P51 ③

  [No.17368] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 20:30:17

>
> 否定するのではなく
> 肯定することを 考えなさい
>
> そうすると、 自然に 答えが出てくる
>
> ・


人の否定ばかりしているあなたが言いますか?

掘り下げて質問すると、必ず逃げてしまいますね。


 

  [No.17371] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 21:42:30

>
> > > 肯定することを 考えなさい
>
> > > そうすると、 自然に 答えが出てくる
>
> > 人の否定ばかりしているあなたが言いますか?
>
> それが否定です
>
> > 掘り下げて質問すると、必ず逃げてしまいますね。
>
> それも 否定です
>
> ・


私は、納得できなければ肯定はしません。
親鸞が宗祖だから絶対正しいなどとは思いもしません。
その言動を見て、納得できなければ否定します。

あなたのように、まず権威ありき、ではないのです。
親鸞を権威として、親鸞のどのような行為でも肯定しなければならない・・などとは考えません。


 

  [No.17373] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 22:15:13

>
> > 私は、納得できなければ肯定はしません。
>
> 納得できないのは
> あなたに あなたが正しいという 拠るところが あるからです
> それを 権威 といいます
> あなたは 権威をもって、
> 自らの見解に 適合するか どうかを 判断する
> なぜ 自分に 権威があると 知ろうとはしないのですか ?
>
> > あなたのように、まず権威ありき、ではないのです。
>
> どのような権威の下で
> そう判断できるのですか ?
>
> こういうことに あなたの 思いは よらない
> わたしは 管理人エム 様 に
> あなたに語っていることと、 同じ事を 語っています
> 管理人エム 様 は わたしの言うことを 理解する
> あなたは ( 理解せずに ) 否定する
> その違いは どこにある と 思いますか ?


人は皆、自らの判断力によって判断を下しているのです。
そのような判断力を放棄する人間は、洗脳されたりいいように操られたりして
オウムのような変な宗教の犠牲になったりします。
怖いことです。

自分以外の誰かが『これは正しい』と言ったからといってそれを自ら考えることもなしに鵜呑みにして
多くの悲劇が起きています。

安易に肯定したり権威づけたりするのではなく、自分の感性に合うものを選んでいくべきですね。


 

  [No.17374] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 22:39:09

この質問に答えてはもらえないですか?



1,親鸞は、阿弥陀仏はどのような謗法の者でも摂取不捨と説きました。
阿弥陀仏が許しておられるのに、親鸞が許さずに義絶するのは人間のはからいではないですか?
2,義絶とは世間のことと言いますが、なぜ、あなたは世間と非世間の2つに分けるのですか?
行(行為)に世間も非世間もありません。親鸞の行為があるだけです。
3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?
親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
自らの意思で義絶したのは親鸞です。
4,親鸞は、自らは弟子を一人も持たないと言いました。
それは、自分の計らいなど何もない、阿弥陀仏の計らいによるからです。
自分の弟子でもない、阿弥陀仏の弟子なのに、自分の判断で切り捨てるのは言っていることと矛盾しますね?
5,絶対に救われるのであれば、わざわざ義絶する必要などないではないですか。
6,人を排除する、切り捨てる、というのは、あなたのよく言う『至道無難 唯嫌揀択』の揀択ではないですか?

結局、自分は弟子を一人も持たないなどといいながら、自分の教団が乱されると考えれば切り捨てるということですね。
弟子がいないのであれば自分の教団などあるはずがないですね?


 

  [No.17378] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 07:12:24

>
> > > この質問に答えてはもらえないですか?
> > 自分で考えて
> > 答えを提示し
> > それについて 応答を 求めなさい
>
> 親鸞が 人であるということ は いけないことですか ?

そんなこと、一言も言っていません。
むしろ、私は、親鸞を権威と考えることに疑問を持っています。
そんなにすごい人物ではなかったと思っていますよ。

> 善い・悪い の 揀択は 誰に起き、 どうして起きるのですか ?

親鸞が、揀択を起こし息子を義絶するという判断を下したのです。

> 善いことを する( 教える ) のが 仏( 教 ) ですが
> 何を根拠に あなたの 商量 は 起されていますか ?

私の根拠は私しかありません。

> 親鸞が 親子であることを 捨てたのですか ?
> ( 親子 であることを 捨てることはできますか ? )

それが義絶です。捨てないのであれば、義絶などしなければいいではないですか。


> 出家 とは 親子 を 出ることです

親鸞は、出家ではないですよ。還俗させられた後、自ら非僧非俗と言っています。
いいとこどりですね。
僧でないのに、髪をそり袈裟を着て僧の格好をし、弟子たちに食わせてもらっていました。
僧でないなら、魚屋でも八百屋でもして働いて自分で食って行けばいいのです。
俗でないと言っているのに、妻帯してます。
非僧非俗などいいとこどりの逃げですね。
妻帯しても僧ではないと言い逃れでき、信者に食わせてもらっても俗ではないと言い逃れできますね。


> 親鸞に 教団 など ありません

口ではそう言っています。
親鸞はひとりの弟子も持たない。念仏を唱えて救われるのも阿弥陀仏の計らいであるから、と。
それなら、阿弥陀仏は摂取不捨なのに、親鸞が義絶し排除するのは矛盾しますね。
教団などないのであればなぜわざわざ義絶しなければいけないのですか?

私は口で言うのと実際の行ないが違う人間は信用しないのです。
口では悟りすましたことはいくらでもいえるのです。


 

  [No.17385] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 09:19:44

> 親鸞の判断 は 善いことですか ? 悪いことですか ?


善い悪いなど私の判断基準ではありません。
親鸞が自分で言っていることと、実際の行ないが違っているので信用しないだけです。


> それは 正しいのですか ?

正しい正しくないというのも私の判断基準ではありません。
正義など個々人の妄想です。



> 何故 義 に於いて 絶したのですか ?


義絶の判断をした親鸞に聞いてください。



> その義を絶することに拠って
> 親鸞は 何を 説いている( 行ないで示している )のでしょうか ?


何も説いていないですよ。
教団の信者たちが混乱して親鸞に訴えてきたので義絶しただけです。



> 親鸞は 厳しく 自分の生に向き合っている


僧でもないのに僧の格好をして布施をもらい、弟子は一人も持たないと言っているのに弟子たちに食わせてもらって
どこが厳しく向き合っているのですか。
頭の中で自分の救いを求め求めていましたが、自分で働かずに他人のお金で観念論にふけっていたともいえます。



> あなたは 誰のおかげで、 生をはぐくんでいますか ?

少なくとも、僧でもないのに僧のコスプレをして信者に食わしてもらうことはしてないですね。
自分のお金は自分が稼いでいます。



> どうして 義絶したか
> あなたの読み方を 聞かせてください


信者たちが混乱しているという訴えがあったからですよ。
このままでは教団が崩壊してしまうという危機感ですね。
それ以外の理由なんて有りません。



> あなたは “ 口で言うように ” 行っていますか ?

少なくとも、口で悟りすましたようなことは言いません。
自分ができないことをできたように言うこともありません。


 

  [No.17379] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 07:36:07

> ヤフ-掲示板 では
> あなたは わたしの “ ムシカゴ ” に 入っていたのです


私は、ヤフ-掲示板では、ずっと株式板と映画板に自分のスレッドを立ち上げ、そのカテだけしか見ませんでした。
私が仏教系のカテ(東哲板)に自分のスレッド【仏教についてのひとりごと】を立ち上げたのはほんの最近のことで
ヤフ-掲示板が閉鎖されるまでの1年半くらいの短期間でした。

それでも、多くの閲覧者を集め、カテゴリ-のアクセスランキング1位になることも多かったです。

今までの仏教は、大乗仏教も部派仏教も仏陀の真意を伝えていない、という仏教の全否定から入りましたので
当然、誰からも非難轟々だと思っていましたが、賛同者もかなり多かったのには驚きました。

私は自分の立てたスレッドにしか投稿しない主義でした。
映画板でも、株式板でも、東哲板でも。
映画板の自分のスレも、株式板の自分のスレも、東哲板の自分のスレも、多くの人が投稿してくれて賑わっていたので
他のスレッドには興味ありませでした。

映画板や株式板にはアラシはいませんでしたが
東哲板には他人のスレに寄生するアラシが何人もいました。
その人たちの特徴は、自分でスレを立ち上げるのですが、自分のスレッドには誰も来ないで閑散としているので
他人のスレッドを自分のスレッドのように仕切ろうとするのです。
他人のスレッドに住み着いて、スレ主から出て行けと言っても出ていかないので嫌がられていました(笑)


私は自分のスレッドにしか投稿しませんでしたので、春間さんはわざわざ私のスレッドに投稿してきてました。
それを論破すると、答えられなくなり、『無視リストに入れます』などと言っていましたね。
わざわざ私のスレに来たから、その矛盾点を論破してるのに、無視リスト?
変な人だなあとは思っていました。
無視リストは、自分のスレッドに来て嫌がらせ投稿ばかりする人の投稿を自分だけ見えず読まなくて済むようにする機能ですから
自分のスレにしか投稿しない私なら、私のスレを読まなければいいだけなのに、
おかしなことを言う人だと思っていました。


 

  [No.17380] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/24(Fri) 08:03:22

ショ-シャンクさま おはようございます。

親鸞聖人、けっこう好きです。なので、言い訳がましく、この点についてちょっとお話してみようかなと。

> 3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?

親鸞は、僧になりたかったと思います。僧として、行も積んで、悟りにいけるかと思ったが、どうしても駄目だったので、山を下りて、法然上人のところに行ったのですよね。
ところが、6年ほど法然上人のところにいたら、法難にあって、俗へと身を転ぜられます。

そのとき「非僧非俗」というわけですよね。
私は、ここが一番好きですね。 愚禿親鸞 という道が、生まれます。

非僧非俗は、中道で、かれは、ある意味、頑張った甲斐(?)あって、中道を手に入れたと、私には見えるのです。
僧にもなれず、俗にもなれず、ただ一本の道だけが、親鸞の前にある。

出来事は偶然のようにも見えるかもしれませんが、此処にこそ縁起があると思います。
法難は、専修念仏に対する比叡山の方からの働きかけもあってやって来ているわけです。ただ上皇の腹立ちのせいとばかりは言えないでしょう。
ある意味、必然的に時代が動いている、とも言えるかと思います。

時代に翻弄されながら、溺れる親鸞は一本の糸をつかんだ。それが、「非僧非俗」というわらしべだと、私には見えるのです。

どんなに(世俗的に)愚かでも、僧になり損なっても(=禿)、「愚禿」は称号みたいにかれには光輝いています。
阿弥陀仏に救われる資格十分だということを示していると、かれには思われたことでしょう。法然上人に騙されたってかまわない、どうせ地獄に堕ちる身だ、ってわけです。

> 親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
> 自らの意思で義絶したのは親鸞です。

私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。
「おまえも阿弥陀仏にすがれ!」って、言ってるような気がします。
世俗的ではありますが、「愛だろ、愛!親の愛だろ」って感じですね。

親鸞で良いことは、世俗を持ちだしても語れることですね。
私も、「愛」とか「親子」とか、出家の方には言いにくいですが、親鸞の場合、語っておかしくなりません。
「頑固親父のちゃぶ台返し」みたいな話につなげても、世俗は世俗で理解できるのではないでしょうか。
本当にそれでいいかどうかは、私はわかりませんが、私には以上のように見えます。

日本だからこそ親鸞聖人を生んだのでしょうか。
どうなんだろう。

日本で一番信者さんを得ているのは、日本人が非僧非俗の「愚禿」の道にあっているからかな、などと思ってもいますが、本当のところはよく分かりません。

私は、親鸞聖人のような生き方は、絶対できないだろうと思うので、どんなに尊敬しても尊敬したりないと、思っています。特別な人です。


 

  [No.17427] Re: 親鸞への疑問 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/01/27(Mon) 09:18:31


通りすがり であろうと 垣間見る ということは起きる
通りすがりに見ること が 垣間見ることだからです


「 古城 に 続く道 」 も たまたま 足を踏み入れるところに 見出される


なにを 垣間見た かを 身に引き当てなければ 、、、、


割って、 湧き出ること が 垣間見られます
そこに 隙間 が 起きるから 涌くわけです

湧いて出た “ 隙間 ” に 首を突っ込んで、 閉じてしまって どうします ?

自らを見る 隙間 を
他に転嫁 して
自らのものとすること が 出来なければ、
ジユウ は どこに起きるのでしょうか ?

他の悪 ( と映るモノ )を 通して、 自らを 見るのです
( それが 他の悪 と 鏡 に 映る のです )
( カンガミ 鑑み カミガミ を 撃つ )


> 我慢できずに書き込まれたかもしれませんが、
> どうせ語るなら、逃げ腰にならず、ゆっくり話しませんか。

ショ-シャンク 君 も ここに ゆっくり 腰を落ち着けています
( 落ち着かない と 思うのは 思想信“教” に わたしにおいても 自由です )

ここ は ヤフ-掲示板 の ようには 商業主義に(は) 支配されてはいない

一度 書き込めば、 何年でも そこから 追跡できる 、、、、
( しかも 「 無量 」 が 根本にある → 思想信条 を 問うて シャベツ しない )

通りすがり ということは ここでは おきてはいないのです

しかし、 逃げる ということは
逃げる人の 人生において 展開される 、、、、
どこまで逃げても、 自分の展開からは 逃げられない

そういうことを 「 輪廻 」 という「 語 」 で 教えているのです


 

  [No.17386] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 11:08:36

石飛先生、おはようございます。


> 日本だからこそ親鸞聖人を生んだのでしょうか。
>
> 日本で一番信者さんを得ているのは、日本人が非僧非俗の「愚禿」の道にあっているからかな、などと思ってもいますが、本当のところはよく分かりません。
>
> 私は、親鸞聖人のような生き方は、絶対できないだろうと思うので、どんなに尊敬しても尊敬したりないと、思っています。特別な人です。


親鸞が大変お好きなのですね。
嵐の大ファンに嵐の悪口を述べ立てるようで、居心地の悪さを感じますが(笑)

日本のインテリはこぞって親鸞が好きですね。太宰治が好きな心理と似通っているのかもしれません。
『私はだめな人間です。どうしようもない人間です。』と告白する人に共感を覚えるのでしょうか。

ただ、日本で一番信者が多いのは、すべて蓮如のおかげでしょう。それまでは零細教団だったと思います。
曹洞宗も大きくなったのは、瑩山のおかげですね。
ストレ-トのウィスキ-は飲める人は少なく、大量の水で割って飲みやすいようにしたところが信者が増えた理由でしょう。
大量の水と、いろいろな風味を付加していって大衆の口に合うようにする人が要ると言うことだと思います。


非僧非俗は、私は中道すなわち八正道ではなく、たんに中途半端ないいとこ取りだと思っています。
もともと、浄土門は、出家優先の道ではなく、在家中心の教えでした。
出家で念仏するより在家で念仏する方が優れているという考えもあるくらいです。

そうであれば、還俗させられたのですから、俗として、殺生し女犯しても阿弥陀仏に救われるということを示せばよかったと思います。
漁師でもして、殺生しながらでも救いの道を探求していけばよかったのではないでしょうか。


>私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。


それはちょっとあばたもえくぼっぽい気がします。。
親鸞が、息子を京に戻してその事情を聞いた上、とことん話したのであればそうかもしれませんが
関東の信者たちの訴えによって、会うこともなく義絶状を送っています。
やはり、教団の混乱を避けたいのが一番の動機だと思います。


 

  [No.17392] 法然親鸞 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/24(Fri) 14:29:12

親鸞は、還俗させられても、庶民にはならず僧であることを選択しました。
ただ、僧でありながら堂々と妻帯する勇気もなかったので僧とは名乗らず非僧非俗と言って
しかし僧の恰好をして信者に食わしてもらえる特権階級に居続けたと考えます。

親鸞を見て最も残念なのは
法然が開いた易行道を難行中の難行にしてしまったことです。

法然は、命を懸けて徹底的に無知な衆生が救われる道を探しました。
そして善導の文に出会って、口称念仏にその道を見出しました。

念仏には、上中下があり、上の念仏は真理そのものを観想すること。中の念仏は仏の姿をありありと観じること。でした。

しかし、そのような観念的なことは無知な衆生には無理な道でした。

そこで法然は観念的に真理を観想することができない衆生のために、口で声を出して南無阿弥陀仏と唱えることだけでいい、
むしろ末法においてはそれだけが正行なのだと主張したのです。
とにかく四六時中唱えられる時間はすべて念仏を唱えること、としました。

声に出して念仏を唱えることは誰にでもできるので、それは瞬く間に民衆に広まっていきました。

ところが、親鸞は、そのような法然の苦労を全部駄目にしてしまった。
はからいを捨てて絶対他力に任せる、その信心こそが大事で、南無阿弥陀仏は救われていることへの感謝だと説きました。

インテリからすると、念仏の数にこだわる法然より、信心という普遍的なものを掲げる親鸞は、徹底した思想家だと受けがいいです。

しかし、口称念仏という誰でもできる道を、絶対他力への信心という非常に難しいものに変えてしまったのです。

親鸞の頭にあるのは自分の救いだけです。
法然の無知な衆生を救いたいという想いを壊してしまったと考えています。


 

  [No.17394] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/24(Fri) 17:39:19

ショ-シャンクさま

> 親鸞が大変お好きなのですね。
> 嵐の大ファンに嵐の悪口を述べ立てるようで、居心地の悪さを感じますが(笑)

あらま(笑)、それはどうもすみません。
実は、道元はもっと好きです。親鸞が嵐なら、道元は何かな(笑)

> 日本のインテリはこぞって親鸞が好きですね。太宰治が好きな心理と似通っているのかもしれません。
> 『私はだめな人間です。どうしようもない人間です。』と告白する人に共感を覚えるのでしょうか。

告白するだけじゃなくて、ほんとにダメダメっぽいですから。

> ただ、日本で一番信者が多いのは、すべて蓮如のおかげでしょう。それまでは零細教団だったと思います。
> 曹洞宗も大きくなったのは、瑩山のおかげですね。
> ストレ-トのウィスキ-は飲める人は少なく、大量の水で割って飲みやすいようにしたところが信者が増えた理由でしょう。
> 大量の水と、いろいろな風味を付加していって大衆の口に合うようにする人が要ると言うことだと思います。

もとのウィスキ-がおいしくないと、やっぱり大衆受けはしませんよね。
蓮如、瑩山をもつだけの力を具えていたということも考えられます。
まあ、このあたりはいろいろな考え方があるかと思っていますので。
嵐の悪口言っても、ぜんぜん大丈夫です(笑)

> 非僧非俗は、私は中道すなわち八正道ではなく、たんに中途半端ないいとこ取りだと思っています。

そういう風に見えるところも、中道の特徴だと思っています。
おっしゃるように、世俗的には、実際そうなる場合もあるかと思います。
中道には、二種類あります。いいとこ取りみたいに見えるのと、何を言っているのか分からないのと、二種類です。(すごい言い方になってしまっていますが)


> もともと、浄土門は、出家優先の道ではなく、在家中心の教えでした。
> 出家で念仏するより在家で念仏する方が優れているという考えもあるくらいです。

なるほど、おっしゃる意味はわかります。迷いがないからかもしれません。


> そうであれば、還俗させられたのですから、俗として、殺生し女犯しても阿弥陀仏に救われるということを示せばよかったと思います。
> 漁師でもして、殺生しながらでも救いの道を探求していけばよかったのではないでしょうか。

漁師の才能はないと思いますね。山で暮らしてきた人ですし。
ショ-シャンクさまがおっしゃるようには、親鸞はできないでしょう。それができたら、もっと早く悟るか、あるいは世俗の道を上手に生きていったのではないかと思います。

「還俗させられたんだから、世俗で生きてやるぅぅぅ~」、ということも出来ないからこそ、かれは、親鸞やってますから。
なんて不器用なんだ、と思いますが、こんなダメな親鸞だからこそ阿弥陀さまは救ってくださる、っていう、この理屈が、いいです。

私は、親鸞が好きなのか、親鸞の考える理屈が好きなのか、よく分かりません。
書いてあることに無理もなく無駄もなくムラもない、不器用に縁起だけでいく、縁起の論理を駆使して語るところが、圧倒的だと思います。


> >私は、だからこそ、親鸞は息子さんをほんとに心配していたんだなあと思うわけなのです。
>
>
> それはちょっとあばたもえくぼっぽい気がします。。

そうでしょうか。。

> 親鸞が、息子を京に戻してその事情を聞いた上、とことん話したのであればそうかもしれませんが
> 関東の信者たちの訴えによって、会うこともなく義絶状を送っています。
> やはり、教団の混乱を避けたいのが一番の動機だと思います。

親がいるからコイツはダメになる、って瞬時に思ったのじゃないかと思っています。

阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。

誰でも、自分は、それなりだと思っています。どんなに口では卑下していても、そこそこの人物だと誰もが思うのです。比べて、上中下をつけるのが、人間です。
いくらブッダが戒めても、そこはなかなか直らないのです。

そういう意味では、親鸞のもとに集まって来た人たちも同じだったかもしれません。
だからこそ、ショ-シャンクさまも、難行中の難行になってしまったとおっしゃるのではないでしょうか。

龍樹が、難行と易行に分けたとき、教えの難しさを身にしみて実感していたと思います。
衆生たちが法を手にして混乱しまくるのを見ていたことでしょう。

ブッダ智慧を駆使して組み立てた修行のやり方は、ブッダを見ることによっても完成するとも言えます。
身も蓋もなく言ってしまえば、無我を得る手段としては、仏に祈るのはすごく良い方法です。
ほんとに打算的な言い方になってしまいますが、それこそ方便であるとも言えます。
ただし、ほんとに祈らなければなりません。(方便だと思っている段階では難しいでしょう)

「私を見るものは法を見る、法を見るものは私を見る」と、ブッダが述べたのは、法だけでいけないものは、私を見なさい、ということとも取れます。

ですから、声聞乗では、ただ自分で修行するだけではありません。
比丘たちは三宝に帰依します。

龍樹も、ゴ-タマに帰依しています。等覚者に帰依しています。
だからこそ、阿弥陀仏の念仏を易行として勧めていると思います。

ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。

わたしは、実は、そうでもないと思っています。
『スッタニパ-タ』「犀経」の中に、たった一つ、こういう詩があるのをご存じないですか。

45 もし、智慧ある者で、共に行を行い、善く住する、賢明なる者を友としたならば、あらゆる危難に打ち勝って、心に満足をもって、気づきをそなえて、かれとともに行じなさい。

また、ア-ナンダがブッダに「善い友も持つことは、道の半ばに到達したに等しいのではありませんか」とたずねると、「いや、そうではない、道の全部だよ」と答えたと、経典にあります。
ブッダがいた頃は、阿羅漢はたくさん生まれました。善き友ブッダを得て、比丘たちは、覚っていったのだと思います。

阿弥陀仏を善友とする者たちも、また、そういう道を行くのだと思っています。

「或るは勤行精進するあり。或るは信方便を以て易行にして疾く阿惟越致に至る者あり」と『十住毘婆沙論』にも、菩薩たちの行く道を説いています。


 

  [No.17396] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 03:11:02

石飛先生、こんばんは。

> 漁師の才能はないと思いますね。山で暮らしてきた人ですし。
ショ-シャンクさまがおっしゃるようには、親鸞はできないでしょう。それができたら、もっと早く悟るか、あるいは世俗の道を上手に生きていったのではないかと思います。
> 「還俗させられたんだから、世俗で生きてやるぅぅぅ~」、ということも出来ないからこそ、かれは、親鸞やってますから。
> なんて不器用なんだ、と思いますが、こんなダメな親鸞だからこそ阿弥陀さまは救ってくださる、っていう、この理屈が、いいです。
> 私は、親鸞が好きなのか、親鸞の考える理屈が好きなのか、よく分かりません。
> 書いてあることに無理もなく無駄もなくムラもない、不器用に縁起だけでいく、縁起の論理を駆使して語るところが、圧倒的だと思います。


なるほど。そう言われると嵐のファンになってしまいそうになります(笑)
確かに不器用な気もしますが、太宰治が派手に鉄棒を失敗したようなところはないでしょうか。
妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。
そのような臆病さも不器用、人間の弱さと見て、親鸞らしいと言われればそうも言えますが。
少なくとも、後世の、『親鸞は僧でありながら堂々と肉食妻帯した』というイメ-ジは全く違う気がしてます。
そのような弱さやずるさもえくぼになってしまうキャラではありますね。


> 阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。

それは本当にそうだと思います。
ですから、法然は、空念仏でもいいから声に出して念仏を唱えることを教えました。
本気の精神をまず求めてしまうと、ほとんどの人はできません。
声に出して唱えること、それが阿弥陀仏を意識することなんだと法然は言っていると思います。
それは、前提として悟りの精神を要求しないので易行道です。
親鸞は、計らいを捨てて絶対他力を信じ念仏は救われていることへの感謝だと言いました。
教理的には法然より徹底していて、インテリは大好きですが、
現実問題としては、親鸞の教えは難行中の難行です。
自らの心の醜さを徹底洞察し続けた親鸞だからできた道です。
この人は、自分の救いのみを求め続けた気がします。
法然は自らは救われていて、衆生を救う道を命がけで求めたと思います。


> 誰でも、自分は、それなりだと思っています。どんなに口では卑下していても、そこそこの人物だと誰もが思うのです。比べて、上中下をつけるのが、人間です。
> いくらブッダが戒めても、そこはなかなか直らないのです。
> そういう意味では、親鸞のもとに集まって来た人たちも同じだったかもしれません。
> だからこそ、ショ-シャンクさまも、難行中の難行になってしまったとおっしゃるのではないでしょうか。
> 龍樹が、難行と易行に分けたとき、教えの難しさを身にしみて実感していたと思います。
> 衆生たちが法を手にして混乱しまくるのを見ていたことでしょう。
> 龍樹も、ゴ-タマに帰依しています。等覚者に帰依しています。
> だからこそ、阿弥陀仏の念仏を易行として勧めていると思います。


そう思いますし、法然は無智な衆生が観念的なことから入るのは無理だと知っていました。


ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。



大乗のような、というより、浄土門のような、ということです。
想像上の神仏を信仰するという道は説かなかったと思います。
他力をたのむということはなかったように思います。


> わたしは、実は、そうでもないと思っています。
> 『スッタニパ-タ』「犀経」の中に、たった一つ、こういう詩があるのをご存じないですか。
> 45 もし、智慧ある者で、共に行を行い、善く住する、賢明なる者を友としたならば、あらゆる危難に打ち勝って、心に満足をもって、気づきをそなえて、かれとともに行じなさい。
> また、ア-ナンダがブッダに「善い友も持つことは、道の半ばに到達したに等しいのではありませんか」とたずねると、「いや、そうではない、道の全部だよ」と答えたと、経典にあります。
> ブッダがいた頃は、阿羅漢はたくさん生まれました。善き友ブッダを得て、比丘たちは、覚っていったのだと思います。
> 阿弥陀仏を善友とする者たちも、また、そういう道を行くのだと思っています。
> 「或るは勤行精進するあり。或るは信方便を以て易行にして疾く阿惟越致に至る者あり」と『十住毘婆沙論』にも、菩薩たちの行く道を説いています。



確かに、賢明なる友と修行せよ、ということは頻繁に出てきますね。
一人で修行せよということも多いですが、あるときからよき修行仲間と修行することを推奨するようになります。
サンガの発展段階かも知れません。
ただ、修行仲間と修行にいそしむことと、自分以外の神仏(他力)を信仰したりたよることは違うのではないでしょうか。

浄土門阿弥陀仏を修行仲間と捉えているわけではなく
特に親鸞は、自分をゼロ、阿弥陀仏を100%とする信仰の道、絶対他力の道です。
自らを島とする仏陀の教えとは異質な気がしています。


 

  [No.17402] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/25(Sat) 08:23:45

ショ-シャンクさま おはようございます。

> なるほど。そう言われると嵐のファンになってしまいそうになります(笑)
> 確かに不器用な気もしますが、太宰治が派手に鉄棒を失敗したようなところはないでしょうか。



喩えが非凡すぎる(笑)
太宰治に鉄棒させてみよう、っと。



> 妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。



そんなことを考えていたとは?! 夢にも思いつきませんでした。
京都のお坊さんたちも、なんだのかんだの、ブツブツ。。今さら、ブツブツ。。



> そのような臆病さも不器用、人間の弱さと見て、親鸞らしいと言われればそうも言えますが。
> 少なくとも、後世の、『親鸞は僧でありながら堂々と肉食妻帯した』というイメ-ジは全く違う気がしてます。
> そのような弱さやずるさもえくぼになってしまうキャラではありますね。



親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。
弱さやずるさは、ほんとはどこにあるのだろう、って、ちょっと思います。

これは、私の感じていることなのですが、日本では、伝統的には、「沙弥」や「菩薩」の生き方を自分たちにあったものとして取り入れてきているのではないだろうか、ということを思います。比丘の伝統よりも好んできたのではないでしょうか。

妻帯していてもしていなくても、立派なお坊さんは「立派だ」と思いますし、女性を識別区別しない態度は、平等の教えに適うと思います。

二人のお坊さんが川を渡ろうとしていたら、女の人が川を渡れず困っていた。その女の人は、二人に「私を渡してもらえないか」と頼んだが、若いお坊さんは「女性に触れてはならない」という戒律を思い出してためらっていた。すると、もう一人の年配のお坊さんが、ひょいと女性を担いで川を渡ってしまった。女性は礼を言って立ち去った。が、若いお坊さんは、何か釈然としない。しばらく二人で歩いていたが、とうとう我慢できなくなって「さっき女性を担いだのは…」とか言いかけると、年配のお坊さんが「おまえはいつまで女を担いでいるのだ」と言ったとか。何で読んだのか忘れました。

 


> > 阿弥陀仏にすがると言うけれど、本気ですがろうと思うのは、現実には難しいのです。
>
> それは本当にそうだと思います。
> ですから、法然は、空念仏でもいいから声に出して念仏を唱えることを教えました。
> 本気の精神をまず求めてしまうと、ほとんどの人はできません。
> 声に出して唱えること、それが阿弥陀仏を意識することなんだと法然は言っていると思います。
> それは、前提として悟りの精神を要求しないので易行道です。



本当に信心深い人は、何か感動すると「なんまいだぶ、なんまいだぶ」と自然に出てきますね。浄土宗でも浄土真宗でも同じかもしれませんが、「ありがたい」と思うと自動的に口をついて出てしまうのでしょう。



> 親鸞は、計らいを捨てて絶対他力を信じ念仏は救われていることへの感謝だと言いました。

 


頭ごなしにそうは言っていないのではないでしょうか。

自力念仏しても自然と真如の門に入るとも、説いています。

定散自力の称名は
果遂のちかひに帰してこそ
おしへざれども自然に
真如の門に転入する(「浄土和讃」66、岩波文庫)

親鸞の教えを「空」の観点でとらえると、そういう感じがするかもしれません。
だから、縁起で進むのかもしれないですね。



> 自らの心の醜さを徹底洞察し続けた親鸞だからできた道です。
> この人は、自分の救いのみを求め続けた気がします。
> 法然は自らは救われていて、衆生を救う道を命がけで求めたと思います。



そのように見えるかもしれませんが、法然の念仏も親鸞の念仏も同じ念仏ですから、法然自身も念仏によって行こうとしたのではないでしょうか。
>
> > ショ-シャンクさまは、ブッダは比丘たちに自力で行く道を説いて、大乗のような他力の道は説かなかった、ということをおっしゃっていませんでしたか。


>
> 大乗のような、というより、浄土門のような、ということです。

> 想像上の神仏を信仰するという道は説かなかったと思います。
> 他力をたのむということはなかったように思います。
>

> ただ、修行仲間と修行にいそしむことと、自分以外の神仏(他力)を信仰したりたよることは違うのではないでしょうか。



うん、そう思います。
ですから、親鸞は、神仏をたんに信仰する道を説いていないと思っています。

真宗の篤信者で妙好人といわれる源左(げんざ)は、阿弥陀仏を「親さん」と呼んでいます。親さんのおすそ分けをして、みんなに話すのだから、源左が話すと思ってくださるなよ、などと言ってます。

念仏を唱えると、ちゃんと仏教になるのです。つまり、ごく自然とブッダの教えに従ってしまうのです。だから、すごいと思います。



> 浄土門阿弥陀仏を修行仲間と捉えているわけではなく
> 特に親鸞は、自分をゼロ、阿弥陀仏を100%とする信仰の道、絶対他力の道です。
> 自らを島とする仏陀の教えとは異質な気がしています。



絶対他力」というなら「回向」という言葉もほしいです。「本願」という言葉もほしいです。どうして阿弥陀仏になったのか、というところまでさかのぼるからです。
「本願」を知るから、仏道を知る、仏道を知るから、自力・他力を知る、自力・他力を知るから勤行精進と回向を知る、回向(と勤行精進)を知るから、発心する、発心するから念仏する。

本願を知って、法蔵菩薩阿弥陀仏になってることをしるならば、「念仏すれば、往生は定まる」と確信する(かもしれない)。不退の位に行ったと確信するその時、浄土門は大きな道として開かれる。
阿弥陀仏に並ぶ仏への道が、自分にもある。

往生するのは「自分」です。いつでも「島」はあります。極楽には、他が行くのではなく、自分が行くから念仏にも力が入る。

阿弥陀仏は、自分の善き友として、極楽世界で待っていてくれます。そこに生まれるのです。


 

  [No.17404] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/25(Sat) 14:43:36

石飛先生、こんにちは。

> > 妻の恵信尼を京に連れて戻らなかったのは、京で堂々と妻帯しては比叡山から訴えられるというような保身がなかったでしょうか。
>
> そんなことを考えていたとは?! 夢にも思いつきませんでした。
> 京都のお坊さんたちも、なんだのかんだの、ブツブツ。。今さら、ブツブツ。。



親鸞が妻の恵信尼を京に連れて帰らなかったのは何故か、は歴史上の謎とされています。
恵信尼が実家の資産の管理をしなければいけないので越後に帰ったという説もありますが
恵信尼消息ではかなり経済的に困窮していますので、どう考えても一緒に住んだ方がいいのです。
偉人バイアス、宗祖バイアスがかかるとどうしても解けない謎ですが
私は何のバイアスも持っていないですから、京で妻帯することによる迫害を避けたとしか考えられません。
他の合理的な理由が何か考えられるでしょうか。



> 親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。



かろうじて残っていた形も崩壊してしまったなと思っています。
瀬戸内寂聴が言っていましたが、中国かどこかでアジアの僧侶が集まった会議があったそうです。
そこで日本の若い坊さんが自己紹介で『私の父も僧侶です』と言ったところ、
誰もその意味が分からなかったそうです。寂聴は恥ずかしかったと書いています。

日本は仏教伝来の時から、僧侶が公務員だったりして、出家というより文化人待遇で
サンガの体をなしていないまま来ました。
当然、戒律を裏で破る人も多かったですね。
しかし、公然と破るのとは意味合いが違います。

自動車の制限速度より速いスピ-ドを出したことのある人は多くいます。
だからと言って、制限速度をなくしてしまったら何でもありになってしまいます。

キリスト教の神父が独身であることとは意味が違います。
イエス・キリストは、結婚を禁じませんでした。
しかし、仏陀は、比丘の性交を禁じました。
出家したために子孫が絶えることを嘆いて母親が泣いて頼んでために(元)妻と性交した比丘を
仏陀は追い出しました。
親鸞もどうしても女犯したいのであれば、在家で職をもって生活すればよかったと思います。
校則で私服が禁じられている高校があってどうしてもその校則を守れないとわかっているのであれば
その高校に入らなければいいだけです。



> 二人のお坊さんが川を渡ろうとしていたら、女の人が川を渡れず困っていた。
その女の人は、二人に「私を渡してもらえないか」と頼んだが、
若いお坊さんは「女性に触れてはならない」という戒律を思い出してためらっていた。
すると、もう一人の年配のお坊さんが、ひょいと女性を担いで川を渡ってしまった。
女性は礼を言って立ち去った。が、若いお坊さんは、何か釈然としない。
しばらく二人で歩いていたが、とうとう我慢できなくなって「さっき女性を担いだのは…」とか言いかけると、
年配のお坊さんが「おまえはいつまで女を担いでいるのだ」と言ったとか。何で読んだのか忘れました。



禅でよく引用されるエピソ-ドですね。
これは私もこの通りだと思います。
戒律は動機を見るべきで、仏陀も、性交したから全員破門という形のことではなく、
レイプされたりした人は自らの意志でないので破門させられたりはしなかったと思います。
親が子孫を望んで仕方なく元の妻と性交した比丘は、快楽のためという動機ではなかったですが破門しました。
出家とはこの世の縁、鎖を全部放棄するということだからだと思います。

実際、親鸞が妻帯して子孫を残したために、親鸞の子孫というだけで特権階級になっています。
骨肉相争う事態にもなってしまいました。
修行ができた弟子に法を継がせるという禅の歴史とは全く違うことになってしまいました。



> 自力念仏しても自然と真如の門に入るとも、説いています。
>
> 定散自力の称名は
> 果遂のちかひに帰してこそ
> おしへざれども自然に
> 真如の門に転入する(「浄土和讃」66、岩波文庫)


確かにそうですね。
ただ、その後、

安楽浄土をねがひつつ
他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて
辺地・懈慢にとまるなり

とあって、絶対他力への信が前提になっているようには見えます。

法然は念仏を筏と考えていたところがあり、どんな無知な人でも行ける易行道を切り開いたと思いますが
親鸞は非常に道を高度で難しいものにしてしまった感はあります
親鸞の本質は天台本覚思想ではないかという気もします。


 

  [No.17416] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/26(Sun) 08:14:14

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 親鸞が妻の恵信尼を京に連れて帰らなかったのは何故か、は歴史上の謎とされています。
> 恵信尼が実家の資産の管理をしなければいけないので越後に帰ったという説もありますが
> 恵信尼消息ではかなり経済的に困窮していますので、どう考えても一緒に住んだ方がいいのです。
> 偉人バイアス、宗祖バイアスがかかるとどうしても解けない謎ですが
> 私は何のバイアスも持っていないですから、京で妻帯することによる迫害を避けたとしか考えられません。
> 他の合理的な理由が何か考えられるでしょうか。


このあたり、私は何も考えたことがないので、何も思い浮かびません。
ただ、「~しなかった」理由というのは、答を出すのはむずかしいかと思います。
「~した」のはなぜか、ということは考えやすいかもしれませんが、しなかったことについては、「もう、一緒にいなくてもいいかな」と思ったのだろう、くらいしか思いつきません。
でも、そう言われてみますと、お互い縛られない自由人だなあという気もしてきます。

> > 親鸞以後、あらゆる宗派が妻帯してしまう点について、どうお感じになりますか。
>
> かろうじて残っていた形も崩壊してしまったなと思っています。
> 瀬戸内寂聴が言っていましたが、中国かどこかでアジアの僧侶が集まった会議があったそうです。
> そこで日本の若い坊さんが自己紹介で『私の父も僧侶です』と言ったところ、
> 誰もその意味が分からなかったそうです。寂聴は恥ずかしかったと書いています。

外国のお坊さんは、「出家する前に子どもが生まれたのかな」とか思ったかもしれませんね。日本の事情を知らなくても、話のつじつまは合っているかもしれません。
「お父さんは出家した。僕も出家した」と考えて、「ああ、そうですか」というところかと。アジア圏の僧侶の人たちも、個人的な事情だと思って気にしないかも、とも思いますが。

ただ、詳しく説明して、立場上出家者として生きながら、家(妻子)がある、というのは、理解されがたいかもしれないですね。家から出ている(出家な)のに、家がある(在家)というところです。ただ、これも大事なのは、心だと思いますが。
「日本の伝統です」といえば、「ああ、そうですか」と言い、それぞれ、「これはサンガではないな」と思う人もいるし、「小戒はやめてもいい、とブッダが遺言したから、それを取り入れたかな」と思う人もいるかもしれません。あんまりいないかもしれないけど(笑)。

私は、寂聴さんが「恥ずかしく思った」という方が、ちょっと引っかかります。身内意識に、在家感覚を残しているような感じが漂います。

> 日本は仏教伝来の時から、僧侶が公務員だったりして、出家というより文化人待遇で
> サンガの体をなしていないまま来ました。

日本の場合、仏教伝来の事情により、サンガが朝廷から独立していないのは、痛かったですね。たしかに、それは言えるかなと思います。

> 当然、戒律を裏で破る人も多かったですね。
> しかし、公然と破るのとは意味合いが違います。

> 自動車の制限速度より速いスピ-ドを出したことのある人は多くいます。
> だからと言って、制限速度をなくしてしまったら何でもありになってしまいます。

私は、「公然と破るのとは違う」という意味を逆に考えてしまいました(笑)。
制限速度を設けるのは、世俗的な意味合いによります。みんな急ぐとき、多少制限速度を超えるかもしれませんが、それを、世間的な規準ととらえているからでしょう。

出家の場合は、世俗と価値が異なります。出家は出家で独立していることが必要だろうと思います。

戒律は、その条文を、パ-ティモッカと呼んでいますが、無理矢理訳すと「別解脱」ともいわれます。戒律も、解脱のためにある、ということを考えるなら、戒律至上主義というのも「こだわり(執着)」ととらえることもできます。戒律守ってさえいれば解脱できるか、となりますと、そういう保証はありません。

私自身は、出家にもよらず在家にもよらなかった親鸞は、新しい道を築いたと思います。
その生き方は、在家の価値でも出家の戒でも量ることができないところを示しているような気がします。ただ、親鸞以降の宗派は、おっしゃるように、また別に問題を抱えているように見えますね。

> キリスト教の神父が独身であることとは意味が違います。
> イエス・キリストは、結婚を禁じませんでした。

禁欲的な生活で知られるエッセネ派について、「一人も生まれないのに一種族を永久に保つ」と『プリニウスの博物誌』には驚きをもって書かれているようです。外から絶えず補充されることにより、そういう生活スタイルを守りたい人々が集まって暮らしていたのですね。女性もいくらかはいて結婚した人もいたらしいですが、かなり長いことこの教団は続いたようです。これも、ある意味、仏教的に解釈すれば、中道の要素もあるのかもしれません。ちょっと思ったことですが。

> しかし、仏陀は、比丘の性交を禁じました。
> 出家したために子孫が絶えることを嘆いて母親が泣いて頼んでために(元)妻と性交した比丘を
> 仏陀は追い出しました。

サンガのきまりを破ったからですね。
ここもサンガに入るとき、言われていたことなのに、それを破ったことでサンガにはいられなくなりました。本人の心が問題だと思います。

> 親鸞もどうしても女犯したいのであれば、在家で職をもって生活すればよかったと思います。

親鸞は、結局、中道を行きました。どっちにも行けなかった、というのが本当かなと思います。
先ほどの親にしたがった比丘より、自己を洲としている点では仏法的には良いかもしれない。ブッダなら、何と言ったでしょうね。それじゃあ、還俗しなさい、と言ったでしょうか。出たり入ったりすることになりますかね。。それもねえ。

> 戒律は動機を見るべきで、仏陀も、性交したから全員破門という形のことではなく、
> レイプされたりした人は自らの意志でないので破門させられたりはしなかったと思います。
> 親が子孫を望んで仕方なく元の妻と性交した比丘は、快楽のためという動機ではなかったですが破門しました。
> 出家とはこの世の縁、鎖を全部放棄するということだからだと思います。

私は、ショ-シャンクさまと似ていますが少し違っていて、本人の心のあり方を問題にしたのではないかと思います。
親に言われたら従ってしまうのは、世俗に未練を残しているからで、そうであれば、出家の本懐を遂げられないだろうと見たのではないでしょうか。

> 実際、親鸞が妻帯して子孫を残したために、親鸞の子孫というだけで特権階級になっています。
> 骨肉相争う事態にもなってしまいました。
> 修行ができた弟子に法を継がせるという禅の歴史とは全く違うことになってしまいました。

ここは、また、別の問題ですね。苦しみが起こってきますよね。
>
> 安楽浄土をねがひつつ
> 他力の信をえぬひとは
> 仏智不思議をうたがひて
> 辺地・懈慢にとまるなり
>
> とあって、絶対他力への信が前提になっているようには見えます。

ここは、条件文になっていると思います。
「安楽浄土を願いながら、しかし、他力の信を得ないなら」
ということだと思います。

信を無条件に前提にはしていないと思います。
安楽浄土という仏国土を整えたのは法蔵菩薩なのです。しかも、仏国土の完成のために世自在王如来に、いろいろその特長を聞いて、最高のものを作っています。

ですから、そこに行きたいということは、作った人に対する信頼もあるでしょう、と言っていると思います。
「信」は無条件の信仰を指しているのではなく、因と縁によって成り立つ安楽浄土を信じられるのであれば、おのずとそれを作った人についての信頼にも通じていくだろうと述べているようにも、思います。

なるほど、「仏智不思議」とかあるからかな。
何にしても、ブッダの教えの展開であることを忘れなければ、込み入ってきたとしても、話についていけるのではないかと思います。

>
> 法然は念仏を筏と考えていたところがあり、どんな無知な人でも行ける易行道を切り開いたと思いますが
> 親鸞は非常に道を高度で難しいものにしてしまった感はあります
> 親鸞の本質は天台本覚思想ではないかという気もします。

親鸞は、易行道の論理を極めたと思います。それは、法蔵の説く48願の論理構造に帰着し、その構造は、ブッダが『大般涅槃経』の中で説いたものと等しいのです。


 

  [No.17417] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/26(Sun) 09:07:18

石飛先生、おはようございます。


> 親鸞は、易行道の論理を極めたと思います。


天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。
もともと悟っている、もともと救われている、
修行して悟るわけではなく、念仏して救われるわけではない
すでに救われているのが真理だ。

親鸞の教えは天台本覚思想のようにある意味究極です。
私は天台本覚思想に惹かれていたときがありました。

しかし、仏陀のいう『激流』の正体をありありと見た時に
天台本覚思想は全くの間違いだと悟りました。

天台本覚思想は恐るべき退廃をもたらせました。

親鸞の教えもそうです。
非僧非俗のいいとこ取りで
修行も全くせず、信者の布施で愛人を囲っている、
浄土真宗の坊さんの退廃を見ると、天台本覚思想と同じにおいがします。


 

  [No.17422] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/27(Mon) 06:23:46

ショ-シャンクさま こんばんは

と書き始めたのですが、途中で寝てしまい、おはようございます、になってしまいました。


> 天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。

似てないと思いますが、どんな風に同じなのでしょう。
正直に言うと、天台本覚思想は、巷で言われていることしか知りません。

> もともと悟っている、もともと救われている、
> 修行して悟るわけではなく、念仏して救われるわけではない
> すでに救われているのが真理だ。

親鸞の場合、縁起で語ります。
だから、念仏しないと救われないですよ、と。これは、はっきりしている。
念仏して救われるわけではない、ということは誰も言っていないと思います。

念仏しないでいるならば、阿弥陀仏には、救う手だてはないでしょう。

> 親鸞の教えは天台本覚思想のようにある意味究極です。

「ある意味究極」の意味が知りたい。

> 私は天台本覚思想に惹かれていたときがありました。

ふうむ、どうして惹かれたのですか。
どこが良かったのでしょうか。


>
> 天台本覚思想は恐るべき退廃をもたらせました。
>
> 親鸞の教えもそうです。
> 非僧非俗のいいとこ取りで
> 修行も全くせず、信者の布施で愛人を囲っている、
> 浄土真宗の坊さんの退廃を見ると、天台本覚思想と同じにおいがします。

お坊さんが退廃すると、教えも退廃していきそうですね。
どんなところにも、立派な人とそうでない人がいます。出家でも世俗でも、そして非僧非俗でも。

わたしは、浄土真宗の、ちょっとサラリ-マンみたいに見えるお坊さんがけっこう好きですよ。曹洞宗の、「ザ・お坊さん」というお坊さんも好きですが。他のお坊さんも、きっと同じだと思います。

非僧非俗で仏教になるのと、只管打坐で仏教になるのを、興味深く眺めています。


たえず勉強していないと、修行していないと、「仏教は腐りやすい」というのが、わたしの考えです。

常に精進しないと、すぐ腐っていきます。
浄土真宗だから、とか、そういう問題ではなく、どんな宗派でも、いつも刷新をはからないと、同じことだけをしているとたちまち腐臭が漂います。
変化の教えを持つだけあって、いつも変化していなければなりません。

親鸞の教えは、よく「絶対」他力と言われますが、「絶対」というのは安全地帯ではありません。一神教のように考えると、確実にコケます。(一神教の神様も、いつもはたらいていると言われてますから、そういう意味では「一神教のように」というのは、当たっていないかもしれないですが)

むしろ、安全地帯のないことが、「信」の支えになっています。

絶えず自分のダメさ加減を自覚し続けないと「信」すら起こらないようになっています。

だから、「しょっちゅう念仏しなくてもいいんだ。何回か言っただけでも阿弥陀さまは救ってくださる」って、口で言っても、頭で思っても、心配になって念仏するようになっています。念仏しないなら阿弥陀仏はやって来ません。理屈は、そこにしかないからです。

「信」というのは、世間一般で言うところの「信仰」だけではありません。人の言うことに聞く耳をもつという「信頼」とか「信用」とか「信心」とか、「信」のつくことばは何でも入っていると思います。

「この世は互いの信用で成りたっている」ということが言えるなら、そこには、仏教があります。阿弥陀仏の本願を、どう受けとめるかは、互いにどれだけ信頼し合えるかということだと思います。


 

  [No.17428] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 10:54:25

石飛先生、おはようございます。


> > 天台本覚思想が哲理を極めているのと同じですね。

> 似てないと思いますが、どんな風に同じなのでしょう。
> 正直に言うと、天台本覚思想は、巷で言われていることしか知りません。


もともと、仏教は、
煩悩の滅⇒涅槃
修行⇒悟り
因⇒果
です。
しかし、大乗仏教が起こり、その哲理は絶対一元論の天台本覚思想へと進化していきました。
世界の絶対肯定です。
この世界は仏のあらわれそのままであり排斥するものなどない、ということです。

天台本覚思想に至って、煩悩即菩提 が強調されました。
煩悩の絶対肯定です。
すべては仏のあらわれという絶対一元論は非常に魅力的です。
学生の時や定年後の、現実社会と対峙することがないときは、
そのような絶対一元の観念にふけることはできますし幸せなことだろうと思います。

ある意味究極とは、現実から遊離した観念のお遊びとしては絶対一元論は究極なのだと言うことです。

天台本覚思想によれば、すべては仏のあらわれ、すべてはもともとから悟っている、ということですから
そして煩悩も即菩提ですから、修行は必要ないということです。
煩悩を滅して菩提でもなく、修行をして涅槃でもないのです。

親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
すべての衆生はすでに救われているのです。
修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。

天台本覚思想そのままだと思います。

実際、天台本覚思想の日本仏教への影響力は甚大です。

道元も、『衆生本来仏。人は元々悟っているのになぜ修行しなければならないのか。』がどうしてもわからず必死に探求していきました。
その結論が、本証妙修でした。



> たえず勉強していないと、修行していないと、「仏教は腐りやすい」というのが、わたしの考えです。
> 常に精進しないと、すぐ腐っていきます。


その通りだと思います。
仏陀はずっと『怠るな』と言ってきました。
気を少し離すと激流に巻き込まれていくからです。

ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。


 

  [No.17430] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 11:16:10

> > ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。

> そのような 解釈は あなたの自力で、起こしていることではありませんか ?

> 他力に 拠りますか


他力などありません。自力だけです。
仏陀が他力を頼めといつ言いましたか?
典拠を示してから言ってください。


> あなたの意思で、あなたの解釈は、正しいことと 肯定されます


あなたこそ、あちらこちらで自分の説を断言してますね。
自分が正しいと思い込んでるからそうしているのですから、まず自分を見ましょうね。


> 恐るべき結果は、 あなたの享受する処にある

自分に言えばいいことです。


 

  [No.17432] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 12:41:35

> > 自分に言えばいいことです。
>
> いいこと を 自分にしていますか ?


オウム返しは止めましょう。
仏教は自分を見つめること。
他人がなしているかどうかをいちいち口出しすることなく
自分がなしているかどうかを自分でみつめるのが仏教です。


 

  [No.17434] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 13:08:30

> 自分を 見つめてごらんなさい


そのように他人に命令しているでしょ?
誰にでもレスしてはそのように口出しするのが仏教ではありません。


 

  [No.17436] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 14:13:41

他人の過失をみるなかれ。
他人のしたことと、しなかったことを見るな。
ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17438] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 16:43:42

他人のしたことと、しなかったことを見るな。


 

  [No.17440] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:08:40

ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17442] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:37:45

怒りと高慢とに支配されるな。
それらの根を掘りつくしておれ。


 

  [No.17444] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 17:48:25


他人の過失をみるなかれ。

他人のしたことと、しなかったことを見るな。

ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。


 

  [No.17447] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:12:13


こころを安定させよ。

うろついてはならない。


 

  [No.17448] Re: 「 絶対他力 」 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/27(Mon) 18:14:16


河底の浅い小川の水は音を立てて流れる。


 

  [No.17452] Re: 親鸞への疑問 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/28(Tue) 17:46:36

ショ-シャンクさま こんにちは。

遅くなってしまって、すみません。
書いて投稿したはずなのに、消えてしまいました。

> しかし、大乗仏教が起こり、その哲理は絶対一元論の天台本覚思想へと進化していきました。
> 世界の絶対肯定です。
> この世界は仏のあらわれそのままであり排斥するものなどない、ということです。

もし、本当に天台本覚思想がこうなら、つまり、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりであれば、これは進化ではなくて、仏教からの転落ですね。

本覚思想は、ちょっと分からないので、ひとまずパスしておきます。
>
親鸞の方でお話ししますね。

> 親鸞によれば、法蔵菩薩阿弥陀仏になったときに、
> 『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願が成就していて仏となったのですから
> すべての衆生はすでに救われているのです。

あ、なるほど、同じように考えたのですね。
ちょっと違うかなあ。

まず『すべての衆生が救われなければ仏とならない』という本願にも、
ちょっと文句を言いたくなりますが、まあ、認めることにしましょう、太っ腹です、わたし(笑)

で、仏となりました。阿弥陀仏の誕生です。

ですが、

> すべての衆生はすでに救われているのです。

というのは、どこでですか?
娑婆の世界じゃ、救われていません。
極楽世界では、救われているのかもしれませんが、私たちには、即座に「ああ、そうなんだ」と言える程、たしかとは言えないでしょう。

「本願は成就しているから、衆生はすでに救われている」というのは、一つの論理ですが、
これを語るとき、親鸞は、縁起によって語ると言いました。

決して空は使わないと言いましたよね。

> 修行をして救われるわけではなく、善行をして救われるわけでもなく
> 念仏をしたから救われるのでもなく、何をしなくてもすでに救われているそのことへの感謝としての念仏だとしました。

「空」で行けば、これも言えるかもしれません。
結果を先に持ってきて、「救われているのなら、念仏は感謝の意味しかないだろう」というのは親鸞の説く説き方ではありません。

「後のものを先に持ってくる」と言う顛倒が起こっています。

かれは、そうは言わなかった。

そもそも、阿弥陀仏が本願成就して悟っているから、衆生は救われているはず、と聞いて、すんなり信じる人が、どこにいるでしょうか。

迷いにある凡夫が、迷いなく信ずるとは思えません。むしろ疑うでしょう。

当然、『無量寿経』などチェックします。48願一つずつ読んで、ほんとか嘘か調べるでしょう。
人に聞いたりもする、当然、中には「すでに救われてるのなら何をしてもいいんだ」などと言ってむちゃくちゃやったりする人も出てくる、口先で「南無阿弥陀仏」を言う人も出てくる。
まあ、いろんな人が出てきます。

「すでに救われている」というのは、単なる理論ではありません。主張ではありません。
「縁起」によって探し求めていく目標のようなものです。

だから、自分の中で起こる心の変化を見つめて、経典読んだり、人から話を聞いたり、法話に参加したりするのです。信じるまでがめちゃくちゃ時間がかかると思います。

それが、いわば仏道になっているのだと思います。
進むのは、皆、縁起によるのみです。空を使わないのは、一足飛びに結論に飛びつかないようにするためでしょう。

結論に飛びついてしまうと、今おっしゃるような「救われているんだから、感謝して念仏しろ」という押しつけの見解になってしまい、そこにこだわる怪しい宗教みたいになってきます。それでは、仏教ではありません。

いろいろ無茶やるのが凡夫なんだからと、自分でも凡夫らしく、迷い迷い進む道を行くのです。そうでないと納得できないからだと思います。

だから、ほんとは入り口のはずの「信」にたどり着いたら、もうへとへとでゴ-ルになっちゃった、というのが親鸞らしいと思います。信から入って智慧に行くのが大乗なのに、何と、信に入るだけでもふうふう言うのが親鸞の道です。

だから、愚禿親鸞なのです。だてに「愚か」をやってるわけではありません。

賢い人たちは、決して行けない道ですよ。そして、賢いと自認する人たちに「愚か」をやっても道ができることを示しているので、インテリが引きつけられるのかもしれません。

「絶対」他力というのは、阿弥陀仏を信ずるところから出てくる教えではなくて、どんなに疑っても突き放しても離れようとしても、阿弥陀仏は救ってくれるのだと実感してしまうところに、教えの本筋があるように思います。

だから仏教ですね。

>
> ゆえに、自らの意思や自力を否定していくことは恐るべき退廃を招いてしまうのです。

誤解を恐れずに言うなら、自らの意思や自力を否定していくことは、ブッダの教えならばないと思います。自己を洲とせよ、というのが教えでもあります。

「自らの意思」「自力」をどこで使うか、ということだけのような気がします。

また、逆に聖道門に行った人たちが、自力だけしか使わないかと言うと、そうではない。
道元は、縁起も用いるし空も用います。「万法がすすんで自己を証するのが悟りだ」というとき、自力は押さえられています。「空」は自力を押さえるために使われるような感じがあります。

悟りの正体は、そこにあるような気がしますね。自力だけでも他力だけでも行けない。


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