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  [No.18285] Re: 「十二因縁」後の「縁起」 投稿者:斑鳩の里  投稿日:2020/10/29(Thu) 12:36:17

ショ-シャンクさんのウェブサイト「仏教についてのひとりごと」に行ってきました。
彼も「縁起」や「十二因縁」についてはこだわりがあり、根本的な面での洞察がとても鋭い方です。
とても興味深いことが記載されているのでその箇所をここに転記します。(ショ-シャンクさん、了解を取らずごめんなさい)
「縁起」や「十二因縁」に関心がある方は是非とも読んでいただきたい。

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■縁起とは十二縁起のこと


『十二因縁は因・縁・果の時間的連鎖であり、「因縁」と「縁起」は分けるべきである。混同するから、表面的な言語に振り廻されて、群盲のカラ騒ぎとなる。十二縁起ではなく、〈十二因縁〉である。』

などと書いている人がいたので、それについてコメントします。



縁起の原語(パ-リ語)は、paticca-samppada です。

縁って生起すること、です。



因縁の原語(パ-リ語)は、hetu-paccaya です。

この場合、因(hetu)も縁(paccaya)も、同じ『原因』という意味です。



仏陀の死後、後世において、因を直接的な原因、縁を間接的な原因とする見解が生じました。あるいは、因を原因、縁を条件、という見解が生じてきましたが、そんなことは歴史上の仏陀は一切言っていません。

縁起の意味がどんどんねじ曲げられたため、仏陀の真意は失われていったのです。



相応部経典12.1 法説 において

仏陀は、『わたしはいま、なんじらに縁起を説こう』と言って

『比丘たちよ、縁起とは何であろうか。無明に縁りて行があり、行に縁りて識があり、識に縁りて名色があり、名色に縁りて六処があり・・・・・・有に縁りて生があり、生に縁りて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。これを縁によって生起するというのである。』と説いています。(増谷文雄訳)



およそ、十二縁起を説くときに、因縁などと言う言葉はどこにも使われていません。

仏陀が説く縁起とは十二縁起のことなのです。

五支縁起や十支縁起など略したものはありますが、縁起とはすべて苦の縁りて生起する原因のことです。



前にこう書きました。



仏陀が求めたのは、苦の消滅なのです。

苦の消滅のみを求め続けたのです。

そして、仏陀は苦の原因を探求していきました。

これが縁起です。

AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

Bをなくすのには、このようなAを見つけ、Aを滅することによってBを滅することができると考えたのです。

つまり、縁起の法とは

Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。

Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。

このようなAを発見するためのものでした。







AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

これが縁起の公式と呼ばれるものです。

これに当てはまらなくては縁起ではないのです。



つまり、縁とは間接的な原因などではなくまして条件などでは全くなく

それがないと生じない、それが生じれば生じる、まさに根本的な原因のことです。



つまり、後世の縁起、縁の解釈は全くの間違いなのです。

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  [No.18114] 「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/20(Tue) 11:05:50


こんな書き込みがあったので
ショ-シャンクさんの、「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました

[No.18113] 照らされて照る 投稿者:芳和 投稿日:2020/10/20(Tue) 09:59:55
ショ-シャンクさん、「仏教についてのひとりごと」というブログ覗かせていただきました。
お弟子さん増えたでしょうか。「仏教についてのひとりごと」には限られた人しか入れない狭き門
なので、こちらで失礼しますね。

********

芳和さんという人 は 心に 大きな問題を抱える人
であるから
注意を 大きく 構えて 対処しなければなりません

見ているモノ は、 見ている者 の 経験から 認識されます
( 自分が感じるように 物事は 起こっている )
( その感じ方 は 自己認識によって創り上げられている )
( その自己認識 は 自己認識によって のみ 認識できるモノ “ とは 限りません ” )
( と言って、 ブッダ に 一つのモノの見方 = “ 見解 ” が あるのではなく、
ブッダ を “ 認識する者の 自己見解 ” によって 知る というだけのことです )

ここは、 ややこしいから、 分からないかもしれません 、、、、



何れにしても、 一歩 引いたところから、 眺めている
ショ-シャンクさん に 出会ったのは、 愉快なことです

********

マニカナ では 出来てはいない “ やりとり ” が
深いところから 興味に 湧いてきました ( 興味 深く 読む )


https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2020/10/11/121222


くり (58.191.192.212) 2020-10-11 10:16:01
ショ-シャンクさま、高原さま 初めまして。
くりと申します。

ショ-シャンクさまのmanikanaでの石飛先生との真摯な議論をある種の感動を持って読ませていただいた、仏教は初心者の者です。
ショ-シャンクさまには改めてお礼申しあげます。



マニカナの石飛先生は龍樹の研究家です。
芳和さんという人も、龍樹がメインで唯識道元などに親しい感じです。
春間さんもまさしく興味分野は芳和さんと全く同じです。
ですから、芳和さんは、マニカナの分野とぴったり一致しているので、今になってはじめて参加するということに驚くばかりです。
私はヤフ-掲示板ではもともと株式板ばかりでしたし、東哲板(哲学板)にスレッドを立てたのはヤフ-掲示板が廃止される1年半くらい前でした。
ですから、東哲板のそれ以前については全く知りません。
しかし、芳和さんにしても春間さんにしてもかなり前からの東哲板住人だったでしょうから、芳和さんははるか昔にマニカナに参加しているとばかり思っていました。
春間さんの努力によってヤフ-掲示板の人が多くマニカナに参加しているようですから。
イストランさんとテルゼさんというのは名前はよく出ていましたが、その文章を見るのは初めてでした。
テルゼさんと石飛先生の間の『消える中洲』論争は非常に面白いですね。
自洲法洲の中洲は消えるものなのか、という論争です。
これは仏陀の法の根幹に関わるものなので、もっと掘り下げてよかったと思います。
テルゼという人は感情が先走りすぎて、せっかくのいい論点がただの口げんかのようになってしまっているのは残念です。

『仏教は無我』を標榜する人にとって『自洲法洲』の『自』は難問です。

~~~~~

芳和さん、投稿されたようですね。
石飛先生は認めることが上手な先生ですから、どんどん投稿されたらいいと思います。
石飛先生、春間さん、芳和さんは、龍樹メインで唯識道元などに興味範囲が広がっていますのでぴったり一致しています。
有益なものとなるでしょう。

わたしは、後世形成された仏教なるものの全否定から入って、仏陀より後世の宗祖たちから見た仏教知識を白紙にして仏陀の真意を探求しようとしてますので、龍樹の解釈から仏教を見ようとする立場とは正反対です。
わたしの場合どうしても正反対の見地から問題提起という形になってしまうので、本当に龍樹を掘り下げるには、龍樹信奉者が集まって掘り下げたほうがいいのは当然です。
賑わいが戻ればいいですね。



~~~~~

昨日、上の文章のように書いたのですが、今日(10月13日)のマニカナでの芳和さんの投稿を見てびっくりしました。
懺悔をして自我解体するとさかんに言っていたのに、自分の愛読する著者を少し批判された途端、人格が一変してますね。
⬇
※※※※※
★ [No.18025] Re:相対性理論と「 縁起 」投稿者:芳和 投稿日:2020/10/13(Tue) 12:59:38
――龍樹を踏み台にする石飛先生――

わたしは龍樹には興味がないので、どちらがどうという感想は全くありませんが、芳和さんはほんの2週間前にマナカナに初めて来たときには『自己の見解を主張し過ぎて、相手を追い詰めてしまう阿修羅性の心癖を懺悔する者として、自己の見解に固執しないという「空」を今更ながらに頷きます。』と殊勝なことを書いてたのに、結局、ヤフ-掲示板のときと何も変わってないですね。
自分の愛読している著者を少し批判されただけで、ここまで石飛先生を罵倒するとは。
いままで言い続けてきた『懺悔』や『自我の解体』や『無我』はどこに行ってしまったのでしょう。
口で言ってることと実際の振る舞いが違います。
まあ、『自分はいつも目覚めている』という人で、『犯罪者でも誰でも、すべては縁起や因果で、その人はそういう行動をするしかなかったので責めても仕方ない』をどこでも主張している人が、ブログで無駄話している人を見つけては血相変えて飛んでいって責めることを延々繰り返しているとか、口で言ってることと振る舞いが全く違う人はいますけど(笑) 殺人犯した人も縁起や因果でそういう行動をするしかないと思うのであれば、ネットで無駄話している人を自分のホ-ムペ-ジでもないのにいちいちチェックして血相変えて責めに行くのはどう見てもおかしいと、自分で気がつかないようです。そういう人は多いですね。
芳和さんももう少し大人になっているかと思いましたが。

石飛先生と春間さんと芳和さんという龍樹信奉者が三人集まったのですから仲良く深い話が展開すると期待していたのに、残念です。

芳和さんは、論争をしないようにというスッタニパ-タの言葉を引いていますが、そもそも龍樹その人が説一切有部との論争に明け暮れていた人ですからね。
それも非常に攻撃的です。
ですから、多くの人に恨まれていたみたいで、小乗の僧に向かって『お前はわたしが長生きするのはうれしくないだろう』と聞いて『その通りだ』という答えを受け取った後、部屋に閉じこもって死んでいきます。これで龍樹は自殺したと考える人もいるようです。

その人生を見てもなんとも破天荒で攻撃的です。
なぜ龍樹が大乗仏教の祖といわれるようになったかについてはわたしの考えがあるのですがここでは伏せます。

龍樹の本のレビュ-にこのようなことを書いていた人がいました。
◆決定的な問題点:
●悟りも救いも得られません。
●そもそも仏教は生きることが苦しみであるとしそこから救われる事が目的であり、空思想はその手段です。
●しかし本書で空思想を理解しても、何も楽になりません。救われません。他者を救えません。空思想と現実生活をつなぐものが何も示されていません。
●2章8節『否定の論理の実践』に期待しましたが、上記の疑問とは別の議論がされています。
それどころか徹底した否定の論理は『ニルヴァ-ナは存在しない』と結論します。
そして同節1項の最後の2行、中村先生の言葉で『各人の体験を通して理解するよりほかに仕方ない』と突き放されて終わりです。
●おそらく現存する龍樹の著作には、答えが無いのでしょう。
本書では竜樹の活動が論敵・説一切有部との論戦である事を示し、その議論に基づいて空思想が説明されています

さて、どうなのでしょうか。


********


 

  [No.18125] Re: 「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/20(Tue) 17:38:36

こんな書き込みがあったので
ショ-シャンクさんの、「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました

> 『仏教は無我』を標榜する人にとって『自洲法洲』の『自』は難問です。

『自』は難問 を 標榜する人にとって、

難問は 難問です


 

  [No.18119] ゼロが笑っている(ショ-シャンク様へ) 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 13:02:57



さて、大知者であるショ-シャンク様に凡庸な私はとてもついていけませんので、大智者のブログを
覗き見するのもこれでサヨナラといたしまして、公案に対する答えを申し述べ最後といたします。

>私が目指すのは、精神が無量であること、です。

そうですか。
私が目指すのは、精神がゼロであることです。

方向音痴かもしれませんが、ゼロが笑っていて、楽しいです。

ではでは、貴方は北に、私は南(皆身)に――ご精進をお祈りいたします。


 

  [No.18116] たとえ騙されてもという信頼関係 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 11:53:24

あらあら奥にこんなのがあったのですね。
一切智者であらされるショ-シャンクさんを阿修羅にしてしまったのは私ですので
ここだけお答えしておきますね。

>『こころは移ろい易きものである。 見落とすことなくその中に居よ』
>と訳すなんてありえないのです。
>上の単語のどこをどう訳すとそんなでたらめな訳になるのか、教えてください。

私はサンスクリット語を知りませんし、信頼する紀野一義先生の訳の文字を評価できません。
しかし、私は、紀野一義先生を心から信頼しているのですよ。

で、信用と信頼は違います。
信用は見返りを求めますが、信頼は「たとえ騙されても」です。
信頼関係ができたら大切にしたいですね。
親鸞の、「法然上人にすかされましても」です。
譬え地獄に落ちてもです。

さて、風の噂ではこんな訳もあるそうです。

――「諸行が過ぎ行く法となること」、そのことを怠ることなく達成せよ。――

この訳の、己事究明の「道標」になります。
公案をありがとうございました――南無ショ-シャンク観世音菩薩。

「仏教についてのひとりごと」――「只管レス」ですのでお返事はご自由に。

レス心は レスのみなり 更に我なし 相手なし

狡く見えますかね。ではでは(^^)


 

  [No.18113] 照らされて照る 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 09:59:55

ショ-シャンクさん、「仏教についてのひとりごと」というブログ覗かせていただきました。
お弟子さん増えたでしょうか。「仏教についてのひとりごと」には限られた人しか入れない狭き門
なので、こちらで失礼しますね。

ところで、親鸞批判をゴシップ的におまとめになっておりますが、縁起によって、生かされ生きている。
ということを知見すれば、すべては業縁によるものではないでしょうかね。
御子息の問題は、太古の昔からどこにもある「お家騒動」でしょう。リ-ダ-となる器ではない人間は
どこにでもいますよ。

例えば遺伝子を例にすれば、私たちは人類発生以来の遺伝子によって生かされて生きているのだから、
誰もが、多かれ少なかれ、お家騒動の種子を抱えているのではないのでしょうか。
縁によっては、お家騒動は起こってしまうし、「さるべき業縁もよおせば、いかなるふるまいもすべし」
親鸞が言うのは「同苦」の心という「弥陀の大悲」ですよ。「悲しいではないか」と共に泣く。
何かジ-ンときませんか。

さて、ショ-シャンクさんは、サンスクリット語の研究者でしょうか。「法洲自洲」のご自分の訳、
ごくろうさまです。

拝見させていただくところよると、激流の中に「強固な中州」をお築きになりたいわけですか。
ご苦労さまです。頑張ってください。

私には、その後の「法燈明・自燈明」という燈明の譬喩の方がスッキリします。
これも譬喩ですが、夜の闇の中で、太陽に照らされて、静かに光っている月のように、私たちも、
釈尊の悟った法に光に照らされて、輝き出す。

ピタゴラスが死んでも、ピタゴラスの定理は今の輝いている、というようなものですよ。
ですから、釈尊の悟った法を発見し、その光明に照らされて生きる。なんて素敵じゃないですか。

「照らされて、照る」――昔の人はいいこと言いました。


 

  [No.18100] ショ-シャンクさんも餓鬼 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/18(Sun) 15:12:32

ショ-シャンクさ~ん。お元気そうでなりよりで~す。(^^)
ヤフ-の掲示板が終わる頃に「仏教ついてのひとりごと」のトピ主さんですね。
ヤフ-掲示板にいらしたようなので“ショ-シャンクのブログ”で検索したらすぐ出てきました。
ブログをやれているようで、楽しんでください。

昔昔、自称内山興正老師の弟子なる方が、アメリカやタイで諸行してきたということで、大乗仏教
を低く見るような本を出版しまして、大乗批判の嵐が吹き荒れていたころ、「仏教についてのひとり
ごと」の大乗批判が東哲でも話題にました。そこで私は、大乗の守護神阿修羅に成り上がり、
短い間ではありましたが、「只管レス」をしていた時期がありましたね。

そうです。昔の名前は和弘でした。
ここの[過去トピ]で、イストランさんがテルゼさんへのレスのkazumaです。
和真だったのですが、私は「嫌われ者」だったのでロ-マ字表記ということでしょう。
イストランさんがあの世で笑っています。下記のレスです。

………
>このトピでは確か私はテルゼ氏から相当罵倒されていたんじゃないかな。そこへ突然知られざる氏
がテルゼ氏とkazuma氏を小馬鹿にしながら、私にすりよってきたのですよ。なんのことかわからん
ですよ。要するに、その必然性が見えない。
あるとすれば、やはりテルゼ氏とkazuma氏の接近にむかっときて、日頃のマッチョ主義と合わさり、
かつ、名誉毀損と侮辱の違いもわからないので、推測を事実にしてもいい、となっていった知られざる氏
のしょうもない性格ではないのかな。
………

歳を重ねますと、嫌なことは忘れるようですが、誰かさんが執拗に揚げ足を取って来たありましが、
私とテルゼさんが蜜月関係にあったころのお話です。その後テルゼさんの天敵になりましたが、
子供の頃のような懐かしいお話で、みんな可愛かったですね。
そういうことで、15年にも及ぶ長い歴史があるんですね。おかげ様で、蛇の皮のように我の皮がはがれ
ましたが……南無テレゼ観世音菩薩、南無イストラン観世音菩薩でございます。

ところで、蛇の皮が剥けてから歓喜の修行がはじまりますもので、ペンネ-ムも、観音信心らしく、
〈妙音林芳和〉と改めさせていただいています。

失礼なことを言って誠に申し訳ありませんが、蒼龍の窟に下って、嫌われ者になりたいと思います。
ズバリ申しまして、「ショ-シャンクさんも「餓鬼」です。
ただし、「も」すなわち、「貴方も私も」です。
貴方が阿修羅なら私も阿修羅――仏の智慧は自他平等ですよね。

諸行無常」の譬喩として六道輪廻が説かれますが、人の心は激流の如くに六道輪廻をしています。
六道輪廻の中で、私は阿修羅性を強く、ショ-シャンクさんは餓鬼性が強い。
それは、損するか得するかのビジネスや株の世界に身を挺しているからではないのでしょうか。
そんな世界におりますと、「もっと得よう」という貪欲に縛られてしまいます。

ショ-シャンクは、無我や無欲なんか仏教じゃない。
仏教の中には、自分の欲望を満足させるものがきっとあるに違いない、と思っていませんか。
涅槃に安住したい。というのも貪欲ですよ。

広大無辺な仏法は摑みどころがありせん。行っても行っても空亦空――“世俗”のご利益なし。
彼岸もまた空。

どうしましょうか。
それなら歩むだけ損だ!と止めますか?
それはそれでいいでしょう。
でもね、道が限りないからこそ、今を真剣に生きようとする人間がいます。
それは、高名や財産やらの利養を求めずに、「今を真剣に生きよ」ということです。
しかし、分かっているけれど止められないのが人間で、どうしたって利養を求める。
そんな危なっかしい自己だから、六道輪廻する自己を制御しなさいということです。

テルゼさんの「消える自州」問題で、石飛先生が「中州」と言っていたのはある意味正解です。
大河の中州で、激流をしっかり見つめて自己を制御する、と意味にもとれるからです。

の仏語には二義性があって、損も得も平等。出発も最終地点も平等。輪廻と涅槃も平等。今も永遠も平等。
……といのが仏の平等の智慧ですが――この輪廻の生死の渦中に涅槃があるということですよ。

損得勘定の世俗の「知恵」から、損得平等の仏の「智慧」への転換。そこから八正道がはじまります。
一切は思い通りにならないという「苦」を諦らかにして。
その苦の要素を「集め」諦らかにして。
集められた苦の「滅」を諦らかにして。
さて、苦が滅せられたからそこで終わりというわけじゃありません。
そこから「八正道」という正道が歩む決意をするのが悟りじゃありせんか。
苦・集・滅・道―――滅の後に道がある。永遠の道がある――菩薩道はブッダの教えを受け継いでいます。

さて、「ブッダ最後の言葉」ですね。
ショ-シャンクさんご自分の思いに合わない学者さんは信用しないようですが、私の初期仏教の師は
羽矢辰夫先生ですが、その著書『ゴ-タマ・ブッダ』にこうあります。

「修行僧たちよ。あなたたちよ、あなたたちに告げよう。もろもろの〔自己を〕形成〔する〕力は
無常である。怠ることなく修行を完成しなさい。(『ディ-ガ・ニカ-ヤ』2・156ペ-ジ)

と一般的な訳を示した上で、5ペ-ジにわたり緻密な解説がなされますが、最後がいいですね。

「ゴ-タマ・ブッダは最後の言葉を残して瞑想に入り、そのまま静かに亡くなったと言われます。
根底のところで転換がなされていたので、生きるも死ぬも同等に受け入れられ、静かに死を迎える
ことができたのです。」

心に染みますね。「生きるも死ぬも同等に受け入れられ」というところが核ではありませんか。
「生」と「死」を差別しない境涯となりなさいということです。
「スタ-ト」と「ゴ-ル」を差別しないということは、真実は始まりと終わりの途中の今にある。
要は、ゴ-ルに多大なご利益があると「お得な彼岸」を目指すと石に躓くということです。

サンスクリット語にご堪能のショ-シャンク大先生は、
>私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。
とありますが、「行じなさい」というのは、苦集滅道の「八正道」だと思いますので行じて下さい。
それは“煩悩断滅”の体験において、根底からの自己転換が成された後の「正しい道」です。
そこでは、生死平等、スタ-トとゴ-ル平等の智慧が現成する修行です。
明日の利養を貪らないで「今を真剣にいきよ」ということです。
言葉を変えれば、諸行無常の先端を生きよということでしょうか。
激流に逆らわず、流されず――大神通力ですね。

紀野一義先生は、今を真剣に生きられた方で、亡くなられた今も、仏と共に歓喜の内に修行中です。
それには、常に自分の生き方に対する反省が必要だといいますが、今になって心に染みます。

紀野一義『ええなあ!という人生、肯定、肯定、絶対肯定として生きる』102ペ-ジ。

痛みの自覚

人は
真実に生きようと思ったら
自分を痛切に
反省しなければならない
ひねもす 夜もすがら
自分の生き方が
真実であったか どうか
自分自身にと問わなければならない
このとき
自分がにせ者であり
罪深い者であることを
痛切に感ずるだろう
この「痛みに自覚」のない人は
ついに
仏をしることができない。

…………

「見落すことなく、その中に居よ」というはそういうことです。
懺悔と言いますが、日々チェックが必要のようですね。

私は、昨今やっと骨身に染みた大ばか者ですが……。


 

  [No.17968] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/07(Wed) 08:43:15

管理人エム 様 お忙しいでしょうけれど
我慢して これを読んで お返事ください


わたしの 投稿 が 多すぎる
それが(その記述の内容が) 他の人の投稿の邪魔をしていて
ここが、 過疎化していく

という意味の 指摘がありました

それに対しては わたしの 考えを 述べています
きちんと、 スレッド ? を 関連付けて 、、、、


> トピックを眺めて、何と言いますか、ぼうぜんとしていますが、混沌化はしていません。

呆然 としてはいるけれど、
混沌化せずに、 きちんと 体系づけることが出来ている
という意味ですか ?

> まだ、読んでいないところも多いので、ただトピックを眺めているだけです。

眺めているだけでは、 内容の 他 に対する関連性 は 読み取れません
( トピ が 立ちすぎている )

> こういう思考の方なんだなあと思っています。

思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?

人生に対して、 そのように 思考を 立てる やり方
( 関連付けて、 継続させない )

本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
一貫性 が 不足している
( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )


もし、 直ぐに分かるのであれば、 そこに 一貫性=関連性 が 見出されています
( やはり、 わたしの記述は 難解 ですか ? )
( それと、 ここでの 言いたい = 指摘したいこと とは 別の問題です )



これについて、 ショ-シャンクさん が 述べています

***********

[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

***********

これに関して わたしが
[No.17932] Re: 存在の解体と後始末 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/10/02(Fri) 11:42:47
と 置きます
重複しますが 内容を 再度 コピ- します
No.17923 以降に 続けておかない理由は 何でしょうか

ショ-シャンク さんが、
[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります

> 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> 人の話を聞かないのは相変わらずです。

見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです

敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます

しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
そこを、
ショ-シャンク さん は
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

“ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない

だけではなく

自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある

管理人エム 様 なら、
( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

( 出来ない かもしれない
けれど、 理解しなければ 何も始まらない )


始まらない と 言われようと、
新しい “ スレッド ” を
自らの意識に 立ち上げる 、、、、

***********

> 春間さまが取り上げた論点が論点となる、ということで、そんなに心配はしていませんが> いかがでしょうか。

わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

あなたが、 忙しくて
論点を見失って、 結果として、 応答を 失している のとは わけが違います


 

  [No.17988] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/10/08(Thu) 09:48:09

> 管理人エム 様 お忙しいでしょうけれど
> 我慢して これを読んで お返事ください
> 春間さま おはようございます。

> > トピックを眺めて、何と言いますか、ぼうぜんとしていますが、混沌化はしていません。
>
> 呆然 としてはいるけれど、
> 混沌化せずに、 きちんと 体系づけることが出来ている
> という意味ですか ?

何と言いますか、体系づけているわけではなく、何となくその人をつかまえよう、という感じで、ボ-ッと見ているのです。
一番言いたいことは何だろう、とか思いながら。

> ( トピ が 立ちすぎている )
>
> > こういう思考の方なんだなあと思っています。
>
> 思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?

「よし、最初からチャラにして、もう一度考えてみよう」とか思ったのかな、と私は勝手に想像したりしています。

> 本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
> 他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
> 一貫性 が 不足している
> ( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )

わかりますけど、芳和さまに、そのやり方を求めるのは、ちょっと無理かと。
常不軽菩薩なのですから、春間さまが何か言うと、ずっと遠くの方から、「あなたを軽蔑することはありません、あなたを礼拝いたします」と返ってくるのが、芳和さまなのではないかと思っています。

ショ-シャンク さんが、
> [No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
> において
>
> > 芳和さん
> > ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。
>
> 変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
> 関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります
>
> > 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> > レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> > 人の話を聞かないのは相変わらずです。
>
> 見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです
>
> 敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

ショ-シャンクさまは、きちんとしているので、気にされるのだと思います。
春間さまも、リズムと形式が整っているので、そこは同じように気になるのではないでしょうか。

むしろ、芳和さまは、そこを崩したがっているようにも思われます。

整っているものは、あえて崩したいとか、そんな感じかな、と思ったりするのですが、はずれていたら、ごめん!

> 理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます
>
> しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
> そこを、
ショ-シャンク さん は
> > 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。
>
> “ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> > 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない
>
> だけではなく
>
> 自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
> その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
> ( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

私には、芳和さまは、こんな自分をわかってくださいよ、とおっしゃっているようにも感じられます。
相手の話に乗らない、というより、乗ろうとしても乗れないのです、とも言われているような気もしているのですが、違うかな。

>
> あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある
>
> 管理人エム 様 なら、
> ( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

意識化できない障害がある、といわれたら、そうだなと思います。

誰でもが欠点をもっているように思われるのです、といって、自分の欠陥を隠そうとするのは、良くない癖だ。

> わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
> 論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

仏法の大海に乗り出すと、いつも行方不明になるような気がする。

春間さまの論点はわかるけど、話す相手は、その論点を嫌がるというのもまたあります。
認めたとしても、どうしようもないことが多いから。

そして、そこから生まれてくるのが、常不軽菩薩なのかもしれない、とちょっと今思いました。なかなか難しい菩薩の道です。

私も、ピンとくるとは言えませんが、理解しようとしています。


 

  [No.17992] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/08(Thu) 12:20:27


> 何と言いますか、体系づけているわけではなく、何となくその人をつかまえよう、という感じで、ボ-ッと見ているのです。
> 一番言いたいことは何だろう、とか思いながら。

一番言いたいこと

していること との間に 乖離があるとは 思わないのですか ?

> > > こういう思考の方なんだなあと思っています。
> > 思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?
> 「よし、最初からチャラにして、もう一度考えてみよう」とか思ったのかな、と私は勝手に想像したりしています。

自由気儘 が 自らに許される時
その許されることは 他によって 齎される
( 他が 気儘にしているからこそ、 自に根拠が起きる )

( 分かりますか ? 根拠に対しての この程度の書き方で 、、、、 )


> > 本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
> > 他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
> > 一貫性 が 不足している
> > ( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )

> わかりますけど、

> 芳和さまに、そのやり方を求めるのは、ちょっと無理かと。

人の行いに 「 (ヾノ・∀・`)ムリムリ 」 が ありますか ?

> 常不軽菩薩なのですから、春間さまが何か言うと、ずっと遠くの方から、「あなたを軽蔑することはありません、あなたを礼拝いたします」と返ってくるのが、芳和さまなのではないかと思っています。

礼拝されている のを知らず、
わたしは、 礼拝していた 、、、、

“ 返ってくるのは、言葉 だけ ”

木霊 のように、 聞いている
いや 杖木瓦礫 を受けている


いよいよ “ 遠ざかって ” 礼拝する


> > 敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです
ショ-シャンクさまは、きちんとしているので、気にされるのだと思います。

> 春間さまも、リズムと形式が整っているので、そこは同じように気になるのではないでしょうか。

わたしが 気に障って、 気にしている という意味に 読めます

> むしろ、芳和さまは、そこを崩したがっているようにも思われます。
> 整っているものは、あえて崩したいとか、そんな感じかな、と思ったりするのですが、はずれていたら、ごめん!

本人は、 きちんと 整えている という立場です
( 懺悔を済ませて、 新しき道を歩んでいるのだから 、、、、 )

> > 理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます
その理由 は
> > 自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
> > その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
> > ( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )
ですか 、、、、


> 私には、芳和さまは、こんな自分をわかってくださいよ、とおっしゃっているようにも感じられます。
> 相手の話に乗らない、というより、乗ろうとしても乗れないのです、とも言われているような気もしているのですが、違うかな。

違う・違わない では 話を進めません

> > あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある
> > 管理人エム 様 なら、
> > ( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

> 意識化できない障害がある、といわれたら、そうだなと思います。
> 誰でもが欠点をもっているように思われるのです、

思う事 は 常に、 正しいという前提で 意識に上らせることが適います
正しくなければ、 思いは構築できない 、、、、

> といって、自分の欠陥を隠そうとするのは、良くない癖だ。

癖 ですか ? ( 癖ではないと思う時には、 癖 には ありませんか ? )
( 精進している と する時に、 その思いに 精進していますか ? )


> > わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
> > 論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

> 仏法の大海に乗り出すと、いつも行方不明になるような気がする。

それは、 大海 に 乗り出す前の話です
「 信 」 を 持たねば、 大海には 「 能入 」 出来はしない

行方不明になる のであれば、 「 信 」 ではない

ま、
“ 気がする ” として、 精進していることは 分かってはいますが 、、、、


> 春間さまの論点はわかるけど、話す相手は、その論点を嫌がるというのもまたあります。

嫌なこと が 大事な “ところ” です
何故 嫌がるか を 問う のですが、

嫌なことは 、 したくないこと
何故だという問いかけ を 聞きたくない 、、、、

> 認めたとしても、どうしようもないことが多いから。

どうしようもないこと など ありません
何もしないこと という する事 を 選ぶわけです
( 敢えて言えば、 行く得 ・ 「 到彼岸 」 を 幾重 にも 覆おう ということです )
( 修証一如 )

> そして、そこから生まれてくるのが、常不軽菩薩なのかもしれない、とちょっと今思いました。なかなか難しい菩薩の道です。

そのように、 論理を飛躍させるから
他者 に 伝わりにくいのです

「 常不軽菩薩 の道 は “ 困難な道 ” ですか ? 」 と お聞きしたくなる

「 いぎょう 」 って 異形 ですか ?


> 私も、ピンとくるとは言えませんが、理解しようとしています。

自分 の 飛躍を 理解できていますか ?


わたしは、 敢えて( 理由をはっきり定めて ) 、 飛躍させます



 

  [No.17932] Re: 存在の解体と後始末 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/02(Fri) 11:42:47


> ブログ用にまとめましたので……。

と 最初の行 に 置く 「 行 」 ではあるけれど

敢えて、
No.17923 以降に 続けておかない理由は 何でしょうか

ショ-シャンク さんが、
[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります

> 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> 人の話を聞かないのは相変わらずです。

見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです

敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます

しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
そこを、
ショ-シャンク さん は
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

“ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない

だけではなく

自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある

管理人エム 様 なら、
( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

( 出来ない かもしれない
けれど、 理解しなければ 何も始まらない )


始まらない と 言われようと、
新しい “ スレッド ” を
自らの意識に 立ち上げる 、、、、



 

  [No.17746] ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/07(Mon) 14:35:27

石飛先生、こんにちは。

石飛先生は
『心臓の中にある光明を、ヤ-ジュニャヴァルキヤは「プルシャ」とも呼び、「ア-トマン」とも呼びました。
心臓の中に「人」の形をしたプルシャがあるのだ、ということもいわれます。いつでも、「人」を離れられないのが、
ヤ-ジュニャヴァルキヤなのか。相対的な考え方から離れられないことになってしまうような気がしてなりません。
ヤ-ジュニャヴァルキヤは、肯定と否定、能動と受動など、いつもこの相対的な判断から離れません』
と書かれていました。

確かにヤ-ジュニャヴァルキヤは自己(ア-トマン)を心臓の中の虚空に横たわっているという言い方をしている箇所があり、
ここは残念なところです。

しかし、私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)が最も影響を受けたのはヤ-ジュニャヴァルキヤだと考えます。
仏陀の教えの骨格はヤ-ジュニャヴァルキヤにあるように思えます。

自己(ア-トマン)を『~に非ず ~に非ず』としたこと。
行為(業)によって輪廻転生すること。
妻を捨てて出家するという生き方。

これらを見ると、青年期のゴ-タマ・シッダッタはヤ-ジュニャヴァルキヤの教えに甚大な影響を受けて出家し
行為や欲望を滅して不生に到達しようとしますがかなわず
ついに、行為や欲望のもっと元に、真の原因たる無明(苦を知らないこと)があることを発見し(四諦十二縁起)
独自のやり方で成道したのではないかと思えるのです。

ですから、仏陀は独自にそれまでにないやり方で無上の悟りを開いたのですから天上天下唯我独尊であることは確かですが
それに至るまでにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響は非常に大きいものがあると思っています。


 

  [No.17749] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/10(Thu) 17:12:25

仏陀が言った『私には師はない』ということと
仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
別に矛盾しません。

師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
師弟関係とは言いません。

青年期の仏陀が、インドの聖典を読んだこともなく影響を全く受けてないと思う方が現実的ではありません。
『ヴェ-ダの達人』とも呼ばれていますから、かなりインドの聖典には精通していたはずです。

これは、イエス・キリスト旧約聖書に詳しくて、人々が驚いたという記述を思い出させます。

イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。
無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。


 

  [No.17751] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/10(Thu) 19:24:29

> > 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> > 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> > 師弟関係とは言いません。


>
> それは、
> あなたの 本への接し方
> 人生への 解釈に仕方 に 過ぎません、
> “ 直接 ” って どういう意味か は、 あなたが決めることです
> わたしは、 ブッダからの 直接の働きかけを 受けていますし、
> 龍樹・空海親鸞からも 直接 (大事な)教えを 受け継いでいますが
> あなたが、 どのように そのことを、認めるか ・ 認めもしないか は
> あなたの自由 で、
> あなたの考え方 に 左右されることです


> ブッダ は 伝説上 幾人もの 師 と 呼ばれるモノのもとを訪れています
> 彼らは、 インドの伝統を受けているわけです
> その影響 が ブッダの独自性( 唯我独尊 )を生んでいます


あなたは自分で自分が展開していることを理解してますか?
否定のための否定は害しかありません。

私が、仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けていると書いたら
ブッダの( ウパカへの最初の説法の)言葉は 思い込みですか ?「 無師独覚 」』
と質問してきたのです。
本を読んで影響を受けたことまで師弟関係というなら、仏陀が言った無師は嘘となりますね?
あなたの意見はどちらなのですか?
仏陀は、影響は受けているけど師はいない、という結論ではないのですか?
それなら私の結論と一緒ですから、わざわざ否定する必要はないはずです。
あなたは否定ばかりしようとしているので論理が矛盾するのです。


> > これは、イエス・キリスト旧約聖書に詳しくて、人々が驚いたという記述を思い出させます。

> > イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように

> イエス は 飛び越えたりなどしません
> 旧約聖書 を 正しく読むから、 正しい 教えを 説くことが出来るだけです
> どこに、 旧約 の 飛び越えられるところがありますか ?



旧約聖書ユダヤ民族の聖書ですが、イエス・キリストは人類普遍の教えを説きました。
民族宗教世界宗教へとなりました。


> 「 無明 」 = 苦を知らないこと
> ということは、 仏典の どこに 説かれていますか


仏典を読めばわかります。
明白です。
人に聞くばかりではなく、自分で探したどうですか?
よくあなたも『自分で探しなさい』と言っていますよね?


 

  [No.17753] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 02:11:11

> ヤ-ジュニャヴァルキヤ が ブッダの骨格 だ(にある) と 書いています
> それを受けて、
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ の 骨格は 何か と 訊ねたわけです


行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。

ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそうした人はいますか?
いるなら名前を挙げてください。
そして、その考え方はゴ-タマ・シッダッタに引き継がれています。



> 何故、 旧約 と 新約 と 聖書についているかが 分かりますか ?
> 約 の 新しき 読み方が 新約 なのです ( 旧約を飛び越したりなどしていません )
> ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )



「新約」とは「新しい契約」の意味です。神と人間との間に結ばれる契約です。
旧約聖書ユダヤ教の経典で、いつか救い主が現れてユダヤ人の王となる、という伝承を伝えています。
それが「古い契約」です。
そしてキリストがその「救い主」です。
「救い主が現れる」という契約が成就したので「古い契約」になったのです。
そしてキリストによって新しい教えが説かれ、「キリスト教」として独立しました。
ですからキリストの教えを書いたものが「古い契約」に対して「新しい契約」と言われ新約聖書になりました。
ユダヤ教徒はキリストを救い主と認めず、旧約の教えを守ってずっと「救い主」の出現を待っています。
ですからユダヤ教徒にとっては「旧約」はまだ「古い契約」ではないので、「旧約聖書」という言い方はしません。
もちろん新約聖書は使いません。



> ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )


あなたは
旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません』と書いていますよ。




> >> 「 無明 」 = 苦を知らないこと
> >> ということは、 仏典の どこに 説かれていますか

無明とは四諦を知らないことです。
そして四諦とは、苦と苦の原因と苦の消滅です。
つまり苦についての真理です。
ですから、無明とは苦について知らないことです。


> 「 楽 」 を 知らないこと が 「 無明 」 です


これこそ、仏典のどこにありますか?



> > よくあなたも『自分で探しなさい』と言っていますよね?


>
> あるから 探しなさい と 言うわけです
> ないモノを探せとは言ってはいません



あたは、『受想行識が一切です』と言いました。
そして、それは仏典にあるから自分で探しなさいと。
そんなものは絶対にありません。
ないものを探せと平気で言っているではありませんか?


 

  [No.17757] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 09:22:32

何個かに分けて答えます。
時間が何時間も空いているときは全部書くことが出来ますが
来客と来客の間、商談と商談の間の時間しかないときは、分けて書きます。


> > 行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> 輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


反論の根拠がウィキペディアというのは恥ずかしいですよ。
ヤフ-掲示板のときにいろいろな人からよく反論をふっかけられましたがその反論の根拠がウィキペディアであることが多かったです。
まあ、ウィキペディアは言葉をググればすぐ出てきますから便利ではありますが浅すぎます。間違いも多いですし。

さて、あなたが上げたウィキペディアを見ましたが、何の反論にもなっていません。

輪廻の萌芽の五火二道説では、行為によりいいところや悪いところに輪廻転生するということにはなっていません。

そのウィキペディアには『そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥ-教の輪廻説が集大成された。』
と書いてあるだけです。

その様々な思想家のうち、行為により輪廻すると言ったのは、ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初です。

ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそれを言った人があるのですか?


 

  [No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

> 別に WIKI を 根拠としているわけではありません
> 参照してみたら ? という程度です
> わたしは、 参照事項として WIKI を 引くことはありますが
> 証明に使うことはありません
> 証明 は あくまでも 自らの歩む道 です


あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。

もし、そうでないなら、
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
の文章の根拠をウィキペディア以外で貼ればいいですね。是非貼ってください。根拠があるのであれば。


> 歴史的な( 文献上等 の )根拠 は ありますか ?

ブリハッドア-ラニヤカ・ウパニシャド

しかし、これを出してもあなたには無駄です。


> もしあろうと
> 誰かが、 そのように ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初 だと 証明しましたか ?
> ( たとえ、 その証明があっても、 それが事実だと どのように証明しますか ? )
とあらかじめ言っているのですから(笑)


> もしあろうと
> 誰かが、 そのように ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初 だと 証明しましたか ?
> ( たとえ、 その証明があっても、 それが事実だと どのように証明しますか ? )


はいはい。どんなに文献を出そうとも、認めない、という宣言ですね。
何を出しても『それが事実だと どのように証明しますか ?』と言っていればいいのですから楽ですね。

自分は何の根拠も示さず、人が根拠を出しても『それが事実だとどうしてわかる?』と言うだけの人相手には
何を出しても無駄です。


> > ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそれを言った人があるのですか?


>
> どうして それを見つけなければなりませんか ?
>
> それを見つけるのは あなたの仕事です


はいはい。ちょっと話になりません。
私は、ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前には言ったことある人はいないと思っているのですから
ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前に言った人がいると断言するあなたが
その言った人を見つけるべきですね。



> その上で、 その根拠について お話しします

典拠を示さないのがあなたです。
今回も、典拠を示すことはないでしょう。

ただ、自分の思い込んでいる説をわけの分からない日本語で滔々と書き連ねるだけでしょうね。


 

  [No.17808] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/21(Mon) 21:15:40


[No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

***********
あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。
***********

そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?

もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません

「 輪廻 」 については、 正しい 記述を わたしは 見たことがありません
( 管理人エム 様 の それを含めても 、、、、 )
龍樹の輪廻思想 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。 『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。

これ (↑)が、 龍樹 の知る 「 輪廻 」 ですか ?

( 一つの 龍樹に対する 解釈に過ぎない )



「 輪廻 」 は あなたの行為に起きている
( あなた とは、 あなたであり、 管理人エム 様 であり、 これを眺める者である )


わたしは、 あなたと共に、 「 輪廻 」 している



 

  [No.17759] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 11:18:18

> > 自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
> > バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ のいう “ 真理 ” は
> ブッダの知った 「 真理 」 と 同じモノですか ?



自己を『~に非ず』としか言えないとした点と
祭祀で自己に到達するのではないとした点、
ここにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を見ているのです。


> > 妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> シュマラナ という語は 伝統的なモノ です


シュラマナですね。
ただ、シュラマナは、釈尊の時代以前から伝統的であったわけではなく、釈尊の自由思想家の時代になって流行したものです。

シュラマナでなくバラモンの出家はそれ以前にもあったと思いますが、名前が残っているもので最初はヤ-ジュニャヴァルキヤです。

特にヤ-ジュニャヴァルキヤの、妻を捨てて出家するという生き方は、
青年期のゴ-タマ・シッダッタの出家の決断に大きく影響を与えたのではないかと思っています。


このように、私は、ゴ-タマ・シッダッタの考えや生き方にヤ-ジュニャヴァルキヤは大きく影響を与えたと思っているのです。

影響を受けた可能性について述べているだけですから、
もし何でもかんでも否定したいのであれば、ちゃんとした根拠を示してください。

むしろ、古代のインドにおいて、悟りを求めている青年が、インドの聖典を読み影響を受けたと考えるのは自然だと思いますよ。


 

  [No.17766] 旧約聖書の約はシナイ契約 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 14:45:49

> > > 何故、 旧約 と 新約 と 聖書についているかが 分かりますか ?
> > > 約 の 新しき 読み方が 新約 なのです ( 旧約を飛び越したりなどしていません )
> > > ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> > > ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> > > ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> > > ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> > > それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )


これは、キリスト教を知らない日本人がよく間違うことですが
旧約聖書新約聖書を、旧訳聖書、新訳聖書と思っている人が多いのです。
どのように訳したか、どのように解釈したか、ではないのです。

約というのが契約のこと、それも神との契約のことだと知らないのです。

契約にどのように読むかの問題は起きません。

シナイ契約が旧約聖書での神と人との契約です。石の板に書いた契約です。

そして、新しい契約は、心の中に書かれ、完全な罪の赦しがもたらされます。
最後の晩餐のときに聖杯によって契約されました。
これが新しい契約です。




> > あなたは
> > 『旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません』と書いていますよ。

> 宗教 とは それを保つ民族 の為 だけで “ ! ” 存続できますか ?


あなたが、旧約聖書ユダヤ人の為のモノで他の民族の為ではないと書いたのです。
ユダヤ教は今も存続してますね。


 

  [No.17768] Re: 旧約聖書の約はシナイ契約 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 19:57:32

> > そして、新しい契約は、心の中に書かれ、完全な罪の赦しがもたらされます。
> > 最後の晩餐のときに聖杯によって契約されました。
> > これが新しい契約です。

> それは、 あなたの 契約 です


あなたに提案ですが、条件反射のように反応せずに、
指し示す文献を確かめてから否定なり反応すればいいのではないですか?
特にこのような仏教やキリスト教のことを言っているときは、
文献を確かめていないときには否定も判断もするべきではないでしょうね。

指摘しているのは非常に重要な場面です。


【マタイ福音書】『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』

【マルコ福音書】『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』

【ルカ福音書】 『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』


 

  [No.17754] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 02:56:09

下の文章が春間さんが書いた文です。

※※※※※
証明していった
のではなく、新しい 旧約や ユダヤ教 を 作り出したのです
( 古い革袋は 打ち捨てて、 新しい葡萄酒を 新しい革袋に 入れるのです )
旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません
エスの教え( 説くこと ) は 人 すべての事です
“ 赤 ” の為の “ 赤い ” 教えは、 他の色 には あてはめられらないから、 あてはまりません
証明すべき ユダヤ教 は 打ち破る ユダヤ教 です
いわゆる キリスト教キリスト教徒 の 為のモノです
わたしが用いる “ キリスト教 ” は キリスト教徒の為のモノではありません
キリスト教 ” を 破壊するため=打ち破るため のモノです
( 下記にある 設害三界一切有情 “ 為 調伏 故 ” を 参照してください )

ナザレのイエス新約聖書 の 記述では
ユダヤ人 の 為 に 説くことが記述されていますが、
同時に 全人類の為のことも 記述されています
しかし、 それは 亀 に 毛を生えさせたこととは 違うのです
兎を 正しい概念として確立し
人として生きる イモ-タル の 指先に 移植したのでもありません
新約 は “ キリスト教会 の 意図に沿うよう ” に 編まれているのです
それが、 “ 兎の指 ” です
※※※※※


 

  [No.17774] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/16(Wed) 07:45:46

ショ-シャンクさま おはようございます。

こんな大事な投稿をいただいていたとは、気づかなくてすみません。
春間さまとひとしきりお話しになっていますが、まだそれらを読まずに、とりあえず、わたしの考えを書いてみますね。


>
> 石飛先生は
> 『心臓の中にある光明を、ヤ-ジュニャヴァルキヤは「プルシャ」とも呼び、「ア-トマン」とも呼びました。
> 心臓の中に「人」の形をしたプルシャがあるのだ、ということもいわれます。いつでも、「人」を離れられないのが、
> ヤ-ジュニャヴァルキヤなのか。相対的な考え方から離れられないことになってしまうような気がしてなりません。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、肯定と否定、能動と受動など、いつもこの相対的な判断から離れません』
> と書かれていました。



自分で書いた文章を自分で読んで「なるほど」と思っています。わすれてるんかい、おい!



> 確かにヤ-ジュニャヴァルキヤは自己(ア-トマン)を心臓の中の虚空に横たわっているという言い方をしている箇所があり、
> ここは残念なところです。

あ、そうお考えなのですね。
>
> しかし、私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)が最も影響を受けたのはヤ-ジュニャヴァルキヤだと考えます。
> 仏陀の教えの骨格はヤ-ジュニャヴァルキヤにあるように思えます。

たしかに、そうも見えます。
そこは反対するものではありません。
>
> 自己(ア-トマン)を『~に非ず ~に非ず』としたこと。
> 行為(業)によって輪廻転生すること。
> 妻を捨てて出家するという生き方。
>
> これらを見ると、青年期のゴ-タマ・シッダッタはヤ-ジュニャヴァルキヤの教えに甚大な影響を受けて出家し
> 行為や欲望を滅して不生に到達しようとしますがかなわず
> ついに、行為や欲望のもっと元に、真の原因たる無明(苦を知らないこと)があることを発見し(四諦十二縁起)
> 独自のやり方で成道したのではないかと思えるのです。
>
> ですから、仏陀は独自にそれまでにないやり方で無上の悟りを開いたのですから天上天下唯我独尊であることは確かですが
> それに至るまでにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響は非常に大きいものがあると思っています。

引用を、一つも略さずあげました。
否定はいたしません。
いたしませんが、わたしの中では、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響が非常に大きい」と言いうる段階であれば、ブッダはまだ一切智者ではない、という理解になります。

> 仏陀が言った『私には師はない』ということと
> 仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
> 別に矛盾しません。
>
> 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> 師弟関係とは言いません。

ここは、ちょっと。。。
「双方向」ってオンライン授業の要綱にあったなと思い出しながら、
「師弟関係は教え教えられの関係」ということを言葉どおりとるなら、師は教え、弟子は教えられるという関係が成りたてばよいのですよね。

本だけ読んでも、その関係が成りたてば双方向ではないでしょうか。

いつも本から教えられる、いつも本は先生の役目をはたしてくれる、のであれば、師弟関係は成りたつのではないかと思います。
わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。

> 青年期の仏陀が、インドの聖典を読んだこともなく影響を全く受けてないと思う方が現実的ではありません。
> 『ヴェ-ダの達人』とも呼ばれていますから、かなりインドの聖典には精通していたはずです。

ブッダは自分でそう言っています。「わたしは、ヴェ-ダ・グ-(ヴェ-ダの達人)だよ」、と。
そして、実際に、ブッダほどヴェ-ダに詳しい人はいないと、わたしも思います。

わたしは「ウパニシャッド」の類いは、何度もたくさん読みましたが、いつもモヤモヤしてわかりませんでした。
しかし、『スッタニパ-タ』を読むようになって、ウパニシャッドの内容が、はっきり見えてきたのです。
『スッタニパ-タ』「彼岸道品」は、「ウパニシャッド」の解説にもなり、又それを乗り越える道をも説いていると思います。

つまり、どんなに最初にヤ-ジュニャヴァルキヤの説の影響を受けようと、それを乗り越えてしまうなら、もはや「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」とは言われないと思うのです。

「一切智」とか「一切智者」とか、という言葉は、伊達に言われているのではなく、ブッダの特徴を過不足なく示すことばだと思っています。

ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けたと言っても、「ネ-ティ、ネ-ティ」の思考を会得した、相対的な立場を超える立場を模索した、というところで影響を受けたのであって、彼に教わらなくても、他の誰かに教わることはできたし、その考えに出会うか出会わないか、という違いでしかない、とすら言えると思います。それを乗り越えたところにいるブッダには気にする必要のないものです。

むしろ、ヤ-ジュニャヴァルキヤがブッダに教わることができたなら、かれは、即ブッダの弟子になったのではないかと思います。ヤ-ジュニャヴァルキヤほどすぐれた哲人であれば、たちどころにブッダの述べることを吸収したのではないかと思っています。

そういう意味では、ショ-シャンクさまのおっしゃることもわからないではありません。
当時の哲学的な思索が、どれほど進んだものであったか、ということは、わたしも本当に知れば知るほど感心します。もし、ブッダが出ていなければ、いまだにウパニシャッドを超える思想は、現代においても出ていないだろうとさえ思います。

しかし、ブッダは世に出現しました。

もう、ほんとに、これがすべてだと思います。

世界は、この瞬間から、ブッダの教えの中に存在することになりました。

世界で本当に、マジで「一切智者」ということばを発した唯一の人物だからです。


> イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
> 仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。

ここは、ショ-シャンクさまとわたしは一致していますね。
おっしゃる通りなので、わたしは、「ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた」とは言わないのです。厳しいようですが、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、ブッダに比べるとほんの小さな虫のようなものだ、という表現も当てはまるかと思うほどです。

> 無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。

「無明=苦を知らないこと」の上がありますね。
如来所説経(『サンユッタ・ニカ-ヤ』56.11)の中で
「いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智(ヴィドヤ-)が生じ、光明(ア-ロ-カ)が生じた」

無明(アヴィドヤ-)を否定して、明智(ヴィドヤ-)が生じ、さらに光明が生じている、という、この一点において、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」という段階は遥か昔に遠のき、到達点からすれば、たまたまヤ-ジュニャヴァルキヤがそこにいたから、ブッダはそう語ったのだ、という物言いになるかと思います。

他の人がいれば、他の人の言い方を使ってブッダはその人を教化するだろう、というようなものです。
対機説法という観点が出てくるのも、ブッダが一切智を得た、というここに注目するからだと思っています。

ショ-シャンクさまに賛成しているのか反対しているのかわからないような書き方になってしまっていますが、やはり、わたしは、ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた、とは言わないなあというところで、結論としたいと思います。


 

  [No.17775] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/16(Wed) 10:40:06

石飛先生、おはようございます。

> つまり、どんなに最初にヤ-ジュニャヴァルキヤの説の影響を受けようと、それを乗り越えてしまうなら、もはや「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」とは言われないと思うのです。
> 「一切智」とか「一切智者」とか、という言葉は、伊達に言われているのではなく、ブッダの特徴を過不足なく示すことばだと思っています。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けたと言っても、「ネ-ティ、ネ-ティ」の思考を会得した、相対的な立場を超える立場を模索した、というところで影響を受けたのであって、彼に教わらなくても、他の誰かに教わることはできたし、その考えに出会うか出会わないか、という違いでしかない、とすら言えると思います。それを乗り越えたところにいるブッダには気にする必要のないものです。
> むしろ、ヤ-ジュニャヴァルキヤがブッダに教わることができたなら、かれは、即ブッダの弟子になったのではないかと思います。ヤ-ジュニャヴァルキヤほどすぐれた哲人であれば、たちどころにブッダの述べることを吸収したのではないかと思っています。
> そういう意味では、ショ-シャンクさまのおっしゃることもわからないではありません。
> 当時の哲学的な思索が、どれほど進んだものであったか、ということは、わたしも本当に知れば知るほど感心します。もし、ブッダが出ていなければ、いまだにウパニシャッドを超える思想は、現代においても出ていないだろうとさえ思います。
> しかし、ブッダは世に出現しました。
> もう、ほんとに、これがすべてだと思います。
> 世界は、この瞬間から、ブッダの教えの中に存在することになりました。
> 世界で本当に、マジで「一切智者」ということばを発した唯一の人物だからです。


この大筋と言いますか、本質的なことに関しては、全くその通りだと思います。
成道の時には、それまでのすべての教えを超えた境地に至ったと思っていますので全く同意です。

私が、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を強く受けたと思っているのは、
出家の動機からスジャ-タ-が差し出した乳粥を受
け取って飲んだときまでだと思います。
ある音楽評論家が、ベ-ト-ヴェン交響曲3番『英雄』を『この先、ベ-ト-ヴェン』と評したことがありますが
乳粥を飲んだときから、『この先、ゴ-タマ・シッダッタ』なのだろうと思います。
それまでは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを頂点としたヴェ-ダ宗教の影響下だと考えます。

出家の決断に関しても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが妻を捨てて出家したエピソ-ドはかなり強く後押ししたはずです。
2人の仙人に、無所有定、非想非非想定を習ったのも、それを捨てて断食行に入ったのも
それまでの伝統的な考えの影響下でしょう。




> > 仏陀が言った『私には師はない』ということと
> > 仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
> > 別に矛盾しません。
> >
> > 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> > 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> > 師弟関係とは言いません。


>
> ここは、ちょっと。。。
> 「双方向」ってオンライン授業の要綱にあったなと思い出しながら、
> 「師弟関係は教え教えられの関係」ということを言葉どおりとるなら、師は教え、弟子は教えられるという関係が成りたてばよいのですよね。
> 本だけ読んでも、その関係が成りたてば双方向ではないでしょうか。
> いつも本から教えられる、いつも本は先生の役目をはたしてくれる、のであれば、師弟関係は成りたつのではないかと思います。
> わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
> 「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。


現代の日本では、それは成り立つと思います。
仏陀は私の心の師だ』と言って何の違和感もありません。
本で読んだ哲学者を師とするのはよくあることです。

しかし、ミラレパがマルパに弟子入りしたときや、慧可が達磨に弟子入りしたときのことを思うと
特にそれ以前の古代インドにおいて、弟子入りして師弟関係を結ぶというのは少なくとも師がその人を弟子と認めることが必要ではなかったでしょうか。
そういう意味の双方向です。
仏陀そしてその後の仏教であれば、師が弟子に戒を授けるということが必須だったと思います。
ですから、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けていたとしても『私には師はない』ということは矛盾しないと思います。



> > イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
> > 仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。


>
> ここは、ショ-シャンクさまとわたしは一致していますね。
> おっしゃる通りなので、わたしは、「ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた」とは言わないのです。
>厳しいようですが、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、ブッダに比べるとほんの小さな虫のようなものだ、という表現も当てはまるかと思うほどです。


小さい虫ですか(笑)


> > 無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。


>
> 「無明=苦を知らないこと」の上がありますね。
> 如来所説経(『サンユッタ・ニカ-ヤ』56.11)の中で
> 「いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智(ヴィドヤ-)が生じ、光明(ア-ロ-カ)が生じた」
> 無明(アヴィドヤ-)を否定して、明智(ヴィドヤ-)が生じ、さらに光明が生じている、という、この一点において、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」という段階は遥か昔に遠のき、到達点からすれば、たまたまヤ-ジュニャヴァルキヤがそこにいたから、ブッダはそう語ったのだ、という物言いになるかと思います。
> 他の人がいれば、他の人の言い方を使ってブッダはその人を教化するだろう、というようなものです。
> 対機説法という観点が出てくるのも、ブッダが一切智を得た、というここに注目するからだと思っています。
>わたしは、ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた、とは言わないなあというところで、結論としたいと思います。


 

  [No.17785] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/19(Sat) 09:05:34


ショ-シャンクさま おはようございます。

遅くなってしまって、すみません。

> 私が、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を強く受けたと思っているのは、
> 出家の動機からスジャ-タ-が差し出した乳粥を受
> け取って飲んだときまでだと思います。
> ある音楽評論家が、ベ-ト-ヴェン交響曲3番『英雄』を『この先、ベ-ト-ヴェン』と評したことがありますが
> 乳粥を飲んだときから、『この先、ゴ-タマ・シッダッタ』なのだろうと思います。
> それまでは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを頂点としたヴェ-ダ宗教の影響下だと考えます。

ふうむ。。そうか、ショ-シャンクさまはヤ-ジュニャヴァルキヤを高く買っておられるのですね。

> 出家の決断に関しても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが妻を捨てて出家したエピソ-ドはかなり強く後押ししたはずです。
> 2人の仙人に、無所有定、非想非非想定を習ったのも、それを捨てて断食行に入ったのも
> それまでの伝統的な考えの影響下でしょう。

わたし自身は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、沙門ゴ-タマに禅定を授けた二人の先生より、禅定としては下にいると思っていて、思想的なことを考えても、それほど高いものではないと思っています。

言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。

経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。

ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。
相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。

ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤ・ウッダ-ラカの時代を下って、ゴ-タマの出現する頃になりますと、サ-ンキヤ・ヴァイシェ-シカへとつながる思想的な源泉はすでに湧きだしていたのではないかと思っています。
>
>
> > わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
> > 「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。
>
>
> 現代の日本では、それは成り立つと思います。
> 『仏陀は私の心の師だ』と言って何の違和感もありません。
> 本で読んだ哲学者を師とするのはよくあることです。
>
> しかし、ミラレパがマルパに弟子入りしたときや、慧可が達磨に弟子入りしたときのことを思うと
> 特にそれ以前の古代インドにおいて、弟子入りして師弟関係を結ぶというのは少なくとも師がその人を弟子と認めることが必要ではなかったでしょうか。
> そういう意味の双方向です。

わたしは、古代において、自分と同じような意味で師弟関係を結んだ人を一人知っています。
それは、龍樹です。

かれが誰かの弟子入りをしたという記録は残っていません。
突然、経典が出てきて、それを解釈していくのです。師は、あきらかにブッダです。
部派の誰かについた記録もなく、大乗の誰かについた記録もない。伝説では、龍宮城で、大龍に教わったことになっていますが、ただ伝説のように言われています。


> ですから、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けていたとしても『私には師はない』ということは矛盾しないと思います。

なるほど、その点は、わたしも気になりませんが、やはり、ちょっと御説には疑問を感じます。
>
> 小さい虫ですか(笑)

やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。


 

  [No.17786] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 19:40:20

石飛先生、こんばんは。


> わたし自身は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、沙門ゴ-タマに禅定を授けた二人の先生より、禅定としては下にいると思っていて、
>思想的なことを考えても、それほど高いものではないと思っています。

そうですか。

> 言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、
>しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。

ここは全面的に賛同いたします。
むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
仏陀が成道したとき、説いても無駄だと考えたように、
説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。

> 経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。

禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。
>ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。
>わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。
>神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
> 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。

私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
どのような理由からでしょうか。


> 相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。

梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。


> ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。
>彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。
>宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、
>実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
> 文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤ・ウッダ-ラカの時代を下って、
>ゴ-タマの出現する頃になりますと、サ-ンキヤ・ヴァイシェ-シカへとつながる思想的な源泉はすでに湧きだしていたのではないかと思っています。


六師外道というのはひとつのキ-ポイントだと思います。
私が注目するのは、六師外道が、いわゆるバラモン教でないことです。
六師とも仏陀と同じ自由思想家です。
なぜ、それを『外道』の代表としたのか、そこに興味があります。
仏陀は『ヴェ-ダの達人』と呼ばれていました。
石飛先生によると、仏陀自身が『私はヴェ-ダの達人だよ』と言ったとのことです。

このことから、仏陀自身は、自身をヴェ-ダの流れにあるものという認識だったのではないかと考えます。
むしろ、自由思想家の方を外道としています。
仏陀が、バラモン教を全否定したというイメ-ジは弟子たちによって作られたものではないかと思うのです。

イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。

これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。



> わたしは、古代において、自分と同じような意味で師弟関係を結んだ人を一人知っています。
> それは、龍樹です。
> かれが誰かの弟子入りをしたという記録は残っていません。
> 突然、経典が出てきて、それを解釈していくのです。師は、あきらかにブッダです。
> 部派の誰かについた記録もなく、大乗の誰かについた記録もない。伝説では、龍宮城で、大龍に教わったことになっていますが、ただ伝説のように言われています。


なるほど。
私は龍樹のことはほとんど知りません。
私には、仏陀の教えを斬新な切り口で解釈した学者のように思えるのですが
禅定なども、実際の師なくして優れていたのでしょうか?


> > 小さい虫ですか(笑)
>
> やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。
>かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。


先生は神秘主義がお嫌いなのですか?
私はむしろ、教えの上澄み部分、エキスのように思えています。
イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。

禅の見性や悟りも直接体験ということで神秘主義でしょうし
法華経如来秘密神通之力を説いています。


 

  [No.17788] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 22:05:25

> 直接体験 が 神秘主義 であるということは、
> あなたが決めたことに過ぎない


それでは、あなたの、神秘主義の定義を教えてください。


神秘主義
絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場。
インドのヨ-ガ、プロティノスの新プラトン主義、キリスト教と対立したグノ-シス主義、
イスラム教のス-フィズム、エックハルトの中世神秘主義などが顕著な例。


わかりますか?
感覚や知性の働きでは認識できないので
直接に体験しようとする立場のことを神秘主義というのです。

哲学が知性の範囲に留まるのに対し
知性を超えて直接体験する姿勢が神秘主義です。

それを否定するなら、
あなたの、神秘主義の定義を教えてください。


 

  [No.17793] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 01:22:02

仏教における密教も代表的な神秘主義です。

神秘主義を否定するということは、密教も否定するということですね?


 

  [No.17789] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 22:18:40

いいですか?

神秘主義とは、感覚や知性の働きを超えて直接体験しようとする立場のことです。

これは宗教と名がつけば、どの宗教宗派でも存在します。

知性や感覚は限界があり、それを超えて直接体験することがなければ、
それはもはや宗教ではなく、ただの頭だけの哲学です。


 

  [No.17802] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 16:42:49

私は『反論の根拠がウィキペディアというのは恥ずかしいですよ。』と書いたのです。
ググることが悪いなんて言ってないですから、ちゃんと読んでくださいね。

ウィキペディアは、誰でも記事を書いたり編集することができるのです。
春間さんでも私でも、ウィキペディアを書くことができます。
春間さんも私が書いた百科事典は参考にしないでしょうし
私も春間さんが作成した百科事典は参考にしないでしょう。
しかし、いま目の前にあるウィキペディアの項目はど素人の私が書いているかもしれないのです。

ですから、ウィキペディアを論文の根拠にすることはあり得ないことなのです。

ウィキペディア創始者自体が、『ウィキペディアの信頼がなくなった』と言って
新しい百科事典を始めたくらいですから。


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