ショ-シャンクさま 素晴らしい詩をありがとうございます。
>
> 例えば、ス-フィ-の詩にこういうのがあります。
>
>
> ※※※※※
>
> 「神化」
>
> 蠅が蜜に落ちる。
> 体のどこもかしこも、部位の別なく
> 蜜に絡めとられて動かなくなる。
>
> 「イスティグラ-ク」、すなわち
> 忘我の境地というのは、このような状態を指す。
> 自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。
>
> その者より生じるいかなるものも、
> 全てその原因はその者には属さない。
>
> 水に溺れてもがいている者、あがいている者、
> 「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
> そうした者は未だ「イスティグラ-ク」に至ってはいない。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> すなわち「われは真理(神)なり」という言は、2
> この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。
>
> 人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。
> 人びとは考える、『アナ-・アル・アブド』、
> すなわち「われは神のしもべなり」、
> という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。
>
> 断じて違う。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> 「われは真理なり(神なり)」こそが、
> 真の謙譲を表わす言である。
>
> 『アナ-・アル・アブド』
>
> 「われは神のしもべなり」と言うとき、
> その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
> しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
> しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
> 自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> 「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
> その者は自己を消滅し尽くしている。
> そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
> ただ神のみが存在する。
>
> これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
>
> ※※※※※
>
> なんか、こういう詩が、あのイスラム教から生まれたというのが奇跡的な気がします。
> 砂漠の中のオアシスのような気がします。
なるほど、すっかり了解です。
ショ-シャンクさまが、神秘主義を評価される理由が、氷解しました。
> 蠅が蜜に落ちる。
> 体のどこもかしこも、部位の別なく
> 蜜に絡めとられて動かなくなる。
これですね!
ヴィトゲンシュタインだったか、忘れましたが、はえ取り紙と蠅の喩えを読んだことがありますが、蜜と蠅か! これは、さすがだなと思います。
蜜という甘い好ましいもの、と、蠅という自分の存在。
これに包みこまれることが、至福なのか、はたまた、恐怖なのか、この違いで、神秘主義に行くか行かないか分かれてきますね。蠅は消えるなぁ、神が現れてきますね。
「われは神のしもべなり」は相対的な関係がまだ残っていますが、「われは真理なり(神なり)」は神だけが存在している、というのは、その通りです。否定できないなあ。
シャンカラの不二一元論の解釈が、大乗の空を応用して説いていくようなものに近いかもしれない、とちょっと思いました。本気でシャンカラにせまったことがないので、どうもわからないと思っていましたが、この詩を読んで、この境地に近いのかもしれないという気がしてきました。
衝撃のすごい詩をどうもありがとうございます。
ちょっと余韻に浸ることにします。
家に戻りました
> > かくの如くある ということの “ ある ” ということは、
> > 実体にある ということですか ?
> 違います。縁起的にあるということです。無自性です。仮説です。
そうすると、
言われていることは “ かくの如く には ない ” という 意味になります
( という意味 に 同意されなければ、 また、 表し方を 変えます )
> > > > その〔私〕はそこから死してあそこへ生まれた。あそこでまた私はかくの如き名、かくの如き種姓、かくの如き階級であり、かくの如き食を取り、かくの如き楽苦を経験し、かくの如く寿命を終えた。その〔私〕はあそこから死してここへ生まれた』というように。
> > そこ とは、 ここ では ありませんか ?
> > ( そこ は ここに於いて 述べられていて、 存在している )
> 妄想ということでしょうか?ならそれでもいいのです。
仮設 である 仮説 も
事実として 存在する この世界 も
“ 存在に対する 認識 ” = 「 識 」 です
妄想 である とするには、 妄想ではない “ 理 ・ 立つ処 ” が 必要です
成就=悟得 しなければ それは 必然として “ 妄想 ” です
( 妄想ではない というには、 「 明 」 に なければならない )
「 識 」 は 実在ですが
「 識 」 が どのようにあるか ということは 「 識 」 ということの解釈です
( 同じ事を繰り返すので、 分かりにくいですか ? )
「 思考 」 とは “ モノ ” である
という意味です
物の存在 には、 実在はない ( 「 世間 」 においては、 物は 「 無常 」 です )
しかし、 ( あなたは )
“ ここにある記述 の 存在 ” を 疑うことはできない
わたしの此処 は “わたしだけが認識する 此処” です
あなたにとって の 此処 は (わたしにとっての)
あなたの(所有する)此処 であり、
その 認識 には、 わたしは 立ち入ることはできない
そういうことを踏まえて、
ブッダ は 「 わたしは道を示す 歩むのは あなたです 」 と 語りかける
わたしの記述 と 仏陀の言葉 を
「 聞く(歩む)のは あなたなのです 」
あなたは、 あなたの道を、 実際に(実体として) あなたの足で歩む
> あくまでゴ-タマ・ブッダ はそのように考えたということで、それが受け入れられない、理にかなっていないというのならそれはそれでいいと思うのです。
意味不明です
理にかなってはいない ということは、 それでいいのですか ?
( 言う人しだい である = 人は色々な 考えを持つ ということは 正しいのですか ? )
いろいろな過り などというモノは いろいろな過り の 一つです
( 一つの誤り を いろいろに解釈している ということです )
( 一つの誤 には 一つの真理 が 起きている )
( 誤り も 「 真理 」 も 一つしかない )
( それぞれの真理 が ある ということは 誤りではありませんか ? → Su. 824 など )
> 問題なのは真の仏説、ブッダの真意などを探る不毛な探求です。
不毛な探求は 不毛の人生( 「 生 」 ) に 起きることです
「 精進 」 が なければ、 「 不生 」 は ない → 「 生 」 に 起きる
> どうして仏教やキリスト教でだけこのような不毛な議論が執拗に重ねられるのか分かりません。
形而上学 というモノは 不毛 です
空海 は 「 聾瞽指帰 」 で 毛の生えた 亀毛先生 について 説きます
道教・儒教 は 形而上 のこと
( 異論 は 形而 に起きる )
瑜伽行 は 「 識 」 を 認めない → 「 瑜伽行唯識 」
> (イエス・キリストは死後の世界を説かなかったetc.のような説です。)
> しかもそれを「仏教学者」、「キリスト教学者」というアカデミックな人間がやっているのだから、ますます不思議です。
アカデミック は 学業 という “ 「 業 」 ” に 起きている
> > 何々である ということは、 実体ですか ?
> 違うと思います。
本当に、 違うと “ 思いますか ” ?
本当のこと を 実体 と 呼びます
> > 食をとる ということは、 「 四食 」 の ただ一つのことですか ?
> 段色だと思います。
「 段色 」 も 食の一つ です ( 「 触食 」 は、 「 段色 」の 重要な構成要素です ) が、
“ かくの如き食を取り ” ということは 、
“ かくの如くない 食 がある ” という 前提( 「 縁起 」 ) が 起されます
そこに於いて、 「 思食 」 ・ 「 識食 」 が 起きます
そういうことを、 聞き取るかどうか が 道の歩み方です
> > 楽苦 とは 誰に起きることを指しますか ?
> その問いは正しくないと思います。
物事は、 認識に起きます
認識 は その識 の 所有者 に 起きます
ブッダ に 起きるのは 認識 = 「 識 」 ではありません
ブッダ は 認識しない
ただ、 あるモノを あるがままに 知る( 智慧とする ) だけです
ジュニャ-ナ(知) ではなく、 プラジュニャ-( 慧・智慧・般若波羅蜜多 プラジュニャ-パ-ラミタ ) です
> > 「 永遠 」 の生にある 者 が 寿命を終える ということは、どういう意味ですか ?
> > そこに於いて、 アミタ-ユス は どのように 存在しますか ?
> 永遠の生にあるのではなく、永遠の相にあるアミタ-ユスは法身仏として存在します。
アミタ-ユス とは アミタ・無量 ユス・寿命 という 合成語 と 理解されます
寿命 は 「 生=命 」 に ついて回る 用語 です
無量寿 ということは、 アミタ において どういう意味( ありよう )ですか ?
そのありよう を 「 光明 」 とする時、 アミタ-バ- が 起きます
「 無量 」 を 智慧とする時、 「 明 」 に あります
( 「 妙 」 である 「 明 」 )
「 明 」 は 知( 認識 ) によって、 “量る” こと はできません
( 人知によって 価値を定めることはできない → 「 無量 」 )
( 「 真理 」 は 言葉をもって 顕される ということ と、 矛盾しません )
( ショ-シャンク さん は そこに矛盾を見るでしょう 、、、、 )
> > そこに死して、ここに生まれる それは 「 輪廻 」 ですか ?
> 輪廻でなかったらなんでしょうか?
同じ言葉を重ねても、否定し合っても、 同じ意味ではありません
「 輪廻 」 ではなく、 「 輪廻 」 です
「 輪廻 」 は 「 輪廻 」 です
「 輪廻 」 は 「 輪廻 」 ではないこと によって 「 輪廻 」 である
> > > 石飛先生なら脱神話化して語るので、以下のような長部経典そのままの解釈を取ることはないだろうなと思います。
> > 長部経典 そのままの解釈 など ありますか ?
> ないでしょう。テキストの解釈は色々でしょう。
> テキストを直解する解釈も解釈のひとつです。
それも、 一つの解釈に過ぎません
チョッカイ と 直解する解釈 に対して、
わたし は、 チョッカイ を かける( 出す )
直解 は 解釈ではなく 「 明知 」 です
> しかし、石飛先生はあまり根拠を述べることなくいきなり最終解釈を述べる傾向にあるように見えます。
> 神々のあるいはグルのご託宣のようにです。そこが学者としての石飛先生の評価を損なっているように感じます。
> > ( あなたの解釈 なら、 いかようにも あり得ます )
> > ( 多勢を頼もうと、 あなたの解釈を離れることはない )
> 私は別に石飛先生が別の解釈を示すのもアリだと思っています。
> ただし、それは充分な根拠が述べられた場合のみ、です。
御託 に 解釈はいらない
信仰する
あるいは
検択(揀択) し、 悪いを 被せる
>> > 方広経は菩薩たちが「 如是我聞 」した聖典です。
> > あなたの読み方 は あなたの “聞き方” です
> > それは
> > 「 如是我聞 」 ですか ?
> 直解主義によって「如是我聞」しました。
直解 には 主義が立ちません
授受 が 同一だからです ( 分かりますか ? )
( 主義 は 他義がある 時に 主体に 起きます )
> > しかし、 「 不了義 」 と 敢えて言うのには、 意味がある
> 誰が何を不了義と言おうとそれぞれの立場でしょう。しかし、そこにはある程度の理屈が付けられねばなりません。小乗だから間違っているというのは何でも言えてしまいます。大乗とは何でしょうか?いくつもの生を超えてブッダになる道ではないのでしょうか?
誰かが、それを 不了義 と 言ったわけではありません
「 経 」 にある ことは、 仏陀 が 説くことです
わたしは、 説かれたことを 受けるのみ
> > 『法華経』 <方便品>
> > 「 我九部法 随順衆生説 入大乗為本 以故説是経 」
> 法華経の引用は「我此九部法」に訂正すべきでしょう。
鳩摩羅什訳 を 写したので 「此」 は 抜けていることになります
( 必要があれば、 足して読んでください )
一つの法が 九つの部分(九分) に 説かれている と言うのが サンスクリット の 訳です
『正法眼蔵』 「仏教」
修多羅 伽陀 本事 本生 未曾有
因縁 譬喩 祇夜 優婆提舎
「 いまの一句一偈は、九部法なり、我此なるがゆえに随順衆生説なり。 」
九分教
・修多羅 ・祇夜 ・伽陀 ・憂陀那 ・伊帝目多伽 ・闍陀伽 ・毘仏略 ・阿浮陀達磨 ・和伽羅那
> > 何年も前のことですが 「 摩可止観 」 について、 ZAPO さん と 話を重ねたことがあります
> zapoさまも、石飛先生が記号論理学において教祖性を最後まで発揮したためか、去っていきましたね。
> もう話しをしても無駄だと感じられたのでしょう。
去った理由は 他にある と わたしは 知ります
違うところ を 同じに させたかった が、
出来ない と 知ったからです
拒否されている と 思ったのです
> 石飛先生の記号論理学解釈は様々な人々から批判されていますが、先生は道場に籠ってまともに弁解することがありません。内弟子にこそこそと言い訳するのみです。
> そのため、私も石飛先生の解釈が絶対的に正しく、記号論理学・西洋論理学の識者たちは「ブッダ論理学」を理解しない無知蒙昧で守旧的で頑固な愚か者だと思っていました。
> (自分は記号論理学の教科書すら開いたことがないにもかかわらず!)
「 微妙甚深無上の法 」 です
鳩摩羅什 は
「 教化諸菩薩 」 「 無 声聞 弟子 」
「 当知是妙法 諸仏之秘要 」 と 訳します
これで、 分かりますか ?
> > 『 大宝積経 』 についてです
> > 大小 の 大 について、 話を重ねました
> > 「 大経 」 とは なんであるか ?
> 今となっては懐かしい思い出でしょうね。
> いまのマニカナは廃墟です。
廃墟 にしているのは 誰でしょうか ?
> > ( 管理人エム 様 なら、 これでわかるかと。 )
> はっきり申し上げるとエム様は、興味を持ってらっしゃらないかもしれません。
興味はあっても、
うかつ には 入れない
シットジ が 上策
と しているだけです ???
・
pocketさま おはようございます。
> > 『沙門果経』ですよね。
>
> え、これは神秘主義ではないのですか??
> 先生の神秘主義の基準は何なのだろう・・・?
わたしには、神秘主義ではないです。
ショ-シャンクさまに語った定義では、「自己の中に絶対者を見ること」なのですが、もうちょっと微妙にいいますと、身体であれ心であれ、自己と意識するものの中に絶対的なものを見る、ということですね。あんまり変わらないか。
> > > 例えば、縁起を順観で見て宿命通、天眼通、逆観で見て漏尽通を得て解脱というような解釈ですか。
> >
> > あ、そうですね。宿命智をえ、天眼智を得て、漏尽智によって解脱する、ということです。
>
> この解釈に「私は過去世で〇〇という名前で、こういう身分で…」という体験を混ぜてもいいのですか?
最初は、わたしも「何だろうか、これは?」と思いましたが、良く考えますと識別作用(識)だから、こうなるなと思いました。
自分でもやろうとしました。過去世はダメでも昨日一昨日一週間前一年前五年前十年前と遡ることはできるかもしれない、何を食べたかやってみることはできるかもしれない、と思いました。
つまり、一端は識別していないとでてきませんし、ぼうっと生きていると識別できてもいないことになるので、いつでもクリアな識別作用を磨いていないといけないということに気づいたのです。
言ってみれば、目覚めていないといけないのです。
しかし、神秘主義というのは、自己という何かこだわりの中で絶対的なものに絡めとられるような感触を大事にします。一体化するような、渾然とした境地をいう、とわたしはh思っています。
たとえば、「主客未分の境地」などと出て来ると、わたしは、もしかして神秘主義じゃないか、とちょっと疑ったりすることも多いです。
古代インドでは、梵我一如といいますね。ウパニシャッドなどの思想をまとめて、ブラフマンとア-トマンが一つになることだとする見解が見られますが、もし、その通りだとすると、ア-トマン(個我)の特徴(?)は問題になりません。
個我は一つなのですし、その個我が、その人なのか、そのミミズなのかは問題にならず、また、人であっても、どんな身分で、何を食べたかも問題になりません。
そういうことを語ろうとすると、目覚めた状態の現実に起きている時でないと、語るのは無理なのです。だから、ヴェ-ダ-ンタ学派のような不二一元論を説く人には、仏教の語りが必要になるのだと思っています。形而上のことを語るなら、形而下はどうでもよくなる。だから、何か現実を語りたいなら、形而下だけを語ってきた仏教を必要とすることになります。仏教ほど現実を分析している教えはありません。
おもしろいことに、一元論で注目してきたのは、目覚めている時ではなく、深く熟睡している時を考察の対象にして来ているのです。夢も見ない熟睡のとき、ブラフマンと合一している、という思想を語ってきたのです。
> > いや、色界定から無色界定へと移行して、識の転変として語られていくということです。そして、そこから解脱しても行きます。
>
> う-ん、分からない…
> 石飛先生は独特な用語を使うので理解できない時が多いです
あらぁ、すみません、端折りすぎましたね。識別作用だけを問題にするなら、色(ル-パ、色かたち)はいらないのですが、わたしたちは、物(色かたち)を抜きに話をすることに慣れていないので、身体があり心がある、というように意識して語ります。物に即して語ることをするので、「どこに生まれてどんな身分で何を食べた」という風に語るのだと思います。こうして、欲を振り払い、色界に進んで、身体と心について語ると、最後は、色のない心のみだけを語りうるのですが、心だけを語る時も、語り方がわからないので、物と混みで語りながら、その識だけに集中していくのではないかと思います。
ですから、どこに生まれて、どんな身分で…などとあっても、そこにおいては、意識されるのは、識のあり方のみ、ということになります。ジャ-タカなどは、皆、そう思って読んでいます。
> 端から見ていても、例えば0さまに、話が通じてないなあ…と思うことがありました
あ、そうですか。わたしも、通じてないなあとわかることが、ままあります。
> zapoさまにはzapoさまの言い分があると思います。
ですね。 zapoさまの識の転変が、けっこう見えてくるところもありますね。
言った瞬間、気づいたのですが、まあ、こんなものかとも思います。
> > やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。
> > しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。
>
> ここは全面的に賛同いたします。
> むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
何も説かない と 何も行わない とは 違う と 分かりますか ?
あなたは、 “ 説かれた言葉 ” に 執着する
「 仏教 」 = 至道( 真理=道 に至る ) は 行ない を示します
( その中での、 “ 説く・説かれる ” という 行ない がある )
そういう 執着 を 離れることを説く のが
仏( 真理を知る者 ) の 示している 行ない です
> 仏陀が成 道したとき、説いても無駄だと考えたように、
> 説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
説かずとも、 行ない は 消えない
行ないの中から 周利槃特(チュ-ラパンタカ) は 成道している
> そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。
高かろうが、 低かろうが
あなたが 高くない ことには お話にはならない
( 高い低い は 「 縁起 」 です )
( 「 縁起 」 を 知る者には “高くある ことが 高いことになる” )
あなたが、
自分が 高い( 正しい ) とすれば
そのことは、 正しい( 高い ) のですか ?
( 低い とすれば、 低い のですか ? )
自分が 正しい ( と思えば ) それは 正しい のですか ?
それは 誤りである → それは 誤っていますか ?
**********
> > 経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。
> 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。
> > ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。
> >ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。
> > わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。
> > 神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
> > 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。
> 私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
どこから 見て( 判断の根拠 ) 高いのですか ?
( あなたが 根拠 と なり得ますか ? )
> 仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
> どのような理由からでしょうか。
“ 「 縁起 」 を知る ” という 理由 からです
「 縁起 」 を 知ろうとする時
「 道 」 は 始まり
その道を歩む者 を ( 「 道の人 」 は ) 「 道の人 」 と 呼びます
あなたが 道の人ではない と 言っているのではなく
自らの掘る 穴に落ち始めている と 言っているのです
落ちても、 道に戻れるかどうか は 道にあり ミチ のことです
( それを、 “ 実有” と 説くのが 「 法華経 」 です )
> > 相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。
文献的 には 検証されてはいない
ということです
> 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。
> > 神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
神秘主義的な梵我一如 とは 絶対が成り立つ 梵我一如 ではない
> > 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません
梵我一如 に なってみれば 初めて分かることですが
たとえ ならなくとも
「 信 」 が ある時 自然( ジネン = 侘念 ≠ 自念 ) が ある
文献などなくとも 自らが、 自らの行い が、
( 要せられるときには )
文献 を 表出させる
その 表出 は 「 信 」 が なければ “事実” とは ならない
( あなたが 受け入れること だけ が “事実” なのです )
> > ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。
> > 彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。
> > 宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、
> > 実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
思います という 前提で 構築されているに過ぎないことですが 、、、、
かなり高度 である と いうことは
かなり程度 が低い という意味です
( ブッダ の 思索 を 基準点という “常住 の 基準” とすると 、、、、 )
思います という 表現方法 は 何によって 必然とされるかが 分かりますか ?
自らの真理 を 握りこむ人に対しては
その人は 絶対の真理( 保持者 ) ですから、
思います という 表現となります
> > 文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありません
あります
行ない が 手立て です
( あなたが 説くこと )
・
わたしが、 ショ-シャンク さんに、
否定的である と 読むのは ショ-シャンク さんに限らず あなたでもある
しかし、
わたしは 一度として ( 彼の存在“性” を ) 否定してはいない
( そう読む・読まない の判断 は、 あなたにある )
ショ-シャンク さんからは ixtlan さん と “ 同じ匂い ” を 受ける
だから
マニカナ へと、 招いたのです
どちらも
ヤフ-掲示板 で 出会っています
************
[No.3333] 輪廻即涅槃-おちゃらけ氏 投稿者:ixtlan 《URL》 投稿日:2013/06/21(Fri) 20:49:17
> Davis.L.S.-.Advaita-Vedanta-and-Zen-Buddhism.pdf
これはちょっと前にここで目次を訳しました、一部だけ。
で、ここでも言われてますが、やはり「輪廻即涅槃」が肝になりそうです。
なぜこんなことを龍樹は言ったのか。体験からか。とすればアドヴァイタ体験以外に考えられるか、ってことです。
Re: 55654・55666 『歴史上の仏陀など存在しません』 ショ-シャンク 2019/11/19(Tue) 11:08 No.55702
面倒くさい人ですね。
あなたが勝手にまるごと消去したトピックには石飛先生と私のやり取りがありそれは私にとっても重要な投稿でした。
前にも私の投稿ごとあなたに全部消されたことがあり、なんか投稿するのが虚しく馬鹿馬鹿しくなってきました。
あなたもこのまま投稿が途絶えるとかまってもらえないということでまたけしかけるようなスレを立てましたね。あなたの自我の動きがよく出ています。結局、かまってちゃんなのですね。
あなたが自分の過去ログを見なさいと言ったので、初めて見てみました。
ixtlanという人のあなたという人物に対する見方を読んで笑ってしまいました。私と全く同じ考えでした。
ixtlanという人は私は知りません。私はヤフ-掲示板ではずっと株式板だけに投稿していて、他のカテゴリ-を見ることはなかったので。東哲板に投稿したのはここ最近1年と何カ月間だけのことでしたし、東哲板でも自分の立てたスレッドにしか投稿してなかったので、 ixtlanという人は全く知りませんでした。
あなたの投稿を言葉遊びに過ぎないと言っていました。私も全く同じ意見です。言葉遊びを10年20年毎日重ねても、あなたの精神は何も変わりません。誰もあなたに惹きつけられません。
あなたは仏教の基本的な歴史も知らないようですが、歴史上の仏陀の肉声を聞いた直弟子たち500人が仏陀が本当に言ったことを間違いがないように確かめ合ったのです。
そうしてくれたおかげで、歴史上の仏陀の言った言葉が今に至るまで伝わってきているのです。
現代では文献学が非常に発達していて、原始仏典でもどれが古層で仏陀の肉声に近いかどうかもわかるようになりました。
いま、歴史上はじめて、仏陀の肉声に近づける時が来たのですから、それをもとに仏陀が本当に言ったことを探求して何が悪いのでしょう。
そのような歴史上の仏陀が言ったことを否定して、自分の認識した仏陀だけが本物だというのは、麻原やあなたの考えです。非常に危険です。
もし、あなたの考えが、古層の仏典が説くところと矛盾しているのであれば、それはそれで矛盾していると認めなければいけません。
私は、古層の仏典にあるから正しい、ないから間違い、と言っているのではありません。
歴史上の仏陀が言っていることと違うか、違わないか、だけを言っています。
あなたがどのような仏教理解をしようが勝手です。
私には何の興味もありません。
ただ、あなたは会話の中に横からいきなり割り込んできて否定して回るようなことばかりしています。
クォ-クさんが『四念処について教えてください』
と言って来られたので
私が『歴史上の仏陀が涅槃に至る一乗道と言ったくらいなので四念処は重要だと思います』
と返事したところに、いきなり
『歴史上の仏陀など存在しません』と言ってきたのです。
あなたは自分の自我、自分が構築してきた知識を否定されることを怖れているだけです。あるいは不快に思っているだけです。
自分の心の中に根深く巣食っているどろどろした自我を見つめたほうがいいですよ。
************
ixtlan さん と ショ-シャンク さん
どちらも
“わたし” を 否定している
が、
わたしは、 そのようには読まない
「 山川草木悉有仏性 」 であるのに
稀有な 出生 である 「 人 」 が 「 仏性 」 を 持たない理由はない
問題は 「 “性” 」 を どのように受けるか にある
評価 ・ 検量 しているのではなく
身に沁みている のです
・
ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を
感じているのですね。私は、釈尊の説法は教条的なものではなく、人に自ら考える機を与えるために譬喩を
多く使い、自発的に「真理への道」に入らしめるものであると信じています。
またブッダは実践を説くものであり、ブッダの言葉は、その表層だけではなく、根底にあるものを自ら実践
の道で試し、学問的に味わいつくせないものを、瞑想などのできうる限りの方法で考察するものではないの
でしょうか。ですから、それぞれの機根に応じて、龍樹研究者の石飛先生と凡夫の私の見解が違うのは当然
だと思います。
それでも道を踏み外してしまう凡夫ですが、第一経四章を胸に刻んでいます。
「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。
他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」
石飛先生は、仏教学研究の実践においての見解ですから味わい深いものがあります。それに対して私は唯識
を学んでいますから、「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を重ねたのです。
ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わ
い自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然で
はないのでしょうか。
石飛先生――バ-ラドヴァ-ジャの感銘が詩に感銘し菩提心を発したので、乳粥が世俗の布施ではなくなった。
凡夫芳和――「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を観じた。
そして、ショ-シャンク様は石飛先生の見解に共感した。
石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。
見解によって争うことを超越し
ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を
感じているのですね。私は、釈尊の説法は教条的なものではなく、人に自ら考える機を与えるために譬喩を
多く使い、自発的に「真理への道」に入らしめるものであると信じています。
またブッダは実践を説くものであり、ブッダの言葉は、その表層だけではなく、根底にあるものを自ら実践
の道で試し、学問的に味わいつくせないものを、瞑想などのできうる限りの方法で考察するものではないの
でしょうか。ですから、それぞれの機根に応じて、龍樹研究者の石飛先生と凡夫の私の見解が違うのは当然
だと思います。
それでも道を踏み外してしまう凡夫ですが、第一経四章を胸に刻んでいます。
「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。
他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」
石飛先生は、仏教学研究の実践においての見解ですから味わい深いものがあります。それに対して私は唯識
を学んでいますから、「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を重ねたのです。
ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わ
い自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然で
はないのでしょうか。
石飛先生――バ-ラドヴァ-ジャの感銘が詩に感銘し菩提心を発したので、乳粥が世俗の布施ではなくなった。
凡夫芳和――「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を観じた。
そして、ショ-シャンク様は石飛先生の見解に共感した。
石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。
ショ-シャンク様自身の見解を語って頂ければ『スッタニパ-タ』もより生きるのではないのでしょうか。
果報 が 二つあろうと、 食するときには 一つ です
( こういうことが分かると、 「 量子論 」 が 分かります )
このように、 新たな スレッド を立てるのは良いのですが
その因 となる 書き込み との関連性 が 見つけにくくなります
新たに立てた方が良い 理由があれば 別です
> 「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。
どのような智慧 ですか ?
智慧 のない者に、 智慧 は 存在していますか ?
> 他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」
“ 犀のようにただひとり歩め ” とは 説かれてはいません
“ 犀の角 ” のように です
違い は 何故起きているのか というところに 「 唯識 」 が あります
「 瑜伽行唯識 」 と されることです
瑜伽 にあると 犀の角 に あります
( これが、 すんなり 分からないようでは、 「 瞑想 」 が “正しく” できてはいません )
( 正しさ ということには 「 縁起 」 が 起きます )
聖者 は 「 真理 」 を 正しい と いうことが出来る
( 愚者 は 自分の正しさ を 正しいこととする → 下記参照 “ Su. 796 ” )
> ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を感じているのですね。
> ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わい自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然ではないのでしょうか。
問題は 「 法 」 は 一つである ということです
味わい方が違って、 「 法 」 が 違ってしまうと 本末転倒 です
同じ事 を 知らない 限り
味わい が 違えば、 味わうモノ が 違います
( タタ-ガタ を 味わっているのではなく、 “味わい” を 味わっているのです )
“ 同じ事 ” について、 初めて、 違う味わい ということが起きる のです
( 同じと知ることがなければ、 味が違えば、 味を持つモノ が 違う )
論理 を 間違えると、 違っても同じモノ と なってしまいます
> 石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
石飛 教授 の 見解 は 間違っています
正しいとするあなたの見解 に タガウ からです
> 正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。
これだけ 取り出すと いうところが正しいこと と なる見解も起きます
見解 は 常に 自らのモノで
常に 他のモノ とは 違うから
自らの “ 見解 ” が 立ちます
論争にある時には “ 同一させようと、 一つのこと ” を 語り合って( 論“争”して )います ?
Su. 884
「 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。 」
どちらに対しても、<道の人> によって、 違うことが 語られます
Su. 796
「 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。 」
自分が正しいとすることを 見解を立てて 主張します
違う見解 が 正しくないからです
もし、 それを認めるのであれば
自分の見解 と 他の見解 が 同じとなり、 論争は起きません
“ 二つの観察 ” というモノは
二つの見解 ではなく
一つである “ 真理の姿 ” = 「 縁起 」 = ( 一つの)果報 です
Su.728 ~
「 『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。 」
> 石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
> 正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。
ということが、 偏った見解ではない と “ なぜ 信じる ” のですか
あなたが 聖者 である のであれば
“ 偏り ” は ありません
何故、 そこに、 不安を感じないのですか ?
( 「 いや、 不安です 」 ということが 何故、 不安ではないのですか ? )
・
ショ-シャンクとは目的地が違うようなので一言失礼します。
>すると釈尊は、「世間の中で私ほど功徳を求めている者はいない。」と言われました。
これも、「世俗の功徳」と「仏の功徳」とは違うということだと私には読めます。
当時のインド社会においては、功徳を積むということは、輪廻転生の世界観において善い世界に生れる
ことが世俗の功徳の認識ですが、「仏の功徳」は自己が我執に気づき心を清浄にすることだと言いたいの
ではないのでしょうか。
通仏教の基本といわれる「七仏通戒偈」(ダンマパダ183)のそれです。
ありとある悪をば なさず 善なるを おこない そなえ
みずからのこころを 浄む これぞ実に 諸々の諸仏の教え
自浄其意(自ら其の意を浄むる)…です。
ショ-シャンクさんがどんな修道をされているのか知りませんが、観音信心の私ではありますが、大乗の
修道論の基本である、十地経の修道論に基づいた唯識の五位の修道論を基底としています。おそらく、
ショ-シャンクさんとは目的地が違うのでしょうね。仏教の修道にも色々あるのでその人の合ったものを
選択すればいいのではないのでしょうか。
私の場合は、「資糧位――加行位――通達位――修習位――究竟位」という五位の修道です。
その資糧位では、六波羅蜜や三十七菩提分法、四摂事(布施・愛語・同事・利行)・四無量(慈・悲・喜・捨)
の修行あります。大乗仏教では六波羅蜜が基本で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧で、布施波羅蜜の
そこに含まれます。
この資糧位の六波羅蜜も、加行位を収めて、見道ともいわれる通達位で主―客二元的分裂を超えた「無分別智」
の智慧を発することです。ですから布施波羅蜜のめざす功徳が違うのですね。世俗の功徳を超えて、目指すの
は自浄其意という仏の功徳です。
そして、通達位という見道を超えると修習位という十地の修行に入る。そこでは無分別智を発して、始めと
終りの二元対立を超えていますので、初地という始めと究竟位という終りの対立を絶しますので、空海など
は「初地即極」と言います。そして、最終的には、阿頼耶識が大円境地となり、末那識が平等性智に、意識が
妙観察智に、前五識が成所作智となり、四智円明の仏が完成されるといいます。唯識の修道論に批判的な方の
多いですが、私にはわかりやすいのでこれを前提としています。
この修道は、無辺・無尽・無量・無上という、仏に導かれて永遠なるものを目指す道です。
いろいろ御批判はあるでしょうが、これが私の道です。
目的地位が違えば、布施行の目的も違ってくるのでしょうね。
その人にあった道を選択すればいいのだと思います。
ご精進をお祈りします。
「 瞑想 」 すると 分かります
沈黙 でもなく 潜在 でもない “ところ”
> とは目的地が違うようなので一言失礼します。
ショ-シャンクさん と 違う
あなた と 違う から
“ 同じ事 ” ということ について、
“ 論 ” を 建てます
> いろいろ御批判はあるでしょうが、これが私の道です。
> 目的地位が違えば、布施行の目的も違ってくるのでしょうね。
> その人にあった道を選択すればいいのだと思います。
一聴 まともで、そうに決まっている と “ 聞こえる”
“ その人にあった道 ”
その人 という 個 は 自我 ではありませんか ?
合った とする 己 に 合う が 自己に合う ということ
ややこしいのですが
( その己 を 「 自己 」 という → 「 己事究明 」 されるところの “ 己 ” です )
そこに ( どこに ? )
Dmp. 62 「 我すでになし ・・・・ なんぞ 財あらん 」
という句 を 当てはめることは出来ませんか ?
( 財 とは アルタ であり、 自己の所有するところ は すべて アルタ です )
この句 は そのことについて 説かれています
> ご精進をお祈りします。
その人に合う 「 精進 」 が ありそうですが、
「 精進 」 とは “いろいろな道にある” のではありません
色々に 彩られ 、 違って見える 「 道 」
ではあるが
「 道 」 は 一つ です
( 「 真理 」 は 一つ → 唯一無二 )
Su.884 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 )
「 真実は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。
それ故にもろもろの < 道の人 > は 同一の事を語らないのである。 」
( > 同一 ということを “論ぜず” < )
わたしは、 論じているのでしょうか ?
“ 龍樹 は 論ぜず、ただ示すのみ ” ( わたしは、 あなたの財 である 龍樹 ではない )
( 「三蔵」 を否定せず、 「論蔵」 を 否定せず )
「 論蔵 」 は 名称であり、 「 空 」 である
あなたの道 以外に、 “ あなたの道 ” は ありますか ?
その道筋に、 論 が 咲いています 、、、、
道端 に 華が咲く ( 道は いくたび も 踏まれ、 華やかさ は ない )
華 が 咲くのは 道にではなく 道端 です
( 中心・端 が ないのが 一本の 「 道 」 )
このことを 論じて 何を得ますか ?
( 何も得ない ということが 得るということです )
「 本来 無 一仏 」
こいうことを 言うから
pocket さんは
廃墟となる 因が起きる
とします
その因 は 誰の因 でしょうか ?
にぎやか であれば 良い というわけではありません
サンガ は いくら賑わおうと そこでは 「 黙 」 が 主眼 です
( 「 眼 」 といっても “ 半眼 ” だということが、 ここで述べていることです )
このようなこと を 読み取ることが “ 知る = 智とする ” ということです
( 「 智 」 は 「 瞑想 」 からしか得られない )
飛躍 を 知らなければ、 成就 はない
( 智る ということは 「 瞑想 」 からやってくる
→ 賜わる モノ → 自己にはない )
周利槃特(チュ-ラパンタカ) は
掃除から 「 総持 」 へと 飛躍したのです
( 総て を 内蔵している から ダ-ラ-ニ です )
論じては いけない
ということを
論じています
・
ショ-シャンク様はじめまして。初期仏典の言葉そのものから真理を見る立場と、菩薩道の立場から真理を
見る立場という視点の違いなのでしょうね。福田という功徳を求める布施を否定していません。だいたい私
に功徳を求める気持ちはないと言ったら嘘になりますから。自己の内からチッチタ、チッチタと音を立てる
湯煙を感じます。これを書いているこの時も灰の中から煙が出そうになりますから、注意しています。
観音経などは、あからさまに現世利益をうたいます。そして観音菩薩は、煩悩に縛られて迷っている、私の
ような凡夫の性を見すえて、さまざまな欲望をなだめすかすようにして、高次の悟りへと導きます。
初期仏教の福田も、在家の凡夫を仏道に導くためのものだったのではないのでしょうか。
これを機に、ショ-シャンク様のレスを、布施について確認するための公案とさせていただきます。
失礼いたします。
『ウィキペディア(Wikipedia)』から、
布施(ふせ)は、梵語では「檀那(旦那)(ダ-ナ、दान、dāna)」といい、他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、贈与、与えることを指す[1]。英語の Donation (寄贈者)やDonor(ドナ-)とダ-ナは、同じインド・ヨ-ロッパ語族の語源をもつ[1]。
仏教においては、全ての宗派において主要な実践項目のひとつである。六波羅蜜のひとつでもある。布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種がある(大智度論)。布施をする人をダ-ナパティ(dānapati)といい、施主(せしゅ)、檀越(だんおつ、だんえつ、だんのつ)、檀徒(だんと)などと訳される。なお、菩提寺にお布施をする家を檀家(だんか)という言葉も、檀那、檀越から来たものである。
>実際、自分の功徳を求めないお布施などあり得ないのです。
ですね。だから、自分の功徳という自己中心性という「エゴ」の焔で、「乳粥は、水の中に投げ棄てられると、
チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出した」のではないのでしょうか。
仏のコトバから、自らの行動を振り返り、自己を凝視すれば、煩悩の焔に燃える自己に気づくということを
最近になって知った頑迷な私でした。
「愛は地球を救う」ではないですが、此縁性という照らし合い無尽の縁起の理を知れば、自己中心性が苦しみ
を生むという道理は納得がいくのではないのでしょうか。
私は毎朝、般若心経の読経の最後に「回向文」を唱えています。
願以此功徳 [がんにしくどく]
普及於一切 [ふぎゅうおいっさい]
我等与衆生 [がとうよしゅじょう]
皆共成仏道 [かいぐじょうぶつどう]
現代語訳
願わくは私の行った善い行いの功徳が、この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、
自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが、皆と共にあらゆるものに対しての
慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように。
私を生かしめているあらゆる存在に功徳を廻す、という廻向の誓願もあります。
私など、ただ唱えているだけかもしれませんが……。
>『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。
>まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯>乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
>これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
>まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
>死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』
>と言っており、自分に利益があるから善行をしろと言っています。そんな我欲で布施をするなとは言っていません。
そのようなことを私も中村元博士の書物から学んだ記憶があり、その初期仏教の在家者への教えも心得ています。
当時のインドの輪廻転生観の地盤で、来世の種々なる想定することは、道徳的実践のための不可欠な要素であると
考えていたらしい。と中村博士は『原始仏教』P163で語っています。
私も檀家であり、お布施をするときがありますが、お世話になっている御礼であり、お寺にもお金が必要だから
寺への布施は「相互扶助」で行っています。ご利益を求め過ぎると、自己中心性に躓き怪我をしますから……。
切り口の違い、立場の違いがあるのでしょうね。
いろいろあった方が面白いと思いますので、ショ-シャンク様はショ-シャンク様の道をご精進ください。
お気にさわったら申し訳ありません。失礼しました。
芳和さん、はじめまして。
といっても、はじめましてではないですね。
ヤフ-掲示板のとき、よく私のスレッドに来られていましたよね。
春間さんもよく来られて、ジャンヌダルクのことなどで言い合ったりしました。
春間さんも芳和さんもご自分の理論を披露することが多かったので
それほど会話はなかったかもしれませんが。
乳粥が湯気を出した件については、私は中村元の説の通りと思っていました。
バラモンは詩句を唱えて布施をもらうので、バラモンからは受け取らないのだという説です。
しかし、石飛先生は、そうではなく、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、
と言う解釈なのです。
たぶん、この石飛先生の解釈を芳和さんも、春間さんもあまり読んでなく、
この説と正反対の、
バ-ラドヴァ-ジャの我執(エゴ)の熱により、この乳粥は湯気が出て食べられないものになったということを
書かれました。
スッタニパ-タを読んでも法華経を読んでも解釈は百人いれば百通りあっていいと思います。
私は元々、中村元の説と思っていましたから、どちらでもこだわりはないのです。
ただ、石飛先生が、中村元先生の説を否定しても自分はこう思うと言われたのですから
『芳和さんの解釈はそうなのですね。私の解釈はこうです。』と
きちんと説明されるのが、自分の思うところに真摯であるということではないかと思ったので書きました。
自説と違うことを隠すよりも、違う点をいろいろ話したほうが、より理解も深まるでしょうし
止揚することができるかもしれませんから。
芳和さん
> ですね。だから、自分の功徳という自己中心性という「エゴ」の焔で、「乳粥は、水の中に投げ棄てられると、
> チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出した」のではないのでしょうか。
> 仏のコトバから、自らの行動を振り返り、自己を凝視すれば、煩悩の焔に燃える自己に気づくということを
> 最近になって知った頑迷な私でした。
> 「愛は地球を救う」ではないですが、此縁性という照らし合い無尽の縁起の理を知れば、自己中心性が苦しみ
> を生むという道理は納得がいくのではないのでしょうか。
芳和さんは、完璧主義のように思えます。
無我という完璧な状態を観念で想定して、その状態にない自分を追い詰める傾向にありませんか?
『自分の』功徳という、その言葉に拒絶反応してしまうところはありませんか?
こういうエピソ-ドをご存じでしょう。
お釈迦様の十大弟子のひとり、阿那律尊者は目が見えなくなっていました。
ある時に、衣の修繕をしようとして針の穴に糸を通すのに苦心していた尊者は、
「誰か功徳を積もうと思う者はいないか?目の見えない私のためにこの針に糸を通してもらえないか」
と言いました。
すると、釈尊が真っ先に歩み寄り、「私が功徳を積ませていただきましょう」と言われたそうです。
驚いた阿那律尊者は、「道を極め覚者となった釈尊には、もう功徳を積む必要はないのではないでしょうか」と言いました。
すると釈尊は、「世間の中で私ほど功徳を求めている者はいない。」と言われました。
前にも書きましたが、
自分と自分のものという見解を滅している人はすでに解脱しています。
『自分』や『自分のもの』や『自分の功徳』ということから全く離れている人は
もうその人自身が福田になっています。
応供、つまり供養を受けるに相応しい人=仏 です。
布施をする人、供養をする人が、少しでも『自分のもの』というような考えを持っていたら
供養した食べ物がチッチタ、チッチタと音を立てて湯煙を出し誰も食べることができなくなるのであれば
世界中で布施をしたものすべて煙を出してしまうことになります。
あなたは、 直ぐに 「 その通り 」 という
もはや 「 名称 」 が一致するときには つい口に出てしまう 習性 の如し
今までに、 幾度となく 「 その通り 」 を 聞いてきました
( わたしは )その通り に ( 居て、 聞いて )来ていたのでしょうか ?
[No.17657]
> 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。
ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。
[No.17677]
> 大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
> 仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。
ああ、なるほど、それなら確かに、おっしゃるとおりかもしれません
[No.17685]
> 法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。
その点は、おっしゃるとおりかと思いますが
***********
その通りに 居る時
“ その通り ” と言えます
“ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?
そこだけ その通り ということはありません
その通り には それまでの生き様が すべて 積まれています
これから 積むことも
その通り に 積まれますが
その時は “ その通り ” ではなく “ 正しい 道( 通り )” と 名を変えます
( そのように 授記 されているからです )
道は 一つであることが “ 南無 とも 妙 ” なこと です
・
>
> あなたは、 直ぐに 「 その通り 」 という
> もはや 「 名称 」 が一致するときには つい口に出てしまう 習性 の如し
ここで、おっしゃるとおりです、と言ったら、まずいか。
口癖のようになっていると言われると、そうかもしれない。
なぜ、「そのとおり」と言うかと言えば、その人がそう書いたことを読むと、
そのとおりだな、と思うからです。
思わないときは言わない。
思うときだけそう言うのですが、それが、非常に多い、と言うことかもしれません。
ただ、「そのとおりなんだけど…」と言いたいときも多いのです。
それでも、まず「その通り(なんだけど)」と言わないと、「その通り」以外のことが言えないので、「その通りなんだけど…、しかし、実は~」と続くのです。
最初から、全然違う時というのは、あまり無いです。
ショ-シャンクさまの場合も、おおむね、「なるほど、そうだな」と思うことが多かったので、そういうことになりました。
三乗方便一乗真実も、「三乗はいらない、一仏乗だけでよい」と言われると、「確かに、そうだな」とは思いますが、三乗方便がなければ、『法華経』はこの世で誰も書かないよね、とも思うので、
「そうなんだけど…」と言うのです。
三乗方便は、ブッダの説いた道のうちの三つであり、16通りが真実です。三乗は、世俗の一般の定説として、比較的分かりやすく詳しく説かれたので、三乗でいく人が多かったのでしょう。しかし、本当は一仏乗として説かれているのだよ、と『法華経』は語っています。それは、みんなが、そうだと知らなかったからでしょう。
> 今までに、 幾度となく 「 その通り 」 を 聞いてきました
>
> ( わたしは )その通り に ( 居て、 聞いて )来ていたのでしょうか ?
>
「その通り」とだけ聞いていたのなら、その通りに来ていたのではないかもしれません。
「その通りです」だけではなくて、さらに、その上に何か加わるように、わたしは語ってきてもいるつもりなんだけど。。。
つまり、その通りの考え方で、さらにいくと、こうなるのではないか、という部分を入れるようにしてきているつもりだけど、そうは、見えない?
> ここで、おっしゃるとおりです、と言ったら、まずいか。
まずくはない
> 口癖のようになっていると言われると、そうかもしれない。
その通り は まずい通り ではないから
> なぜ、「そのとおり」と言うかと言えば、その人がそう書いたことを読むと、
> そのとおりだな、と思うからです。
その通り だと 知っています
( 思わなく て 言う時 には 問題が “あることも” あります )
( ないことも ない )
言葉は 面白いですね
読みようで、 いくらでも 混乱できる
> 思わないときは言わない。
> 思うときだけそう言うのですが、それが、非常に多い、と言うことかもしれません。
刹那的なのです
人は、 刹那 刹那 では タタタ- です
繋ぐと、 矛盾が起きる ことを 「 無明 」 に起きる と言います
起き続ける 一貫性の無さ
ただし、 あなたは 一貫している
それを 知らずに、 糾弾している のだと
言う風 に 綴っているだけです
綴り方 を 読む人がいる
あなたが 読む
あなた以外 が 読む
あなたは あなた以外 が 読む ということを
読まない から
わたしが 弱点を 指摘していると読む
弱点ではなく、 世間ずれ でもなく
あなたの 優しさ の 表し方 だと知っています
そういうこと( そのような 優しさの表し方 ) は、 あなたに任せる
そうではないことを、 わたしは 担当する
わたしには、 わたしの歩み方があり
それは、 事象 を はっきりさせること
まずは はっきりしないことには 始まらない
始まって、 それに対して どのように対処するかが、 記述に残り
その残ったことが 道を 示していく 、、、、
いずれ はっきり顕われ出たことを 契機として
必ず、 “ 頭が割れて、 菩薩が湧出する ”
正しい道を 見出せる ということが 授記されている 、、、、
いずれ ( 近く・遠く ) は 「 縁起 」 です)
「 時 」 とは 空間の 別の呼び名に過ぎない
あなたが “ 直ぐ近く ” と 思おうと
そこには ( 毫釐 ) の 距離( 差 ) が ある
「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」
遠近 遅速 は 「 縁起 」 にあるけれど
「 縁起 」 を 知る者が
“ 近い ” と言えば それは 「 即近 」 を 示している
“ 遠い ” と言えば 「 顛倒 」 を 示している
SN 1-3章 < 剣 >
『 わたしが語る 』
名称 と 言語表現
> ただ、「そのとおりなんだけど…」と言いたいときも多いのです。
そう言っています ( 言っていないと 言っていない が 言っている とも 言ってはいない )
> それでも、まず「その通り(なんだけど)」と言わないと、「その通り」以外のことが言えないので、「その通りなんだけど…、しかし、実は~」と続くのです。
その通り を うまく切り抜けました
> 最初から、全然違う時というのは、あまり無いです。
刹那的です
> ショ-シャンクさまの場合も、おおむね、「なるほど、そうだな」と思うことが多かったので、そういうことになりました。
それは、 問題です
おお旨 は 間違っている( 顛倒している )
まず 自分が 「 仏教 」 を 知る立場にある
という設定を 見逃している ( 仏教を知らない と いうことです )
立ち処を 顛倒しているのです
ブッダ は 間違えない のではなく
間違いを起こすと 瞬時に 間違いに気づき 間違いを 正しているのです
間違いがなければ、 間違いを知ることはできない
( だから、 間違いがない と 間違う ! )
> 三乗方便一乗真実も、「三乗はいらない、一仏乗だけでよい」と言われると、「確かに、そうだな」とは思いますが、三乗方便がなければ、『法華経』はこの世で誰も書かないよね、とも思うので、
> 「そうなんだけど…」と言うのです。
言葉の 遊び( まやかし ) です
ブラック企業 では
「 お前は 何の為に 会社に来ている 」
と 置き、
「 するべきことを しろ 」 と いう
するべきことは、 そのような会社を なくすこと
ここを “ 援用 ” 出来なければ ならない
何の為の会社設立か ということです
会社 を 閉めて ( 得難き人の生の )人生が ハジマル
( もっとも、 道は すべて繋がっていて
一つしかないのだけれども
→ 釈迦牟尼 の 成道 という道 )
> 「その通りです」だけではなくて、さらに、その上に何か加わるように、わたしは語ってきてもいるつもりなんだけど。。。
> つまり、その通りの考え方で、さらにいくと、こうなるのではないか、という部分を入れるようにしてきているつもりだけど、そうは、見えない?
> ***********
> その通りに 居る時
> “ その通り ” と言えます
>
> “ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?
> そこだけ その通り ということはありません
> その通り には それまでの生き様が すべて 積まれています
> これから 積むことも
> その通り に 積まれますが
> その時は “ その通り ” ではなく “ 正しい 道( 通り )” と 名を変えます
> ( そのように 授記 されているからです )
> 道は 一つであることが “ 南無 とも 妙 ” なこと です
> ***********
・
検索結果:75件 [前の30件] [次のログ(P 0053)]