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  [No.17270] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/10(Fri) 07:23:01

ショ-シャンクさま、おはようございます。

> 石飛先生、おはようございます。
>
> 私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
> 仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。


OKでございます。
全然問題はありません。では、龍樹はなしで。

>
> ですから、スッタニパ-タ1042の仏陀の言葉の中の
> 『両極端』と言う言葉も、抽象的なことを指しているのではなく
> 『苦行の道』と『快楽の道』を指しているのだと考えています。

ここは、ウパニシャッドを見ないと、ちょっとわからないかもしれないですね。

わたしも、ここはまだ検討しきれていませんけど、
とりあえず
「苦行」「快楽」の二つを指す、としても、良いかもしれません。
ウパニシャッドは、善悪で語っていたかもしれないです。今、調べずに書いているので間違っているかもしれませんが。

>
> 『苦行の道』も『快楽の道』も離れて『中道』を行く、と仏陀が宣言しましたので
> そうすると多くの人はその両極端の中間のことだろうと考えています。
>
> しかし、仏陀が言ったのは、苦行と快楽の中間、つまりほどほど苦行、ほどほど快楽、などではない
> と、このスッタニパ-タの言葉は言っているように聞こえます。

それは、わたしもそう読めます。
>
> 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

それは、ショ-シャンクさまの解釈になります。
そこに「身体」と限定することばが必要かどうか、なぜそう言うのか、説明してもらえますか?


> しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
> 身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。

ああ、やはりそうですよね。わたしも、同じです。そうなると、ますます、身体をあげる理由を知りたいですね。

>
> 歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
> 非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。

そう思います。
>
> よって、『両極端』と言う言葉も、抽象語ではなく具体的な『極端』を指し示していると考えます。

おっしゃるとおりです。

で?




「苦と楽の中道」を取り上げて、ショ-シャンクさまは語られましたが、
もう一つ、「中道」がありますね。

カッチャ-(ヤ)ナ に語った「有る」と「無い」に関する中道です。

ここは、問題にしないのですか。
しないのであれば、なぜか、お聞きしたいです。



ちなみに、わたしは、入っていると思います。


 

  [No.17274] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 11:58:37

石飛先生、おはようございます。
午前中、お墓を納骨殿に移す儀式がありましたのでやっといま座ることができました。

> >苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。
>そこに「身体」と限定することばが必要かどうか、なぜそう言うのか、説明してもらえますか?

苦行は身体的な苦行のことであり、快楽は身体の快楽のことだからです。
苦行の道と快楽の道は正反対のように思えますが、結局身体に関わるものであり、智慧と違うもの、
よって、仏陀は苦行で身体を痛めつけても悟れることはないと思ったのだと考えます。
もちろん、私の解釈にしか過ぎません。


>カッチャ-(ヤ)ナ に語った「有る」と「無い」に関する中道です。
ここは、問題にしないのですか。
しないのであれば、なぜか、お聞きしたいです


苦行と快楽に関しては、仏陀が二辺(と言う極端)を離れ『中道』を行くと宣言し、その中道とは八正道のことだと言っています。

有無に関しては、私は仏陀が『生じるものだから無とはいえない。滅するものだから有とはいえない。』と言ったことは知っていますが
そのときに、『有でもない、無でもない、中道を行く』とは言ってないように思えます。
もし言っているとすれば私が知らないだけなのでしょうけど。

有無に関しても、『中道を行く』という場面があるのでしょうか。教えてください。


 

  [No.17279] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 15:15:44

石飛先生、こんにちは。

先生の指摘を受けて、両極端と中道について、調べてみました。

苦行と快楽に関しては、仏陀が最初に宣言した言葉としても有名ですし、中道という言葉を使っています。
そして、中道とは八正道と言っています。

断見と常見に関しては、
『苦は自作であるという説は常見に陥る』『苦は他作であるという説は断見に陥る』として
如来は中によって法を説くとして、十二縁起を説いています。

「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
これも十二縁起が説かれています。


ということは、中道である八正道が説かれているのは、苦行と快楽に関してだけのような気がします。

「だから何?」と言われるかもしれませんが、私には興味深いものでした。


 

  [No.17280] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 15:22:25


> 「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
> 第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
> これも十二縁起が説かれています。


『有と無に関しては』が抜けておりました。次の文になります。



有と無に関しては
『一切があるというのは一つの極端である。一切がないというのは第二の極端である。
これら両極端を離れて如来は中によって法を説く』とあって
これも十二縁起だけが説かれています。


 

  [No.17282] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/11(Sat) 07:27:48

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 先生の指摘を受けて、両極端と中道について、調べてみました。
>
さっそく調べてくださったのですね。

>
> 「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
> 第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
> これも十二縁起が説かれています。


> ということは、中道である八正道が説かれているのは、苦行と快楽に関してだけのような気がします。

なるほど、そのように解釈されたのですね。
これも中道だとは思われませんか?

ここは、ixtlanさまを思い出すところなのですが、かつて、ここを取り上げて、これも「中道」だとなっているが、どうしてなんだ、とお聞きになっていたように思います。少し記憶違いがあるかもしれませんが、ポイントをはずさないなと感心したことを思い出します。

「中」のことばの「真ん中」という意味が、わかりやすいのは、苦楽二辺の中道ですが、
この有無二辺の中道も、中道だと思います。

これを、先の苦楽と同じように考えてみると、有と無の間は、実際はないので、ティッサ・メッテイヤに対して答えた「中間にも汚されない」が出てくるのではないかと思います。


前回、龍樹は検討しないとおっしゃっていましたが、あそこにもヒントがあります。

大智度論』の表現の中で、善・悪・無記の三つをあげて世俗諦の「中道」が説かれていたのですが、次の勝義諦の「中道」へ行く時は、

善・不善・無記と説かれており、スルッと有無二辺の中道への転換がさりげなく書かれているのです。

当然、善(=有)と不善(=無)の「真ん中」は、ありませんので、「無記」は空ということにもなりますが。
ここにも、「中道」を見ようとしているということがおわかりかと思います。


> 「だから何?」と言われるかもしれませんが、私には興味深いものでした。

わたしも、興味深いです。
ブッダは、非常に常識的に、有無に関する中道の場合は、十二支縁起の順観と逆観のいずれかが成り立つ道として、中道を示している、ということだと思います。

片方だけではなく、両方のうち、どちらかが成り立つ道を「中」として、両方を視野に入れつつ語るように、と指示したと解釈できるのではないでしょうか。

ここも、逆観を意識出来ていることにより、覚りへの道に踏み込んだ行者の姿が見えてくるかと思います。

そして、それができるなら、中道も、意識されてくるのではないかと思うのです。
「両極端に染まらない(汚されない)」という道です。
ことばとして「中間」を設定してもよいし、具体的に「ない」ということで「中間」を立てなくてもよし、というところかと思います。

これに立って、中道をいくとき、やはり「八正道」となるのではないかと思っています。


 

  [No.17272] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/10(Fri) 08:08:22

ショ-シャンクさま


> 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

今、ひょっと思いつきましたが、「縫う女=家を作る者」の絡みでお話になっていますか?


もし、そうなら、「縫う女」は、ティッサ・メッテイヤの質問です。
「中道」(らしき表現)が出てくるのは、ティッサ・メッテイヤの質問になってからで、
アジタの質問は、「中道」にはいたりません。


まあ、でも、<人>を中心に語るとは述べましたので、前のアジタの質問にあるナ-マル-パを、「五蘊」と見て<人>を語るのだとお考えになったのかな、と想像しますが、

アジタとティッサ・メッテイヤは、それぞれ異なる質問をしていることは確かです。

1040「この世界において、誰が満足した者なのですか。誰に、諸々の動揺することがらがないのですか。だれが、両極端を知って、中間においてよく考慮して染まらないのですか。誰を、偉大な人と語るのですか。だれが、この世で、縫い子(愛着)を超えたのですか」と、ティッサ・メッティヤ尊者は言いました。
(これはわたしの訳です。)

「誰が」「誰に「誰を」などと質問しているのが、ティッサ・メッテイヤの特徴です。
ウパニシャッド的には、ア-トマン(自己)の語でいわれるものより、プルシャ(人)の語でいわれるものを念頭において語っていると思います。

ティッサ・メッテイヤも、「身体」のみを念頭において語っているわけではない、ということがおわかりになるのではないでしょうか。ア-トマンとプルシャは、ほとんど同じようにも用いられるからです。この区別がまだ未分化の思想を受けいれて、ブッダは答えています。

ブッダが、「五蘊」の分類を出して語る前の状況ですから、そこを考慮しなければならないと思います。

勝手に、ご自分でチャンポンにしますと、わけがわからなくなります。


 

  [No.17276] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 12:21:02

> > 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

> 今、ひょっと思いつきましたが、「縫う女=家を作る者」の絡みでお話になっていますか?


いえ、アジタの質問には絡ませていません。
メッテイヤの質問だけで考えています。
また、メッテイヤの質問に『縫う女』が出てきますが、縫う女=再生の身体を形成するもの として
縫う女を超えることとして両極端(苦行と快楽という身体にまつわるもの)にも中間にも汚されない道を説いた・・・
とまで考えて両極端を苦行と快楽にしたわけではありません。
しかし、『縫う女』や『欲望に関して清らかな行ない』と言う言葉からしても、両極端を苦行と快楽にして違和感がないようには思えます。


 

  [No.17144] Re: 大乗仏教の起源を再考する 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2019/11/26(Tue) 11:59:33


> 仏教の中心概念は、縁起であって空ではない。それ故、空の思想は、縁起を指示する限りにおいてのみ仏教的意義をもつ。

「 空 」 が 仏教です
「 空 」 は 「 縁起 」 の ことを指し
> 空の思想は、縁起を指示
するのみ です
それ以外の “空の解釈” は 「 有見 」 でしかありません

「 縁起 」 に起きるから 二つの観察 が起き
一つの見方 しかできないことが、 「 空論 」 と なり、 戯論 となるのです
ちょうど
ショ-シャンク 様 が 一つの見方を 固持する様に 、、、、

彼は、 すべての人が 仏となるべくして存在する ということを 知ろうとはしません

わたしは、 ショ-シャンク様 が 手を合わせられる“ 御身 ” である
と知り
手を合わせているのです

わたしのことは 私事 です ( あなたにとっての わたしの私事 です)

> 空思想の意義について、梶山雄一博士は次のように言われる。
> 『般若経』はあらゆるもの、行為もその果報も実は空であることを説き、ひいては輪廻と涅槃とが一つであることを説いて、業報の法則を超越することを教える。(梶山雄一『「さとり」と「廻向」』講談社現代新書七一一、一九八三年、二〇頁)(傍線=松本。以下同様)

あらゆるもの 行為 が 「 空 」 であるなら
釈迦牟尼 の 行ない 阿弥陀仏 の 願 ( 法蔵菩薩の願 ) は 「 空 」 となります
誓願 」 などは “ 空 ” の 産物 となります

それを 解釈することが 「 空 」 であることと
仏陀 が 「 空 」 であること
とは 同じ「 空 」 ではありません

「 至道無難唯嫌揀択 」
道に至り 「 道 」 = 「 真理 」 である時
その至りたる “ところ” は 「 空 」 ですか ?

> これに対して、道元は説く。
> 業障なにとしてか本来空ならん。……業障の当体をうごかさずながら、空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。(『正法眼蔵』「三時業」大久保道舟編、筑摩書房、一九七一年、六九〇頁)
> これらの発言において、問題になっているのは、業報が空かどうかということである。梶山博士が、『般若経』では業報を空であると説くとされるのに対し、道元は、業報は空ではないと述べ、さらに業報を空であると言えば、それは外道の見解になると論じている(道元の「業障」を「業報」と言いかえることに大きな問題はない)。従って、梶山博士の『般若経』理解が正しいとすれば、『般若経』は、道元より見れば、仏教ではない外道の見解を説くものとなるのである。

そういう見解 も 見解としてなら 成立する

> このように道元が”業報の空”を外道の見解であると見なしたのは、彼が、次に示すように業報や因果を否定することは、とりもなおさず”仏教”を否定することであると考えていたからである。

あなたが、 仮定 を 基に 論を展開していることが
分かりませんか ?


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