いは平行線になるだけでしょう。


ショ-シャンクさん、横レスですみません。
ショ-シャンクさんは、結婚されていて子どもさんとかはいらっしゃるのでしょうか。
もしかしたらそうではないのかな、という気はしているのですが。

親が優れていても子がそうだとは限らないし、また逆に、親がだめでも子は優れている、というのは普通にいくらでもありますよ。
親鸞の息子がだめ(だとされている)のも、親鸞の育て方が良くなかったのかもしれませんが、そう断言できるものでもないと思います。


 

  [No.17466] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:49:49

息子の善鸞を関東に行かせた当時、関東は親鸞の教団にとっては最も信者数が多く重要な地域でした。
そこに、親鸞の正しい教えを布教に行かせたというのは、弟子として最も重要な役割を与えたということです。
その弟子が関東の信者たちを大混乱に導くことをしでかしました。
つまり親鸞がその弟子(たまたま息子だったですが)をちゃんと自分の教えを託するくらいにしてなかったということ
それを見る目もなかったということです。
なおかつ、善鸞に会って事情を詳しく聞き説得することもなく、義絶状で切り捨ててしまいます。
阿弥陀仏の摂取不捨をあれほど強調している親鸞が、教団が混乱したらすぐ切り捨てるという行動をしたことに
言ってることと実際とで全く違うと考えています。
そういう人は信用しない、というだけです。


 

  [No.17468] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:54:38

赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。

それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。

それでは。


 

  [No.17469] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/01/30(Thu) 19:33:34

> 赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。
>
> それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。
>
> それでは。
ちょっと待って。やはり横からですが、失礼します。ショ-シャンクさんず-っと今まで読んできました。どうして終わりなのですか。これまで、これだけ粘ってきたのに。春間さんに対しては他の人と同様、スル-すればいいではないですか。言葉尻を取ることなんて何時までだってできるし、いつもそうなんだから。それより、仏陀を問題にするんではないのですか。親鸞でどうして終わりにしてしまうのですか。エム先生の書き込みに反応していけば、いいではないですか。頑張って、本選に戻して続けてください。仏陀をどう読んだのかエム先生のとのやりとり、期待しています。


 

  [No.17470] Re: 親鸞への疑問 投稿者:赤い実  投稿日:2020/01/30(Thu) 19:51:26

> 赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。
>
> それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。
>
> それでは。


feel goodではないのは、ショ-シャンクさんの言説をお借りするなら、「自分の責任」なのですよね。
起きることはすべて自分の責任である、と書かれていましたものね。

しかし。自分の責任である、と本当に考える人が、feel goodではないという捨て台詞みたいなのを残して「それでは。」と終わるのは矛盾であるように私には思えますけど、違うのかしら。

いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのですし、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。

返事は不要です。


 

  [No.17480] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/02/01(Sat) 20:07:45


> > それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。

“ 『feel good』でない ” という意味は

良い気分を 持てない → “ 不満である ” ということになります

> feel goodではないのは、ショ-シャンクさんの言説をお借りするなら、「自分の責任」なのですよね。
> 起きることはすべて自分の責任である、と書かれていましたものね。

言うこと を 自らにまず引き当てることが出来る時
同じことを言っても 意味は違ってきます
言い替えると、 違う意味を 言っても
気分によって 聞くこととなります

こういう “ 綾取り ” のような やり取り が 出来ないと
こんがらがって、 取れない のを 人のせいにすることとなります

大切なところは、 会話 は ゲ-ムや遊び事 ではないことです

すべてが、 自分の人生の そこにある展開なのです
あなたに、 自分があるのであれば、
自分が展開していることを 自分のこととしなくてはならないのです

取るのも、 取らせるのも 自分の事 です

取り方が気に入らなくて、 不満であると言って
自分の人生の一面から 逃避する ( 決して 行ったことからは、 逃避できない )

自分がある のであれば ( ! )
自分で 、
自分に起こす 局面を “ 向き合って 向き合うことに 変える “ しかないのです
( 自分が 向き を 変えるのです )



> しかし。自分の責任である、と本当に考える人が、feel goodではないという捨て台詞みたいなのを残して「それでは。」と終わるのは矛盾であるように私には思えますけど、違うのかしら。

あなたは 違うと 感じる

違わないと感じるから、 違うと感じること を 行ないに為す

( 飛躍して 展開しているけれど、 追えるかな ? )

> いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです

少なくとも、 管理人エム 様 は 期待していますよ !

> し、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。

ふくれているのでは ないでしょう

腐った 返答を目の前にして
臭いに 顔を背けているだけです

> 返事は不要です。

あなたは、 不要 と 感じる

要不要 は 自分に起こせばよい
> いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです
と 他に対して、 不要 を 言うことはない

自分の事を、 自分の責任範囲で 言うのであれば、
他人 のこと は 他人の責任範囲にしなければならない
( それは、 不要 と 決めること ではない )
( 思っても、 対外的に 口に出すことではない )

あなたの並べる こと( ところ ) に
齟齬があるとは 気付きませんか ?


 

  [No.17474] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/31(Fri) 03:54:26

ショ-シャンクさま こんばんは。

> それほど固い決意ではありません(笑)
> 絶対他力の『絶対』は別に取り除いて『他力』だけでもかまいません。

あ、そうですか。
固い決意かと思ってしまったわ(笑)
>
> 私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。
> 仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
> 他力を説くこともありませんでした。

まあ、そこら辺が、ブッダをどうとらえるか、仏教をどうとらえるか、という解釈ですね。
>
> その考えはバラモン教(ヒンズ-教)から来ているのだろうということです。
> それは別に貶しているわけではなく、歴史的な事実としてそうではないかということです。

私は、いったん保留しているのですが、バラモン教から来ているというのは、純粋には疑っています。
「純粋には」というのは、世自在王の呼び名がシヴァ神の呼び名と同じであっても、また、それから、それが本当にシヴァ神から来ているものであっても、ということです。呼び名だけでは、仏教の場合、そう簡単には言えないところがあります。わざとその呼び名を取る場合もあるからです。

また、シヴァ神ですが、この神様はヴェ-ダ時代はマイナ-な存在です。ルドラという神の吉祥な面をシヴァと呼んだらしい、と言われていますが、どのように人気を得てきたのか、よく分からないです。シヴァ神には、今では千の異名があるなどとも言われ、それをあげていく人もいます。ですから、ちょっと考えちゃいますね。


このあたり、仏教とはどんな教えなのか、に繋がってくると思っています。
まだ、自分の中でもかたまってないので、ちょっとお話できるものをもちませんが、
「歴史的な事実」というのだけにこだわっても、仏教は見えてこないとは思います。

というのは、ひとつには、ブッダは、過去仏の名をあげ、教えも紹介しているからです。

> そして、それだから浄土教がいいとか悪いとか正しいとか間違っているとは思いません。
> ただ、仏陀の教えとは違うものだ、ということ、
> そして私は仏陀の教えが本当は何だったかを探求しているのです。
> しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
> 『浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。

ブッダの教えが本当は何だったかを探究しているのですね。
私は、今『スッタニパ-タ』の「彼岸道品」を読んでいるのですが、ブッダは、バラモン教の人々に、ウパニシャッドに合わせて語っていることが分かりました。

私たちは、この経典も仏教の経典だと思っているので、仏教の教えに沿って解釈することしかしませんが、相手に合わせて語るブッダを見ると、ブッダに、いわゆる「教え」というのはあるのかな、という気がしてきます。


> ただ、歴史上の仏陀の言っていることを、親鸞の言葉を引用して解釈するのは間違いだとは思います。

歴史上のブッダが言っていることというのは、部派の人たちが言っていることですか。
いわゆる原始仏典ということかな。
>
> 歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。
>
> 親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
> 親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
> そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
> 本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。

でも、ちょっと文句を言うようですが、親鸞の教えを「絶対他力」と見て本覚思想と似たようなものとごらんになっているのですよね。
親鸞が、そういう教えに合っていない行動を取っているのなら、親鸞のせいではなくて、ショ-シャンクさまが解釈を誤った可能性もありますよね。
>
> 娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。
>
> ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
> 好き嫌いは平行線になるだけでしょう。

私は、好き嫌いは言っていません。
あ、そういえば、大好きだと言いましたが、興味深いという意味にとってください(笑)

どこから親鸞が出てきたのでしたっけ。私が言い出したんだったかな、それとも、ショ-シャンクさまでしたか。

親鸞はその行いを見ても、ショ-シャンクさまが気に入るようには動かないと思いますよ。
やっぱり、親鸞の説いていること(教え)と合わせて見て行かないと、分からないのではないかと思っています。となると、親鸞が何を言ったか調べないとならなくなります。

親鸞の心の中を見ていかないと、その教えを掴むことは難しいのではないでしょうか。


私の関心は、仏教を伝えた人たちが、その教えるところに添って正しく理解されることです。
特に大乗の場合、かれらがいかにブッダの教えどおりに行っているかを知ったら、驚くのではないかと思います。

初期仏教のスタイルと異なるからと言って、見た目で判断してはいけないということかな、と。

わたしは、「歴史上のブッダ」というのも、やがて、たくさんの見方の中の一つの見方でしかない、ということに気づいていくのではないかと思って、ショ-シャンクさまに期待しています。

対機説法というのは、伊達ではない。
ほんとにできたら、自分はない、と思いますよ、ほんと。
そして、ブッダは、あらゆる場合に対機説法していると知るなら、ブッダを掴むのは雲を掴むような話だと思うようになるのではないでしょうか。

私は、だんだん、そう思って来ています。
学問的にやって来ましたが、学問の器が小さすぎて、ブッダがはみ出ています。


 

  [No.17477] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/31(Fri) 08:51:50


> > 私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。

仏陀の 本来の教え というモノ とは 何でしょうか ?

あなたは、 それを 知りたいと 願っているのではありませんか ?

どう違うかを、 判断できる その根拠
それが、 あなたの言うところの “ ブッダ本来の教え ” です


「 本来 赤 という 色 は こういう 色である 」 と こう言うとして
“ 本来の赤 ” とは どういう色でしょうか ?

本来の教え とは どういうモノでしょうか ?
( 今の段階で、 “本来” を 決めることは 正しいでしょうか ? )

仏教で 大事にされることは “ 「 自性 」 というモノ は ない ” ということです
( 本来具わっている というモノ は “ 本来から ” 存在しているモノではない ということです )

元は、 出した結論によって 変わってくる 、、、、
“ 箱の中の猫が死んでいるということは、 箱を開けることによって 決まる ”

死 というモノは 「 生 」 が 決めている のです
( 「 不生 」 であるのに、 箱を開ければ、 「 生 」 が 決められる 、、、、 )

> > 仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
> > 他力を説くこともありませんでした。

> まあ、そこら辺が、ブッダをどうとらえるか、仏教をどうとらえるか、という解釈ですね。

想像上のことが、 事実とされてはいませんか ?
( あなたは、 どうあるかを 知りたい 、、、、 )

あなたは、 あなたの解釈 を 知りたいのではなく
仏陀 を 知りたいのではありませんか ?

人 が “何か” を 拾ったとします
“ 何か ” 分からないから、 何を拾ったかを 知りたいと思います
何の為に拾ったかを 知ることも、 含まれなくては、
何を拾ったかは 決まりません

そのモノ は どういう働きをするか ということで
それに対する “ 名称 ” の 意味 が決まります

名称 に 拘ると
「 赤 」 は “ 赤っぽくなくなる ”

どの波長 から 赤は 始まっていますか ?



> 私は、いったん保留しているのですが、バラモン教から来ているというのは、純粋には疑っています。

バラモン教 と 呼ばれる 薫習 が あるから
それに対する( 臨機 ) 言葉が 口にされます

「 応病施薬 」 ということです

病が直って、 バラモン教 の 存在は 姿を変える 、、、、

> 「純粋には」というのは、世自在王の呼び名がシヴァ神の呼び名と同じであっても、また、それから、それが本当にシヴァ神から来ているものであっても、ということです。呼び名だけでは、仏教の場合、そう簡単には言えないところがあります。わざとその呼び名を取る場合もあるからです。

名付けられた 「名称」 は
名付ける者の 思惑に乗っている

苦楽の迷い が なければ、 「名称」 は 迷いにない
> また、・・・・・・千の異名があるなどとも言われ、それをあげていく人もいます。ですから、ちょっと考えちゃいますね。

何を考えてしまうのかを、 考えてしまう 、、、、
> このあたり、仏教とはどんな教えなのか、に繋がってくると思っています。

繋がっていない道は ありません
すべて、 人の心の中の道 です
心と 心とを 繋げれば、 道は 続きます

決別すれば、 道は分かれる こと となり、
違う分別 が 起こされています

( 自己に起きる解釈 )分別 が 道を隔てるのです


> まだ、自分の中でもかたまってないので、ちょっとお話できるものをもちませんが、
> 「歴史的な事実」というのだけにこだわっても、仏教は見えてこないとは思います。

歴史 というモノは、 「 勝者 」 が 決めることです
「 勝義 」 の 歴史 は ブッダ( 勝者 ) が 決める
歯が痛いときに は イシャ に 行きます

手術 まで 行かなくとも、
応病 の 施薬 も 施されます
( 単なる 痛み止め では ありません )

痛みが 止ったからといって、 効き目を 単一に捉えることは 賢いことではありません

“ 施薬 ” の 意味 も、 どのように 効き目 を みるかで、 決められます
( この言葉の意味 も、 読みようによって 決められます )


>
> というのは、ひとつには、ブッダは、過去仏の名をあげ、教えも紹介しているからです。

> > しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
> > 『浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。
> ブッダの教えが本当は何だったかを探究しているのですね。

言いたいこと を 言うのは
人が 言葉を発する 基本です
(わたしの)発しよう を あなたは 問題とする

その問題の ( あなたの ) 発しよう は 問題とはなりませんか ?

そこを 問題 と しているのです

> 私は、今『スッタニパ-タ』の「彼岸道品」を読んでいるのですが、ブッダは、バラモン教の人々に、ウパニシャッドに合わせて語っていることが分かりました。

分かるということを 分かると
分かったことの 行ない に 起きるようになる

起きない時 を 隙間から 見つけ出す時
隙間を見出す “ 分かる ” が 起きている

> 私たちは、この経典も仏教の経典だと思っているので、仏教の教えに沿って解釈することしかしませんが、相手に合わせて語るブッダを見ると、ブッダに、いわゆる「教え」というのはあるのかな、という気がしてきます。

“ 私たち ” と いう時
私 とは 誰であるかは、 “ 一応 ” 疑わないこととします
“ たち ” と 括るのは “ 質・タチ が悪い ”

あなたの読み方 が “わたし” の読み方 と 同じかどうかは
読み方 次第

> 歴史上のブッダが言っていることというのは、部派の人たちが言っていることですか。

部派の人たち が 言っていること
とは 何でしょうか ?

> いわゆる原始仏典ということかな。

原始仏典 という 名称 は いかなる働きにありますか ?

> > 歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。

自分の行い が 判断基準です
自分の行い から 離れると、 自分から離れる

自分から離れる そのところに、 「 他 」 が 起きている 、、、、


> 親鸞が、そういう教えに合っていない行動を取っているのなら、親鸞のせいではなくて、ショ-シャンクさまが解釈を誤った可能性もありますよね。

そういう可能性を 排除するところに
自分の解釈 は 起されている

> 私は、好き嫌いは言っていません。
> あ、そういえば、大好きだと言いましたが、興味深いという意味にとってください(笑)

意味はどうであろうと
「 好き 」 を 言ったのは 事実 です

どう取るかによって “ 事実は決まる ”

あなたは、 自分の事実 を そう取りたい だけです

どう取るか は 「 他 」 が 決める

あなたが、 「 自 」 を 設定するから
設定に沿った 「 好き 」 が “鋤の柄” となる ( 鋤 は “苦行” です )
> どこから親鸞が出てきたのでしたっけ。私が言い出したんだったかな、それとも、ショ-シャンクさまでしたか。

どうやら、 わたしは 置き去りにされているようです 、、、、

> 親鸞はその行いを見ても、ショ-シャンクさまが気に入るようには動かないと思いますよ。
> やっぱり、親鸞の説いていること(教え)と合わせて見て行かないと、分からないのではないかと思っています。となると、親鸞が何を言ったか調べないとならなくなります。

> 親鸞の心の中を見ていかないと、その教えを掴むことは難しいのではないでしょうか。

見方 は 心の中 に 起きています
その見方 から 離れる時 自分を見ることが 出来る
「 洲 」 に ある と 言うことが 出来ます

> 私の関心は、仏教を伝えた人たちが、その教えるところに添って正しく理解されることです。

伝えた人 とは 伝えたい人 です

どのように伝わったか で 伝えたことは 判断されます
その判断が 好嫌 に 起される
「 至道無難唯嫌揀択 」 と 言う・言われる ことには 「 嫌 」 という語が 使われています

好嫌 の 「 見 」 ですか ? ( 「 有見 」 でしょうか ? )


> 特に大乗の場合、かれらがいかにブッダの教えどおりに行っているかを知ったら、驚くのではないかと思います。

大乗 って 何かは
だれでも決めることが出来ます

決めない ・ 意味がない とも 決めることが出来ます

大乗仏教ブッダ の 教えではない 」

> 初期仏教のスタイルと異なるからと言って、見た目で判断してはいけないということかな、と。

スタイル が あるから、 像 が 輪郭として 決められ
内容 を 確定する “ よすが・世の姿 ” と なります

見た目 ということ を
“見た目” で 判断してはいけない

> わたしは、「歴史上のブッダ」というのも、やがて、たくさんの見方の中の一つの見方でしかない、ということに気づいていくのではないかと思って、ショ-シャンクさまに期待しています。

もう気付いているから
本当の 仏教 を 探し求めているのです

探し求める 方法 を 探し求めている のです

そこに 役立ちたい

> 対機説法というのは、伊達ではない。
> ほんとにできたら、自分はない、と思いますよ、ほんと。

自分はない と 自分で思う

他人が思う こと が 自分のことです

自分のこと を 知らなくて、 知ることも起きなければ、 「 応病 」 とは 出来ない

> そして、ブッダは、あらゆる場合に対機説法していると知るなら、ブッダを掴むのは雲を掴むような話だと思うようになるのではないでしょうか。

> 私は、だんだん、そう思って来ています。
> 学問的にやって来ましたが、学問の器が小さすぎて、ブッダがはみ出ています。

雲 は 何から 出来ていますか ?

法華経 」 を 読み返してください

「 慈雨 」 が 「 慈雲 」 であり

草花 に 降る 雨の “ おこぼれ ” が やがて 雲となる

雲 が 陽光 を 遮ります
雲の 切れ目 に 「 アオゾラ 」 は 広がり を 見せる ( 「 遍照金剛 」 )

その青空 は “ 大日 ” が 作っている


 

  [No.17456] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/29(Wed) 09:19:06

管理人エム 様


> もし、本当に天台本覚思想がこうなら、つまり、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりであれば、これは進化ではなくて、仏教からの転落ですね。
> 本覚思想は、ちょっと分からないので、ひとまずパスしておきます。

> 親鸞の方でお話ししますね。

> > 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> > 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> > すべての衆生はすでに救われているのです。

> あ、なるほど、同じように考えたのですね。
> ちょっと違うかなあ。

何と 同じように考えたか ・ 何と違うか
それらが 明確ではありません

本覚思想 の 解釈 と 同じ ?
( 違うかなあ ? )

> まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
> ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)

太い ・ 細い は 「 縁起 」 に あります

細い・狭い と もう一つの見方を しっかりと知った上で、 論を展開しなければ 、、、、


大雑把 と ぎゅっと絞り込む“ 検 ” ( “揀”択 ・ 豊“検” )
「 『仏道もとより豊検より跳出せるゆゑに』 (仏道固跳出於豊検故) 」 < 現成公案

「 至道無難唯嫌 揀択 」 < 信心銘 >
***********

「至道無難、唯嫌揀擇、但莫憎愛、洞然明白、毫釐有差、天地懸隔、欲得現前、莫存順逆。」
( 道に至るに難きことなし、ただ揀択を嫌う、
ただ愛憎なければ、洞然として明白なり、
毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。 )

感情 に 入ることなければ 、、、、

***********


> 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。

論理 という 道筋に於いては 後のモノは 後にあります

しかし、 後先 は 「 縁起 」 に あります

どのような場合に 「 縁起 」 は 起きるか ?
それによって 起きる“時” と 起きない“場合” とが 起きています
その “ 時 ” は 同じ人の 一つの生 に 起きています
( “ 十 ” あろうと、 その “ 一つ ” に その “時” と それが 起きない“ 時・場合 ” が 起きています )

起きる時 を 問題にするとしても、
起きない場合 は(が) それを支えている
そういうこと を 忘れてはなりません

言葉は 理に沿って 並べられるから 理論的に 成り立ちますが
「 正理 」 というモノは 成り立つ・成り立たない を “ 跳出 ” しているのです

( この言葉を 先後 に於いて 検討してください )


> 「すでに救われている」というのは、単なる理論ではありません。主張ではありません。
> 「縁起」によって探し求めていく目標のようなものです。

行ないに 道がある
( = 道 に 行ないは起こされる )

道 は 一つですが 歩み方は 人によって それぞれの 「理」 と される
Su. 796 ( 789 796 824 ) ( 中村元岩波文庫ブッダのことば 」 179p )
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

太っ腹 で すますと 腹いっぱいの腹には ( 四食であろうと )もう入れることは適わない
( ただ、 感情には いくらでも 入れる こと は 適う )

> だから、自分の中で起こる心の変化を見つめて、経典読んだり、人から話を聞いたり、法話に参加したりするのです。信じるまでがめちゃくちゃ時間がかかると思います。
> それが、いわば仏道になっているのだと思います。
> 進むのは、皆、縁起によるのみです。空を使わないのは、一足飛びに結論に飛びつかないようにするためでしょう。

“ 一足飛びに 浄土まで 飛ぶ ” とは 説かれてはいません
「 一念 」 を 起すときに 浄土に “むまれる” 道にある のです
> 結論に飛びついてしまうと、今おっしゃるような「救われているんだから、感謝して念仏しろ」
> という押しつけの見解になってしまい、そこにこだわる怪しい宗教みたいになってきます。
> それでは、仏教ではありません。
道は 続いています
続く道を歩むことによって、 一処 に とどまらず ( 一念 は 十念 となる )

( 大乗 ) を 「 起信 」 する処に、 「 浄土 」 が ( 続く処 として ) 見えてくる


> いろいろ無茶やるのが凡夫なんだからと、自分でも凡夫らしく、迷い迷い進む道を行くのです。そうでないと納得できないからだと思います。

自分が 「 凡夫 」 である ということは、 確定していますか ?
( 誰が、 何の根拠で 確定させていますか ? )
( その根拠 を 起す “ 揀択 ” は 誰が 起していますか ? )

「 凡夫 」 という語 は
自分に 当てはめる語 ではありません
ミダ が 衆生に 哀愍 を起こすときに 起きている 語 です

凡夫 が 凡夫 を 語っている

凡夫 と 見据える その住処 は 「 仏国土 」 です

あなたは どこに 「 住処・洲 」 を 置いていますか ?
> だから、愚禿親鸞なのです。だてに「愚か」をやってるわけではありません。

だてに 愚か に あるのは 誰でしょうか ?

> 賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

賢くありたい
という “欲 ” は 「 論理 」 にも 起きます

> 賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

「 論理 」通り というのは
“ あまたにあるところの、一つの通り ”
その 通り という 通りでも 道は 繋がっているけれど 、、、、

そういう 論理 の 道 をあゆむ 、、、、、

> 「自らの意思」「自力」をどこで使うか、ということだけのような気がします。


どこで使うか ではなく
「 自力 」 を どう使うか です

「 自力 」 は 自分という住処 に ( 他によって 起されて ) たまたま起きているだけです

「 自力 」 は その住処( 自分というところの住処 )に 永住できない


 

  [No.17488] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/02/20(Thu) 16:46:18

先生
こんにちは
多分反論来るだろう、と思っていました。
> でも、わたしは、もう少し考えてみたのです。
> 寂聴さんが恥ずかしいと思った、というのは、日本人的な世俗感覚だなと思いました。ちょっと、ここに引っかかったのです。東南アジアのお坊さんたちは、おそらくそんなに気にしないのではないか、という気もちょっとしました。むしろ、ブッダの教えをしっかり身につけているかどうかを見てとるのじゃないかと思ったのです。他にも見るべき戒はありますから。

確かに寂聴さんの恥ずかしいは世俗的感覚ですね。出家したくせに、恥ずかしいとかはおかしいかもしれないです。恥ずかしいではなく、破戒です、というのが言うべきことなのかもしれません。破戒だったら恥ずかしいではすまないでしょう。
>
> スマ長老さまは、比丘にとって、いちばん大事な戒は不妄語だ、とおっしゃっていたように思います。
>
> たしかに、インドの行者でも、「嘘をつかない」というのを徹底して守っているように見えます。
>
> 仏法を受けとる姿勢に嘘がなければ、恥ずかしいと思うことはないのではないか、という気がしたのです。

大事な戒はほかにある、のかもしれません、しかし、性交をだからといって、破っていいとは一つもいってないです。私は性交に拘るわけではありませんが、むしろ日本の僧侶の無自覚さ加減に呆れます。確かに嘘はついてないわけですが、
また、そんなことつまり嘘をつかないことを言う人だから、仏法も正直に守っているかもしれませんが、「嘘をつかない」ということで、人前で馬鹿正直に自分の親は破戒してますという意味になることを平気で言うのが、愚かだと思うのです。もっと、全体を知れば、誠実な人かもしれませんが、それにしても、と言う思いを否定できません。これが日本の伝統ならば、それは仏教の伝統からは外れるのだから、もっと仏教の伝統に根差したことを熱心に語るべきでだったのではないでしょうか。
でも、この話は本筋から離れるものなので、あまり、突っ込まない方がいいかもしれませんね。
それより、ショ-シャンクさん、どうしちゃったのでしょうね。


 

  [No.17489] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/02/21(Fri) 09:55:32

遠佐さま
おはようございます。

> 多分反論来るだろう、と思っていました。

そう、予想されていたのですね。
遠佐さまなら、分かっていただけるのではないかと思って、書いてみたのですが、
実際のところ、遠佐さまのおっしゃるとおりだとは、わたしも思っています。
わたしは、「お寺側」に組する者ではないのですが、多様な見方(世俗諦とと第一義諦)をご紹介してみようと思って書いたのです。

> 確かに寂聴さんの恥ずかしいは世俗的感覚ですね。出家したくせに、恥ずかしいとかはおかしいかもしれないです。恥ずかしいではなく、破戒です、というのが言うべきことなのかもしれません。破戒だったら恥ずかしいではすまないでしょう。

この点、寂聴さんは、衣は出家の衣ですけど、感覚は世俗のままのような気がします。
それはそれで、まあ、一般人感覚を代弁して、人々の理解に添ったというところなのかもしれないです。

> 大事な戒はほかにある、のかもしれません、しかし、性交をだからといって、破っていいとは一つもいってないです。私は性交に拘るわけではありませんが、むしろ日本の僧侶の無自覚さ加減に呆れます。確かに嘘はついてないわけですが、

遠佐さまは、感覚の良い方ですね。言いたいことがみな伝わっています。
それだけに、遠佐さまのおっしゃることもよく分かります。

婬欲にとらわれると、トンデモないことになることは、『スッタニパ-タ』第4章「ティッサ・メッテイッヤ経」でブッダがさんざん説いています。口を酸っぱくして説いている、といってもいいような感じです。

816. (第七経第3偈)
かつては独り行じていても、婬欲の交わりを行うようになるならば、あたかも、(象・馬などの)乗り物が暴走するようなものです。世間において、かれは劣った凡夫であると言われます。
………
818. (第七経第5偈)
諸々の思念にとらわれて、かれは、困窮している者のように思いめぐらします。
他の人々の評判を聞いて、このような人は恥じ入るのです。
819. (第七経第6偈)
さらにまた、他の人のことばによって責め立てられて、かれは刀杖を作ります(悪い行いに及ぶのです)。実に、これが、かれにとって大きな洞穴となるのです。妄言に沈んでいくことになるからです。

> また、そんなことつまり嘘をつかないことを言う人だから、仏法も正直に守っているかもしれませんが、「嘘をつかない」ということで、人前で馬鹿正直に自分の親は破戒してますという意味になることを平気で言うのが、愚かだと思うのです。

おっしゃるとおり、そうだと思います。「愚か」というのがあっている感じはします。無知から来るものですよね。

仏教の教えは、部派の伝統だけではないので、仏法に添っていることを説明できれば良かったのかもしれません。

しかし、そのためには、大乗について語らねばならず、大乗の教えがブッダからくることを説明せねばならず、そして、その行いが仏法にかなうことを説明しなければなりません。

それをせずに、会議や集まりにいっても、懐疑的に見られるだけかもしれませんが。。(ちょっとだじゃれみたいになってしまった)

ただ、そうであっても、東南アジアのお坊さんたちが、日本から行ったお坊さんたちを同じ僧侶であると認めたならば、それは、それで良いのではないかと思います。
同じ教えを受けたものだと、分かったということかな、と。


> もっと、全体を知れば、誠実な人かもしれませんが、それにしても、と言う思いを否定できません。これが日本の伝統ならば、それは仏教の伝統からは外れるのだから、もっと仏教の伝統に根差したことを熱心に語るべきでだったのではないでしょうか。


結局のところ、これは、わたしの問題でもありますが、日本は仏教をどのように受容してきたのか、ということが、たえず問われているということかと思います。

わたしは、自分で、「大乗はブッダから来ている」ということを得てきています。それで、お坊さんが妻帯しても、そんなにビビらずいられますが、それを個々のお坊さんも得ているかどうかは、よく分かりません。

> でも、この話は本筋から離れるものなので、あまり、突っ込まない方がいいかもしれませんね。

わたしは、本筋に繋がっていると思って、書き込んでくれたことを感謝しています。
大事な問題のような気がします。

> それより、ショ-シャンクさん、どうしちゃったのでしょうね。

ほんとねぇ?
どうしたかしら。。


 

  [No.17492] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/02/21(Fri) 14:37:20

先生
こんにちは
>
> しかし、そのためには、大乗について語らねばならず、大乗の教えがブッダからくることを説明せねばならず、そして、その行いが仏法にかなうことを説明しなければなりません。
>

>
> 結局のところ、これは、わたしの問題でもありますが、日本は仏教をどのように受容してきたのか、ということが、たえず問われているということかと思います。
>
やっぱり、そういう風に問題は広がっていきますね。私は、あっ、ちょっと論じだすと大きくなりそうだな、という感じがして、私は日本の僧侶個人の発言の問題だけにとどめようと思いました。話の本筋は親鸞の問題で、でもそれも派生した問題で、元はブッダの教えの問題でした。私はショ-シャンクさんが分析の力、或いは仏教的に言うと分別の力で、どれだけ頑張れるか、またはショ-シャンクさんに別の展開が訪れるのか、興味津々だったのですが。ショ-シャンクさんはすごく博識で、春間さんを遣り込める場面もあったので、もう一歩突っ込めばいいのに、と思ったりしていたのです。それにしても、私が横やりを入れた日本人の僧侶の話に戻って言うと、先生の言うような問題にすると、私の力量ではとても歯が立ちません。ここではこれだけで、失礼いたします。本当は先生にお聞きしたいという気持ちはうずうずしているのですが、はっきりした形にまとまってくれません。でも寿命のあるうちにお聞きしたいです。


 

  [No.17370] Re: 親鸞への疑問 投稿者:spinobuddhist  投稿日:2020/01/23(Thu) 21:33:13

ショ-シャンクさん


> 大乗仏教が何故興ったのかというテ-マに関しては、書こうと思いましたがかなり長くなりますので
> いくつかに分けて書かせてください。

期待しています。


 

  [No.17409] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 21:28:04

> もう浄土宗や密教キリスト教について語るのは、やめにしませんか?
> 健全な議論空間が回復することを切に願っています。


それは賛成です。
私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)のことだけを語りたいですね。
ゴ-タマ・シッダッタの教えを、後世の宗祖たちの教えで解釈するのは間違っていると思います。


 

  [No.17482] 紅白 の 考 は 赤い のだろうか ? 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/02/02(Sun) 08:07:43


“ 赤い実 ” も 赤いわけではない

“ 赤 という 名称 ” が、 「 赤 」 を決めるわけではなく、
“あなたが決める あなたの思い” を “ 赤 ” と 名づける だけ

実 というモノは “ キ ニ ” なっている

> あなたは 違うと 感じる

違うと思うから、
違わない理由を、 心に起こし、
起こす心を、 “ たがう ” 言葉を起こして、 「 違いませんか 」 と 表現する
> 違わないと感じるから、 違うと感じること を 行ないに為す
その行ないが、 “違う” という 疑問文 を 生む
> ( 飛躍して 展開しているけれど、 追えるかな ? )
一読して、 無意味な 考察な ひねくり回しと 感じ、
得るところは何もない ということを ( 自分の起こすことについて ) 得る人もいる

心の起こしようと、 言葉の起こされようについて、
( これも、 自分に起こされている人生 の 一コマである と )
何かを 得る人 が いる
( 何を得たか は、 得た人が決める
→ 自分の “財・アルタ” であるところの人との関わり の中で “得ている事柄・アルタ” )


> > いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです

わたしは 期待しています
自らに 起す アルタ を 分けて知る( ヴィジュニャ- ) 為 に
> 少なくとも、 管理人エム 様 は 期待していますよ !

多い少ない は 人数( 人の勘定 ) で 決められません
二人目 の 勘定 は 勘定する人を 勘定に入れずに、
一人目として 数えられる 、、、、

自分を 勘定に入れるところから、 認識を起こさなければ 、、、、

> > し、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。
> ふくれているのでは ないでしょう

投稿 しようとする 心が、 しぼまされているだけです
( 言い換えると、“ FEEL SO BAD ” が 支配している だけです )

> 腐った 返答を目の前にして
> 臭いに 顔を背けているだけです

違う と 感じるのであれば、
臭さに 向かい立たなければなりません
臭いものに 蓋 を するには
臭いことを 起しているモノ を
よく注意して、 取り扱わなければなりません
( そうしないと、 取り扱うことによって 扱う者に 臭みが移る )
どのようにすれば、 元 は 絶たれるのでしょうか ?

> 自分に起こす 局面を “ 向き合って 向き合うことに 変える “ しかないのです
> ( 自分が 向き を 変えるのです )

“ 感じ悪い = feel goodではない ” と
感情 の中に 入りこめば、 あらゆることは、 その
あなたの“ 感情 ”の 中で ふるまいを見せることとなる

入り、 入れる 人は 誰でしょうか ?

こういうことが、
“ 飛躍 ” の 中に 込められています
同じ 言葉づかい( 名称の羅列 ) で
思考 を 考察する 必要はありませんが
言葉は 違っても、 向き合う 局面は 言葉ではない
( 言葉にしなければ、 “ 向き合い ” という 言葉に起きることに 向き合わない )

> > 返事は不要です。
> あなたは、 不要 と 感じる

不要と 感じさせる言葉で
必要なことを 伝える

> 要不要 は 自分に起こせばよい
> > いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです
> と 他に対して、 不要 を 言うことはない

不要と 感じて、 不要を言う のであれば

いう必要は どこにもない
( そこを、 起す道筋の感情 を 見据えなければ、 感情に入ることとなります)
( いや、 入ってはいない という 感情を起こすが、
その起こされている感情 に 入ると、 冷静さを 失なっていることは 見えない )

> 自分の事を、 自分の責任範囲で 言うのであれば、
> 他人 のこと は 他人の責任範囲にしなければならない
> ( それは、 不要 と 決めること ではない )
> ( 思っても、 対外的に 口に出すことではない )

こうして、 考察 を 付加すると、
> あなたの並べる こと( ところ ) に
> 齟齬があるとは 気付きませんか ?

という 「名称」 の 連なりは
様相を 変えますか ?


 

  [No.17450] 他人の過失をみるなかれ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:50:14


他人の過失をみるなかれ。


 

  [No.17393] 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 16:46:09

>一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。


とspinobuddhistさんに言われましたので、書いていこうと思います。


仏陀の死後、仏教はその教説の独自性、優越性を強調する方向に行きました。
これは、どの宗教でも見られることで、自分が信じる宗祖の教えが他の教えより優れていることを強調したいというのは
その弟子たちにありがちなことです。
仏教も、どんどん、その方向に進んでいきました。
特に、その時代の精神フィ-ルドそのものだったバラモン教との差別化や優越性の強調は大きくなっていきました。
例えば、最古層の仏典では、ゴ-タマ・シッダッタを『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』とか呼ぶ場面は多いですが
時を経るにつれ呼称はは『尊師』などとなっていきました。

諸法非我についても、『我』がバラモン教のア-トマン思想と見なされ、ア-トマン否定、バラモン教否定という意味での
諸法無我に意味が変わっていきました。

ブラフマンもア-トマンも存在の根源という意味合いが強く、それを否定していったために
灰身滅智の方向へと仏教は傾いていきました。
根本分裂以降、部派仏教の時代になると、無我であれば因果の果を何が受けるのかという根本命題が出てきて、
それに対して煩瑣な理論ばかり盛んになっていきました。

仏陀の在世中には、無量心はbrahmam vihara という究極の境地だったと思いますが、
後世の仏教はブラフマンを宇宙の根源ではなく、色界最下層の梵天にまで貶めたため
無量心も色界最下層の境地とされ、解脱には至らないとされました。

このような状況の時に、『こんなものは仏陀の説かれた法ではない』『仏陀はもっと大いなる法を説いたのだ』と主張していったのが
大乗仏教運動だと考えています。
それは僧院の中で反骨的な僧が新たに大乗仏典を書いていったところから始まり、
それが徐々に広がっていきましたが、教団ができるのは5世紀以降です。
法華経にあるように、僧院を追い出されたりした『法師』という人たちが中心に小さな教団ができていったと考えます。
それより前に大乗仏典は中国に渡り、インドよりも中国で流行り出します。


このように、私は、大乗仏教は、灰身滅智に傾き、煩瑣な理論にふけっていた部派仏教のアンチテ-ゼ、
仏陀の真意の復興運動として起こったと考えます。


 

  [No.17397] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 03:43:38

> 「 空 」 が なぜ起こるかが、
> 分からないのです


『空』は起こるものですか?
あなたが指し示す『空』とは何ですか?


> 煩悩 が 即 菩提 なのです ( 煩悩と菩提 とは 表裏に過ぎません )


あなたの言う『煩悩』とは具体的には何ですか?


 

  [No.17401] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 07:49:39

> > 『空』は起こるものですか?

> 起こす “ モノ ” です
> 起こす こと に 付随して 起きます


『空』を起こすのですか?
『起こすこと』とは具体的には何でしょうか?



> > あなたの言う『煩悩』とは具体的には何ですか?

> あなたに ムラムラ と 沸き起こる
> あなたの 感情 です
> 「 アラユル コト ヲ 自分 ヲ
> 感情 ニ イレズニ 欲 見 聞 シ ソシテ ワカリ 」
> あらゆる コト は 自分 です
> ( カンジョウ も 自分だから 厄介です )
> あなたの 感情(自分) が あなたを支配している


『あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きし そしてわかり』だと思っていましたが。
『感情』であれば『感情を入れずに』と書いて『感情に入れずに』とは書かないような気がしますが。

あなたの解釈だと、煩悩=感情 ということでいいですか?


> あらゆるコト を 「 色 」 と 呼びます
> ( 「 色 」 以外が あなたにあれば、 あなたは あらゆるコト から 遠離しています )
> ( 「 遠離(一切) 顛倒夢想 」 )


受・想・行・識は、色の中に入っているのでしょうか?


> 人が 好き嫌い を 持つとき
> 感情は すべてを支配します

例えば、石飛先生が『親鸞が大好き』と言われるとき、それは揀択なのですか?


 

  [No.17405] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 19:51:59

> > > > 『空』は起こるものですか?
> > > 起こす “ モノ ” です
> > > 起こす こと に 付随して 起きます
> > 『空』を起こすのですか?
> 牟尼には 「 空 」 は 起きません


『空』とは、起きるとか起きないとかいうものではありません。
何を根拠にそのようなことを言っているのですか?

> あなたが 書き込むことです
> その行為 の 意味は 「 空 」 です

それでは、あなたが書き込むことは空ですか?空でないですか?
空でないとしたらその違いは何ですか?


> > > あなたの 感情 です
> > > 「 アラユル コト ヲ 自分 ヲ
> > > 感情 ニ イレズニ 欲 見 聞 シ ソシテ ワカリ 」
> > > あらゆる コト は 自分 です
> > > ( カンジョウ も 自分だから 厄介です )
> > > あなたの 感情(自分) が あなたを支配している


> > 『あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きし そしてわかり』だと思っていましたが。
> > 『感情』であれば『感情を入れずに』と書いて『感情に入れずに』とは書かないような気がしますが。

> あなたの 気 の せいです( 為せる 因であり果です )


やんわりとあなたの間違いを指摘したのですが、『あなたの気のせいです』とまで言われてしまったので
これからはオブラ-トに包まずに言いますね。
あなたの『雨ニモ負ケズ』の解釈は間違いです。

『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』の
『カンジョウ』は『感情』ではなく『勘定』です。


あなたは、仏陀の言葉も宮沢賢治の詩も自分勝手に変えてしまいます。

解釈の違いはいいとしても、原文の明らかな間違いは指摘された時には素直に認めたらどうですか?

前にも『縁起を見るものは私を見る』などと仏陀の言葉をねつ造していました。


 

  [No.17408] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 21:21:52

>
> > 『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』の
> > 『カンジョウ』は『感情』ではなく『勘定』です。
>
> その理由を
> 仏教を用いて 説明してごらんなさい


あなたに命令される謂れは一切ありません。

他人に言う前に間違っているあなたが、どうしてそんな勝手な解釈をしたのか
説明するべきでしょうね。

詩は一語一語の言葉が命です。
あなたのように自分勝手に原文を変えてしまう人に詩を語る資格があるでしょうか。


 

  [No.17413] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 00:43:33

『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』

【あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きしわかりそして忘れず】

自分を勘定に入れずに、とは、自分を数えない、自分を数に入れない、という意味です。
考えるときに自分のことは考えない、という意味になります。

あなたのいう
【あらゆることを自分を感情に入れずに 良く見聞きしわかりそして忘れず】
はどういう意味ですか?

自分の感情を入れずに、という意味なら
【あらゆることを自分を感情に入れずに 】ではなく
【あらゆることに自分の感情を入れずに 】となるはずです。



色に受・想・行・識が全部入っているというあなたの解釈も
まともに仏教をしている人なら絶対に言いません。

あなたが勝手な解釈をするのは自由ですが
私にレスをして、そのような間違ったことを押し付けようとするので
どうしても間違いをいちいち指摘していかなくてはいけなくなります。

私がやんわりと『それはこういう意味だという気がしてましたが』と間違いを指摘しようとすると
『それはあなたの気のせいです』とまで言われたので、はっきりと言うしかないのです。

私にレスすると私はあなたの間違いを指摘してしまいますから、私にレスをしない方がいいと何度も言っています。

【2020/01/26(Sun) 01:30:33 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17418] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 09:11:34


ちょっと何言ってるかわからない
(サンドウィッチマン富澤風に・・)


 

  [No.17199] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/06(Mon) 16:26:03

石飛先生、明けましておめでとうございます。



> 「アジタの問い」だけで、当時の重要なウパニシャッドの思想がほぼ語られていることに気づきました。
> アジタ(負けないもの)と訳せるアジタさんの名前が、すでに正等覚者に平伏している様子が見えてきます。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤに答え、ウッダ-ラカに答えた正等覚者は、さらに『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』のサナトクマ-ラの説にも、反応しています。
> まさか!うそだろ、って感じです。
> 道理で難しいと思ったよ。
> 答の瞬間、アジタさんのあんぐり開いた口が見えるようです。
> しかし、瞬時にわかるアジタ尊者も大した人物ではありますが、その答の巧みさにはかれも舌をまいたにちがいありません。



『アジタの問い』を読み返してみましたが、
あの短い問いの中で、ウパニシャッドの思想がほぼ語られていると言われる意味がわかりませんでした。
他の十五人の問いと同じく、仏陀の教えの核心を導き出す問いとは思いますが、
アジタの問いだけを特別に考えられている理由もわかりませんでした。
お時間があるときに教えていただければ幸いです。


 

  [No.17200] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/07(Tue) 08:00:45

ショ-シャンクさま 明けましておめでとうございます。

今年もよろしく。

> 『アジタの問い』を読み返してみましたが、
> あの短い問いの中で、ウパニシャッドの思想がほぼ語られていると言われる意味がわかりませんでした。
> 他の十五人の問いと同じく、仏陀の教えの核心を導き出す問いとは思いますが、
> アジタの問いだけを特別に考えられている理由もわかりませんでした。
> お時間があるときに教えていただければ幸いです。


そうですよねぇ、わかりませんよね。
わたしも、『スッタニパ-タ』を数年にわたって読んできて、ようやく「彼岸道品」を読もうという気になってきたところなのです。
それまで、何を言っているのか、一つもわからず、意味があるのかないのか、でたらめなのかそうでないのか、何一つわかりませんでした。

その前の「八偈品」に取り組んで、かなりわかってきたので、勇気を振り絞って「彼岸道品」に取り組んでみました。

前提があります。「序偈」の話を受けいれて、『スッタニパ-タ』の第三章「大品」「八偈品」などをしっかり読んでくると、ようやく見えて来るものがあります。

当時、ブッダの教えを一つも知らない人たち、だけど、当時の最高の知識をもっている人たち、そういう人たちと、ブッダはどのように会話したのか、仏教の教団がかたちをなし力をもちはじめた頃のことだと思います。
「どうやら悟った人が出たらしい」「正等覚者らしい」とかいろいろウワサが飛びかっていたでしょう。


「正等覚者」というのは、仏教の用語のようになっていますが、当時としては、真理を覚って、宗派や流派や教団などを超えて、すべての教えの頂点に立つもの、という意味合いをもっていたのではないかと思います。それだから、どんな修行をしている人でも、
どんな知識をもっている人でも、「この人は真理を得た」と認めるような人のことを言うと考えて良いのだろうと思います。


ということは、逆に言えば、どんな教えや見解をもっている人とでも話ができる、ということです。


「序偈」で言われているのは、バラモンのバ-ヴァリンという人のことですが、この人の悩みを解決するために、十六人の弟子たちが派遣されるということは、バラモンのもつヴェ-ダの知識に、ブッダはどれだけ答えうるか、尋ねられるということでしょう。

ということは、当時のヴェ-ダの哲学思想の中で最高峰と考えられる思想が出てくることは、容易に想像できます。

まあ、言ってみれば、プロ同士の対話ということだと思います。

だから、あの短い偈の中に、最高の知識の要点がつまっていると見なければなりません。


わざと短く聞いているということもあるかもしれないし、また、当然知っていれば無駄を省いて、核心だけを聞くということもあるかと思います。
ブッダの教えとして「彼岸道品」はまとめられているので、多少のアレンジはあるかもしれないですが、ほぼ、こんな感じで対話していただろうということは、大いに想像できます。
もしかすると、もっと短かった可能性もありますね。


今日、古ウパニシャッドといわれる文献の内容に言及していることが分かれば、後は、ウパニシャッドを詳しく精査していくことが求められます。

ですが、ウパニシャッドというのは、注釈を書いている人が、ずいぶんの後の時代の人で、ブッダの当時、どのように考えられていたのか、よくわからないので、自分で読んで、後は、ブッダの語りの中から、思想をくみ取り、整理していくことが求められると思います。


結局、自分の力でやらねばなりませんが、その時、ヒントになるのが、ブッダは正等覚者だということです。これを皆が認めているということは、法として完成しているということですから、法として完成しうるかどうかを判定基準にして、自分でさぐって行くと、

それでも、だんだん薄皮を剥ぐようにわかってきます。

あの、アジタの問いを取り上げたのは、仏典の中で、いろいろなところで取り上げられて、使われているからです。サ-リプッタの他にも、まだ、引用されています。

つまり、アジタらを納得させたブッダは、そのやりとりを弟子たちの教育にも利用している、ということです。

ということは、ブッダの法は、最初から完成していたことが分かりますし、アジタを納得させたのですから、当時のヴェ-ダの知識をもっているバラモンの若者たちにも、大いに有効だったことは明白です。


で、そんなこんなを探っていくと、だんだん明らかになってくることがあるのですが、詳細は、論文にまとめますので、予告編だけでご勘弁を。


十六人の人たちが皆、ウパニシャッドをもちだしているというわけでもないようです。

アジタとティッサ・メッテイヤの二人は、ウパニシャッドから引用しています。
引用といっても、単語だけですが。

アジタは、「ナ-マル-パ」を、ティッサ・メッテイヤは、「シッバニ-(縫う女)」をあげて、ウパニシャッド思想にもとづいて語り、それをどのように継承・発展しているのか、あるいは、それを超える部分があるのか、など、探りを入れつつ尋ねていることがわかります。(「縫う女」については、中村註やスマ長老の指摘もあります)

後の人たちは、それからの展開なので、どんどん深く微妙になり、最後のピンギヤさんあたりだと、ほぼ覚りの究極に迫る段階であることが見えてきます。


かれらが、ブッダの弟子たちになったとしたら、大乗への道を歩むことになるのではないかと思います。仏教の教団に入る人たちもいるかもしれませんが、自分たちでここまで来ているなら、わざわざ教団に入らなくても、やっていけるので、かれらはかれらで独自路線を歩んだのかも。。などと思っているところです。


瑜伽師地論や大毘婆沙論などにも、アジタの問いなどが引用されていることで、このあたりが、部派や大乗の智を求める者たちにとって、重要な教えとなっているだろうということは否定できないと思っています。


仏教は、成立当時から、たんなる教団だけの活動ではなかったのだなあ、と実感させられますね。ブッダの力がいかに偉大だったのかを、知ります。


ということは、「彼岸道品」がわかると、ウパニシャッド思想もほぼわかるということでもありますね。
わたしは、インド思想を知る上でも、ここを読むのはありがたかったです。


 

  [No.17202] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/07(Tue) 11:32:22

石飛先生、おはようございます。
ご回答ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

予告編ということで、もちろんわからないことだらけですが、何か感じるものはありました。
先生のおっしゃる、『スッタニパ-タには一切智がある』ということのような気がしました。
自分で深く考えてみます。

ところで、縫う女=家を作る者 と考えてよろしいでしょうか。
全く同じ意味なのか、違うところがあるのか、お聞きしたいのです。

あと、中村元氏訳では、アジタが
智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?』と問うたとなっています。
この訳では、『智慧』と『気をつけること』と『名称と形態』の3つが並列されており、
3つとも消滅するように捉えられる訳となっています。
どうも訳がおかしいと思えますが、本当はどういう意味なのでしょうか。

質問ばかりですみません。


 

  [No.17203] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/08(Wed) 04:10:09

ショ-シャンクさま おはようございます。

> ところで、縫う女=家を作る者 と考えてよろしいでしょうか。
> 全く同じ意味なのか、違うところがあるのか、お聞きしたいのです。

ほお、さっそく核心に入られましたね。

「家を作る者」とは、『ダンマパダ』にあるものですね。

153.わたしは、幾多の境涯を、得るものもなく輪廻してきた。家の作り手を探し求めながら、くり返す境涯は、苦しみである。
154.家の作り手よ! おまえは見られた。おまえが、ふたたび家を作ることはないだろう。おまえのすべての梁や桟は破壊され、家の屋根は壊れ落ちた。心は、意志(行)を離れ、渇愛は滅尽に至った。

なかなか! いいですね。お見事です。
わたしは、このことばは、おっしゃるように「輪廻」を示すと思います。
同じ単語ではありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤの説に出てきて、特に、ア-トマンが身体を捨てて、別の身体を得ていくさまを、縫い子が刺繍を一つ取り去って新しい刺繍を作る様子にたとえているのです。
特に、「家を作る者」をあげていただいてすごいな、と思うのは、それが、どちら(縫う女も家を作る者も)も<人>を指しているからです。ヤ-ジュニャヴァルキヤも、永遠不滅のア-トマン(自己)を説きますが、それをプルシャ(人)と言い換えたりもするのです。

あまり違いが言われることはなく、どちらも同じだなどと考えられたりもしますが、やはり微妙に違うのではないかと思ったりもします。ブッダが輪廻を語る時は、<人>を意識して語りますね。

スマ長老は、そこを仏教的に解釈して、「妄執」のことだとしています。法として語る時には、具体的にそれでいいと思います。
>
> あと、中村元氏訳では、アジタが
> 『智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?』と問うたとなっています。
> この訳では、『智慧』と『気をつけること』と『名称と形態』の3つが並列されており、
> 3つとも消滅するように捉えられる訳となっています。
> どうも訳がおかしいと思えますが、本当はどういう意味なのでしょうか。

智慧と気をつけることは、ブッダの答えですね。後、突然「名称と形態」が出てきてびっくりするのですが、おそらく、ここは、アジタが尋ねたかったことだと思います。

ここも、このとおりで良いと思います。消滅することをもちだしているのは、生きている身体(命)を問題にしているからだと思います。
今度は、アジタは、ウッダ-ラカの教えを聞いているように思います。

ブッダの答えが、アジタにはよく飲み込めないので、さらに、(ブッダなら)当然知ってるだろ、みたいな感じで、「ナ-マル-パ」を出してきたのではないかと思います。
「識別作用」が滅したら「名称と形態」も滅すると答えて、アジタを納得させるのですが、
これがすごいですよね。

ここで、また、ウパニシャッドの別の思想をもってきているらしいことが分かるのですが、ここは今検討中です。

ウパニシャッドの説とブッダの説が、コラボしている感じですね。ちなみに、ナ-マル-パ(名称と形態)もヴィジュニャ-ナ(識別作用)も、仏教でも使いますし、ウパニシャッドでも使います。

これだけ、共通の用語が出て来ると、ウパニシャッドの中で使える単語はどんどん使って、ブッダが、教説を組み立てている様子が見えてくるようです。

はっきり言って、ブッダは、ほとんど、この場で瞬間で組み立てているのではないかと思います。
経典のことばは、おそらくどれもそうですね。ブッダ自身は、瞬時に、解答を出せるのだと思っています。ウパニシャッドなども自由自在だったことでしょう。ヴェ-ダグ-(ヴェ-ダの達人)は、文字通りだなと思います。

一切智者、正等覚者、という特徴を、感じてきます。ただのことばだけではなく、それを実感するような感覚になってきますね。

まあ、人間を超えてるんだな、って、素直に思います。
インドの人が拝むはずだなあ、って。


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