石飛先生、おはようございます。
ご回答ありがとうございます。
> 「家を作る者」とは、『ダンマパダ』にあるものですね。
> 153.わたしは、幾多の境涯を、得るものもなく輪廻してきた。家の作り手を探し求めながら、くり返す境涯は、苦しみである。
> 154.家の作り手よ! おまえは見られた。おまえが、ふたたび家を作ることはないだろう。おまえのすべての梁や桟は破壊され、家の屋根は壊れ落ちた。心は、意志(行)を離れ、渇愛は滅尽に至った。
>
> なかなか! いいですね。お見事です。
> わたしは、このことばは、おっしゃるように「輪廻」を示すと思います。
> 同じ単語ではありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤの説に出てきて、特に、ア-トマンが身体を捨てて、別の身体を得ていくさまを、縫い子が刺繍を一つ取り去って新しい刺繍を作る様子にたとえているのです。
> 特に、「家を作る者」をあげていただいてすごいな、と思うのは、それが、どちら(縫う女も家を作る者も)も<人>を指しているからです。ヤ-ジュニャヴァルキヤも、永遠不滅のア-トマン(自己)を説きますが、それをプルシャ(人)と言い換えたりもするのです。
> あまり違いが言われることはなく、どちらも同じだなどと考えられたりもしますが、やはり微妙に違うのではないかと思ったりもします。ブッダが輪廻を語る時は、<人>を意識して語りますね。
> スマ長老は、そこを仏教的に解釈して、「妄執」のことだとしています。法として語る時には、具体的にそれでいいと思います。
おっしゃるように、『縫う女』も『家を作る者』も、ナ-マル-パ=個体を形成しようとするもので、渇愛のことだろうと私も思います。
そういう意味で全く同じかもしれませんね。
興味深いのは、それを超える方法についての仏陀の表現の違いです。
『縫う女』を超えるには
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』ことだと答えています。
それに対し、
『家を作る者』は見ることによって滅することができるようです。
滅する方法が違うので微妙に違うものを比喩しているのかもしれません。
仮説として、
『家を作る者』は、再生をもたらす無明もしくは渇愛で
『縫う女』は、この世の欲望、煩悩のことなのかなとおもったりしたのです。
しかし、先生がおっしゃるように、本来の『縫う女』の意味は
ア-トマンが新しい身体を作っていくことなのであれば
『家を作る者』と変わりはないですね。
ご回答ありがとうございました。
それにしても、
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
中道とは中間のことではないと言っているようで、
弦の喩えで強くても緩くてもいけない、その中間と思っている人には衝撃かもしれません。
> > ここは読者にわかるように説明してほしいね。
> 欲しければ
> (頼み方を) 考えること
> を 考えよう
やはりそうですね。
春間さんは、誰に聞かれても自分の意見を説明しようとしませんね。
論破されることを怖れているようです。
あまりに自分の考えを言おうとしないので、あるいはごまかして逃げてしまうので
私は前に『ジャンヌダルク』に関して春間さんが言った言葉と
『善人なおもって往生す』に関して春間さんが言った言葉を
徹底的に追求したことがありました。
今後、誰かの投稿にレスをつけるのであれば、そのレスの文章の意味を説明してほしいものです。
そうしないと全く対話など成り立ちませんよ。
> 基本的には 説明しません
> 考えるべきことを 提示するのみです
> 教えてもらって、
> 自分のモノにできる人は
> ほとんどいないのです
> ア-ト は 盗むモノ です
私はあなたに教えてもらおうとは全く思っていません。
考えるべきことを提示してもらいたいとも一切思いません。
あなたが言っていることがア-トだとは思いもしません。
どうか、あなたに教えてもらいたいと思っている人にレスしてください。
あなたの言うことをア-トだと思っている人にレスしてあげてください。
私には不必要です。
> > 私には不必要です。
> あなただけが 読むわけではない
> あなたは読もうとしない( 読みたいように読む )
> わたしは
> 読む人に語っている
読もうとして、その文章の意味を質問しても答えないではないですか。
あなたは、自分が『わかっている人』だと閲覧している人に見せびらかしたいだけです。
その自己イメ-ジを損ないたくなくて、突っ込まれないように説明を避けているのです。
自らは安全なところにいて、そこから教えを説いて回っている気分に浸っているのです。
そのような自己陶酔は、私が考える仏陀の教えからは真逆なものですが
いくら言っても気づかないですし変える気はないでしょう。
私の投稿へのレスであっても、他の読む人のためのものなのであれば、
私が返信する必要もないということでいいですね?
> > 『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
> > 中道とは中間のことではないと言っているようで、
> 一方の 極端 と 他方の極端 を置くと 自然に 中間 が 起きます
> どちらかの 極端 と 中間とに於いては 中間は 一方の極端に対する、 極端となります
> ( 遠近は 「 縁起 」 です )
> 一方に対して、 他方を置くことが出来れば
> その時 極端 は 起きてはいないのです
> ( 「 縁起 」 が起きる とは 極端にあるということです )
> 自然に 「 中道 」 にあります
> これが 「 縁起 」 の 意味であり、
> 「 如来蔵 」 の 根拠 です
> 極端が起きる時 「 中道 」 は 起きている
私も、通りがかりのおっさんさんと同じく、春間さんにきちんとした説明をしてほしいですね。
『 一方の 極端 と 他方の極端 を置くと 自然に 中間 が 起きます
どちらかの 極端 と 中間とに於いては 中間は 一方の極端に対する、 極端となります』
と言う文章と
『一方に対して、 他方を置くことが出来れば
その時 極端 は 起きてはいないのです
自然に 「 中道 」 にあります』
と言う文章は矛盾するように思えるのです。
前者は、一方の極端と他方の極端を置くと中間が起き、その中間が極端になる・・・・
後者は、一方の極端に他方の極端を置くと極端は起きていない・・・・
同じことをして前者と後者は真逆です。
>
> > 同じことをして前者と後者は真逆です。
>
> 同じことに 違う意味が起きることも
>
> 「 縁起 」 のすがた の一つです
>
> ・
そのようなものは『縁起』ではありません。
少なくとも、仏陀が説いた縁起ではありません。
>
> > > > 同じことをして前者と後者は真逆です。
> > > 同じことに 違う意味が起きることも
> > > 「 縁起 」 のすがた の一つです
> > そのようなものは『縁起』ではありません。
> > 少なくとも、仏陀が説いた縁起ではありません。
> ブッダが説く 「 縁起 」 を知る者は ブッダである
それでは、仏陀が縁起について説いた言葉で
『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』というあなたの言葉を証明するものはひとつでもありますか?
あるのであれば、根拠を示してください。
仏陀が縁起について説いた言葉で
『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』というあなたの言葉を証明するものはひとつでもありますか?
あるのであれば、根拠を示してください。
どのような仏陀の言葉から、『 同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』という結論になるのですか?
それでは、あなたの言う『縁起』は
仏陀が説いた縁起とは関係ないものだと考えますね。
あなたが縁起という言葉を勝手に解釈して投稿しているのでしたら
私には興味がありません。
あなたが
『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』
と言ったのです。
そのように『縁起』を仏陀が説きましたか?と聞いているのです。
私は、矛盾することを言っておいて
『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」 のすがた の一つです』と断定するのは
仏陀が説いたことではない、と言っているのです。
もし、仏陀が『同じことに 違う意味が起きることも 「 縁起 」だ』と言っている箇所があれば典拠を示してくださいと言っているのです。
根拠がないのであれば、ただあなたが勝手に縁起という言葉を解釈して断定しているに過ぎず
私には興味がないと言っているのです。
典拠を示していただければ、私は否定しませんよ。
しかし、いくら言っても、あなたはその根拠を示すことはできないですよね。
それは、あなたの言う縁起が、仏陀が言ったことではないからです。
仏陀の言ったことに基づいてないのであればそう言ってください。
あなたは何にでも『縁起』を出してきますが、それはあなたの勝手な縁起の解釈に過ぎず仏陀が説いたことではないと思っています。
そうでないというのであれば、仏陀が言った言葉を挙げてみてください。
> この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )
『わたしを ほうかっておきなさい』と言ったのは、あなたですよ。
それに、あなたにレスしても、対話が成立しないので、時間の無駄なのです。
何故、対話が成立しないかというと、
1つには、質問に正面から答えることがないからです。
2つには、文章の全体を把握しようとせず、一部分の言葉尻だけ切り取っていちゃもんをつけることに終始しているからです。
3つには、真理を求めているのではなく、自分がマウンティング取りたいためだけに否定しているからです。
4つには、自分の考えは言わずに、論理のお遊びで他者を否定して悦に入っているからです。
人生の時間は短いのです。
私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。
> > > この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )
>
> > 人生の時間は短いのです。
> > 私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。
>
> これが 無師なのです
>
> 分かりますか ?
言葉遊びをしたいなら他の人としてくださいね。
> > 言葉遊びをしたいなら他の人としてくださいね。
> 言葉遊びにするのは あなたです
> この意味を 分かろうとしない
もちろん、あなたの言葉を言葉遊びと思っているのは私です。
そして、論点をずらし続けて、言葉遊びで逃げようとするのはあなたです。
論点をずらし続けないでください。
私があなたの言葉を言葉遊びと言ったのは、次のやり取りです。
~~~~~~
> > この言葉に 猛然と反発する ( 無視を決め込む )
> 人生の時間は短いのです。
> 私は、真摯に真理を求めている人とだけ会話をしたいのです。
これが 無師なのです
分かりますか ?
~~~~~~
無視を無師と言い換えています。
もし、この『無師』と言う言葉が意味があるならそれを説明してください。
> ( 猛然と )反発する事 が 無視 です
日本語になっていません。
論理を超越することと、論理が破綻することは別です。
あなたは、真摯に瞑想したこともないのではないですか?
龍樹の本を読んで、わかったような気分、悟ったような気分、相対を超越したような気分になっているだけのような気がします。
野狐禅のようなものだと思います。
論理の破綻していることを言って、『自分は論理や相対から超越している』ということを見せびらかしたい、という
極めて危険な自我の膨張がそこにはあります。
> > > ( 猛然と )反発する事 が 無視 です
> > 日本語になっていません。
> あなたが 読み取らないだけです
『無視』と言う言葉の意味がわからなければ辞書で調べれば
『反発する事 が 無視 です』というあなたの言葉が成り立たないのがわかるでしょう。
> 無視 と 反発 は 同時に切り離すことが出来なく 起きています
> “ 自ら ” ということは 「 縁起 」 して起きます
> そこには 必ず 他者が 起きているのです
> そこを 親鸞 は 見つめます
> 自力ではなく 他力 なのです
> モノ とは ダルマ の 訳語 でもあり
> 同時に ナ-マル-パ のことです
> ナ-マル-パ は ダルマ なのです
> 「 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 」
> この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします
> うつりにけりな とは 移る という意味と 映る という意味があります
> どちらをとるかで、 主体から 客体へと 移ります
> いたづらに わがみ
> ( いたづらに 我が見 )
> よにふる ながめ せしまに
> この場合 “ わが身世にふる ”
> としても あまり 意味の違いは起きませんが
> 前者の方が より 積極的です
> 眺め方により いたづらに “うつり” にける のです
> 「 歎異抄 」 も このようにして読むと
> 隠されている意味が はっきりしてきます
どこから突っ込んでいいかわからないほど突っ込みどころ満載な文章ですね。
仏教で、namarupa=名色 は精神と物質を備えた個体存在、つまり人間を表すことがほとんどでしょう。
dhammaも、真理とか意識の対象物である観念とか、モノとは全く違う意味もあります。
それを無視して、『ナ-マル-パ は ダルマ なのです』と断言するところが、なんとも・・・ですね。
『この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』と、これまた断言していますが
これも根拠がないですね。
和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。
それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。
> > 和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。
>
> 花と言えば 梅をさします
> 桜に 株を奪われたのですが 、、、、
万葉集の時代はともかく、古今集以降は桜ですね。
あなたが例に挙げた『花の色はうつりにけりな』の歌の花も桜です。
> > それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。
>
> そんなことより
> 華 が 法華経 を さす ということを
> 自分で調べなさい
>
> いかに 平安貴族たちが 法華経に接していたか を知れば
> 分かることです
> 聞いて知ることなど
> 何の役にも立ちません
> 行って、 得なさい
あなたに命令されるような謂われはありません。
あなたが自分の説を言ったときに、根拠を聞くと必ず逃げますね。
今までは、みんなあなたをスル-してましたから突っ込まれることもなかったでしょうけど
少し突っ込んで聞くとすぐ逃げてしまいます。
結局、あなたの言う
『「 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 」
この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』
という根拠はないですね。
ほんの少しの読解力があれば、『花の色はうつりにけりな』の『花』が法華経を表すものではないとわかるはずです。
法華経だと『花の色』という言葉が意味をなさなくなります。
>
> > ほんの少しの読解力があれば、『花の色はうつりにけりな』の『花』が法華経を表すものではないとわかるはずです。
> > 法華経だと『花の色』という言葉が意味をなさなくなります。
>
> 花 と言う時には 華 を 思い浮かべるのです
>
> それが 意味です
>
> ・
あなたは『この時代 はな とは 華 であり 法華経 をさします』と断言しました。
和歌でなくても、どの文章でもいいですが、
『はな』または『華』と書いて法華経を表している文章を挙げてください。
まさか、ひとつも具体的な例を挙げられないということはないですよね?
> > 『はな』または『華』と書いて法華経を表している文章を挙げてください。
> > まさか、ひとつも具体的な例を挙げられないということはないですよね?
>
> 辞書をひいて なければ
> そういう例は 一つもありません
>
> ・
こういうことになりますから、私にはレスしないほうがいいですよ。
何度も言っていますように、私ではなく他の人を導いてください。
私には不必要です。
他の人からも今まで数多く指摘されていると思いますが、
あなたは終始、上から目線で命令形です。
そういうことは、自分のブログなりホ-ムペ-ジを立ち上げて、そこで好きにすればいいのです。
ここは石飛先生がせっかく作ってくださったホ-ムペ-ジです。
もし参加するなら、あなたも他の参加者と平等であることを認識されることです。
あなたの、上から目線で否定したり命令したりするやり方は、せっかくのこの掲示板から参加者を遠ざけてしまいます。
ほとんどの人が不愉快なのです。
もっと、共に学ぼうという姿勢にはなりませんか?
自我が膨張しすぎて、あなたは変わらないかもしれませんが、少なくとも私にレスはしないほうがいいです。
徹底的にあなたの矛盾点を突いていくことになりますから。
あなたを無視していましたが、無視すればしつこく絡んでくるので仕方なく対応しました。
これからは、謙虚に共に学ぶという姿勢になって、誰とも楽しく会話できるように願っています。
そうですか。
残念ながら、今の、上から目線スタイルを変える気はないようですね。
私がここを読むになってから日は浅いですが、
その間も何人もの人が春間さんに同じような苦言を呈しておられました。
聞く耳を持たないということですね。わかりました。それでは。
>
> > 和歌でただたんに『はな』といえばほとんどの場合、花それもかなりの確率で桜を指します。
>
> 花と言えば 梅をさします
> 桜に 株を奪われたのですが 、、、、
>
> > それでは聞きますが、和歌で『はな』と詠んで、法華経をさしている歌を複数挙げてみてください。
>
> そんなことより
> 華 が 法華経 を さす ということを
> 自分で調べなさい
>
> いかに 平安貴族たちが 法華経に接していたか を知れば
> 分かることです
>
> 聞いて知ることなど
> 何の役にも立ちません
>
> 行って、 得なさい
>
> ・
ひとつ言っておきますが、私は、法華験記(大日本国法華経験記)も今昔物語も持っていますし愛読しています。
ですから、あなたに言われなくても、日本における法華経の影響力はあなたよりわかっています。
毎年比叡山には行っていますし、身延山にも何度か行きました。
そのような法華経の霊山に行くと不思議なことも多くありました。
ショ-シャンクさま
> それにしても、
> 『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
> 中道とは中間のことではないと言っているようで、
> 弦の喩えで強くても緩くてもいけない、その中間と思っている人には衝撃かもしれません。
「中道」にも、世俗諦と勝義諦があることを、『大智度論』(龍樹作とみています)が告げているように思います。
復次餘經中多以三種門説諸法。 (また他の経典にはおおく、三種の門によって諸法を説いている。)
所謂善門不善門無記門。(すなわち、善と悪と無記〔どちらでもない〕である)
今欲説非善門非不善門非無記門諸法相故。(いま、善ではなく、不善ではなく、無記でないという門を諸法の相として説こうと思うので)
説摩訶般若波羅蜜經。(摩訶般若波羅蜜経を説くのである)
(『大正蔵』25、p.62b)
善悪無記の三種は、いわゆる「中間」を選ぶやり方です。
弦を緩めるのでもなくきつくするのでもない、という道ですね。 ソ-ナのやり方です。
これは、世俗にも分かる道です。これはこれで説かれています。
でも、非善・非不善・非無記、という相を取ろうとしますと、
結局、別の言い方では、四句分別を出して、それを否定する道になるかと思います。(善かつ不善を否定する場合は、略されているとみます)
そうみますと、四句分別を否定すると見るので、勝義諦と、とらえられます。
(あらゆることを否定していく言い方は勝義諦である、と解釈できますので)
また一方、世俗の「中道」の見方を、そのまま否定するとしますと、世俗諦の否定で、勝義諦の「中道」とみることができます。
四句分別の否定と内容的には同じなので、この 非善門非不善門非無記門 という言い方で、勝義諦を示そうとしていると解釈できるのではないかと思っています。
ですから、「中道」も世俗諦から入って、勝義諦へと進んでいくのだな、と、わたしは解釈しています。
『ブッダと龍樹の論理学』の中に、「「中道」は出家独自の道」という節で、そのことを語っています。
そして、当然、アジタには、「中道」として語るのは勝義諦だと思っています。
相対的な判断を取り上げて検討してきたのは、ウパニシャッドの哲人たちだからです。
ショ-シャンクさま
上の投稿(No.17239)は、 No.17207 に対するご返答です。
[No.17207] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/01/08(Wed) 11:45:35
> 中道とは中間のことではないと言っているようで、
これに対する 応答ですね
あまり 開きすぎると、( 当事者以外の閲覧者には) 関連を見つけにくくなります
No. を 記すと 分かりやすいかもしれません
二人の 合意を 求めるのであれば、
メ-ル を 選ぶ方が 適しているかもしれません
こういう書き込みをしようとしていたら、
[No.17241] が 起きていました
新たなる 疑問が 起きています
その間に 書き込まれた 記事 が
怠りなきこと を 大事にする
あなたが
怠ることを 大事にする
ということは
二重に表現する事とも とれますが
怠ることを 怠りなく大事にする ということは
言葉の遊びとは言えません
一つをとっているときには、他のことは 怠っているのです
わたしの怠りに対して 助言ください
******
今 デイサ-ビス の迎えが来て
母を送り出して、 中断しました
12月から 入院していて、7日 に退院して
はじめての デイサ-ヴィス です
******
これは これくらいにして、
どのように踏まえて、 書き込みを成立させているかに 移ります
> 当然、
どうして、 どのような経緯で “ 当然 ” なるかを
分かりを見出せない わたしに 示してください
> アジタには、「中道」として語るのは勝義諦だと思っています。
わたしには、
牟尼は どのように語っているのでしょうか ?
わたしは いつも 聞き耳を立てています
あなたには “ 当然 ” だから と言って、
わたしにも そう言えるかどうかは、
あなたの能力の 視点です
それとも
問題提起をして、
わたしに考えさせるための “ 当然 ” の 事ですか ?
・
石飛先生、おはようございます。
私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。
ですから、スッタニパ-タ1042の仏陀の言葉の中の
『両極端』と言う言葉も、抽象的なことを指しているのではなく
『苦行の道』と『快楽の道』を指しているのだと考えています。
『苦行の道』も『快楽の道』も離れて『中道』を行く、と仏陀が宣言しましたので
そうすると多くの人はその両極端の中間のことだろうと考えています。
しかし、仏陀が言ったのは、苦行と快楽の中間、つまりほどほど苦行、ほどほど快楽、などではない
と、このスッタニパ-タの言葉は言っているように聞こえます。
苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。
しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
よって、『両極端』と言う言葉も、抽象語ではなく具体的な『極端』を指し示していると考えます。
ショ-シャンクさん
ちょっと横から失礼します。
それと、私は丁寧語では話さないのであしからずご容赦を。
>私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
>仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。
そうですよね。すき焼きの中にスパゲッティやお寿司、その他いろんなものをぶちこんでも美味しい料理にはならない。
むしろそれぞれの味の違いを楽しめばよい。
仏教の場合、逆にそれをやれば密林の中に迷い込んであちこち彷徨うことになり、虚しく路頭に迷うようなものです。
アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
も大乗のそれとブッダの智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?
歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。
>しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
>
>身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
>
>歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
>非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
>
中道というと、大乗を先に勉強した方は中観派の「空」と混同してしまいがちです。龍樹が縁起を空性や中道と結びつけて論じているから
なおさらその傾向が強い。でもこの解釈は間違いだと思う。
なぜなら、あなたもおっしゃるように中道は原始仏典で「八正道」であると明確に説かれています。
ブッダの縁起は渇愛を滅するための縁起であり、大乗の縁起は「縁起=空=無自性=仮設=中道」で諸法実相を説いたものです。
> ショ-シャンクさん
>
> ちょっと横から失礼します。
> それと、私は丁寧語では話さないのであしからずご容赦を。
>
> >私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
> >仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。
>
> そうですよね。すき焼きの中にスパゲッティやお寿司、その他いろんなものをぶちこんでも美味しい料理にはならない。
> むしろそれぞれの味の違いを楽しめばよい。
> 仏教の場合、逆にそれをやれば密林の中に迷い込んであちこち彷徨うことになり、虚しく路頭に迷うようなものです。
> アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
> も大乗のそれとブッダの智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?
>
> 歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
> その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。
>
> >しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
> >
> >身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
> >
> >歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
> >非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
> >
>
> 中道というと、大乗を先に勉強した方は中観派の「空」と混同してしまいがちです。龍樹が縁起を空性や中道と結びつけて論じているから
> なおさらその傾向が強い。でもこの解釈は間違いだと思う。
> なぜなら、あなたもおっしゃるように中道は原始仏典で「八正道」であると明確に説かれています。
> ブッダの縁起は渇愛を滅するための縁起であり、大乗の縁起は「縁起=空=無自性=仮設=中道」で諸法実相を説いたものです。
通りすがりのおっさんさん、ご投稿ありがとうございます。
わかっていただける方がおられてうれしい限りです。
日本仏教は最初から今まで大乗仏教でしたので、ほとんどの人は仏陀の言葉を大乗仏教の理論で解釈しようとします。
しかし、それは絶対にやってはいけないことだと思います。
逆なのです。
すべての先入観を捨てて、仏陀の言葉に直接向き合い、仏陀の真意がわかってから初めて大乗仏典を読むべきで
その逆をやってしまうと仏陀の真意を見誤ることになると思います。
おっしゃるように、『縁起』も『中道』も仏陀が言った意味からは全く違ったものになってしまっています。
私は、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求したいと思ってきました。
そして、今こそ、仏陀の本当の真意が明らかになる時代なのではないかと思っています。
これからもよろしくお願いします。
とおりすがりのおっさん、さま
おはようございます。ちょっと呼びにくいお名前で(笑)
> アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
> も大乗のそれとブッダの智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?
よろしければ、大乗の智慧とブッダの智慧は、どう違うのか、お話ししてもらえますか。
(ちなみに、わたしは、違わないと思っているのですが。大乗と部派は傾向が違いますが)
また、「大乗から解脱者が出てない」のは、なぜでしょう?
ご存じなのではありませんか。
もし知っているなら、
それを知っているのに、こういう風にいうのは、ずいぶん人が悪いように思われますが、どうでしょう。
> 歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
> その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。
ここでのお話は、『スッタニパ-タ』「彼岸道品」です。
原始仏典でも弟子たちに説いた教説は、主に4つのニカ-ヤにまとめられるかと思います。
ここでは、そこにおさまらない「クッダカ・ニカ-ヤ(小部)」のお話をしているのです。それについて、ショ-シャンクさまが質問されました。