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  [No.16922] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/12(Thu) 18:27:43

> 隣の掲示板「マジカルボ-ド」で、「ブッダは不平等を行うな」と述べたと、言いました。
>
> 775.(第二経第4偈)
> それ故に、人は、ここでこそ、学ぶとよいでしょう。
> 世間において「不平等」と言われるものが何であれ、それを知るならば、それのために不平等を行わないようにしましょう。
> なぜなら、賢者たちは、「この命というものは、短いものだ」と述べているからです。
>
>
> 774偈では、欲に溺れた者たちは、ケチで不平等になると述べています。
> そして、それらの人々は、結局苦しくなって「ここから死んでわたしたちはどうなるのだろう」と嘆くと書いてあります。
>
> それを受けて775偈があります。
>
> ここで大事なのは、「不平等」を知ると、どうするか、ということだと思います。
>
> 「それのために不平等を行わないようにしましょう」
> これですね。この「それのために」が大事で、「それ」とは何かというと「不平等」です。
> 不平等を目的として不平等を行うな、ということです。
> つまり、具体的には、相手を貶める目的や、「あの人は不平等を行っている」と糾弾する目的で、自分たちもまた不平等を行ってはならない、ということだと思います。


石飛先生、こんにちは。
書き込まないつもりでしたが、わからないところがあるので質問させてください。

先生の『スッタニパ-タと大乗への道』では、visama を『不平等』と訳されています。中村元訳では『不正』です。
パ-リ語辞典ではどちらの意味もあるようです。
熟語にしても、visamacariya は『非正道行』、visama parisaは『不等衆会』とやはり2つの意味に分かれています。
前後の文脈から探るしかないようです。

774は中村元訳では
【かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。】
なっています。

この場合、【欲望を貪り】⇒【欲望に熱中し】⇒【欲望に溺れて】⇒【欲望を囲い込んで独り占めし】⇒【欲望のためにあくどい不正までするようになる】
と、どんどん深みにはまっていく段階が具体的に説かれているようで頭に入りやすいのですが
vimasaを不平等と訳すと、わからなくはないのですが唐突感があるような気がします。
先生は、『欲望によって優劣がついてきて不平等が生じる』と書かれていますね。
ちょっと哲学的になりすぎるような気がするのですが。

私は、774のvisama は、778に書かれている【自責の念にかられるような悪い行い】のことのような気がするのです。

文脈からして、この場合、visamaを【邪なる】とか『非正道』ではなく『不平等』と訳されたのはどのような理由からでしょうか。

あと、中村元訳でも、778で『両極端』という言葉が出てきて、801でも出てくるのですが、
例えば、ubho は辞書で見ると『両者』とか『2つ』とかしかなく、両極端に匹敵する原語がわかりません。
私は、778は、中村元の『両極端に対する欲望を制し』ではなく『2つの欲望を制し』であって
それは先生の言われる『前の欲望』『後の欲望』のことではないかと思っています。

つまり、欲望とは、過去の快楽の記憶を反芻することとその快楽の記憶を現在から未来にかけて繰り返さんとするものであるので
欲望を前と後とに分けて、『両者』『2つ』と言ったのかなと思ったのです。


とにかく、スッタニパ-タは難しすぎて、わからないことだらけです。


 

  [No.16926] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/12(Thu) 22:06:53


通り雨さま こんばんは。
>
> 先生の『スッタニパ-タと大乗への道』では、visama を『不平等』と訳されています。中村元訳では『不正』です。
> パ-リ語辞典ではどちらの意味もあるようです。
> 熟語にしても、visamacariya は『非正道行』、visama parisaは『不等衆会』とやはり2つの意味に分かれています。
> 前後の文脈から探るしかないようです。
>
> 774は中村元訳では
> 【かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
> (死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。】
> なっています。
>
> この場合、【欲望を貪り】⇒【欲望に熱中し】⇒【欲望に溺れて】⇒【欲望を囲い込んで独り占めし】⇒【欲望のためにあくどい不正までするようになる】
> と、どんどん深みにはまっていく段階が具体的に説かれているようで頭に入りやすいのですが
> vimasaを不平等と訳すと、わからなくはないのですが唐突感があるような気がします。
> 先生は、『欲望によって優劣がついてきて不平等が生じる』と書かれていますね。
> ちょっと哲学的になりすぎるような気がするのですが。

確かに、そうですね。わたしも、どうしてこんなところに、visamaということばを持ってきたのだろうと、最初は思いました。最初に読むと、確かに、「不正」の方がわかりやすいようにも思うのですが、じっくり眺めて行きますと、やはり「vi-sama(平等から離れている)」→「不平等」ということでいいのだなと思います。

欲のためにあくどい不正までしてしまうと、許されない!と分かりますが、この曖昧な「不平等」ですと、悪いということが、あまりはっきり出てきません。
「普通だろ」という気もします。
欲に溺れて来ると、欲しいものが出て来る。→他の人の持っているものなんかじゃイヤだ、ブランドものじゃないと→これはプレミアム商品だ、欲しい!→ 一点物だ・有名な○○先生の作品だなどなど。とどまるところを知りません。

ですが、確実に、差別化や特別視などが生まれてくることは分かります。
そして、それを煽るかのように、次々と新製品が生まれ、値段の高いモノが生まれ、消費文化が生まれ、やがてはあらゆるものに格差がついてきます。身分社会、格差社会へと向かいます。

この後の十三経すべてにわたって、このvisamaがあらゆる場面で顔を覗かせて行くのです。戒や見解に至るまで、すべてにわたります。

この『スッタニパ-タ』という経典は、決して易しい経典ではなく、どんなところにも当時に最高レベル(これもvisamaですね)の知識を相手にしていることが、読んでいるうちに分かってきます。
「八偈品」の最初の「欲経」でも、エリ-トを相手に語る高度な内容なのですが、たった六つしか詩がないために、あまりはっきりしません。ですが、769偈など、『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』からの引用をもってきて、ウパニシャッドの哲人たちの思想に対抗する内容であることを、暗に示します。

ですから、「八偈品」も、地味に思想や宗教などに没頭して、富と権力には距離をおいているように見える沙門たち(自由思想家)たちの中にある、目に見えない「上昇意識」だとか「優越意識」「対抗意識」だとか、そういうものまでをも取り上げていることが分かるのです。そう思うと、visamaは「不平等」がふさわしいと理解されてくるのです。

ですから、後の経典では、「優れている」「劣っている」「同じだ」と考えるな、と、くり返し言われるようになります。これも明らかなvisamaです。

「もの惜しみ」と「不平等」ですね。確かに、欲から出て来るこれら二つの煩悩は、欲の世界がどんなに発展しても、ついてまわります。

人間の欲社会の特徴なのだとつくづく思います。良くても悪くても、欲界はこの特徴をもっているのだと分かります。


実は、このvisama(viSama、サンスクリット語)ですが、龍樹が、『廻諍論』の中で出していて、最初に観た時、「なんでこんな語が?」と不思議に思ったのですが、「八偈品」からきているのだと、今では分かります。

一見たいした意味に見えないようなvisama(不平等)は、ありとあらゆる思考の根にあって、特徴づけているのだと分かってきます。


> 文脈からして、この場合、visamaを【邪なる】とか『非正道』ではなく『不平等』と訳されたのはどのような理由からでしょうか。

「邪なる」とか「不正の」とかですと、それ以外の欲の行為を許してしまうことになります。「不平等」ですと、悪さが目立たないだけに、犯しがちになるので、そこをはっきりさせようとして、「悪い」という感覚の目立たない「不平等」をあえて使ってみたのです。


>
> あと、中村元訳でも、778で『両極端』という言葉が出てきて、801でも出てくるのですが、
> 例えば、ubho は辞書で見ると『両者』とか『2つ』とかしかなく、両極端に匹敵する原語がわかりません。

ここは、ubhosu antesu とあって、ubhoはおっしゃるとおり「二つ」で良いのですが、後ろに「anta(極端、辺)」の語がありますので、「両極端」で良いと思います。

> それは先生の言われる『前の欲望』『後の欲望』のことではないかと思っています。
>
> つまり、欲望とは、過去の快楽の記憶を反芻することとその快楽の記憶を現在から未来にかけて繰り返さんとするものであるので
> 欲望を前と後とに分けて、『両者』『2つ』と言ったのかなと思ったのです。

確かに、それは言えますね。antaがないと、わたしも、それらの可能性をいろいろ模索したかもしれません。経典中にも、過去や未来にも楽を見ることが出てきますものね。


> とにかく、スッタニパ-タは難しすぎて、わからないことだらけです。

おっしゃるとおりです。ものすごく難しい経典だと思います。
戸惑うような単語がぽつんと出てきても、どこかに、そことつながる縁起の網の目が張り巡らされている感じがします。他の経典どうしが緊密につながっているのです。どの経典もです。


最後の第五章「彼岸道品」など、ウパニシャッドの思想を知って読むと、ほとんど発狂しそうになりますね。ブッダは、確実に、「目覚めたもの」だと、信じるほかないようなことが説かれていて、奇跡の書だと思います。

「彼岸道品」は、スマナサ-ラ長老さまが訳していますが、一冊の本に四人の人しか出てきません。
「すごく難しい」とおっしゃっていました。
ウパニシャッドは出さずに、上座部智慧の極致を披露されていますが、実際、書いてあるとおりだろうと、わたしも思います。

仏教の完成された理論で理解しないと、十六人の学人たちの疑問に応えきれないことが、わたしでも分かります。それを、仏教の専門用語もなしで(?)、相手にあわせて答えていくのですから、相手が平伏してしまうのももっともです。


 

  [No.16929] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/13(Fri) 10:46:51

石飛先生、おはようございます。
お教えくださりありがとうございます。

> 一見たいした意味に見えないようなvisama(不平等)は、ありとあらゆる思考の根にあって、
>特徴づけているのだと分かってきます。
> 「邪なる」とか「不正の」とかですと、それ以外の欲の行為を許してしまうことになります。
>「不平等」ですと、悪さが目立たないだけに、犯しがちになるので、そこをはっきりさせようとして、
>「悪い」という感覚の目立たない「不平等」をあえて使ってみたのです。


なるほど、visama を不平等と訳すことには、『洞窟の八経』だけでなく、他の部分にも関わってくること、
もっと言えば、言説の根幹部分に関わっていると思われているということですね。

これから、こころして読んでみます。



> ここは、ubhosu antesu とあって、ubhoはおっしゃるとおり「二つ」で良いのですが、
>後ろに「anta(極端、辺)」の語がありますので、「両極端」で良いと思います。


そういうことなのですね。
確かに、辞書にも、ubho anta は 両辺となっていますね。ありがとうございます。

石飛先生は、『両極端』につき、『わがもの』と『わがものではない』という2つの極端と考えておられますね。
私は、仏陀の教えは、すべてを『わがものではない』と切っていくものだと考えていますので、
ここは自分の中でも精査していきたいです。


> おっしゃるとおりです。ものすごく難しい経典だと思います。
> 戸惑うような単語がぽつんと出てきても、どこかに、そことつながる縁起の網の目が張り巡らされている感じがします。他の経典どうしが緊密につながっているのです。どの経典もです。


先生もそうおっしゃるのであれば、安心しました。
『スッタニパ-タ』は『ダンマパダ』や相応部経典や中部経典などに比べてもはるかに難しいですね。
まさしく仏陀の教えの原型で、整えられていない状態だからだと思います。だから貴重なんでしょう。
『スッタニパ-タ』が簡単だというのは、春間さんくらいの天才しか言えないでしょうね(笑)


> 最後の第五章「彼岸道品」など、ウパニシャッドの思想を知って読むと、ほとんど発狂しそうになりますね。ブッダは、確実に、「目覚めたもの」だと、信じるほかないようなことが説かれていて、奇跡の書だと思います。


今度、ウパニシャドを読んだ後にこころして読んでみます。

> 「彼岸道品」は、スマナサ-ラ長老さまが訳していますが、一冊の本に四人の人しか出てきません。
> 「すごく難しい」とおっしゃっていました。
> ウパニシャッドは出さずに、上座部智慧の極致を披露されていますが、実際、書いてあるとおりだろうと、わたしも思います。

スマナサ-ラは私はあまり評価していません。
むしろ、部派仏教にスマナサ-ラのような人たちばかりになってきたので、大乗仏教が興ったのだろうと思っています。


石飛先生、お忙しいのに教えていただきありがとうございました。


 

  [No.16932] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/13(Fri) 20:21:09

先生の『スッタニパ-タと大乗への道』の
850の解説が凄いですね。

mantabhani を 聖なる言葉を誦する とし
【寂滅している者は、何を語るにしてもマントラ(真言)になるのだ】と解説されています。

これだと、後世の密教に通じますね。


 

  [No.16934] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/14(Sat) 15:31:32

石飛先生、ありがとうございます。


> 自分でも、目を疑いました。
> 『般若心経』が見えますね。


確かに。最古層とされる仏典に既に大乗仏教の萌芽があったという説は、是非、推し進めていただきたいです。

現在、大乗仏教の起源については、グレゴリ-・ショペンの説が定説になっていますが、
私は、これも、今までの、大衆部説、仏塔管理の在家説、と同じようにかなりの部分否定されるように思います。

グレゴリ-・ショペンは、サンガ内、僧院内で、辺境の比丘がこっそり大乗仏典を創作していたようなことを主張していますが
維摩経などを見ると、出家だけが創作したのではなく、在家、それも還俗した在家あたりがかなり広範囲に関わっているような気がします。
辺境だけではなく、非常に広範囲な、仏教復興運動ではなかったかと思います。

そして、その原動力になったのは、釈尊はもっと大きなものを説いたのに、それを見失っているという強烈な意識だと思います。

ですから、先生が発見されたように、最古層の仏典にも大乗仏教が後に興る萌芽があり、
その最古層の仏典にある仏陀の真意を部派仏教が見失ってしまったことが
大乗仏教が興った理由だと思います。

前に『自然発生的に』と書いたのは、『誰かリ-ダ-がいて主導したということがなく』『同時多発的に興った』という意味です。
何の理由も根拠も必然性もなくふらっと興ったという意味ではありません。(念のため)


 

  [No.16935] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/14(Sat) 23:01:22

通り雨さま こんばんは。

> 確かに。最古層とされる仏典に既に大乗仏教の萌芽があったという説は、是非、推し進めていただきたいです。

正確には少し違っていまして、大乗仏教の萌芽ではなく、理論的な仏法の完成を示している、と思っています。
簡単に言うと、ブッダの一切智が示されていると思います。

そこに気づいた者たちが、大乗をつくって行ったのだろうと思っています。「一切智」というのが、大乗的に必要な視点なので、そこを欠くと大乗にならないということだと思っています。

> 現在、大乗仏教の起源については、グレゴリ-・ショペンの説が定説になっていますが、
> 私は、これも、今までの、大衆部説、仏塔管理の在家説、と同じようにかなりの部分否定されるように思います。

通り雨さまもお気づきだと思いますが、こういう表面的で現象的な変化によって、大乗が生まれてくることはないでしょう。
理論的には、唯識と空観をがっちり得ていないと、大乗の理論化はできないですし、理論が決まらなければ、大乗も運動として起こりません。

かなり多くの人が、それぞれに大乗の道を模索していったのではないかと思います。
>
> グレゴリ-・ショペンは、サンガ内、僧院内で、辺境の比丘がこっそり大乗仏典を創作していたようなことを主張していますが
> 維摩経などを見ると、出家だけが創作したのではなく、在家、それも還俗した在家あたりがかなり広範囲に関わっているような気がします。
> 辺境だけではなく、非常に広範囲な、仏教復興運動ではなかったかと思います。

どこで生まれたのかは、分からないですが、おっしゃるように「同時多発的だ」というのはあたっていると思います。大乗経典の種類などから見ても、そうだろうと思います。

僧院の中にもあったでしょうし、僧院の外でも行われたでしょう。外だとすれば、沙門たちや外道出身の人々も多かったのではないかと思います。

たとえば、法華経無量寿経が同じメンバ-から生まれたとは思えません。それぞれ、関心の趣くところにしたがって、種々の大乗経典が生まれていったのだろうと思います。

>
> ですから、先生が発見されたように、最古層の仏典にも大乗仏教が後に興る萌芽があり、
> その最古層の仏典にある仏陀の真意を部派仏教が見失ってしまったことが
> 大乗仏教が興った理由だと思います。


わたしは、最古の経典の中にこそ、ブッダの一切智が説かれているはずだと思って、『スッタニパ-タ』に目をつけてきました。あたっていると思います。

『スッタニパ-タ』をよく読んでいくと、バラモンだろうと沙門だろうと、ほとんど分け隔てせず、完成された仏説を与えています。サンガの比丘たちが、仏教を守りましたが、ブッダの教えがしみこんでいったのは、むしろ、一般の人々や、外道出身の者たちではなかっただろうか、という気もします。また、出家であっても、一人で修行していれば、僧院の仏教、サンガの仏教ということにはなりません。

> 前に『自然発生的に』と書いたのは、『誰かリ-ダ-がいて主導したということがなく』『同時多発的に興った』という意味です。
> 何の理由も根拠も必然性もなくふらっと興ったという意味ではありません。(念のため)

おっしゃるとおりで、根拠と必然性を確実につかんだ者たちが大乗を育てていったと思います。
ものすごい智慧の集結だなあと思います。


 

  [No.16939] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/15(Sun) 15:31:07

石飛先生、ありがとうございます。

> 正確には少し違っていまして、大乗仏教の萌芽ではなく、理論的な仏法の完成を示している、と思っています。
> 簡単に言うと、ブッダの一切智が示されていると思います。
> そこに気づいた者たちが、大乗をつくって行ったのだろうと思っています。「一切智」というのが、大乗的に必要な視点なので、そこを欠くと大乗にならないということだと思っています。


そうですね。私も、最古層の仏典には一切智があると思っています。仏陀には握り拳はないですから。
しかし、龍樹研究者の先生がそう思われているというのは意外に思いました。うれしいことですが。

ただ、そうなると、根本的な問いが生まれてきます。
スッタニパ-タなどの古層の仏典にすべての法があるとすれば、
何故、仏陀の死後500年も経って大乗仏典を創作していかなければならなかったのか、ということです。

第一結集で確定した教えをサンガ内で比丘たちが口承で伝えていきました。
仏陀の死後100年経って、根本分裂が起きましたが、これは経典ではなく戒律の問題でした。
具体的には、金銭でお布施を受け取る比丘たちが現れたことが最大の問題でした。
戒律の問題で大きく2つに分かれ、それが細かに分かれていきますが
部派仏教の時代になっても、仏典はサンガで伝えられてきたものでした。
ですから、仏典の問題は起こりませんでした。

スッタニパ-タなどの古層の仏典に一切智を見出していった人たちがいれば
スッタニパ-タを所依の経典として、部派仏教でひとつの学派とすればいいのだと思いますが
なぜ、第一結集によらない経典を新しく膨大に作り出したのか、
ここが大きな疑問となります。

何か、部派仏教の解釈で、『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちがいるのではないか、
そしてそれを解明することによって
原始仏典の真価、そして大乗仏典の真価が浮かび上がるのではないかと思っています。


先生の御本の919の解釈も凄いです。
919は、中村元訳では、見逃していた箇所です。
これは、とんでもなく重要なことを言っている可能性がありますね。


 

  [No.16940] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/16(Mon) 08:35:39

通り雨さま おはようございます。


> そうですね。私も、最古層の仏典には一切智があると思っています。仏陀には握り拳はないですから。

おっしゃるとおりです。握り拳はないのに、なかなかつかめないのが仏法の深いところですよね。

> しかし、龍樹研究者の先生がそう思われているというのは意外に思いました。うれしいことですが。

あら?!そうですか。
もし、ブッダが、人々に教えを説く直前か、あるいは同時に、「一切智」をもつことを示さなければ、ただのペテン師になってしまいます。

二五〇〇年以上も続いているのは、誰も到達し得ないところをブッダは明らかに示しているからだと思います。原理的には、ほぼつかめてきていますが、細部の詰めが足りなくて、今は、『中論』を出せません。

龍樹の『中論』というのは、ブッダの露わにされていない「一切智」の不足部分を明らかにするものです。龍樹は、ブッダの教えの、あえて表だって説かなかった部分を、表にさらした人でもあります。それが「空」なのですが。

> ただ、そうなると、根本的な問いが生まれてきます。
> スッタニパ-タなどの古層の仏典にすべての法があるとすれば、
> 何故、仏陀の死後500年も経って大乗仏典を創作していかなければならなかったのか、ということです。

なるほど。。
>
> 第一結集で確定した教えをサンガ内で比丘たちが口承で伝えていきました。
> 仏陀の死後100年経って、根本分裂が起きましたが、これは経典ではなく戒律の問題でした。
> 具体的には、金銭でお布施を受け取る比丘たちが現れたことが最大の問題でした。
> 戒律の問題で大きく2つに分かれ、それが細かに分かれていきますが
> 部派仏教の時代になっても、仏典はサンガで伝えられてきたものでした。
> ですから、仏典の問題は起こりませんでした。

そうですね。
>
> スッタニパ-タなどの古層の仏典に一切智を見出していった人たちがいれば
> スッタニパ-タを所依の経典として、部派仏教でひとつの学派とすればいいのだと思いますが
> なぜ、第一結集によらない経典を新しく膨大に作り出したのか、
> ここが大きな疑問となります。

なるほど、なるほど、おっしゃるとおりに考えるならば、確かに疑問はもっともです。
今日、もっとも保守的とされる上座部が残って、他の部派は消えてしまったかのようですが、かつては、大乗的な思想をもつ教団もあったように聞いています。

『義足経』(『スッタニパ-タ』「八偈品」に相当)は、内容はほとんど同じですが、経典を置く順序が異なっていて、それにより大乗的な思想を示していると解釈されるようです。この辺は、わたしもよく調べていませんが、理論的には言えると思います。
>
> 何か、部派仏教の解釈で、『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちがいるのではないか、
> そしてそれを解明することによって
> 原始仏典の真価、そして大乗仏典の真価が浮かび上がるのではないかと思っています。

大乗も、部派も、受け取った教えはほとんど同じだったということでしょう。
「ほとんど」というところが大事で、ブッダは、誰にでも分け隔てなく、「一切」を教えたけれど、受け取る者たちの資質などにより、受けとめられる部分と受けとめられない部分があった、とした方が、合理的だと思います。

一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です。「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。

習ったものを全部得たら、全部きれいに捨てなさい、というここまで完成して、ブッダになれるのですが、部派の人たちは、完全に捨てきれないものを抱えているのだろうと思います。
しかし、部派も、阿羅漢になると、もはや教団にも所属せず、一人で行く道を歩んでいきます。サンガには所属しません。ですから、阿羅漢のその後は、ほとんどの人が知りません。マハ-カッサパ、マハ-カッチャ-(ヤ)ナ、ア-ナンダなどなど、かれらは、知る人ぞ知る聖者として、残りの人生を送ったのでしょう。かれらや、サ-リプッタ、モッガラ-ナを惜しんで、大乗の経典には、尊敬と愛着(?)を込めて名が出てくると思います。
わたしには、大乗の者たちがかれらを馬鹿にしているとは思えません。

一方、大乗は、ブッダを目指し、人々を救うことを大きな目標としますから、修行時代は目立たないのですが、悟りを得るほどになってきますと、活躍が目立ってきます。

菩薩として、あるいは、如来として、人々のために働き始めます。完全に法を捨てているので、仏・菩薩の智慧によって衆生を救っていきます。一切智が、ここで役に立ちます。一切衆生を救えるのは一切智をもつからです。

菩薩の修行を支える「般若経典」や、その他の大乗経典は、救う者たち、あるいは、救われる者たちのために書かれた智慧の教えで、一切の法を捨てているため、それぞれ、自分が関わる衆生に対機して、経典が組み立てられているのだと思います。

たとえば、パ-リ語経典「大般涅槃経」は、阿弥陀仏を説く「無量寿経」の基礎となっています。
ブッダの教えは完璧でも、現実に救いきれない人々がたくさん世の中にいて、教えを待っているので、かれらのために、大乗仏教の者たちは現在もはたらいているのだと思います。だから、さまざまな経典が、新たに生まれてきます。
チベットのように「埋蔵経典」もあります。仏教がさかんであれば、今後も、新しい法門が開かれていく可能性はあると思います。また、部派がどのように展開していくのかも楽しみでもあります。

変化しないものは、ブッダの教えではありませんので。

>
> 先生の御本の919の解釈も凄いです。
> 919は、中村元訳では、見逃していた箇所です。
> これは、とんでもなく重要なことを言っている可能性がありますね。

書いてあることを読むと、わたしの訳は普通であるように、自分では思いますが、宮坂宥勝氏も、中村先生と同じような訳になっています。わたしと中村訳の二つをあげてみましょうか。


【石飛訳】
919. (第十四経第5偈)
比丘は、内に寂静でありなさい。他のものに、寂静を求めてはなりません。内に寂静となったものにとっては、自己はありません。そうなら、どうして、自己を欠くもの(=自己ではないもの)があるでしょうか。

【中村訳】
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない(n'atthi attA)。どうして捨てられるものがあろうか(kuto nirattaM)。


ここは、先ほどの、「法を捨てられるかどうか」というところにもつながるかもしれないです。

中村先生は、無我(=自己がない)ではなく、非我(=自己でない)という教えをブッダは説いたと考えていたようですので、「自己はない」という訳が出てこなかったのかもしれません。(中村先生にも、捨てられないものがあったということも言えます。)

そのため、次の「nirattaM (自己を欠く)」という訳にも支障が出ることになりました。

この、nir-attanですが、「捨てられるもの」と訳されたために、龍樹の『中論』の解釈にも悪しき影響を及ぼすことになったと思っています。
「niH-svabhAva(自性を欠く)」の解釈を、誤解することになったという風にも思いますが、話せば長い話になりそうなので、この辺にします。(そもそも、龍樹とブッダが同じ法にある、と考える人も少ないかもしれませんし。)


 

  [No.16941] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/16(Mon) 18:23:48

石飛先生、ありがとうございます。


> 【石飛訳】
> 919. (第十四経第5偈)
> 比丘は、内に寂静でありなさい。他のものに、寂静を求めてはなりません。内に寂静となったものにとっては、自己はありません。そうなら、どうして、自己を欠くもの(=自己ではないもの)があるでしょうか。
>
> 【中村訳】
> 919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない(n'atthi attA)。どうして捨てられるものがあろうか(kuto nirattaM)。
>
>
> ここは、先ほどの、「法を捨てられるかどうか」というところにもつながるかもしれないです。
> 中村先生は、無我(=自己がない)ではなく、非我(=自己でない)という教えをブッダは説いたと考えていたようですので、「自己はない」という訳が出てこなかったのかもしれません。(中村先生にも、捨てられないものがあったということも言えます。)
> そのため、次の「nirattaM (自己を欠く)」という訳にも支障が出ることになりました。



niratta には、辞書で見ますと、1、我でない・非我の 2、捨てられた・排除された
この2つの意味があるようですね。

atta にも、1、我・自己・我体 2、得た・取った
という2つの意味があるようです。


中村元訳では、平安に達した人には、取るということがないのだから、捨てるということもない、
とまあ、平凡な意味になります。

石飛先生の訳では、『寂静に達した者は、自己がないのだから自己ならざるものもなくすべてが自己』と
いきなり禅の極致のような言説となります。



>「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。

仏陀が言った中でも、筏の喩えは素晴らしいと思います。非常に柔軟ですね。自分の説いた教えにさえも囚われるなということですね。


>しかし、部派も、阿羅漢になると、もはや教団にも所属せず、一人で行く道を歩んでいきます。サンガには所属しません。
>ですから、阿羅漢のその後は、ほとんどの人が知りません。
>マハ-カッサパ、マハ-カッチャ-(ヤ)ナ、ア-ナンダなどなど、かれらは、知る人ぞ知る聖者として、残りの人生を送ったのでしょう。


阿羅漢になるとサンガに所属しないというのは今まで知りませんでした。
遊行することが多くても、サンガには属していると思っていました。


>一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です

仏陀が捨てろと言った『saddha』を辞書で見ますと、信・信仰・信心・信用とあります。
中村元氏は、バラモン教の信仰を捨てよ、と言う意味に解しています。
しかし、バラモン教の信仰を捨てて仏陀の教えを信仰しろというのでは、全く仏陀らしくありません。
先生がおっしゃるように、仏陀の法をも捨てるということかもしれません。
あるいは、どんな教えも信仰にはするな、ありのままをとらわれなく見なさい、という意味かもしれません。


 

  [No.16950] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/17(Tue) 15:43:53

> スマナサ-ラ長老は『ブッダの実践心理学』で、阿羅漢は欲を滅ぼし尽くすので、サンガにいなければそのまま餓死して涅槃に入るといっています。
> 阿羅漢が一人遊行するというのは誤りだと思います。独覚のことでしょう。
> ちなみに凡夫の菩薩はサンガに属しませんが世間に属しています。仏陀がいう「犀の角の如くただ一人歩め」は、スマナサ-ラ長老も言うとおり、凡夫の菩薩や声聞には不可能で独覚にしか出来ませんが、それを可能にするのが十二支縁起の観察だと思います。
> スマナサ-ラ長老はアビダルマの伝統から語っているので、禅定の実践に裏打ちされており極めて精密で正確ですが、日本の大乗の学者は自分の思いつきで適当に語るから、注意する必要があります。


spinobuddhistさん、はじめまして。
説明いただきありがとうございます。
スマナサ-ラ長老は、阿羅漢はサンガにいなければ餓死してしまうと言われましたか。なるほど。
「犀の角の如くただ一人歩め」は、独覚にしかできないのですか。
今の日本では、原始仏教と言えばテ-ラワ-ダですし、テ-ラワ-ダといえばスマナサ-ラ長老が絶大な影響力を持たれていますね。
私は道の途中で、どの権威にもよらずに、仏陀の真意に近づきたいと思っていますが
大変参考になりました。ありがとうございます。


 

  [No.16944] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/16(Mon) 23:15:51

通り雨さま こんばんは。

> niratta には、辞書で見ますと、1、我でない・非我の 2、捨てられた・排除された
> この2つの意味があるようですね。
>
> atta にも、1、我・自己・我体 2、得た・取った
> という2つの意味があるようです。

おっしゃるとおりです。が、

n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。

一方、後ろにあるnirattaMは「捨てられた(もの)」としてもよさそうに思いますが、前の文と関連させるなら、「自己を欠くもの」ということになるでしょう。

中村訳ですと、後ろを「捨てられた(もの)」としたので、その前の文の「attA]」を「得られた」とむりやり読むことになって、ちょっと苦しい解釈だということになりますね。

>
> 中村元訳では、平安に達した人には、取るということがないのだから、捨てるということもない、
> とまあ、平凡な意味になります。
>
> 石飛先生の訳では、『寂静に達した者は、自己がないのだから自己ならざるものもなくすべてが自己』と
> いきなり禅の極致のような言説となります。

なるほど、言われてみますと、そうですね。
>
> >「法を捨てる」のも、実は、ブッダの教えなのです。
>
> 仏陀が言った中でも、筏の喩えは素晴らしいと思います。非常に柔軟ですね。自分の説いた教えにさえも囚われるなということですね。

梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。


> 阿羅漢になるとサンガに所属しないというのは今まで知りませんでした。
> 遊行することが多くても、サンガには属していると思っていました。

マハ-カッサパの出て来る経典をじっくりと読みますと、頭陀行といわれる生き方をしていて、たまにお釈迦さまのいるサンガに寄ったりしています。また、カッサパが比丘たちに法を説いたりもしています。が、基本的には、精舎などにはよらず、他の比丘たちとも群れていることはなかったと思われます。

といいますのは、いつもまわりに弟子たちや在家の信者たちと一緒にいて世話をするア-ナンダに苦言を呈したりもしているからです。それを聞いたア-ナンダファンの比丘尼が、カッサパのことをよく知らなかったと見えて、「こんな立派なア-ナンダ尊者を小僧呼ばわりするなんて、なんなの、元は外道のくせに」みたいに文句を言ったりしているお話がありました。

あるいは、カッチャ-ヤナも、同じように逸話があります。一人アヴァンティに戻って教えを説き始めて、ソ-ナという人が出家したいと申し出るのですが、出家はたいへんだからと在家で頑張れと助言して、許しませんでした。
しかし、再三願って頼まれようやく出家を許しますが、出家のための比丘十人がそろわず、それから3年もかかって出家をさせます。
そのソ-ナがお釈迦さまに会うために、サ-ヴァッティ-に出かけた折に、辺境では比丘たちを集めるのがたいへんだと話したので、それによって、辺境の地では五人の比丘たちがそろえば具足戒を受けられるようになったということです。

だから、カッチャ-ヤナは「二人していくな、一人で行け」を守っていたのだなと思います。カッチャ-ヤナは、非常にきちんとソ-ナを育てて、この『スッタニパ-タ』の「八偈品」を暗記させています。力のあるお坊さんだったことが、この話だけからでも分かります。

わたしがいうことは、思いつきで語っていることは一つもないです。仏典の裏付けと体験から出ています。


> >一番難しいのが、「彼岸道品」にも出てきますが、ピンギヤに語る「法を捨てる」という部分です
>
> 仏陀が捨てろと言った『saddha』を辞書で見ますと、信・信仰・信心・信用とあります。
> 中村元氏は、バラモン教の信仰を捨てよ、と言う意味に解しています。
> しかし、バラモン教の信仰を捨てて仏陀の教えを信仰しろというのでは、全く仏陀らしくありません。

それでは、ただの宗教の教祖と同じですよね。

> 先生がおっしゃるように、仏陀の法をも捨てるということかもしれません。
> あるいは、どんな教えも信仰にはするな、ありのままをとらわれなく見なさい、という意味かもしれません。


信仰にすると、「われ」「わがもの」という意識が出て来るからでしょう。
わたしたちこそが、ブッダの教えを正統に受け継いでいるのだ、という意識が出ると、たちまちブッダの教えから転落してしまいます。

ほんとに仏教というのは、油断ならないですね。


 

  [No.16951] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:通り雨  投稿日:2019/09/17(Tue) 16:15:20

石飛先生、ありがとうございます。


> n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
> 「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。


なるほど。パ-リ語が分からない私には本当にありがたいです。


> 梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
> この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。


この箇所は、増谷文雄氏は
『いま、われ、甘露の門をひらく。耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。』と訳されています。
宮元啓一氏は
『耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。彼らは信を発し向けよ。』と訳されています。

私も調べてみたいと思います。



> といいますのは、いつもまわりに弟子たちや在家の信者たちと一緒にいて世話をするア-ナンダに苦言を呈したりもしているからです。
>それを聞いたア-ナンダファンの比丘尼が、カッサパのことをよく知らなかったと見えて、「こんな立派なア-ナンダ尊者を小僧呼ばわりするなんて、なんなの、元は外道のくせに」みたいに文句を言ったりしているお話がありました。


ア-ナンダは美男子で比丘尼のファンが多かったですからね。
マハ-カッサパも苦々しく思っていた感じですね。
マハ-カッサパなどの長老からすれば、釈尊の死後、サンガの行く末が気が気でなかったでしょう。


> 信仰にすると、「われ」「わがもの」という意識が出て来るからでしょう。
> わたしたちこそが、ブッダの教えを正統に受け継いでいるのだ、という意識が出ると、たちまちブッダの教えから転落してしまいます。
> ほんとに仏教というのは、油断ならないですね。


私もそう思うのです。
釈尊の死後、直後から釈尊の教えは変質していったと思っています。
教団という一つのかたまりになると、どうしても宗我が出てきて、特に既成のバラモン教への対抗意識や優越意識、
独創性を強調していって、インドのフィ-ルドの豊饒なるものを排除していった感じがしています。
そういうわけで、大乗仏教は生まれるべくして生まれたというように思い始めています。


私は、通りがかりの者という意味で『通り雨』と名前をしましたが
ヤフ-掲示板のときに『ショ-シャンク』という名前にしていました。
春間氏ともやり取りしたことがあります。
春間氏に『マニカナに来なさい』と言われて、マニカナを知りました。
ですから、春間氏はその意味で善知識なのですが、初めからちょっと酷いことばかり言ってしまいました。
お許しください。
次からはハンドルネ-ムは『ショ-シャンク』にします。


 

  [No.16955] Re: ブッダは、不平等を行うなと言った 投稿者:管理人エム  投稿日:2019/09/17(Tue) 20:31:46

通り雨、あらため、ショ-シャンクさま、こんばんは。

> > n’atthi attAとあるところは、普通に訳しますと「ア-トマンはない」と読めます。
> > 「アッタ-」は主格になりますので「得た」とは取りにくいところです。「attaM」なら、まだ考えられますけども。

> なるほど。パ-リ語が分からない私には本当にありがたいです。

こういう個所は異読も多くて、けっこうもめます。

787(第三経第8偈)に、似たような文があります。

attaM nirattaM na hi tassa atthi
なぜなら、得たものも捨てたものも(自己ということも自己のないことも)、かれにはないからです。


ここは「attaM 」なので、一応、「得たもの」と訳しています。こういうところをふまえて、中村先生は、「取り上げられるもの」と訳しているのだとは思いますが、しかし、相当に危険なことをしているなあ、という気がします。

中村註では、n' atthi attA のattAを、中性複数形だとしていますが、そうなら、atthiが3人称単数形であいません。単数形も許される、とはありますが、苦しいです。どうやっても「自己はない」とは訳せなかったのだろうと、推測します。

実は、ここは、おそらく、龍樹の『中論』第18章第6偈の根拠になっていると思います。
わたしも、龍樹のこの偈は、どこを根拠にしているのだろうと、ずいぶんさがしました。


自己であると教えられていることもあれば、自己ならざるものであると示されていることもある。しかし、いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示されている。(『中論』18.6)



> > 梵天勧請のあと、ブッダが、詩を語って「信を捨てるべき耳ある者たちに、不死の門は開かれた」と述べています。ここは訳が分かれるのですが、わたしの訳したようにも読めると思います。
> > この時、「信を捨てるべき」というのを、「いままでもっている古い信を捨てなさい」という意味だとしている人たちもいますが、そのまま、受け取った法も最後に一切捨てられるような人は聞きなさい、ともとれるので、最初から「信を捨てること」を条件付けている、と考えることもできるのです。
>
>
> この箇所は、増谷文雄氏は
> 『いま、われ、甘露の門をひらく。耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。』と訳されています。
> 宮元啓一氏は
> 『耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。彼らは信を発し向けよ。』と訳されています。


ここも、なかなか悩ましいです。『サンユッタ・ニカ-ヤ』PTS本、第一巻,p.138にあります。『ヴィナヤ』の第一巻にもあります。

apArutA tesaM amatassa dvArA/
ye sotavanto pamuccantu saddhaM//

tesaM ~ ye … と、関係詞節になっているので、後ろから前にかけて訳しても、切って訳しても、どちらでもいいかと思います。

pamuccantuが、「脱する」「解く」「捨てる」「解脱する」などの意味の、三人称複数で命令形ですので、普通には「信を捨てよ」とか「信を捨てねばならない」とか、そんな訳になるかと思います。

一行目は、「かれらにとって、不死の門は開かれた」で、その「かれら」の内容が二行目にあります。「耳ある者たちは、信を捨てよ」とある、「耳ある者たち」を「かれら」が受けています。
中村訳では、

耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
〔おのが〕信仰を捨てよ。

となっています。「おのが」を補っていますね。

> 釈尊の死後、直後から釈尊の教えは変質していったと思っています。
> 教団という一つのかたまりになると、どうしても宗我が出てきて、特に既成のバラモン教への対抗意識や優越意識、
> 独創性を強調していって、インドのフィ-ルドの豊饒なるものを排除していった感じがしています。

釈尊の教えが変質したというより、それぞれの能力に合わせて、分散化したのかもしれません。
サンガは、仏教の教えを維持する基盤としての役割を果たし、大衆化は、大乗や密教が担うという役割分担と考えてもいいかもしれないです。

どこにでも、仏教が崩れていく原因はあるので、たえず互いに刺激し合って変化して行くように気をつけるなら、仏教の教えはダイナミックに伝わっていうのではないかとも思っています。

どれが正しいとかではなく、ブッダの教えをどれくらい応用できるか、我々の力が試されていると見る方が、利益になるかもしれないと思ったりもします。

> そういうわけで、大乗仏教は生まれるべくして生まれたというように思い始めています。

大乗仏教は時間的には後続かもしれませんが、ブッダの悟りを考えると、菩薩時代に誓願があったからこそ成り立つものと思いますので、仏教誕生と同時に、理論的に大乗はお膳立てされていたような気もします。

> 私は、通りがかりの者という意味で『通り雨』と名前をしましたが
> ヤフ-掲示板のときに『ショ-シャンク』という名前にしていました。
> 春間氏ともやり取りしたことがあります。
> 春間氏に『マニカナに来なさい』と言われて、マニカナを知りました。

そうなんですか。ヤフ-の掲示板の方々も、昔はよくお見えになっていました。

> ですから、春間氏はその意味で善知識なのですが、初めからちょっと酷いことばかり言ってしまいました。
> お許しください。
> 次からはハンドルネ-ムは『ショ-シャンク』にします。

それでは、よろしくおねがいします。