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  [No.16922] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/12(Thu) 18:27:43

> 隣の掲示板「マジカルボ-ド」で、「ブッダは不平等を行うな」と述べたと、言いました。
>
> 775.(第二経第4偈)
> それ故に、人は、ここでこそ、学ぶとよいでしょう。
> 世間において「不平等」と言われるものが何であれ、それを知るならば、それのために不平等を行わないようにしましょう。
> なぜなら、賢者たちは、「この命というものは、短いものだ」と述べているからです。
>
>
> 774偈では、欲に溺れた者たちは、ケチで不平等になると述べています。
> そして、それらの人々は、結局苦しくなって「ここから死んでわたしたちはどうなるのだろう」と嘆くと書いてあります。
>
> それを受けて775偈があります。
>
> ここで大事なのは、「不平等」を知ると、どうするか、ということだと思います。
>
> 「それのために不平等を行わないようにしましょう」
> これですね。この「それのために」が大事で、「それ」とは何かというと「不平等」です。
> 不平等を目的として不平等を行うな、ということです。
> つまり、具体的には、相手を貶める目的や、「あの人は不平等を行っている」と糾弾する目的で、自分たちもまた不平等を行ってはならない、ということだと思います。


石飛先生、こんにちは。
書き込まないつもりでしたが、わからないところがあるので質問させてください。

先生の『スッタニパ-タと大乗への道』では、visama を『不平等』と訳されています。中村元訳では『不正』です。
パ-リ語辞典ではどちらの意味もあるようです。
熟語にしても、visamacariya は『非正道行』、visama parisaは『不等衆会』とやはり2つの意味に分かれています。
前後の文脈から探るしかないようです。

774は中村元訳では
【かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。】
なっています。

この場合、【欲望を貪り】⇒【欲望に熱中し】⇒【欲望に溺れて】⇒【欲望を囲い込んで独り占めし】⇒【欲望のためにあくどい不正までするようになる】
と、どんどん深みにはまっていく段階が具体的に説かれているようで頭に入りやすいのですが
vimasaを不平等と訳すと、わからなくはないのですが唐突感があるような気がします。
先生は、『欲望によって優劣がついてきて不平等が生じる』と書かれていますね。
ちょっと哲学的になりすぎるような気がするのですが。

私は、774のvisama は、778に書かれている【自責の念にかられるような悪い行い】のことのような気がするのです。

文脈からして、この場合、visamaを【邪なる】とか『非正道』ではなく『不平等』と訳されたのはどのような理由からでしょうか。

あと、中村元訳でも、778で『両極端』という言葉が出てきて、801でも出てくるのですが、
例えば、ubho は辞書で見ると『両者』とか『2つ』とかしかなく、両極端に匹敵する原語がわかりません。
私は、778は、中村元の『両極端に対する欲望を制し』ではなく『2つの欲望を制し』であって
それは先生の言われる『前の欲望』『後の欲望』のことではないかと思っています。

つまり、欲望とは、過去の快楽の記憶を反芻することとその快楽の記憶を現在から未来にかけて繰り返さんとするものであるので
欲望を前と後とに分けて、『両者』『2つ』と言ったのかなと思ったのです。


とにかく、スッタニパ-タは難しすぎて、わからないことだらけです。


 

  [No.16926] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/12(Thu) 22:06:53


通り雨さま こんばんは。
>
> 先生の『スッタニパ-タと大乗への道』では、visama を『不平等』と訳されています。中村元訳では『不正』です。
> パ-リ語辞典ではどちらの意味もあるようです。
> 熟語にしても、visamacariya は『非正道行』、visama parisaは『不等衆会』とやはり2つの意味に分かれています。
> 前後の文脈から探るしかないようです。
>
> 774は中村元訳では
> 【かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
> (死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。】
> なっています。
>
> この場合、【欲望を貪り】⇒【欲望に熱中し】⇒【欲望に溺れて】⇒【欲望を囲い込んで独り占めし】⇒【欲望のためにあくどい不正までするようになる】
> と、どんどん深みにはまっていく段階が具体的に説かれているようで頭に入りやすいのですが
> vimasaを不平等と訳すと、わからなくはないのですが唐突感があるような気がします。
> 先生は、『欲望によって優劣がついてきて不平等が生じる』と書かれていますね。
> ちょっと哲学的になりすぎるような気がするのですが。

確かに、そうですね。わたしも、どうしてこんなところに、visamaということばを持ってきたのだろうと、最初は思いました。最初に読むと、確かに、「不正」の方がわかりやすいようにも思うのですが、じっくり眺めて行きますと、やはり「vi-sama(平等から離れている)」→「不平等」ということでいいのだなと思います。

欲のためにあくどい不正までしてしまうと、許されない!と分かりますが、この曖昧な「不平等」ですと、悪いということが、あまりはっきり出てきません。
「普通だろ」という気もします。
欲に溺れて来ると、欲しいものが出て来る。→他の人の持っているものなんかじゃイヤだ、ブランドものじゃないと→これはプレミアム商品だ、欲しい!→ 一点物だ・有名な○○先生の作品だなどなど。とどまるところを知りません。

ですが、確実に、差別化や特別視などが生まれてくることは分かります。
そして、それを煽るかのように、次々と新製品が生まれ、値段の高いモノが生まれ、消費文化が生まれ、やがてはあらゆるものに格差がついてきます。身分社会、格差社会へと向かいます。

この後の十三経すべてにわたって、このvisamaがあらゆる場面で顔を覗かせて行くのです。戒や見解に至るまで、すべてにわたります。

この『スッタニパ-タ』という経典は、決して易しい経典ではなく、どんなところにも当時に最高レベル(これもvisamaですね)の知識を相手にしていることが、読んでいるうちに分かってきます。
「八偈品」の最初の「欲経」でも、エリ-トを相手に語る高度な内容なのですが、たった六つしか詩がないために、あまりはっきりしません。ですが、769偈など、『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』からの引用をもってきて、ウパニシャッドの哲人たちの思想に対抗する内容であることを、暗に示します。

ですから、「八偈品」も、地味に思想や宗教などに没頭して、富と権力には距離をおいているように見える沙門たち(自由思想家)たちの中にある、目に見えない「上昇意識」だとか「優越意識」「対抗意識」だとか、そういうものまでをも取り上げていることが分かるのです。そう思うと、visamaは「不平等」がふさわしいと理解されてくるのです。

ですから、後の経典では、「優れている」「劣っている」「同じだ」と考えるな、と、くり返し言われるようになります。これも明らかなvisamaです。

「もの惜しみ」と「不平等」ですね。確かに、欲から出て来るこれら二つの煩悩は、欲の世界がどんなに発展しても、ついてまわります。

人間の欲社会の特徴なのだとつくづく思います。良くても悪くても、欲界はこの特徴をもっているのだと分かります。


実は、このvisama(viSama、サンスクリット語)ですが、龍樹が、『廻諍論』の中で出していて、最初に観た時、「なんでこんな語が?」と不思議に思ったのですが、「八偈品」からきているのだと、今では分かります。

一見たいした意味に見えないようなvisama(不平等)は、ありとあらゆる思考の根にあって、特徴づけているのだと分かってきます。


> 文脈からして、この場合、visamaを【邪なる】とか『非正道』ではなく『不平等』と訳されたのはどのような理由からでしょうか。

「邪なる」とか「不正の」とかですと、それ以外の欲の行為を許してしまうことになります。「不平等」ですと、悪さが目立たないだけに、犯しがちになるので、そこをはっきりさせようとして、「悪い」という感覚の目立たない「不平等」をあえて使ってみたのです。


>
> あと、中村元訳でも、778で『両極端』という言葉が出てきて、801でも出てくるのですが、
> 例えば、ubho は辞書で見ると『両者』とか『2つ』とかしかなく、両極端に匹敵する原語がわかりません。

ここは、ubhosu antesu とあって、ubhoはおっしゃるとおり「二つ」で良いのですが、後ろに「anta(極端、辺)」の語がありますので、「両極端」で良いと思います。

> それは先生の言われる『前の欲望』『後の欲望』のことではないかと思っています。
>
> つまり、欲望とは、過去の快楽の記憶を反芻することとその快楽の記憶を現在から未来にかけて繰り返さんとするものであるので
> 欲望を前と後とに分けて、『両者』『2つ』と言ったのかなと思ったのです。

確かに、それは言えますね。antaがないと、わたしも、それらの可能性をいろいろ模索したかもしれません。経典中にも、過去や未来にも楽を見ることが出てきますものね。


> とにかく、スッタニパ-タは難しすぎて、わからないことだらけです。

おっしゃるとおりです。ものすごく難しい経典だと思います。
戸惑うような単語がぽつんと出てきても、どこかに、そことつながる縁起の網の目が張り巡らされている感じがします。他の経典どうしが緊密につながっているのです。どの経典もです。


最後の第五章「彼岸道品」など、ウパニシャッドの思想を知って読むと、ほとんど発狂しそうになりますね。ブッダは、確実に、「目覚めたもの」だと、信じるほかないようなことが説かれていて、奇跡の書だと思います。

「彼岸道品」は、スマナサ-ラ長老さまが訳していますが、一冊の本に四人の人しか出てきません。
「すごく難しい」とおっしゃっていました。
ウパニシャッドは出さずに、上座部智慧の極致を披露されていますが、実際、書いてあるとおりだろうと、わたしも思います。

仏教の完成された理論で理解しないと、十六人の学人たちの疑問に応えきれないことが、わたしでも分かります。それを、仏教の専門用語もなしで(?)、相手にあわせて答えていくのですから、相手が平伏してしまうのももっともです。


 

  [No.16929] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/13(Fri) 10:46:51

石飛先生、おはようございます。
お教えくださりありがとうございます。

> 一見たいした意味に見えないようなvisama(不平等)は、ありとあらゆる思考の根にあって、
>特徴づけているのだと分かってきます。
> 「邪なる」とか「不正の」とかですと、それ以外の欲の行為を許してしまうことになります。
>「不平等」ですと、悪さが目立たないだけに、犯しがちになるので、そこをはっきりさせようとして、
>「悪い」という感覚の目立たない「不平等」をあえて使ってみたのです。


なるほど、visama を不平等と訳すことには、『洞窟の八経』だけでなく、他の部分にも関わってくること、
もっと言えば、言説の根幹部分に関わっていると思われているということですね。

これから、こころして読んでみます。



> ここは、ubhosu antesu とあって、ubhoはおっしゃるとおり「二つ」で良いのですが、
>後ろに「anta(極端、辺)」の語がありますので、「両極端」で良いと思います。


そういうことなのですね。
確かに、辞書にも、ubho anta は 両辺となっていますね。ありがとうございます。

石飛先生は、『両極端』につき、『わがもの』と『わがものではない』という2つの極端と考えておられますね。
私は、仏陀の教えは、すべてを『わがものではない』と切っていくものだと考えていますので、
ここは自分の中でも精査していきたいです。


> おっしゃるとおりです。ものすごく難しい経典だと思います。
> 戸惑うような単語がぽつんと出てきても、どこかに、そことつながる縁起の網の目が張り巡らされている感じがします。他の経典どうしが緊密につながっているのです。どの経典もです。


先生もそうおっしゃるのであれば、安心しました。
『スッタニパ-タ』は『ダンマパダ』や相応部経典や中部経典などに比べてもはるかに難しいですね。
まさしく仏陀の教えの原型で、整えられていない状態だからだと思います。だから貴重なんでしょう。
『スッタニパ-タ』が簡単だというのは、春間さんくらいの天才しか言えないでしょうね(笑)


> 最後の第五章「彼岸道品」など、ウパニシャッドの思想を知って読むと、ほとんど発狂しそうになりますね。ブッダは、確実に、「目覚めたもの」だと、信じるほかないようなことが説かれていて、奇跡の書だと思います。


今度、ウパニシャドを読んだ後にこころして読んでみます。

> 「彼岸道品」は、スマナサ-ラ長老さまが訳していますが、一冊の本に四人の人しか出てきません。
> 「すごく難しい」とおっしゃっていました。
> ウパニシャッドは出さずに、上座部智慧の極致を披露されていますが、実際、書いてあるとおりだろうと、わたしも思います。

スマナサ-ラは私はあまり評価していません。
むしろ、部派仏教にスマナサ-ラのような人たちばかりになってきたので、大乗仏教が興ったのだろうと思っています。


石飛先生、お忙しいのに教えていただきありがとうございました。


 

  [No.16932] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/13(Fri) 20:21:09

先生の『スッタニパ-タと大乗への道』の
850の解説が凄いですね。

mantabhani を 聖なる言葉を誦する とし
【寂滅している者は、何を語るにしてもマントラ(真言)になるのだ】と解説されています。

これだと、後世の密教に通じますね。


 

  [No.16934] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/14(Sat) 15:31:32

石飛先生、ありがとうございます。


> 自分でも、目を疑いました。
> 『般若心経』が見えますね。


確かに。最古層とされる仏典に既に大乗仏教の萌芽があったという説は、是非、推し進めていただきたいです。

現在、大乗仏教の起源については、グレゴリ-・ショペンの説が定説になっていますが、
私は、これも、今までの、大衆部説、仏塔管理の在家説、と同じようにかなりの部分否定されるように思います。

グレゴリ-・ショペンは、サンガ内、僧院内で、辺境の比丘がこっそり大乗仏典を創作していたようなことを主張していますが
維摩経などを見ると、出家だけが創作したのではなく、在家、それも還俗した在家あたりがかなり広範囲に関わっているような気がします。
辺境だけではなく、非常に広範囲な、仏教復興運動ではなかったかと思います。

そして、その原動力になったのは、釈尊はもっと大きなものを説いたのに、それを見失っているという強烈な意識だと思います。

ですから、先生が発見されたように、最古層の仏典にも大乗仏教が後に興る萌芽があり、
その最古層の仏典にある仏陀の真意を部派仏教が見失ってしまったことが
大乗仏教が興った理由だと思います。

前に『自然発生的に』と書いたのは、『誰かリ-ダ-がいて主導したということがなく』『同時多発的に興った』という意味です。
何の理由も根拠も必然性もなくふらっと興ったという意味ではありません。(念のため)


 

  [No.16935] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/14(Sat) 23:01:22

通り雨さま こんばんは。

> 確かに。最古層とされる仏典に既に大乗仏教の萌芽があったという説は、是非、推し進めていただきたいです。

正確には少し違っていまして、大乗仏教の萌芽ではなく、理論的な仏法の完成を示している、と思っています。
簡単に言うと、ブッダの一切智が示されていると思います。

そこに気づいた者たちが、大乗をつくって行ったのだろうと思っています。「一切智」というのが、大乗的に必要な視点なので、そこを欠くと大乗にならないということだと思っています。

> 現在、大乗仏教の起源については、グレゴリ-・ショペンの説が定説になっていますが、
> 私は、これも、今までの、大衆部説、仏塔管理の在家説、と同じようにかなりの部分否定されるように思います。

通り雨さまもお気づきだと思いますが、こういう表面的で現象的な変化によって、大乗が生まれてくることはないでしょう。
理論的には、唯識と空観をがっちり得ていないと、大乗の理論化はできないですし、理論が決まらなければ、大乗も運動として起こりません。

かなり多くの人が、それぞれに大乗の道を模索していったのではないかと思います。
>
> グレゴリ-・ショペンは、サンガ内、僧院内で、辺境の比丘がこっそり大乗仏典を創作していたようなことを主張していますが
> 維摩経などを見ると、出家だけが創作したのではなく、在家、それも還俗した在家あたりがかなり広範囲に関わっているような気がします。
> 辺境だけではなく、非常に広範囲な、仏教復興運動ではなかったかと思います。

どこで生まれたのかは、分からないですが、おっしゃるように「同時多発的だ」というのはあたっていると思います。大乗経典の種類などから見ても、そうだろうと思います。

僧院の中にもあったでしょうし、僧院の外でも行われたでしょう。外だとすれば、沙門たちや外道出身の人々も多かったのではないかと思います。

たとえば、法華経無量寿経が同じメンバ-から生まれたとは思えません。それぞれ、関心の趣くところにしたがって、種々の大乗経典が生まれていったのだろうと思います。

>
> ですから、先生が発見されたように、最古層の仏典にも大乗仏教が後に興る萌芽があり、
> その最古層の仏典にある仏陀の真意を部派仏教が見失ってしまったことが
> 大乗仏教が興った理由だと思います。


わたしは、最古の経典の中にこそ、ブッダの一切智が説かれているはずだと思って、『スッタニパ-タ』に目をつけてきました。あたっていると思います。

『スッタニパ-タ』をよく読んでいくと、バラモンだろうと沙門だろうと、ほとんど分け隔てせず、完成された仏説を与えています。サンガの比丘たちが、仏教を守りましたが、ブッダの教えがしみこんでいったのは、むしろ、一般の人々や、外道出身の者たちではなかっただろうか、という気もします。また、出家であっても、一人で修行していれば、僧院の仏教、サンガの仏教ということにはなりません。

> 前に『自然発生的に』と書いたのは、『誰かリ-ダ-がいて主導したということがなく』『同時多発的に興った』という意味です。
> 何の理由も根拠も必然性もなくふらっと興ったという意味ではありません。(念のため)

おっしゃるとおりで、根拠と必然性を確実につかんだ者たちが大乗を育てていったと思います。
ものすごい智慧の集結だなあと思います。


 

  [No.16939] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/15(Sun) 15:31:07

石飛先生、ありがとうございます。

> 正確には少し違っていまして、大乗仏教の萌芽ではなく、理論的な仏法の完成を示している、と思っています。
> 簡単に言うと、ブッダの一切智が示されていると思います。
> そこに気づいた者たちが、大乗をつくって行ったのだろうと思っています。「一切智」というのが、大乗的に必要な視点なので、そこを欠くと大乗にならないということだと思っています。


そうですね。私も、最古層の仏典には一切智があると思っています。仏陀には握り拳はないですから。
しかし、龍樹研究者の先生がそう思われているというのは意外に思いました。うれしいことですが。

ただ、そうなると、根本的な問いが生まれてきます。
スッタニパ-タなどの古層の仏典にすべての法があるとすれば、
何故、仏陀の死後500年も経って大乗仏典を創作していかなければならなかったのか、ということです。

第一結集で確定した教えをサンガ内で比丘たちが口承で伝えていきました。
仏陀の死後100年経って、根本分裂が起きましたが、これは経典ではなく戒律の問題でした。
具体的には、金銭でお布施を受け取る比丘たちが現れたことが最大の問題でした。
戒律の問題で大きく2つに分かれ、それが細かに分かれていきますが
部派仏教の時代になっても、仏典はサンガで伝えられてきたものでした。
ですから、仏典の問題は起こりませんでした。

スッタニパ-タなどの古層の仏典に一切智を見出していった人たちがいれば
スッタニパ-タを所依の経典として、部派仏教でひとつの学派とすればいいのだと思いますが
なぜ、第一結集によらない経典を新しく膨大に作り出したのか、
ここが大きな疑問となります。

何か、部派仏教の解釈で、『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちがいるのではないか、
そしてそれを解明することによって
原始仏典の真価、そして大乗仏典の真価が浮かび上がるのではないかと思っています。


先生の御本の919の解釈も凄いです。
919は、中村元訳では、見逃していた箇所です。
これは、とんでもなく重要なことを言っている可能性がありますね。


 

  [No.16940] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/16(Mon) 08:35:39

通り雨さま おはようございます。


> そうですね。私も、最古層の仏典には一切智があると思っています。仏陀には握り拳はないですから。

おっしゃるとおりです。握り拳はないのに、なかなかつかめないのが仏法の深いところですよね。

> しかし、龍樹研究者の先生がそう思われているというのは意外に思いました。うれしいことですが。

あら?!そうですか。
もし、ブッダが、人々に教えを説く直前か、あるいは同時に、「一切智」をもつことを示さなければ、ただのペテン師になってしまいます。

二五〇〇年以上も続いているのは、誰も到達し得ないところをブッダは明らかに示しているからだと思います。原理的には、ほぼつかめてきていますが、細部の詰めが足りなくて、今は、『中論』を出せません。

龍樹の『中論』というのは、ブッダの露わにされていない「一切智」の不足部分を明らかにするものです。龍樹は、ブッダの教えの、あえて表だって説かなかった部分を、表にさらした人でもあります。それが「空」なのですが。

> ただ、そうなると、根本的な問いが生まれてきます。
> スッタニパ-タなどの古層の仏典にすべての法があるとすれば、
> 何故、仏陀の死後500年も経って大乗仏典を創作していかなければならなかったのか、ということです。

なるほど。。
>
> 第一結集で確定した教えをサンガ内で比丘たちが口承で伝えていきました。
> 仏陀の死後100年経って、根本分裂が起きましたが、これは経典ではなく戒律の問題でした。
> 具体的には、金銭でお布施を受け取る比丘たちが現れたことが最大の問題でした。
> 戒律の問題で大きく2つに分かれ、それが細かに分かれていきますが
> 部派仏教の時代になっても、仏典はサンガで伝えられてきたものでした。
> ですから、仏典の問題は起こりませんでした。

そうですね。
>
> スッタニパ-タなどの古層の仏典に一切智を見出していった人たちがいれば
> スッタニパ-タを所依の経典として、部派仏教でひとつの学派とすればいいのだと思いますが
> なぜ、第一結集によらない経典を新しく膨大に作り出したのか、
> ここが大きな疑問となります。

なるほど、なるほど、おっしゃるとおりに考えるならば、確かに疑問はもっともです。
今日、もっとも保守的とされる上座部が残って、他の部派は消えてしまったかのようですが、かつては、大乗的な思想をもつ教団もあったように聞いています。

『義足経』(『スッタニパ-タ』「八偈品」に相当)は、内容はほとんど同じですが、経典を置く順序が異なっていて、それにより大乗的な思想を示していると解釈されるようです。この辺は、わたしもよく調べていませんが、理論的には言えると思います。
>
> 何か、部派仏教の解釈で、『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちがいるのではないか、
> そしてそれを解明することによって
> 原始仏典の真価、そして大乗仏典の真価が浮かび上がるのではないかと思っています。

大乗も、部派も、受け取った教えはほとんど同じだったということでしょう。
「ほとんど」というところが大事で、ブッダは、誰にでも分け隔てなく、「一切」を教えたけれど、受け取る者たちの資質などにより、受けとめられる部分と受けとめられない部分があった、とした方が、合理的だと思います。

一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です。「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。

習ったものを全部得たら、全部きれいに捨てなさい、というここまで完成して、ブッダになれるのですが、部派の人たちは、完全に捨てきれないものを抱えているのだろうと思います。
しかし、部派も、阿羅漢になると、もはや教団にも所属せず、一人で行く道を歩んでいきます。サンガには所属しません。ですから、阿羅漢のその後は、ほとんどの人が知りません。マハ-カッサパ、マハ-カッチャ-(ヤ)ナ、ア-ナンダなどなど、かれらは、知る人ぞ知る聖者として、残りの人生を送ったのでしょう。かれらや、サ-リプッタ、モッガラ-ナを惜しんで、大乗の経典には、尊敬と愛着(?)を込めて名が出てくると思います。
わたしには、大乗の者たちがかれらを馬鹿にしているとは思えません。

一方、大乗は、ブッダを目指し、人々を救うことを大きな目標としますから、修行時代は目立たないのですが、悟りを得るほどになってきますと、活躍が目立ってきます。

菩薩として、あるいは、如来として、人々のために働き始めます。完全に法を捨てているので、仏・菩薩の智慧によって衆生を救っていきます。一切智が、ここで役に立ちます。一切衆生を救えるのは一切智をもつからです。

菩薩の修行を支える「般若経典」や、その他の大乗経典は、救う者たち、あるいは、救われる者たちのために書かれた智慧の教えで、一切の法を捨てているため、それぞれ、自分が関わる衆生に対機して、経典が組み立てられているのだと思います。

たとえば、パ-リ語経典「大般涅槃経」は、阿弥陀仏を説く「無量寿経」の基礎となっています。
ブッダの教えは完璧でも、現実に救いきれない人々がたくさん世の中にいて、教えを待っているので、かれらのために、大乗仏教の者たちは現在もはたらいているのだと思います。だから、さまざまな経典が、新たに生まれてきます。
チベットのように「埋蔵経典」もあります。仏教がさかんであれば、今後も、新しい法門が開かれていく可能性はあると思います。また、部派がどのように展開していくのかも楽しみでもあります。

変化しないものは、ブッダの教えではありませんので。

>
> 先生の御本の919の解釈も凄いです。
> 919は、中村元訳では、見逃していた箇所です。
> これは、とんでもなく重要なことを言っている可能性がありますね。

書いてあることを読むと、わたしの訳は普通であるように、自分では思いますが、宮坂宥勝氏も、中村先生と同じような訳になっています。わたしと中村訳の二つをあげてみましょうか。


【石飛訳】
919. (第十四経第5偈)
比丘は、内に寂静でありなさい。他のものに、寂静を求めてはなりません。内に寂静となったものにとっては、自己はありません。そうなら、どうして、自己を欠くもの(=自己ではないもの)があるでしょうか。

【中村訳】
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない(n'atthi attA)。どうして捨てられるものがあろうか(kuto nirattaM)。


ここは、先ほどの、「法を捨てられるかどうか」というところにもつながるかもしれないです。

中村先生は、無我(=自己がない)ではなく、非我(=自己でない)という教えをブッダは説いたと考えていたようですので、「自己はない」という訳が出てこなかったのかもしれません。(中村先生にも、捨てられないものがあったということも言えます。)

そのため、次の「nirattaM (自己を欠く)」という訳にも支障が出ることになりました。

この、nir-attanですが、「捨てられるもの」と訳されたために、龍樹の『中論』の解釈にも悪しき影響を及ぼすことになったと思っています。
「niH-svabhAva(自性を欠く)」の解釈を、誤解することになったという風にも思いますが、話せば長い話になりそうなので、この辺にします。(そもそも、龍樹とブッダが同じ法にある、と考える人も少ないかもしれませんし。)


 

  [No.16941] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/16(Mon) 18:23:48

石飛先生、ありがとうございます。


> 【石飛訳】
> 919. (第十四経第5偈)
> 比丘は、内に寂静でありなさい。他のものに、寂静を求めてはなりません。内に寂静となったものにとっては、自己はありません。そうなら、どうして、自己を欠くもの(=自己ではないもの)があるでしょうか。
>
> 【中村訳】
> 919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない(n'atthi attA)。どうして捨てられるものがあろうか(kuto nirattaM)。
>
>
> ここは、先ほどの、「法を捨てられるかどうか」というところにもつながるかもしれないです。
> 中村先生は、無我(=自己がない)ではなく、非我(=自己でない)という教えをブッダは説いたと考えていたようですので、「自己はない」という訳が出てこなかったのかもしれません。(中村先生にも、捨てられないものがあったということも言えます。)
> そのため、次の「nirattaM (自己を欠く)」という訳にも支障が出ることになりました。



niratta には、辞書で見ますと、1、我でない・非我の 2、捨てられた・排除された
この2つの意味があるようですね。

atta にも、1、我・自己・我体 2、得た・取った
という2つの意味があるようです。


中村元訳では、平安に達した人には、取るということがないのだから、捨てるということもない、
とまあ、平凡な意味になります。

石飛先生の訳では、『寂静に達した者は、自己がないのだから自己ならざるものもなくすべてが自己』と
いきなり禅の極致のような言説となります。



>「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。

仏陀が言った中でも、筏の喩えは素晴らしいと思います。非常に柔軟ですね。自分の説いた教えにさえも囚われるなということですね。


>しかし、部派も、阿羅漢になると、もはや教団にも所属せず、一人で行く道を歩んでいきます。サンガには所属しません。
>ですから、阿羅漢のその後は、ほとんどの人が知りません。
>マハ-カッサパ、マハ-カッチャ-(ヤ)ナ、ア-ナンダなどなど、かれらは、知る人ぞ知る聖者として、残りの人生を送ったのでしょう。


阿羅漢になるとサンガに所属しないというのは今まで知りませんでした。
遊行することが多くても、サンガには属していると思っていました。


>一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です

仏陀が捨てろと言った『saddha』を辞書で見ますと、信・信仰・信心・信用とあります。
中村元氏は、バラモン教の信仰を捨てよ、と言う意味に解しています。
しかし、バラモン教の信仰を捨てて仏陀の教えを信仰しろというのでは、全く仏陀らしくありません。
先生がおっしゃるように、仏陀の法をも捨てるということかもしれません。
あるいは、どんな教えも信仰にはするな、ありのままをとらわれなく見なさい、という意味かもしれません。


 

  [No.16950] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/17(Tue) 15:43:53

> スマナサ-ラ長老は『ブッダの実践心理学』で、阿羅漢は欲を滅ぼし尽くすので、サンガにいなければそのまま餓死して涅槃に入るといっています。
> 阿羅漢が一人遊行するというのは誤りだと思います。独覚のことでしょう。
> ちなみに凡夫の菩薩はサンガに属しませんが世間に属しています。仏陀がいう「犀の角の如くただ一人歩め」は、スマナサ-ラ長老も言うとおり、凡夫の菩薩や声聞には不可能で独覚にしか出来ませんが、それを可能にするのが十二支縁起の観察だと思います。
> スマナサ-ラ長老はアビダルマの伝統から語っているので、禅定の実践に裏打ちされており極めて精密で正確ですが、日本の大乗の学者は自分の思いつきで適当に語るから、注意する必要があります。


spinobuddhistさん、はじめまして。
説明いただきありがとうございます。
スマナサ-ラ長老は、阿羅漢はサンガにいなければ餓死してしまうと言われましたか。なるほど。
「犀の角の如くただ一人歩め」は、独覚にしかできないのですか。
今の日本では、原始仏教と言えばテ-ラワ-ダですし、テ-ラワ-ダといえばスマナサ-ラ長老が絶大な影響力を持たれていますね。
私は道の途中で、どの権威にもよらずに、仏陀の真意に近づきたいと思っていますが
大変参考になりました。ありがとうございます。


 

  [No.16944] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/16(Mon) 23:15:51

通り雨さま こんばんは。

> niratta には、辞書で見ますと、1、我でない・非我の 2、捨てられた・排除された
> この2つの意味があるようですね。
>
> atta にも、1、我・自己・我体 2、得た・取った
> という2つの意味があるようです。

おっしゃるとおりです。が、

n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。

一方、後ろにあるnirattaMは「捨てられた(もの)」としてもよさそうに思いますが、前の文と関連させるなら、「自己を欠くもの」ということになるでしょう。

中村訳ですと、後ろを「捨てられた(もの)」としたので、その前の文の「attA]」を「得られた」とむりやり読むことになって、ちょっと苦しい解釈だということになりますね。

>
> 中村元訳では、平安に達した人には、取るということがないのだから、捨てるということもない、
> とまあ、平凡な意味になります。
>
> 石飛先生の訳では、『寂静に達した者は、自己がないのだから自己ならざるものもなくすべてが自己』と
> いきなり禅の極致のような言説となります。

なるほど、言われてみますと、そうですね。
>
> >「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。
>
> 仏陀が言った中でも、筏の喩えは素晴らしいと思います。非常に柔軟ですね。自分の説いた教えにさえも囚われるなということですね。

梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。


> 阿羅漢になるとサンガに所属しないというのは今まで知りませんでした。
> 遊行することが多くても、サンガには属していると思っていました。

マハ-カッサパの出て来る経典をじっくりと読みますと、頭陀行といわれる生き方をしていて、たまにお釈迦さまのいるサンガに寄ったりしています。また、カッサパが比丘たちに法を説いたりもしています。が、基本的には、精舎などにはよらず、他の比丘たちとも群れていることはなかったと思われます。

といいますのは、いつもまわりに弟子たちや在家の信者たちと一緒にいて世話をするア-ナンダに苦言を呈したりもしているからです。それを聞いたア-ナンダファンの比丘尼が、カッサパのことをよく知らなかったと見えて、「こんな立派なア-ナンダ尊者を小僧呼ばわりするなんて、なんなの、元は外道のくせに」みたいに文句を言ったりしているお話がありました。

あるいは、カッチャ-ヤナも、同じように逸話があります。一人アヴァンティに戻って教えを説き始めて、ソ-ナという人が出家したいと申し出るのですが、出家はたいへんだからと在家で頑張れと助言して、許しませんでした。
しかし、再三願って頼まれようやく出家を許しますが、出家のための比丘十人がそろわず、それから3年もかかって出家をさせます。
そのソ-ナがお釈迦さまに会うために、サ-ヴァッティ-に出かけた折に、辺境では比丘たちを集めるのがたいへんだと話したので、それによって、辺境の地では五人の比丘たちがそろえば具足戒を受けられるようになったということです。

だから、カッチャ-ヤナは「二人していくな、一人で行け」を守っていたのだなと思います。カッチャ-ヤナは、非常にきちんとソ-ナを育てて、この『スッタニパ-タ』の「八偈品」を暗記させています。力のあるお坊さんだったことが、この話だけからでも分かります。

わたしがいうことは、思いつきで語っていることは一つもないです。仏典の裏付けと体験から出ています。


> >一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です
>
> 仏陀が捨てろと言った『saddha』を辞書で見ますと、信・信仰・信心・信用とあります。
> 中村元氏は、バラモン教の信仰を捨てよ、と言う意味に解しています。
> しかし、バラモン教の信仰を捨てて仏陀の教えを信仰しろというのでは、全く仏陀らしくありません。

それでは、ただの宗教の教祖と同じですよね。

> 先生がおっしゃるように、仏陀の法をも捨てるということかもしれません。
> あるいは、どんな教えも信仰にはするな、ありのままをとらわれなく見なさい、という意味かもしれません。


信仰にすると、「われ」「わがもの」という意識が出て来るからでしょう。
わたしたちこそが、ブッダの教えを正統に受け継いでいるのだ、という意識が出ると、たちまちブッダの教えから転落してしまいます。

ほんとに仏教というのは、油断ならないですね。


 

  [No.16951] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/17(Tue) 16:15:20

石飛先生、ありがとうございます。


> n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
> 「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。


なるほど。パ-リ語が分からない私には本当にありがたいです。


> 梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
> この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。


この箇所は、増谷文雄氏は
『いま、われ、甘露の門をひらく。耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。』と訳されています。
宮元啓一氏は
『耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。彼らは信を発し向けよ。』と訳されています。

私も調べてみたいと思います。



> といいますのは、いつもまわりに弟子たちや在家の信者たちと一緒にいて世話をするア-ナンダに苦言を呈したりもしているからです。
>それを聞いたア-ナンダファンの比丘尼が、カッサパのことをよく知らなかったと見えて、「こんな立派なア-ナンダ尊者を小僧呼ばわりするなんて、なんなの、元は外道のくせに」みたいに文句を言ったりしているお話がありました。


ア-ナンダは美男子で比丘尼のファンが多かったですからね。
マハ-カッサパも苦々しく思っていた感じですね。
マハ-カッサパなどの長老からすれば、釈尊の死後、サンガの行く末が気が気でなかったでしょう。


> 信仰にすると、「われ」「わがもの」という意識が出て来るからでしょう。
> わたしたちこそが、ブッダの教えを正統に受け継いでいるのだ、という意識が出ると、たちまちブッダの教えから転落してしまいます。
> ほんとに仏教というのは、油断ならないですね。


私もそう思うのです。
釈尊の死後、直後から釈尊の教えは変質していったと思っています。
教団という一つのかたまりになると、どうしても宗我が出てきて、特に既成のバラモン教への対抗意識や優越意識、
独創性を強調していって、インドのフィ-ルドの豊饒なるものを排除していった感じがしています。
そういうわけで、大乗仏教は生まれるべくして生まれたというように思い始めています。


私は、通りがかりの者という意味で『通り雨』と名前をしましたが
ヤフ-掲示板のときに『ショ-シャンク』という名前にしていました。
春間氏ともやり取りしたことがあります。
春間氏に『マニカナに来なさい』と言われて、マニカナを知りました。
ですから、春間氏はその意味で善知識なのですが、初めからちょっと酷いことばかり言ってしまいました。
お許しください。
次からはハンドルネ-ムは『ショ-シャンク』にします。


 

  [No.16955] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/17(Tue) 20:31:46

通り雨、あらため、ショ-シャンクさま、こんばんは。

> > n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
> > 「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。

> なるほど。パ-リ語が分からない私には本当にありがたいです。

こういう個所は異読も多くて、けっこうもめます。

787(第三経第8偈)に、似たような文があります。

attaM nirattaM na hi tassa atthi
なぜなら、得たものも捨てたものも(自己ということも自己のないことも)、かれにはないからです。


ここは「attaM 」なので、一応、「得たもの」と訳しています。こういうところをふまえて、中村先生は、「取り上げられるもの」と訳しているのだとは思いますが、しかし、相当に危険なことをしているなあ、という気がします。

中村註では、n' atthi attA のattAを、中性複数形だとしていますが、そうなら、atthiが3人称単数形であいません。単数形も許される、とはありますが、苦しいです。どうやっても「自己はない」とは訳せなかったのだろうと、推測します。

実は、ここは、おそらく、龍樹の『中論』第18章第6偈の根拠になっていると思います。
わたしも、龍樹のこの偈は、どこを根拠にしているのだろうと、ずいぶんさがしました。


自己であると教えられていることもあれば、自己ならざるものであると示されていることもある。しかし、いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示されている。(『中論』18.6)



> > 梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
> > この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。
>
>
> この箇所は、増谷文雄氏は
> 『いま、われ、甘露の門をひらく。耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。』と訳されています。
> 宮元啓一氏は
> 『耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。彼らは信を発し向けよ。』と訳されています。


ここも、なかなか悩ましいです。『サンユッタ・ニカ-ヤ』PTS本、第一巻,p.138にあります。『ヴィナヤ』の第一巻にもあります。

apArutA tesaM amatassa dvArA/
ye sotavanto pamuccantu saddhaM//

tesaM ~ ye … と、関係詞節になっているので、後ろから前にかけて訳しても、切って訳しても、どちらでもいいかと思います。

pamuccantuが、「脱する」「解く」「捨てる」「解脱する」などの意味の、三人称複数で命令形ですので、普通には「信を捨てよ」とか「信を捨てねばならない」とか、そんな訳になるかと思います。

一行目は、「かれらにとって、不死の門は開かれた」で、その「かれら」の内容が二行目にあります。「耳ある者たちは、信を捨てよ」とある、「耳ある者たち」を「かれら」が受けています。
中村訳では、

耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
〔おのが〕信仰を捨てよ。

となっています。「おのが」を補っていますね。

> 釈尊の死後、直後から釈尊の教えは変質していったと思っています。
> 教団という一つのかたまりになると、どうしても宗我が出てきて、特に既成のバラモン教への対抗意識や優越意識、
> 独創性を強調していって、インドのフィ-ルドの豊饒なるものを排除していった感じがしています。

釈尊の教えが変質したというより、それぞれの能力に合わせて、分散化したのかもしれません。
サンガは、仏教の教えを維持する基盤としての役割を果たし、大衆化は、大乗や密教が担うという役割分担と考えてもいいかもしれないです。

どこにでも、仏教が崩れていく原因はあるので、たえず互いに刺激し合って変化して行くように気をつけるなら、仏教の教えはダイナミックに伝わっていうのではないかとも思っています。

どれが正しいとかではなく、ブッダの教えをどれくらい応用できるか、我々の力が試されていると見る方が、利益になるかもしれないと思ったりもします。

> そういうわけで、大乗仏教は生まれるべくして生まれたというように思い始めています。

大乗仏教は時間的には後続かもしれませんが、ブッダの悟りを考えると、菩薩時代に誓願があったからこそ成り立つものと思いますので、仏教誕生と同時に、理論的に大乗はお膳立てされていたような気もします。

> 私は、通りがかりの者という意味で『通り雨』と名前をしましたが
> ヤフ-掲示板のときに『ショ-シャンク』という名前にしていました。
> 春間氏ともやり取りしたことがあります。
> 春間氏に『マニカナに来なさい』と言われて、マニカナを知りました。

そうなんですか。ヤフ-の掲示板の方々も、昔はよくお見えになっていました。

> ですから、春間氏はその意味で善知識なのですが、初めからちょっと酷いことばかり言ってしまいました。
> お許しください。
> 次からはハンドルネ-ムは『ショ-シャンク』にします。

それでは、よろしくおねがいします。

P51 ①

  [No.17636] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/12(Sun) 09:17:39

石飛先生、おはようございます。

先生が『法華経は、間違いなく『スッタニパ-タ』の第四章、第五章をもとにして生まれてきている。』
と思われている理由を教えていただけませんでしょうか。

よろしくお願いいたします。


 

  [No.17637] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/13(Mon) 20:39:24

> 石飛先生、おはようございます。
>
> 先生が『法華経は、間違いなく『スッタニパ-タ』の第四章、第五章をもとにして生まれてきている。』
> と思われている理由を教えていただけませんでしょうか。
>
> よろしくお願いいたします。

おお、ショ-シャンクさま、こんばんは。
おひさしぶりですね。

じみに羅什の『妙法蓮華経』を読んでいるのですが、最初の三乗方便一乗真実の話は、もろに『スッタニパ-タ』第四章の「八偈品」から来ていますね。

『『スッタニパ-タ』と大乗への道』でも書いたのですが、後半、第14経、第15経、第16経が、それぞれ菩薩・独覚(仏)・声聞の道に対応していると読めるので、三乗が説かれています。

「義足経」では、順序が第16経、第10経、第15経という順序で、声聞・菩薩・独覚タイプの順になっています。第10経が、第14経の代わりに来ていますが、第10経は菩薩のための経だという事も、p.178に書いていますので、分かるかと思います。

そもそも、独覚乗というのを作ってあるのが、珍しいですよね。これは、『スッタニパ-タ』の第四章にもとづいているからだろうと思っています。

後、他にも『スッタニパ-タ』の第三章あたりもちょこちょこネタ的に取っているなあと思います。『法華経』は、ブッダの意図をしっかりとキャッチしたのだなと思っています。

「化城瑜品第七」では、十六人の大通智勝如来の息子さんたちは、出家して沙弥となりますが、これは、第四章の「八偈品」が16経からなることと重なります。そして、その16番目の沙弥が、なんとお釈迦さんですから、第15経「武器を執ること経」(『義足経』では最後16番目に置かれる)の内容に対応することが知られ、そう思って読みますと、この第15経には、お釈迦さんの肉声が、綴られています。まさに、ピッタリという感じです。

そして、大通智勝如来という仏の悟り直前の(といっても十小劫はかかっていますが)魔の軍勢をたおすところも、『スッタニパ-タ』の第3章の第二経に載っているところと重なります。もっと丁寧に見れば、さらにいろいろ見つかるのではないかと思っていますが、忙しいので、ちょこちょこ見ているだけです。

一仏乗だけ説かれている、というのは、第五章で内容的に示されていると思っています。ピンギヤという仙人に、「法を捨てなさい」と教えるところが、一切を捨ててこそ一切を得るというブッダの最後の教えの究極が示されていると思います。

本に書きたいけど、忙しくて時間がないので、ネタだけしゃべってしまいます。

大乗は、その内容としては、後代勝手に生まれてきている訳ではなくて、確実に原始仏典などに説かれるところで、未検討の内容や関心の高いところ、大きな問題をはらむところが、経典として作られているのだと思います。

「如是我聞」であることは、間違いないことです。いかに真剣に仏法を受けとってきたかということが、よくよく分かります。

大乗は非仏説だという意見があるのは、受けとる側に問題意識がないため気づけないということだろうと思っています。


 

  [No.17642] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/14(Tue) 16:53:49

石飛先生、ありがとうございます。

法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。



> じみに羅什の『妙法蓮華経』を読んでいるのですが、最初の三乗方便一乗真実の話は、もろに『スッタニパ-タ』第四章の「八偈品」から来ていますね。
> 『『スッタニパ-タ』と大乗への道』でも書いたのですが、後半、第14経、第15経、第16経が、それぞれ菩薩・独覚(仏)・声聞の道に対応していると読めるので、三乗が説かれています。


声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。

法華経はかなり寛容ですが、他の大乗仏典では、声聞・縁覚の二乗はかなりボロクソに書かれています。
二乗は仏になれないというのが多く、法華経でやっと、「二乗でも仏になれる」とされました。

声聞の本来の意味は、釈尊の肉声を直接聞いた弟子のことですし、
縁覚は師を持たずに悟った人のことです。
ですから、本来の意味からすると、釈尊も縁覚です。

その二乗をなぜあそこまで貶さなければいけなかったのか、
そこに大乗仏教誕生の秘密があるのかもしれません。

さて、先生の言われる、14経、15経、16経ですが、
14経が菩薩、15経が縁覚、16経が声聞、に対応しているということで
もう一度読んでみましたが、よく分かりませんでした。

この中で15経は、本当に釈尊の肉声を聞いているような気持ちになる経典ですね。
多分、すべての仏典の中でも最も古いのは、この15経ではないでしょうか。
この15経には、釈尊の真意を解き明かす鍵がありそうです。

14経は、法華経で言えば、安楽行品の基になったような気がします。
偶然、第14も同じですが。
逆に言えば、影響を受けすぎて、あまり大乗仏典のようでないところが安楽行品にはあるような気がします。

16経に関しては、題も声聞の代表のサ-リプッタですから、声聞の道と言うことでしょうか。


ただ、法華経などでは、声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行というように書かれますが
14,15,16にはその記述がなく、やはり、先生の言われる「対応している」ということがわかりませんでした。
よろしければ教えてください。




> 大乗は、その内容としては、後代勝手に生まれてきている訳ではなくて、確実に原始仏典などに説かれるところで、未検討の内容や関心の高いところ、大きな問題をはらむところが、経典として作られているのだと思います。
> 「如是我聞」であることは、間違いないことです。いかに真剣に仏法を受けとってきたかということが、よくよく分かります。
> 大乗は非仏説だという意見があるのは、受けとる側に問題意識がないため気づけないということだろうと思っています。


法華経の中に、こういう言葉があります。
「外道の論議を説き、自ら経典を作って世間の人を誑惑す」と罵詈し
塔寺を遠離」せん、と。

このように迫害を受けている様子が書かれています。

それまでの仏教徒からこのように罵詈雑言を投げつけられても新しい経典を作っていったのは
並大抵のモチベ-ションではありません。

私には、どうしても、その熱意の源は、
部派仏教が仏陀の真意を伝えていないという、強烈な不満、憤りがあって
「こんなものは仏陀の真意ではない。仏陀の説いた大法ではない。」と叫んだからだとしか思えないのです。


 

  [No.17645] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 11:00:41

何でもかんでも、一般論、抽象論にしてしまい悟りすましたスタイルでいることに汲々としていては
この石飛先生の言説が画期的なことを言っていることは分からないでしょう。
少なくとも、仏教の常識を覆すようなことを言われているのです。

菩薩とは何か、声聞とは何か、縁覚とは何か、独覚とは何か、(天台宗では縁覚と独覚は違った意味です)
春間さんは自分の言葉で答えられますか?

初期仏教において、菩薩とは、修業時代の釈尊のことを指していました。
後には主に前世の釈尊のことを指すようになりました。

菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。
大乗仏教になって初めて、菩薩、声聞、縁覚という三乗の思想が生まれました。

石飛先生は、その三乗の思想が、スッタニパ-タにあると言われているのです。

ですから、そう思われている理由をお聞きしているのです。


いちいち横やりする時間があるのであれば、春間さんもご自分でこの石飛先生の言説につき
考えたことを投稿されればいかがですが。
その方がずっと建設的だと思いますよ。


 

  [No.17647] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 14:37:38

> > 菩薩とは何か、声聞とは何か、縁覚とは何か、独覚とは何か、(天台宗では縁覚と独覚は違った意味です)
> > 春間さんは自分の言葉で答えられますか?

> そもそも、 自分の言葉 など 存在しません


これが、『何でもかんでも、一般論、抽象論にしてしまい』と言っている理由です。
私が『自分の言葉で答えてください』と言ったのは
春間さんがどんなときでも一切自分の考えや意見を言おうとせず
このように相手の言葉を否定することだけをしているからです。
『三乗思想がスッタニパ-タにある』という石飛先生のお考えにたいし、
春間さんの考えを聞かせてください、と言っているのです。
他人の言葉を否定するだけでなく建設的に話したらどうですか?ということです。

小学生の喧嘩ではないのですから、『自分の言葉で答えてください』を
『自分の言葉など存在しない』などという極論、抽象論を投げつけて悦に入るのはいい加減やめませんか。



> > 菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。


> それは 正しいことですか ?



大乗仏教ではそれは正しいとされていますね。




> ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )



それはあなたの考えにしか過ぎません。
法華経には『一切声聞辟支仏中菩薩為第一』とありますように
菩薩は上位に来ていますよね。


> 釈尊の 弟子(?) は 誰一人として 菩薩ではありませんか ?


大乗仏教では、釈尊の直弟子=声聞は、菩薩ではなく、仏にはなれないとされてきました。
維摩経など読んでみれば分かると思います。
二乗でも仏になれるとしたのが法華経です。
しかし、『でも』ですからね。


> 菩薩となる人と、 菩薩との間に
> 上下の区別がない
> ということが、 常不軽菩薩 の 礼拝の根拠です



常不軽菩薩は『汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし。』と言ったのです。
つまり、菩薩の道を行くから仏となるということです。


> 仏陀 は 菩薩より 上位にあるのですか ?



大乗仏教ではそうですね。
悟りを開いて如来になろうと修行しているのが菩薩です。
ですから、法蔵菩薩阿弥陀如来になったのです。
仏陀は、釈迦如来ですから、菩薩より上位にありますね。

これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?


 

  [No.17649] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 16:47:31

あなたが書いた文章に対して
ひとつひとつ、大乗仏典などを引用しながら答えたのです。


> > > 菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。
>
> > それは 正しいことですか ?
>
> 大乗仏教ではそれは正しいとされていますね。
>
>
> > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
>
> それはあなたの考えにしか過ぎません。
> 法華経には『一切声聞辟支仏中菩薩為第一』とありますように
> 菩薩は上位に来ていますよね。
>
>
> > 釈尊の 弟子(?) は 誰一人として 菩薩ではありませんか ?
>
>
> 大乗仏教では、釈尊の直弟子=声聞は、菩薩ではなく、仏にはなれないとされてきました。
> 維摩経など読んでみれば分かると思います。
> 二乗でも仏になれるとしたのが法華経です。
> しかし、『でも』ですからね。
>
>
> > 菩薩となる人と、 菩薩との間に
> > 上下の区別がない
> > ということが、 常不軽菩薩 の 礼拝の根拠です
>
> 常不軽菩薩は『汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし。』と言ったのです。
> つまり、菩薩の道を行くから仏となるということです。
>
>
> > 仏陀 は 菩薩より 上位にあるのですか ?
>
> 大乗仏教ではそうですね。
> 悟りを開いて如来になろうと修行しているのが菩薩です。
> ですから、法蔵菩薩阿弥陀如来になったのです。
> 仏陀は、釈迦如来ですから、菩薩より上位にありますね。
>
> これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?



その文章の中身に対しては、なぜ何も答えないのですか?
ただ、最後の『これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?』という文に反応しただけです。

もし、上に書いたことが、大乗仏教の考え方でないというのであれば、きちんと大乗仏典などの根拠を示して
それは大乗仏教の考え方ではないと言うことを示してください。


 

  [No.17651] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 18:43:24

あなたは、私の投稿に対し

>>あなたのように、
>>偏屈に 大乗(真意)を捉える人がいるから
>>その偏屈さを、 二乗に喩えているのです
>>これが、 「 法華経 」 を 貶している ということになるのが
>>分かってはいないのです
>>偏屈 に 凝り固まっている( これは 偏屈な批判でしょうか ? )からです
>>大乗は 凝り固まりを ほぐす ( でしょうか ? )

ここまで言っていますよね。
私は、あなたの文に対し、大乗仏典を引用しながら、答えました。

あなたも、ここまで他人の文章を批判するのであれば、
大乗仏典を根拠として、その批判の理由を書いてください。


とりあえず投稿があれば何にでもいちゃもんをつけて、それに反論されれば逃げてしまうのでは
あまりにも情けないですし、
反論できなければ逃げるのであれば最初から批判しなければいいのです。

自由に意見を交わし合えば、スレも盛り上がっていくと思いますよ。
なぜ、それをせずに、投稿があれば冷水をぶっかけるようなことばかりするのかが疑問なのです。


 

  [No.17654] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 20:02:25

>
> > >>偏屈 に 凝り固まっている( これは 偏屈な批判でしょうか ? )からです
> > >>大乗は 凝り固まりを ほぐす ( でしょうか ? )
> > ここまで言っていますよね。
> > 私は、あなたの文に対し、大乗仏典を引用しながら、答えました。


>
> 引用はどうでもよい
> それ以前の 問題です


どうでもよくありません。
大乗仏教を語るには、大乗仏典を根拠にしなければ成り立ちません。
あなたが勝手に断定しても、それが仏典に根拠を持たないのであれば
『根拠のない断定』にしか過ぎません。



> あなたは わたしの書き込みを “いちゃもん” だと 断定している
> 引用は “ いちゃもん に 間違いない事 ” を 証明するために 利用されている



あなたの指摘には、仏典の根拠がないことが多いのです。
根拠のない批判はただのいちゃもんです。
仏典に根拠があれば、それはいちゃもんではなく、『根拠のある批判』になります。




> それが “ あなたのいちゃもん ” かどうか を 知るには
> 仏典 を 引用するまでもない



根拠の仏典を示せないのですか?




> 「 理由をつけて 言ってみなさい 」
> 「 わたしが 正しいかどうか 判断します 」
> その判断 は 何故 正しいのですか ?




どちらが言ってることが正しいかは、仏典の根拠によります。
根拠を示せないほうが正しくないということです。



> あなたが、 正しいことを知っている のであれば
> あなたは、 それ以上に 何を知る必要がありますか ?




私は私の意見を書いているだけです。
それに対し、あなたが批判してきたので、
私の意見につき仏典の根拠を示したまでです。
あなたはその根拠を示せないでいるということです。



> これこれこういう風に 仏典には 書かれている
> ということは、
> そういう風に 仏典 を 読んでいる ということに過ぎない
> その読み方が正しい とする 慢心 を 見つめなさい ということです
> 論ずる以前の 心の問題を言っているのです




ちゃんとした根拠があれば、それが正しいと思ったからと言って慢心ではありません。
何の根拠もなく正しいと思い込んでいるのが慢心です。


 

  [No.17661] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 15:52:01

>
> > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
>
> Su.1068
> 「 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」
> 1055
> 「 上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 」


このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。



> 菩薩 を 成仏する以前の 釈迦牟尼 の 姿としましょう
> 成仏すると、 釈迦牟尼ではなくなりますか ?


悟る前の釈迦は、釈迦牟尼ではありません。
修行者ゴ-タマ・シッダッタです。
悟って、釈迦牟尼となったのです。


 

  [No.17663] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 16:59:44

> > > > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
> 「 平等 」 を 説きます
> 平らか で、 等しいことを 「 平等 」 と 呼びます
> 上下にはみ出 不等になる ことはありません


法華経をサングラスをかけずに読んでください。
『諸経中最為其上』など、法華経が多のお経より上にあるという文言がちりばめられていますよ。



> 一切でも 問題ありませんが
> 一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?
> > 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です


意の対象は法です。


> > 悟る前の釈迦は、釈迦牟尼ではありません。
> そうであれば、
> その時、その同じ時に、釈迦( 釈尊 )以外に 牟尼 は いますか


ジャイナ教の教祖、マハヴィ-ラは、仏陀と呼ばれていました。
仏陀の名称は、ジャイナ教のほうが早いと思いますね。
声聞や縁覚もジャイナ教の用語です。
仏教はこのようにジャイナ教の用語を多用しています。



> 悟って いようといまいと 牟尼 です
> それが ゴ-タマ です
> 悟って 牟尼になったのではなく
> 牟尼が 悟りを得たのです


牟尼というのは聖者の尊称です。
悟って一切智を得た人になったから釈迦牟尼の尊称で呼ばれています。
悟らずに死んでいれば、王家や妻や子供や家臣たちすべてを捨てて逃げた無責任極まりない男であるに過ぎません。


 

  [No.17665] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 21:09:01

> > 法華経をサングラスをかけずに読んでください。


> サングラス は 「 法華経 」 には 通用しません
> 密教( 毘盧遮那 ) は 太陽に関連があります
> 適切ではない たとえは 止めた方が良い


法華経も太陽に喩えられていますよ。
『如日天子能除諸闇 此経亦復如是』
智慧光明 如日之照』
『如日月光明 能除諸幽冥』

それに、サングラスというのは色眼鏡で、色のついたレンズを通さず、直接自分の目で見る喩えです。
一般的な例えです。
龍樹や道元などの色を通さずに、直接経典を読むべきです。
そうすれば、 『諸経中最為其上』など、法華経は他のお経より上であるという言説に溢れていることがわかるでしょう。
それを無理矢理見ないふりして『仏教には上下はない』と言っても、仕方ないことです。



> 大乗 の 大 は 大きいという意味 ではありません


大乗の大は、第一義的には大きいという意味です。
優れたというような副次的な意味もあるでしょうけど。
小乗の小は、小さいという意味と劣ったと言う意味が同じくらいの比重で込められています。


> 大小 が 「 縁起 」 にあるということは 「 仏教 」 の 説くところです
> 大小は 価値の上下を 含意します


もし、歴史上の仏陀の教えを仏教と言うのなら、仏陀が説いた縁起はそのような意味ではありません。
そのような使い方をした仏典がひとつでもありますか?



> あなたが、 上下をつけるのは あなたの勝手です


法華経自体が、法華経を『諸経中最為其上』と言っているのです。
法華経が上、その他の諸経は法華経より下、と言っているのですよ。
経典の言葉を無視しないでください。



>悟って いようといまいと 牟尼 です
>それが ゴ-タマ です
>悟って 牟尼になったのではなく
>牟尼が 悟りを得たのです


悟って一切智を得たから、釈迦族の聖者=釈迦牟尼 と讃えられたのです。
悟っていない修行者は、昔も今もごまんといるでしょう。
そもそも悟ってなければ、誰もその名前を知らないし、まして牟尼という尊称をつけることはあり得ないですね。


 

  [No.17667] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 01:30:51

> > > > 法華経をサングラスをかけずに読んでください。


> 自分の目 が 曇っていれば
> サングラス は どう作用しますか

あなたは経典をそのまま読むことができないのですか?
『大小は縁起です』とか『上下は縁起です』というようなたぶん龍樹あたりをかじった論理をいちいち持ち出さなければ
読めないのですか?
それがサングラスです。それが目が曇っているのです。
法華経は自らが他の経典より上だとはっきり示しているのに、『仏教に上下はない』と言っても仕方ないでしょう。
まずは、経典そのままを読めばどうですか。



> > 一般的な例えです。


> 「 仏教 」 は 一般的な喩を用いません

一般的な例えもいっぱいありますよ。


> 一般的な仏教 などありません

誰も一般的な仏教などとは一言も言ってないですね。
小学生の喧嘩のような、本質でなく言葉尻だけ捉えるような幼稚なことはやめたほうがいいですよ。
こういうと今度は『幼稚』という言葉に反応してくるでしょうけど。

> > 龍樹や道元などの色を通さずに、直接経典を読むべきです。
> > そうすれば、 『諸経中最為其上』など、法華経は他のお経より上であるという言説に溢れていることがわかるでしょう。


> 龍樹 の 色 が ついているのですか ?
> ( 龍樹 の 色 とは 何色ですか ? )
> 道元の どこに 色がありますか ?
> ( 「 色 」 を 否定するのが 道元です )



ますます、小学生の喧嘩ですね。
龍樹や道元を通さなければ、法華経やスッタニパ-タは読めませんか?


> あなたの得意の 経典を引いて いろ の ついたところ を 示してください
> ( 出典を示さず 言うと どうなるかは、 あなたの決めるところです )


経典は経典をそのまま読まなければいけないのです。
経典に龍樹や道元の色はないのに、あなたが龍樹ばりの『上下はない』とかという色をつけているだけです。
法華経自体が、この経典が最も上だと、明らかに上下を説いているのですよ。


> > それを無理矢理見ないふりして『仏教には上下はない』と言っても、仕方ないことです。


> 「 平等 」 が 「 仏教 」 の 説くところです
> 「 平等 」 には 上下はない
> しかし、 あなたが あなたの価値基準を用いる時
> その基準に応じて “ いちゃもん ” も 起きる
> ( これが 龍樹 の 説き示すところです )



はい。やはり、龍樹が出ましたね。
あなたはスッタニパ-タにも法華経にも、龍樹を読み込んでいるだけです。
龍樹をいったん外すことはできませんか?



> > > 大小 が 「 縁起 」 にあるということは 「 仏教 」 の 説くところです
> > > 大小は 価値の上下を 含意します


> > もし、歴史上の仏陀の教えを仏教と言うのなら、仏陀が説いた縁起はそのような意味ではありません。
> > そのような使い方をした仏典がひとつでもありますか?


> 自分だ探しなさい
> 探してもなければ、 縁のない事です


結局、仏典にはないのですね。


> > 法華経自体が、法華経を『諸経中最為其上』と言っているのです。
> > 法華経が上、その他の諸経は法華経より下、と言っているのですよ。
> > 経典の言葉を無視しないでください。


>
> あなたは、 そのように 上中下 で 物事を判断するから
> 「 法華経 」 を そのように読むのです


法華経にそう書いてあるではないですか。


> > 悟って一切智を得たから、釈迦族の聖者=釈迦牟尼 と讃えられたのです。


> 何を悟っているか あなたは知っていますか ?
> あなたの知っていることを、 釈迦牟尼 が 悟ったのですか ?


そこを言っても何の意味もありません。
ゴ-タマ・シッダッタは、悟って一切智を得たと自分で宣言し、多くの人がそう思ったからこそ
釈迦牟尼という尊称で呼ばれているのです。
悟らないまま死んだのでは、名前も残らず尊称で呼ばれることはないですね。

あなたは、ゴ-タマ・シッダッタが悟る前も釈迦牟尼だと言いました。
悟らずに死んでも釈迦牟尼と呼ばれたと思いますか?


 

  [No.17657] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/16(Thu) 05:12:09

ショ-シャンクさま こんばんは。

> 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。

ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。

わたしも、おっしゃるとおりにすごいお経だなと思うのですが、確かに、その反面、声聞乗などの比丘たちに、反発されそうな物言いをしているところが、少し気になります。言いたいことは分かるとしても、もう少し配慮してもよかったかなと思わないではありません。個人的な希望ですが。

> 声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
> 先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。

そうです。何か、どこかで読んだ経典の匂いがするような。。と思っていましたら、第15経で「わたし」とブッダが語り出しているのを読んで、これが独覚の悟りを示すのではないかと思いました。

> 法華経はかなり寛容ですが、他の大乗仏典では、声聞・縁覚の二乗はかなりボロクソに書かれています。
> 二乗は仏になれないというのが多く、法華経でやっと、「二乗でも仏になれる」とされました。

『スッタニパ-タ』の第四章「八偈品」は16の経典から成っていて、これら16経のどの一つの経典によっても、悟りにいくまでが説かれています。ですから、16経のどれか1つを行っていけば、悟れるということだと気づいて、16経は、それぞれ衆生のタイプ別に分けられた内容なのだと気づいたのです。

それの分類の仕方は、『『スッタニパ-タ』と大乗への道』の中で書いてあります。28-29頁に表にしてあります。そして、この表の分類の仕方は、『大智度論』の四悉檀説をそのまま使うことができるのです。
最初の第1経の欲経と、第14経、第15経、第16経は、世界悉檀に相当すると思います。
>
> 声聞の本来の意味は、釈尊の肉声を直接聞いた弟子のことですし、
> 縁覚は師を持たずに悟った人のことです。
> ですから、本来の意味からすると、釈尊も縁覚です。

そうだと思います。第15経に相当しているのではないかと思っています。
>
> その二乗をなぜあそこまで貶さなければいけなかったのか、
> そこに大乗仏教誕生の秘密があるのかもしれません。

いや、別に貶めたりしているわけではなくて、二乗も「ブッダになれる」というこちらの方を言いたいのではないかと思います。論点はむしろそこで、16の経典は皆同じ悟り、「ブッダになる」という悟りのあり方を示しているのに、二乗の人々が、ブッダになるというところまで求めていないようだ、というので「滅」を求めるのではなく、さらに仏道を歩むべし、というメッセ-ジではないかと思っています。
しかし、書き方も悪くて(?)どうも真意を理解してもらっていないのではないかと思います。

>
> さて、先生の言われる、14経、15経、16経ですが、
> 14経が菩薩、15経が縁覚、16経が声聞、に対応しているということで
> もう一度読んでみましたが、よく分かりませんでした。
>
> この中で15経は、本当に釈尊の肉声を聞いているような気持ちになる経典ですね。
> 多分、すべての仏典の中でも最も古いのは、この15経ではないでしょうか。
> この15経には、釈尊の真意を解き明かす鍵がありそうです。

この第15経は、最後の奥付に経典名が取り上げられて並べられているのですが、そこで、「最高の(vara)」という形容詞がつけ加えられています。やはり、ブッダみずからの体験が説かれるからなのでしょう。この経典は「義足経」では最後に置かれて、シメの経典になっています。
>
> 14経は、法華経で言えば、安楽行品の基になったような気がします。
> 偶然、第14も同じですが。
> 逆に言えば、影響を受けすぎて、あまり大乗仏典のようでないところが安楽行品にはあるような気がします。

あ、ほんとに、そうですね。
第14経は、菩薩タイプに向けられたのではないかという風に思っていますが、それは、一般の人たちとの交流を戒める内容が多いので、たとえ、遊行の比丘であっても、菩薩のように人と対話することを厭わない、そういう人々ではないかと思うのです。
これが菩薩の行を指すというのは、最後934の経によってです。

934. (第十四経第20偈)
かれは、実に打ち勝った者であって、(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです。それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい」と、尊師は語りました。


「(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです」というところによってです。つまり、他から伝え聞いたのではなくて直証したということは、みずからの智慧で学んだということで、これはまさしく、習って教わる声聞乗などではなくて、菩薩乗を指すのではないかと思ったからなのです。

また、933にある「ゴ-タマの教え」というところが、ゴ-タマの生き方、ゴ-タマの実践修行のやり方をまねて行きなさい、とも受けとめられます。
この「ゴ-タマの教え」に強く反応しているのが、龍樹です。『中論』最後に、ゴ-タマに帰命するということばを残しています。

この「ゴ-タマの教え」ですが、具体的には、自分の智慧で直証していきなさい、ということでもあり、何でもいいから自分で思ったようにやって体験したものに縁って学んで行きなさい、という、まさしく般若波羅蜜につながって行くような内容が読みとれるので、菩薩でいいのじゃないかと思います。
>
> 16経に関しては、題も声聞の代表のサ-リプッタですから、声聞の道と言うことでしょうか。

そうです。清浄行を勧める内容にもなっています(973)ので、声聞タイプだと思います。全体の内容も、声聞乗の人向けという感じがします。
>
>
> ただ、法華経などでは、声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行というように書かれますが
> 14,15,16にはその記述がなく、やはり、先生の言われる「対応している」ということがわかりませんでした。
> よろしければ教えてください。

菩薩の六波羅蜜は、今お話ししたところですが、他の声聞や縁学については、具体的な四聖諦や十二因縁は説かれてはいませんね。ですが、修行の注意事項を見ていくと、その中にやはり特徴が見られると思います。
第14経と比べますと、第15,第16は、一般の人との接触をあまり意識していません。
第16経などは、頭陀行をやっている人や遊行の比丘等にぴったりの内容です。974など、世間の5つの塵に気をつけるように、と説かれ、出家を意識させることばとなっています。975では、「正しい法」と出てきて、八正道の「正しい道」を意識させるかのようです。このことばが出て来ると、中道、八正道から逆に考えると、四聖諦が当然浮かびあがります。

第15番目は、みずからの体験を語る若いゴ-タマのように、一人で悟りを得て行くさまが説かれており、十二支縁起は説かれませんが、946には、聖者の姿がバラモンとして説かれ、世俗の表現を脱していません。陸地に立つバラモンは、寂滅した者と言われることで、その陸地が聖者のいる彼岸であることが分かります。947では、ヴェ-ダの達人などとも説かれています。つまり、世俗を離れていないけれど、孤高である聖者の姿として描かれるので、独覚と言われる人でいいのではないかと思います。

龍樹の分類によれば、これは、世界悉檀の語りになるので、一般的にどんな悟りのタイプかが見える形で描かれるのだと思います。
>

> 法華経の中に、こういう言葉があります。
> 「外道の論議を説き、自ら経典を作って世間の人を誑惑す」と罵詈し
> 「塔寺を遠離」せん、と。
>
> このように迫害を受けている様子が書かれています。
>
> それまでの仏教徒からこのように罵詈雑言を投げつけられても新しい経典を作っていったのは
> 並大抵のモチベ-ションではありません。
>
> 私には、どうしても、その熱意の源は、
> 部派仏教が仏陀の真意を伝えていないという、強烈な不満、憤りがあって
> 「こんなものは仏陀の真意ではない。仏陀の説いた大法ではない。」と叫んだからだとしか思えないのです。

ああ、なるほど、そうなんですね。
な~る。。わたしは、そこまでは強く思わないのですが、お気持ちは分かります。

なぜ、そこまで強く思わないかと言うと、おそらく、こうなることは折り込み済みだったのではないかという風に思うからなのです。

最初、「序品」で、ブッダ法華経を話出そうとすると、五千人の比丘や在家信者たちが、立ち上がってブッダに礼をして出て行ってしまうシ-ンがありますね。

あれなども、すでにそうなることが見えているような書き方にも見えます。
実際体験もしたかもしれませんが、そうでなくても、日頃の行いからも考えて、こうなるだろうという予測のもとに書かれたようでもあります。わたしには、そんな風にも見えます。

ですから、迫害されるのも、予測はしているような感じもして来るのです。それでも、法華経を残すのですから、やはり二乗の人たちに一緒にブッダになりましょう、と言いたかったのではないでしょうか。

二乗の人にも等しく無上正等覚者の道は説かれているのだ、という思いから著されたのが法華経のような気がします。

つまり、迫害を受けることを覚悟で、また、二乗を貶めていると批判を受けることを覚悟して行った二乗の人々のための菩薩行なのではないかと思ったりするのです。

二乗の人には、「もっと長い目で、今も働くブッダの行いを見て、その道を進む事を考えて」、というメッセ-ジなんじゃないかという気がしてなりません。
「長い目」と書きましたが、「長~~~~~~~~い目」というのが、正しいかもしれません。時間が半端じゃなく長いです。

ほっといたら、自然に密教の「即身成仏」の思想を生み出したくなるくらい「長い長い長い時間」の物語です。

まあ、無上正等覚者をめざす(大乗の)経典ですよね。


 

  [No.17660] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 15:41:23

石飛先生、ありがとうございます。


> > 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> > そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。

ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。
> わたしも、おっしゃるとおりにすごいお経だなと思うのですが、確かに、その反面、声聞乗などの比丘たちに、
>反発されそうな物言いをしているところが、少し気になります。
>言いたいことは分かるとしても、もう少し配慮してもよかったかなと思わないではありません。個人的な希望ですが。


法華経というのは不思議なお経です。
そして、その真価を知るのにこれほど難しいお経はないように思えます。

多くの人がなぜ法華経を尊重しているかというと、そう言い伝えられているからです。
中でも、天台が言ったから、日蓮が言ったから、道元が言ったから、という理由が大多数を占めているでしょう。

しかし、偉人バイアスや宗祖バイアスを外してみたときに、法華経はどこがそんなに凄いお経なのか、全く分からないはずです。

私も、法華経が経王と呼ばれている理由がずっと分かりませんでした。
最高の真理が説かれているお経と言うことで、誰しもワクワクしながら読むでしょう。
序品では、仏陀の眉間から光が放たれます。文殊菩薩はこれは大法が説かれる瑞だと言います。
そして、方便品では、ついにその大法が説かれます。
『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』

えっ?これだけ?
ってなりますよね。
その仏知見が何かなども全く説かれませんし、ただ一大事因縁のために世に出現したというだけです。

私は哲学的には華厳経のほうがよほど上だとずっと思っていました。

もちろん、宗祖バイアスを持ってすれば、どこかの宗祖が『法華経が最高』と言っているから
何が何でも有り難がろうという人がすこぶる多いのは知っています。
そしてそういう人は不幸だなと思います。
ただの『法華経最高サングラス』をかけて見ているだけですから。
誰かの考えを投影して見ているだけです。

白隠も、若いときに、法華経を読んで、『こんな例え話しか書いてなくて肝心の真理がちっともない』と思って捨てたそうです。
しかし、40過ぎて悟ってから何気に法華経を読んでみると、その意味がありありと分かって号泣したそうです。

これが本当の法華経の読み方だと思います。

先生も、二乗に対する物言いが気になるということで、それはバイアスがかかっていない読み方だと思います。



> > 声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
> > 先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。


> そうです。何か、どこかで読んだ経典の匂いがするような。。と思っていましたら、
>第15経で「わたし」とブッダが語り出しているのを読んで、これが独覚の悟りを示すのではないかと思いました。


この文章に続く、先生の詳しいご説明で、先生が、スッタニパ-タの14,15,16経が三乗思想に対応していると思われている理由が分かりました。
ご説明、ありがとうございました。
私としては三乗に分ける考え方が好きでないので、できれば三乗は方便で、先生の結論たる、二乗にエ-ルを送るという意味での設定に過ぎず
本心は一仏乗だというのがすっきりします。

最近、原始大乗と言う言葉を知りました。
初期大乗の前、菩薩乗という概念を生み出した勢力があったようです。経典はほとんど失われているようですが。
初期大乗である法華経は、そのような菩薩乗と二乗を包み込んで引き上げる一仏乗というものを説いたのかもしれません。

ただ、私としては、三乗思想はなかった方がよかったと思っています。
最初から一仏乗だけでよかったのではないかと思います。
仏陀の真意は一仏乗にあったと思います。
仏陀は四念処を一乗道と言っていますし、在家であってもそれで解脱できると考えていたからです。

三乗思想ができあがったために
声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行となっていますから
四諦十二縁起という仏陀の最も重要な筏が、二乗の修行法と言うことになってしまい
誰もかえりみる者がいなくなりました。

大乗仏教仏陀の真意の復興運動だと思っていますが、同時に、あまりにもそれまでの仏教そのものである部派仏教を
貶めてしまったので、仏陀の筏の四諦十二縁起も捨て去られてしまうことになりました。




> 最初、「序品」で、ブッダ法華経を話出そうとすると、五千人の比丘や在家信者たちが、立ち上がってブッダに礼をして出て行ってしまうシ-ンがありますね。
> あれなども、すでにそうなることが見えているような書き方にも見えます。
> 実際体験もしたかもしれませんが、そうでなくても、日頃の行いからも考えて、こうなるだろうという予測のもとに書かれたようでもあります。わたしには、そんな風にも見えます。
> ですから、迫害されるのも、予測はしているような感じもして来るのです。それでも、法華経を残すのですから、やはり二乗の人たちに一緒にブッダになりましょう、と言いたかったのではないでしょうか。
> 二乗の人にも等しく無上正等覚者の道は説かれているのだ、という思いから著されたのが法華経のような気がします。


法華経の前にも、大乗仏典はできていたと思います。
部派のサンガの中で、ひそかに、大乗仏典を創作していたグル-プはいたと思います。

そのような人たちが部派の人たちからは
『お前たちの言ってることは外道の論議だ』『勝手に経典を作って人を迷わしている』と糾弾されて
サンガを追い出されていったと思います。
その様子が法華経に書かれているのではないでしょうか。

グレゴリ-・ショペンの、ずいぶん後になるまで、大乗教団は存在せず、大乗仏典だけが作られていった、と言う説は
かなり史実に近い気がしています。

ところで、方便品の5000人の退出が気になります。
例えば、500羅漢という言葉は、第一結集の500人の直弟子から来ているのかもしれませんし
方便品の5000人にも何か史実が隠されていそうです。
提婆達多に従った人数なのかもと思ったこともありますが、いまだに分かりません。


 

  [No.17669] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/17(Fri) 08:41:48

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 法華経というのは不思議なお経です。
> そして、その真価を知るのにこれほど難しいお経はないように思えます。

ほんとに!


> 多くの人がなぜ法華経を尊重しているかというと、そう言い伝えられているからです。
> 中でも、天台が言ったから、日蓮が言ったから、道元が言ったから、という理由が大多数を占めているでしょう。

そうですか。。。やはり、そうでしょうね。
でも、言い伝えられて、それを素直に信じる心も尊い気がします。

わたしも、実は、むか~しですが、法華経を読んだことがない頃、『大智度論』で法華経が取り上げられているのを見て、「へぇ、この経典、すごいんだ」と思ったのです。
龍樹が取り上げているからすごいんだな、というのは、ちょっと情けないですが、そういう風に思うところから入っていく経典もある、ということかなと思います。
>
> しかし、偉人バイアスや宗祖バイアスを外してみたときに、法華経はどこがそんなに凄いお経なのか、全く分からないはずです。
>
> 私も、法華経が経王と呼ばれている理由がずっと分かりませんでした。
> 最高の真理が説かれているお経と言うことで、誰しもワクワクしながら読むでしょう。
> 序品では、仏陀の眉間から光が放たれます。文殊菩薩はこれは大法が説かれる瑞だと言います。
> そして、方便品では、ついにその大法が説かれます。
> 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
>
> えっ?これだけ?
> ってなりますよね。

あ、そうですか(笑)
わたしは、最初で、もう頭がくらくらしました。
なんなんだ、この始まり方は! なるほど、こういう突拍子もないところから始める作戦か、って。

ショ-シャンクさまと、ある意味、似ている反応なのかもしれません。

序品では、時間の流れというか、時の順序がぐちゃぐちゃに壊されています。
文殊菩薩が、日月灯明如来というブッダが出現したことがあった、という話を始め、それから二万人日月灯明如来が出て、その最後の如来に八人息子がいて、その最後の子が、後に燃灯仏になった、というのですから、どれだけ長い時間かを、説明するかのようです。

その日月灯明如来は「妙法蓮華」という経典を説いて、その後入滅した。

今、それと同じ状況が起こっているから、世尊は、妙法蓮華経を説くのだろう、と述べているのです
が、

そもそも、わたしの読んでいるものは、その「妙法蓮華経」ですよね。

経典の中で、その経典自身が出てくる、という、ふつうならありえない展開が、何の不思議もなく説かれる、その不思議さに圧倒されました。

> その仏知見が何かなども全く説かれませんし、ただ一大事因縁のために世に出現したというだけです。

ああ、そうです。結局似たような印象につながって行くのですが、最初から、この経典は空を示しているのです。そこを、何の心の用意もない読者に向かってぶつけてくる、という、読者に優しくない説き方をしているのです。

読者をふるいにかけているとしか思えません。この展開について来れるものだけがついてこい、と言わんばかりですよね。
>
> 私は哲学的には華厳経のほうがよほど上だとずっと思っていました。

そうですよね。わたしは、なかなか華厳経が読めません。ちゃんと読んだことがまだ無いです。

>
> もちろん、宗祖バイアスを持ってすれば、どこかの宗祖が『法華経が最高』と言っているから
> 何が何でも有り難がろうという人がすこぶる多いのは知っています。
> そしてそういう人は不幸だなと思います。
> ただの『法華経最高サングラス』をかけて見ているだけですから。
> 誰かの考えを投影して見ているだけです。

まあ、そうなんですけど、最近では、わたしは、それでもえらいかな、っていう気もしてきています。わけわかんないけど、えらい先生が言うからえらいんだろう、って思えるのは、やっぱりある意味すごいのかなと(笑)。
>
> 白隠も、若いときに、法華経を読んで、『こんな例え話しか書いてなくて肝心の真理がちっともない』と思って捨てたそうです。
> しかし、40過ぎて悟ってから何気に法華経を読んでみると、その意味がありありと分かって号泣したそうです。
>
> これが本当の法華経の読み方だと思います。

いやぁ、そうですよね。けっこう、人間の先入観はこわいです。気づかずもっているというのに、気づかせてくれる経典ですよね。でも、40才で真意に気づくとは、さすがですね。
>
> 先生も、二乗に対する物言いが気になるということで、それはバイアスがかかっていない読み方だと思います。

いや、どうだか分かりません。仏教をやって、と言いますか、インド哲学をやってこわいと思ってきたのは、知らずに身についてる先入観なので、先入観を入れないために、ほとんど概説書というのを読んでこなかったのです。

おかげさま(?)で、えらい先生がどう言っているか、という学問的常識が、今となっては完全に欠落しています。
読んできたのは、できる限り原典に近いものです。

ですから、「常識が無い」とよく言われていました(笑)
>
>
> この文章に続く、先生の詳しいご説明で、先生が、スッタニパ-タの14,15,16経が三乗思想に対応していると思われている理由が分かりました。
> ご説明、ありがとうございました。
> 私としては三乗に分ける考え方が好きでないので、できれば三乗は方便で、先生の結論たる、二乗にエ-ルを送るという意味での設定に過ぎず
> 本心は一仏乗だというのがすっきりします。

おっしゃるとおり、『スッタニパ-タ』の最後に3つの分類にしぼってきたのは、出家の教団や世間の人々なので、ブッダの真意ではないと思います。ブッダは、16タイプの人々に、等しく一仏乗を説いて、一切智者であることを示しました。それが、「八偈品」です。

ところが、仏法に意識の高い人々が、それぞれ煩悩の抜けきれていない側面を見せてきて、三乗に分かれてしまっていた、というのが、現状だろうと思います。
>
> 最近、原始大乗と言う言葉を知りました。
> 初期大乗の前、菩薩乗という概念を生み出した勢力があったようです。経典はほとんど失われているようですが。
> 初期大乗である法華経は、そのような菩薩乗と二乗を包み込んで引き上げる一仏乗というものを説いたのかもしれません。

いや、原始大乗(大乗と言ったかどうかは分かりませんが)の、一仏乗という考え方は当然あったと思います。最初に、ブッダの説いていることです。

「無上正等覚者」 これが、めざす目標として掲げられています。
部派でも知ってるはずですが、やがて「正等覚者」は言っても、「無上」をあまりあげなくなりますね。「無上」をしっかりと見据えたのが、大乗で、『楞伽経』のような経典が顕れてきて、そこら辺をブチブチ言い始めます。


> ただ、私としては、三乗思想はなかった方がよかったと思っています。
> 最初から一仏乗だけでよかったのではないかと思います。

ショ-シャンクさまが、ブッダの当時生きていたら、そのようになったのではないでしょうか。現代に生まれたのが、もったいないです。

> 仏陀の真意は一仏乗にあったと思います。
> 仏陀は四念処を一乗道と言っていますし、在家であってもそれで解脱できると考えていたからです。

そうそう、おっしゃるとおりだと思います。
一端ここで切ろうと思います。続きは、また、アップします。


 

  [No.17673] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 14:48:22

石飛先生、こんにちは。

> > 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
> > えっ?これだけ?
> > ってなりますよね。


このことの重大さに気づいたのは、かなり後になってから、原始仏典を調べはじめてからです。
大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。

しかし、歴史上の仏陀は、人間がこの世に生まれるのは渇愛または無明が原因としました。
ですから、原始仏典の決まり文句は
『生存はすでに尽きた。再び生を受けることはないだろう。』です。

法華経が作られた時点において、『一大事因縁のために世に出現した』という宣言はまさしく驚天動地のことです。

映画の始まりのテ-マソングが異様に長い昔の映画のように、さんざん盛り上げたあとに
『仏は衆生に教えるために生まれた』と当たり前のことだけ言ったと思って『?』でしたが、
原始仏典の流れが分かるようになると、これは時代を画する宣言だったと思います。




ひとつ、先生のお考えをお聞きしたいのですが
譬喩品に、三車の喩えがあります。
玩好の具の羊車、鹿車、牛車をもって、それぞれ声聞、縁覚、菩薩に与えると言って火宅から逃がします。
しかし、火宅から出たあとは、その三車は『下劣の小車』だから与えず、大白牛車を与えます。

ここで疑問なのは、譬喩品では、三乗を、声聞乗、辟支仏乗、大乗(または仏乗)と書かれていることです。

菩薩乗を大乗、仏乗としてしまっては、三車が下劣の小車という記述と矛盾します。

つまり、牛車と大白牛車との違いがわからなくなります。

先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?


 

  [No.17677] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/18(Sat) 01:19:10

ショ-シャンクさま こんばんは。


> > > 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
> > > えっ?これだけ?
> > > ってなりますよね。
>
>
> このことの重大さに気づいたのは、かなり後になってから、原始仏典を調べはじめてからです。
> 大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
> 仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。

ああ、なるほど、それなら確かに、おっしゃるとおりかもしれません。
>
> しかし、歴史上の仏陀は、人間がこの世に生まれるのは渇愛または無明が原因としました。
> ですから、原始仏典の決まり文句は
> 『生存はすでに尽きた。再び生を受けることはないだろう。』です。

またまた、なるほど、阿羅漢になったということですよね。
>
> 法華経が作られた時点において、『一大事因縁のために世に出現した』という宣言はまさしく驚天動地のことです。

そうか、そうなら、確かに驚天動地かもしれません。
>
> 映画の始まりのテ-マソングが異様に長い昔の映画のように、さんざん盛り上げたあとに
> 『仏は衆生に教えるために生まれた』と当たり前のことだけ言ったと思って『?』でしたが、
> 原始仏典の流れが分かるようになると、これは時代を画する宣言だったと思います。


わたしは、『スッタニパ-タ』から入って『法華経』を読みましたので、「やっぱり!そうか。これで良いんだ」でした。

法華経』は、縁起から空へと、論点を切り替えて語る経典だと思いました。

>
>
>
> ひとつ、先生のお考えをお聞きしたいのですが
> 譬喩品に、三車の喩えがあります。
> 玩好の具の羊車、鹿車、牛車をもって、それぞれ声聞、縁覚、菩薩に与えると言って火宅から逃がします。
> しかし、火宅から出たあとは、その三車は『下劣の小車』だから与えず、大白牛車を与えます。
>
> ここで疑問なのは、譬喩品では、三乗を、声聞乗、辟支仏乗、大乗(または仏乗)と書かれていることです。
>
> 菩薩乗を大乗、仏乗としてしまっては、三車が下劣の小車という記述と矛盾します。
>
> つまり、牛車と大白牛車との違いがわからなくなります。

なるほど、おっしゃるところが何となくつかめました。

> 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?

「無上」ということを知るかどうかの違いだと思います。

一切諸如來以無量方便 一切の諸々の如来無量の方便をもって
度脱諸衆生入佛無漏智 諸々の衆生を度脱して、仏の無漏智に入れたまわん
若有聞法者無一不成佛 もし法を聞くものあらん者は一人として成仏せずということ
諸佛本誓願我所行佛道 なけん。諸仏の本誓願は、わが諸行の仏道
普欲令衆生亦同得此道 普く衆生をして、また同じくこの道を得しめんと欲す。(「方便品」)

如来の無量の方便によって衆生を悟らせ、仏の無漏智に入れよう。
…… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。

この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。

阿羅漢になっても、ブッダとは異なります。ブッダ智慧をもって無量の方便が説けるわけではありません。
阿羅漢になって、そこで良しとするのは、いまだに釈迦牟尼の元に居たいということかもしれないです。

菩薩乗も、ブッダになることをめざす道ですが、牛の車ではあっても、大白牛車とまではいかないので、劣った乗り物になっているのかもしれません。
つまり、阿羅漢までしかいかない声聞乗と同じように、菩薩乗にいることだけで満足して、仏乗へとなかなか進んでいかないようですと、声聞乗や辟支仏乗と同じということなのだと受けとめています。


仏に成るとは、佛慧を用いて、無量の方便を使えるということではないかと思います。

この『法華経』は、佛慧を用いて衆生仏道へと向かわせる力をもっているのかどうか、それが、今まで試され続けてきていると思います。


 

  [No.17681] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/18(Sat) 09:50:52

石飛先生、おはようございます。



> > 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?


> 「無上」ということを知るかどうかの違いだと思います。
> 一切諸如來以無量方便 一切の諸々の如来無量の方便をもって
> 度脱諸衆生入佛無漏智 諸々の衆生を度脱して、仏の無漏智に入れたまわん
> 若有聞法者無一不成佛 もし法を聞くものあらん者は一人として成仏せずということ
> 諸佛本誓願我所行佛道 なけん。諸仏の本誓願は、わが諸行の仏道
> 普欲令衆生亦同得此道 普く衆生をして、また同じくこの道を得しめんと欲す。(「方便品」)
> 如来の無量の方便によって衆生を悟らせ、仏の無漏智に入れよう。
> …… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。
> この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。
> 阿羅漢になっても、ブッダとは異なります。ブッダ智慧をもって無量の方便が説けるわけではありません。
> 阿羅漢になって、そこで良しとするのは、いまだに釈迦牟尼の元に居たいということかもしれないです。
> 菩薩乗も、ブッダになることをめざす道ですが、牛の車ではあっても、大白牛車とまではいかないので、劣った乗り物になっているのかもしれません。
> つまり、阿羅漢までしかいかない声聞乗と同じように、菩薩乗にいることだけで満足して、仏乗へとなかなか進んでいかないようですと、声聞乗や辟支仏乗と同じということなのだと受けとめています。
> 仏に成るとは、佛慧を用いて、無量の方便を使えるということではないかと思います。
> この『法華経』は、佛慧を用いて衆生仏道へと向かわせる力をもっているのかどうか、それが、今まで試され続けてきていると思います。


ご回答ありがとうございます。

無上であるということ、他の仏たちを承認する力を持つこと、ですか。なるほど。

三乗思想は、私は好きではない考えです。
部派仏教(いうか、それまでの仏教そのもの)の使徒を証文・縁覚という二乗と決めつけ
自分たちは大乗の道を歩む菩薩だと優位に置く考えは好きにはなれませんし
何より、この思想のせいで、仏陀の筏たる四諦十二縁起が埋もれてしまったのが残念でなりません。

仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。
声聞、縁覚(辟支仏)もジャイナ教の用語なので、その使用方法もまちまちで
無理やり仏教に当てはめた感があります。

仏陀の真意は一仏乗、一乗法だと考えます。
究極には、『生じる性質のものは、すべて滅する性質を持つ』の一言だけであり
それから四念処も三法印も派生したと考えています。

法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。


 

  [No.17685] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/19(Sun) 05:36:50

ショ-シャンクさま おはようございます。

>
> > > 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?

> > …… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。
> > この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。
>
>
> ご回答ありがとうございます。
>
> 無上であるということ、他の仏たちを承認する力を持つこと、ですか。なるほど。

無上であることは、「無上士(アヌッタラ)」という如来の十号の中の一つにも数えられますが、漢字で音写しますと、阿耨多羅 です。よく阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさむやくさんぼだい、無上正等覚)と言われる、これが、めざす諸仏の目標だと思います。

つまり、これを衆生に獲得させることをめざしているのだと思います。

ショ-シャンクさまにはご存知のことをダラダラ続けているように見えるかもしれませんが、もう一つ、大事なことがあります。

この無上正等覚というのは、具体的にもう一つの特徴があります。それは、一切の法を捨てていることです。このようにも説明されます。

「一切の法を捨てる」のですから、仏法も捨てているのです。
四聖諦、十二支縁起、八正道などなど、仏法の重要な教えも完全に捨てています。捨てるからこそ、使いたいときに使えるのでもありますが、他の法と分け隔てしないということにもなります。外道の法と仏法とを分け隔てせず、区別できることにもなり、法を捨てるということは、一切智の重要な要件だと言うことが分かります。


> 三乗思想は、私は好きではない考えです。
> 部派仏教(いうか、それまでの仏教そのもの)の使徒を証文・縁覚という二乗と決めつけ
> 自分たちは大乗の道を歩む菩薩だと優位に置く考えは好きにはなれませんし
> 何より、この思想のせいで、仏陀の筏たる四諦十二縁起が埋もれてしまったのが残念でなりません。

お気持ちは分からなくはありませんが、三乗は、また、ブッダの説いた方便でもありますから、この法華経の展開は致し方なかったような気もします。

ブッダの一仏乗の心を、受けとめきれなかったのが、声聞、辟支佛という分類に入る人々ということになりましょう。

わたしが『法華経』で感心するのは、このような四聖諦・十二支縁起・空・六波羅蜜などの教理を、非常に軽くさらっと扱っていることです。

法華経』のメインのお話しの中にはほとんど出てこないで、仏法を知らないのかな、と思った途端、用語でちらっと適材適所に教えをちりばめるという心憎いテクニックを使っているところ、さすがだなと思っています。

「法を捨てる、いわんや非法においておや」という無上の教えを、確実にものにしていると思っています。

>
> 仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。
> 声聞、縁覚(辟支仏)もジャイナ教の用語なので、その使用方法もまちまちで
> 無理やり仏教に当てはめた感があります。
>
> 仏陀の真意は一仏乗、一乗法だと考えます。
> 究極には、『生じる性質のものは、すべて滅する性質を持つ』の一言だけであり
> それから四念処も三法印も派生したと考えています。


> 法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。

その点は、おっしゃるとおりかと思いますが、そのためには、三乗は方便だと説かなければ、言いたいことは伝わらなかったように思います。

この三乗と分けた、声聞・辟支佛・菩薩の分類は、現実に即したところもあるとは思いますが、むしろ、それより、この三乗もブッダの教えにあったものだと考えるところに『法華経』がいかに教えに忠実であるかを示すことになるかと思います。

三乗の根拠が、『スッタニパ-タ』の第四章の最後の三つの経典であることをお話ししました。ですから、ブッダの教えを受けた者たちは、そのとおりにしたがうつもり修行しながら、実はどんどんはずれていっているのを憂えて、『法華経』が作られたのではないかと思います。


法華経』の中の展開も、きっと常人には思いつかないアイディアや教えの真意を反映していると思いますが、わたしも、まだ詳しく検討していないので分かりません。

これからしばらく『法華経』に浸ってみようかと思っています。


 

  [No.17690] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/19(Sun) 21:11:17

> > > 仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。


> ジャイナ教 は 「 仏教 」 より前に 用語を 確立していましたか ?


まず『ブッダ』という呼称について。
ジャイナ教の始祖、マハ-ヴィ-ラがブッダと呼ばれたことは、
マハ-ヴィ-ラの伝記のカルパス-トラにも出てくるようです。

牟尼=muni は、ジャイナ教では、修行者一般を指す言葉だったようです。

『仏教の開祖ゴ-タマの死後、やがて仏教徒がゴ-タマを神格化し、ゴ-タマ個人にブッダの尊称を与えるまでの段階において
ジャイナ教徒も、修行を完成し解脱した人にブッダの尊称を用いていたのである。
したがって、これらジャイナ古層の聖典は仏教においてブッダがゴ-タマの尊称として確立する以前のものといえよう。』
(『ジャイナ古層聖典におけるブッダの概念』より)

声聞も独覚もジャイナ教で使われていた用語です。

声聞、独覚に関しては、ジャイナ教と仏教のどちらが先かはわかりませんが、共通していることは確かです。


 

  [No.17695] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 03:13:09

> ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です


『ニルヴァ-ナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。』(ダンマパダ)

目覚めた人は過去にも、現在にも、未来にも無数にいるでしょう。
ブッダバラモン教にもジャイナ教にも数多くいる。
それが、仏陀の真意だと私は思っている。

歴史上の仏陀は、数多くの人を悟りに導いた人として、世界最大の教師のひとりだと思っていますが
しかし、覚者はバラモン教にもジャイナ教にもたくさんいます。

釈尊の死後、仏教なるものが確立していく過程で、バラモン教ジャイナ教の排斥が起こってきました。
仏教の優越性、独自性ばかりが強調され、その根底にある共通性はどんどん切り捨てられていきました。

それが、仏陀の真意がねじ曲げられていった大きな原因のひとつだと思っています。


 

  [No.17698] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 06:47:57

> ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です

この言葉に対していっているのです。

マハ-ヴィラも数多くある尊称の一つです。
しかし、現在では、ジャイナ教の始祖を指すものとなっています。

大師といえば弘法大師を思う人は多いですが
大師号を贈られた人は数多くいます。


ブッダ釈尊を指す場合と、『目覚めた人』を指す場合とがあります。

ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です』と断言することに何の意味があるのですか?



>あなたは マハ-ヴィラ の真意 を 仏陀の真意 とする


馬鹿馬鹿しい。
私が言う『仏陀の真意』とは『歴史上の仏陀の真意』であることは言ってきました。
ゴ-タマ・シッダッタの真意のことです。
ゴ-タマ・シッダッタが、『縁起』というとき、本当はどう意味で言ったのか?
『空』とは本当はどういう意味で言ったのか?
ということを探求しているのです。


『歴史上の仏陀など存在しません』とか
仏陀の真意など存在しません』とか、
そういうことばかり言って、自分は悟ってるように見せかける輩はごまんといます。
野狐禅と言われるものです。

自分が悟っていると思い込んで、上から目線で否定することばかりしていては
この掲示板から人が離れていきますし、何よりあなたの精神のためにはよくないですね。

上から目線で否定することに快感を覚えているようですが
それは間違った快感です。


 

  [No.17702] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 07:32:44

> > 上から目線で否定することに快感を覚えているようですが
> > それは間違った快感です。


> あなたは誰を 否定していますか ?
> “ 下から 目線 ” で 誰の 何を 否定していますか
> 快感 を 覚えているかどうかは 覚え方の問題です
> 誰が 間違っていて
> 間違っている と 言う人が、 間違っていない
> と 決めていますか ?



あなたは、この掲示板で、石飛先生から、そして数多くの投稿者から学ぼうとしていますか?
自分が悟っているということを印象付けたいだけではないですか?
石飛先生にも教えている自分・・・という自己像に陶酔していませんか?


 

  [No.17704] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 08:34:21

例えば、あなたが書いた文章の一つで

>管理人エム 様
>ここに 気を付けなければ なりません
>ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる


から始まる投稿があります。

石飛先生を名指しで教えようというわけです。

自分は法華経がわかると思い込んでいるから人に教えようとしているのですね?


 

  [No.17706] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 09:42:26

あなたのその投稿文を載せます。

※※※※※
管理人エム 様
ここに 気を付けなければ なりません
ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる
> 意の対象は法です。
法 を 対象として 意を起こすのではなく
「 色 」 に 対して 意を起こすのです
「 色 」 が あって( あるとするところに ) 初めて、 意 が 起きます
五蘊に 対して 意 が 起きます ( 「 色 」 “意” は 無常です → 実体がない )
実体がないモノに対して、 実体がない事が 起せます
「 真理 」 ( 「 法 」 ) に 対しては
受け入れることしかできません
( 受け入れるときの 受け方には、 顛倒の別名である 「 意 」 が 起き得ます )
「 法 」 とは ダルマ です
五蘊 」 は “ 狭い意味 ” では ダルマ ではありません (!)
ダルマ に 対していると思っていても
その 思う事 そのモノが ダルマ ですが
ダルマ は ダルマに 対することはありません
ダルマ = そのモノ( タタタ- ) だからです
※※※※※


まず、この投稿は、私の『意の対象は法です。』という投稿に対する返信としてされたものです。
それを題名に『 「 法華経 」 について 管理人エム 様 へ .. 』と付け
『管理人エム 様 ここに 気を付けなければ なりません ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる』と
書き始めています。
石飛先生へ何か伝えたいのであれば石飛先生の投稿に返信するべきですが、
他の人の投稿に返信している形なのに『管理人エム様』と呼びかけ、自分の投稿を見ろと言っているのです。
あるいは、返信しろと暗に強いているのです。


肝心の投稿の中身ですが、とんちんかんなことを言っています。
あれでは、石飛先生も返事のしようがないでしょう。

私が書いた『意の対象は法です。』と言う言葉を完全に間違って捉えています。

『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。

これはその前の投稿の
『『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。』
から続いているものですから
『意の対象は法です。』の意味を間違えようはないのですが
あなたはよく読んでいないために、あるいは先入観で覆われているために
法と言う言葉を見ると、条件反射的に『真理』と言う意味だと断定してしまう。


 

  [No.17709] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 11:29:00

私が書いた『意の対象は法です。』に対してのあなたの投稿は
法を真理としていましたね?

しかし、その文章の『法』は真理という意味ではない、と言っているのです。

それにつき、あなたの意見を言えばその話題も深まるでしょう。

しかし、あなたはいつもオウム返しのように『何故、あなたは正しいのですか?』というような問いかけで逃げてしまうのです。

意の対象の『法』といえば、真理の意味ではないですよね?
そこが間違っているといっているのです。
意の対象である法を真理と解釈するから、
意の対象は法ではなく色だ、などというところに逸れてしまいます。


 

  [No.17710] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/07/20(Mon) 13:25:41



> 意の対象の『法』といえば、真理の意味ではないですよね?

「 法 」 を 好きに解釈することを 「 識 」 と 言います

> そこが間違っているといっているのです。
> 意の対象である法を真理と解釈するから、
> 意の対象は法ではなく色だ、などというところに逸れてしまいます。

「 法 」 は 「 意 」 の 対象ではない ということ を 動かすと
なんでも 動きます
「 識 」 は 都合によって 動かされる

基本
動かないモノ 変わらぬモノ 「 恒常 」 に在るモノ を 「 真理 」 と 言います


「 法 」 = 「 真理 」 も 動きます
( あなたの 「 真理 」 は 動いています 、、、、 )

あなたを中心とすれば、 あなたの 識別に沿って ダルマ は 動きます
( 七転び八起き
チャッタ ! 七転八倒 )


[No.17661] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/07/16(Thu) 15:52:01

> > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )

> Su.1068
> 「 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」
> 1055
> 「 上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 」


このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。

★ [No.17662] Re: 法華経について思うこと 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/07/16(Thu) 16:14:17

> このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
> 『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。

そうしておきましょう
一切でも 問題ありませんが
一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?



> 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、

意の対象が 識別( 色を分ける ) です

[No.17663] Re: 法華経について思うこと :2020/07/16(Thu) 16:59:44

> 一切でも 問題ありませんが
> 一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?
> > 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です

意の対象は法です。


[No.17706] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない

私が書いた『意の対象は法です。』と言う言葉を完全に間違って捉えています。

『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。


*********

> 『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。

眼が 「 色 」 を 対象として 「 識 」 に 入れます

「 色 」 は 「 法 」 を 対象として 起きる 「 五蘊 」 で
「 識 」 蘊 と共に 働き、 「受」 「想」 「行」 と 一つとなります

「 意 」 は 識別 として 働きます


「 法 」 とは ダルマ です

ダルマ の 意味は 知っていますか ?

( 三宝 の 仏法僧 の 法 です )

解釈されて、識別されること は ダルマ では ありません

識別されること を 「 意 」 と 呼び、( 識でもあり、 認識対象・色 を 区別して知覚します)
「 識 」 は 「 意 」 に 結びついて 離れません

「 意 」 は 「 色 」 を 対象とします

「 意 」 は 「 色 」 の範囲 で 五蘊に 関します

目に映る( 感じる )モノ は
行ない( 「 行 」 ) であろうと 「 色 」 の 範囲で 働きます

「 法 」 は 誰もが 守り ダ-ラ-ニ するモノで
受け止める 対象 でしかありません
( 解釈 を 拒否します 解釈 は 「 識 」 です )


 

  [No.17711] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 13:45:16

> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です

> 「 意 」 は 識別 として 働きます

> 識別されること を 「 意 」 と 呼び、( 識でもあり、 認識対象・色 を 区別して知覚します)
> 「 識 」 は 「 意 」 に 結びついて 離れません

> 「 意 」 は 「 色 」 を 対象とします

> 「 意 」 は 「 色 」 の範囲 で 五蘊に 関します



対象という意味が全く分かってないようですね。

意と結びついて働く識別が、意の対象というのはおかしく感じませんか?


『眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切です』と私は書きました。
眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。
眼の対象は色。
耳の対象は声。
意の対象は法。です。

これは仏教の基本概念だと思いますが。


 

  [No.17713] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 21:04:32

> わたしの 識別に 対して、 あなたの 「 意 」 は 働きませんか ?
> あなたが対している ( わたしに起きている ) 識別 が
> あなたの 「 意 」 の 対象です
> 誤りがありますか ?


あなたの識別作用は、あなたの心の中のものです。
私の意の対象として感知することはありません。


> > 『眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切です』と私は書きました。


> 受想行識 が 一切 です
> ( 一切皆苦 )
> しかし
> 受想行識 が 及ばないところ が あります
> そこは 一切 には 入りませんか ?


受想行識が一切だとどの仏典に書かれていますか?


> > 眼耳鼻舌身意の対象 は 色声香味触法


> 色声香味触法 は 一切 ですか ?


> > 眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。


> ( 仏典に そのように = その通りに 記述されていますか ? )
> それは 解釈( 識別 ) ではありませんか ?


眼耳鼻舌身意とその対象色声香味触法が一切です。



> 無色 無受想行識
> 「 色 」 を 対象として 受想行識 が 起きます
> 無色 無受想行識 ということは あり得ますか ?


意味が全くわかりません。
般若心経の言葉を出してきて、『無色 無受想行識 ということは あり得ますか ?』という意味がわかりません。
『「 色 」 を 対象として 受想行識 が 起きます』と言う意味も全くわかりません。

五蘊を、色と受想行識に分けて、受想行識の対象が色、というようなわけのわからないことを言われると
本当にこの人は仏教の基本をわかっているのだろうか、と思い始める結果にしかなりません。


 

  [No.17716] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/21(Tue) 01:51:05

> わたしに書き込みが
> わたしの 識別作用 です


あなたの書き込みは、眼で見ています。
眼の対象である色です。


> あなたは それを 対象として 反応しています

色を対象として反応しているのです。


> 感知 できない( しない ) のは あなたのことですから、
> わたしには いかようにもできません


あなたは他人の識別作用を直接、意で感知しているのですか?
できるわけないですね。


> > 受想行識が一切だとどの仏典に書かれていますか?

> 書かれて説かれているから
> 自分で探しなさい


あなたは仏典にないときは『自分で探しなさい』と言いますね。
五蘊ならまだしも、五蘊から色を除いた受想行識が一切であるわけないですね。


> > > > 眼耳鼻舌身意の対象 は 色声香味触法
> > > 色声香味触法 は 一切 ですか ?
> > > > 眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。
> > > ( 仏典に そのように = その通りに 記述されていますか ? )
> > > それは 解釈( 識別 ) ではありませんか ?
> 仏典 に 説かれているのを あなたは 読んだのですか ?
> > 眼耳鼻舌身意とその対象色声香味触法が一切です。
> そう説かれている 仏典は ありますか ?

ありますよ。

> あれば あると言うだけ で 結構です
> ( わたしは それを 一つの解釈 だとする )


仏典に書かれていることをそのまま書いているのに、
あなたは必ず『それはあなたの解釈に過ぎない』と言いますね。
そして、仏典に根拠のない自分の解釈を正しいと思い込んでいるのです。
それは仏教をする人の姿勢ではありません。
誠実さや真摯さがどこにもない。
ただ、仏典の根拠もなく、自分の主張をがなり立てているに過ぎない。




> 仏教の基本 を 知りもしないで
> このサイトに 何年も 場を占め
> 管理人エム 様 とも 数多く 言葉を交わす 積み上げ が できると思いますか ?


それがあなたの『根拠』なのですね。


> いくら 基本があろうと
> それが 実際に 活かされなければ 何の意味もありません
> ( 尤も、 あなたには 基本は 欠けている )
> ( 実践 も 欠けている )
> 生半可な 思い込みで 大乗を 語るのみです


生半可な思い込みで大乗を語っているのはあなたです。
仏典の根拠もない思い込みです。
実践が欠けているのはあなたです。
あなたは法華経を読誦してないと言いました。
法華経は毎日読誦して初めてわかるものです。
特に法華経は読誦することを強調しています。
読誦経典なのです。
読誦しない人が頭の中だけで法華経を語っているに過ぎません。



> 「 経 」 は 菩薩の為に 説かれます
> あなたが 菩薩 であれば 経から 説かれていることを 知ることが適う
> 菩薩でなければ 顛倒 を 積むのみ


あなたは菩薩なのですか?


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P51 ②

  [No.17719] Re: どの通り か 分かりますか ? 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/21(Tue) 08:29:38

> 反応 は 「 色 」 ですか ?
> どのように間接 を 構成しますか ?
> 読経 は 「 声 」 に 起きますか ?
> 読誦 は 一切( 色声香味触法 ) の中で 行われますか ?
> 一切 の 姿 ですか ?
> 識別せずに 「 色 」 は 存在できますか ?
> 識別すると 「 色 」 は 姿を変えませんか ?
> ( わたしに、 わたしの 「 意 」 を介した 「 シキ 」 は 起きませんか ? )
> 変えない としても 変わった とすることを
> 誰が 権限をもって 示すことが出来ますか ?
> “ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?



あなたは、自分が言ったことの根拠を示せない時や言い返せなくなったときに
ごまかすための質問を連発します。

そうやって、言い返せない自分に向き合うことから逃げているのです。

わからないことはわからない、
知らないことは知らなかった、
仏典にはどう書いてあるか調べよう、という真摯な姿勢がありません。

必ず、自分の投稿で終わらないと気が済まないのも、マウンティングを取りたくて仕方ないからです。
相手の投稿で終わってしまうと負けた気になるのです。
ですから、前に延々と同じことをレスしていきましたが、どこまで行っても最後の投稿は自分で終えるべく
延々とレスしてきましたね。
これを、相手の投稿があっても終わることができるようになれば、少しは自我から解放されたということになるでしょうけど
いまのままだと、根強い自我、承認欲求の塊であるだけです。

口でいくら『上下は仏教にはありません』とか『上下は縁起です』と言っても、
そう言ってる本人が一番相手より上に立つマウンティングに固執してます。

この投稿へのレスは不要です。
この投稿にレスしないでおければ、あなたの自我の衝動を抑えられたということになると思います。


 

  [No.17670] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/17(Fri) 08:48:39



では、ショ-シャンクさま、続きです。


>
> 三乗思想ができあがったために
> 声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行となっていますから
> 四諦十二縁起という仏陀の最も重要な筏が、二乗の修行法と言うことになってしまい
> 誰もかえりみる者がいなくなりました。

もし、おっしゃるとおり本当にそうなら、愚かなことです。
四聖諦、十二因縁、六波羅蜜と、分けて概念思考に行ってしまう愚かな人々は、どんどんブッダの真意をはずして行くと思います。

ショ-シャンクさまは、独覚と縁覚は違うとおっしゃっていましたが、わたしも変だと思っていました。「独覚」は「一人で覚る」ということで、「縁覚」は「きっかけを得て覚る」ということと取れます。いずれにしても、ブッダにどこか(過去世かな)で教えを受けているのだ、ということでしょう。法華経では、そう考えていますよね。

確か、龍樹も『十住毘婆沙論』の中で、ブッダに教わっている、ということを述べていたように思います。道元も、そんな感じのことを述べていたように、わたしの中では記憶しています。

> 大乗仏教仏陀の真意の復興運動だと思っていますが、同時に、あまりにもそれまでの仏教そのものである部派仏教を
> 貶めてしまったので、仏陀の筏の四諦十二縁起も捨て去られてしまうことになりました。

もし、本当にそうなら、ここは、「もう何をやっているの!」というところですね。

そもそも「貶める」という行為自体、仏道からはずれていると知らねばなりません。
ほんとに貶めているなら、仏教外ですし、ほんとに貶められていると思うなら、これまた仏教外です。
これらの争いは、みずから「仏教という教えによりません」と宣言しているようなものです。

> 法華経の前にも、大乗仏典はできていたと思います。
> 部派のサンガの中で、ひそかに、大乗仏典を創作していたグル-プはいたと思います。
>
> そのような人たちが部派の人たちからは
> 『お前たちの言ってることは外道の論議だ』『勝手に経典を作って人を迷わしている』と糾弾されて
> サンガを追い出されていったと思います。
> その様子が法華経に書かれているのではないでしょうか。

そうかもしれません。ありうることだと思います。
>
> グレゴリ-・ショペンの、ずいぶん後になるまで、大乗教団は存在せず、大乗仏典だけが作られていった、と言う説は
> かなり史実に近い気がしています。

まあ、なぜ、そうなるかも分かります。
菩薩というのは、多くは、「ナ-ガ(龍)」と名称で呼ばれ、これは修行者のタイプを表してもいます。

森の奥深いところで一人でいるコブラのような存在、雄の象で一頭だけいる孤高の存在、これをナ-ガと呼んでいるので、そこからきたのでしょう。世間を行きながら、一人で歩み、汚れにふれないのですが、汚れを離れているわけでもなく、
汚れにふれないのではない、という中道の生き方をしている者たちの系統です。
コブラや象も、世間とふれていないのではないからです。

ブッダもナ-ガと呼ばれました。こういう人たちは、経典・論書を作るかもしれませんが、集団を作ることはありません。(たまに集団を率いることはあるのかもしれませんが、常に集団の中に成員としていることはないと思います。タイプがちがう、というところでしょうか)

> ところで、方便品の5000人の退出が気になります。
> 例えば、500羅漢という言葉は、第一結集の500人の直弟子から来ているのかもしれませんし
> 方便品の5000人にも何か史実が隠されていそうです。

そうですね。在家の信者さんたちもいたようですね。第一次結集の直弟子たちではないと思います。
舎利弗、大迦葉など偉大な弟子たちは、法華経の真意をつかんで、たいそう喜んでいるという風に説かれていますから、かれら偉大な弟子たちは、ナ-ガの如くに世間とつかず離れずにいて、大乗経典を編みだしていく役割も果たしていたかもしれない、と思います。

マハ-カッチャ-ナという論議第一と言われた比丘は、辺境に一人行って、人々を導き、その中で、ソ-ナという弟子を得ています。ソ-ナが、お釈迦さまに始めてお目にかかったとき、「何か学んだものを唱えてご覧」といわれて、この「八偈品」を唱えるのです。

カッチャ-ナがいかに優れた弟子であったかよく分かります。「八偈品」は、ブッダの直説で一切智を表すものと思いますから、かれのような人こそ、出家でありながら、孤高を行く原始大乗(ということばがあるなら)の人と見てもよいのかもしれません。

法華経』という経典は、偉大な弟子たちのその後の展開を授記という形でまとめる、たぐいまれな経典でもあるように思われて仕方ありません。

「(あの)偉大な弟子たちに授記を授ける」という内容を仏の口からじかに聞いている経典なのだ、と認識すると、『法華経』はとてつもないことが分かります。

ブッダとともに歩んだ仏弟子たちを、本当に大事に思っていたのだなとも受けとめられます。

そんなことを考えると、五千人って少ないですよね。他の数字が天文学的なのに比べると、5000なんて、無いも同然、ともいえるかな、と。だから、ちょっと分かっていない人たちだったのだろう、と、わたしは思っています。


> 提婆達多に従った人数なのかもと思ったこともありますが、いまだに分かりません。

もしかすると、そんな人もいたかもしれませんね。

法華経』みたいな経典が、この世にあるのが不思議ですし、また、それを仏教伝来の最初から、日本人が受けとって、わけが分かっても分からなくても、大事に唱えてきた、というのが、何とも言えません。
縁、ってこういう事をいうの、などと突然凡夫の発言になってしまいます。


 

  [No.17672] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 11:50:20

石飛先生、おはようございます。


ショ-シャンクさまは、独覚と縁覚は違うとおっしゃっていましたが、わたしも変だと思っていました。
>「独覚」は「一人で覚る」ということで、「縁覚」は「きっかけを得て覚る」ということと取れます。
>いずれにしても、ブッダにどこか(過去世かな)で教えを受けているのだ、ということでしょう。
>法華経では、そう考えていますよね。


法華経譬喩品にこうあります。

『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』

これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。

よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。

ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。


 

  [No.17676] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:名無しの佛教徒  投稿日:2020/07/17(Fri) 21:16:01

時々訪れて拝見だけさせていただいている者です。
ショ-シャンクさんの投稿が気になり、ひと言書かせていただこうと思いました。
> 法華経譬喩品にこうあります。
> > 『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』
> > これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。
> > よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
> ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。
> ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
> 縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。

私から見ると、ショ-シャンクさんは縁覚そのものと思えます。法華経に直に当たり、そこを縁として佛の法を知る。それは縁覚そのものではないでしょうか。
では声聞はどうなるのか。それは私の様に祖師がいる、サンガの信者の事ではないですかね。天台宗曹洞宗日蓮宗の信者は、経典をそのままでは読みません。あくまでも祖師から、脈々と伝えられて来た法灯を通じてです。それらの先師達の言葉を通じて法華経を拝するわけです。
>龍樹や道元を通さなければ、法華経やスッタニパ-タは読めませんか?
ショ-シャンクさんは否定的に言われますが、それは伝統教団を、あまりに軽んじた考えに見えます。自分で考える事は大切ですが、先人の声を聴いて拝す事も、中々良いものですよ。


 

  [No.17682] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/18(Sat) 10:13:03

名無しの佛教徒さん。
そうですね。伝統教団はいいものです。
私は大好きですよ。
法華経の霊山にもたびたび行っています。
比叡山は毎年行っていますし、身延山も3年連続で行ったことがありました。
最初に比叡山に行ったときや最初に身延山に行ったときは、本当に呼ばれた感じがしました。
旅館で朝起きると、7時のNHKのニュ-スのトップで『山梨県に大雪警報』とありました。
チェ-ンも冬タイヤでもなかったのであきらめかけましたが、行けるところまで行こうと思い出ました。
今でも不思議なことになぜいけたかがよくわからないのですが、ノ-マルタイヤで着くことができました。
あの身延山で参拝客は私だけでした。雪の身延山貸し切りでした。
思親閣に登ったら、お坊さんが『えっ、今日、ロ-プウェイ動いてましたか?』とびっくりされていました。

私は、法華経を毎日読誦していますし、神仏や先祖、伝統宗教への尊崇の念は持っていますよ。

ただ、あるとき、どうしても、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのかを知りたいと思ったのです。
ですから、いったん、すべての仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から仏陀の真意を汲み取ろうと思ったのです。

まずは、それまでの仏教解釈の全否定から入りました。
ヤフ-掲示板で『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げてからは、数多くの伝統仏教信者の人からレスをもらいました。
それでも、やはり、仏陀の真意を探求してよかったと思っています。

仏陀の真意がわかって、法華経を読むと、もう有難くて仕方ないことがわかります。

白隠が若い時捨てた法華経を悟った後読んで号泣した気持ちがほんの少しだけわかります。

ですから、気に障るかもしれませんが、私は、仏陀の真意から、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏典を読み解いていきたいと思っているのです。


 

  [No.17684] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:名無しの佛教徒  投稿日:2020/07/19(Sun) 00:47:54

突然乱入して、申し訳ありませんでした。

> ですから、気に障るかもしれませんが、私は、仏陀の真意から、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏典を読み解いていきたいと思っているのです。

全然気に触ってなんかいませんよ。私が言いたかった事は、縁覚の意味・声聞の意味についてです。私の様な伝統仏教から佛教を学んでいる信者の印象に過ぎません。ショ-シャンクさんを見ると、縁覚に見えたものですから、ただ感想を述べたまでです。人はそれぞれがあって当然だし、だから違った見方ができる訳です。その多様性は、本当に大事な事だと思っています。声聞も縁覚も正に本有不改で、そのままでいい。法華経は、そう言ってる様に思っています。

本当に失礼しました。


 

  [No.17679] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/18(Sat) 07:59:11

ショ-シャンクさま おはようございます。

>
> 『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』
>
> これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。


そうですね。この、「佛から法を聞いて悟る」という点は、先ほども言いましたように『十住毘婆沙論』にもあって、

一切の声聞、辟支佛は皆佛によって出ず (『大正蔵』26,p.20b)

となっています。ここは、これでOKだと思っています。
ただ、声聞の場合は、基本的にサンガに属して、そこで覚りを得ていくのに対して、
佛にふれて縁を得た辟支仏は、後、法華経にあるとおり、「自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る」ので、「独覚」とか「縁覚」とかいわれるのではないかと考えています。

ブッダが辟支佛でもあるというとき、かれは、最初に過去世において燃灯仏の授記を受けています。その点を指しているかなと思うのです。その後も仏には出合っているかもしれませんが、まずは、その佛との出合いを辟支佛の根拠とすることができ、さらには、ゴ-タマとして、無師独悟と述べたその点から、辟支佛と見ることができるかと思います。
ですから、独覚でも、縁覚でも、その呼び名は、ブッダに当てはまるのだと思います。

また、過去世の長い修行の期間は、菩薩としても過ごしました。だから、菩薩という呼び名も当てはまることに成ります。

釈迦牟尼の場合は、このように言えるかと思いますが、他のたくさんの人々が同じように言えるのかは分かりません。辟支佛の呼び名や独覚の呼び名は、どんな風に使い分けられているのかなと思ったりしています。そのような意味で、ちょっと疑問なのです。

>
> よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
> ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。

縁覚の悟りというのは、外からはわかりにくいため、法を以って説明されるのかもしれません。自分で、十二支縁起を観じて覚る場合をいう、というように。
>
> ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
> 縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。

どうでしょうね。たとえば、摩訶迦葉などは、ほとんどお釈迦さまとは行動を共にしていることはなかったようにも見えますが、それでも頭陀行第一の比丘として、サンガの一員になっています。摩訶迦葉の場合、自分で「わたしが弟子で、あなたが師匠です」と宣言していますから、そうなるのかと思いますが。

====
16.このように出家をして、このわたしは、長い間道を歩いていき、ラ-ジャガハとナ-ランダ-との間にあるバフプッタ塔廟に座っている尊師を見ました。見た後、わたしにはこのような思いがありました。「実に、わたしが師に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい。実に、わたしが善逝に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい。実に、わたしが正等覚者に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい」と。

17.友よ、そこで、わたしは、尊師の足に頭をつけて(礼拝し)、尊師にこのように言いました。「尊者よ、わたしの師は尊師です。わたしは、声聞(弟子)です」と。
==== 『サンユッタ・ニカ-ヤ』16.10


ですから、辟支佛の場合はサンガには所属していなかったのではないでしょうか。まあ、実情は、個人によりいろいろあったと思いますが、釈尊をモデルとした時、辟支佛と判定できる、菩薩と判定できる、声聞と判定できる、というようにして、だいたい本人の自覚的な意思と合わせて考えられていったのではないかと思っているところです。


 

  [No.17309] 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 07:40:03

春間さんは、龍樹や道元を読んで二元対立を超えた気分を味わったことを悟りと思っていて
それを自らのアイデンティティにしていませんか?

大乗仏教は、そのような『悟った気分の人』を大量に生み出しました。
私も一時期そうでしたからわかります。
本を読んで悟った気分になり、悟りすました視点から、下々の書いている文章の二元対立の言葉をことごとく否定していって
自分は偉いんだと悦に入る・・・これは精神には危険です。

春間さんにお聞きします。
あなたは、道元をよく出しますが、毎日坐禅していますか?
あなたは、親鸞をよく出しますが、自分の蛇蝎のような心を見て絶望したことがありますか?そのうえでの念仏をしていますか?
あなたは、法華経をよく出しますが、毎日、法華経の何品と何品を読誦していますか?


 

  [No.17314] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 09:29:05

> > 私も一時期そうでしたからわかります。
>
> あなたのその気分 は あなたのモノではありませんか ?


気分はただの気分です。名湯シリ-ズの入浴剤を入れて『温泉気分』になることはできても、そこは温泉ではありません。


> 分かって、 わたしに諭すあなたは 諭す智慧 に あるのでしょうか ?

あなたは自分について指摘されると必ずオウム返しします。それは小学生の口喧嘩と同じです。
誰であれ、いったん、指摘されたら、一度、自分について考えてみたらどうですか?
反論されるのは苦痛でしょうけど、自分の考えを述べた時にその反論があるのは普通のことです。
それを怖れているのであれば、自分の考えなど述べなければいいのです。
あなたは自分への反論や指摘にオウム返しでしか応えません。
それは自我を守ろうとする働きにしか過ぎません。


> わたしは 常に 坐禅 をしています

それは頭の中だけで、『自分は常時坐禅している』と考えているだけです。
道元を言うのであれば、本当に毎日結跏趺坐し坐禅を行じて始めて語れるでしょうね。


> 蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )
> 親鸞は それを知って、 わたしにそう伝えています


あなたは親鸞にかすりもしてない。
そのような解釈で親鸞を語るのはとんでもないことです。


> 法華経 を 一度でも 読誦すれば
> 法華経 は 常に 襟元に於縫い付けられています
> その 一度の読誦 が 誰にあろうと、 一度 ということは 遍く あることです
> 念仏 は 法華経 です



翻訳すれば、あなたは法華経を読誦もしてない。
道元などを読んで『法華経を分かった気分』になっているということですね。


 

  [No.17317] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 11:29:18

道元は、形や作法を非常に重視しています。
つまようじの使い方まで事細かに言及します。

『然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親しく得るなり。
然れば道を得ることは、正しく身を以て得るなり。これによりて坐を専らにすべしと覚ゆるなり。
(『普勧坐禅儀』三ノ三十一) 』

あなたは、道元親鸞もキリストもごっちゃまぜにしてしまい、
坐らなくても坐禅なんだ、と言います。坐禅しなくても『只管打坐』だと。



親鸞は、自分の心は蛇蝎のようだと言っています。
自分はどんな修行をしようと地獄が定まったところだという、徹底的な自己洞察とそして絶望を経験し
自分を全否定して、絶対他力としたのです。

あなたは『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』と言いました。
親鸞は自らの蛇蝎のような心を見つめ続けたからこそ、絶対他力に行き着いたのです。



道元にしても親鸞にしても、あなたの解釈は支離滅裂に感じます。


 

  [No.17319] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 12:27:08

自分の見解を握りしめて、その見解で親鸞道元を勝手に解釈しているのは
あなたの方ですよ。

私は真理を得たとは思ってもいません。

ただ、親鸞本人が自分の心は蛇蝎のようだと言っているのに
あなたが勝手に『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』
と断言したのです。
親鸞本人が言ったことと真逆なことを言って悦に入っているのが支離滅裂だと言ったのです。

その言葉に根拠があるのであれば
親鸞の文章から
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』の根拠を示してみてください。


 

  [No.17322] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 13:54:52

良い・悪いを判断しているのではありません。

親鸞本人が
『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』
と言っているのに
それと真逆の
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』
とあなたが書いたので
その根拠を聞いているのです。


 

  [No.17325] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 16:47:14

> > 親鸞本人が
> > 『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』
> > と言っているのに


> それを見出すことが適う その拠り所は
> 誰のどこにあるのですか ?


ごまかさずに、答えてくれませんか?
あなたの日本語は文法的にあやしかったりあやふやだったりします。
特に、答えに窮したときにはその傾向が顕著です。

親鸞の書に『『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』』という文章があるのを知りませんか?
知らないのであれば、あなたはほとんど親鸞について知っていないということです。
知っているのであれば、わざわざ聞くのは、ごまかすためとしか思えません。

親鸞の言っていることと真逆の
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』ということをあなたは言っているのですから
その根拠を示してください。


 

  [No.17335] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 22:10:35


> ここは 暗い と思うときに
> どこに 明るさがあるのですか ?
>
> 何に比べて、 暗いのですか ?
>
> その答えが
> 答えとなります
>
> ・

なぞなぞは別にいいですから、他の人とやってください。


 

  [No.17327] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 18:34:12

>親鸞が あなたが 指摘するような “ 自分の蛇蝎のような心 ” を 見る時
>親鸞の心 は “ 蛇蝎のような心 ” に あるのでしょうか ?

> “ 蛇蝎のような心 ” は
誰の基にあって
>誰が それを規定するのでしょうか

>親鸞 は そのようなものは どこにもないと知るから、
>すべての人が 救われることを( 浄土にある事を ) 知るのです

>雲 に 陽光 は 遮られますが
>その雲 は 陽光 が ない限り 起ることはありません
>その 遍く照らす 陽光 を 「 大日 」 と 名付けます

>親鸞法華経の人なのです



どうも、春間さんは、浄土教も禅も法華経もごちゃまぜにしていますね。

親鸞 は そのようなものは どこにもないと知るから、すべての人が 救われることを 知るのです』

そうであれば、阿弥陀仏も本願も要らないではないですか。
達磨のように、迷っている心などどこにもないと悟るのであれば。

春間さんは自分で書いていたように、
まず解答を丸暗記して、それを無理やりどのケ-スにも当てはめるやり方をしてきたのですね。
中学の数学ならそれでいい点が取れるかもしれませんが、
こと人生にはそのような『解答』などありません。

仏陀なら仏陀法然なら法然親鸞なら親鸞の言葉から本当はその人は何を言ったのかを探求しないと
その人のことなどわかりません。

どれにも通用する解答なるものを暗記するやり方では、偉人たちの魂に迫ることはできないでしょう。


 

  [No.17321] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 13:49:41

> あなたに生きる親鸞 として 行じてください


前にも書きましたが、私は親鸞は評価していません。
親鸞は自分の心の醜さを徹底して洞察した人で、その凄みはあります。

しかし、そもそも、歴史上の仏陀の教えは、他に依存することとは真逆であり
他力を頼むという考えは一切ありませんでした。
よって、浄土教自体、仏陀の教えではなくバラモン教からの影響だと考えています。
ですから、浄土教にはほとんど関心がないのです。

ただ、法然の人格は好きです。
法然は自らは既に救われていましたが、無知な衆生を救う道を命がけで探求していきました。
そして易行道を確立しましたが
親鸞はその易行道を難行中の難行にしてしまった。

この意味が分かる人はほとんどいないでしょう。

私はせっかく法然が開いた易行道を惜しみます。


 

  [No.17326] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 16:55:54

そもそも、あなたは、真摯に学びたいとか探求したいとは思ってないでしょう?

自分は悟っていると思い込んでいて、上から目線で命令したり否定したりしているのですから。

自分への反論は、ことごとくオウム返しするだけですよね?

もし、真摯に探求したいのであれば
法然親鸞の教えの決定的な違いとは何だと考えているか答えてください。


 

  [No.17330] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 19:52:36

>
> > 法然親鸞の教えの決定的な違いとは何だと考えているか答えてください。
>
> 親鸞法然のことを どう言っているかを 知っていますか ?



親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。

しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
法然と違うからこそ、法然の弟子なのに、浄土真宗の宗祖とされたのです。
全く同じ教えなら浄土宗でよかったですよね。

このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。


 

  [No.17332] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 21:41:25

> > 親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。
>
> 地獄に行きましたか ?


親鸞が地獄に行ったかどうかはわかりません。
ただ、娘の覚信尼は父の親鸞を『本当に浄土に行ったのだろうか?』と
不安に思ったことは確かです。


> > しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
>
> どのように違うか
> 例を 挙げてみる こと はできますか


同じだと思いますか?違いますよね?私が指摘しなくても違いは明白ですよね。



> > このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。
>
> どういう矛盾 か
> 正しさを揚げて 立証できますか ?



それでは、これに答えてもらえますか?

親鸞は、息子の善鸞を義絶しますね。
しかし、親鸞は摂取不捨を徹底した人でした。
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪はないと言い切っています。
それであれば、どんな謗法をしたとしても、摂取不捨であり、切り捨てるのは
親鸞が言っていることと矛盾します。
これをどう思いますか?


 

  [No.17334] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 22:08:54

>
> > > > 親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。
> > > 地獄に行きましたか ?
>
> > 親鸞が地獄に行ったかどうかはわかりません。
>
> では 騙されたのですか ?


そもそも、法然が言ったことを実行してないですね?


>
> > > > しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
> > > どのように違うか
> > > 例を 挙げてみる こと はできますか
> > 同じだと思いますか?違いますよね?私が指摘しなくても違いは明白ですよね。
>
> 明白なことを 明白にできますか



わかりませんか?全く同じだと思っていますか?

 


>
> > > > このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。
> > > どういう矛盾 か
> > > 正しさを揚げて 立証できますか ?
>
> 矛盾のないように、答えられますか
>
> > それでは、これに答えてもらえますか?
>
> 答えが なければ、
> 答えないという意味ですね
>
> 答えることが出来なくても構いません
>
> > 親鸞は、息子の善鸞を義絶しますね。
> > しかし、親鸞は摂取不捨を徹底した人でした。
>
> あなたは 徹底していないとみているのではないのですか ?
> > 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪はないと言い切っています。
>
> ありますか ?
>
> > それであれば、どんな謗法をしたとしても、摂取不捨であり、切り捨てるのは
> > 親鸞が言っていることと矛盾します。
> > これをどう思いますか?
>
> さまたぐるほどの悪 ですか ?
>
> ・

さまたぐるほどの悪はないと言ってるのに、どうして切り捨てたか?と聞いているのです。
答えられないのであれば正直にそう言ってください。時間の無駄ですから。


 

  [No.17337] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 00:00:42

>
> > 答えられないのであれば正直にそう言ってください。時間の無駄ですから。
>
> 答えません
> 時間の無駄だからです
>
> 無駄は あなたにある
>
> ・



答えられないでしょう。
矛盾しているのです。
他にもたくさんあります。

例えば、親鸞は故郷である京に帰ろうとしますが
妻の恵信尼を連れて帰りません。
恵信尼は越後に帰って、夫婦バラバラになります。
どうしてだと思いますか?


 

  [No.17338] Re: 悟った気分は自我 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/20(Mon) 05:19:06

ショ-シャンクさま おはようございます。

脇からちょっとすみません。

> しかし、そもそも、歴史上の仏陀の教えは、他に依存することとは真逆であり
> 他力を頼むという考えは一切ありませんでした。
> よって、浄土教自体、仏陀の教えではなくバラモン教からの影響だと考えています。

わたしは、阿弥陀仏は、『大般涅槃経』の内容をふまえて出現したのではないかと思っているのですが、

バラモン教の影響をうけたと思われるのは、なぜですか。

実は、昔、少し検討したことがありました。

たとえば、ヴェ-ダ-ンタ学派などが説くブラフマン(世界原理)を、空じてみたら、諸仏になるだろうか、とか、
一神教の唯一絶対の神を、空じてみたら、大乗の思想に似てくるだろうか、とかです。

アドヴァイタ系の思想をもつ人達の中には、そんな風に考えている人たちも、ネット上ではいるような気もします。
部派のお坊さんの中には、大乗をそんな風にとらえている人もいるようです。

でも、バラモン教からでは大乗にはいきませんね。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩という菩薩が極楽世界を仏国土としてつくって、それからブッダになるので、
やはり、理屈をちょっといじって出てくるような名称だけの存在ではないですね。

矛盾があるように見えているのは、そのためかなとか思ってしまいました。

「空」だけ使っても、ダメで、「縁起」を駆使すると、出てきますね。
親鸞聖人は、ほとんど「空」を用いていませんよね。

教行信証』の中では、「縁起」を駆使して語っているように思います。
ブッダの教えの心髄を極めたな、と思うのは、「空」の理論をあえて出さないところでもあります。


 

  [No.17339] 浄土教の発祥 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 06:20:47

石飛先生、おはようございます。

浄土教仏陀本来の教えではなく、バラモン教(ヒンドゥ-教)から来たと私が考える理由につきましては
ヤフ-掲示板の自分のスレッドに投稿し、いま自分のブログに格納してますので、それを載せます。

※※※※※
特に浄土教の教えはゴ-タマ・シッダッタの教え本来のものではなく、ヒンズ-教から来たものですね。
ゴ-タマ・シッダッタは、想像上の神仏への信仰などは一切説きませんでしたし
なにより自燈明を説いたので他力を説いたことはありませんでした。

歴史上の仏陀が説いたことと違うから正しいとか間違ってると言ってるわけではありません。
それが事実だから言っています。

阿弥陀仏の師はヒンズ-教のシヴァ神ですから、浄土教がいかにヒンズ-教の影響を強く受けて誕生したかがわかりますね。
私はヒンズ-教にもジャイナ教にも偏見はありませんから影響を受けたからと言って貶しているわけではありません。

無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。

サンスクリット名ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャとはシヴァ神の別名である。

また、法蔵菩薩の第二六願にナ-ラ-ヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナ-ラ-ヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

浄土教徒の人もこういう記事を書いてますね。

【私は浄土教徒なので、阿弥陀如来の話から始めたい。
阿弥陀仏は古くから仏教と習合された仏様(神様?)の一人で、ア-キタイプはゾロアスタ-教の光明神アフラ・マズダとも、
さらに古いミスラ神とも言われる。
浄土三部経のうち『無量寿経』によると、往古、阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者で、
世自在王(ロ-ケ-シヴァラ・ラ-ジャ)如来という仏さまを師匠として修業していたという。
浄土真宗で読誦される「正信偈」の初めの方に、次のような箇所がある。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
この世自在王如来というのが、実はヒンズ-教の破壊神シヴァなのだという。
ガネ-シャの首を吹っ飛ばした物騒きわまりないお父さんである。
中村・早島・紀野訳註『浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)』P252の「ロケ-シヴァラ・ラ-ジャ」に対する訳注には、
次のようなことが書かれている。
ロ-ケ-シヴァラ・ラ-ジャ ― Lokeśvararāja. 「世自在王仏〔せじざいおうぶつ〕」と訳され、
無量寿仏の師として重要である。この仏に対する信仰も独立に行われていたもののごとく、
『ロ-ケ-シヴァラ讃』(Lokeśvarastava)という書も残っている。
また碑文にはロ-ケ-シヴァラがアヴァロ-キテ-シヴァラ(観世音菩薩)を意味して使われている例もある。
しかしロ-ケ-シヴァラとはヒンドゥ-教ではシヴァ神の別名であるから、
この点で何らかの連絡があるのかもしれない。】





歴史上の仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)は、その長い生涯で、阿弥陀仏について言及したことは一度もありません。
他力信心を説いたことも一切ありませんでした。
自燈明を説いた仏陀において、他力を頼むという考えはまさしく真逆なものでした。

いま、大乗仏教がどうして興ったかを調べています。
大乗仏教仏陀の真意の復興運動だったと思い始めていますが
浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥ-教のバクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

浄土教が発生する前から、インドでは神の名前を繰り返し唱え続ければ死後よいところに生まれるという信仰が民衆の間に熱狂的に広まり流行っていました。
そのような民衆に圧倒的な支持を受けている考えが仏教に入ってきたのは必然とも言えるでしょうね。

無量寿経によると、法蔵菩薩は、世自在王仏(ロ-ケ-シヴァラ)を師として阿弥陀仏となりました。
ロ-ケ-シヴァラとはヒンドゥ-教のシヴァ神の別名です。

これを見ても、浄土教がヒンドゥ-教発祥であることは明白です

※※※※※


 

  [No.17341] Re: 浄土教の発祥 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/20(Mon) 07:00:02

ショ-シャンクさま すばやっ!

さっそくお返事いただいて、ありがとうございます。

なるほど。そっちから来ましたか、という感じです。

前のご質問のところで書いた私の文ですが、

> でも、バラモン教からでは大乗にはいきませんね。
> 阿弥陀仏は、法蔵菩薩という菩薩が極楽世界を仏国土としてつくって、それからブッダになるので、
> やはり、理屈をちょっといじって出てくるような名称だけの存在ではないですね。

と書いて、「名称だけの存在」と書きながら、「この表現ちょっと変かな」とか思ったのですが、お話を伺うと、ああ、意外とはずれてなかったな、と思います。


> 大無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。
>
> サンスクリット名ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャとはシヴァ神の別名である。
>
> また、法蔵菩薩の第二六願にナ-ラ-ヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナ-ラ-ヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

> 浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
> 浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥ-教のバクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

なるほど、時代を考慮しなければ、そして、思想を考慮しなければ、また、ブッダの教えの特徴を考慮しなければ、たしかにおっしゃるように考えることもできるかもしれません。

私も、このあたりは、詳しく分からないのでしばし調べてみたいと思います。

ただ、ブッダのやり方からすれば、対機説法という説明もつけられるそうですが、でも、ちょっとその路線は危ないところもあるので、慎重にしましょう。

ありがとうございました。


 

  [No.17343] 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 10:44:40

管理人の石飛先生が、せっかくハンドルネ-ムでの投稿を想定した掲示板を作ってくださっているのに
わざわざ本名で投稿することに何か意味があるのでしょうか。
もちろん、本人が本名で投稿したいのであれば自由にすればいいとは思いますが
他の投稿者に強制することではないですね。

投稿者は同時に閲覧者でもあります。
閲覧する立場からいうと、投稿者の本名や社会的地位、財産、学歴、職歴、交友関係など何の興味もありません。
投稿した文章に閲覧する価値があるかどうか、だけです。
その人にとって、その文章が学びになるかどうか、だけです。

社会的制約の一切を外して、純粋に文章だけで判断されるネット掲示板は素晴らしいではないですか。
ネットが誕生したからできた開かれた学びのフィ-ルドではないですか。
そのような場所に、社会的地位や財産、経歴など属性を持ち込んでマウントを取ることには反対です。

もし、実名での投稿ばかりにしたいのであれば、自分でホ-ムペ-ジを作り、そのような設定にすればいいではないですか。
ここはあくまで石飛先生のホ-ムペ-ジですから、もし、石飛先生が私の文章に問題があると判断されれば削除されればいいだけです。


 

  [No.17346] Re: 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 14:03:06

> > 管理人の石飛先生が、せっかくハンドルネ-ムでの投稿を想定した掲示板を作ってくださっているのに

> そのように想定されていると 、 どうして知るのですか ?



管理人さん自身が『管理人エム』というハンドルネ-ムで投稿されているからです。


それに、ネット上に公開されている掲示板で実名でないと投稿できない、または実名を想定している掲示板は極めて稀で、
私はそういう掲示板を見たこともありません。もしあるなら、教えてください。
それほどほとんど全部の掲示板がハンドルネ-ムでの投稿を想定している以上、
管理人さんが『名前は実名で』と指定しない限りハンドルネ-ムを想定されているということです。


 

  [No.17348] Re: 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 17:33:38

>
> > > そのように想定されていると 、 どうして知るのですか ?
>
> > 管理人さん自身が『管理人エム』というハンドルネ-ムで投稿されているからです。
>
> > 管理人さんが『名前は実名で』と指定しない限りハンドルネ-ムを想定されているということです。
>
> 気にしていないだけ
>
> 本人が決めることで、
> あなたが決めることではない



まだ、言いますか。
しつこいですね。
管理人さん本人がハンドルネ-ムで投稿している掲示板なら、それが管理人さんの意思でしょうね。

そもそも、実名での投稿を想定している、オ-プンなネット掲示板などあなたはひとつでも知っているのですか?
そんな掲示板など、知らないでしょう?

そんなに実名の投稿にこだわるのなら、自分で掲示板を立ち上げて自分が管理人になればいいではないですか?
なぜ、他の人の掲示板で、自分が意のままに仕切ろうとするのですか?


 

  [No.17363] Re: 「 法華経 」 とは 「 明珠 」 投稿者:spinobuddhist  投稿日:2020/01/23(Thu) 13:13:04

> 一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。


個人的には私は、大乗仏教の真義は「菩薩乗」にあると考えている。
エスもラマナ・マハルシも菩薩であると考えれば、善勇猛般若経の「菩薩は異教の修行者として身を現し、異教を説きさえするが、異教に転向したことは一度も無いのである」という言葉がしっくりくる。
「方便」に命をかける姿がそこにある。

しかしイエスの意図とは裏腹に、その教えは死後「キリストの再臨」として書き換えられ、民衆操作の方法として利用されたことは事実である。仏教もまた釈迦の死後に組み替えられ、密教のように権力装置として機能し続けた歴史的事実は否定できないところである。

もちろん救済宗教は民衆には必要だから、浄土宗も密教もそれ自体として否定する気は無いのだが、権力装置としてのそれらを擁護し、学問領域で理論的に正当化するとなると話は別である。

法然は読んだことがないので私にはよくわからないが、ショ-シャンク氏が評価するということから、法然が民衆の救済を第一に考え、そこに大乗の真義を見ていたのではないかと考えたまでである。この観点からいえば、悪人正機とか愚禿とかいうアイデアからして、親鸞は民衆そのものではなく、民衆に布教する側の人間に動機付けを与えたように思える。知識人の倒錯的優越感を刺激し、それを布教のエネルギ-に変えている、とでもいおうか。一次的な民衆の救済よりも、救済する側の支配層に動機を与え、権力装置を強固なものにした、そんな印象を持つのである。

結局、「菩薩の死後」の権力装置である。エム先生や春間氏が必死に擁護しようとしているのはそれで、方便に命をかけたイエスそのものの精神ではないのだろう。

【2020/01/23(Thu) 21:35:21 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17364] 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 15:29:57

> > 一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。
>
> 法然は読んだことがないので私にはよくわからないが、ショ-シャンク氏が評価するということから、法然が民衆の救済を第一に考え、そこに大乗の真義を見ていたのではないかと考えたまでである。この観点からいえば、悪人正機とか愚禿とかいうアイデアからして、親鸞は民衆そのものではなく、民衆に布教する側の人間に動機付けを与えたように思える。知識人の倒錯的優越感を刺激し、それを布教のエネルギ-に変えている、とでもいおうか。一次的な民衆の救済よりも、救済する側の支配層に動機を与え、権力装置を強固なものにした、そんな印象を持つのである。


spinobuddhistさん、こんにちは。
大乗仏教が何故興ったのかというテ-マに関しては、書こうと思いましたがかなり長くなりますので
いくつかに分けて書かせてください。

法然親鸞に関しては、どちらも浄土教の人で、私は浄土教仏陀の教えとは性質が異なると思っていますので
あまり詳しくは知らないのですが、ただ、法然の人柄が好きなのです。

法然は、現代では親鸞が目立ちすぎてすっかりその陰に隠れている印象がありますが、本当に革新的なのは法然でしょう。

私は親鸞に関しては、現代人がこぞって褒めちぎるような素晴らしい人とはどうしても思えません。
法然は命をかけていましたが、親鸞にはそのようなところがありません。
どうして、親鸞ばかりを高く評価するのか、親鸞をよく出す春間さんに聞いているのですが答えがありません。

質問としては、
1、法然親鸞の教えの違いについてどう思うか
2,阿弥陀仏は摂取不捨なのに、親鸞は何故息子を義絶したのか
3,妻の恵心尼を京に連れて帰らなかったのは何故か
4,非僧非俗と言いながら、いいとこ取りしていたのは何故か

このようなものです。
親鸞は本当に救われたのか、と言う根本的なところまで疑問に思っています。

【2020/01/23(Thu) 17:48:14 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17366] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 20:16:54

> 親鸞 は “自ら” というモノ を 持たない
> 「 絶対 他力 」 です ( 対するものを 絶つ から 自らがない )
>
> 絶対 に “ 救われる ” と 説く
> 義絶しようと 摂取不捨 です
> 義絶 は 「 世間 」 のこと
> 「 世間 」 に 構う時( 対して ) 義絶は起こる
> 親子 が 起きるから 義絶は起きる


1,親鸞は、阿弥陀仏はどのような謗法の者でも摂取不捨と説きました。
阿弥陀仏が許しておられるのに、親鸞が許さずに義絶するのは人間のはからいではないですか?
2,義絶とは世間のことと言いますが、なぜ、あなたは世間と非世間の2つに分けるのですか?
行(行為)に世間も非世間もありません。親鸞の行為があるだけです。
3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?
親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
自らの意思で義絶したのは親鸞です。
4,親鸞は、自らは弟子を一人も持たないと言いました。
それは、自分の計らいなど何もない、阿弥陀仏の計らいによるからです。
自分の弟子でもない、阿弥陀仏の弟子なのに、自分の判断で切り捨てるのは言っていることと矛盾しますね?
5,絶対に救われるのであれば、わざわざ義絶する必要などないではないですか。
6,人を排除する、切り捨てる、というのは、あなたのよく言う『至道無難 唯嫌揀択』の揀択ではないですか?

結局、自分は弟子を一人も持たないなどといいながら、自分の教団が乱されると考えれば切り捨てるということですね。
弟子がいないのであれば自分の教団などあるはずがないですね?

【2020/01/23(Thu) 20:23:50 投稿者により修正されました。】


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P51 ③

  [No.17368] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 20:30:17

>
> 否定するのではなく
> 肯定することを 考えなさい
>
> そうすると、 自然に 答えが出てくる
>
> ・


人の否定ばかりしているあなたが言いますか?

掘り下げて質問すると、必ず逃げてしまいますね。


 

  [No.17371] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 21:42:30

>
> > > 肯定することを 考えなさい
>
> > > そうすると、 自然に 答えが出てくる
>
> > 人の否定ばかりしているあなたが言いますか?
>
> それが否定です
>
> > 掘り下げて質問すると、必ず逃げてしまいますね。
>
> それも 否定です
>
> ・


私は、納得できなければ肯定はしません。
親鸞が宗祖だから絶対正しいなどとは思いもしません。
その言動を見て、納得できなければ否定します。

あなたのように、まず権威ありき、ではないのです。
親鸞を権威として、親鸞のどのような行為でも肯定しなければならない・・などとは考えません。


 

  [No.17373] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 22:15:13

>
> > 私は、納得できなければ肯定はしません。
>
> 納得できないのは
> あなたに あなたが正しいという 拠るところが あるからです
> それを 権威 といいます
> あなたは 権威をもって、
> 自らの見解に 適合するか どうかを 判断する
> なぜ 自分に 権威があると 知ろうとはしないのですか ?
>
> > あなたのように、まず権威ありき、ではないのです。
>
> どのような権威の下で
> そう判断できるのですか ?
>
> こういうことに あなたの 思いは よらない
> わたしは 管理人エム 様 に
> あなたに語っていることと、 同じ事を 語っています
> 管理人エム 様 は わたしの言うことを 理解する
> あなたは ( 理解せずに ) 否定する
> その違いは どこにある と 思いますか ?


人は皆、自らの判断力によって判断を下しているのです。
そのような判断力を放棄する人間は、洗脳されたりいいように操られたりして
オウムのような変な宗教の犠牲になったりします。
怖いことです。

自分以外の誰かが『これは正しい』と言ったからといってそれを自ら考えることもなしに鵜呑みにして
多くの悲劇が起きています。

安易に肯定したり権威づけたりするのではなく、自分の感性に合うものを選んでいくべきですね。


 

  [No.17374] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 22:39:09

この質問に答えてはもらえないですか?



1,親鸞は、阿弥陀仏はどのような謗法の者でも摂取不捨と説きました。
阿弥陀仏が許しておられるのに、親鸞が許さずに義絶するのは人間のはからいではないですか?
2,義絶とは世間のことと言いますが、なぜ、あなたは世間と非世間の2つに分けるのですか?
行(行為)に世間も非世間もありません。親鸞の行為があるだけです。
3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?
親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
自らの意思で義絶したのは親鸞です。
4,親鸞は、自らは弟子を一人も持たないと言いました。
それは、自分の計らいなど何もない、阿弥陀仏の計らいによるからです。
自分の弟子でもない、阿弥陀仏の弟子なのに、自分の判断で切り捨てるのは言っていることと矛盾しますね?
5,絶対に救われるのであれば、わざわざ義絶する必要などないではないですか。
6,人を排除する、切り捨てる、というのは、あなたのよく言う『至道無難 唯嫌揀択』の揀択ではないですか?

結局、自分は弟子を一人も持たないなどといいながら、自分の教団が乱されると考えれば切り捨てるということですね。
弟子がいないのであれば自分の教団などあるはずがないですね?


 

  [No.17378] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 07:12:24

>
> > > この質問に答えてはもらえないですか?
> > 自分で考えて
> > 答えを提示し
> > それについて 応答を 求めなさい
>
> 親鸞が 人であるということ は いけないことですか ?

そんなこと、一言も言っていません。
むしろ、私は、親鸞を権威と考えることに疑問を持っています。
そんなにすごい人物ではなかったと思っていますよ。

> 善い・悪い の 揀択は 誰に起き、 どうして起きるのですか ?

親鸞が、揀択を起こし息子を義絶するという判断を下したのです。

> 善いことを する( 教える ) のが 仏( 教 ) ですが
> 何を根拠に あなたの 商量 は 起されていますか ?

私の根拠は私しかありません。

> 親鸞が 親子であることを 捨てたのですか ?
> ( 親子 であることを 捨てることはできますか ? )

それが義絶です。捨てないのであれば、義絶などしなければいいではないですか。


> 出家 とは 親子 を 出ることです

親鸞は、出家ではないですよ。還俗させられた後、自ら非僧非俗と言っています。
いいとこどりですね。
僧でないのに、髪をそり袈裟を着て僧の格好をし、弟子たちに食わせてもらっていました。
僧でないなら、魚屋でも八百屋でもして働いて自分で食って行けばいいのです。
俗でないと言っているのに、妻帯してます。
非僧非俗などいいとこどりの逃げですね。
妻帯しても僧ではないと言い逃れでき、信者に食わせてもらっても俗ではないと言い逃れできますね。


> 親鸞に 教団 など ありません

口ではそう言っています。
親鸞はひとりの弟子も持たない。念仏を唱えて救われるのも阿弥陀仏の計らいであるから、と。
それなら、阿弥陀仏は摂取不捨なのに、親鸞が義絶し排除するのは矛盾しますね。
教団などないのであればなぜわざわざ義絶しなければいけないのですか?

私は口で言うのと実際の行ないが違う人間は信用しないのです。
口では悟りすましたことはいくらでもいえるのです。


 

  [No.17385] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 09:19:44

> 親鸞の判断 は 善いことですか ? 悪いことですか ?


善い悪いなど私の判断基準ではありません。
親鸞が自分で言っていることと、実際の行ないが違っているので信用しないだけです。


> それは 正しいのですか ?

正しい正しくないというのも私の判断基準ではありません。
正義など個々人の妄想です。



> 何故 義 に於いて 絶したのですか ?


義絶の判断をした親鸞に聞いてください。



> その義を絶することに拠って
> 親鸞は 何を 説いている( 行ないで示している )のでしょうか ?


何も説いていないですよ。
教団の信者たちが混乱して親鸞に訴えてきたので義絶しただけです。



> 親鸞は 厳しく 自分の生に向き合っている


僧でもないのに僧の格好をして布施をもらい、弟子は一人も持たないと言っているのに弟子たちに食わせてもらって
どこが厳しく向き合っているのですか。
頭の中で自分の救いを求め求めていましたが、自分で働かずに他人のお金で観念論にふけっていたともいえます。



> あなたは 誰のおかげで、 生をはぐくんでいますか ?

少なくとも、僧でもないのに僧のコスプレをして信者に食わしてもらうことはしてないですね。
自分のお金は自分が稼いでいます。



> どうして 義絶したか
> あなたの読み方を 聞かせてください


信者たちが混乱しているという訴えがあったからですよ。
このままでは教団が崩壊してしまうという危機感ですね。
それ以外の理由なんて有りません。



> あなたは “ 口で言うように ” 行っていますか ?

少なくとも、口で悟りすましたようなことは言いません。
自分ができないことをできたように言うこともありません。


 

  [No.17379] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 07:36:07

> ヤフ-掲示板 では
> あなたは わたしの “ ムシカゴ ” に 入っていたのです


私は、ヤフ-掲示板では、ずっと株式板と映画板に自分のスレッドを立ち上げ、そのカテだけしか見ませんでした。
私が仏教系のカテ(東哲板)に自分のスレッド【仏教についてのひとりごと】を立ち上げたのはほんの最近のことで
ヤフ-掲示板が閉鎖されるまでの1年半くらいの短期間でした。

それでも、多くの閲覧者を集め、カテゴリ-のアクセスランキング1位になることも多かったです。

今までの仏教は、大乗仏教も部派仏教も仏陀の真意を伝えていない、という仏教の全否定から入りましたので
当然、誰からも非難轟々だと思っていましたが、賛同者もかなり多かったのには驚きました。

私は自分の立てたスレッドにしか投稿しない主義でした。
映画板でも、株式板でも、東哲板でも。
映画板の自分のスレも、株式板の自分のスレも、東哲板の自分のスレも、多くの人が投稿してくれて賑わっていたので
他のスレッドには興味ありませでした。

映画板や株式板にはアラシはいませんでしたが
東哲板には他人のスレに寄生するアラシが何人もいました。
その人たちの特徴は、自分でスレを立ち上げるのですが、自分のスレッドには誰も来ないで閑散としているので
他人のスレッドを自分のスレッドのように仕切ろうとするのです。
他人のスレッドに住み着いて、スレ主から出て行けと言っても出ていかないので嫌がられていました(笑)


私は自分のスレッドにしか投稿しませんでしたので、春間さんはわざわざ私のスレッドに投稿してきてました。
それを論破すると、答えられなくなり、『無視リストに入れます』などと言っていましたね。
わざわざ私のスレに来たから、その矛盾点を論破してるのに、無視リスト?
変な人だなあとは思っていました。
無視リストは、自分のスレッドに来て嫌がらせ投稿ばかりする人の投稿を自分だけ見えず読まなくて済むようにする機能ですから
自分のスレにしか投稿しない私なら、私のスレを読まなければいいだけなのに、
おかしなことを言う人だと思っていました。


 

  [No.17380] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/24(Fri) 08:03:22

ショ-シャンクさま おはようございます。

親鸞聖人、けっこう好きです。なので、言い訳がましく、この点についてちょっとお話してみようかなと。

> 3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?

親鸞は、僧になりたかったと思います。僧として、行も積んで、悟りにいけるかと思ったが、どうしても駄目だったので、山を下りて、法然上人のところに行ったのですよね。
ところが、6年ほど法然上人のところにいたら、法難にあって、俗へと身を転ぜられます。

そのとき「非僧非俗」というわけですよね。
私は、ここが一番好きですね。 愚禿親鸞 という道が、生まれます。

非僧非俗は、中道で、かれは、ある意味、頑張った甲斐(?)あって、中道を手に入れたと、私には見えるのです。
僧にもなれず、俗にもなれず、ただ一本の道だけが、親鸞の前にある。

出来事は偶然のようにも見えるかもしれませんが、此処にこそ縁起があると思います。
法難は、専修念仏に対する比叡山の方からの働きかけもあってやって来ているわけです。ただ上皇の腹立ちのせいとばかりは言えないでしょう。
ある意味、必然的に時代が動いている、とも言えるかと思います。

時代に翻弄されながら、溺れる親鸞は一本の糸をつかんだ。それが、「非僧非俗」というわらしべだと、私には見えるのです。

どんなに(世俗的に)愚かでも、僧になり損なっても(=禿)、「愚禿」は称号みたいにかれには光輝いています。
阿弥陀仏に救われる資格十分だということを示していると、かれには思われたことでしょう。法然上人に騙されたってかまわない、どうせ地獄に堕ちる身だ、ってわけです。

> 親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
> 自らの意思で義絶したのは親鸞です。

私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。
「おまえも阿弥陀仏にすがれ!」って、言ってるような気がします。
世俗的ではありますが、「愛だろ、愛!親の愛だろ」って感じですね。

親鸞で良いことは、世俗を持ちだしても語れることですね。
私も、「愛」とか「親子」とか、出家の方には言いにくいですが、親鸞の場合、語っておかしくなりません。
「頑固親父のちゃぶ台返し」みたいな話につなげても、世俗は世俗で理解できるのではないでしょうか。
本当にそれでいいかどうかは、私はわかりませんが、私には以上のように見えます。

日本だからこそ親鸞聖人を生んだのでしょうか。
どうなんだろう。

日本で一番信者さんを得ているのは、日本人が非僧非俗の「愚禿」の道にあっているからかな、などと思ってもいますが、本当のところはよく分かりません。

私は、親鸞聖人のような生き方は、絶対できないだろうと思うので、どんなに尊敬しても尊敬したりないと、思っています。特別な人です。


 

  [No.17427] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/27(Mon) 09:18:31


通りすがり であろうと 垣間見る ということは起きる
通りすがりに見ること が 垣間見ることだからです


「 古城 に 続く道 」 も たまたま 足を踏み入れるところに 見出される


なにを 垣間見た かを 身に引き当てなければ 、、、、


割って、 湧き出ること が 垣間見られます
そこに 隙間 が 起きるから 涌くわけです

湧いて出た “ 隙間 ” に 首を突っ込んで、 閉じてしまって どうします ?

自らを見る 隙間 を
他に転嫁 して
自らのものとすること が 出来なければ、
ジユウ は どこに起きるのでしょうか ?

他の悪 ( と映るモノ )を 通して、 自らを 見るのです
( それが 他の悪 と 鏡 に 映る のです )
( カンガミ 鑑み カミガミ を 撃つ )


> 我慢できずに書き込まれたかもしれませんが、
> どうせ語るなら、逃げ腰にならず、ゆっくり話しませんか。

ショ-シャンク 君 も ここに ゆっくり 腰を落ち着けています
( 落ち着かない と 思うのは 思想信“教” に わたしにおいても 自由です )

ここ は ヤフ-掲示板 の ようには 商業主義に(は) 支配されてはいない

一度 書き込めば、 何年でも そこから 追跡できる 、、、、
( しかも 「 無量 」 が 根本にある → 思想信条 を 問うて シャベツ しない )

通りすがり ということは ここでは おきてはいないのです

しかし、 逃げる ということは
逃げる人の 人生において 展開される 、、、、
どこまで逃げても、 自分の展開からは 逃げられない

そういうことを 「 輪廻 」 という「 語 」 で 教えているのです


 

  [No.17386] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 11:08:36

石飛先生、おはようございます。


> 日本だからこそ親鸞聖人を生んだのでしょうか。
>
> 日本で一番信者さんを得ているのは、日本人が非僧非俗の「愚禿」の道にあっているからかな、などと思ってもいますが、本当のところはよく分かりません。
>
> 私は、親鸞聖人のような生き方は、絶対できないだろうと思うので、どんなに尊敬しても尊敬したりないと、思っています。特別な人です。


親鸞が大変お好きなのですね。
嵐の大ファンに嵐の悪口を述べ立てるようで、居心地の悪さを感じますが(笑)

日本のインテリはこぞって親鸞が好きですね。太宰治が好きな心理と似通っているのかもしれません。
『私はだめな人間です。どうしようもない人間です。』と告白する人に共感を覚えるのでしょうか。

ただ、日本で一番信者が多いのは、すべて蓮如のおかげでしょう。それまでは零細教団だったと思います。
曹洞宗も大きくなったのは、瑩山のおかげですね。
ストレ-トのウィスキ-は飲める人は少なく、大量の水で割って飲みやすいようにしたところが信者が増えた理由でしょう。
大量の水と、いろいろな風味を付加していって大衆の口に合うようにする人が要ると言うことだと思います。


非僧非俗は、私は中道すなわち八正道ではなく、たんに中途半端ないいとこ取りだと思っています。
もともと、浄土門は、出家優先の道ではなく、在家中心の教えでした。
出家で念仏するより在家で念仏する方が優れているという考えもあるくらいです。

そうであれば、還俗させられたのですから、俗として、殺生し女犯しても阿弥陀仏に救われるということを示せばよかったと思います。
漁師でもして、殺生しながらでも救いの道を探求していけばよかったのではないでしょうか。


>私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。


それはちょっとあばたもえくぼっぽい気がします。。
親鸞が、息子を京に戻してその事情を聞いた上、とことん話したのであればそうかもしれませんが
関東の信者たちの訴えによって、会うこともなく義絶状を送っています。
やはり、教団の混乱を避けたいのが一番の動機だと思います。


 

  [No.17392] 法然親鸞 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 14:29:12

親鸞は、還俗させられても、庶民にはならず僧であることを選択しました。
ただ、僧でありながら堂々と妻帯する勇気もなかったので僧とは名乗らず非僧非俗と言って
しかし僧の恰好をして信者に食わしてもらえる特権階級に居続けたと考えます。

親鸞を見て最も残念なのは
法然が開いた易行道を難行中の難行にしてしまったことです。

法然は、命を懸けて徹底的に無知な衆生が救われる道を探しました。
そして善導の文に出会って、口称念仏にその道を見出しました。

念仏には、上中下があり、上の念仏は真理そのものを観想すること。中の念仏は仏の姿をありありと観じること。でした。

しかし、そのような観念的なことは無知な衆生には無理な道でした。

そこで法然は観念的に真理を観想することができない衆生のために、口で声を出して南無阿弥陀仏と唱えることだけでいい、
むしろ末法においてはそれだけが正行なのだと主張したのです。
とにかく四六時中唱えられる時間はすべて念仏を唱えること、としました。

声に出して念仏を唱えることは誰にでもできるので、それは瞬く間に民衆に広まっていきました。

ところが、親鸞は、そのような法然の苦労を全部駄目にしてしまった。
はからいを捨てて絶対他力に任せる、その信心こそが大事で、南無阿弥陀仏は救われていることへの感謝だと説きました。

インテリからすると、念仏の数にこだわる法然より、信心という普遍的なものを掲げる親鸞は、徹底した思想家だと受けがいいです。

しかし、口称念仏という誰でもできる道を、絶対他力への信心という非常に難しいものに変えてしまったのです。

親鸞の頭にあるのは自分の救いだけです。
法然の無知な衆生を救いたいという想いを壊してしまったと考えています。


 

  [No.17394] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/24(Fri) 17:39:19

ショ-シャンクさま

> 親鸞が大変お好きなのですね。
> 嵐の大ファンに嵐の悪口を述べ立てるようで、居心地の悪さを感じますが(笑)

あらま(笑)、それはどうもすみません。
実は、道元はもっと好きです。親鸞が嵐なら、道元は何かな(笑)

> 日本のインテリはこぞって親鸞が好きですね。太宰治が好きな心理と似通っているのかもしれません。
> 『私はだめな人間です。どうしようもない人間です。』と告白する人に共感を覚えるのでしょうか。

告白するだけじゃなくて、ほんとにダメダメっぽいですから。

> ただ、日本で一番信者が多いのは、すべて蓮如のおかげでしょう。それまでは零細教団だったと思います。
> 曹洞宗も大きくなったのは、瑩山のおかげですね。
> ストレ-トのウィスキ-は飲める人は少なく、大量の水で割って飲みやすいようにしたところが信者が増えた理由でしょう。
> 大量の水と、いろいろな風味を付加していって大衆の口に合うようにする人が要ると言うことだと思います。

もとのウィスキ-がおいしくないと、やっぱり大衆受けはしませんよね。
蓮如、瑩山をもつだけの力を具えていたということも考えられます。
まあ、このあたりはいろいろな考え方があるかと思っていますので。
嵐の悪口言っても、ぜんぜん大丈夫です(笑)

> 非僧非俗は、私は中道すなわち八正道ではなく、たんに中途半端ないいとこ取りだと思っています。

そういう風に見えるところも、中道の特徴だと思っています。
おっしゃるように、世俗的には、実際そうなる場合もあるかと思います。
中道には、二種類あります。いいとこ取りみたいに見えるのと、何を言っているのか分からないのと、二種類です。(すごい言い方になってしまっていますが)


> もともと、浄土門は、出家優先の道ではなく、在家中心の教えでした。
> 出家で念仏するより在家で念仏する方が優れているという考えもあるくらいです。

なるほど、おっしゃる意味はわかります。迷いがないからかもしれません。


> そうであれば、還俗させられたのですから、俗として、殺生し女犯しても阿弥陀仏に救われるということを示せばよかったと思います。
> 漁師でもして、殺生しながらでも救いの道を探求していけばよかったのではないでしょうか。

漁師の才能はないと思いますね。山で暮らしてきた人ですし。
ショ-シャンクさまがおっしゃるようには、親鸞はできないでしょう。それができたら、もっと早く悟るか、あるいは世俗の道を上手に生きていったのではないかと思います。

「還俗させられたんだから、世俗で生きてやるぅぅぅ~」、ということも出来ないからこそ、かれは、親鸞やってますから。
なんて不器用なんだ、と思いますが、こんなダメな親鸞だからこそ阿弥陀さまは救ってくださる、っていう、この理屈が、いいです。

私は、親鸞が好きなのか、親鸞の考える理屈が好きなのか、よく分かりません。
書いてあることに無理もなく無駄もなくムラもない、不器用に縁起だけでいく、縁起の論理を駆使して語るところが、圧倒的だと思います。


> >私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。
>
>
> それはちょっとあばたもえくぼっぽい気がします。。

そうでしょうか。。

> 親鸞が、息子を京に戻してその事情を聞いた上、とことん話したのであればそうかもしれませんが
> 関東の信者たちの訴えによって、会うこともなく義絶状を送っています。
> やはり、教団の混乱を避けたいのが一番の動機だと思います。

親がいるからコイツはダメになる、って瞬時に思ったのじゃないかと思っています。

阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。

誰でも、自分は、それなりだと思っています。どんなに口では卑下していても、そこそこの人物だと誰もが思うのです。比べて、上中下をつけるのが、人間です。
いくらブッダが戒めても、そこはなかなか直らないのです。

そういう意味では、親鸞のもとに集まって来た人たちも同じだったかもしれません。
だからこそ、ショ-シャンクさまも、難行中の難行になってしまったとおっしゃるのではないでしょうか。

龍樹が、難行と易行に分けたとき、教えの難しさを身にしみて実感していたと思います。
衆生たちが法を手にして混乱しまくるのを見ていたことでしょう。

ブッダ智慧を駆使して組み立てた修行のやり方は、ブッダを見ることによっても完成するとも言えます。
身も蓋もなく言ってしまえば、無我を得る手段としては、仏に祈るのはすごく良い方法です。
ほんとに打算的な言い方になってしまいますが、それこそ方便であるとも言えます。
ただし、ほんとに祈らなければなりません。(方便だと思っている段階では難しいでしょう)

「私を見るものは法を見る、法を見るものは私を見る」と、ブッダが述べたのは、法だけでいけないものは、私を見なさい、ということとも取れます。

ですから、声聞乗では、ただ自分で修行するだけではありません。
比丘たちは三宝に帰依します。

龍樹も、ゴ-タマに帰依しています。等覚者に帰依しています。
だからこそ、阿弥陀仏の念仏を易行として勧めていると思います。

ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。

わたしは、実は、そうでもないと思っています。
『スッタニパ-タ』「犀経」の中に、たった一つ、こういう詩があるのをご存じないですか。

45 もし、智慧ある者で、共に行を行い、善く住する、賢明なる者を友としたならば、あらゆる危難に打ち勝って、心に満足をもって、気づきをそなえて、かれとともに行じなさい。

また、ア-ナンダがブッダに「善い友も持つことは、道の半ばに到達したに等しいのではありませんか」とたずねると、「いや、そうではない、道の全部だよ」と答えたと、経典にあります。
ブッダがいた頃は、阿羅漢はたくさん生まれました。善き友ブッダを得て、比丘たちは、覚っていったのだと思います。

阿弥陀仏を善友とする者たちも、また、そういう道を行くのだと思っています。

「或るは勤行精進するあり。或るは信方便を以て易行にして疾く阿惟越致に至る者あり」と『十住毘婆沙論』にも、菩薩たちの行く道を説いています。


 

  [No.17396] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 03:11:02

石飛先生、こんばんは。

> 漁師の才能はないと思いますね。山で暮らしてきた人ですし。
ショ-シャンクさまがおっしゃるようには、親鸞はできないでしょう。それができたら、もっと早く悟るか、あるいは世俗の道を上手に生きていったのではないかと思います。
> 「還俗させられたんだから、世俗で生きてやるぅぅぅ~」、ということも出来ないからこそ、かれは、親鸞やってますから。
> なんて不器用なんだ、と思いますが、こんなダメな親鸞だからこそ阿弥陀さまは救ってくださる、っていう、この理屈が、いいです。
> 私は、親鸞が好きなのか、親鸞の考える理屈が好きなのか、よく分かりません。
> 書いてあることに無理もなく無駄もなくムラもない、不器用に縁起だけでいく、縁起の論理を駆使して語るところが、圧倒的だと思います。


なるほど。そう言われると嵐のファンになってしまいそうになります(笑)
確かに不器用な気もしますが、太宰治が派手に鉄棒を失敗したようなところはないでしょうか。
妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。
そのような臆病さも不器用、人間の弱さと見て、親鸞らしいと言われればそうも言えますが。
少なくとも、後世の、『親鸞は僧でありながら堂々と肉食妻帯した』というイメ-ジは全く違う気がしてます。
そのような弱さやずるさもえくぼになってしまうキャラではありますね。


> 阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。

それは本当にそうだと思います。
ですから、法然は、空念仏でもいいから声に出して念仏を唱えることを教えました。
本気の精神をまず求めてしまうと、ほとんどの人はできません。
声に出して唱えること、それが阿弥陀仏を意識することなんだと法然は言っていると思います。
それは、前提として悟りの精神を要求しないので易行道です。
親鸞は、計らいを捨てて絶対他力を信じ念仏は救われていることへの感謝だと言いました。
教理的には法然より徹底していて、インテリは大好きですが、
現実問題としては、親鸞の教えは難行中の難行です。
自らの心の醜さを徹底洞察し続けた親鸞だからできた道です。
この人は、自分の救いのみを求め続けた気がします。
法然は自らは救われていて、衆生を救う道を命がけで求めたと思います。


> 誰でも、自分は、それなりだと思っています。どんなに口では卑下していても、そこそこの人物だと誰もが思うのです。比べて、上中下をつけるのが、人間です。
> いくらブッダが戒めても、そこはなかなか直らないのです。
> そういう意味では、親鸞のもとに集まって来た人たちも同じだったかもしれません。
> だからこそ、ショ-シャンクさまも、難行中の難行になってしまったとおっしゃるのではないでしょうか。
> 龍樹が、難行と易行に分けたとき、教えの難しさを身にしみて実感していたと思います。
> 衆生たちが法を手にして混乱しまくるのを見ていたことでしょう。
> 龍樹も、ゴ-タマに帰依しています。等覚者に帰依しています。
> だからこそ、阿弥陀仏の念仏を易行として勧めていると思います。


そう思いますし、法然は無智な衆生が観念的なことから入るのは無理だと知っていました。


ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。



大乗のような、というより、浄土門のような、ということです。
想像上の神仏を信仰するという道は説かなかったと思います。
他力をたのむということはなかったように思います。


> わたしは、実は、そうでもないと思っています。
> 『スッタニパ-タ』「犀経」の中に、たった一つ、こういう詩があるのをご存じないですか。
> 45 もし、智慧ある者で、共に行を行い、善く住する、賢明なる者を友としたならば、あらゆる危難に打ち勝って、心に満足をもって、気づきをそなえて、かれとともに行じなさい。
> また、ア-ナンダがブッダに「善い友も持つことは、道の半ばに到達したに等しいのではありませんか」とたずねると、「いや、そうではない、道の全部だよ」と答えたと、経典にあります。
> ブッダがいた頃は、阿羅漢はたくさん生まれました。善き友ブッダを得て、比丘たちは、覚っていったのだと思います。
> 阿弥陀仏を善友とする者たちも、また、そういう道を行くのだと思っています。
> 「或るは勤行精進するあり。或るは信方便を以て易行にして疾く阿惟越致に至る者あり」と『十住毘婆沙論』にも、菩薩たちの行く道を説いています。



確かに、賢明なる友と修行せよ、ということは頻繁に出てきますね。
一人で修行せよということも多いですが、あるときからよき修行仲間と修行することを推奨するようになります。
サンガの発展段階かも知れません。
ただ、修行仲間と修行にいそしむことと、自分以外の神仏(他力)を信仰したりたよることは違うのではないでしょうか。

浄土門阿弥陀仏を修行仲間と捉えているわけではなく
特に親鸞は、自分をゼロ、阿弥陀仏を100%とする信仰の道、絶対他力の道です。
自らを島とする仏陀の教えとは異質な気がしています。


 

  [No.17402] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/25(Sat) 08:23:45

ショ-シャンクさま おはようございます。

> なるほど。そう言われると嵐のファンになってしまいそうになります(笑)
> 確かに不器用な気もしますが、太宰治が派手に鉄棒を失敗したようなところはないでしょうか。



喩えが非凡すぎる(笑)
太宰治に鉄棒させてみよう、っと。



> 妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。



そんなことを考えていたとは?! 夢にも思いつきませんでした。
京都のお坊さんたちも、なんだのかんだの、ブツブツ。。今さら、ブツブツ。。



> そのような臆病さも不器用、人間の弱さと見て、親鸞らしいと言われればそうも言えますが。
> 少なくとも、後世の、『親鸞は僧でありながら堂々と肉食妻帯した』というイメ-ジは全く違う気がしてます。
> そのような弱さやずるさもえくぼになってしまうキャラではありますね。



親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。
弱さやずるさは、ほんとはどこにあるのだろう、って、ちょっと思います。

これは、私の感じていることなのですが、日本では、伝統的には、「沙弥」や「菩薩」の生き方を自分たちにあったものとして取り入れてきているのではないだろうか、ということを思います。比丘の伝統よりも好んできたのではないでしょうか。

妻帯していてもしていなくても、立派なお坊さんは「立派だ」と思いますし、女性を識別区別しない態度は、平等の教えに適うと思います。

二人のお坊さんが川を渡ろうとしていたら、女の人が川を渡れず困っていた。その女の人は、二人に「私を渡してもらえないか」と頼んだが、若いお坊さんは「女性に触れてはならない」という戒律を思い出してためらっていた。すると、もう一人の年配のお坊さんが、ひょいと女性を担いで川を渡ってしまった。女性は礼を言って立ち去った。が、若いお坊さんは、何か釈然としない。しばらく二人で歩いていたが、とうとう我慢できなくなって「さっき女性を担いだのは…」とか言いかけると、年配のお坊さんが「おまえはいつまで女を担いでいるのだ」と言ったとか。何で読んだのか忘れました。

 


> > 阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。
>
> それは本当にそうだと思います。
> ですから、法然は、空念仏でもいいから声に出して念仏を唱えることを教えました。
> 本気の精神をまず求めてしまうと、ほとんどの人はできません。
> 声に出して唱えること、それが阿弥陀仏を意識することなんだと法然は言っていると思います。
> それは、前提として悟りの精神を要求しないので易行道です。



本当に信心深い人は、何か感動すると「なんまいだぶ、なんまいだぶ」と自然に出てきますね。浄土宗でも浄土真宗でも同じかもしれませんが、「ありがたい」と思うと自動的に口をついて出てしまうのでしょう。



> 親鸞は、計らいを捨てて絶対他力を信じ念仏は救われていることへの感謝だと言いました。

 


頭ごなしにそうは言っていないのではないでしょうか。

自力念仏しても自然と真如の門に入るとも、説いています。

定散自力の称名は
果遂のちかひに帰してこそ
おしへざれども自然に
真如の門に転入する(「浄土和讃」66、岩波文庫)

親鸞の教えを「空」の観点でとらえると、そういう感じがするかもしれません。
だから、縁起で進むのかもしれないですね。



> 自らの心の醜さを徹底洞察し続けた親鸞だからできた道です。
> この人は、自分の救いのみを求め続けた気がします。
> 法然は自らは救われていて、衆生を救う道を命がけで求めたと思います。



そのように見えるかもしれませんが、法然の念仏も親鸞の念仏も同じ念仏ですから、法然自身も念仏によって行こうとしたのではないでしょうか。
>
> > ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。


>
> 大乗のような、というより、浄土門のような、ということです。

> 想像上の神仏を信仰するという道は説かなかったと思います。
> 他力をたのむということはなかったように思います。
>

> ただ、修行仲間と修行にいそしむことと、自分以外の神仏(他力)を信仰したりたよることは違うのではないでしょうか。



うん、そう思います。
ですから、親鸞は、神仏をたんに信仰する道を説いていないと思っています。

真宗の篤信者で妙好人といわれる源左(げんざ)は、阿弥陀仏を「親さん」と呼んでいます。親さんのおすそ分けをして、みんなに話すのだから、源左が話すと思ってくださるなよ、などと言ってます。

念仏を唱えると、ちゃんと仏教になるのです。つまり、ごく自然とブッダの教えに従ってしまうのです。だから、すごいと思います。



> 浄土門阿弥陀仏を修行仲間と捉えているわけではなく
> 特に親鸞は、自分をゼロ、阿弥陀仏を100%とする信仰の道、絶対他力の道です。
> 自らを島とする仏陀の教えとは異質な気がしています。



絶対他力」というなら「回向」という言葉もほしいです。「本願」という言葉もほしいです。どうして阿弥陀仏になったのか、というところまでさかのぼるからです。
「本願」を知るから、仏道を知る、仏道を知るから、自力・他力を知る、自力・他力を知るから勤行精進と回向を知る、回向(と勤行精進)を知るから、発心する、発心するから念仏する。

本願を知って、法蔵菩薩阿弥陀仏になってることをしるならば、「念仏すれば、往生は定まる」と確信する(かもしれない)。不退の位に行ったと確信するその時、浄土門は大きな道として開かれる。
阿弥陀仏に並ぶ仏への道が、自分にもある。

往生するのは「自分」です。いつでも「島」はあります。極楽には、他が行くのではなく、自分が行くから念仏にも力が入る。

阿弥陀仏は、自分の善き友として、極楽世界で待っていてくれます。そこに生まれるのです。


 

  [No.17404] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 14:43:36

石飛先生、こんにちは。

> > 妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。
>
> そんなことを考えていたとは?! 夢にも思いつきませんでした。
> 京都のお坊さんたちも、なんだのかんだの、ブツブツ。。今さら、ブツブツ。。



親鸞が妻の恵信尼を京に連れて帰らなかったのは何故か、は歴史上の謎とされています。
恵信尼が実家の資産の管理をしなければいけないので越後に帰ったという説もありますが
恵信尼消息ではかなり経済的に困窮していますので、どう考えても一緒に住んだ方がいいのです。
偉人バイアス、宗祖バイアスがかかるとどうしても解けない謎ですが
私は何のバイアスも持っていないですから、京で妻帯することによる迫害を避けたとしか考えられません。
他の合理的な理由が何か考えられるでしょうか。



> 親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。



かろうじて残っていた形も崩壊してしまったなと思っています。
瀬戸内寂聴が言っていましたが、中国かどこかでアジアの僧侶が集まった会議があったそうです。
そこで日本の若い坊さんが自己紹介で『私の父も僧侶です』と言ったところ、
誰もその意味が分からなかったそうです。寂聴は恥ずかしかったと書いています。

日本は仏教伝来の時から、僧侶が公務員だったりして、出家というより文化人待遇で
サンガの体をなしていないまま来ました。
当然、戒律を裏で破る人も多かったですね。
しかし、公然と破るのとは意味合いが違います。

自動車の制限速度より速いスピ-ドを出したことのある人は多くいます。
だからと言って、制限速度をなくしてしまったら何でもありになってしまいます。

キリスト教の神父が独身であることとは意味が違います。
イエス・キリストは、結婚を禁じませんでした。
しかし、仏陀は、比丘の性交を禁じました。
出家したために子孫が絶えることを嘆いて母親が泣いて頼んでために(元)妻と性交した比丘を
仏陀は追い出しました。
親鸞もどうしても女犯したいのであれば、在家で職をもって生活すればよかったと思います。
校則で私服が禁じられている高校があってどうしてもその校則を守れないとわかっているのであれば
その高校に入らなければいいだけです。



> 二人のお坊さんが川を渡ろうとしていたら、女の人が川を渡れず困っていた。
その女の人は、二人に「私を渡してもらえないか」と頼んだが、
若いお坊さんは「女性に触れてはならない」という戒律を思い出してためらっていた。
すると、もう一人の年配のお坊さんが、ひょいと女性を担いで川を渡ってしまった。
女性は礼を言って立ち去った。が、若いお坊さんは、何か釈然としない。
しばらく二人で歩いていたが、とうとう我慢できなくなって「さっき女性を担いだのは…」とか言いかけると、
年配のお坊さんが「おまえはいつまで女を担いでいるのだ」と言ったとか。何で読んだのか忘れました。



禅でよく引用されるエピソ-ドですね。
これは私もこの通りだと思います。
戒律は動機を見るべきで、仏陀も、性交したから全員破門という形のことではなく、
レイプされたりした人は自らの意志でないので破門させられたりはしなかったと思います。
親が子孫を望んで仕方なく元の妻と性交した比丘は、快楽のためという動機ではなかったですが破門しました。
出家とはこの世の縁、鎖を全部放棄するということだからだと思います。

実際、親鸞が妻帯して子孫を残したために、親鸞の子孫というだけで特権階級になっています。
骨肉相争う事態にもなってしまいました。
修行ができた弟子に法を継がせるという禅の歴史とは全く違うことになってしまいました。



> 自力念仏しても自然と真如の門に入るとも、説いています。
>
> 定散自力の称名は
> 果遂のちかひに帰してこそ
> おしへざれども自然に
> 真如の門に転入する(「浄土和讃」66、岩波文庫)


確かにそうですね。
ただ、その後、

安楽浄土をねがひつつ
他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて
辺地・懈慢にとまるなり

とあって、絶対他力への信が前提になっているようには見えます。

法然は念仏を筏と考えていたところがあり、どんな無知な人でも行ける易行道を切り開いたと思いますが
親鸞は非常に道を高度で難しいものにしてしまった感はあります
親鸞の本質は天台本覚思想ではないかという気もします。


 

  [No.17416] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/26(Sun) 08:14:14

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 親鸞が妻の恵信尼を京に連れて帰らなかったのは何故か、は歴史上の謎とされています。
> 恵信尼が実家の資産の管理をしなければいけないので越後に帰ったという説もありますが
> 恵信尼消息ではかなり経済的に困窮していますので、どう考えても一緒に住んだ方がいいのです。
> 偉人バイアス、宗祖バイアスがかかるとどうしても解けない謎ですが
> 私は何のバイアスも持っていないですから、京で妻帯することによる迫害を避けたとしか考えられません。
> 他の合理的な理由が何か考えられるでしょうか。


このあたり、私は何も考えたことがないので、何も思い浮かびません。
ただ、「~しなかった」理由というのは、答を出すのはむずかしいかと思います。
「~した」のはなぜか、ということは考えやすいかもしれませんが、しなかったことについては、「もう、一緒にいなくてもいいかな」と思ったのだろう、くらいしか思いつきません。
でも、そう言われてみますと、お互い縛られない自由人だなあという気もしてきます。

> > 親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。
>
> かろうじて残っていた形も崩壊してしまったなと思っています。
> 瀬戸内寂聴が言っていましたが、中国かどこかでアジアの僧侶が集まった会議があったそうです。
> そこで日本の若い坊さんが自己紹介で『私の父も僧侶です』と言ったところ、
> 誰もその意味が分からなかったそうです。寂聴は恥ずかしかったと書いています。

外国のお坊さんは、「出家する前に子どもが生まれたのかな」とか思ったかもしれませんね。日本の事情を知らなくても、話のつじつまは合っているかもしれません。
「お父さんは出家した。僕も出家した」と考えて、「ああ、そうですか」というところかと。アジア圏の僧侶の人たちも、個人的な事情だと思って気にしないかも、とも思いますが。

ただ、詳しく説明して、立場上出家者として生きながら、家(妻子)がある、というのは、理解されがたいかもしれないですね。家から出ている(出家な)のに、家がある(在家)というところです。ただ、これも大事なのは、心だと思いますが。
「日本の伝統です」といえば、「ああ、そうですか」と言い、それぞれ、「これはサンガではないな」と思う人もいるし、「小戒はやめてもいい、とブッダが遺言したから、それを取り入れたかな」と思う人もいるかもしれません。あんまりいないかもしれないけど(笑)。

私は、寂聴さんが「恥ずかしく思った」という方が、ちょっと引っかかります。身内意識に、在家感覚を残しているような感じが漂います。

> 日本は仏教伝来の時から、僧侶が公務員だったりして、出家というより文化人待遇で
> サンガの体をなしていないまま来ました。

日本の場合、仏教伝来の事情により、サンガが朝廷から独立していないのは、痛かったですね。たしかに、それは言えるかなと思います。

> 当然、戒律を裏で破る人も多かったですね。
> しかし、公然と破るのとは意味合いが違います。

> 自動車の制限速度より速いスピ-ドを出したことのある人は多くいます。
> だからと言って、制限速度をなくしてしまったら何でもありになってしまいます。

私は、「公然と破るのとは違う」という意味を逆に考えてしまいました(笑)。
制限速度を設けるのは、世俗的な意味合いによります。みんな急ぐとき、多少制限速度を超えるかもしれませんが、それを、世間的な規準ととらえているからでしょう。

出家の場合は、世俗と価値が異なります。出家は出家で独立していることが必要だろうと思います。

戒律は、その条文を、パ-ティモッカと呼んでいますが、無理矢理訳すと「別解脱」ともいわれます。戒律も、解脱のためにある、ということを考えるなら、戒律至上主義というのも「こだわり(執着)」ととらえることもできます。戒律守ってさえいれば解脱できるか、となりますと、そういう保証はありません。

私自身は、出家にもよらず在家にもよらなかった親鸞は、新しい道を築いたと思います。
その生き方は、在家の価値でも出家の戒でも量ることができないところを示しているような気がします。ただ、親鸞以降の宗派は、おっしゃるように、また別に問題を抱えているように見えますね。

> キリスト教の神父が独身であることとは意味が違います。
> イエス・キリストは、結婚を禁じませんでした。

禁欲的な生活で知られるエッセネ派について、「一人も生まれないのに一種族を永久に保つ」と『プリニウスの博物誌』には驚きをもって書かれているようです。外から絶えず補充されることにより、そういう生活スタイルを守りたい人々が集まって暮らしていたのですね。女性もいくらかはいて結婚した人もいたらしいですが、かなり長いことこの教団は続いたようです。これも、ある意味、仏教的に解釈すれば、中道の要素もあるのかもしれません。ちょっと思ったことですが。

> しかし、仏陀は、比丘の性交を禁じました。
> 出家したために子孫が絶えることを嘆いて母親が泣いて頼んでために(元)妻と性交した比丘を
> 仏陀は追い出しました。

サンガのきまりを破ったからですね。
ここもサンガに入るとき、言われていたことなのに、それを破ったことでサンガにはいられなくなりました。本人の心が問題だと思います。

> 親鸞もどうしても女犯したいのであれば、在家で職をもって生活すればよかったと思います。

親鸞は、結局、中道を行きました。どっちにも行けなかった、というのが本当かなと思います。
先ほどの親にしたがった比丘より、自己を洲としている点では仏法的には良いかもしれない。ブッダなら、何と言ったでしょうね。それじゃあ、還俗しなさい、と言ったでしょうか。出たり入ったりすることになりますかね。。それもねえ。

> 戒律は動機を見るべきで、仏陀も、性交したから全員破門という形のことではなく、
> レイプされたりした人は自らの意志でないので破門させられたりはしなかったと思います。
> 親が子孫を望んで仕方なく元の妻と性交した比丘は、快楽のためという動機ではなかったですが破門しました。
> 出家とはこの世の縁、鎖を全部放棄するということだからだと思います。

私は、ショ-シャンクさまと似ていますが少し違っていて、本人の心のあり方を問題にしたのではないかと思います。
親に言われたら従ってしまうのは、世俗に未練を残しているからで、そうであれば、出家の本懐を遂げられないだろうと見たのではないでしょうか。

> 実際、親鸞が妻帯して子孫を残したために、親鸞の子孫というだけで特権階級になっています。
> 骨肉相争う事態にもなってしまいました。
> 修行ができた弟子に法を継がせるという禅の歴史とは全く違うことになってしまいました。

ここは、また、別の問題ですね。苦しみが起こってきますよね。
>
> 安楽浄土をねがひつつ
> 他力の信をえぬひとは
> 仏智不思議をうたがひて
> 辺地・懈慢にとまるなり
>
> とあって、絶対他力への信が前提になっているようには見えます。

ここは、条件文になっていると思います。
「安楽浄土を願いながら、しかし、他力の信を得ないなら」
ということだと思います。

信を無条件に前提にはしていないと思います。
安楽浄土という仏国土を整えたのは法蔵菩薩なのです。しかも、仏国土の完成のために世自在王如来に、いろいろその特長を聞いて、最高のものを作っています。

ですから、そこに行きたいということは、作った人に対する信頼もあるでしょう、と言っていると思います。
「信」は無条件の信仰を指しているのではなく、因と縁によって成り立つ安楽浄土を信じられるのであれば、おのずとそれを作った人についての信頼にも通じていくだろうと述べているようにも、思います。

なるほど、「仏智不思議」とかあるからかな。
何にしても、ブッダの教えの展開であることを忘れなければ、込み入ってきたとしても、話についていけるのではないかと思います。

>
> 法然は念仏を筏と考えていたところがあり、どんな無知な人でも行ける易行道を切り開いたと思いますが
> 親鸞は非常に道を高度で難しいものにしてしまった感はあります
> 親鸞の本質は天台本覚思想ではないかという気もします。

親鸞は、易行道の論理を極めたと思います。それは、法蔵の説く48願の論理構造に帰着し、その構造は、ブッダが『大般涅槃経』の中で説いたものと等しいのです。


 

  [No.17417] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 09:07:18

石飛先生、おはようございます。


> 親鸞は、易行道の論理を極めたと思います。


天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。
もともと悟っている、もともと救われている、
修行して悟るわけではなく、念仏して救われるわけではない
すでに救われているのが真理だ。

親鸞の教えは天台本覚思想のようにある意味究極です。
私は天台本覚思想に惹かれていたときがありました。

しかし、仏陀のいう『激流』の正体をありありと見た時に
天台本覚思想は全くの間違いだと悟りました。

天台本覚思想は恐るべき退廃をもたらせました。

親鸞の教えもそうです。
非僧非俗のいいとこ取りで
修行も全くせず、信者の布施で愛人を囲っている、
浄土真宗の坊さんの退廃を見ると、天台本覚思想と同じにおいがします。


 

  [No.17422] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/27(Mon) 06:23:46

ショ-シャンクさま こんばんは

と書き始めたのですが、途中で寝てしまい、おはようございます、になってしまいました。


> 天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。

似てないと思いますが、どんな風に同じなのでしょう。
正直に言うと、天台本覚思想は、巷で言われていることしか知りません。

> もともと悟っている、もともと救われている、
> 修行して悟るわけではなく、念仏して救われるわけではない
> すでに救われているのが真理だ。

親鸞の場合、縁起で語ります。
だから、念仏しないと救われないですよ、と。これは、はっきりしている。
念仏して救われるわけではない、ということは誰も言っていないと思います。

念仏しないでいるならば、阿弥陀仏には、救う手だてはないでしょう。

> 親鸞の教えは天台本覚思想のようにある意味究極です。

「ある意味究極」の意味が知りたい。

> 私は天台本覚思想に惹かれていたときがありました。

ふうむ、どうして惹かれたのですか。
どこが良かったのでしょうか。


>
> 天台本覚思想は恐るべき退廃をもたらせました。
>
> 親鸞の教えもそうです。
> 非僧非俗のいいとこ取りで
> 修行も全くせず、信者の布施で愛人を囲っている、
> 浄土真宗の坊さんの退廃を見ると、天台本覚思想と同じにおいがします。

お坊さんが退廃すると、教えも退廃していきそうですね。
どんなところにも、立派な人とそうでない人がいます。出家でも世俗でも、そして非僧非俗でも。

わたしは、浄土真宗の、ちょっとサラリ-マンみたいに見えるお坊さんがけっこう好きですよ。曹洞宗の、「ザ・お坊さん」というお坊さんも好きですが。他のお坊さんも、きっと同じだと思います。

非僧非俗で仏教になるのと、只管打坐で仏教になるのを、興味深く眺めています。


たえず勉強していないと、修行していないと、「仏教は腐りやすい」というのが、わたしの考えです。

常に精進しないと、すぐ腐っていきます。
浄土真宗だから、とか、そういう問題ではなく、どんな宗派でも、いつも刷新をはからないと、同じことだけをしているとたちまち腐臭が漂います。
変化の教えを持つだけあって、いつも変化していなければなりません。

親鸞の教えは、よく「絶対」他力と言われますが、「絶対」というのは安全地帯ではありません。一神教のように考えると、確実にコケます。(一神教の神様も、いつもはたらいていると言われてますから、そういう意味では「一神教のように」というのは、当たっていないかもしれないですが)

むしろ、安全地帯のないことが、「信」の支えになっています。

絶えず自分のダメさ加減を自覚し続けないと「信」すら起こらないようになっています。

だから、「しょっちゅう念仏しなくてもいいんだ。何回か言っただけでも阿弥陀さまは救ってくださる」って、口で言っても、頭で思っても、心配になって念仏するようになっています。念仏しないなら阿弥陀仏はやって来ません。理屈は、そこにしかないからです。

「信」というのは、世間一般で言うところの「信仰」だけではありません。人の言うことに聞く耳をもつという「信頼」とか「信用」とか「信心」とか、「信」のつくことばは何でも入っていると思います。

「この世は互いの信用で成りたっている」ということが言えるなら、そこには、仏教があります。阿弥陀仏の本願を、どう受けとめるかは、互いにどれだけ信頼し合えるかということだと思います。


 

  [No.17428] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 10:54:25

石飛先生、おはようございます。


> > 天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。

> 似てないと思いますが、どんな風に同じなのでしょう。
> 正直に言うと、天台本覚思想は、巷で言われていることしか知りません。


もともと、仏教は、
煩悩の滅⇒涅槃
修行⇒悟り
因⇒果
です。
しかし、大乗仏教が起こり、その哲理は絶対一元論の天台本覚思想へと進化していきました。
世界の絶対肯定です。
この世界は仏のあらわれそのままであり排斥するものなどない、ということです。

天台本覚思想に至って、煩悩即菩提 が強調されました。
煩悩の絶対肯定です。
すべては仏のあらわれという絶対一元論は非常に魅力的です。
学生の時や定年後の、現実社会と対峙することがないときは、
そのような絶対一元の観念にふけることはできますし幸せなことだろうと思います。

ある意味究極とは、現実から遊離した観念のお遊びとしては絶対一元論は究極なのだと言うことです。

天台本覚思想によれば、すべては仏のあらわれ、すべてはもともとから悟っている、ということですから
そして煩悩も即菩提ですから、修行は必要ないということです。
煩悩を滅して菩提でもなく、修行をして涅槃でもないのです。

親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
すべての衆生はすでに救われているのです。
修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。

天台本覚思想そのままだと思います。

実際、天台本覚思想の日本仏教への影響力は甚大です。

道元も、『衆生本来仏。人は元々悟っているのになぜ修行しなければならないのか。』がどうしてもわからず必死に探求していきました。
その結論が、本証妙修でした。



> たえず勉強していないと、修行していないと、「仏教は腐りやすい」というのが、わたしの考えです。
> 常に精進しないと、すぐ腐っていきます。


その通りだと思います。
仏陀はずっと『怠るな』と言ってきました。
気を少し離すと激流に巻き込まれていくからです。

ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。


 

  [No.17430] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 11:16:10

> > ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。

> そのような 解釈は あなたの自力で、起こしていることではありませんか ?

> 他力に 拠りますか


他力などありません。自力だけです。
仏陀が他力を頼めといつ言いましたか?
典拠を示してから言ってください。


> あなたの意思で、あなたの解釈は、正しいことと 肯定されます


あなたこそ、あちらこちらで自分の説を断言してますね。
自分が正しいと思い込んでるからそうしているのですから、まず自分を見ましょうね。


> 恐るべき結果は、 あなたの享受する処にある

自分に言えばいいことです。


 

  [No.17432] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 12:41:35

> > 自分に言えばいいことです。
>
> いいこと を 自分にしていますか ?


オウム返しは止めましょう。
仏教は自分を見つめること。
他人がなしているかどうかをいちいち口出しすることなく
自分がなしているかどうかを自分でみつめるのが仏教です。


 

  [No.17434] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 13:08:30

> 自分を 見つめてごらんなさい


そのように他人に命令しているでしょ?
誰にでもレスしてはそのように口出しするのが仏教ではありません。


 

  [No.17436] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 14:13:41

他人の過失をみるなかれ。
他人のしたことと、しなかったことを見るな。
ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17438] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 16:43:42

他人のしたことと、しなかったことを見るな。


 

  [No.17440] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:08:40

ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17442] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:37:45

怒りと高慢とに支配されるな。
それらの根を掘りつくしておれ。


 

  [No.17444] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:48:25


他人の過失をみるなかれ。

他人のしたことと、しなかったことを見るな。

ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17447] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:12:13


こころを安定させよ。

うろついてはならない。


 

  [No.17448] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:14:16


河底の浅い小川の水は音を立てて流れる。


 

  [No.17452] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/28(Tue) 17:46:36

ショ-シャンクさま こんにちは。

遅くなってしまって、すみません。
書いて投稿したはずなのに、消えてしまいました。

> しかし、大乗仏教が起こり、その哲理は絶対一元論の天台本覚思想へと進化していきました。
> 世界の絶対肯定です。
> この世界は仏のあらわれそのままであり排斥するものなどない、ということです。

もし、本当に天台本覚思想がこうなら、つまり、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりであれば、これは進化ではなくて、仏教からの転落ですね。

本覚思想は、ちょっと分からないので、ひとまずパスしておきます。
>
親鸞の方でお話ししますね。

> 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> すべての衆生はすでに救われているのです。

あ、なるほど、同じように考えたのですね。
ちょっと違うかなあ。

まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)

で、仏となりました。阿弥陀仏の誕生です。

ですが、

> すべての衆生はすでに救われているのです。

というのは、どこでですか?
娑婆の世界じゃ、救われていません。
極楽世界では、救われているのかもしれませんが、私たちには、即座に「ああ、そうなんだ」と言える程、たしかとは言えないでしょう。

「本願は成就しているから、衆生はすでに救われている」というのは、一つの論理ですが、
これを語るとき、親鸞は、縁起によって語ると言いました。

決して空は使わないと言いましたよね。

> 修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
> 念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。

「空」で行けば、これも言えるかもしれません。
結果を先に持ってきて、「救われているのなら、念仏は感謝の意味しかないだろう」というのは親鸞の説く説き方ではありません。

「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。

かれは、そうは言わなかった。

そもそも、阿弥陀仏が本願成就して悟っているから、衆生は救われているはず、と聞いて、すんなり信じる人が、どこにいるでしょうか。

迷いにある凡夫が、迷いなく信ずるとは思えません。むしろ疑うでしょう。

当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。
人に聞いたりもする、当然、中には「すでに救われてるのなら何をしてもいいんだ」などと言ってむちゃくちゃやったりする人も出てくる、口先で「南無阿弥陀仏」を言う人も出てくる。
まあ、いろんな人が出てきます。

「すでに救われている」というのは、単なる理論ではありません。主張ではありません。
「縁起」によって探し求めていく目標のようなものです。

だから、自分の中で起こる心の変化を見つめて、経典読んだり、人から話を聞いたり、法話に参加したりするのです。信じるまでがめちゃくちゃ時間がかかると思います。

それが、いわば仏道になっているのだと思います。
進むのは、皆、縁起によるのみです。空を使わないのは、一足飛びに結論に飛びつかないようにするためでしょう。

結論に飛びついてしまうと、今おっしゃるような「救われているんだから、感謝して念仏しろ」という押しつけの見解になってしまい、そこにこだわる怪しい宗教みたいになってきます。それでは、仏教ではありません。

いろいろ無茶やるのが凡夫なんだからと、自分でも凡夫らしく、迷い迷い進む道を行くのです。そうでないと納得できないからだと思います。

だから、ほんとは入り口のはずの「信」にたどり着いたら、もうへとへとでゴ-ルになっちゃった、というのが親鸞らしいと思います。信から入って智慧に行くのが大乗なのに、何と、信に入るだけでもふうふう言うのが親鸞の道です。

だから、愚禿親鸞なのです。だてに「愚か」をやってるわけではありません。

賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

「絶対」他力というのは、阿弥陀仏を信ずるところから出てくる教えではなくて、どんなに疑っても突き放しても離れようとしても、阿弥陀仏は救ってくれるのだと実感してしまうところに、教えの本筋があるように思います。

だから仏教ですね。

>
> ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。

誤解を恐れずに言うなら、自らの意思や自力を否定していくことは、ブッダの教えならばないと思います。自己を洲とせよ、というのが教えでもあります。

「自らの意思」「自力」をどこで使うか、ということだけのような気がします。

また、逆に聖道門に行った人たちが、自力だけしか使わないかと言うと、そうではない。
道元は、縁起も用いるし空も用います。「万法がすすんで自己を証するのが悟りだ」というとき、自力は押さえられています。「空」は自力を押さえるために使われるような感じがあります。

悟りの正体は、そこにあるような気がしますね。自力だけでも他力だけでも行けない。


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  [No.17453] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/28(Tue) 19:31:22

石飛先生、こんばんは。


> まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
> ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)


先生が太っ腹なんで助かります(笑)

無量寿経の経文では十八願は、
『設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法』
ですね。
訳としては
『わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。』

十回の念仏で極楽浄土に生まれるのですから、やはり阿弥陀仏の方が太っ腹ですね。




> 結果を先に持ってきて、「救われているのなら、念仏は感謝の意味しかないだろう」というのは親鸞の説く説き方ではありません。
> 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。
> かれは、そうは言わなかった。

 


そうですか?報恩感謝の念仏が親鸞の念仏の本質だと思いますが。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと 信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」

念仏をしたから助けられるのではなく、念仏しようと思い立ったときにはすでに助けられているということですよね。
そうして助けられていることへの報恩感謝が念仏として自然に出てくると言うことだろうと思います。
通常とは逆ですね。



> 当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。



そんな人は少ないでしょう。
ヤフ-掲示板で、浄土真宗の寺の長男でしかし僧ではなく寺を手伝っていた人がよく来ていましたが
その人は無量寿経の「唯除の文」を知りませんでした。

もし、無量寿経を本当にそのまま信じるのであれば
念仏は10回で極楽浄土に生まれるわけですし
唯除五逆誹謗正法 のはずです。

しかし、親鸞は、五逆誹謗正法も摂取不捨から外れないとしました。

このように日本仏教特に鎌倉新仏教においては、宗祖が絶対であり
経典は二の次、歴史上の仏陀の言ったことなどは三の次でも四の次でもなく、考慮もされません。

浄土真宗の寺のその一人息子でさえ、親鸞に関するものでも歎異抄をさらっと読んだだけくらいです。
経典までチェックしている人はごく少数でしょう。
先生のようなインテリくらいです。



>誤解を恐れずに言うなら、自らの意思や自力を否定していくことは、ブッダの教えならばないと思います。
自己を洲とせよ、というのが教えでもあります。


そうなのです。仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)の教えには、自力否定なんてありません。
他力を頼むという考えもありません。自らを洲とせよ島とせよ、ですから。
絶対他力親鸞浄土門は、やはり仏陀から来たものではなく、仏教以外から来たと思っています。




>また、逆に聖道門に行った人たちが、自力だけしか使わないかと言うと、そうではない。



聖道門は、大乗を浄土門と聖道門に分けたものであって、聖道門が仏陀の教えそのままでは無いと思います。
仏陀が直接説いた教えでは、他力という考えはないと思っています。

【2020/01/29(Wed) 09:28:42 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17459] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/30(Thu) 07:15:41

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 大無量寿経の経文では十八願は、
> 『設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
> 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法』
> ですね。
> 訳としては
> 『わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
> わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
> ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。』
>
> 十回の念仏で極楽浄土に生まれるのですから、やはり阿弥陀仏の方が太っ腹ですね。

 


太っ腹な第18願は、とても大事ですね。



> > 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。
> > かれは、そうは言わなかった。
>
> そうですか?報恩感謝の念仏が親鸞の念仏の本質だと思いますが。
>
> 「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと 信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、
> すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
>
> 念仏をしたから助けられるのではなく、念仏しようと思い立ったときにはすでに助けられているということですよね。


そうです。



> そうして助けられていることへの報恩感謝が念仏として自然に出てくると言うことだろうと思います。



上の文では、報恩感謝までは書かれていませんね。
摂取不捨が説かれています。この確信を得たとき、念仏が口をついて出てくるところだと思います。
ここは、道元の「本証妙修」と、論理としては、同じことが起こっています。

「報恩」までいうのは、行き過ぎだと思います。念々に「阿弥陀仏の摂取不捨の利益にあづけしめられている」自分を、みずから感ずる瞬間でしょう。

感じないとき、阿弥陀仏に対する報恩感謝はやって来ません。
この順序は、非常に微妙ですが、重要です。



> 通常とは逆ですね。



「通常」というのが、おおざっぱだと思います。

妙修を放下すれば、本証手の中にみてり。
本証を出身すれば、妙修通身におこなわる

道元の説く、この理屈と同じものが親鸞にもあります。

自分を放下すれば、阿弥陀仏の本願が手の中に満ち、その時念仏が出てくる。
翻って、阿弥陀仏の本願を出身すれば、(正定聚の)信が通身におこなわれ、その時、念仏は出てくる。

まあ、大体10回くらい言うことになるのかもしれません。
そこで、浄土に行ける切符を手にすることになります。

その後も、阿弥陀仏への信は途切れることはないので、おりに触れて、念仏するでしょう。

深く感じ入った時、真宗の信者さんたちは自然に念仏が出てくると言われますし、実際、そうです。

或る人が言う。
「もう、往生が決まっているのに、なぜ念仏するのだ。阿弥陀仏が救ってくれることが決まっているなら、十遍言ったのなら、そんなに何度も言うことないじゃないか」
そこで、答える。
「いや、今言ってるのは、報恩感謝の念仏だよ」


この道筋を無視して、「すべての衆生は救われているのだから、報恩感謝の念仏を阿弥陀仏に捧げなさい」となると、一神教の理屈になってしまいます。

 



> 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> すべての衆生はすでに救われているのです。
> 修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
> 念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。
(No.17428)

 


このようにショ-シャンクさまは述べられたのですが、ここを読んだ印象は、上に書いたように、一神教のような理屈を述べている親鸞、という風に見えてしまうのです。

そうではないと思っています。

 


>
>
> > 当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。
>
> そんな人は少ないでしょう。
> ヤフ-掲示板で、浄土真宗の寺の長男でしかし僧ではなく寺を手伝っていた人がよく来ていましたが
> その人は無量寿経の「唯除の文」を知りませんでした。
>
> もし、無量寿経を本当にそのまま信じるのであれば
> 念仏は10回で極楽浄土に生まれるわけですし
> 唯除五逆誹謗正法 のはずです。

 



ここは、少々考えなければならないところなのだと思います。
だから、ほら、第18願をしっかり読むことになるでしょう?

なぜ「唯除…」と言ったかをですね。


>
> しかし、親鸞は、五逆誹謗正法も摂取不捨から外れないとしました。

 



「縁起」が根本にあると、だんだん分かってくると思います。
「信」を持つとき、正定聚の位にあると知るのと同じように、五逆などを排除するためではなく実はかれらをも救わんとして、こういう言い方をしているのだと、気づくのだろうと思います。

「気づき(サティ)」と同じことです。
五逆・誹謗正法の人たちは、迷いに迷い、こういう結果になってしまった場合も多くあります。そういう人には自覚を促すのと、また、特に確信しておこなっている人は、阿弥陀仏など邪魔でしょう。頼みもしないのに救わないでくれ、という人もいるわけですから、阿弥陀仏は出しゃばらないという風にも考えられます。
決断は、自力なのです。
信に行くまでは、自己を洲として、自力そのままです。



>
> このように日本仏教特に鎌倉新仏教においては、宗祖が絶対であり
> 経典は二の次、歴史上の仏陀の言ったことなどは三の次でも四の次でもなく、考慮もされません。



そういうこともあるのかもしれませんが、そのようにやっていると仏教は廃れます。
宗祖は、ブッダと繋がっていると思うからこそ、宗派の人々がついていくのだと思います。
たえず、「ブッダに帰れ」というブッダルネッサンスは、いつの時代もおこなわれていると思います。


>
> 浄土真宗の寺のその一人息子でさえ、親鸞に関するものでも歎異抄をさらっと読んだだけくらいです。
> 経典までチェックしている人はごく少数でしょう。
> 先生のようなインテリくらいです。

 


まあ、文句をいわんでよ。経典読んでも読まなくても、仏教に行く人は行くし、いくら読んでも行かない人は行きません。
私も、喩えとして言ったのです。自分ならそうするという意味です。

仏教にはいろんな道がある。人の話を聞いて、すぐに悟る人もいます。「ラジョ-・ハラナン(塵を払う)」で悟る人もいます。
「唯除」を知らないお寺の息子さんは、それはそれで、何となく気持は分かります。



>
> そうなのです。仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)の教えには、自力否定なんてありません。
> 他力を頼むという考えもありません。自らを洲とせよ島とせよ、ですから。
> 絶対他力親鸞浄土門は、やはり仏陀から来たものではなく、仏教以外から来たと思っています。



そこが、ショ-シャンクさまの「こだわり」なのですね。
なるほど。。そういうことか。
絶対「絶対他力」の「絶対」は、取り除かないぞ、という固い決意が見えます。

こだわったら、仏教じゃないです。
どんなにそう思っても、どんなにそう信じても、一つにこだわって言うなら、その時、その言葉は仏教外に落ちると思います。

 


> 聖道門は、大乗を浄土門と聖道門に分けたものであって、聖道門が仏陀の教えそのままでは無いと思います。
> 仏陀が直接説いた教えでは、他力という考えはないと思っています。



他力に満ちているのが、ブッダの教えだと言う人もいます。

声聞乗と辟支仏乗は、ブッダに習うから出てくる道だ、という考えもあります。
習うとおりにするから、早く覚れる、というわけです。
辟支仏乗も、入っているのが面白いと思いますが、これも十二支縁起などを教えとして受けとっているのだ、と見ているのでしょう。

そういう意味では、自力の要素が強いのは、むしろ菩薩乗かもしれません。
教わったとおりではなく、自分でどんなことでもやって開発していく道だからです。
その菩薩乗にいて、弱くて力がなくてもいける道はありませんか、というので、易行道というのが龍樹によって言われていますが、これも、また、ちゃんとブッダから来ているのです。

菩薩は、ブッダの授記を受けると、確実にブッダになります。ゴ-タマ・ブッダも、かつて燃灯仏の授記を受けています。そういう意味では、他力の入らないものはない、とも言えます。なぜなら、他者と自分で世界が構成されるからであり、その世界に生きるのが、ブッダだからです。

「自力でやれ」と言われて自力でやってる自分は、何なのさ、であります。
一番ブッダの言葉に忠実な他力依存者ではないか、という文句も出て来るかもしれないのです。
そういう意味で、沙門ゴ-タマが覚りにいく前の、最後の悪魔の大軍の闘いで戦っていたのは、自力の「自」、すなわち、「自我(慢)」を殺す闘いであったと思うわけなのです。

純粋に他力なしの至高の存在は、天地創造の神でしょうか。


 

  [No.17463] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 14:47:07

石飛先生、こんにちは。

>そこが、ショ-シャンクさまの「こだわり」なのですね。
> なるほど。。そういうことか。
>絶対「絶対他力」の「絶対」は、取り除かないぞ、という固い決意が見えます。


それほど固い決意ではありません(笑)
絶対他力の『絶対』は別に取り除いて『他力』だけでもかまいません。

私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。
仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
他力を説くこともありませんでした。

その考えはバラモン教(ヒンズ-教)から来ているのだろうということです。
それは別に貶しているわけではなく、歴史的な事実としてそうではないかということです。

そして、それだから浄土教がいいとか悪いとか正しいとか間違っているとは思いません。
ただ、仏陀の教えとは違うものだ、ということ、
そして私は仏陀の教えが本当は何だったかを探求しているのです。
しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。

浄土教で救われる人は、妙好人など数多くいると思いますよ。
私がよく知っている人でも、毎年、本願寺に家族で奉仕に行っている人を2人知っていますし
どちらもいい人ですよ。

ただ、歴史上の仏陀の言っていることを、親鸞の言葉を引用して解釈するのは間違いだとは思います。


歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。

親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。

娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。

ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
好き嫌いは平行線になるだけでしょう。


 

  [No.17465] Re: 親鸞への疑問 投稿者:赤い実  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:17:08

石飛先生、お邪魔します。 仏教に詳しくないので、議論には参加できません。
ショ-シャンクさんのこのご投稿に感じたことを書かせていただきたくです。

> 親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
> 親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
> そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
> 本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。
>
> 娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。
>
> ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
> 好き嫌いは平行線になるだけでしょう。


ショ-シャンクさん、横レスですみません。
ショ-シャンクさんは、結婚されていて子どもさんとかはいらっしゃるのでしょうか。
もしかしたらそうではないのかな、という気はしているのですが。

親が優れていても子がそうだとは限らないし、また逆に、親がだめでも子は優れている、というのは普通にいくらでもありますよ。
親鸞の息子がだめ(だとされている)のも、親鸞の育て方が良くなかったのかもしれませんが、そう断言できるものでもないと思います。


 

  [No.17466] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:49:49

息子の善鸞を関東に行かせた当時、関東は親鸞の教団にとっては最も信者数が多く重要な地域でした。
そこに、親鸞の正しい教えを布教に行かせたというのは、弟子として最も重要な役割を与えたということです。
その弟子が関東の信者たちを大混乱に導くことをしでかしました。
つまり親鸞がその弟子(たまたま息子だったですが)をちゃんと自分の教えを託するくらいにしてなかったということ
それを見る目もなかったということです。
なおかつ、善鸞に会って事情を詳しく聞き説得することもなく、義絶状で切り捨ててしまいます。
阿弥陀仏の摂取不捨をあれほど強調している親鸞が、教団が混乱したらすぐ切り捨てるという行動をしたことに
言ってることと実際とで全く違うと考えています。
そういう人は信用しない、というだけです。


 

  [No.17468] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/30(Thu) 18:54:38

赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。

それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。

それでは。


 

  [No.17469] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/01/30(Thu) 19:33:34

> 赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。
>
> それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。
>
> それでは。
ちょっと待って。やはり横からですが、失礼します。ショ-シャンクさんず-っと今まで読んできました。どうして終わりなのですか。これまで、これだけ粘ってきたのに。春間さんに対しては他の人と同様、スル-すればいいではないですか。言葉尻を取ることなんて何時までだってできるし、いつもそうなんだから。それより、仏陀を問題にするんではないのですか。親鸞でどうして終わりにしてしまうのですか。エム先生の書き込みに反応していけば、いいではないですか。頑張って、本選に戻して続けてください。仏陀をどう読んだのかエム先生のとのやりとり、期待しています。


 

  [No.17470] Re: 親鸞への疑問 投稿者:赤い実  投稿日:2020/01/30(Thu) 19:51:26

> 赤い実さんも、相変わらず、あちこちの掲示板を覗いているのですね。
>
> それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。
>
> それでは。


feel goodではないのは、ショ-シャンクさんの言説をお借りするなら、「自分の責任」なのですよね。
起きることはすべて自分の責任である、と書かれていましたものね。

しかし。自分の責任である、と本当に考える人が、feel goodではないという捨て台詞みたいなのを残して「それでは。」と終わるのは矛盾であるように私には思えますけど、違うのかしら。

いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのですし、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。

返事は不要です。


 

  [No.17480] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/02/01(Sat) 20:07:45


> > それでは、私は『feel good』でないので、この辺で終わりにします。

“ 『feel good』でない ” という意味は

良い気分を 持てない → “ 不満である ” ということになります

> feel goodではないのは、ショ-シャンクさんの言説をお借りするなら、「自分の責任」なのですよね。
> 起きることはすべて自分の責任である、と書かれていましたものね。

言うこと を 自らにまず引き当てることが出来る時
同じことを言っても 意味は違ってきます
言い替えると、 違う意味を 言っても
気分によって 聞くこととなります

こういう “ 綾取り ” のような やり取り が 出来ないと
こんがらがって、 取れない のを 人のせいにすることとなります

大切なところは、 会話 は ゲ-ムや遊び事 ではないことです

すべてが、 自分の人生の そこにある展開なのです
あなたに、 自分があるのであれば、
自分が展開していることを 自分のこととしなくてはならないのです

取るのも、 取らせるのも 自分の事 です

取り方が気に入らなくて、 不満であると言って
自分の人生の一面から 逃避する ( 決して 行ったことからは、 逃避できない )

自分がある のであれば ( ! )
自分で 、
自分に起こす 局面を “ 向き合って 向き合うことに 変える “ しかないのです
( 自分が 向き を 変えるのです )



> しかし。自分の責任である、と本当に考える人が、feel goodではないという捨て台詞みたいなのを残して「それでは。」と終わるのは矛盾であるように私には思えますけど、違うのかしら。

あなたは 違うと 感じる

違わないと感じるから、 違うと感じること を 行ないに為す

( 飛躍して 展開しているけれど、 追えるかな ? )

> いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです

少なくとも、 管理人エム 様 は 期待していますよ !

> し、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。

ふくれているのでは ないでしょう

腐った 返答を目の前にして
臭いに 顔を背けているだけです

> 返事は不要です。

あなたは、 不要 と 感じる

要不要 は 自分に起こせばよい
> いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです
と 他に対して、 不要 を 言うことはない

自分の事を、 自分の責任範囲で 言うのであれば、
他人 のこと は 他人の責任範囲にしなければならない
( それは、 不要 と 決めること ではない )
( 思っても、 対外的に 口に出すことではない )

あなたの並べる こと( ところ ) に
齟齬があるとは 気付きませんか ?


 

  [No.17474] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/31(Fri) 03:54:26

ショ-シャンクさま こんばんは。

> それほど固い決意ではありません(笑)
> 絶対他力の『絶対』は別に取り除いて『他力』だけでもかまいません。

あ、そうですか。
固い決意かと思ってしまったわ(笑)
>
> 私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。
> 仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
> 他力を説くこともありませんでした。

まあ、そこら辺が、ブッダをどうとらえるか、仏教をどうとらえるか、という解釈ですね。
>
> その考えはバラモン教(ヒンズ-教)から来ているのだろうということです。
> それは別に貶しているわけではなく、歴史的な事実としてそうではないかということです。

私は、いったん保留しているのですが、バラモン教から来ているというのは、純粋には疑っています。
「純粋には」というのは、世自在王の呼び名がシヴァ神の呼び名と同じであっても、また、それから、それが本当にシヴァ神から来ているものであっても、ということです。呼び名だけでは、仏教の場合、そう簡単には言えないところがあります。わざとその呼び名を取る場合もあるからです。

また、シヴァ神ですが、この神様はヴェ-ダ時代はマイナ-な存在です。ルドラという神の吉祥な面をシヴァと呼んだらしい、と言われていますが、どのように人気を得てきたのか、よく分からないです。シヴァ神には、今では千の異名があるなどとも言われ、それをあげていく人もいます。ですから、ちょっと考えちゃいますね。


このあたり、仏教とはどんな教えなのか、に繋がってくると思っています。
まだ、自分の中でもかたまってないので、ちょっとお話できるものをもちませんが、
「歴史的な事実」というのだけにこだわっても、仏教は見えてこないとは思います。

というのは、ひとつには、ブッダは、過去仏の名をあげ、教えも紹介しているからです。

> そして、それだから浄土教がいいとか悪いとか正しいとか間違っているとは思いません。
> ただ、仏陀の教えとは違うものだ、ということ、
> そして私は仏陀の教えが本当は何だったかを探求しているのです。
> しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
> 『浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。

ブッダの教えが本当は何だったかを探究しているのですね。
私は、今『スッタニパ-タ』の「彼岸道品」を読んでいるのですが、ブッダは、バラモン教の人々に、ウパニシャッドに合わせて語っていることが分かりました。

私たちは、この経典も仏教の経典だと思っているので、仏教の教えに沿って解釈することしかしませんが、相手に合わせて語るブッダを見ると、ブッダに、いわゆる「教え」というのはあるのかな、という気がしてきます。


> ただ、歴史上の仏陀の言っていることを、親鸞の言葉を引用して解釈するのは間違いだとは思います。

歴史上のブッダが言っていることというのは、部派の人たちが言っていることですか。
いわゆる原始仏典ということかな。
>
> 歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。
>
> 親鸞は、自分の息子を関東に布教に行かせましたが、息子はとんでもないことを言い出します。
> 親鸞の見る目がなかったというか、息子にさえちゃんと自分の教えをわからせることができなかったということです。
> そして、関東の信者から苦情が来ると、息子に会うことも話すこともなく、義絶状を送りつけます。
> 本当に摂取不捨なのであれば、自分の計らいで切り捨てるのは口で言ってることと実際が違うと思います。

でも、ちょっと文句を言うようですが、親鸞の教えを「絶対他力」と見て本覚思想と似たようなものとごらんになっているのですよね。
親鸞が、そういう教えに合っていない行動を取っているのなら、親鸞のせいではなくて、ショ-シャンクさまが解釈を誤った可能性もありますよね。
>
> 娘の覚信尼親鸞の死に様を見て本当に浄土にいけたのか非常に不安になっている様子です。
>
> ですから、わたしはあまり親鸞を評価しないというだけですので
> 好き嫌いは平行線になるだけでしょう。

私は、好き嫌いは言っていません。
あ、そういえば、大好きだと言いましたが、興味深いという意味にとってください(笑)

どこから親鸞が出てきたのでしたっけ。私が言い出したんだったかな、それとも、ショ-シャンクさまでしたか。

親鸞はその行いを見ても、ショ-シャンクさまが気に入るようには動かないと思いますよ。
やっぱり、親鸞の説いていること(教え)と合わせて見て行かないと、分からないのではないかと思っています。となると、親鸞が何を言ったか調べないとならなくなります。

親鸞の心の中を見ていかないと、その教えを掴むことは難しいのではないでしょうか。


私の関心は、仏教を伝えた人たちが、その教えるところに添って正しく理解されることです。
特に大乗の場合、かれらがいかにブッダの教えどおりに行っているかを知ったら、驚くのではないかと思います。

初期仏教のスタイルと異なるからと言って、見た目で判断してはいけないということかな、と。

わたしは、「歴史上のブッダ」というのも、やがて、たくさんの見方の中の一つの見方でしかない、ということに気づいていくのではないかと思って、ショ-シャンクさまに期待しています。

対機説法というのは、伊達ではない。
ほんとにできたら、自分はない、と思いますよ、ほんと。
そして、ブッダは、あらゆる場合に対機説法していると知るなら、ブッダを掴むのは雲を掴むような話だと思うようになるのではないでしょうか。

私は、だんだん、そう思って来ています。
学問的にやって来ましたが、学問の器が小さすぎて、ブッダがはみ出ています。


 

  [No.17477] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/31(Fri) 08:51:50


> > 私の言いたいのは、浄土教仏陀本来の教えとは異質なものと言うことです。

仏陀の 本来の教え というモノ とは 何でしょうか ?

あなたは、 それを 知りたいと 願っているのではありませんか ?

どう違うかを、 判断できる その根拠
それが、 あなたの言うところの “ ブッダ本来の教え ” です


「 本来 赤 という 色 は こういう 色である 」 と こう言うとして
“ 本来の赤 ” とは どういう色でしょうか ?

本来の教え とは どういうモノでしょうか ?
( 今の段階で、 “本来” を 決めることは 正しいでしょうか ? )

仏教で 大事にされることは “ 「 自性 」 というモノ は ない ” ということです
( 本来具わっている というモノ は “ 本来から ” 存在しているモノではない ということです )

元は、 出した結論によって 変わってくる 、、、、
“ 箱の中の猫が死んでいるということは、 箱を開けることによって 決まる ”

死 というモノは 「 生 」 が 決めている のです
( 「 不生 」 であるのに、 箱を開ければ、 「 生 」 が 決められる 、、、、 )

> > 仏陀は、想像上の神仏の信仰を説くことはありませんでした。
> > 他力を説くこともありませんでした。

> まあ、そこら辺が、ブッダをどうとらえるか、仏教をどうとらえるか、という解釈ですね。

想像上のことが、 事実とされてはいませんか ?
( あなたは、 どうあるかを 知りたい 、、、、 )

あなたは、 あなたの解釈 を 知りたいのではなく
仏陀 を 知りたいのではありませんか ?

人 が “何か” を 拾ったとします
“ 何か ” 分からないから、 何を拾ったかを 知りたいと思います
何の為に拾ったかを 知ることも、 含まれなくては、
何を拾ったかは 決まりません

そのモノ は どういう働きをするか ということで
それに対する “ 名称 ” の 意味 が決まります

名称 に 拘ると
「 赤 」 は “ 赤っぽくなくなる ”

どの波長 から 赤は 始まっていますか ?



> 私は、いったん保留しているのですが、バラモン教から来ているというのは、純粋には疑っています。

バラモン教 と 呼ばれる 薫習 が あるから
それに対する( 臨機 ) 言葉が 口にされます

「 応病施薬 」 ということです

病が直って、 バラモン教 の 存在は 姿を変える 、、、、

> 「純粋には」というのは、世自在王の呼び名がシヴァ神の呼び名と同じであっても、また、それから、それが本当にシヴァ神から来ているものであっても、ということです。呼び名だけでは、仏教の場合、そう簡単には言えないところがあります。わざとその呼び名を取る場合もあるからです。

名付けられた 「名称」 は
名付ける者の 思惑に乗っている

苦楽の迷い が なければ、 「名称」 は 迷いにない
> また、・・・・・・千の異名があるなどとも言われ、それをあげていく人もいます。ですから、ちょっと考えちゃいますね。

何を考えてしまうのかを、 考えてしまう 、、、、
> このあたり、仏教とはどんな教えなのか、に繋がってくると思っています。

繋がっていない道は ありません
すべて、 人の心の中の道 です
心と 心とを 繋げれば、 道は 続きます

決別すれば、 道は分かれる こと となり、
違う分別 が 起こされています

( 自己に起きる解釈 )分別 が 道を隔てるのです


> まだ、自分の中でもかたまってないので、ちょっとお話できるものをもちませんが、
> 「歴史的な事実」というのだけにこだわっても、仏教は見えてこないとは思います。

歴史 というモノは、 「 勝者 」 が 決めることです
「 勝義 」 の 歴史 は ブッダ( 勝者 ) が 決める
歯が痛いときに は イシャ に 行きます

手術 まで 行かなくとも、
応病 の 施薬 も 施されます
( 単なる 痛み止め では ありません )

痛みが 止ったからといって、 効き目を 単一に捉えることは 賢いことではありません

“ 施薬 ” の 意味 も、 どのように 効き目 を みるかで、 決められます
( この言葉の意味 も、 読みようによって 決められます )


>
> というのは、ひとつには、ブッダは、過去仏の名をあげ、教えも紹介しているからです。

> > しかし私のレスに春間さんがことあるごとに親鸞を出してくるので、
> > 『浄土教仏陀本来の教えとは違うものなので私には興味ありません』と言いたいだけです。
> ブッダの教えが本当は何だったかを探究しているのですね。

言いたいこと を 言うのは
人が 言葉を発する 基本です
(わたしの)発しよう を あなたは 問題とする

その問題の ( あなたの ) 発しよう は 問題とはなりませんか ?

そこを 問題 と しているのです

> 私は、今『スッタニパ-タ』の「彼岸道品」を読んでいるのですが、ブッダは、バラモン教の人々に、ウパニシャッドに合わせて語っていることが分かりました。

分かるということを 分かると
分かったことの 行ない に 起きるようになる

起きない時 を 隙間から 見つけ出す時
隙間を見出す “ 分かる ” が 起きている

> 私たちは、この経典も仏教の経典だと思っているので、仏教の教えに沿って解釈することしかしませんが、相手に合わせて語るブッダを見ると、ブッダに、いわゆる「教え」というのはあるのかな、という気がしてきます。

“ 私たち ” と いう時
私 とは 誰であるかは、 “ 一応 ” 疑わないこととします
“ たち ” と 括るのは “ 質・タチ が悪い ”

あなたの読み方 が “わたし” の読み方 と 同じかどうかは
読み方 次第

> 歴史上のブッダが言っていることというのは、部派の人たちが言っていることですか。

部派の人たち が 言っていること
とは 何でしょうか ?

> いわゆる原始仏典ということかな。

原始仏典 という 名称 は いかなる働きにありますか ?

> > 歴史上の人物を見る場合も、その人の行ないを見て判断するのです。

自分の行い が 判断基準です
自分の行い から 離れると、 自分から離れる

自分から離れる そのところに、 「 他 」 が 起きている 、、、、


> 親鸞が、そういう教えに合っていない行動を取っているのなら、親鸞のせいではなくて、ショ-シャンクさまが解釈を誤った可能性もありますよね。

そういう可能性を 排除するところに
自分の解釈 は 起されている

> 私は、好き嫌いは言っていません。
> あ、そういえば、大好きだと言いましたが、興味深いという意味にとってください(笑)

意味はどうであろうと
「 好き 」 を 言ったのは 事実 です

どう取るかによって “ 事実は決まる ”

あなたは、 自分の事実 を そう取りたい だけです

どう取るか は 「 他 」 が 決める

あなたが、 「 自 」 を 設定するから
設定に沿った 「 好き 」 が “鋤の柄” となる ( 鋤 は “苦行” です )
> どこから親鸞が出てきたのでしたっけ。私が言い出したんだったかな、それとも、ショ-シャンクさまでしたか。

どうやら、 わたしは 置き去りにされているようです 、、、、

> 親鸞はその行いを見ても、ショ-シャンクさまが気に入るようには動かないと思いますよ。
> やっぱり、親鸞の説いていること(教え)と合わせて見て行かないと、分からないのではないかと思っています。となると、親鸞が何を言ったか調べないとならなくなります。

> 親鸞の心の中を見ていかないと、その教えを掴むことは難しいのではないでしょうか。

見方 は 心の中 に 起きています
その見方 から 離れる時 自分を見ることが 出来る
「 洲 」 に ある と 言うことが 出来ます

> 私の関心は、仏教を伝えた人たちが、その教えるところに添って正しく理解されることです。

伝えた人 とは 伝えたい人 です

どのように伝わったか で 伝えたことは 判断されます
その判断が 好嫌 に 起される
「 至道無難唯嫌揀択 」 と 言う・言われる ことには 「 嫌 」 という語が 使われています

好嫌 の 「 見 」 ですか ? ( 「 有見 」 でしょうか ? )


> 特に大乗の場合、かれらがいかにブッダの教えどおりに行っているかを知ったら、驚くのではないかと思います。

大乗 って 何かは
だれでも決めることが出来ます

決めない ・ 意味がない とも 決めることが出来ます

大乗仏教ブッダ の 教えではない 」

> 初期仏教のスタイルと異なるからと言って、見た目で判断してはいけないということかな、と。

スタイル が あるから、 像 が 輪郭として 決められ
内容 を 確定する “ よすが・世の姿 ” と なります

見た目 ということ を
“見た目” で 判断してはいけない

> わたしは、「歴史上のブッダ」というのも、やがて、たくさんの見方の中の一つの見方でしかない、ということに気づいていくのではないかと思って、ショ-シャンクさまに期待しています。

もう気付いているから
本当の 仏教 を 探し求めているのです

探し求める 方法 を 探し求めている のです

そこに 役立ちたい

> 対機説法というのは、伊達ではない。
> ほんとにできたら、自分はない、と思いますよ、ほんと。

自分はない と 自分で思う

他人が思う こと が 自分のことです

自分のこと を 知らなくて、 知ることも起きなければ、 「 応病 」 とは 出来ない

> そして、ブッダは、あらゆる場合に対機説法していると知るなら、ブッダを掴むのは雲を掴むような話だと思うようになるのではないでしょうか。

> 私は、だんだん、そう思って来ています。
> 学問的にやって来ましたが、学問の器が小さすぎて、ブッダがはみ出ています。

雲 は 何から 出来ていますか ?

法華経 」 を 読み返してください

「 慈雨 」 が 「 慈雲 」 であり

草花 に 降る 雨の “ おこぼれ ” が やがて 雲となる

雲 が 陽光 を 遮ります
雲の 切れ目 に 「 アオゾラ 」 は 広がり を 見せる ( 「 遍照金剛 」 )

その青空 は “ 大日 ” が 作っている


 

  [No.17456] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/29(Wed) 09:19:06

管理人エム 様


> もし、本当に天台本覚思想がこうなら、つまり、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりであれば、これは進化ではなくて、仏教からの転落ですね。
> 本覚思想は、ちょっと分からないので、ひとまずパスしておきます。

> 親鸞の方でお話ししますね。

> > 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> > 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> > すべての衆生はすでに救われているのです。

> あ、なるほど、同じように考えたのですね。
> ちょっと違うかなあ。

何と 同じように考えたか ・ 何と違うか
それらが 明確ではありません

本覚思想 の 解釈 と 同じ ?
( 違うかなあ ? )

> まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
> ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)

太い ・ 細い は 「 縁起 」 に あります

細い・狭い と もう一つの見方を しっかりと知った上で、 論を展開しなければ 、、、、


大雑把 と ぎゅっと絞り込む“ 検 ” ( “揀”択 ・ 豊“検” )
「 『仏道もとより豊検より跳出せるゆゑに』 (仏道固跳出於豊検故) 」 < 現成公案

「 至道無難唯嫌 揀択 」 < 信心銘 >
***********

「至道無難、唯嫌揀擇、但莫憎愛、洞然明白、毫釐有差、天地懸隔、欲得現前、莫存順逆。」
( 道に至るに難きことなし、ただ揀択を嫌う、
ただ愛憎なければ、洞然として明白なり、
毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。 )

感情 に 入ることなければ 、、、、

***********


> 「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。

論理 という 道筋に於いては 後のモノは 後にあります

しかし、 後先 は 「 縁起 」 に あります

どのような場合に 「 縁起 」 は 起きるか ?
それによって 起きる“時” と 起きない“場合” とが 起きています
その “ 時 ” は 同じ人の 一つの生 に 起きています
( “ 十 ” あろうと、 その “ 一つ ” に その “時” と それが 起きない“ 時・場合 ” が 起きています )

起きる時 を 問題にするとしても、
起きない場合 は(が) それを支えている
そういうこと を 忘れてはなりません

言葉は 理に沿って 並べられるから 理論的に 成り立ちますが
「 正理 」 というモノは 成り立つ・成り立たない を “ 跳出 ” しているのです

( この言葉を 先後 に於いて 検討してください )


> 「すでに救われている」というのは、単なる理論ではありません。主張ではありません。
> 「縁起」によって探し求めていく目標のようなものです。

行ないに 道がある
( = 道 に 行ないは起こされる )

道 は 一つですが 歩み方は 人によって それぞれの 「理」 と される
Su. 796 ( 789 796 824 ) ( 中村元岩波文庫ブッダのことば 」 179p )
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

太っ腹 で すますと 腹いっぱいの腹には ( 四食であろうと )もう入れることは適わない
( ただ、 感情には いくらでも 入れる こと は 適う )

> だから、自分の中で起こる心の変化を見つめて、経典読んだり、人から話を聞いたり、法話に参加したりするのです。信じるまでがめちゃくちゃ時間がかかると思います。
> それが、いわば仏道になっているのだと思います。
> 進むのは、皆、縁起によるのみです。空を使わないのは、一足飛びに結論に飛びつかないようにするためでしょう。

“ 一足飛びに 浄土まで 飛ぶ ” とは 説かれてはいません
「 一念 」 を 起すときに 浄土に “むまれる” 道にある のです
> 結論に飛びついてしまうと、今おっしゃるような「救われているんだから、感謝して念仏しろ」
> という押しつけの見解になってしまい、そこにこだわる怪しい宗教みたいになってきます。
> それでは、仏教ではありません。
道は 続いています
続く道を歩むことによって、 一処 に とどまらず ( 一念 は 十念 となる )

( 大乗 ) を 「 起信 」 する処に、 「 浄土 」 が ( 続く処 として ) 見えてくる


> いろいろ無茶やるのが凡夫なんだからと、自分でも凡夫らしく、迷い迷い進む道を行くのです。そうでないと納得できないからだと思います。

自分が 「 凡夫 」 である ということは、 確定していますか ?
( 誰が、 何の根拠で 確定させていますか ? )
( その根拠 を 起す “ 揀択 ” は 誰が 起していますか ? )

「 凡夫 」 という語 は
自分に 当てはめる語 ではありません
ミダ が 衆生に 哀愍 を起こすときに 起きている 語 です

凡夫 が 凡夫 を 語っている

凡夫 と 見据える その住処 は 「 仏国土 」 です

あなたは どこに 「 住処・洲 」 を 置いていますか ?
> だから、愚禿親鸞なのです。だてに「愚か」をやってるわけではありません。

だてに 愚か に あるのは 誰でしょうか ?

> 賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

賢くありたい
という “欲 ” は 「 論理 」 にも 起きます

> 賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

「 論理 」通り というのは
“ あまたにあるところの、一つの通り ”
その 通り という 通りでも 道は 繋がっているけれど 、、、、

そういう 論理 の 道 をあゆむ 、、、、、

> 「自らの意思」「自力」をどこで使うか、ということだけのような気がします。


どこで使うか ではなく
「 自力 」 を どう使うか です

「 自力 」 は 自分という住処 に ( 他によって 起されて ) たまたま起きているだけです

「 自力 」 は その住処( 自分というところの住処 )に 永住できない


 

  [No.17488] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/02/20(Thu) 16:46:18

先生
こんにちは
多分反論来るだろう、と思っていました。
> でも、わたしは、もう少し考えてみたのです。
> 寂聴さんが恥ずかしいと思った、というのは、日本人的な世俗感覚だなと思いました。ちょっと、ここに引っかかったのです。東南アジアのお坊さんたちは、おそらくそんなに気にしないのではないか、という気もちょっとしました。むしろ、ブッダの教えをしっかり身につけているかどうかを見てとるのじゃないかと思ったのです。他にも見るべき戒はありますから。

確かに寂聴さんの恥ずかしいは世俗的感覚ですね。出家したくせに、恥ずかしいとかはおかしいかもしれないです。恥ずかしいではなく、破戒です、というのが言うべきことなのかもしれません。破戒だったら恥ずかしいではすまないでしょう。
>
> スマ長老さまは、比丘にとって、いちばん大事な戒は不妄語だ、とおっしゃっていたように思います。
>
> たしかに、インドの行者でも、「嘘をつかない」というのを徹底して守っているように見えます。
>
> 仏法を受けとる姿勢に嘘がなければ、恥ずかしいと思うことはないのではないか、という気がしたのです。

大事な戒はほかにある、のかもしれません、しかし、性交をだからといって、破っていいとは一つもいってないです。私は性交に拘るわけではありませんが、むしろ日本の僧侶の無自覚さ加減に呆れます。確かに嘘はついてないわけですが、
また、そんなことつまり嘘をつかないことを言う人だから、仏法も正直に守っているかもしれませんが、「嘘をつかない」ということで、人前で馬鹿正直に自分の親は破戒してますという意味になることを平気で言うのが、愚かだと思うのです。もっと、全体を知れば、誠実な人かもしれませんが、それにしても、と言う思いを否定できません。これが日本の伝統ならば、それは仏教の伝統からは外れるのだから、もっと仏教の伝統に根差したことを熱心に語るべきでだったのではないでしょうか。
でも、この話は本筋から離れるものなので、あまり、突っ込まない方がいいかもしれませんね。
それより、ショ-シャンクさん、どうしちゃったのでしょうね。


 

  [No.17489] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/02/21(Fri) 09:55:32

遠佐さま
おはようございます。

> 多分反論来るだろう、と思っていました。

そう、予想されていたのですね。
遠佐さまなら、分かっていただけるのではないかと思って、書いてみたのですが、
実際のところ、遠佐さまのおっしゃるとおりだとは、わたしも思っています。
わたしは、「お寺側」に組する者ではないのですが、多様な見方(世俗諦とと第一義諦)をご紹介してみようと思って書いたのです。

> 確かに寂聴さんの恥ずかしいは世俗的感覚ですね。出家したくせに、恥ずかしいとかはおかしいかもしれないです。恥ずかしいではなく、破戒です、というのが言うべきことなのかもしれません。破戒だったら恥ずかしいではすまないでしょう。

この点、寂聴さんは、衣は出家の衣ですけど、感覚は世俗のままのような気がします。
それはそれで、まあ、一般人感覚を代弁して、人々の理解に添ったというところなのかもしれないです。

> 大事な戒はほかにある、のかもしれません、しかし、性交をだからといって、破っていいとは一つもいってないです。私は性交に拘るわけではありませんが、むしろ日本の僧侶の無自覚さ加減に呆れます。確かに嘘はついてないわけですが、

遠佐さまは、感覚の良い方ですね。言いたいことがみな伝わっています。
それだけに、遠佐さまのおっしゃることもよく分かります。

婬欲にとらわれると、トンデモないことになることは、『スッタニパ-タ』第4章「ティッサ・メッテイッヤ経」でブッダがさんざん説いています。口を酸っぱくして説いている、といってもいいような感じです。

816. (第七経第3偈)
かつては独り行じていても、婬欲の交わりを行うようになるならば、あたかも、(象・馬などの)乗り物が暴走するようなものです。世間において、かれは劣った凡夫であると言われます。
………
818. (第七経第5偈)
諸々の思念にとらわれて、かれは、困窮している者のように思いめぐらします。
他の人々の評判を聞いて、このような人は恥じ入るのです。
819. (第七経第6偈)
さらにまた、他の人のことばによって責め立てられて、かれは刀杖を作ります(悪い行いに及ぶのです)。実に、これが、かれにとって大きな洞穴となるのです。妄言に沈んでいくことになるからです。

> また、そんなことつまり嘘をつかないことを言う人だから、仏法も正直に守っているかもしれませんが、「嘘をつかない」ということで、人前で馬鹿正直に自分の親は破戒してますという意味になることを平気で言うのが、愚かだと思うのです。

おっしゃるとおり、そうだと思います。「愚か」というのがあっている感じはします。無知から来るものですよね。

仏教の教えは、部派の伝統だけではないので、仏法に添っていることを説明できれば良かったのかもしれません。

しかし、そのためには、大乗について語らねばならず、大乗の教えがブッダからくることを説明せねばならず、そして、その行いが仏法にかなうことを説明しなければなりません。

それをせずに、会議や集まりにいっても、懐疑的に見られるだけかもしれませんが。。(ちょっとだじゃれみたいになってしまった)

ただ、そうであっても、東南アジアのお坊さんたちが、日本から行ったお坊さんたちを同じ僧侶であると認めたならば、それは、それで良いのではないかと思います。
同じ教えを受けたものだと、分かったということかな、と。


> もっと、全体を知れば、誠実な人かもしれませんが、それにしても、と言う思いを否定できません。これが日本の伝統ならば、それは仏教の伝統からは外れるのだから、もっと仏教の伝統に根差したことを熱心に語るべきでだったのではないでしょうか。


結局のところ、これは、わたしの問題でもありますが、日本は仏教をどのように受容してきたのか、ということが、たえず問われているということかと思います。

わたしは、自分で、「大乗はブッダから来ている」ということを得てきています。それで、お坊さんが妻帯しても、そんなにビビらずいられますが、それを個々のお坊さんも得ているかどうかは、よく分かりません。

> でも、この話は本筋から離れるものなので、あまり、突っ込まない方がいいかもしれませんね。

わたしは、本筋に繋がっていると思って、書き込んでくれたことを感謝しています。
大事な問題のような気がします。

> それより、ショ-シャンクさん、どうしちゃったのでしょうね。

ほんとねぇ?
どうしたかしら。。


 

  [No.17492] Re: 親鸞への疑問 投稿者:遠佐  投稿日:2020/02/21(Fri) 14:37:20

先生
こんにちは
>
> しかし、そのためには、大乗について語らねばならず、大乗の教えがブッダからくることを説明せねばならず、そして、その行いが仏法にかなうことを説明しなければなりません。
>

>
> 結局のところ、これは、わたしの問題でもありますが、日本は仏教をどのように受容してきたのか、ということが、たえず問われているということかと思います。
>
やっぱり、そういう風に問題は広がっていきますね。私は、あっ、ちょっと論じだすと大きくなりそうだな、という感じがして、私は日本の僧侶個人の発言の問題だけにとどめようと思いました。話の本筋は親鸞の問題で、でもそれも派生した問題で、元はブッダの教えの問題でした。私はショ-シャンクさんが分析の力、或いは仏教的に言うと分別の力で、どれだけ頑張れるか、またはショ-シャンクさんに別の展開が訪れるのか、興味津々だったのですが。ショ-シャンクさんはすごく博識で、春間さんを遣り込める場面もあったので、もう一歩突っ込めばいいのに、と思ったりしていたのです。それにしても、私が横やりを入れた日本人の僧侶の話に戻って言うと、先生の言うような問題にすると、私の力量ではとても歯が立ちません。ここではこれだけで、失礼いたします。本当は先生にお聞きしたいという気持ちはうずうずしているのですが、はっきりした形にまとまってくれません。でも寿命のあるうちにお聞きしたいです。


 

  [No.17370] Re: 親鸞への疑問 投稿者:spinobuddhist  投稿日:2020/01/23(Thu) 21:33:13

ショ-シャンクさん


> 大乗仏教が何故興ったのかというテ-マに関しては、書こうと思いましたがかなり長くなりますので
> いくつかに分けて書かせてください。

期待しています。


 

  [No.17409] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 21:28:04

> もう浄土宗や密教キリスト教について語るのは、やめにしませんか?
> 健全な議論空間が回復することを切に願っています。


それは賛成です。
私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)のことだけを語りたいですね。
ゴ-タマ・シッダッタの教えを、後世の宗祖たちの教えで解釈するのは間違っていると思います。


 

  [No.17482] 紅白 の 考 は 赤い のだろうか ? 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/02/02(Sun) 08:07:43


“ 赤い実 ” も 赤いわけではない

“ 赤 という 名称 ” が、 「 赤 」 を決めるわけではなく、
“あなたが決める あなたの思い” を “ 赤 ” と 名づける だけ

実 というモノは “ キ ニ ” なっている

> あなたは 違うと 感じる

違うと思うから、
違わない理由を、 心に起こし、
起こす心を、 “ たがう ” 言葉を起こして、 「 違いませんか 」 と 表現する
> 違わないと感じるから、 違うと感じること を 行ないに為す
その行ないが、 “違う” という 疑問文 を 生む
> ( 飛躍して 展開しているけれど、 追えるかな ? )
一読して、 無意味な 考察な ひねくり回しと 感じ、
得るところは何もない ということを ( 自分の起こすことについて ) 得る人もいる

心の起こしようと、 言葉の起こされようについて、
( これも、 自分に起こされている人生 の 一コマである と )
何かを 得る人 が いる
( 何を得たか は、 得た人が決める
→ 自分の “財・アルタ” であるところの人との関わり の中で “得ている事柄・アルタ” )


> > いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです

わたしは 期待しています
自らに 起す アルタ を 分けて知る( ヴィジュニャ- ) 為 に
> 少なくとも、 管理人エム 様 は 期待していますよ !

多い少ない は 人数( 人の勘定 ) で 決められません
二人目 の 勘定 は 勘定する人を 勘定に入れずに、
一人目として 数えられる 、、、、

自分を 勘定に入れるところから、 認識を起こさなければ 、、、、

> > し、ふくれないでまた気が向いたら投稿されたらいいんではないでしょうか。
> ふくれているのでは ないでしょう

投稿 しようとする 心が、 しぼまされているだけです
( 言い換えると、“ FEEL SO BAD ” が 支配している だけです )

> 腐った 返答を目の前にして
> 臭いに 顔を背けているだけです

違う と 感じるのであれば、
臭さに 向かい立たなければなりません
臭いものに 蓋 を するには
臭いことを 起しているモノ を
よく注意して、 取り扱わなければなりません
( そうしないと、 取り扱うことによって 扱う者に 臭みが移る )
どのようにすれば、 元 は 絶たれるのでしょうか ?

> 自分に起こす 局面を “ 向き合って 向き合うことに 変える “ しかないのです
> ( 自分が 向き を 変えるのです )

“ 感じ悪い = feel goodではない ” と
感情 の中に 入りこめば、 あらゆることは、 その
あなたの“ 感情 ”の 中で ふるまいを見せることとなる

入り、 入れる 人は 誰でしょうか ?

こういうことが、
“ 飛躍 ” の 中に 込められています
同じ 言葉づかい( 名称の羅列 ) で
思考 を 考察する 必要はありませんが
言葉は 違っても、 向き合う 局面は 言葉ではない
( 言葉にしなければ、 “ 向き合い ” という 言葉に起きることに 向き合わない )

> > 返事は不要です。
> あなたは、 不要 と 感じる

不要と 感じさせる言葉で
必要なことを 伝える

> 要不要 は 自分に起こせばよい
> > いずれにしても。ショ-シャンクさんの投稿を期待している方がいらっしゃるのです
> と 他に対して、 不要 を 言うことはない

不要と 感じて、 不要を言う のであれば

いう必要は どこにもない
( そこを、 起す道筋の感情 を 見据えなければ、 感情に入ることとなります)
( いや、 入ってはいない という 感情を起こすが、
その起こされている感情 に 入ると、 冷静さを 失なっていることは 見えない )

> 自分の事を、 自分の責任範囲で 言うのであれば、
> 他人 のこと は 他人の責任範囲にしなければならない
> ( それは、 不要 と 決めること ではない )
> ( 思っても、 対外的に 口に出すことではない )

こうして、 考察 を 付加すると、
> あなたの並べる こと( ところ ) に
> 齟齬があるとは 気付きませんか ?

という 「名称」 の 連なりは
様相を 変えますか ?


 

  [No.17450] 他人の過失をみるなかれ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:50:14


他人の過失をみるなかれ。


 

  [No.17393] 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 16:46:09

>一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。


とspinobuddhistさんに言われましたので、書いていこうと思います。


仏陀の死後、仏教はその教説の独自性、優越性を強調する方向に行きました。
これは、どの宗教でも見られることで、自分が信じる宗祖の教えが他の教えより優れていることを強調したいというのは
その弟子たちにありがちなことです。
仏教も、どんどん、その方向に進んでいきました。
特に、その時代の精神フィ-ルドそのものだったバラモン教との差別化や優越性の強調は大きくなっていきました。
例えば、最古層の仏典では、ゴ-タマ・シッダッタを『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』とか呼ぶ場面は多いですが
時を経るにつれ呼称はは『尊師』などとなっていきました。

諸法非我についても、『我』がバラモン教のア-トマン思想と見なされ、ア-トマン否定、バラモン教否定という意味での
諸法無我に意味が変わっていきました。

ブラフマンもア-トマンも存在の根源という意味合いが強く、それを否定していったために
灰身滅智の方向へと仏教は傾いていきました。
根本分裂以降、部派仏教の時代になると、無我であれば因果の果を何が受けるのかという根本命題が出てきて、
それに対して煩瑣な理論ばかり盛んになっていきました。

仏陀の在世中には、無量心はbrahmam vihara という究極の境地だったと思いますが、
後世の仏教はブラフマンを宇宙の根源ではなく、色界最下層の梵天にまで貶めたため
無量心も色界最下層の境地とされ、解脱には至らないとされました。

このような状況の時に、『こんなものは仏陀の説かれた法ではない』『仏陀はもっと大いなる法を説いたのだ』と主張していったのが
大乗仏教運動だと考えています。
それは僧院の中で反骨的な僧が新たに大乗仏典を書いていったところから始まり、
それが徐々に広がっていきましたが、教団ができるのは5世紀以降です。
法華経にあるように、僧院を追い出されたりした『法師』という人たちが中心に小さな教団ができていったと考えます。
それより前に大乗仏典は中国に渡り、インドよりも中国で流行り出します。


このように、私は、大乗仏教は、灰身滅智に傾き、煩瑣な理論にふけっていた部派仏教のアンチテ-ゼ、
仏陀の真意の復興運動として起こったと考えます。


 

  [No.17397] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 03:43:38

> 「 空 」 が なぜ起こるかが、
> 分からないのです


『空』は起こるものですか?
あなたが指し示す『空』とは何ですか?


> 煩悩 が 即 菩提 なのです ( 煩悩と菩提 とは 表裏に過ぎません )


あなたの言う『煩悩』とは具体的には何ですか?


 

  [No.17401] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 07:49:39

> > 『空』は起こるものですか?

> 起こす “ モノ ” です
> 起こす こと に 付随して 起きます


『空』を起こすのですか?
『起こすこと』とは具体的には何でしょうか?



> > あなたの言う『煩悩』とは具体的には何ですか?

> あなたに ムラムラ と 沸き起こる
> あなたの 感情 です
> 「 アラユル コト ヲ 自分 ヲ
> 感情 ニ イレズニ 欲 見 聞 シ ソシテ ワカリ 」
> あらゆる コト は 自分 です
> ( カンジョウ も 自分だから 厄介です )
> あなたの 感情(自分) が あなたを支配している


『あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きし そしてわかり』だと思っていましたが。
『感情』であれば『感情を入れずに』と書いて『感情に入れずに』とは書かないような気がしますが。

あなたの解釈だと、煩悩=感情 ということでいいですか?


> あらゆるコト を 「 色 」 と 呼びます
> ( 「 色 」 以外が あなたにあれば、 あなたは あらゆるコト から 遠離しています )
> ( 「 遠離(一切) 顛倒夢想 」 )


受・想・行・識は、色の中に入っているのでしょうか?


> 人が 好き嫌い を 持つとき
> 感情は すべてを支配します

例えば、石飛先生が『親鸞が大好き』と言われるとき、それは揀択なのですか?


 

  [No.17405] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 19:51:59

> > > > 『空』は起こるものですか?
> > > 起こす “ モノ ” です
> > > 起こす こと に 付随して 起きます
> > 『空』を起こすのですか?
> 牟尼には 「 空 」 は 起きません


『空』とは、起きるとか起きないとかいうものではありません。
何を根拠にそのようなことを言っているのですか?

> あなたが 書き込むことです
> その行為 の 意味は 「 空 」 です

それでは、あなたが書き込むことは空ですか?空でないですか?
空でないとしたらその違いは何ですか?


> > > あなたの 感情 です
> > > 「 アラユル コト ヲ 自分 ヲ
> > > 感情 ニ イレズニ 欲 見 聞 シ ソシテ ワカリ 」
> > > あらゆる コト は 自分 です
> > > ( カンジョウ も 自分だから 厄介です )
> > > あなたの 感情(自分) が あなたを支配している


> > 『あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きし そしてわかり』だと思っていましたが。
> > 『感情』であれば『感情を入れずに』と書いて『感情に入れずに』とは書かないような気がしますが。

> あなたの 気 の せいです( 為せる 因であり果です )


やんわりとあなたの間違いを指摘したのですが、『あなたの気のせいです』とまで言われてしまったので
これからはオブラ-トに包まずに言いますね。
あなたの『雨ニモ負ケズ』の解釈は間違いです。

『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』の
『カンジョウ』は『感情』ではなく『勘定』です。


あなたは、仏陀の言葉も宮沢賢治の詩も自分勝手に変えてしまいます。

解釈の違いはいいとしても、原文の明らかな間違いは指摘された時には素直に認めたらどうですか?

前にも『縁起を見るものは私を見る』などと仏陀の言葉をねつ造していました。


 

  [No.17408] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 21:21:52

>
> > 『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』の
> > 『カンジョウ』は『感情』ではなく『勘定』です。
>
> その理由を
> 仏教を用いて 説明してごらんなさい


あなたに命令される謂れは一切ありません。

他人に言う前に間違っているあなたが、どうしてそんな勝手な解釈をしたのか
説明するべきでしょうね。

詩は一語一語の言葉が命です。
あなたのように自分勝手に原文を変えてしまう人に詩を語る資格があるでしょうか。


 

  [No.17413] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 00:43:33

『アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ 』

【あらゆることを自分を勘定に入れずに 良く見聞きしわかりそして忘れず】

自分を勘定に入れずに、とは、自分を数えない、自分を数に入れない、という意味です。
考えるときに自分のことは考えない、という意味になります。

あなたのいう
【あらゆることを自分を感情に入れずに 良く見聞きしわかりそして忘れず】
はどういう意味ですか?

自分の感情を入れずに、という意味なら
【あらゆることを自分を感情に入れずに 】ではなく
【あらゆることに自分の感情を入れずに 】となるはずです。



色に受・想・行・識が全部入っているというあなたの解釈も
まともに仏教をしている人なら絶対に言いません。

あなたが勝手な解釈をするのは自由ですが
私にレスをして、そのような間違ったことを押し付けようとするので
どうしても間違いをいちいち指摘していかなくてはいけなくなります。

私がやんわりと『それはこういう意味だという気がしてましたが』と間違いを指摘しようとすると
『それはあなたの気のせいです』とまで言われたので、はっきりと言うしかないのです。

私にレスすると私はあなたの間違いを指摘してしまいますから、私にレスをしない方がいいと何度も言っています。

【2020/01/26(Sun) 01:30:33 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17418] Re: 大乗仏教は何故興ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 09:11:34


ちょっと何言ってるかわからない
(サンドウィッチマン富澤風に・・)


 

  [No.17199] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/06(Mon) 16:26:03

石飛先生、明けましておめでとうございます。



> 「アジタの問い」だけで、当時の重要なウパニシャッドの思想がほぼ語られていることに気づきました。
> アジタ(負けないもの)と訳せるアジタさんの名前が、すでに正等覚者に平伏している様子が見えてきます。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤに答え、ウッダ-ラカに答えた正等覚者は、さらに『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』のサナトクマ-ラの説にも、反応しています。
> まさか!うそだろ、って感じです。
> 道理で難しいと思ったよ。
> 答の瞬間、アジタさんのあんぐり開いた口が見えるようです。
> しかし、瞬時にわかるアジタ尊者も大した人物ではありますが、その答の巧みさにはかれも舌をまいたにちがいありません。



『アジタの問い』を読み返してみましたが、
あの短い問いの中で、ウパニシャッドの思想がほぼ語られていると言われる意味がわかりませんでした。
他の十五人の問いと同じく、仏陀の教えの核心を導き出す問いとは思いますが、
アジタの問いだけを特別に考えられている理由もわかりませんでした。
お時間があるときに教えていただければ幸いです。


 

  [No.17200] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/07(Tue) 08:00:45

ショ-シャンクさま 明けましておめでとうございます。

今年もよろしく。

> 『アジタの問い』を読み返してみましたが、
> あの短い問いの中で、ウパニシャッドの思想がほぼ語られていると言われる意味がわかりませんでした。
> 他の十五人の問いと同じく、仏陀の教えの核心を導き出す問いとは思いますが、
> アジタの問いだけを特別に考えられている理由もわかりませんでした。
> お時間があるときに教えていただければ幸いです。


そうですよねぇ、わかりませんよね。
わたしも、『スッタニパ-タ』を数年にわたって読んできて、ようやく「彼岸道品」を読もうという気になってきたところなのです。
それまで、何を言っているのか、一つもわからず、意味があるのかないのか、でたらめなのかそうでないのか、何一つわかりませんでした。

その前の「八偈品」に取り組んで、かなりわかってきたので、勇気を振り絞って「彼岸道品」に取り組んでみました。

前提があります。「序偈」の話を受けいれて、『スッタニパ-タ』の第三章「大品」「八偈品」などをしっかり読んでくると、ようやく見えて来るものがあります。

当時、ブッダの教えを一つも知らない人たち、だけど、当時の最高の知識をもっている人たち、そういう人たちと、ブッダはどのように会話したのか、仏教の教団がかたちをなし力をもちはじめた頃のことだと思います。
「どうやら悟った人が出たらしい」「正等覚者らしい」とかいろいろウワサが飛びかっていたでしょう。


「正等覚者」というのは、仏教の用語のようになっていますが、当時としては、真理を覚って、宗派や流派や教団などを超えて、すべての教えの頂点に立つもの、という意味合いをもっていたのではないかと思います。それだから、どんな修行をしている人でも、
どんな知識をもっている人でも、「この人は真理を得た」と認めるような人のことを言うと考えて良いのだろうと思います。


ということは、逆に言えば、どんな教えや見解をもっている人とでも話ができる、ということです。


「序偈」で言われているのは、バラモンのバ-ヴァリンという人のことですが、この人の悩みを解決するために、十六人の弟子たちが派遣されるということは、バラモンのもつヴェ-ダの知識に、ブッダはどれだけ答えうるか、尋ねられるということでしょう。

ということは、当時のヴェ-ダの哲学思想の中で最高峰と考えられる思想が出てくることは、容易に想像できます。

まあ、言ってみれば、プロ同士の対話ということだと思います。

だから、あの短い偈の中に、最高の知識の要点がつまっていると見なければなりません。


わざと短く聞いているということもあるかもしれないし、また、当然知っていれば無駄を省いて、核心だけを聞くということもあるかと思います。
ブッダの教えとして「彼岸道品」はまとめられているので、多少のアレンジはあるかもしれないですが、ほぼ、こんな感じで対話していただろうということは、大いに想像できます。
もしかすると、もっと短かった可能性もありますね。


今日、古ウパニシャッドといわれる文献の内容に言及していることが分かれば、後は、ウパニシャッドを詳しく精査していくことが求められます。

ですが、ウパニシャッドというのは、注釈を書いている人が、ずいぶんの後の時代の人で、ブッダの当時、どのように考えられていたのか、よくわからないので、自分で読んで、後は、ブッダの語りの中から、思想をくみ取り、整理していくことが求められると思います。


結局、自分の力でやらねばなりませんが、その時、ヒントになるのが、ブッダは正等覚者だということです。これを皆が認めているということは、法として完成しているということですから、法として完成しうるかどうかを判定基準にして、自分でさぐって行くと、

それでも、だんだん薄皮を剥ぐようにわかってきます。

あの、アジタの問いを取り上げたのは、仏典の中で、いろいろなところで取り上げられて、使われているからです。サ-リプッタの他にも、まだ、引用されています。

つまり、アジタらを納得させたブッダは、そのやりとりを弟子たちの教育にも利用している、ということです。

ということは、ブッダの法は、最初から完成していたことが分かりますし、アジタを納得させたのですから、当時のヴェ-ダの知識をもっているバラモンの若者たちにも、大いに有効だったことは明白です。


で、そんなこんなを探っていくと、だんだん明らかになってくることがあるのですが、詳細は、論文にまとめますので、予告編だけでご勘弁を。


十六人の人たちが皆、ウパニシャッドをもちだしているというわけでもないようです。

アジタとティッサ・メッテイヤの二人は、ウパニシャッドから引用しています。
引用といっても、単語だけですが。

アジタは、「ナ-マル-パ」を、ティッサ・メッテイヤは、「シッバニ-(縫う女)」をあげて、ウパニシャッド思想にもとづいて語り、それをどのように継承・発展しているのか、あるいは、それを超える部分があるのか、など、探りを入れつつ尋ねていることがわかります。(「縫う女」については、中村註やスマ長老の指摘もあります)

後の人たちは、それからの展開なので、どんどん深く微妙になり、最後のピンギヤさんあたりだと、ほぼ覚りの究極に迫る段階であることが見えてきます。


かれらが、ブッダの弟子たちになったとしたら、大乗への道を歩むことになるのではないかと思います。仏教の教団に入る人たちもいるかもしれませんが、自分たちでここまで来ているなら、わざわざ教団に入らなくても、やっていけるので、かれらはかれらで独自路線を歩んだのかも。。などと思っているところです。


瑜伽師地論や大毘婆沙論などにも、アジタの問いなどが引用されていることで、このあたりが、部派や大乗の智を求める者たちにとって、重要な教えとなっているだろうということは否定できないと思っています。


仏教は、成立当時から、たんなる教団だけの活動ではなかったのだなあ、と実感させられますね。ブッダの力がいかに偉大だったのかを、知ります。


ということは、「彼岸道品」がわかると、ウパニシャッド思想もほぼわかるということでもありますね。
わたしは、インド思想を知る上でも、ここを読むのはありがたかったです。


 

  [No.17202] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/07(Tue) 11:32:22

石飛先生、おはようございます。
ご回答ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

予告編ということで、もちろんわからないことだらけですが、何か感じるものはありました。
先生のおっしゃる、『スッタニパ-タには一切智がある』ということのような気がしました。
自分で深く考えてみます。

ところで、縫う女=家を作る者 と考えてよろしいでしょうか。
全く同じ意味なのか、違うところがあるのか、お聞きしたいのです。

あと、中村元氏訳では、アジタが
智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?』と問うたとなっています。
この訳では、『智慧』と『気をつけること』と『名称と形態』の3つが並列されており、
3つとも消滅するように捉えられる訳となっています。
どうも訳がおかしいと思えますが、本当はどういう意味なのでしょうか。

質問ばかりですみません。


 

  [No.17203] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/08(Wed) 04:10:09

ショ-シャンクさま おはようございます。

> ところで、縫う女=家を作る者 と考えてよろしいでしょうか。
> 全く同じ意味なのか、違うところがあるのか、お聞きしたいのです。

ほお、さっそく核心に入られましたね。

「家を作る者」とは、『ダンマパダ』にあるものですね。

153.わたしは、幾多の境涯を、得るものもなく輪廻してきた。家の作り手を探し求めながら、くり返す境涯は、苦しみである。
154.家の作り手よ! おまえは見られた。おまえが、ふたたび家を作ることはないだろう。おまえのすべての梁や桟は破壊され、家の屋根は壊れ落ちた。心は、意志(行)を離れ、渇愛は滅尽に至った。

なかなか! いいですね。お見事です。
わたしは、このことばは、おっしゃるように「輪廻」を示すと思います。
同じ単語ではありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤの説に出てきて、特に、ア-トマンが身体を捨てて、別の身体を得ていくさまを、縫い子が刺繍を一つ取り去って新しい刺繍を作る様子にたとえているのです。
特に、「家を作る者」をあげていただいてすごいな、と思うのは、それが、どちら(縫う女も家を作る者も)も<人>を指しているからです。ヤ-ジュニャヴァルキヤも、永遠不滅のア-トマン(自己)を説きますが、それをプルシャ(人)と言い換えたりもするのです。

あまり違いが言われることはなく、どちらも同じだなどと考えられたりもしますが、やはり微妙に違うのではないかと思ったりもします。ブッダが輪廻を語る時は、<人>を意識して語りますね。

スマ長老は、そこを仏教的に解釈して、「妄執」のことだとしています。法として語る時には、具体的にそれでいいと思います。
>
> あと、中村元氏訳では、アジタが
> 『智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?』と問うたとなっています。
> この訳では、『智慧』と『気をつけること』と『名称と形態』の3つが並列されており、
> 3つとも消滅するように捉えられる訳となっています。
> どうも訳がおかしいと思えますが、本当はどういう意味なのでしょうか。

智慧と気をつけることは、ブッダの答えですね。後、突然「名称と形態」が出てきてびっくりするのですが、おそらく、ここは、アジタが尋ねたかったことだと思います。

ここも、このとおりで良いと思います。消滅することをもちだしているのは、生きている身体(命)を問題にしているからだと思います。
今度は、アジタは、ウッダ-ラカの教えを聞いているように思います。

ブッダの答えが、アジタにはよく飲み込めないので、さらに、(ブッダなら)当然知ってるだろ、みたいな感じで、「ナ-マル-パ」を出してきたのではないかと思います。
「識別作用」が滅したら「名称と形態」も滅すると答えて、アジタを納得させるのですが、
これがすごいですよね。

ここで、また、ウパニシャッドの別の思想をもってきているらしいことが分かるのですが、ここは今検討中です。

ウパニシャッドの説とブッダの説が、コラボしている感じですね。ちなみに、ナ-マル-パ(名称と形態)もヴィジュニャ-ナ(識別作用)も、仏教でも使いますし、ウパニシャッドでも使います。

これだけ、共通の用語が出て来ると、ウパニシャッドの中で使える単語はどんどん使って、ブッダが、教説を組み立てている様子が見えてくるようです。

はっきり言って、ブッダは、ほとんど、この場で瞬間で組み立てているのではないかと思います。
経典のことばは、おそらくどれもそうですね。ブッダ自身は、瞬時に、解答を出せるのだと思っています。ウパニシャッドなども自由自在だったことでしょう。ヴェ-ダグ-(ヴェ-ダの達人)は、文字通りだなと思います。

一切智者、正等覚者、という特徴を、感じてきます。ただのことばだけではなく、それを実感するような感覚になってきますね。

まあ、人間を超えてるんだな、って、素直に思います。
インドの人が拝むはずだなあ、って。


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  [No.17207] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 11:45:35

石飛先生、おはようございます。
ご回答ありがとうございます。


> 「家を作る者」とは、『ダンマパダ』にあるものですね。
> 153.わたしは、幾多の境涯を、得るものもなく輪廻してきた。家の作り手を探し求めながら、くり返す境涯は、苦しみである。
> 154.家の作り手よ! おまえは見られた。おまえが、ふたたび家を作ることはないだろう。おまえのすべての梁や桟は破壊され、家の屋根は壊れ落ちた。心は、意志(行)を離れ、渇愛は滅尽に至った。
>
> なかなか! いいですね。お見事です。
> わたしは、このことばは、おっしゃるように「輪廻」を示すと思います。
> 同じ単語ではありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤの説に出てきて、特に、ア-トマンが身体を捨てて、別の身体を得ていくさまを、縫い子が刺繍を一つ取り去って新しい刺繍を作る様子にたとえているのです。
> 特に、「家を作る者」をあげていただいてすごいな、と思うのは、それが、どちら(縫う女も家を作る者も)も<人>を指しているからです。ヤ-ジュニャヴァルキヤも、永遠不滅のア-トマン(自己)を説きますが、それをプルシャ(人)と言い換えたりもするのです。
> あまり違いが言われることはなく、どちらも同じだなどと考えられたりもしますが、やはり微妙に違うのではないかと思ったりもします。ブッダが輪廻を語る時は、<人>を意識して語りますね。
> スマ長老は、そこを仏教的に解釈して、「妄執」のことだとしています。法として語る時には、具体的にそれでいいと思います。


おっしゃるように、『縫う女』も『家を作る者』も、ナ-マル-パ=個体を形成しようとするもので、渇愛のことだろうと私も思います。
そういう意味で全く同じかもしれませんね。

興味深いのは、それを超える方法についての仏陀の表現の違いです。

『縫う女』を超えるには
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』ことだと答えています。
それに対し、
『家を作る者』は見ることによって滅することができるようです。

滅する方法が違うので微妙に違うものを比喩しているのかもしれません。

仮説として、
『家を作る者』は、再生をもたらす無明もしくは渇愛
『縫う女』は、この世の欲望、煩悩のことなのかなとおもったりしたのです。

しかし、先生がおっしゃるように、本来の『縫う女』の意味は
ア-トマンが新しい身体を作っていくことなのであれば
『家を作る者』と変わりはないですね。

ご回答ありがとうございました。

それにしても、
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
中道とは中間のことではないと言っているようで、
弦の喩えで強くても緩くてもいけない、その中間と思っている人には衝撃かもしれません。


 

  [No.17217] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 21:29:40

> > ここは読者にわかるように説明してほしいね。

> 欲しければ
> (頼み方を) 考えること
> を 考えよう



やはりそうですね。
春間さんは、誰に聞かれても自分の意見を説明しようとしませんね。
論破されることを怖れているようです。

あまりに自分の考えを言おうとしないので、あるいはごまかして逃げてしまうので
私は前に『ジャンヌダルク』に関して春間さんが言った言葉と
『善人なおもって往生す』に関して春間さんが言った言葉を
徹底的に追求したことがありました。

今後、誰かの投稿にレスをつけるのであれば、そのレスの文章の意味を説明してほしいものです。
そうしないと全く対話など成り立ちませんよ。


 

  [No.17225] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 22:27:59

> 基本的には 説明しません
> 考えるべきことを 提示するのみです
> 教えてもらって、
> 自分のモノにできる人は
> ほとんどいないのです
> ア-ト は 盗むモノ です



私はあなたに教えてもらおうとは全く思っていません。
考えるべきことを提示してもらいたいとも一切思いません。
あなたが言っていることがア-トだとは思いもしません。

どうか、あなたに教えてもらいたいと思っている人にレスしてください。
あなたの言うことをア-トだと思っている人にレスしてあげてください。
私には不必要です。


 

  [No.17232] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 07:00:19

> > 私には不必要です。


> あなただけが 読むわけではない
> あなたは読もうとしない( 読みたいように読む )
> わたしは
> 読む人に語っている


読もうとして、その文章の意味を質問しても答えないではないですか。

あなたは、自分が『わかっている人』だと閲覧している人に見せびらかしたいだけです。
その自己イメ-ジを損ないたくなくて、突っ込まれないように説明を避けているのです。
自らは安全なところにいて、そこから教えを説いて回っている気分に浸っているのです。

そのような自己陶酔は、私が考える仏陀の教えからは真逆なものですが
いくら言っても気づかないですし変える気はないでしょう。

私の投稿へのレスであっても、他の読む人のためのものなのであれば、
私が返信する必要もないということでいいですね?


 

  [No.17215] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 20:58:32

> > 『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
> > 中道とは中間のことではないと言っているようで、



> 一方の 極端 と 他方の極端 を置くと 自然に 中間 が 起きます
> どちらかの 極端 と 中間とに於いては 中間は 一方の極端に対する、 極端となります
> ( 遠近は 「 縁起 」 です )
> 一方に対して、 他方を置くことが出来れば
> その時 極端 は 起きてはいないのです
> ( 「 縁起 」 が起きる とは 極端にあるということです )
> 自然に 「 中道 」 にあります
> これが 「 縁起 」 の 意味であり、
> 「 如来蔵 」 の 根拠 です
> 極端が起きる時 「 中道 」 は 起きている



私も、通りがかりのおっさんさんと同じく、春間さんにきちんとした説明をしてほしいですね。

『 一方の 極端 と 他方の極端 を置くと 自然に 中間 が 起きます
どちらかの 極端 と 中間とに於いては 中間は 一方の極端に対する、 極端となります』
と言う文章と
『一方に対して、 他方を置くことが出来れば
その時 極端 は 起きてはいないのです
自然に 「 中道 」 にあります』
と言う文章は矛盾するように思えるのです。

前者は、一方の極端と他方の極端を置くと中間が起き、その中間が極端になる・・・・
後者は、一方の極端に他方の極端を置くと極端は起きていない・・・・

同じことをして前者と後者は真逆です。


 

  [No.17221] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 22:20:12

>
> > 同じことをして前者と後者は真逆です。
>
> 同じことに 違う意味が起きることも
>
> 「 縁起 」 のすがた の一つです
>
> ・



そのようなものは『縁起』ではありません。
少なくとも、仏陀が説いた縁起ではありません。


 

  [No.17233] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 07:07:27

>
> > > > 同じことをして前者と後者は真逆です。
> > > 同じことに 違う意味が起きることも
> > > 「 縁起 」 のすがた の一つです


> > そのようなものは『縁起』ではありません。
> > 少なくとも、仏陀が説いた縁起ではありません。


> ブッダが説く 「 縁起 」 を知る者は ブッダである



それでは、仏陀が縁起について説いた言葉で
『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』というあなたの言葉を証明するものはひとつでもありますか?
あるのであれば、根拠を示してください。


 

  [No.17244] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 09:24:08

仏陀が縁起について説いた言葉で
『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』というあなたの言葉を証明するものはひとつでもありますか?
あるのであれば、根拠を示してください。

どのような仏陀の言葉から、『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』という結論になるのですか?


 

  [No.17246] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 11:07:08

それでは、あなたの言う『縁起』は
仏陀が説いた縁起とは関係ないものだと考えますね。

あなたが縁起という言葉を勝手に解釈して投稿しているのでしたら
私には興味がありません。


 

  [No.17249] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 11:39:23

あなたが
『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』
と言ったのです。

そのように『縁起』を仏陀が説きましたか?と聞いているのです。

私は、矛盾することを言っておいて
『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』と断定するのは
仏陀が説いたことではない、と言っているのです。

もし、仏陀が『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」だ』と言っている箇所があれば典拠を示してくださいと言っているのです。
根拠がないのであれば、ただあなたが勝手に縁起という言葉を解釈して断定しているに過ぎず
私には興味がないと言っているのです。


 

  [No.17254] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 12:35:15

典拠を示していただければ、私は否定しませんよ。

しかし、いくら言っても、あなたはその根拠を示すことはできないですよね。

それは、あなたの言う縁起が、仏陀が言ったことではないからです。

仏陀の言ったことに基づいてないのであればそう言ってください。

あなたは何にでも『縁起』を出してきますが、それはあなたの勝手な縁起の解釈に過ぎず仏陀が説いたことではないと思っています。
そうでないというのであれば、仏陀が言った言葉を挙げてみてください。


 

  [No.17210] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 17:24:42

> この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )



『わたしを ほうかっておきなさい』と言ったのは、あなたですよ。


それに、あなたにレスしても、対話が成立しないので、時間の無駄なのです。
何故、対話が成立しないかというと、
1つには、質問に正面から答えることがないからです。
2つには、文章の全体を把握しようとせず、一部分の言葉尻だけ切り取っていちゃもんをつけることに終始しているからです。
3つには、真理を求めているのではなく、自分がマウンティング取りたいためだけに否定しているからです。
4つには、自分の考えは言わずに、論理のお遊びで他者を否定して悦に入っているからです。

人生の時間は短いのです。
私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。


 

  [No.17223] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/08(Wed) 22:23:05

> > > この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )
>
> > 人生の時間は短いのです。
> > 私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。
>
> これが 無師なのです
>
> 分かりますか ?



言葉遊びをしたいなら他の人としてくださいね。


 

  [No.17234] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 07:11:11

> > 言葉遊びをしたいなら他の人としてくださいね。


> 言葉遊びにするのは あなたです
> この意味を 分かろうとしない



もちろん、あなたの言葉を言葉遊びと思っているのは私です。
そして、論点をずらし続けて、言葉遊びで逃げようとするのはあなたです。


 

  [No.17237] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 08:33:21

論点をずらし続けないでください。

私があなたの言葉を言葉遊びと言ったのは、次のやり取りです。

~~~~~~

> > この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )

> 人生の時間は短いのです。
> 私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。

これが 無師なのです
分かりますか ?

~~~~~~


無視を無師と言い換えています。
もし、この『無師』と言う言葉が意味があるならそれを説明してください。


 

  [No.17250] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 11:55:34

> ( 猛然と )反発する事 が 無視 です



日本語になっていません。
論理を超越することと、論理が破綻することは別です。

あなたは、真摯に瞑想したこともないのではないですか?

龍樹の本を読んで、わかったような気分、悟ったような気分、相対を超越したような気分になっているだけのような気がします。

野狐禅のようなものだと思います。

論理の破綻していることを言って、『自分は論理や相対から超越している』ということを見せびらかしたい、という
極めて危険な自我の膨張がそこにはあります。


 

  [No.17255] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 12:45:20

> > > ( 猛然と )反発する事 が 無視 です


> > 日本語になっていません。


> あなたが 読み取らないだけです




『無視』と言う言葉の意味がわからなければ辞書で調べれば
『反発する事 が 無視 です』というあなたの言葉が成り立たないのがわかるでしょう。


 

  [No.17259] Re: ついで事も ついてくる 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 14:23:59

> 無視 と 反発 は 同時に切り離すことが出来なく 起きています

> “ 自ら ” ということは 「 縁起 」 して起きます
> そこには 必ず 他者が 起きているのです
> そこを 親鸞 は 見つめます
> 自力ではなく 他力 なのです

> モノ とは ダルマ の 訳語 でもあり
> 同時に ナ-マル-パ のことです
> ナ-マル-パ は ダルマ なのです

> 「 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 」
> この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします
> うつりにけりな とは 移る という意味と 映る という意味があります
> どちらをとるかで、 主体から 客体へと 移ります
> いたづらに わがみ
> ( いたづらに 我が見 )
> よにふる ながめ せしまに
> この場合 “ わが身世にふる ”
> としても あまり 意味の違いは起きませんが
> 前者の方が より 積極的です
> 眺め方により いたづらに “うつり” にける のです


> 「 歎異抄 」 も このようにして読むと
> 隠されている意味が はっきりしてきます



どこから突っ込んでいいかわからないほど突っ込みどころ満載な文章ですね。

仏教で、namarupa=名色 は精神と物質を備えた個体存在、つまり人間を表すことがほとんどでしょう。
dhammaも、真理とか意識の対象物である観念とか、モノとは全く違う意味もあります。

それを無視して、『ナ-マル-パ は ダルマ なのです』と断言するところが、なんとも・・・ですね。



『この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』と、これまた断言していますが
これも根拠がないですね。

和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。

それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。


 

  [No.17261] Re: ついで事も ついてくる 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 17:14:57

> > 和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。
>
> 花と言えば 梅をさします
> 桜に 株を奪われたのですが 、、、、


万葉集の時代はともかく、古今集以降は桜ですね。
あなたが例に挙げた『花の色はうつりにけりな』の歌の花も桜です。


> > それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。
>
> そんなことより
> 華 が 法華経 を さす ということを
> 自分で調べなさい
>
> いかに 平安貴族たちが 法華経に接していたか を知れば
> 分かることです
> 聞いて知ることなど
> 何の役にも立ちません
> 行って、 得なさい


あなたに命令されるような謂われはありません。
あなたが自分の説を言ったときに、根拠を聞くと必ず逃げますね。
今までは、みんなあなたをスル-してましたから突っ込まれることもなかったでしょうけど
少し突っ込んで聞くとすぐ逃げてしまいます。

結局、あなたの言う
『「 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 」
この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』
という根拠はないですね。

ほんの少しの読解力があれば、『花の色はうつりにけりな』の『花』が法華経を表すものではないとわかるはずです。
法華経だと『花の色』という言葉が意味をなさなくなります。


 

  [No.17266] Re: ついで事も ついてくる 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 19:29:45

>
> > ほんの少しの読解力があれば、『花の色はうつりにけりな』の『花』が法華経を表すものではないとわかるはずです。
> > 法華経だと『花の色』という言葉が意味をなさなくなります。
>
> 花 と言う時には 華 を 思い浮かべるのです
>
> それが 意味です
>
> ・



あなたは『この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』と断言しました。

和歌でなくても、どの文章でもいいですが、
『はな』または『華』と書いて法華経を表している文章を挙げてください。

まさか、ひとつも具体的な例を挙げられないということはないですよね?


 

  [No.17268] Re: ついで事も ついてくる 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 06:04:51

> > 『はな』または『華』と書いて法華経を表している文章を挙げてください。
> > まさか、ひとつも具体的な例を挙げられないということはないですよね?
>
> 辞書をひいて なければ
> そういう例は 一つもありません
>
> ・



こういうことになりますから、私にはレスしないほうがいいですよ。
何度も言っていますように、私ではなく他の人を導いてください。
私には不必要です。
他の人からも今まで数多く指摘されていると思いますが、
あなたは終始、上から目線で命令形です。

そういうことは、自分のブログなりホ-ムペ-ジを立ち上げて、そこで好きにすればいいのです。
ここは石飛先生がせっかく作ってくださったホ-ムペ-ジです。
もし参加するなら、あなたも他の参加者と平等であることを認識されることです。

あなたの、上から目線で否定したり命令したりするやり方は、せっかくのこの掲示板から参加者を遠ざけてしまいます。
ほとんどの人が不愉快なのです。
もっと、共に学ぼうという姿勢にはなりませんか?
自我が膨張しすぎて、あなたは変わらないかもしれませんが、少なくとも私にレスはしないほうがいいです。
徹底的にあなたの矛盾点を突いていくことになりますから。
あなたを無視していましたが、無視すればしつこく絡んでくるので仕方なく対応しました。

これからは、謙虚に共に学ぶという姿勢になって、誰とも楽しく会話できるように願っています。


 

  [No.17275] Re: ついで事も ついてくる 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 12:08:48

そうですか。
残念ながら、今の、上から目線スタイルを変える気はないようですね。
私がここを読むになってから日は浅いですが、
その間も何人もの人が春間さんに同じような苦言を呈しておられました。
聞く耳を持たないということですね。わかりました。それでは。


 

  [No.17262] 法華経 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 17:30:12

>
> > 和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。
>
> 花と言えば 梅をさします
> 桜に 株を奪われたのですが 、、、、
>
> > それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。
>
> そんなことより
> 華 が 法華経 を さす ということを
> 自分で調べなさい
>
> いかに 平安貴族たちが 法華経に接していたか を知れば
> 分かることです
>
> 聞いて知ることなど
> 何の役にも立ちません
>
> 行って、 得なさい
>
> ・



ひとつ言っておきますが、私は、法華験記(大日本国法華経験記)も今昔物語も持っていますし愛読しています。
ですから、あなたに言われなくても、日本における法華経の影響力はあなたよりわかっています。
毎年比叡山には行っていますし、身延山にも何度か行きました。
そのような法華経の霊山に行くと不思議なことも多くありました。


 

  [No.17239] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/09(Thu) 08:51:53

ショ-シャンクさま

> それにしても、
> 『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
> 中道とは中間のことではないと言っているようで、
> 弦の喩えで強くても緩くてもいけない、その中間と思っている人には衝撃かもしれません。

「中道」にも、世俗諦と勝義諦があることを、『大智度論』(龍樹作とみています)が告げているように思います。


復次餘經中多以三種門説諸法。 (また他の経典にはおおく、三種の門によって諸法を説いている。)
所謂善門不善門無記門。(すなわち、善と悪と無記〔どちらでもない〕である)
今欲説非善門非不善門非無記門諸法相故。(いま、善ではなく、不善ではなく、無記でないという門を諸法の相として説こうと思うので)
説摩訶般若波羅蜜經。(摩訶般若波羅蜜経を説くのである)
(『大正蔵』25、p.62b)


善悪無記の三種は、いわゆる「中間」を選ぶやり方です。
弦を緩めるのでもなくきつくするのでもない、という道ですね。 ソ-ナのやり方です。

これは、世俗にも分かる道です。これはこれで説かれています。

でも、非善・非不善・非無記、という相を取ろうとしますと、
結局、別の言い方では、四句分別を出して、それを否定する道になるかと思います。(善かつ不善を否定する場合は、略されているとみます)

そうみますと、四句分別を否定すると見るので、勝義諦と、とらえられます。
(あらゆることを否定していく言い方は勝義諦である、と解釈できますので)



また一方、世俗の「中道」の見方を、そのまま否定するとしますと、世俗諦の否定で、勝義諦の「中道」とみることができます。

四句分別の否定と内容的には同じなので、この 非善門非不善門非無記門 という言い方で、勝義諦を示そうとしていると解釈できるのではないかと思っています。

ですから、「中道」も世俗諦から入って、勝義諦へと進んでいくのだな、と、わたしは解釈しています。
ブッダと龍樹の論理学』の中に、「「中道」は出家独自の道」という節で、そのことを語っています。



そして、当然、アジタには、「中道」として語るのは勝義諦だと思っています。
相対的な判断を取り上げて検討してきたのは、ウパニシャッドの哲人たちだからです。


 

  [No.17241] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/09(Thu) 08:54:59

ショ-シャンクさま

上の投稿(No.17239)は、 No.17207 に対するご返答です。


 

  [No.17243] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/09(Thu) 09:21:33



[No.17207] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/01/08(Wed) 11:45:35

> 中道とは中間のことではないと言っているようで、

これに対する 応答ですね

あまり 開きすぎると、( 当事者以外の閲覧者には) 関連を見つけにくくなります
No. を 記すと 分かりやすいかもしれません

二人の 合意を 求めるのであれば、
メ-ル を 選ぶ方が 適しているかもしれません

こういう書き込みをしようとしていたら、
[No.17241] が 起きていました

新たなる 疑問が 起きています
その間に 書き込まれた 記事 が

怠りなきこと を 大事にする
あなたが
怠ることを 大事にする
ということは
二重に表現する事とも とれますが

怠ることを 怠りなく大事にする ということは
言葉の遊びとは言えません

一つをとっているときには、他のことは 怠っているのです


わたしの怠りに対して 助言ください

******

今 デイサ-ビス の迎えが来て
母を送り出して、 中断しました
12月から 入院していて、7日 に退院して
はじめての デイサ-ヴィス です

******


これは これくらいにして、

どのように踏まえて、 書き込みを成立させているかに 移ります

> 当然、

どうして、 どのような経緯で “ 当然 ” なるかを
分かりを見出せない わたしに 示してください

> アジタには、「中道」として語るのは勝義諦だと思っています。

わたしには、
牟尼は どのように語っているのでしょうか ?

わたしは いつも 聞き耳を立てています
あなたには “ 当然 ” だから と言って、
わたしにも そう言えるかどうかは、
あなたの能力の 視点です
それとも
問題提起をして、
わたしに考えさせるための “ 当然 ” の 事ですか ?


 

  [No.17248] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 11:30:50

石飛先生、おはようございます。

私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。

ですから、スッタニパ-タ1042の仏陀の言葉の中の
『両極端』と言う言葉も、抽象的なことを指しているのではなく
『苦行の道』と『快楽の道』を指しているのだと考えています。

『苦行の道』も『快楽の道』も離れて『中道』を行く、と仏陀が宣言しましたので
そうすると多くの人はその両極端の中間のことだろうと考えています。

しかし、仏陀が言ったのは、苦行と快楽の中間、つまりほどほど苦行、ほどほど快楽、などではない
と、このスッタニパ-タの言葉は言っているように聞こえます。

苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。

歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。

よって、『両極端』と言う言葉も、抽象語ではなく具体的な『極端』を指し示していると考えます。


 

  [No.17263] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:通りすがりのおっさん  投稿日:2020/01/09(Thu) 17:31:03

ショ-シャンクさん

ちょっと横から失礼します。
それと、私は丁寧語では話さないのであしからずご容赦を。

>私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
>仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。

そうですよね。すき焼きの中にスパゲッティやお寿司、その他いろんなものをぶちこんでも美味しい料理にはならない。
むしろそれぞれの味の違いを楽しめばよい。
仏教の場合、逆にそれをやれば密林の中に迷い込んであちこち彷徨うことになり、虚しく路頭に迷うようなものです。
アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
も大乗のそれとブッダ智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?

歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。

>しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
>
>身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
>
>歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
>非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
>

中道というと、大乗を先に勉強した方は中観派の「空」と混同してしまいがちです。龍樹が縁起を空性や中道と結びつけて論じているから
なおさらその傾向が強い。でもこの解釈は間違いだと思う。
なぜなら、あなたもおっしゃるように中道は原始仏典で「八正道」であると明確に説かれています。
ブッダの縁起は渇愛を滅するための縁起であり、大乗の縁起は「縁起=空=無自性=仮設=中道」で諸法実相を説いたものです。


 

  [No.17264] 仏陀の真意が明らかになる時代 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/09(Thu) 18:06:09

ショ-シャンクさん
>
> ちょっと横から失礼します。
> それと、私は丁寧語では話さないのであしからずご容赦を。
>
> >私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
> >仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。
>
> そうですよね。すき焼きの中にスパゲッティやお寿司、その他いろんなものをぶちこんでも美味しい料理にはならない。
> むしろそれぞれの味の違いを楽しめばよい。
> 仏教の場合、逆にそれをやれば密林の中に迷い込んであちこち彷徨うことになり、虚しく路頭に迷うようなものです。
> アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
> も大乗のそれとブッダ智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?
>
> 歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
> その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。
>
> >しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
> >
> >身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
> >
> >歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
> >非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
> >
>
> 中道というと、大乗を先に勉強した方は中観派の「空」と混同してしまいがちです。龍樹が縁起を空性や中道と結びつけて論じているから
> なおさらその傾向が強い。でもこの解釈は間違いだと思う。
> なぜなら、あなたもおっしゃるように中道は原始仏典で「八正道」であると明確に説かれています。
> ブッダの縁起は渇愛を滅するための縁起であり、大乗の縁起は「縁起=空=無自性=仮設=中道」で諸法実相を説いたものです。



通りすがりのおっさんさん、ご投稿ありがとうございます。

わかっていただける方がおられてうれしい限りです。

日本仏教は最初から今まで大乗仏教でしたので、ほとんどの人は仏陀の言葉を大乗仏教の理論で解釈しようとします。
しかし、それは絶対にやってはいけないことだと思います。
逆なのです。
すべての先入観を捨てて、仏陀の言葉に直接向き合い、仏陀の真意がわかってから初めて大乗仏典を読むべきで
その逆をやってしまうと仏陀の真意を見誤ることになると思います。

おっしゃるように、『縁起』も『中道』も仏陀が言った意味からは全く違ったものになってしまっています。

私は、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求したいと思ってきました。
そして、今こそ、仏陀の本当の真意が明らかになる時代なのではないかと思っています。

これからもよろしくお願いします。


 

  [No.17271] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/10(Fri) 07:36:58

とおりすがりのおっさん、さま

おはようございます。ちょっと呼びにくいお名前で(笑)


> アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
> も大乗のそれとブッダ智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?


よろしければ、大乗の智慧ブッダ智慧は、どう違うのか、お話ししてもらえますか。
(ちなみに、わたしは、違わないと思っているのですが。大乗と部派は傾向が違いますが)

また、「大乗から解脱者が出てない」のは、なぜでしょう?
ご存じなのではありませんか。
もし知っているなら、
それを知っているのに、こういう風にいうのは、ずいぶん人が悪いように思われますが、どうでしょう。


> 歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
> その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。


ここでのお話は、『スッタニパ-タ』「彼岸道品」です。
原始仏典でも弟子たちに説いた教説は、主に4つのニカ-ヤにまとめられるかと思います。

ここでは、そこにおさまらない「クッダカ・ニカ-ヤ(小部)」のお話をしているのです。それについて、ショ-シャンクさまが質問されました。


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  [No.17270] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/10(Fri) 07:23:01

ショ-シャンクさま、おはようございます。

> 石飛先生、おはようございます。
>
> 私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
> 仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。


OKでございます。
全然問題はありません。では、龍樹はなしで。

>
> ですから、スッタニパ-タ1042の仏陀の言葉の中の
> 『両極端』と言う言葉も、抽象的なことを指しているのではなく
> 『苦行の道』と『快楽の道』を指しているのだと考えています。

ここは、ウパニシャッドを見ないと、ちょっとわからないかもしれないですね。

わたしも、ここはまだ検討しきれていませんけど、
とりあえず
「苦行」「快楽」の二つを指す、としても、良いかもしれません。
ウパニシャッドは、善悪で語っていたかもしれないです。今、調べずに書いているので間違っているかもしれませんが。

>
> 『苦行の道』も『快楽の道』も離れて『中道』を行く、と仏陀が宣言しましたので
> そうすると多くの人はその両極端の中間のことだろうと考えています。
>
> しかし、仏陀が言ったのは、苦行と快楽の中間、つまりほどほど苦行、ほどほど快楽、などではない
> と、このスッタニパ-タの言葉は言っているように聞こえます。

それは、わたしもそう読めます。
>
> 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

それは、ショ-シャンクさまの解釈になります。
そこに「身体」と限定することばが必要かどうか、なぜそう言うのか、説明してもらえますか?


> しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
> 身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。

ああ、やはりそうですよね。わたしも、同じです。そうなると、ますます、身体をあげる理由を知りたいですね。

>
> 歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
> 非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。

そう思います。
>
> よって、『両極端』と言う言葉も、抽象語ではなく具体的な『極端』を指し示していると考えます。

おっしゃるとおりです。

で?




「苦と楽の中道」を取り上げて、ショ-シャンクさまは語られましたが、
もう一つ、「中道」がありますね。

カッチャ-(ヤ)ナ に語った「有る」と「無い」に関する中道です。

ここは、問題にしないのですか。
しないのであれば、なぜか、お聞きしたいです。



ちなみに、わたしは、入っていると思います。


 

  [No.17274] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 11:58:37

石飛先生、おはようございます。
午前中、お墓を納骨殿に移す儀式がありましたのでやっといま座ることができました。

> >苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。
>そこに「身体」と限定することばが必要かどうか、なぜそう言うのか、説明してもらえますか?

苦行は身体的な苦行のことであり、快楽は身体の快楽のことだからです。
苦行の道と快楽の道は正反対のように思えますが、結局身体に関わるものであり、智慧と違うもの、
よって、仏陀は苦行で身体を痛めつけても悟れることはないと思ったのだと考えます。
もちろん、私の解釈にしか過ぎません。


>カッチャ-(ヤ)ナ に語った「有る」と「無い」に関する中道です。
ここは、問題にしないのですか。
しないのであれば、なぜか、お聞きしたいです


苦行と快楽に関しては、仏陀が二辺(と言う極端)を離れ『中道』を行くと宣言し、その中道とは八正道のことだと言っています。

有無に関しては、私は仏陀が『生じるものだから無とはいえない。滅するものだから有とはいえない。』と言ったことは知っていますが
そのときに、『有でもない、無でもない、中道を行く』とは言ってないように思えます。
もし言っているとすれば私が知らないだけなのでしょうけど。

有無に関しても、『中道を行く』という場面があるのでしょうか。教えてください。


 

  [No.17279] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 15:15:44

石飛先生、こんにちは。

先生の指摘を受けて、両極端と中道について、調べてみました。

苦行と快楽に関しては、仏陀が最初に宣言した言葉としても有名ですし、中道という言葉を使っています。
そして、中道とは八正道と言っています。

断見と常見に関しては、
『苦は自作であるという説は常見に陥る』『苦は他作であるという説は断見に陥る』として
如来は中によって法を説くとして、十二縁起を説いています。

「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
これも十二縁起が説かれています。


ということは、中道である八正道が説かれているのは、苦行と快楽に関してだけのような気がします。

「だから何?」と言われるかもしれませんが、私には興味深いものでした。


 

  [No.17280] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 15:22:25


> 「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
> 第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
> これも十二縁起が説かれています。


『有と無に関しては』が抜けておりました。次の文になります。



有と無に関しては
『一切があるというのは一つの極端である。一切がないというのは第二の極端である。
これら両極端を離れて如来は中によって法を説く』とあって
これも十二縁起だけが説かれています。


 

  [No.17282] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/11(Sat) 07:27:48

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 先生の指摘を受けて、両極端と中道について、調べてみました。
>
さっそく調べてくださったのですね。

>
> 「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
> 第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
> これも十二縁起が説かれています。


> ということは、中道である八正道が説かれているのは、苦行と快楽に関してだけのような気がします。

なるほど、そのように解釈されたのですね。
これも中道だとは思われませんか?

ここは、ixtlanさまを思い出すところなのですが、かつて、ここを取り上げて、これも「中道」だとなっているが、どうしてなんだ、とお聞きになっていたように思います。少し記憶違いがあるかもしれませんが、ポイントをはずさないなと感心したことを思い出します。

「中」のことばの「真ん中」という意味が、わかりやすいのは、苦楽二辺の中道ですが、
この有無二辺の中道も、中道だと思います。

これを、先の苦楽と同じように考えてみると、有と無の間は、実際はないので、ティッサ・メッテイヤに対して答えた「中間にも汚されない」が出てくるのではないかと思います。


前回、龍樹は検討しないとおっしゃっていましたが、あそこにもヒントがあります。

大智度論』の表現の中で、善・悪・無記の三つをあげて世俗諦の「中道」が説かれていたのですが、次の勝義諦の「中道」へ行く時は、

善・不善・無記と説かれており、スルッと有無二辺の中道への転換がさりげなく書かれているのです。

当然、善(=有)と不善(=無)の「真ん中」は、ありませんので、「無記」は空ということにもなりますが。
ここにも、「中道」を見ようとしているということがおわかりかと思います。


> 「だから何?」と言われるかもしれませんが、私には興味深いものでした。

わたしも、興味深いです。
ブッダは、非常に常識的に、有無に関する中道の場合は、十二支縁起の順観と逆観のいずれかが成り立つ道として、中道を示している、ということだと思います。

片方だけではなく、両方のうち、どちらかが成り立つ道を「中」として、両方を視野に入れつつ語るように、と指示したと解釈できるのではないでしょうか。

ここも、逆観を意識出来ていることにより、覚りへの道に踏み込んだ行者の姿が見えてくるかと思います。

そして、それができるなら、中道も、意識されてくるのではないかと思うのです。
「両極端に染まらない(汚されない)」という道です。
ことばとして「中間」を設定してもよいし、具体的に「ない」ということで「中間」を立てなくてもよし、というところかと思います。

これに立って、中道をいくとき、やはり「八正道」となるのではないかと思っています。


 

  [No.17272] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/10(Fri) 08:08:22

ショ-シャンクさま


> 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

今、ひょっと思いつきましたが、「縫う女=家を作る者」の絡みでお話になっていますか?


もし、そうなら、「縫う女」は、ティッサ・メッテイヤの質問です。
「中道」(らしき表現)が出てくるのは、ティッサ・メッテイヤの質問になってからで、
アジタの質問は、「中道」にはいたりません。


まあ、でも、<人>を中心に語るとは述べましたので、前のアジタの質問にあるナ-マル-パを、「五蘊」と見て<人>を語るのだとお考えになったのかな、と想像しますが、

アジタとティッサ・メッテイヤは、それぞれ異なる質問をしていることは確かです。

1040「この世界において、誰が満足した者なのですか。誰に、諸々の動揺することがらがないのですか。だれが、両極端を知って、中間においてよく考慮して染まらないのですか。誰を、偉大な人と語るのですか。だれが、この世で、縫い子(愛着)を超えたのですか」と、ティッサ・メッティヤ尊者は言いました。
(これはわたしの訳です。)

「誰が」「誰に「誰を」などと質問しているのが、ティッサ・メッテイヤの特徴です。
ウパニシャッド的には、ア-トマン(自己)の語でいわれるものより、プルシャ(人)の語でいわれるものを念頭において語っていると思います。

ティッサ・メッテイヤも、「身体」のみを念頭において語っているわけではない、ということがおわかりになるのではないでしょうか。ア-トマンとプルシャは、ほとんど同じようにも用いられるからです。この区別がまだ未分化の思想を受けいれて、ブッダは答えています。

ブッダが、「五蘊」の分類を出して語る前の状況ですから、そこを考慮しなければならないと思います。

勝手に、ご自分でチャンポンにしますと、わけがわからなくなります。


 

  [No.17276] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 12:21:02

> > 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

> 今、ひょっと思いつきましたが、「縫う女=家を作る者」の絡みでお話になっていますか?


いえ、アジタの質問には絡ませていません。
メッテイヤの質問だけで考えています。
また、メッテイヤの質問に『縫う女』が出てきますが、縫う女=再生の身体を形成するもの として
縫う女を超えることとして両極端(苦行と快楽という身体にまつわるもの)にも中間にも汚されない道を説いた・・・
とまで考えて両極端を苦行と快楽にしたわけではありません。
しかし、『縫う女』や『欲望に関して清らかな行ない』と言う言葉からしても、両極端を苦行と快楽にして違和感がないようには思えます。


 

  [No.17144] Re: 大乗仏教の起源を再考する 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2019/11/26(Tue) 11:59:33


> 仏教の中心概念は、縁起であって空ではない。それ故、空の思想は、縁起を指示する限りにおいてのみ仏教的意義をもつ。

「 空 」 が 仏教です
「 空 」 は 「 縁起 」 の ことを指し
> 空の思想は、縁起を指示
するのみ です
それ以外の “空の解釈” は 「 有見 」 でしかありません

「 縁起 」 に起きるから 二つの観察 が起き
一つの見方 しかできないことが、 「 空論 」 と なり、 戯論 となるのです
ちょうど
ショ-シャンク 様 が 一つの見方を 固持する様に 、、、、

彼は、 すべての人が 仏となるべくして存在する ということを 知ろうとはしません

わたしは、 ショ-シャンク様 が 手を合わせられる“ 御身 ” である
と知り
手を合わせているのです

わたしのことは 私事 です ( あなたにとっての わたしの私事 です)

> 空思想の意義について、梶山雄一博士は次のように言われる。
> 『般若経』はあらゆるもの、行為もその果報も実は空であることを説き、ひいては輪廻と涅槃とが一つであることを説いて、業報の法則を超越することを教える。(梶山雄一『「さとり」と「廻向」』講談社現代新書七一一、一九八三年、二〇頁)(傍線=松本。以下同様)

あらゆるもの 行為 が 「 空 」 であるなら
釈迦牟尼 の 行ない 阿弥陀仏 の 願 ( 法蔵菩薩の願 ) は 「 空 」 となります
誓願 」 などは “ 空 ” の 産物 となります

それを 解釈することが 「 空 」 であることと
仏陀 が 「 空 」 であること
とは 同じ「 空 」 ではありません

「 至道無難唯嫌揀択 」
道に至り 「 道 」 = 「 真理 」 である時
その至りたる “ところ” は 「 空 」 ですか ?

> これに対して、道元は説く。
> 業障なにとしてか本来空ならん。……業障の当体をうごかさずながら、空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。(『正法眼蔵』「三時業」大久保道舟編、筑摩書房、一九七一年、六九〇頁)
> これらの発言において、問題になっているのは、業報が空かどうかということである。梶山博士が、『般若経』では業報を空であると説くとされるのに対し、道元は、業報は空ではないと述べ、さらに業報を空であると言えば、それは外道の見解になると論じている(道元の「業障」を「業報」と言いかえることに大きな問題はない)。従って、梶山博士の『般若経』理解が正しいとすれば、『般若経』は、道元より見れば、仏教ではない外道の見解を説くものとなるのである。

そういう見解 も 見解としてなら 成立する

> このように道元が”業報の空”を外道の見解であると見なしたのは、彼が、次に示すように業報や因果を否定することは、とりもなおさず”仏教”を否定することであると考えていたからである。

あなたが、 仮定 を 基に 論を展開していることが
分かりませんか ?


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