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  [No.17636] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/12(Sun) 09:17:39

石飛先生、おはようございます。

先生が『法華経は、間違いなく『スッタニパ-タ』の第四章、第五章をもとにして生まれてきている。』
と思われている理由を教えていただけませんでしょうか。

よろしくお願いいたします。


 

  [No.17637] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/13(Mon) 20:39:24

> 石飛先生、おはようございます。
>
> 先生が『法華経は、間違いなく『スッタニパ-タ』の第四章、第五章をもとにして生まれてきている。』
> と思われている理由を教えていただけませんでしょうか。
>
> よろしくお願いいたします。

おお、ショ-シャンクさま、こんばんは。
おひさしぶりですね。

じみに羅什の『妙法蓮華経』を読んでいるのですが、最初の三乗方便一乗真実の話は、もろに『スッタニパ-タ』第四章の「八偈品」から来ていますね。

『『スッタニパ-タ』と大乗への道』でも書いたのですが、後半、第14経、第15経、第16経が、それぞれ菩薩・独覚(仏)・声聞の道に対応していると読めるので、三乗が説かれています。

「義足経」では、順序が第16経、第10経、第15経という順序で、声聞・菩薩・独覚タイプの順になっています。第10経が、第14経の代わりに来ていますが、第10経は菩薩のための経だという事も、p.178に書いていますので、分かるかと思います。

そもそも、独覚乗というのを作ってあるのが、珍しいですよね。これは、『スッタニパ-タ』の第四章にもとづいているからだろうと思っています。

後、他にも『スッタニパ-タ』の第三章あたりもちょこちょこネタ的に取っているなあと思います。『法華経』は、ブッダの意図をしっかりとキャッチしたのだなと思っています。

「化城瑜品第七」では、十六人の大通智勝如来の息子さんたちは、出家して沙弥となりますが、これは、第四章の「八偈品」が16経からなることと重なります。そして、その16番目の沙弥が、なんとお釈迦さんですから、第15経「武器を執ること経」(『義足経』では最後16番目に置かれる)の内容に対応することが知られ、そう思って読みますと、この第15経には、お釈迦さんの肉声が、綴られています。まさに、ピッタリという感じです。

そして、大通智勝如来という仏の悟り直前の(といっても十小劫はかかっていますが)魔の軍勢をたおすところも、『スッタニパ-タ』の第3章の第二経に載っているところと重なります。もっと丁寧に見れば、さらにいろいろ見つかるのではないかと思っていますが、忙しいので、ちょこちょこ見ているだけです。

一仏乗だけ説かれている、というのは、第五章で内容的に示されていると思っています。ピンギヤという仙人に、「法を捨てなさい」と教えるところが、一切を捨ててこそ一切を得るというブッダの最後の教えの究極が示されていると思います。

本に書きたいけど、忙しくて時間がないので、ネタだけしゃべってしまいます。

大乗は、その内容としては、後代勝手に生まれてきている訳ではなくて、確実に原始仏典などに説かれるところで、未検討の内容や関心の高いところ、大きな問題をはらむところが、経典として作られているのだと思います。

「如是我聞」であることは、間違いないことです。いかに真剣に仏法を受けとってきたかということが、よくよく分かります。

大乗は非仏説だという意見があるのは、受けとる側に問題意識がないため気づけないということだろうと思っています。


 

  [No.17642] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/14(Tue) 16:53:49

石飛先生、ありがとうございます。

法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。



> じみに羅什の『妙法蓮華経』を読んでいるのですが、最初の三乗方便一乗真実の話は、もろに『スッタニパ-タ』第四章の「八偈品」から来ていますね。
> 『『スッタニパ-タ』と大乗への道』でも書いたのですが、後半、第14経、第15経、第16経が、それぞれ菩薩・独覚(仏)・声聞の道に対応していると読めるので、三乗が説かれています。


声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。

法華経はかなり寛容ですが、他の大乗仏典では、声聞・縁覚の二乗はかなりボロクソに書かれています。
二乗は仏になれないというのが多く、法華経でやっと、「二乗でも仏になれる」とされました。

声聞の本来の意味は、釈尊の肉声を直接聞いた弟子のことですし、
縁覚は師を持たずに悟った人のことです。
ですから、本来の意味からすると、釈尊も縁覚です。

その二乗をなぜあそこまで貶さなければいけなかったのか、
そこに大乗仏教誕生の秘密があるのかもしれません。

さて、先生の言われる、14経、15経、16経ですが、
14経が菩薩、15経が縁覚、16経が声聞、に対応しているということで
もう一度読んでみましたが、よく分かりませんでした。

この中で15経は、本当に釈尊の肉声を聞いているような気持ちになる経典ですね。
多分、すべての仏典の中でも最も古いのは、この15経ではないでしょうか。
この15経には、釈尊の真意を解き明かす鍵がありそうです。

14経は、法華経で言えば、安楽行品の基になったような気がします。
偶然、第14も同じですが。
逆に言えば、影響を受けすぎて、あまり大乗仏典のようでないところが安楽行品にはあるような気がします。

16経に関しては、題も声聞の代表のサ-リプッタですから、声聞の道と言うことでしょうか。


ただ、法華経などでは、声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行というように書かれますが
14,15,16にはその記述がなく、やはり、先生の言われる「対応している」ということがわかりませんでした。
よろしければ教えてください。




> 大乗は、その内容としては、後代勝手に生まれてきている訳ではなくて、確実に原始仏典などに説かれるところで、未検討の内容や関心の高いところ、大きな問題をはらむところが、経典として作られているのだと思います。
> 「如是我聞」であることは、間違いないことです。いかに真剣に仏法を受けとってきたかということが、よくよく分かります。
> 大乗は非仏説だという意見があるのは、受けとる側に問題意識がないため気づけないということだろうと思っています。


法華経の中に、こういう言葉があります。
「外道の論議を説き、自ら経典を作って世間の人を誑惑す」と罵詈し
塔寺を遠離」せん、と。

このように迫害を受けている様子が書かれています。

それまでの仏教徒からこのように罵詈雑言を投げつけられても新しい経典を作っていったのは
並大抵のモチベ-ションではありません。

私には、どうしても、その熱意の源は、
部派仏教が仏陀の真意を伝えていないという、強烈な不満、憤りがあって
「こんなものは仏陀の真意ではない。仏陀の説いた大法ではない。」と叫んだからだとしか思えないのです。


 

  [No.17645] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 11:00:41

何でもかんでも、一般論、抽象論にしてしまい悟りすましたスタイルでいることに汲々としていては
この石飛先生の言説が画期的なことを言っていることは分からないでしょう。
少なくとも、仏教の常識を覆すようなことを言われているのです。

菩薩とは何か、声聞とは何か、縁覚とは何か、独覚とは何か、(天台宗では縁覚と独覚は違った意味です)
春間さんは自分の言葉で答えられますか?

初期仏教において、菩薩とは、修業時代の釈尊のことを指していました。
後には主に前世の釈尊のことを指すようになりました。

菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。
大乗仏教になって初めて、菩薩、声聞、縁覚という三乗の思想が生まれました。

石飛先生は、その三乗の思想が、スッタニパ-タにあると言われているのです。

ですから、そう思われている理由をお聞きしているのです。


いちいち横やりする時間があるのであれば、春間さんもご自分でこの石飛先生の言説につき
考えたことを投稿されればいかがですが。
その方がずっと建設的だと思いますよ。


 

  [No.17647] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 14:37:38

> > 菩薩とは何か、声聞とは何か、縁覚とは何か、独覚とは何か、(天台宗では縁覚と独覚は違った意味です)
> > 春間さんは自分の言葉で答えられますか?

> そもそも、 自分の言葉 など 存在しません


これが、『何でもかんでも、一般論、抽象論にしてしまい』と言っている理由です。
私が『自分の言葉で答えてください』と言ったのは
春間さんがどんなときでも一切自分の考えや意見を言おうとせず
このように相手の言葉を否定することだけをしているからです。
『三乗思想がスッタニパ-タにある』という石飛先生のお考えにたいし、
春間さんの考えを聞かせてください、と言っているのです。
他人の言葉を否定するだけでなく建設的に話したらどうですか?ということです。

小学生の喧嘩ではないのですから、『自分の言葉で答えてください』を
『自分の言葉など存在しない』などという極論、抽象論を投げつけて悦に入るのはいい加減やめませんか。



> > 菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。


> それは 正しいことですか ?



大乗仏教ではそれは正しいとされていますね。




> ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )



それはあなたの考えにしか過ぎません。
法華経には『一切声聞辟支仏中菩薩為第一』とありますように
菩薩は上位に来ていますよね。


> 釈尊の 弟子(?) は 誰一人として 菩薩ではありませんか ?


大乗仏教では、釈尊の直弟子=声聞は、菩薩ではなく、仏にはなれないとされてきました。
維摩経など読んでみれば分かると思います。
二乗でも仏になれるとしたのが法華経です。
しかし、『でも』ですからね。


> 菩薩となる人と、 菩薩との間に
> 上下の区別がない
> ということが、 常不軽菩薩 の 礼拝の根拠です



常不軽菩薩は『汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし。』と言ったのです。
つまり、菩薩の道を行くから仏となるということです。


> 仏陀 は 菩薩より 上位にあるのですか ?



大乗仏教ではそうですね。
悟りを開いて如来になろうと修行しているのが菩薩です。
ですから、法蔵菩薩阿弥陀如来になったのです。
仏陀は、釈迦如来ですから、菩薩より上位にありますね。

これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?


 

  [No.17649] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 16:47:31

あなたが書いた文章に対して
ひとつひとつ、大乗仏典などを引用しながら答えたのです。


> > > 菩薩という概念を、釈尊の直弟子より上位に持ってきたのは大乗仏教です。
>
> > それは 正しいことですか ?
>
> 大乗仏教ではそれは正しいとされていますね。
>
>
> > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
>
> それはあなたの考えにしか過ぎません。
> 法華経には『一切声聞辟支仏中菩薩為第一』とありますように
> 菩薩は上位に来ていますよね。
>
>
> > 釈尊の 弟子(?) は 誰一人として 菩薩ではありませんか ?
>
>
> 大乗仏教では、釈尊の直弟子=声聞は、菩薩ではなく、仏にはなれないとされてきました。
> 維摩経など読んでみれば分かると思います。
> 二乗でも仏になれるとしたのが法華経です。
> しかし、『でも』ですからね。
>
>
> > 菩薩となる人と、 菩薩との間に
> > 上下の区別がない
> > ということが、 常不軽菩薩 の 礼拝の根拠です
>
> 常不軽菩薩は『汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし。』と言ったのです。
> つまり、菩薩の道を行くから仏となるということです。
>
>
> > 仏陀 は 菩薩より 上位にあるのですか ?
>
> 大乗仏教ではそうですね。
> 悟りを開いて如来になろうと修行しているのが菩薩です。
> ですから、法蔵菩薩阿弥陀如来になったのです。
> 仏陀は、釈迦如来ですから、菩薩より上位にありますね。
>
> これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?



その文章の中身に対しては、なぜ何も答えないのですか?
ただ、最後の『これが、大乗仏教の考え方ですが、知らなかったのですか?』という文に反応しただけです。

もし、上に書いたことが、大乗仏教の考え方でないというのであれば、きちんと大乗仏典などの根拠を示して
それは大乗仏教の考え方ではないと言うことを示してください。


 

  [No.17651] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 18:43:24

あなたは、私の投稿に対し

>>あなたのように、
>>偏屈に 大乗(真意)を捉える人がいるから
>>その偏屈さを、 二乗に喩えているのです
>>これが、 「 法華経 」 を 貶している ということになるのが
>>分かってはいないのです
>>偏屈 に 凝り固まっている( これは 偏屈な批判でしょうか ? )からです
>>大乗は 凝り固まりを ほぐす ( でしょうか ? )

ここまで言っていますよね。
私は、あなたの文に対し、大乗仏典を引用しながら、答えました。

あなたも、ここまで他人の文章を批判するのであれば、
大乗仏典を根拠として、その批判の理由を書いてください。


とりあえず投稿があれば何にでもいちゃもんをつけて、それに反論されれば逃げてしまうのでは
あまりにも情けないですし、
反論できなければ逃げるのであれば最初から批判しなければいいのです。

自由に意見を交わし合えば、スレも盛り上がっていくと思いますよ。
なぜ、それをせずに、投稿があれば冷水をぶっかけるようなことばかりするのかが疑問なのです。


 

  [No.17654] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/15(Wed) 20:02:25

>
> > >>偏屈 に 凝り固まっている( これは 偏屈な批判でしょうか ? )からです
> > >>大乗は 凝り固まりを ほぐす ( でしょうか ? )
> > ここまで言っていますよね。
> > 私は、あなたの文に対し、大乗仏典を引用しながら、答えました。


>
> 引用はどうでもよい
> それ以前の 問題です


どうでもよくありません。
大乗仏教を語るには、大乗仏典を根拠にしなければ成り立ちません。
あなたが勝手に断定しても、それが仏典に根拠を持たないのであれば
『根拠のない断定』にしか過ぎません。



> あなたは わたしの書き込みを “いちゃもん” だと 断定している
> 引用は “ いちゃもん に 間違いない事 ” を 証明するために 利用されている



あなたの指摘には、仏典の根拠がないことが多いのです。
根拠のない批判はただのいちゃもんです。
仏典に根拠があれば、それはいちゃもんではなく、『根拠のある批判』になります。




> それが “ あなたのいちゃもん ” かどうか を 知るには
> 仏典 を 引用するまでもない



根拠の仏典を示せないのですか?




> 「 理由をつけて 言ってみなさい 」
> 「 わたしが 正しいかどうか 判断します 」
> その判断 は 何故 正しいのですか ?




どちらが言ってることが正しいかは、仏典の根拠によります。
根拠を示せないほうが正しくないということです。



> あなたが、 正しいことを知っている のであれば
> あなたは、 それ以上に 何を知る必要がありますか ?




私は私の意見を書いているだけです。
それに対し、あなたが批判してきたので、
私の意見につき仏典の根拠を示したまでです。
あなたはその根拠を示せないでいるということです。



> これこれこういう風に 仏典には 書かれている
> ということは、
> そういう風に 仏典 を 読んでいる ということに過ぎない
> その読み方が正しい とする 慢心 を 見つめなさい ということです
> 論ずる以前の 心の問題を言っているのです




ちゃんとした根拠があれば、それが正しいと思ったからと言って慢心ではありません。
何の根拠もなく正しいと思い込んでいるのが慢心です。


 

  [No.17661] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 15:52:01

>
> > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
>
> Su.1068
> 「 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」
> 1055
> 「 上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 」


このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。



> 菩薩 を 成仏する以前の 釈迦牟尼 の 姿としましょう
> 成仏すると、 釈迦牟尼ではなくなりますか ?


悟る前の釈迦は、釈迦牟尼ではありません。
修行者ゴ-タマ・シッダッタです。
悟って、釈迦牟尼となったのです。


 

  [No.17663] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 16:59:44

> > > > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )
> 「 平等 」 を 説きます
> 平らか で、 等しいことを 「 平等 」 と 呼びます
> 上下にはみ出 不等になる ことはありません


法華経をサングラスをかけずに読んでください。
『諸経中最為其上』など、法華経が多のお経より上にあるという文言がちりばめられていますよ。



> 一切でも 問題ありませんが
> 一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?
> > 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です


意の対象は法です。


> > 悟る前の釈迦は、釈迦牟尼ではありません。
> そうであれば、
> その時、その同じ時に、釈迦( 釈尊 )以外に 牟尼 は いますか


ジャイナ教の教祖、マハヴィ-ラは、仏陀と呼ばれていました。
仏陀の名称は、ジャイナ教のほうが早いと思いますね。
声聞や縁覚もジャイナ教の用語です。
仏教はこのようにジャイナ教の用語を多用しています。



> 悟って いようといまいと 牟尼 です
> それが ゴ-タマ です
> 悟って 牟尼になったのではなく
> 牟尼が 悟りを得たのです


牟尼というのは聖者の尊称です。
悟って一切智を得た人になったから釈迦牟尼の尊称で呼ばれています。
悟らずに死んでいれば、王家や妻や子供や家臣たちすべてを捨てて逃げた無責任極まりない男であるに過ぎません。


 

  [No.17665] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 21:09:01

> > 法華経をサングラスをかけずに読んでください。


> サングラス は 「 法華経 」 には 通用しません
> 密教( 毘盧遮那 ) は 太陽に関連があります
> 適切ではない たとえは 止めた方が良い


法華経も太陽に喩えられていますよ。
『如日天子能除諸闇 此経亦復如是』
智慧光明 如日之照』
『如日月光明 能除諸幽冥』

それに、サングラスというのは色眼鏡で、色のついたレンズを通さず、直接自分の目で見る喩えです。
一般的な例えです。
龍樹や道元などの色を通さずに、直接経典を読むべきです。
そうすれば、 『諸経中最為其上』など、法華経は他のお経より上であるという言説に溢れていることがわかるでしょう。
それを無理矢理見ないふりして『仏教には上下はない』と言っても、仕方ないことです。



> 大乗 の 大 は 大きいという意味 ではありません


大乗の大は、第一義的には大きいという意味です。
優れたというような副次的な意味もあるでしょうけど。
小乗の小は、小さいという意味と劣ったと言う意味が同じくらいの比重で込められています。


> 大小 が 「 縁起 」 にあるということは 「 仏教 」 の 説くところです
> 大小は 価値の上下を 含意します


もし、歴史上の仏陀の教えを仏教と言うのなら、仏陀が説いた縁起はそのような意味ではありません。
そのような使い方をした仏典がひとつでもありますか?



> あなたが、 上下をつけるのは あなたの勝手です


法華経自体が、法華経を『諸経中最為其上』と言っているのです。
法華経が上、その他の諸経は法華経より下、と言っているのですよ。
経典の言葉を無視しないでください。



>悟って いようといまいと 牟尼 です
>それが ゴ-タマ です
>悟って 牟尼になったのではなく
>牟尼が 悟りを得たのです


悟って一切智を得たから、釈迦族の聖者=釈迦牟尼 と讃えられたのです。
悟っていない修行者は、昔も今もごまんといるでしょう。
そもそも悟ってなければ、誰もその名前を知らないし、まして牟尼という尊称をつけることはあり得ないですね。


 

  [No.17667] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 01:30:51

> > > > 法華経をサングラスをかけずに読んでください。


> 自分の目 が 曇っていれば
> サングラス は どう作用しますか

あなたは経典をそのまま読むことができないのですか?
『大小は縁起です』とか『上下は縁起です』というようなたぶん龍樹あたりをかじった論理をいちいち持ち出さなければ
読めないのですか?
それがサングラスです。それが目が曇っているのです。
法華経は自らが他の経典より上だとはっきり示しているのに、『仏教に上下はない』と言っても仕方ないでしょう。
まずは、経典そのままを読めばどうですか。



> > 一般的な例えです。


> 「 仏教 」 は 一般的な喩を用いません

一般的な例えもいっぱいありますよ。


> 一般的な仏教 などありません

誰も一般的な仏教などとは一言も言ってないですね。
小学生の喧嘩のような、本質でなく言葉尻だけ捉えるような幼稚なことはやめたほうがいいですよ。
こういうと今度は『幼稚』という言葉に反応してくるでしょうけど。

> > 龍樹や道元などの色を通さずに、直接経典を読むべきです。
> > そうすれば、 『諸経中最為其上』など、法華経は他のお経より上であるという言説に溢れていることがわかるでしょう。


> 龍樹 の 色 が ついているのですか ?
> ( 龍樹 の 色 とは 何色ですか ? )
> 道元の どこに 色がありますか ?
> ( 「 色 」 を 否定するのが 道元です )



ますます、小学生の喧嘩ですね。
龍樹や道元を通さなければ、法華経やスッタニパ-タは読めませんか?


> あなたの得意の 経典を引いて いろ の ついたところ を 示してください
> ( 出典を示さず 言うと どうなるかは、 あなたの決めるところです )


経典は経典をそのまま読まなければいけないのです。
経典に龍樹や道元の色はないのに、あなたが龍樹ばりの『上下はない』とかという色をつけているだけです。
法華経自体が、この経典が最も上だと、明らかに上下を説いているのですよ。


> > それを無理矢理見ないふりして『仏教には上下はない』と言っても、仕方ないことです。


> 「 平等 」 が 「 仏教 」 の 説くところです
> 「 平等 」 には 上下はない
> しかし、 あなたが あなたの価値基準を用いる時
> その基準に応じて “ いちゃもん ” も 起きる
> ( これが 龍樹 の 説き示すところです )



はい。やはり、龍樹が出ましたね。
あなたはスッタニパ-タにも法華経にも、龍樹を読み込んでいるだけです。
龍樹をいったん外すことはできませんか?



> > > 大小 が 「 縁起 」 にあるということは 「 仏教 」 の 説くところです
> > > 大小は 価値の上下を 含意します


> > もし、歴史上の仏陀の教えを仏教と言うのなら、仏陀が説いた縁起はそのような意味ではありません。
> > そのような使い方をした仏典がひとつでもありますか?


> 自分だ探しなさい
> 探してもなければ、 縁のない事です


結局、仏典にはないのですね。


> > 法華経自体が、法華経を『諸経中最為其上』と言っているのです。
> > 法華経が上、その他の諸経は法華経より下、と言っているのですよ。
> > 経典の言葉を無視しないでください。


>
> あなたは、 そのように 上中下 で 物事を判断するから
> 「 法華経 」 を そのように読むのです


法華経にそう書いてあるではないですか。


> > 悟って一切智を得たから、釈迦族の聖者=釈迦牟尼 と讃えられたのです。


> 何を悟っているか あなたは知っていますか ?
> あなたの知っていることを、 釈迦牟尼 が 悟ったのですか ?


そこを言っても何の意味もありません。
ゴ-タマ・シッダッタは、悟って一切智を得たと自分で宣言し、多くの人がそう思ったからこそ
釈迦牟尼という尊称で呼ばれているのです。
悟らないまま死んだのでは、名前も残らず尊称で呼ばれることはないですね。

あなたは、ゴ-タマ・シッダッタが悟る前も釈迦牟尼だと言いました。
悟らずに死んでも釈迦牟尼と呼ばれたと思いますか?


 

  [No.17657] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/16(Thu) 05:12:09

ショ-シャンクさま こんばんは。

> 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。

ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。

わたしも、おっしゃるとおりにすごいお経だなと思うのですが、確かに、その反面、声聞乗などの比丘たちに、反発されそうな物言いをしているところが、少し気になります。言いたいことは分かるとしても、もう少し配慮してもよかったかなと思わないではありません。個人的な希望ですが。

> 声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
> 先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。

そうです。何か、どこかで読んだ経典の匂いがするような。。と思っていましたら、第15経で「わたし」とブッダが語り出しているのを読んで、これが独覚の悟りを示すのではないかと思いました。

> 法華経はかなり寛容ですが、他の大乗仏典では、声聞・縁覚の二乗はかなりボロクソに書かれています。
> 二乗は仏になれないというのが多く、法華経でやっと、「二乗でも仏になれる」とされました。

『スッタニパ-タ』の第四章「八偈品」は16の経典から成っていて、これら16経のどの一つの経典によっても、悟りにいくまでが説かれています。ですから、16経のどれか1つを行っていけば、悟れるということだと気づいて、16経は、それぞれ衆生のタイプ別に分けられた内容なのだと気づいたのです。

それの分類の仕方は、『『スッタニパ-タ』と大乗への道』の中で書いてあります。28-29頁に表にしてあります。そして、この表の分類の仕方は、『大智度論』の四悉檀説をそのまま使うことができるのです。
最初の第1経の欲経と、第14経、第15経、第16経は、世界悉檀に相当すると思います。
>
> 声聞の本来の意味は、釈尊の肉声を直接聞いた弟子のことですし、
> 縁覚は師を持たずに悟った人のことです。
> ですから、本来の意味からすると、釈尊も縁覚です。

そうだと思います。第15経に相当しているのではないかと思っています。
>
> その二乗をなぜあそこまで貶さなければいけなかったのか、
> そこに大乗仏教誕生の秘密があるのかもしれません。

いや、別に貶めたりしているわけではなくて、二乗も「ブッダになれる」というこちらの方を言いたいのではないかと思います。論点はむしろそこで、16の経典は皆同じ悟り、「ブッダになる」という悟りのあり方を示しているのに、二乗の人々が、ブッダになるというところまで求めていないようだ、というので「滅」を求めるのではなく、さらに仏道を歩むべし、というメッセ-ジではないかと思っています。
しかし、書き方も悪くて(?)どうも真意を理解してもらっていないのではないかと思います。

>
> さて、先生の言われる、14経、15経、16経ですが、
> 14経が菩薩、15経が縁覚、16経が声聞、に対応しているということで
> もう一度読んでみましたが、よく分かりませんでした。
>
> この中で15経は、本当に釈尊の肉声を聞いているような気持ちになる経典ですね。
> 多分、すべての仏典の中でも最も古いのは、この15経ではないでしょうか。
> この15経には、釈尊の真意を解き明かす鍵がありそうです。

この第15経は、最後の奥付に経典名が取り上げられて並べられているのですが、そこで、「最高の(vara)」という形容詞がつけ加えられています。やはり、ブッダみずからの体験が説かれるからなのでしょう。この経典は「義足経」では最後に置かれて、シメの経典になっています。
>
> 14経は、法華経で言えば、安楽行品の基になったような気がします。
> 偶然、第14も同じですが。
> 逆に言えば、影響を受けすぎて、あまり大乗仏典のようでないところが安楽行品にはあるような気がします。

あ、ほんとに、そうですね。
第14経は、菩薩タイプに向けられたのではないかという風に思っていますが、それは、一般の人たちとの交流を戒める内容が多いので、たとえ、遊行の比丘であっても、菩薩のように人と対話することを厭わない、そういう人々ではないかと思うのです。
これが菩薩の行を指すというのは、最後934の経によってです。

934. (第十四経第20偈)
かれは、実に打ち勝った者であって、(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです。それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい」と、尊師は語りました。


「(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです」というところによってです。つまり、他から伝え聞いたのではなくて直証したということは、みずからの智慧で学んだということで、これはまさしく、習って教わる声聞乗などではなくて、菩薩乗を指すのではないかと思ったからなのです。

また、933にある「ゴ-タマの教え」というところが、ゴ-タマの生き方、ゴ-タマの実践修行のやり方をまねて行きなさい、とも受けとめられます。
この「ゴ-タマの教え」に強く反応しているのが、龍樹です。『中論』最後に、ゴ-タマに帰命するということばを残しています。

この「ゴ-タマの教え」ですが、具体的には、自分の智慧で直証していきなさい、ということでもあり、何でもいいから自分で思ったようにやって体験したものに縁って学んで行きなさい、という、まさしく般若波羅蜜につながって行くような内容が読みとれるので、菩薩でいいのじゃないかと思います。
>
> 16経に関しては、題も声聞の代表のサ-リプッタですから、声聞の道と言うことでしょうか。

そうです。清浄行を勧める内容にもなっています(973)ので、声聞タイプだと思います。全体の内容も、声聞乗の人向けという感じがします。
>
>
> ただ、法華経などでは、声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行というように書かれますが
> 14,15,16にはその記述がなく、やはり、先生の言われる「対応している」ということがわかりませんでした。
> よろしければ教えてください。

菩薩の六波羅蜜は、今お話ししたところですが、他の声聞や縁学については、具体的な四聖諦や十二因縁は説かれてはいませんね。ですが、修行の注意事項を見ていくと、その中にやはり特徴が見られると思います。
第14経と比べますと、第15,第16は、一般の人との接触をあまり意識していません。
第16経などは、頭陀行をやっている人や遊行の比丘等にぴったりの内容です。974など、世間の5つの塵に気をつけるように、と説かれ、出家を意識させることばとなっています。975では、「正しい法」と出てきて、八正道の「正しい道」を意識させるかのようです。このことばが出て来ると、中道、八正道から逆に考えると、四聖諦が当然浮かびあがります。

第15番目は、みずからの体験を語る若いゴ-タマのように、一人で悟りを得て行くさまが説かれており、十二支縁起は説かれませんが、946には、聖者の姿がバラモンとして説かれ、世俗の表現を脱していません。陸地に立つバラモンは、寂滅した者と言われることで、その陸地が聖者のいる彼岸であることが分かります。947では、ヴェ-ダの達人などとも説かれています。つまり、世俗を離れていないけれど、孤高である聖者の姿として描かれるので、独覚と言われる人でいいのではないかと思います。

龍樹の分類によれば、これは、世界悉檀の語りになるので、一般的にどんな悟りのタイプかが見える形で描かれるのだと思います。
>

> 法華経の中に、こういう言葉があります。
> 「外道の論議を説き、自ら経典を作って世間の人を誑惑す」と罵詈し
> 「塔寺を遠離」せん、と。
>
> このように迫害を受けている様子が書かれています。
>
> それまでの仏教徒からこのように罵詈雑言を投げつけられても新しい経典を作っていったのは
> 並大抵のモチベ-ションではありません。
>
> 私には、どうしても、その熱意の源は、
> 部派仏教が仏陀の真意を伝えていないという、強烈な不満、憤りがあって
> 「こんなものは仏陀の真意ではない。仏陀の説いた大法ではない。」と叫んだからだとしか思えないのです。

ああ、なるほど、そうなんですね。
な~る。。わたしは、そこまでは強く思わないのですが、お気持ちは分かります。

なぜ、そこまで強く思わないかと言うと、おそらく、こうなることは折り込み済みだったのではないかという風に思うからなのです。

最初、「序品」で、ブッダ法華経を話出そうとすると、五千人の比丘や在家信者たちが、立ち上がってブッダに礼をして出て行ってしまうシ-ンがありますね。

あれなども、すでにそうなることが見えているような書き方にも見えます。
実際体験もしたかもしれませんが、そうでなくても、日頃の行いからも考えて、こうなるだろうという予測のもとに書かれたようでもあります。わたしには、そんな風にも見えます。

ですから、迫害されるのも、予測はしているような感じもして来るのです。それでも、法華経を残すのですから、やはり二乗の人たちに一緒にブッダになりましょう、と言いたかったのではないでしょうか。

二乗の人にも等しく無上正等覚者の道は説かれているのだ、という思いから著されたのが法華経のような気がします。

つまり、迫害を受けることを覚悟で、また、二乗を貶めていると批判を受けることを覚悟して行った二乗の人々のための菩薩行なのではないかと思ったりするのです。

二乗の人には、「もっと長い目で、今も働くブッダの行いを見て、その道を進む事を考えて」、というメッセ-ジなんじゃないかという気がしてなりません。
「長い目」と書きましたが、「長~~~~~~~~い目」というのが、正しいかもしれません。時間が半端じゃなく長いです。

ほっといたら、自然に密教の「即身成仏」の思想を生み出したくなるくらい「長い長い長い時間」の物語です。

まあ、無上正等覚者をめざす(大乗の)経典ですよね。


 

  [No.17660] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/16(Thu) 15:41:23

石飛先生、ありがとうございます。


> > 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> > そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。

ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。
> わたしも、おっしゃるとおりにすごいお経だなと思うのですが、確かに、その反面、声聞乗などの比丘たちに、
>反発されそうな物言いをしているところが、少し気になります。
>言いたいことは分かるとしても、もう少し配慮してもよかったかなと思わないではありません。個人的な希望ですが。


法華経というのは不思議なお経です。
そして、その真価を知るのにこれほど難しいお経はないように思えます。

多くの人がなぜ法華経を尊重しているかというと、そう言い伝えられているからです。
中でも、天台が言ったから、日蓮が言ったから、道元が言ったから、という理由が大多数を占めているでしょう。

しかし、偉人バイアスや宗祖バイアスを外してみたときに、法華経はどこがそんなに凄いお経なのか、全く分からないはずです。

私も、法華経が経王と呼ばれている理由がずっと分かりませんでした。
最高の真理が説かれているお経と言うことで、誰しもワクワクしながら読むでしょう。
序品では、仏陀の眉間から光が放たれます。文殊菩薩はこれは大法が説かれる瑞だと言います。
そして、方便品では、ついにその大法が説かれます。
『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』

えっ?これだけ?
ってなりますよね。
その仏知見が何かなども全く説かれませんし、ただ一大事因縁のために世に出現したというだけです。

私は哲学的には華厳経のほうがよほど上だとずっと思っていました。

もちろん、宗祖バイアスを持ってすれば、どこかの宗祖が『法華経が最高』と言っているから
何が何でも有り難がろうという人がすこぶる多いのは知っています。
そしてそういう人は不幸だなと思います。
ただの『法華経最高サングラス』をかけて見ているだけですから。
誰かの考えを投影して見ているだけです。

白隠も、若いときに、法華経を読んで、『こんな例え話しか書いてなくて肝心の真理がちっともない』と思って捨てたそうです。
しかし、40過ぎて悟ってから何気に法華経を読んでみると、その意味がありありと分かって号泣したそうです。

これが本当の法華経の読み方だと思います。

先生も、二乗に対する物言いが気になるということで、それはバイアスがかかっていない読み方だと思います。



> > 声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
> > 先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。


> そうです。何か、どこかで読んだ経典の匂いがするような。。と思っていましたら、
>第15経で「わたし」とブッダが語り出しているのを読んで、これが独覚の悟りを示すのではないかと思いました。


この文章に続く、先生の詳しいご説明で、先生が、スッタニパ-タの14,15,16経が三乗思想に対応していると思われている理由が分かりました。
ご説明、ありがとうございました。
私としては三乗に分ける考え方が好きでないので、できれば三乗は方便で、先生の結論たる、二乗にエ-ルを送るという意味での設定に過ぎず
本心は一仏乗だというのがすっきりします。

最近、原始大乗と言う言葉を知りました。
初期大乗の前、菩薩乗という概念を生み出した勢力があったようです。経典はほとんど失われているようですが。
初期大乗である法華経は、そのような菩薩乗と二乗を包み込んで引き上げる一仏乗というものを説いたのかもしれません。

ただ、私としては、三乗思想はなかった方がよかったと思っています。
最初から一仏乗だけでよかったのではないかと思います。
仏陀の真意は一仏乗にあったと思います。
仏陀は四念処を一乗道と言っていますし、在家であってもそれで解脱できると考えていたからです。

三乗思想ができあがったために
声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行となっていますから
四諦十二縁起という仏陀の最も重要な筏が、二乗の修行法と言うことになってしまい
誰もかえりみる者がいなくなりました。

大乗仏教仏陀の真意の復興運動だと思っていますが、同時に、あまりにもそれまでの仏教そのものである部派仏教を
貶めてしまったので、仏陀の筏の四諦十二縁起も捨て去られてしまうことになりました。




> 最初、「序品」で、ブッダ法華経を話出そうとすると、五千人の比丘や在家信者たちが、立ち上がってブッダに礼をして出て行ってしまうシ-ンがありますね。
> あれなども、すでにそうなることが見えているような書き方にも見えます。
> 実際体験もしたかもしれませんが、そうでなくても、日頃の行いからも考えて、こうなるだろうという予測のもとに書かれたようでもあります。わたしには、そんな風にも見えます。
> ですから、迫害されるのも、予測はしているような感じもして来るのです。それでも、法華経を残すのですから、やはり二乗の人たちに一緒にブッダになりましょう、と言いたかったのではないでしょうか。
> 二乗の人にも等しく無上正等覚者の道は説かれているのだ、という思いから著されたのが法華経のような気がします。


法華経の前にも、大乗仏典はできていたと思います。
部派のサンガの中で、ひそかに、大乗仏典を創作していたグル-プはいたと思います。

そのような人たちが部派の人たちからは
『お前たちの言ってることは外道の論議だ』『勝手に経典を作って人を迷わしている』と糾弾されて
サンガを追い出されていったと思います。
その様子が法華経に書かれているのではないでしょうか。

グレゴリ-・ショペンの、ずいぶん後になるまで、大乗教団は存在せず、大乗仏典だけが作られていった、と言う説は
かなり史実に近い気がしています。

ところで、方便品の5000人の退出が気になります。
例えば、500羅漢という言葉は、第一結集の500人の直弟子から来ているのかもしれませんし
方便品の5000人にも何か史実が隠されていそうです。
提婆達多に従った人数なのかもと思ったこともありますが、いまだに分かりません。


 

  [No.17669] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/17(Fri) 08:41:48

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 法華経というのは不思議なお経です。
> そして、その真価を知るのにこれほど難しいお経はないように思えます。

ほんとに!


> 多くの人がなぜ法華経を尊重しているかというと、そう言い伝えられているからです。
> 中でも、天台が言ったから、日蓮が言ったから、道元が言ったから、という理由が大多数を占めているでしょう。

そうですか。。。やはり、そうでしょうね。
でも、言い伝えられて、それを素直に信じる心も尊い気がします。

わたしも、実は、むか~しですが、法華経を読んだことがない頃、『大智度論』で法華経が取り上げられているのを見て、「へぇ、この経典、すごいんだ」と思ったのです。
龍樹が取り上げているからすごいんだな、というのは、ちょっと情けないですが、そういう風に思うところから入っていく経典もある、ということかなと思います。
>
> しかし、偉人バイアスや宗祖バイアスを外してみたときに、法華経はどこがそんなに凄いお経なのか、全く分からないはずです。
>
> 私も、法華経が経王と呼ばれている理由がずっと分かりませんでした。
> 最高の真理が説かれているお経と言うことで、誰しもワクワクしながら読むでしょう。
> 序品では、仏陀の眉間から光が放たれます。文殊菩薩はこれは大法が説かれる瑞だと言います。
> そして、方便品では、ついにその大法が説かれます。
> 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
>
> えっ?これだけ?
> ってなりますよね。

あ、そうですか(笑)
わたしは、最初で、もう頭がくらくらしました。
なんなんだ、この始まり方は! なるほど、こういう突拍子もないところから始める作戦か、って。

ショ-シャンクさまと、ある意味、似ている反応なのかもしれません。

序品では、時間の流れというか、時の順序がぐちゃぐちゃに壊されています。
文殊菩薩が、日月灯明如来というブッダが出現したことがあった、という話を始め、それから二万人日月灯明如来が出て、その最後の如来に八人息子がいて、その最後の子が、後に燃灯仏になった、というのですから、どれだけ長い時間かを、説明するかのようです。

その日月灯明如来は「妙法蓮華」という経典を説いて、その後入滅した。

今、それと同じ状況が起こっているから、世尊は、妙法蓮華経を説くのだろう、と述べているのです
が、

そもそも、わたしの読んでいるものは、その「妙法蓮華経」ですよね。

経典の中で、その経典自身が出てくる、という、ふつうならありえない展開が、何の不思議もなく説かれる、その不思議さに圧倒されました。

> その仏知見が何かなども全く説かれませんし、ただ一大事因縁のために世に出現したというだけです。

ああ、そうです。結局似たような印象につながって行くのですが、最初から、この経典は空を示しているのです。そこを、何の心の用意もない読者に向かってぶつけてくる、という、読者に優しくない説き方をしているのです。

読者をふるいにかけているとしか思えません。この展開について来れるものだけがついてこい、と言わんばかりですよね。
>
> 私は哲学的には華厳経のほうがよほど上だとずっと思っていました。

そうですよね。わたしは、なかなか華厳経が読めません。ちゃんと読んだことがまだ無いです。

>
> もちろん、宗祖バイアスを持ってすれば、どこかの宗祖が『法華経が最高』と言っているから
> 何が何でも有り難がろうという人がすこぶる多いのは知っています。
> そしてそういう人は不幸だなと思います。
> ただの『法華経最高サングラス』をかけて見ているだけですから。
> 誰かの考えを投影して見ているだけです。

まあ、そうなんですけど、最近では、わたしは、それでもえらいかな、っていう気もしてきています。わけわかんないけど、えらい先生が言うからえらいんだろう、って思えるのは、やっぱりある意味すごいのかなと(笑)。
>
> 白隠も、若いときに、法華経を読んで、『こんな例え話しか書いてなくて肝心の真理がちっともない』と思って捨てたそうです。
> しかし、40過ぎて悟ってから何気に法華経を読んでみると、その意味がありありと分かって号泣したそうです。
>
> これが本当の法華経の読み方だと思います。

いやぁ、そうですよね。けっこう、人間の先入観はこわいです。気づかずもっているというのに、気づかせてくれる経典ですよね。でも、40才で真意に気づくとは、さすがですね。
>
> 先生も、二乗に対する物言いが気になるということで、それはバイアスがかかっていない読み方だと思います。

いや、どうだか分かりません。仏教をやって、と言いますか、インド哲学をやってこわいと思ってきたのは、知らずに身についてる先入観なので、先入観を入れないために、ほとんど概説書というのを読んでこなかったのです。

おかげさま(?)で、えらい先生がどう言っているか、という学問的常識が、今となっては完全に欠落しています。
読んできたのは、できる限り原典に近いものです。

ですから、「常識が無い」とよく言われていました(笑)
>
>
> この文章に続く、先生の詳しいご説明で、先生が、スッタニパ-タの14,15,16経が三乗思想に対応していると思われている理由が分かりました。
> ご説明、ありがとうございました。
> 私としては三乗に分ける考え方が好きでないので、できれば三乗は方便で、先生の結論たる、二乗にエ-ルを送るという意味での設定に過ぎず
> 本心は一仏乗だというのがすっきりします。

おっしゃるとおり、『スッタニパ-タ』の最後に3つの分類にしぼってきたのは、出家の教団や世間の人々なので、ブッダの真意ではないと思います。ブッダは、16タイプの人々に、等しく一仏乗を説いて、一切智者であることを示しました。それが、「八偈品」です。

ところが、仏法に意識の高い人々が、それぞれ煩悩の抜けきれていない側面を見せてきて、三乗に分かれてしまっていた、というのが、現状だろうと思います。
>
> 最近、原始大乗と言う言葉を知りました。
> 初期大乗の前、菩薩乗という概念を生み出した勢力があったようです。経典はほとんど失われているようですが。
> 初期大乗である法華経は、そのような菩薩乗と二乗を包み込んで引き上げる一仏乗というものを説いたのかもしれません。

いや、原始大乗(大乗と言ったかどうかは分かりませんが)の、一仏乗という考え方は当然あったと思います。最初に、ブッダの説いていることです。

「無上正等覚者」 これが、めざす目標として掲げられています。
部派でも知ってるはずですが、やがて「正等覚者」は言っても、「無上」をあまりあげなくなりますね。「無上」をしっかりと見据えたのが、大乗で、『楞伽経』のような経典が顕れてきて、そこら辺をブチブチ言い始めます。


> ただ、私としては、三乗思想はなかった方がよかったと思っています。
> 最初から一仏乗だけでよかったのではないかと思います。

ショ-シャンクさまが、ブッダの当時生きていたら、そのようになったのではないでしょうか。現代に生まれたのが、もったいないです。

> 仏陀の真意は一仏乗にあったと思います。
> 仏陀は四念処を一乗道と言っていますし、在家であってもそれで解脱できると考えていたからです。

そうそう、おっしゃるとおりだと思います。
一端ここで切ろうと思います。続きは、また、アップします。


 

  [No.17673] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 14:48:22

石飛先生、こんにちは。

> > 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
> > えっ?これだけ?
> > ってなりますよね。


このことの重大さに気づいたのは、かなり後になってから、原始仏典を調べはじめてからです。
大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。

しかし、歴史上の仏陀は、人間がこの世に生まれるのは渇愛または無明が原因としました。
ですから、原始仏典の決まり文句は
『生存はすでに尽きた。再び生を受けることはないだろう。』です。

法華経が作られた時点において、『一大事因縁のために世に出現した』という宣言はまさしく驚天動地のことです。

映画の始まりのテ-マソングが異様に長い昔の映画のように、さんざん盛り上げたあとに
『仏は衆生に教えるために生まれた』と当たり前のことだけ言ったと思って『?』でしたが、
原始仏典の流れが分かるようになると、これは時代を画する宣言だったと思います。




ひとつ、先生のお考えをお聞きしたいのですが
譬喩品に、三車の喩えがあります。
玩好の具の羊車、鹿車、牛車をもって、それぞれ声聞、縁覚、菩薩に与えると言って火宅から逃がします。
しかし、火宅から出たあとは、その三車は『下劣の小車』だから与えず、大白牛車を与えます。

ここで疑問なのは、譬喩品では、三乗を、声聞乗、辟支仏乗、大乗(または仏乗)と書かれていることです。

菩薩乗を大乗、仏乗としてしまっては、三車が下劣の小車という記述と矛盾します。

つまり、牛車と大白牛車との違いがわからなくなります。

先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?


 

  [No.17677] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/18(Sat) 01:19:10

ショ-シャンクさま こんばんは。


> > > 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
> > > えっ?これだけ?
> > > ってなりますよね。
>
>
> このことの重大さに気づいたのは、かなり後になってから、原始仏典を調べはじめてからです。
> 大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
> 仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。

ああ、なるほど、それなら確かに、おっしゃるとおりかもしれません。
>
> しかし、歴史上の仏陀は、人間がこの世に生まれるのは渇愛または無明が原因としました。
> ですから、原始仏典の決まり文句は
> 『生存はすでに尽きた。再び生を受けることはないだろう。』です。

またまた、なるほど、阿羅漢になったということですよね。
>
> 法華経が作られた時点において、『一大事因縁のために世に出現した』という宣言はまさしく驚天動地のことです。

そうか、そうなら、確かに驚天動地かもしれません。
>
> 映画の始まりのテ-マソングが異様に長い昔の映画のように、さんざん盛り上げたあとに
> 『仏は衆生に教えるために生まれた』と当たり前のことだけ言ったと思って『?』でしたが、
> 原始仏典の流れが分かるようになると、これは時代を画する宣言だったと思います。


わたしは、『スッタニパ-タ』から入って『法華経』を読みましたので、「やっぱり!そうか。これで良いんだ」でした。

法華経』は、縁起から空へと、論点を切り替えて語る経典だと思いました。

>
>
>
> ひとつ、先生のお考えをお聞きしたいのですが
> 譬喩品に、三車の喩えがあります。
> 玩好の具の羊車、鹿車、牛車をもって、それぞれ声聞、縁覚、菩薩に与えると言って火宅から逃がします。
> しかし、火宅から出たあとは、その三車は『下劣の小車』だから与えず、大白牛車を与えます。
>
> ここで疑問なのは、譬喩品では、三乗を、声聞乗、辟支仏乗、大乗(または仏乗)と書かれていることです。
>
> 菩薩乗を大乗、仏乗としてしまっては、三車が下劣の小車という記述と矛盾します。
>
> つまり、牛車と大白牛車との違いがわからなくなります。

なるほど、おっしゃるところが何となくつかめました。

> 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?

「無上」ということを知るかどうかの違いだと思います。

一切諸如來以無量方便 一切の諸々の如来無量の方便をもって
度脱諸衆生入佛無漏智 諸々の衆生を度脱して、仏の無漏智に入れたまわん
若有聞法者無一不成佛 もし法を聞くものあらん者は一人として成仏せずということ
諸佛本誓願我所行佛道 なけん。諸仏の本誓願は、わが諸行の仏道
普欲令衆生亦同得此道 普く衆生をして、また同じくこの道を得しめんと欲す。(「方便品」)

如来の無量の方便によって衆生を悟らせ、仏の無漏智に入れよう。
…… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。

この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。

阿羅漢になっても、ブッダとは異なります。ブッダ智慧をもって無量の方便が説けるわけではありません。
阿羅漢になって、そこで良しとするのは、いまだに釈迦牟尼の元に居たいということかもしれないです。

菩薩乗も、ブッダになることをめざす道ですが、牛の車ではあっても、大白牛車とまではいかないので、劣った乗り物になっているのかもしれません。
つまり、阿羅漢までしかいかない声聞乗と同じように、菩薩乗にいることだけで満足して、仏乗へとなかなか進んでいかないようですと、声聞乗や辟支仏乗と同じということなのだと受けとめています。


仏に成るとは、佛慧を用いて、無量の方便を使えるということではないかと思います。

この『法華経』は、佛慧を用いて衆生仏道へと向かわせる力をもっているのかどうか、それが、今まで試され続けてきていると思います。


 

  [No.17681] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/18(Sat) 09:50:52

石飛先生、おはようございます。



> > 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?


> 「無上」ということを知るかどうかの違いだと思います。
> 一切諸如來以無量方便 一切の諸々の如来無量の方便をもって
> 度脱諸衆生入佛無漏智 諸々の衆生を度脱して、仏の無漏智に入れたまわん
> 若有聞法者無一不成佛 もし法を聞くものあらん者は一人として成仏せずということ
> 諸佛本誓願我所行佛道 なけん。諸仏の本誓願は、わが諸行の仏道
> 普欲令衆生亦同得此道 普く衆生をして、また同じくこの道を得しめんと欲す。(「方便品」)
> 如来の無量の方便によって衆生を悟らせ、仏の無漏智に入れよう。
> …… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。
> この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。
> 阿羅漢になっても、ブッダとは異なります。ブッダ智慧をもって無量の方便が説けるわけではありません。
> 阿羅漢になって、そこで良しとするのは、いまだに釈迦牟尼の元に居たいということかもしれないです。
> 菩薩乗も、ブッダになることをめざす道ですが、牛の車ではあっても、大白牛車とまではいかないので、劣った乗り物になっているのかもしれません。
> つまり、阿羅漢までしかいかない声聞乗と同じように、菩薩乗にいることだけで満足して、仏乗へとなかなか進んでいかないようですと、声聞乗や辟支仏乗と同じということなのだと受けとめています。
> 仏に成るとは、佛慧を用いて、無量の方便を使えるということではないかと思います。
> この『法華経』は、佛慧を用いて衆生仏道へと向かわせる力をもっているのかどうか、それが、今まで試され続けてきていると思います。


ご回答ありがとうございます。

無上であるということ、他の仏たちを承認する力を持つこと、ですか。なるほど。

三乗思想は、私は好きではない考えです。
部派仏教(いうか、それまでの仏教そのもの)の使徒を証文・縁覚という二乗と決めつけ
自分たちは大乗の道を歩む菩薩だと優位に置く考えは好きにはなれませんし
何より、この思想のせいで、仏陀の筏たる四諦十二縁起が埋もれてしまったのが残念でなりません。

仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。
声聞、縁覚(辟支仏)もジャイナ教の用語なので、その使用方法もまちまちで
無理やり仏教に当てはめた感があります。

仏陀の真意は一仏乗、一乗法だと考えます。
究極には、『生じる性質のものは、すべて滅する性質を持つ』の一言だけであり
それから四念処も三法印も派生したと考えています。

法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。


 

  [No.17685] Re: 法華経について思うこと 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/19(Sun) 05:36:50

ショ-シャンクさま おはようございます。

>
> > > 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?

> > …… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道衆生も同じように入れることだ。
> > この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。
>
>
> ご回答ありがとうございます。
>
> 無上であるということ、他の仏たちを承認する力を持つこと、ですか。なるほど。

無上であることは、「無上士(アヌッタラ)」という如来の十号の中の一つにも数えられますが、漢字で音写しますと、阿耨多羅 です。よく阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさむやくさんぼだい、無上正等覚)と言われる、これが、めざす諸仏の目標だと思います。

つまり、これを衆生に獲得させることをめざしているのだと思います。

ショ-シャンクさまにはご存知のことをダラダラ続けているように見えるかもしれませんが、もう一つ、大事なことがあります。

この無上正等覚というのは、具体的にもう一つの特徴があります。それは、一切の法を捨てていることです。このようにも説明されます。

「一切の法を捨てる」のですから、仏法も捨てているのです。
四聖諦、十二支縁起、八正道などなど、仏法の重要な教えも完全に捨てています。捨てるからこそ、使いたいときに使えるのでもありますが、他の法と分け隔てしないということにもなります。外道の法と仏法とを分け隔てせず、区別できることにもなり、法を捨てるということは、一切智の重要な要件だと言うことが分かります。


> 三乗思想は、私は好きではない考えです。
> 部派仏教(いうか、それまでの仏教そのもの)の使徒を証文・縁覚という二乗と決めつけ
> 自分たちは大乗の道を歩む菩薩だと優位に置く考えは好きにはなれませんし
> 何より、この思想のせいで、仏陀の筏たる四諦十二縁起が埋もれてしまったのが残念でなりません。

お気持ちは分からなくはありませんが、三乗は、また、ブッダの説いた方便でもありますから、この法華経の展開は致し方なかったような気もします。

ブッダの一仏乗の心を、受けとめきれなかったのが、声聞、辟支佛という分類に入る人々ということになりましょう。

わたしが『法華経』で感心するのは、このような四聖諦・十二支縁起・空・六波羅蜜などの教理を、非常に軽くさらっと扱っていることです。

法華経』のメインのお話しの中にはほとんど出てこないで、仏法を知らないのかな、と思った途端、用語でちらっと適材適所に教えをちりばめるという心憎いテクニックを使っているところ、さすがだなと思っています。

「法を捨てる、いわんや非法においておや」という無上の教えを、確実にものにしていると思っています。

>
> 仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。
> 声聞、縁覚(辟支仏)もジャイナ教の用語なので、その使用方法もまちまちで
> 無理やり仏教に当てはめた感があります。
>
> 仏陀の真意は一仏乗、一乗法だと考えます。
> 究極には、『生じる性質のものは、すべて滅する性質を持つ』の一言だけであり
> それから四念処も三法印も派生したと考えています。


> 法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。

その点は、おっしゃるとおりかと思いますが、そのためには、三乗は方便だと説かなければ、言いたいことは伝わらなかったように思います。

この三乗と分けた、声聞・辟支佛・菩薩の分類は、現実に即したところもあるとは思いますが、むしろ、それより、この三乗もブッダの教えにあったものだと考えるところに『法華経』がいかに教えに忠実であるかを示すことになるかと思います。

三乗の根拠が、『スッタニパ-タ』の第四章の最後の三つの経典であることをお話ししました。ですから、ブッダの教えを受けた者たちは、そのとおりにしたがうつもり修行しながら、実はどんどんはずれていっているのを憂えて、『法華経』が作られたのではないかと思います。


法華経』の中の展開も、きっと常人には思いつかないアイディアや教えの真意を反映していると思いますが、わたしも、まだ詳しく検討していないので分かりません。

これからしばらく『法華経』に浸ってみようかと思っています。


 

  [No.17690] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/19(Sun) 21:11:17

> > > 仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。


> ジャイナ教 は 「 仏教 」 より前に 用語を 確立していましたか ?


まず『ブッダ』という呼称について。
ジャイナ教の始祖、マハ-ヴィ-ラがブッダと呼ばれたことは、
マハ-ヴィ-ラの伝記のカルパス-トラにも出てくるようです。

牟尼=muni は、ジャイナ教では、修行者一般を指す言葉だったようです。

『仏教の開祖ゴ-タマの死後、やがて仏教徒がゴ-タマを神格化し、ゴ-タマ個人にブッダの尊称を与えるまでの段階において
ジャイナ教徒も、修行を完成し解脱した人にブッダの尊称を用いていたのである。
したがって、これらジャイナ古層の聖典は仏教においてブッダがゴ-タマの尊称として確立する以前のものといえよう。』
(『ジャイナ古層聖典におけるブッダの概念』より)

声聞も独覚もジャイナ教で使われていた用語です。

声聞、独覚に関しては、ジャイナ教と仏教のどちらが先かはわかりませんが、共通していることは確かです。


 

  [No.17695] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 03:13:09

> ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です


『ニルヴァ-ナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。』(ダンマパダ)

目覚めた人は過去にも、現在にも、未来にも無数にいるでしょう。
ブッダバラモン教にもジャイナ教にも数多くいる。
それが、仏陀の真意だと私は思っている。

歴史上の仏陀は、数多くの人を悟りに導いた人として、世界最大の教師のひとりだと思っていますが
しかし、覚者はバラモン教にもジャイナ教にもたくさんいます。

釈尊の死後、仏教なるものが確立していく過程で、バラモン教ジャイナ教の排斥が起こってきました。
仏教の優越性、独自性ばかりが強調され、その根底にある共通性はどんどん切り捨てられていきました。

それが、仏陀の真意がねじ曲げられていった大きな原因のひとつだと思っています。


 

  [No.17698] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 06:47:57

> ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です

この言葉に対していっているのです。

マハ-ヴィラも数多くある尊称の一つです。
しかし、現在では、ジャイナ教の始祖を指すものとなっています。

大師といえば弘法大師を思う人は多いですが
大師号を贈られた人は数多くいます。


ブッダ釈尊を指す場合と、『目覚めた人』を指す場合とがあります。

ブッダ釈迦牟尼ブッダ の 固有名詞 です』と断言することに何の意味があるのですか?



>あなたは マハ-ヴィラ の真意 を 仏陀の真意 とする


馬鹿馬鹿しい。
私が言う『仏陀の真意』とは『歴史上の仏陀の真意』であることは言ってきました。
ゴ-タマ・シッダッタの真意のことです。
ゴ-タマ・シッダッタが、『縁起』というとき、本当はどう意味で言ったのか?
『空』とは本当はどういう意味で言ったのか?
ということを探求しているのです。


『歴史上の仏陀など存在しません』とか
仏陀の真意など存在しません』とか、
そういうことばかり言って、自分は悟ってるように見せかける輩はごまんといます。
野狐禅と言われるものです。

自分が悟っていると思い込んで、上から目線で否定することばかりしていては
この掲示板から人が離れていきますし、何よりあなたの精神のためにはよくないですね。

上から目線で否定することに快感を覚えているようですが
それは間違った快感です。


 

  [No.17702] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 07:32:44

> > 上から目線で否定することに快感を覚えているようですが
> > それは間違った快感です。


> あなたは誰を 否定していますか ?
> “ 下から 目線 ” で 誰の 何を 否定していますか
> 快感 を 覚えているかどうかは 覚え方の問題です
> 誰が 間違っていて
> 間違っている と 言う人が、 間違っていない
> と 決めていますか ?



あなたは、この掲示板で、石飛先生から、そして数多くの投稿者から学ぼうとしていますか?
自分が悟っているということを印象付けたいだけではないですか?
石飛先生にも教えている自分・・・という自己像に陶酔していませんか?


 

  [No.17704] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 08:34:21

例えば、あなたが書いた文章の一つで

>管理人エム 様
>ここに 気を付けなければ なりません
>ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる


から始まる投稿があります。

石飛先生を名指しで教えようというわけです。

自分は法華経がわかると思い込んでいるから人に教えようとしているのですね?


 

  [No.17706] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 09:42:26

あなたのその投稿文を載せます。

※※※※※
管理人エム 様
ここに 気を付けなければ なりません
ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる
> 意の対象は法です。
法 を 対象として 意を起こすのではなく
「 色 」 に 対して 意を起こすのです
「 色 」 が あって( あるとするところに ) 初めて、 意 が 起きます
五蘊に 対して 意 が 起きます ( 「 色 」 “意” は 無常です → 実体がない )
実体がないモノに対して、 実体がない事が 起せます
「 真理 」 ( 「 法 」 ) に 対しては
受け入れることしかできません
( 受け入れるときの 受け方には、 顛倒の別名である 「 意 」 が 起き得ます )
「 法 」 とは ダルマ です
五蘊 」 は “ 狭い意味 ” では ダルマ ではありません (!)
ダルマ に 対していると思っていても
その 思う事 そのモノが ダルマ ですが
ダルマ は ダルマに 対することはありません
ダルマ = そのモノ( タタタ- ) だからです
※※※※※


まず、この投稿は、私の『意の対象は法です。』という投稿に対する返信としてされたものです。
それを題名に『 「 法華経 」 について 管理人エム 様 へ .. 』と付け
『管理人エム 様 ここに 気を付けなければ なりません ここが 分かると 「 法華経 」 は 分かる』と
書き始めています。
石飛先生へ何か伝えたいのであれば石飛先生の投稿に返信するべきですが、
他の人の投稿に返信している形なのに『管理人エム様』と呼びかけ、自分の投稿を見ろと言っているのです。
あるいは、返信しろと暗に強いているのです。


肝心の投稿の中身ですが、とんちんかんなことを言っています。
あれでは、石飛先生も返事のしようがないでしょう。

私が書いた『意の対象は法です。』と言う言葉を完全に間違って捉えています。

『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。

これはその前の投稿の
『『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。』
から続いているものですから
『意の対象は法です。』の意味を間違えようはないのですが
あなたはよく読んでいないために、あるいは先入観で覆われているために
法と言う言葉を見ると、条件反射的に『真理』と言う意味だと断定してしまう。


 

  [No.17709] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 11:29:00

私が書いた『意の対象は法です。』に対してのあなたの投稿は
法を真理としていましたね?

しかし、その文章の『法』は真理という意味ではない、と言っているのです。

それにつき、あなたの意見を言えばその話題も深まるでしょう。

しかし、あなたはいつもオウム返しのように『何故、あなたは正しいのですか?』というような問いかけで逃げてしまうのです。

意の対象の『法』といえば、真理の意味ではないですよね?
そこが間違っているといっているのです。
意の対象である法を真理と解釈するから、
意の対象は法ではなく色だ、などというところに逸れてしまいます。


 

  [No.17710] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/07/20(Mon) 13:25:41



> 意の対象の『法』といえば、真理の意味ではないですよね?

「 法 」 を 好きに解釈することを 「 識 」 と 言います

> そこが間違っているといっているのです。
> 意の対象である法を真理と解釈するから、
> 意の対象は法ではなく色だ、などというところに逸れてしまいます。

「 法 」 は 「 意 」 の 対象ではない ということ を 動かすと
なんでも 動きます
「 識 」 は 都合によって 動かされる

基本
動かないモノ 変わらぬモノ 「 恒常 」 に在るモノ を 「 真理 」 と 言います


「 法 」 = 「 真理 」 も 動きます
( あなたの 「 真理 」 は 動いています 、、、、 )

あなたを中心とすれば、 あなたの 識別に沿って ダルマ は 動きます
( 七転び八起き
チャッタ ! 七転八倒 )


[No.17661] Re: 法華経について思うこと 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/07/16(Thu) 15:52:01

> > > ( 上下 を 否定するのが 「 仏教 」 です )

> Su.1068
> 「 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」
> 1055
> 「 上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 」


このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。
眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
『一切のものに執着するな』という言葉です。

★ [No.17662] Re: 法華経について思うこと 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/07/16(Thu) 16:14:17

> このスッタニパ-タの言葉は、上下を否定する言葉ではありません。
> 『上と下と横と中央と』というのは『一切』と言う意味です。

そうしておきましょう
一切でも 問題ありませんが
一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?



> 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、

意の対象が 識別( 色を分ける ) です

[No.17663] Re: 法華経について思うこと :2020/07/16(Thu) 16:59:44

> 一切でも 問題ありませんが
> 一切の中に 上下の識別 は 入りませんか ?
> > 眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切ですから、
> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です

意の対象は法です。


[No.17706] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない

私が書いた『意の対象は法です。』と言う言葉を完全に間違って捉えています。

『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。


*********

> 『意の対象は法です。』からすると、色をその対象としているのは眼です。

眼が 「 色 」 を 対象として 「 識 」 に 入れます

「 色 」 は 「 法 」 を 対象として 起きる 「 五蘊 」 で
「 識 」 蘊 と共に 働き、 「受」 「想」 「行」 と 一つとなります

「 意 」 は 識別 として 働きます


「 法 」 とは ダルマ です

ダルマ の 意味は 知っていますか ?

( 三宝 の 仏法僧 の 法 です )

解釈されて、識別されること は ダルマ では ありません

識別されること を 「 意 」 と 呼び、( 識でもあり、 認識対象・色 を 区別して知覚します)
「 識 」 は 「 意 」 に 結びついて 離れません

「 意 」 は 「 色 」 を 対象とします

「 意 」 は 「 色 」 の範囲 で 五蘊に 関します

目に映る( 感じる )モノ は
行ない( 「 行 」 ) であろうと 「 色 」 の 範囲で 働きます

「 法 」 は 誰もが 守り ダ-ラ-ニ するモノで
受け止める 対象 でしかありません
( 解釈 を 拒否します 解釈 は 「 識 」 です )


 

  [No.17711] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 13:45:16

> 意の対象が 識別( 色を分ける ) です

> 「 意 」 は 識別 として 働きます

> 識別されること を 「 意 」 と 呼び、( 識でもあり、 認識対象・色 を 区別して知覚します)
> 「 識 」 は 「 意 」 に 結びついて 離れません

> 「 意 」 は 「 色 」 を 対象とします

> 「 意 」 は 「 色 」 の範囲 で 五蘊に 関します



対象という意味が全く分かってないようですね。

意と結びついて働く識別が、意の対象というのはおかしく感じませんか?


『眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切です』と私は書きました。
眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。
眼の対象は色。
耳の対象は声。
意の対象は法。です。

これは仏教の基本概念だと思いますが。


 

  [No.17713] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/20(Mon) 21:04:32

> わたしの 識別に 対して、 あなたの 「 意 」 は 働きませんか ?
> あなたが対している ( わたしに起きている ) 識別 が
> あなたの 「 意 」 の 対象です
> 誤りがありますか ?


あなたの識別作用は、あなたの心の中のものです。
私の意の対象として感知することはありません。


> > 『眼耳鼻舌身意の対象であるものが一切です』と私は書きました。


> 受想行識 が 一切 です
> ( 一切皆苦 )
> しかし
> 受想行識 が 及ばないところ が あります
> そこは 一切 には 入りませんか ?


受想行識が一切だとどの仏典に書かれていますか?


> > 眼耳鼻舌身意の対象 は 色声香味触法


> 色声香味触法 は 一切 ですか ?


> > 眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。


> ( 仏典に そのように = その通りに 記述されていますか ? )
> それは 解釈( 識別 ) ではありませんか ?


眼耳鼻舌身意とその対象色声香味触法が一切です。



> 無色 無受想行識
> 「 色 」 を 対象として 受想行識 が 起きます
> 無色 無受想行識 ということは あり得ますか ?


意味が全くわかりません。
般若心経の言葉を出してきて、『無色 無受想行識 ということは あり得ますか ?』という意味がわかりません。
『「 色 」 を 対象として 受想行識 が 起きます』と言う意味も全くわかりません。

五蘊を、色と受想行識に分けて、受想行識の対象が色、というようなわけのわからないことを言われると
本当にこの人は仏教の基本をわかっているのだろうか、と思い始める結果にしかなりません。


 

  [No.17716] Re: マハ-ヴィラ は ブッダ ではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/21(Tue) 01:51:05

> わたしに書き込みが
> わたしの 識別作用 です


あなたの書き込みは、眼で見ています。
眼の対象である色です。


> あなたは それを 対象として 反応しています

色を対象として反応しているのです。


> 感知 できない( しない ) のは あなたのことですから、
> わたしには いかようにもできません


あなたは他人の識別作用を直接、意で感知しているのですか?
できるわけないですね。


> > 受想行識が一切だとどの仏典に書かれていますか?

> 書かれて説かれているから
> 自分で探しなさい


あなたは仏典にないときは『自分で探しなさい』と言いますね。
五蘊ならまだしも、五蘊から色を除いた受想行識が一切であるわけないですね。


> > > > 眼耳鼻舌身意の対象 は 色声香味触法
> > > 色声香味触法 は 一切 ですか ?
> > > > 眼耳鼻舌身意の対象はそれぞれ、色声香味触法です。
> > > ( 仏典に そのように = その通りに 記述されていますか ? )
> > > それは 解釈( 識別 ) ではありませんか ?
> 仏典 に 説かれているのを あなたは 読んだのですか ?
> > 眼耳鼻舌身意とその対象色声香味触法が一切です。
> そう説かれている 仏典は ありますか ?

ありますよ。

> あれば あると言うだけ で 結構です
> ( わたしは それを 一つの解釈 だとする )


仏典に書かれていることをそのまま書いているのに、
あなたは必ず『それはあなたの解釈に過ぎない』と言いますね。
そして、仏典に根拠のない自分の解釈を正しいと思い込んでいるのです。
それは仏教をする人の姿勢ではありません。
誠実さや真摯さがどこにもない。
ただ、仏典の根拠もなく、自分の主張をがなり立てているに過ぎない。




> 仏教の基本 を 知りもしないで
> このサイトに 何年も 場を占め
> 管理人エム 様 とも 数多く 言葉を交わす 積み上げ が できると思いますか ?


それがあなたの『根拠』なのですね。


> いくら 基本があろうと
> それが 実際に 活かされなければ 何の意味もありません
> ( 尤も、 あなたには 基本は 欠けている )
> ( 実践 も 欠けている )
> 生半可な 思い込みで 大乗を 語るのみです


生半可な思い込みで大乗を語っているのはあなたです。
仏典の根拠もない思い込みです。
実践が欠けているのはあなたです。
あなたは法華経を読誦してないと言いました。
法華経は毎日読誦して初めてわかるものです。
特に法華経は読誦することを強調しています。
読誦経典なのです。
読誦しない人が頭の中だけで法華経を語っているに過ぎません。



> 「 経 」 は 菩薩の為に 説かれます
> あなたが 菩薩 であれば 経から 説かれていることを 知ることが適う
> 菩薩でなければ 顛倒 を 積むのみ


あなたは菩薩なのですか?


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