> さっさと自費出版したら?
>
> ぼく自費出版しま~す、自費出版しま~す、すごい本で~す
> いつから大騒ぎしてるのかしらないが、オオカミ少年性を強烈に感じるのは私だけだろうか。
一言居士さん、こんにちは。
またまた貶しの短文ですね(笑)
私は、このマニカナで自費出版のことを言ったことは今までありませんよ。
ブログをしていることも自ら言ったことはありません。
ただ、なぜか、pocketという人が、たぶん、私のブログに書いた文章だろうものを引用してきたので
それについて言及しただけですよ。
この一連の流れから、『ぼく自費出版しま~す、自費出版しま~す、すごい本で~す いつから大騒ぎしてるのかしらないが』となぜなるのでしょう。
このマニカナでの過去の私の投稿で、自分のブログのことや自費出版について触れたことはありませんよ。
皆さんが、わざわざ自分から探し出してきて引用したりしているのです。
私から全く望んでいることでもないですね。
あなたの文章を見ていると、最初に登場してきたときから、貶ししかしてませんね。
最初は確か、芳和さんの投稿に対してのみでしたが春間さんになり石飛先生になり、という貶しの対象は移っていますが、ずっと貶しばかりです。
そんなに現実社会で満たされていませんか?
実社会で認められていませんか?
実社会の人間関係で認められてないと感じている人が、宗教や哲学をすることがあり、
いつのまにか、自分の宗教や哲学が自己重要感の大部分を占めてしまう場合、
他者を貶してばかりいて自己の優位性を保とうとする人が出てきます。
メッタ-さんはそうなのではないですか?
> 少なくとも今年になってからではないね。
自費出版を契約したのは今年の3月だけど?
>自費出版に専念する宣言のわりには
このマニカナの掲示板で、自費出版専念なんか宣言してないけど?
というか、自費出版するなんて、マニカナでは一度も書いたこともないけど?
>無意味な掲示板争いが多すぎる人である。
確かに。それは言える。特に春間さんの誰に対しても否定的な言動が、ヤフ-掲示板でも傷ついたと言った人がいたことや、この掲示板でも新しい人にいきなり否定的な言葉を投げかけるやり方で新しい人がいなくなることに憤りがあったことは確か。投稿数の半分近くを占める春間さんのみんなへの接し方が変わったらマニカナがかなり新しい人で盛り上がるのではないかと思っているので、きつい対応したことはそう。それはここに来た当初からそう言っている。春間さんは変わらないようなので、もう言わないけど。
> 狭量さしか感じない。人の悪口や批判に対する耐性が弱すぎる。
そう感じるのは個人の自由。
だけど、他人にばかり度量を求めるのがあなたのいう仏教なのだろうか。
自分は大きな度量だと思ってる?
>仏教の香りはない。ここは芳和さんや春間さんの方が、ずっと懐が深いな。
あなたがそう思っているのはわかった。
仏教の香りという言葉が何を意味しているかが分からないけど、
あなたの判断だと、あなたは自分が仏教の香りに溢れていると思ってる?
それ、すごく聞きたい(笑)
あと、名前がメッタ-だけど、自分にメッタ-があると思ってる?
それもすごく聞きたい。
質問に答えていただけないようですので、この際、書いておきますね。
これは前から思っていたことですが、メッタ-さんは私とはレスも無関係でしたので
ずっと黙っておくつもりでした。
しかし、このままだと、自らの能力を過信しすぎて、これから先もいろいろな人を貶していくだろうと思えますので
私の考えを書いておきます。
メッタ-さんは、井筒俊彦についての石飛先生との論争を、結局話がかみ合わないだけで終わった、石飛先生の井筒俊彦理解がなさすぎて話にならなかった・・・・と思っていることでしょう。
ところが、あの対話、全く勝負になっていなかったのです。
メッタ-さんの完敗です。
石飛先生の芳和さんへの言葉
『他人のことばで語らず、自分のことばで語ろうとしてください。井筒も、矢島も捨てて、自分が本当に善いものだ、と思うものだけを語るとどうなるのですか。』
これが肝なのですが、あなたはその後の言葉『井筒と矢島で、ブッダの法に行けた人は見たことがありません。』に食らいついていきました。
そして、あなたと石飛先生の論争が始まります。
次の石飛先生の質問の肝は
『井筒氏が碩学であろうとどうだろうと、何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか』
です。
この答えによって、その人の仏教理解のすべてがわかる、という質問です。
ここで、メッタ-さんは、先生を黙らせる、あるいは納得させる答えを正面からぶつけなくてはいけませんでした。
しかし、メッタ-さんの答えはこうでした。
『芳和氏が仏法に行けていなくても、エムさんの知らないところで誰かが井筒俊彦でブッダの法に行っているかもしれない。その「事実」の不存在を証明できますか?不可能でしょう。それに井筒俊彦本人は、少なくとも禅のキャリアと造詣は深いですよ。在家の禅修行者の父上から幼少期から無字の公案の独特なものを叩き込まれているし、公案についての解説文を読んでもそこら辺の禅僧や見性者を超えていると思います。』
『ただ井筒俊彦は宗教思想の総論を提示した段階で生を終えてしまいました。これからが本格的な仕事だといわれていたのに。』
『井筒俊彦は太平洋であるブッダをバケツに矮小化しているとは思いませんが?そもそもブッダだけが太平洋じゃないでしょ?普遍宗教の向こう側に広がっているのは太平洋、というか大宇宙です。』
『古今東西にわたる多言語をマスタ-し、それぞれ言語の最高のテキストを咀嚼したという一点なら、おそらく、日本人の歴史で最高を争うと思います。聖徳太子、空海、道元を超えてますね。』
『井筒俊彦の場合、テキストで固有名詞として出される著者はすべて原語で読んでいます。東洋のも西洋のも等しく。空海や道元についても、同じ母国語の思想家として完全に咀嚼していますね。空海や道元の肩の上に乗れるのです。その展望から、ヘブライ語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語を介して、一神教の三兄弟の本質も理解している。道元や空海にはそこまでできません』
もう、これで全然だめだな、と私は思いました。
石飛先生が、本質を突く質問をされたのですから、本質をえぐる答えをしなければなりませんでした。
しかし、返ってきた答えは
『井筒俊彦でブッダの法に誰も行っていないというが、その証明はできるのか?』という小学生の返しのようなものでした。
あるいは禅を修行してるとか、詩人と親交があったとか、そんな経歴のような表面的なことばかり。
それからあとは、語学が堪能だったということの強調に終始していました。
中身が全くないものでした。
石飛先生が見ておられるのは、仏教知識の量だとか、読んだ本の数だとか、何の本を読んだとかではないのです。
本質が見えているか見えてないか、だけです。
本質を洞察してるかどうか、です。
芳和さんは残念ながら
『他人のことばで語らず、自分のことばで語ろうとしてください。井筒も、矢島も捨てて、自分が本当に善いものだ、と思うものだけを語るとどうなるのですか。』
という問いに答えることができない。
メッタ-さんは、
『何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか』という問いに本質で答えることができなかった。
もし、井筒俊彦が仏陀を超えると思うのならそれを言えばいいことですし、仏陀を超えるのではないのであれば、わざわざ井筒俊彦を取り上げる本質的な意味を語ればよかったのです。
石飛先生がメッタ-さんが仏教にいけてないと言われるのは、メッタ-さんが本質を見ることができてないからです。
このように書くと特に古参の人から嫌われることはわかっていますので、今まで書きませんでしたが、退散する時かもしれませんので書いておきます。
> 当人は、 “ 何かを得ている ” と 、 「 信 」 を持つ 立場にある
> ( 自己評価である )
> 管理人エム 様 並の人間 に 分かるように 答えてください
なみのわたしがわかることは、
“ 何かを得ている ”と思っているのは、確かというほど確かではないですが、ご本人はある程度確かだと思っている節もある、ということです。
瞑想についてちょっと何かをもっている、と、ご本人は思っているか、あるいは、そのように見せたいのだと思います。
虚勢を張れる位置にいたい、ということなので、そこを確保できるようにと、かれは思っています。
情報少なすぎてわからないけど、仏教が何か、ということをてっとりばやく知ろうと思っています。
かれは、仏教でなら、なんとか自分をアピ-ルできるだろうと考えています。
他の分野では、ある程度知識や雑学の類いが必要だけど、仏教なら、知識がいるところといらないところがある、と知っています。
(そんなことないんだけどね)
なので、深みを見せるために一言居士を気取っています。
たくさん語るとバレるので、「深みのある一言」を目指しています。
でも、ちょっとかまわれると、本性が出てしまうので、ショ-シャンクさまに「本質が見えているかだ」と「図星すぎ」なことをいわれます。
> それは、 何を 本質とするか で 決まることです
春間さまなら、こう言ってくれるので、なんとかなる道が開けるけど、
ショ-シャンクさまは、言ってくれないので、噛みつく以外にすることがありません。
だから! まじめに仏教を勉強しなさい、って言ってるのよ、管理人が。
心清らかにするか、智慧でいくか、どっちかしかない、って言って、わたしは口うるさく勧誘しています。
まだ、若いんだし、今からでも遅くないんだから。
> ( 「 仏教 」 に 本質 は ない )
> 本質がない のが 本質 です
こういうことが言えるまでには、全く至っていないのが、メッタ-さまなのです。
こういうことが言えるためには、どれだけ勉強しなければならないか、かれは想像もつきません。
学問に王道はないけど、「自分は巧みな脇道を行くからいいさ」、と思っているなら、
ブッダにエライ目に合わされるだろうと思っています。
っていうか、こんなとこに迷い込んで、仏教の猛者が徘徊する道場で、
「どうすんだよ」って、心配してる母親気分ですけど。。
> なみのわたしがわかることは、
一応 否定される
> > “ 並ではない人 ” が どのように評価するか
> “ 何かを得ている ”と思っているのは、確かというほど確かではないですが、
> ご本人はある程度確かだと思っている節もある、ということです。
確かに
並みの人は、 確かではないことを、 拠り所にしてしまう ( 傾向がある )
傾向 とは 真っ直ぐではない ということ
『 維摩経 』 には、 「 直心是道場 」 とある
ここは、 あなたの 規定( 希望 !) で 「 道場 」 である
マジカナ ? と 掛けようと、 「 道場 」 である
マジカル に そうなってしまうのが、 「 希望 」 ではあるが
そのように希望していた と 後から “その希望” を “ 少し” “見直す”
( そのように 、 “ 少し ” = 毫釐の差 は 天地 と隔たり 動顛 の 知となる )
そういう意味では “ 並みの人 ” ( かな ? )
> 瞑想についてちょっと何かをもっている、と、ご本人は思っているか、あるいは、そのように見せたいのだと思います。
あなたは、 あなたが意識しないところで、 「 瞑想 」 しているから
意識に於いては、 “ 思います ” と 意識する
> 虚勢を張れる位置にいたい、ということなので、そこを確保できるようにと、かれは思っています。
虚勢 という語 は、 それを意識できない時
( 何故かは 分からないが )
虚勢 を 張らない人から、 語られる言葉となる
謙虚 に 考えれば、 分かることでも、 “ 謙虚さ は 自分の尺度 ” なのです
> 情報少なすぎてわからないけど、仏教が何か、ということをてっとりばやく知ろうと思っています。
自分が、 手っ取り早く 知った から、 手っ取り早く 教えたい ( 自分が知っていること )
( “てっとりばやい” は “手に取る” と “直ぐ” に 、指の隙間から 漏れ 出る )
“てっとりばやく” 知ったことを 言う → そこには 漏れ が 多くなる
> かれは、仏教でなら、なんとか自分をアピ-ルできるだろうと考えています。
> 他の分野では、ある程度知識や雑学の類いが必要だけど、仏教なら、知識がいるところといらないところがある、と知っています。
「 論 」 は 口先にある と思っている ( 知る ) が
知りよう は 口先にはない ( 知るということ )
行いを伴わなければ、 人を納得させることは 六つかしい
( 難しいことは 、 六つある という意味 ではない )
> (そんなことないんだけどね)
そうだ ! そうだ ! と 否定する
> なので、深みを見せるために一言居士を気取っています。
気取るためには ( 着飾る ) 外套( 上着の意味 ) が 必要である
( 外套を奪う者には 下着 も 与えなさい )
「 わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。 外套を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。 あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 」 (ルカ6:27-38)
ただし、 これ(?)は 、 持っている者の 指の間から 漏れやすい
( この言葉は、 “ 自分の持ち物(我) を 持つ者 ” に 語ら得ている )
> たくさん語るとバレるので、「深みのある一言」を目指しています。
漏れ残ったモノ が 持っているモノ
残ったモノ に 深みを与えたい ( 豊かに盛りたい → 「 仏道もとより豊険より跳出せる 」 )
> でも、ちょっとかまわれると、本性が出てしまうので、ショ-シャンクさまに「本質が見えているかだ」と「図星すぎ」なことをいわれます。
過ぎたる は 及ばざるがごとし
( 過ごしてしまっては ・ 寝過ごすと ・ ウッカリしていると )
のり過ごして、 再度のらなければならなくなる
また 寝過ごさない という 保証はない
駅は 意識の産物だから 、 無常 に 移り行く ( 「 有情 」 は そのように知らない )
> > それは、 何を 本質とするか で 決まることです
> 春間さまなら、こう言ってくれるので、なんとかなる道が開けるけど、
誰でも 開けた道 を 歩む
( 開閉 は 「 縁起 」 に起き、 開き方の 広狭 も 「 縁起 」 に起きる )
「 縁起 」 を 知るまでは、 道は閉ざされている ( が 如し )
> ショ-シャンクさまは、言ってくれないので、噛みつく以外にすることがありません。
言 ってくれない のか 言えないのか
あなたには 、 はっきりしている けれど 、
並みの人は 、 並みの人の言葉を聞く
> だから! まじめに仏教を勉強しなさい、って言ってるのよ、管理人が。
> 心清らかにするか、智慧でいくか、どっちかしかない、って言って、わたしは口うるさく勧誘しています。
原理運動 も 巷で 口うるさく勧誘している
( うるさいかどうか は 聞く人の 心構えに起きる )
わたしの 小うるさい 勧誘・勧進 を あなたは、 小さく聞く が
“ 大きな顔で 大きな口 ・ 大きなお世話 ” と、 うるさく( 大きく ) 聞く人もいる
小さく聞くこと の その理解 にも、
「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」 は 起きる
> まだ、若いんだし、今からでも遅くないんだから。
老若 は 「 縁起 」 ( 「 生労病死 」 ) に 起きる
「 永遠 」 を 知るまでは、 いつも “ 遅かった ” と 悔やむ
一人の生 は 一人のモノではない
( 一つの生 に ある )
決して繰り返されることのない “ 一つの生 ” は このように(?) この世に 歩まれる
> > ( 「 仏教 」 に 本質 は ない )
> > 本質がない のが 本質 です
> こういうことが言えるまでには、全く至っていないのが、メッタ-さまなのです。
至っている と 思っている人 ( 「 禅 」 の 高僧 といわれる人 に 多く見られる )
でも、
そのように 書いてある通り を 画上 で 歩む
( 画上の虎 を 追い出してごらん 捕まえて 縄なす から )
ガ( 我・画 ) を 持てば、 ツカメタ と 思うのも ショウガナイ
> こういうことが言えるためには、どれだけ勉強しなければならないか、かれは想像もつきません。
こういうことが言える まで 、
あなたは 意識しようとしまいと 、 「 無 」 といわれる 「 瞑想 」 を為してきている
> 学問に王道はないけど、「自分は巧みな脇道を行くからいいさ」、と思っているなら、
> ブッダにエライ目に合わされるだろうと思っています。
エライ人の言うことを聞きなさい
> っていうか、こんなとこに迷い込んで、仏教の猛者が徘徊する道場で、
> 「どうすんだよ」って、心配してる母親気分ですけど。。
わたしの 慈母・母親 でも ある
( 慈母 が わたし を 自賛する → 慈母自賛 ?? )
父なる神 は 決して むくれない ( 六暮れない )
・
メッタ-さま
>
> 図星すぎか。餌に食らいついて勝手に興奮してんのは誰か明らかだな。
う--ん、もうちょっと気の利いたこと、書かなくちゃ、さびしすぎ。
せっかくショ-シャンクさまにかまってもらってるんだから、リングにあがって、3分くらいはもたせたいよね。
勝手に興奮してんのは誰か明らかなんだから、ここでせめて心制御して、安般念の成果を示してほしい。
ここは我慢だ!
>
> 我儘だらけのクソ長文に返答を要求するなんて、よほど世間知らず、人間の心知らずなんだろう。
大丈夫だ!そんなに長くないよ。
落ち着いて読んで答えると、もしかしたら、ショ-シャンクさまが感心するかもしれないじゃないですか。
楽観論かもしれないけど、少なくとも、わたしは見直すけどね。
エム氏は芳和氏のときもそうだったが、悪口をいいあえる相手をみつけると、饒舌になって本性を露呈させる。いまはショ-シャンク氏というわけ。二人の会話を読むと、あまりの人間の品性のなさに、驚愕だ!
> エム氏は芳和氏のときもそうだったが、悪口をいいあえる相手をみつけると、饒舌になって本性を露呈させる。いまはショ-シャンク氏というわけ。二人の会話を読むと、あまりの人間の品性のなさに、驚愕だ!
メッタ-さん、驚愕しているところ申し訳ないですが、メッタ-さんのこの発言について教えていただけますか?
> ブッダがいるのに、なぜ井筒氏?
> バケツで太平洋の水の量を量る人はいないと思います。
> 太平洋の大海原を知るには、太平洋に臨んで見ること。バケツはいらない。
井筒俊彦は太平洋であるブッダをバケツに矮小化しているとは思いませんが?そもそもブッダだけが太平洋じゃないでしょ?
普遍宗教の向こう側に広がっているのは太平洋、というか大宇宙です。
> > 普遍宗教の向こう側に広がっているのは太平洋、というか大宇宙です。
> この考え方をもつなら、ブッダを超えることはできません。
> 普遍宗教は超えられるかもしれませんが。
大宇宙というのはもちろん大きさの比喩に過ぎまでせん。大宇宙をも超えるのが普遍宗教だと理解しています。
メッタ-さんは
『普遍宗教の向こう側に広がっているのは太平洋、というか大宇宙です。』と言いながら
『大宇宙をも超えるのが普遍宗教だと理解しています。』と言っています。
また『太平洋であるブッダ』『そもそもブッダだけが太平洋じゃないでしょ?』と言っています。
この比喩だと、ブッダと普遍宗教と大宇宙の関係が支離滅裂なんですが、
メッタ-さんが考える、ブッダと普遍宗教と大宇宙の関係とはどういうものなのですか?
メッタ-さん、返事ありがとう。
なるほどね。
>井筒俊彦をバケツになぞらえているのがエム氏。バケツのようなちっぽけなもので太平洋を量れるかという趣旨かと読んだ
ここにカチンときたわけだ。
それなら聞くけど、メッタ-さんは、
>ブッダだけが太平洋じゃないでしょ?
ということだけど、太平洋は他に誰だと思ってる?
イエス・キリストとマホメット?
井筒俊彦も太平洋だと思っている?
もし、井筒俊彦が太平洋なら、井筒俊彦を通して仏陀を知る必要はなく、井筒俊彦を知ればいいだけだよね。
もし、井筒俊彦が太平洋じゃないなら、大きい小さいはあったとしてもバケツと変わらなくない?タンカ-であっても同じ。
つまり、太平洋より小さいもので太平洋を量っても仕方ないことにはならない?
それより、仏陀に直接参入したら?という意味だと思ってるけど。
普遍宗教の向こう側ということは、普遍宗教を超えて大宇宙があるという意味と思ったけど、
大宇宙をも超えるのが普遍宗教というので、どっちなんだ?と言いたいけど、
ちまちま言わんということだからやめとく(笑)
メッタ-さん、こんにちは!
> エム氏は芳和氏のときもそうだったが、悪口をいいあえる相手をみつけると、饒舌になって本性を露呈させる。いまはショ-シャンク氏というわけ。二人の会話を読むと、あまりの人間の品性のなさに、驚愕だ!
大丈夫ですか!!!
メッタ-さんって、えっと、その、どういう志向性、目的でこの掲示板にいらっしゃっているんでしたっけ…?
なんだか、嫌々いいながらも、ここにいるんだ- …って、不思議に思いまして。
> もちろん、こんなところで、誰に悪口をいわれようが、まったく頓着しないが。
頓着しないわりには、すぐ反応するよね(笑)
>人間を判定する基準に、人の悪口の言い方がある
メッタ-さんの『人の悪口の言い方』は、メッタ-さんが判定したらどうなりますか?
二人の投稿者が閉じ込めらたとき、春間氏を別にすれば、いの一番に乗り込んでいったのがショ-シャンク氏だった。その後の対応をロムした限りの印象だが、人間としてもっとも信用できないのはこの人だと強く思った。エム氏への対応にも、ぼくちゃんだけいい人の卑屈さがぷんぷん。結局、他の人といつもながらの終わり方。相手がおかしい、自分に正論。
で、いまは、私について、一言居士だ、自分を深く見せているだけ、アタマが悪い、エムさんに完敗、本質が見えていない、と自分からエム氏に向けてイニシアチブをとっては、噂話、貶め会話。そのことはまったく結構なんで、頓着しないんですが(笑)、なんか品性の卑しさ・悪さが突出した印象なんだな(笑)。本人は実社会ではいい人だというに決まってるんだが(笑)
仏教や宗教についても、こちらの心に響くものはまったくなし。
> 二人の投稿者が閉じ込めらたとき、春間氏を別にすれば、いの一番に乗り込んでいったのがショ-シャンク氏だった。その後の対応をロムした限りの印象だが、人間としてもっとも信用できないのはこの人だと強く思った。
うん。確かに。それは言えてる。人間的に最も信用できないのは当たってると思うよ。
>エム氏への対応にも、ぼくちゃんだけいい人の卑屈さがぷんぷん。
そうかな。尊敬することは基盤にあっても、議論のときは石飛先生相手でも引かないけどね。
>結局、他の人といつもながらの終わり方。相手がおかしい、自分に正論。
芳和さんも春間さんもメッタ-さんも自分から終わりにしているんだけどね。特にメッタ-さんは対話も議論もすることなく、遠くから石を投げているだけ。反論もできずに、クロ-ゼットに入って『バカヤロ-』と叫んでも意味ないよ。
> なんか品性の卑しさ・悪さが突出した印象なんだな(笑)。
うん。だから、卑小な人格だって言ってるでしょ。
>本人は実社会ではいい人だというに決まってるんだが(笑)
実社会でもいい人ではないよ。
交渉はかなり強引だし。
顧問弁護士にも『相変わらず強引ですね』とあきれられる。
交渉相手の弁護士事務所に一人で1週間毎日乗り込んで、こちらの要求を無理やり認めさせたりやってきた。
全く、いい人ではないよ。
> 仏教や宗教についても、こちらの心に響くものはまったくなし。
自分が好きで探求してるので、誰に響いてほしいとも思わないし、ましてやメッタ-さんの心には響かなくてもいい感じはする。
> 一人の新規投稿が増えすぎてクレ-ムが出たことがあるが、その理由もわかる。
うん。それは、あなたが芳和さんにそっくりだから。
人を貶してばかりのところも、きちんと目を見て対話できないところもそっくり。
実社会でも相手の目を見て話さないんだろうね。
>
> 論争 が 必要なのではなく
> なぜ、 論争になるかを 知ることが必要
> ( 必要なこと は 誰にでもあり、 それぞれに、 理由を持つ )
>
> 弥陀の五劫の思惟 は 誰のためであろうか 、、、、
> ( それ を 必要としない者→ 善人 ・ 必要とする者→ 悪人 )
> ( それ を 必要としない者→ 賢者 ・ 必要とする者→ 愚者 )
>
> 『 叡山 』 に於いて、 愚底の底( 「愚が中の極愚」 ) を みつめる 最澄
> それを “黒谷” に於いて 観る 親鸞( 法然 )
>
> それを 観る 勢誉愚底
> < 参考 > 大樹寺
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A8%B9%E5%AF%BA
>
> これを 見る あなた
>
>
>
> 何故論争になるか を 知る と 、
> 論争の後の 、 自分の歩み方がそこに決まってくる
> ( 知る と 云う事 にも いろいろな知り方の決め方 がある )
>
>
> 真剣に読めば 相手の為になる
> 真剣に読まれなければ 為にならない ( どちらの ? )
> 真剣に読まれたかどうか には( というところには ) 判断者がいる
> 真剣に書けば 自分の為になる ( わたしに真剣さはあるのであろうか )
> ( “ 真剣さ ” の判断の 「量」 は、 誰でも決定可能 ・ 為になる も 同じ )
>
>
> あなたは悪い(考えにある) といえば、 わたしは正しい(考えを持つ) こととなる
> ( 言っていることの意味には、 言った者の意味・受け取る者の意味 がある )
>
> 問題は、
> 受け取る者の意味 には 言った者の意味 が 含まれているけれど、
> そのことを、 “身に染みて 知ることは 難しいことである” ということ
>
> 天に向かって 唾を吐いても、
> その唾が 吐いたものへ返るまでは 嫌なことではない ということ
>
> “ あなたの為 ” と 言うことは、
> あなたの為になる 時も あるが
> ( わたしの為 ということは、 親鸞が知ること )
> 言った者だけの為 という意味 も ある
>
>
> 親鸞 は 弥陀の思惟の願 を あらゆるところから知る
> ( 比叡山 の 叢林 からも知る → 如来に出会う → 山川草木悉有仏性 )
>
> 比叡山 を そうした “夜摩” としているのは、 最澄である ( とも言えるし )
> 空海であり 法然である
> あなたかもしれない( あなたであると知る )
>
> 『 華 厳 経 』 「夜摩天宮菩薩説偈品」 ( 大正蔵 465 )
> ( 欲界の天の第三番目に位する夜摩天にある )
=======================
[No.21963] 仏教に論争はいらない 投稿者:メッタ- 投稿日:2021/07/12(Mon) 19:29:38
興奮して論争が続くのは、どちらも同じ次元にいる証拠。自分の方がレベルが上だと思い込みたいほど、悲しいまでに同レベル性を周りに印象づける。みんなバカじゃない。
=======================
メッタ-さま
かわいそうすぎる。。
だけど、あえて書くよ、わが身をみつめよ、憐れなわが身を。
たぶん、アンタに付き合うのは、わたしかもしれない、って思っている。
いやかい?そうだろね。
わたしもいやだよ、なんでわたしが、って気がするよ。。。
道場に同情できるだけ、もうちっとべんきょうしろよぉ。
言っとくけど、ショ-シャンクさまも、春間さまも、きみを愛してるんだぜ、知ってる?
わたし?
すきだよ、一応言っとく。 うっ~ぷ。。
女性仏教研究者の口から、ゴング、闘う、猛者、三分の語が出るとは(笑)
ぜんぜん本質の観えん人だこと。
ショ-シャンク氏に至っては、ハッキリいって、ニセモノ、インチキが一目で分からなきゃだめ。
> 女性仏教研究者の口から、ゴング、闘う、猛者、三分の語が出るとは(笑)
>
> ぜんぜん本質の観えん人だこと。
>
> ショ-シャンク氏に至っては、ハッキリいって、ニセモノ、インチキが一目で分からなきゃだめ。
引き寄せの法則とは、類は友を呼ぶこと。春間氏、ショ-シャンク氏、芳和氏、エム氏。マニカナの外から見れば、ムキになってオレが完勝、オマエは完敗、引き寄せは今日知った、引き寄せは全否定。レベルが知れる。時代から取り残されている。
> > あれで完敗だってよ?何をアタマの悪さむぎだしの長文書いてんだ?
> >
> > 妄想炸裂以外のなにものでもない。
> >
> > こりゃだめ。最悪のカルト坊やか。
>
> 完勝、完敗って(笑)
>
> ますます仏教の香りゼロ。
>
> どこから仏教やってますという思い込みが出てきたのか(笑)
>
> 仏教のわけねえだろう。その資質、性格、思考法。、
面白い反応ですね。
ここまで反応していただけるとは(笑)
あなたの痛みがどこから来ているのかよくわかりました。
痛いところに直接触れてしまったようで、それは謝ります。
あ、それから、私は性格悪いですよ。
性格がいいなんて思ったこともありません。
ヤフ-掲示板の時は、いつも『私は卑小な精神、卑小な人格ですよ』と繰り返して言っていました。
謙遜ではなく、そうなのですから仕方ありません。
> あれで完敗だってよ?何をアタマの悪さむぎだしの長文書いてんだ?
> 妄想炸裂以外のなにものでもない。
興奮しすぎですよ(笑)
徹底 という意味は ?
( 徹底的にやる )
やるつもりはあったが、 ( 相手に 間違いがあろうと )
それに対して、 間違い・思い違い を 徹底的に指摘しない
( 徹底したくなくなった 徹底的に為されること )
自分の都合 で 取り止めることでも、
その理由 が 相手にある として
徹底すること を 取りやめる
ということを、 「 徹底的にやる 」 と
( 今までの生において も 同じ構造で )
徹底してきた、 “ 徹底すること ”
( ちょっと、 構文が複雑 で 読み取り難いかな ? )
( 少し手直し した )
まあ 、 これくらい は、 読み取り可能なこと とする
ジャンヌダルク 裁判 “問題” は 徹底されるはずではあったが、
何か、 個人的な、 問題が起きていたようだ 、、、、
・
> 徹底 という意味は ?
( 徹底的にやる )
やるつもりはあったが、 ( 相手に 間違いがあろうと )
それに対して、 間違い・思い違い を 徹底的に指摘しない
( “ 徹底したくなくなった こと ” が 徹底的に為されること )
> 自分の都合 で 取り止めることでも、
> その理由 が 相手にある として
> 徹底すること を 取りやめる
> ということを、 「 徹底的にやる 」
( 今までの生において も 同じ構造で )
徹底してきた、 “ 徹底すること ”
> ( ちょっと、 構文が複雑 で 読み取り難いかな ? )
まあ 、 これくらい は、 読み取り可能なこと とする
> ジャンヌダルク 裁判 “問題” は 徹底されるはずではあったが、
> 何か、 個人的な、 問題が起きていたようだ 、、、、
・
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