あなたと、 やり取りしたい わけではない
あなたとは、 やりとりが成立しないから
しかし、 あなたが、 やりとりに参加するのは 構いません
この意味を、 知ろうとはしないから やり取りにはならない
( あなたには、 意味は 、 自分の 読み取る通り に
決まっている 故に 変えることを 考慮に入れない )
( そのようなことはない と 意味を変えない )
決まっている
わたしは、 簡単に、 前提を変える
> このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。
管理人エム 様 の 受け止め方 は “ 管理人エム 様 らしい ”
> 『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
> また、
> 「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
> こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
> 向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
> 非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
> といいたくなりますが、そうは書いていないのです。
> 「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
> というのが、実は!わたしの思いです。
> つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
> 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
> さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
> あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
> だから、
> むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。
そのような 読み方( 受け止め方 ) も 、
相手に分からせようとする 一つの選択 ( 対する相手による )
どうやら、 対話は 成り立たないようです 、、、、
しかし、 読者( “ これ ” を 読む人 ) の中には、
これを 理解する人 もいる
> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
“ これ ” を 理解しない人 もいる
“ これ ” って、 当該投稿にかかること だけ ではない
“ これが一貫 ” という こと ( 恒常にはいないということ )
・
> あなたと、 やり取りしたい わけではない
> あなたとは、 やりとりが成立しないから
春間さんとやりとりが成立した人は今までいましたか?
春間さんと誰かがやり取りしているところを、私は見たことがないのですが。
やりとりが成立している過去ログを教えていただければ幸いです。
> しかし、 あなたが、 やりとりに参加するのは 構いません
春間さんはここを春間さん主催の掲示板だと思い込んでいるのですね。
> > このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。
>
> 管理人エム 様 の 受け止め方 は “ 管理人エム 様 らしい ”
これだけですか?
具体的なことは全くなしですか。。
石飛先生、こんにちは。
> > それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
> > ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> なるほど、そこを心配されているのですね。
> 初期仏教の考え方に近いのかな。
心配しているわけではありません。
感覚⇒記憶⇒感覚⇒思考⇒連想 と言う流れを見ると感覚を持つ限り、激流に巻き込まれる可能性はいつもあるという事実を言っています。
> そうですか。。ゴ-ディカ尊者ですよね。
> かれは心解脱で覚った人ですよね。
> 心解脱の場合、それはそうかもしれませんね。
> 身体と心はくっついてますから、ヴィパッサナ-で行くとそうなるのかもしれません。
> だから、慧解脱というのもあります。
> 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。
禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。
> 「理法」と「法」の使いわけで区別しているのですね。
> わたしは、いつも、なんとなくおもしろいなあと思っているのですが、こういう、ブッダのことばは、そもそも整理されて語られているのもあれば、未整理のまま弟子に与えられるのもあります。
> それでも、ちゃんと数で数えて憶えやすくまとめやすくして、たちまち弟子たちが整頓していくさまは、本当に興味深いです。
> ブッダ自身が数えてまとめたものは、四聖諦、四念処、七覚支のように、たちまち整理され、記憶されていきます。便利なアイテムといった感じですよね。
> でも、この便利アイテムも、智慧を用いて自分で検討しながら実践しないと身につかない、という側面があって、なかなか難しいものです。
> この辺を、わたしはいつも注意しています。つまり、暗記のことばだけにならないように、と。
これはその通りです。
仏教は決められたフレ-ズが多く、wikiでその言葉を調べただけでわかった気になる人がいかに多いか。そういう人はヤフ-掲示板の東哲板には非常に多かったです。
wikiや解説書でなく仏典を直接読んでいけば、たとえば、七覚支にしても、仏陀が繰り返し繰り返し説いていた重要な法をまとめていったことがわかります。
とすると、一語一語の背景や奥深さがわかってきます。
また、その一語一語の正確な意味がわかってきます。
wikiでわかった気になるのは大変危険です。全く違う意味であることが非常に多いからです。
>
> > 筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
> > そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
> > 向こう岸に渡っていないときのことではありません。
>
> 正直にいいますと、実は、わたしも、ずっとそう思って来ました。
> それと関連して、「諸々の法を捨てよ、いわんや非法においておや」と受けとって来たのです。ここは、『楞伽経』にもあったことばです。
> 実際、今回「蛇喩経」の中に、この筏の喩えがあることを知って、また、「蛇の喩え」の直後におかれているのを知って、よく読む機会をえました。どちらの喩えもよく知っていると思っていたのですが、両方合わせて読んでみると、また違った印象をもったのです。
読み返してみて、アリッタ比丘がどのような間違いをしたのかも鍵になると思いました。
> > 私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
> > たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
>
> それは、まったく違っています。おっしゃるようなところには、龍樹は全然関係ありません。
そうですか。失礼いたしました。
> 「蛇喩経」の全体から得たものです。
> よく読むと、ずれがあると思いませんか。
> 【筏の喩え】の意味
> 『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
> また、
> 「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
> こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
> 向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
> 非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
> といいたくなりますが、そうは書いていないのです。
もう一度、読み返してみました。
蛇の喩えも筏の喩えも『渡るためであって、捉えるためではない』ことを言うための喩えであることは確かのようです。
法を学ぶ目的の重要性を説いています。
真摯に涅槃を求め、向こう岸に達するために学ぶ者たちは、法の意味を慧によって考察する。
しかし、愚かな者は、経典を、他者を非難するために学ぶ、とあります。
蛇の喩えも筏の喩えもこのことを第一に言いたくて説いたようです。
『渡るため』というのは、真摯に涅槃を求め、解脱に到達するために、ということです。
『捉えるため』というのは、経典の教えを自慢のため優越感のため、上から目線で他者を否定するために、誤って把握する、という意味です。
そのために、蛇を胴体か尾のところで捕まえることになる、と言います。
この喩えも巧みで、慧によって蛇の首を捕まえる者と誤って胴体や尾のところを捕まえる者とを対比してます。
経典を学んでも、慧のある者は、その本質、その要点、その核心を見抜きます。まさしく蛇の首を捕まえます。
しかし、他者を非難し否定し優越感に浸るために経典を把握する者は、どうでもいい言葉の端々を捕まえて鬼の首を取ったように非難します。蛇の尾をつかむということです。
アリッタ比丘は、『在家の奴は、五種妙楽を受けながら預流者にも一来果にも不還果にもなっている。それなら女性を見ても触ってもいいはずだ。それらのことは障害にならずいいはずだ。』というようなことを自分で結論づけ、仲間たちにもそう説いて回っていたようです。
明らかに非法、悪法です。
その非法を自信満々で、仲間たちに上から目線で優越感に浸りながら説いていたのでしょう。
『力により執着によって固持し、主張した』とあります。
これが、この2つの喩えの背景です。
この2つの喩えを説いた後に、仏陀はこう言います。
『このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。』
それから五蘊非我が説かれます。
つまり、最終的には、仏陀の諸法も五蘊非我として捨てていくものだということですね。
アリッタ比丘のように悪法を捉え捕まえ執着し自我としてはいけないことはもちろんだけれども
仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。
> 「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
> というのが、実は!わたしの思いです。
> つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
> 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
これはどうでしょう。
慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
それほど激流の力はすごく、万力に喩えられる力です。
ゴ-ディカがアリッタのように非法にとらわれたとは思えませんが。
> さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
> あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
> だから、
> むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。
『牛過窓櫺』は禅の公案のなかでも最も難しい公案の一つです。
この『牛の尻尾』の正体やいかに・・・と言ったところです。
長くなりそうなのでいったん切ります。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> 感覚⇒記憶⇒感覚⇒思考⇒連想 と言う流れを見ると感覚を持つ限り、激流に巻き込まれる可能性はいつもあるという事実を言っています。
ふうむ、そうですか。。ちょっと、どうでしょうね。
事実でしょうか。
感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。
わたしには、やっぱり「心配」に見えるんですが。
たとえば、ヨ-ガ学派に、制感(プラティヤ-ハ-ラ)という段階があって、感覚器官を制御することを教えます。また、それよりもずっと前になりますが、ブッダも、亀が甲羅に四肢を引っ込め危険を避けるように、そのように感覚器官を引っ込めて制御しなさいと教えます。
感覚器官を制御する前には、呼吸を意識してそちらに集中するというのも、有効な方法です。
> > だから、慧解脱というのもあります。
> > 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。
> 禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
> 黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
> 慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。
う-む、このあたりも、わたしとはちょっと違う考えのようですが、この辺は、わたしもはっきりしないので、そのままお聞きしておきます。
> これはその通りです。
> 仏教は決められたフレ-ズが多く、wikiでその言葉を調べただけでわかった気になる人がいかに多いか。そういう人はヤフ-掲示板の東哲板には非常に多かったです。
ああ、ときどきそんな方もいます。話が続かなくなってしまいます。
> wikiや解説書でなく仏典を直接読んでいけば、たとえば、七覚支にしても、仏陀が繰り返し繰り返し説いていた重要な法をまとめていったことがわかります。
仏弟子たちにとくに強調して説いたものは、何度も仏典に出てきますし、まとめ方も同じようになっていますね。
おもしろいのは、仏弟子たちだけではなく、他のさまざまな人々に説いたものでも、仏弟子たちに説いたものと、有機的につながっていて、少しも乱れがないことです。
わたしは、ブッダの一切智を実感しますね。どんな法であれ、必ずブッダの体系の枠内のあるべき位置にピタッとおさまっているのを見ると、ほんと驚愕します。
はっきり言って人智を超えていますが、人智から出ていることも確かです。
> > 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
>
> これはどうでしょう。
> 慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
慧解脱については、また、別にショ-シャンクさまのお考えをお聞きすることにします。
> ゴ-ディカがアリッタのように非法にとらわれたとは思えませんが。
ショ-シャンクさまは、「五蘊非我として捨てていきなさい」と先ほどお書きでした。以下のようです。
> 仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。
しかし、これは、まだ諸法(仏法)を捨てるということではないです。ただ、五蘊非我を説くだけです。まあ、でも、これも「わたしのものではないものを捨てなさい」ということだとしますと、実質的には、やがて法を捨てることに繋がっていくかとは、思います。
この辺の微妙な差異に触れているのではないかと思います。
ゴ-ディカ比丘は、アリッタ比丘のようには非法にとらわれたのではないかもしれません。
五蘊非我も達成できたのかもしれません。その点では、アリッタ比丘とは比べものにならないというべきでしょう。
ですが、「五蘊非我を達成した」と思っているなら、まだとらわれています。
「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」は、ここで効いてきますね。
「五蘊非我を達成した」という知見は、この五蘊非我という法は、わたしのものだという思いが残っているということになるでしょう。
ブッダの法である五蘊非我をわたしのものとした(=達成した)、という思いです。
完全に法を達成したときには、法を達成したという思いもなく、ただ比丘であれば、「解脱した。二度とこの状態に戻ることはない」と知るだけです。
つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。
完全に覚った後は、法にこだわることはなくなるわけですが、こだわらないこともなくなるのです。
『スッタニパ-タ』には、このような聖者の境地を、こんな表現で表しています。
811. (第六経第8偈)
聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
812. (第六経第9偈)
蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。
慧解脱でいくと、おそらくは、この辺のカラクリに智慧で気づけるのだと思います。智慧とは、縁起だけではなく、縁起をアレンジした推論なども使えることをさします。
石飛先生、おはようございます。
> 感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。
ずいぶん、簡単ですね。
人間が激流に巻き込まれるのは、五蘊を非我と見ることができないからです。
もちろん、瞑想の時に、五蘊非我を観ずるのはそれほど難しいことではありません。
しかし、日常生活ではそうではありません。
この感覚の中心、思考の中心、記憶の束を『私』と認識しないと、社会生活などできないからです。
自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
そしてそれを中心に利益を守ることもしなければいけません。
他社と自社の利益が相反すれば、自社優先に行動し、結果他社に損害を与えることもあるでしょう。
五蘊非我は観念では簡単ですが、社会生活を踏まえると、困難を極めます。
ですから社会生活をすべて放棄した出家を仏陀はしたし勧めてもいるのでしょう。
しかし、社会生活をしなくても、五官があり感覚があって、肉体として生活していかなくてはいけませんから
必ず『私』と『私以外』との認識が必要となります。
出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。
肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
だから、有余涅槃と無余涅槃で、完全なのは無余涅槃ということでしょう。
> たとえば、ヨ-ガ学派に、制感(プラティヤ-ハ-ラ)という段階があって、感覚器官を制御することを教えます。また、それよりもずっと前になりますが、ブッダも、亀が甲羅に四肢を引っ込め危険を避けるように、そのように感覚器官を引っ込めて制御しなさいと教えます。
> 感覚器官を制御する前には、呼吸を意識してそちらに集中するというのも、有効な方法です。
もちろん、ゴ-ディカは感官制御は当然していたと思います。
> ゴ-ディカ比丘は、アリッタ比丘のようには非法にとらわれたのではないかもしれません。
> 五蘊非我も達成できたのかもしれません。その点では、アリッタ比丘とは比べものにならないというべきでしょう。
>
> ですが、「五蘊非我を達成した」と思っているなら、まだとらわれています。
> 「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」は、ここで効いてきますね。
>
> 「五蘊非我を達成した」という知見は、この五蘊非我という法は、わたしのものだという思いが残っているということになるでしょう。
> ブッダの法である五蘊非我をわたしのものとした(=達成した)、という思いです。
>
> 完全に法を達成したときには、法を達成したという思いもなく、ただ比丘であれば、「解脱した。二度とこの状態に戻ることはない」と知るだけです。
> つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。
>
> 完全に覚った後は、法にこだわることはなくなるわけですが、こだわらないこともなくなるのです。
> 『スッタニパ-タ』には、このような聖者の境地を、こんな表現で表しています。
>
> 811. (第六経第8偈)
> 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
> 812. (第六経第9偈)
> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。
確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。
『牛過窓櫺』の牛の尻尾が通り過ぎないのは駄目なんだ、捉われずに通り過ぎればいいんだ、と考えるようなものです。
しかしながら、ことはそう単純ではありません。
ゴ-ディカの最後を仏陀は認めているからです。
仏陀は悪魔の言うことを退け、ゴ-ディカが涅槃に至ったことを称賛しています。
ゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、とするのであれば、涅槃に至ったということはあり得ないことになります。
『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
過ぎ去ってはいけないのです。
ショ-シャンクさま
> > 感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。
>
> ずいぶん、簡単ですね。
至るのはやっかいですが、書いてしまえば、おっしゃるように一言ですね。
> 人間が激流に巻き込まれるのは、五蘊を非我と見ることができないからです。
> もちろん、瞑想の時に、五蘊非我を観ずるのはそれほど難しいことではありません。
> しかし、日常生活ではそうではありません。
日常生活でも、「非我」、いや、正確には「無我」を実践することもできますよ。
> この感覚の中心、思考の中心、記憶の束を『私』と認識しないと、社会生活などできないからです。
もちろんです。
「この仕事は誰がやるんだ」と上司にいわれて「わたしがやります」と答えるなら、「わたし」はありそうですが。。
> 自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
> 瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
ちょっと待ってくださいね。こんな風に考えてみたらどうでしょうか。
行いには三つあります。身行・口行・心行です。
「わたしがやります」とか
「○○さん」と呼ばれて「はい」と返事をするのは、口の行いです。ことばの使い方です。
心の中の思いは心行ですが、日常生活では、心行が口行に伴うこともあれば、口行だけのこともあります。心にもないお世辞などは、心の行いはないが口の行いはある、という例かもしれません。
しかし、破綻なく社会生活がおくれているのは、いつもいつも「わたし」を意識しているとばかりは言えないからではないでしょうか。
仕事をしている時、大半「わたし」は消えていて、仕事のことばかり考えていたりします。
ときどき『わたしという中心』が意識されるかもしれませんが、しょっちゅうではありません。叱責されたときくらいでしょうか。
こういう状態を観察するなら、「言語に気をつけよう」、「心に思うことに気をつけよう」としていくだけで、感覚や感情にもて遊ばれなくなります。
> そしてそれを中心に利益を守ることもしなければいけません。
> 他社と自社の利益が相反すれば、自社優先に行動し、結果他社に損害を与えることもあるでしょう。
会社の社長さんとか、仏教を勉強して、取り入れている人が多くいますね。
自社の利益と相手の損害とを考慮しつつ、ともにある程度共存できるように調整したりするかもしれません。また、自社の利益のみ追求したりもするかもしれません。それは、会社の方針などいろいろな事情によるかもしれないです。
> しかし、社会生活をしなくても、五官があり感覚があって、肉体として生活していかなくてはいけませんから
> 必ず『私』と『私以外』との認識が必要となります。
それはもちろんです。そういう場合は、社会全体を考えたり、他者とともに生きる自分を考えたりします。そして、「自分が愛しいなら他者を害してはいけない(他人にされて嫌なことは自分はしない)」という、ブッダの教えの原則に従って行為することになるでしょう。こうすれば、一番苦しみが少ない行為になります。
自他というのは、「わたし」ではなく、相対的な関係ととして、「他」とともに意識される、そのような「自分」という意味になってきます。「エゴ」「わたし」という自我意識とは少し違う関係のように思います。
> 出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
> どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。
いや、違います。自分のものだから食べるのではありません。
(他により)与えられたものだから、食べてもよいのです。与えられないものを(自分のものとして)取ってはならない、というのが、不偸盗の戒ですが、これは、「自分のもの」を保護する教えととらない方がよいと思います。
むしろ、「自分のもの」として抱え込まない行為により、他者と共栄共存できるのではないかと思います。自社の利益ばかり追求すると、他の人々の支持を失っていくでしょう。
>
> 肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
そうなってくると、たえず五蘊非我を考えていなければならないかもしれませんね。
色蘊は非我である、と意識しつづける必要があるのかもしれないですが、わたしは、大半「色蘊」の存在を忘れているので、いつも考えるべきだという必然性を感じません。
むしろ、多くの場合、非我であり、無我でありつつ、呼ばれたら口行として返事をするということをしています。注意しなければならないのは、どういうときでしょうか。
強く「われ」「わがもの」が意識される場面です。
「おまえの責任だ」とか「おまえがやれ」とか言われる状況で、自分の責任ではないと思ったり、自分はやりたくないと思ったりする場面です。
強い苦しみを感じ、「なんでわたしが…」と愚痴りたくもなってきます。
現実生活は、実際、こんな感じではないでしょうか。
こういうことであれば、これはこれで気をつけることにより、感覚を制御していくことが可能になります。一つのコツは、他者との相対的な関係を考えて生きることです。
> 確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。
え? いや、わたしは、そうは言っていません。
>
> 『牛過窓櫺』の牛の尻尾が通り過ぎないのは駄目なんだ、捉われずに通り過ぎればいいんだ、と考えるようなものです。
>
> しかしながら、ことはそう単純ではありません。
> ゴ-ディカの最後を仏陀は認めているからです。
> 仏陀は悪魔の言うことを退け、ゴ-ディカが涅槃に至ったことを称賛しています。
>
> ゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、とするのであれば、涅槃に至ったということはあり得ないことになります。
「退転して自殺した」というのは、よくわからないですね。
退転したら自殺しないでしょう。
わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。
> 『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
> 過ぎ去ってはいけないのです。
ああ、そうなんですか。
な~る!
> 811. (第六経第8偈)
> 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
この詩の前半が効いてきますね。中道として生きなければならない、ということでしょう。
そこが難しかったので、入滅したのですね。
「愛することもなく愛さないこともない」ように、「わたしがあるのでもなくないのでもない」ように生きる、というのが、ゴ-ディカ比丘には難しかった、ということではないかと思います。
これ、難しい公案なんですね。確かに、ここを実践的に生きるのは智慧がいるな、と思います。
菩薩っぽいですね。
ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ったかも。。
石飛先生、ありがとうございます。
> > 自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
> > 瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
>
> ちょっと待ってくださいね。こんな風に考えてみたらどうでしょうか。
>
> 行いには三つあります。身行・口行・心行です。
> 「わたしがやります」とか
> 「○○さん」と呼ばれて「はい」と返事をするのは、口の行いです。ことばの使い方です。
> 心の中の思いは心行ですが、日常生活では、心行が口行に伴うこともあれば、口行だけのこともあります。心にもないお世辞などは、心の行いはないが口の行いはある、という例かもしれません。
ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
私はあり得ないと思っているのです。
心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。
もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。
> しかし、破綻なく社会生活がおくれているのは、いつもいつも「わたし」を意識しているとばかりは言えないからではないでしょうか。
> 仕事をしている時、大半「わたし」は消えていて、仕事のことばかり考えていたりします。
> ときどき『わたしという中心』が意識されるかもしれませんが、しょっちゅうではありません。叱責されたときくらいでしょうか。
> こういう状態を観察するなら、「言語に気をつけよう」、「心に思うことに気をつけよう」としていくだけで、感覚や感情にもて遊ばれなくなります。
確かにそれはそうですね。
その通りだと思います。
> > 出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
> > どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。
>
> いや、違います。自分のものだから食べるのではありません。
> (他により)与えられたものだから、食べてもよいのです。与えられないものを(自分のものとして)取ってはならない、というのが、不偸盗の戒ですが、これは、「自分のもの」を保護する教えととらない方がよいと思います。
そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。
ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。
> むしろ、「自分のもの」として抱え込まない行為により、他者と共栄共存できるのではないかと思います。自社の利益ばかり追求すると、他の人々の支持を失っていくでしょう。
現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。
> > 肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> そうなってくると、たえず五蘊非我を考えていなければならないかもしれませんね。
> 色蘊は非我である、と意識しつづける必要があるのかもしれないですが、わたしは、大半「色蘊」の存在を忘れているので、いつも考えるべきだという必然性を感じません。
>
> むしろ、多くの場合、非我であり、無我でありつつ、呼ばれたら口行として返事をするということをしています。注意しなければならないのは、どういうときでしょうか。
> 強く「われ」「わがもの」が意識される場面です。
> 「おまえの責任だ」とか「おまえがやれ」とか言われる状況で、自分の責任ではないと思ったり、自分はやりたくないと思ったりする場面です。
> 強い苦しみを感じ、「なんでわたしが…」と愚痴りたくもなってきます。
> 現実生活は、実際、こんな感じではないでしょうか。
> こういうことであれば、これはこれで気をつけることにより、感覚を制御していくことが可能になります。一つのコツは、他者との相対的な関係を考えて生きることです。
これは確かにそうですね。
こころします。
> > 確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。
>
> え? いや、わたしは、そうは言っていません。
そうでしたね。
先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。
> わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。
もちろん、そうですね。
> > 『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
> > 過ぎ去ってはいけないのです。
>
> ああ、そうなんですか。
> な~る!
>
> > 811. (第六経第8偈)
> > 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> > 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
>
> この詩の前半が効いてきますね。中道として生きなければならない、ということでしょう。
> そこが難しかったので、入滅したのですね。
>
> 「愛することもなく愛さないこともない」ように、「わたしがあるのでもなくないのでもない」ように生きる、というのが、ゴ-ディカ比丘には難しかった、ということではないかと思います。
> これ、難しい公案なんですね。確かに、ここを実践的に生きるのは智慧がいるな、と思います。
> 菩薩っぽいですね。
> ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ったかも。。
先生、さすがですね。
『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。
『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』
> > 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』
>
> 落ちていないかな ? ( 拾っては いけない )
わかってないようですね。
過ぎ去るのは実はすごいことなのです。
回り来たるのはすごくないですが。
『落ちていないかな ? 』って何がですか?
『( 拾っては いけない )』
これで、わかってないことがはっきりします。
ショ-シャンクさま なかなかツッコミどころが厳しいですね(笑)
たしかにそうだなと思うところがいくつかあります。
> ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
> 私はあり得ないと思っているのです。
> 心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。
確かに、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という気持をもって、ことばを発することはありますね。
その意図があるから、意図通りに「わたしは、そう思ってないけど、相手が喜ぶからこう言ってみる」として語るとすれば、その意図が透けて見えるとき「かれは心にもないお世辞を述べた」と言われるのですよね。
さらに、この場合、単純に相手を喜ばせたいと望む場合、もっと腹黒い意図をもっていて騙そうとする場合、違いがあります。もしかすると、お世辞ではすまなくなってうそをついたと見なされるかもしれません。
また、自分の意図を隠していても相手に見透かされている場合もあります。
> もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
> 日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。
ですね。
しかし、何かを語る場合、自分としては板挟みのようになって、どちらにも荷担せずただ機械のようにまた空念仏のように事実のみ語る場合もでてくるかもしれません。すごくいろいろな語り方が可能になります。
> そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。
確かに出家したことがないので、わたしも何とも言えませんが、「わたしのもの」とは考えないようにと教えられるのではないかと思います。
何だったか、昔、釈尊が菩薩の頃、辟支仏が一人出て、清らかなかれが托鉢をしていると、ある家の人がたくさんの食べものをお布施したら、菩薩の釈尊が嫉妬して、相手の辟支仏のお鉢を見せてくれとと頼んで、辟支仏が見せると、それを地面にぶちまけたというお話しがあります。
そうすると辟支仏は、あなたが望むならこの食べものをあげようと思っていたのに、と言って去っていきました。その自分の行為によって、菩薩の釈尊は地獄で長いこと苦しんだとありました。お釈迦さんもいろいろあるんですね。
托鉢は、厳しい修行の一貫です。
> ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
> 逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。
ああ、アンバパ-リ-とリッチャヴィの若者たちが争ってましたね。在家の人々だから、仕方ないところもあるのかもしれませんね。
> 現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
> サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
> パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
> 逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
> どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。
まあ、厳しい商売の世界ではおおかたはそうかもしれませんが、長く続く商道徳のしっかりした商人は、違う考え方をもっている人もいます。顧客にも商人同士も、利益になるように、として、信用を大切にする人もいるかと思います。薄利多売より、商品の質を大事にする場合もあるかもしれません。
何にしても生き残っていくのはたいへんです。
>
>
> そうでしたね。
> 先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。
>
>
> > わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> > 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。
>
> もちろん、そうですね。
ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ってしまって、まあ、残念です。
本人は涅槃に入るとしても、せっかくの阿羅漢がもったいなかった、という感じがします。
多くの人々の利益となりえたのに。
> 先生、さすがですね。
> 『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。
そうなんですかね。
空の効いた仏法のようですね。
> 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』
やはり、ここは、般若波羅蜜で行かないと難しいのかもしれませんねぇ。
石飛先生、こんにちは。
> > > だから、慧解脱というのもあります。
> > > 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。
>
>
> > 禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
> > 黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
> > 慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。
>
> う-む、このあたりも、わたしとはちょっと違う考えのようですが、この辺は、わたしもはっきりしないので、そのままお聞きしておきます。
> > 慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
>
> 慧解脱については、また、別にショ-シャンクさまのお考えをお聞きすることにします。
> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
>
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。
>
> 慧解脱でいくと、おそらくは、この辺のカラクリに智慧で気づけるのだと思います。智慧とは、縁起だけではなく、縁起をアレンジした推論なども使えることをさします。
終わりにしようと思っていましたが、
先生が私と考えが違うと言われた、心解脱や慧解脱について簡単に私の考えを書いて終わりにします。
心解脱と慧解脱の両方の解脱を成し遂げたのが、倶分解脱です。
『無色の解脱に身をもって触れて住みます。しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』と言われます。
慧解脱は、『無色の解脱に身をもって触れずに住みます。しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』とあります。つまり、禅定による解脱の体験はなく、慧をもって煩悩が尽くされています。
煩悩が尽くされる慧は漏尽智です。
漏尽智は、四諦の法を洞察することで煩悩が滅尽することに至る智慧です。
心解脱は、禅定によって解脱することです。想受滅まで至る禅定です。
慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。
ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。
禅定至上主義です。
ですから、禅は心解脱だと思っています。
ゴ-ディカは心解脱まで行っても6回も退転しました。
慧解脱でも退転があるかどうかはわかりません。
しかし、禅定力がない以上、肉体や五官を持っている限り退転もあり得ると思っています。
さすがに、倶分解脱であれば退転はないかもしれませんが。このあたりは想像にしか過ぎません。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> 先生が私と考えが違うと言われた、心解脱や慧解脱について簡単に私の考えを書いて終わりにします。
そうですね、わたしも、出るべきものは出てしまったかなという感じがしました。
> 心解脱と慧解脱の両方の解脱を成し遂げたのが、倶分解脱です。
> 『無色の解脱に身をもって触れて住みます。しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』と言われます。
なるほど、そうですね。
>
> 慧解脱は、『無色の解脱に身をもって触れずに住みます。しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』とあります。つまり、禅定による解脱の体験はなく、慧をもって煩悩が尽くされています。
> 煩悩が尽くされる慧は漏尽智です。
> 漏尽智は、四諦の法を洞察することで煩悩が滅尽することに至る智慧です。
ここも、おっしゃるとおりで、よいと思います。
> 心解脱は、禅定によって解脱することです。想受滅まで至る禅定です。
> 慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。
> ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。
実際、やってることを見ますと、そう見えるかもしれませんが、わたしは、そうでもないと思っています。
禅は確かに四諦の瞑想は行っていないようですが(わかっていってるわけではなく、そう見えるというだけですが)、しかし、無我や非我は瞑想の対象になっていると考えられますので、実質的には、苦のない境地を得ると思います。
道元のものを読みますと、四聖諦や諸行無常など、ちゃんと会得しています。
> 禅定至上主義です。
> ですから、禅は心解脱だと思っています。
禅定至上主義であっても、智慧の部分をずいぶんもっていますよね。
「十牛図」の第八図以降は智慧を用いないとでてこないのではないかという気がします。
無色の解脱に触れるのが、心解脱ですよね。その後、想受滅を体験して覚りに至ります。
これは、黙照禅や公案禅の禅定とたぶん重なっているのではないかとにらんでいます。
禅は、禅定を修行の根本におきますが、行いとしては口行の部分も多くもちます。
話す話し方が重要になってくることを、知っているため、禅は欠かせないのだと思います。
>
> 慧解脱でも退転があるかどうかはわかりません。
> しかし、禅定力がない以上、肉体や五官を持っている限り退転もあり得ると思っています。
どうでしょうね。肉体や五官は、智慧を求めるものにとっては、それほどのものではないようにも思います。
智慧を得るというのは、信じられない程の力があります。しかし、その智慧にも個人差や段階があるかもしれません。菩薩などでも、退転する菩薩、不退転の菩薩がいますから、智慧の程度によるかもしれません。
本願他力にすがる衆生は、信だけしかないようですが、この「信」によって、やすやすと智慧に行きます。惑うことがないからではないでしょうか。
こう考えると、五根五力のどの項目一つによっても、覚りにいけそうですね。
わたしは、ブッダの頃の禅定と、大乗になって禅宗などで行われる禅定とが、根本において、そう大きくちがっているとは思いません。
自分では、行えるわけではないですが、智慧によって調べていると、そんな気がしてきます。
わたしも、自分で気付いた点をお話ししてみました。
ショ-シャンクさん、管理人エムさん。
>> 後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。
>
>落ちこぼれさま、待ってますわ。
私はネットでの対話は苦手なんですよね。ハンドルネ-ム<おちこぼれ>からも分る通り何をやっても周りから取り残されちゃっていますのでw
ショ-シャンクさんのように素早くネット上で会話の返しもできなくて、ひどい時は2,3日考えに考えてもまとめられず、あきらめて返信を放棄する場合もありますから。
それと、大筋でショ-シャンクさんの発言に共感するってことは、申し訳ないが管理人エムさんの発言には共感しずらいことが多いってことです。
だから過去の対話でも平行線になる場合が多くありました。しかし、これは割り切るしかありません、最終的には自分が納得できるか否かってところに帰着しますからね。
納得できなければ平行線で終わるだけです。でも、それでもいいと思います。対話ではいろいろ調べながら発言しますので副産物としていろんな発見があります。
平行線であっても収穫がある場合が多いんです。だから意見が違っていても対話する価値はあると考えています。
エムさんとは初期仏教と部派仏教そして大乗仏教の捉え方が根本的に異なっているんだから、そこはある程度認識して対話するしかないからね。
それでも、おかしい所(納得できないこと)はおかしいと発言してもいいですよね? だっておかしいんだからw
たとえば、ショ-シャンクさんとの対話の中でも出てきていますが、「中道」に関することです。
過去ログの中でも度々出てきますら、たぶんエムさんにとっては中核に位置している重要事柄なのでしょう。
★ [No.21812]
> 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
>
> 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。
> たとえば、ショ-シャンクさまのような、努力する人にとって、これは、もっとも苦しみがすくないやり方なのです。
龍樹の説く「中論」を読み解いて真理表15(FFFT)を「龍樹の説く中道」とするのならまだ理解できます。
しかし、これをブッダ釈尊が説いた「中道」と同一視するのは疑問ですね。私は違うと考えています。
その理由は★ [No.21880]の中で記述された(『中部』第26経「聖求経」)にもヒントがあると思いますが、どうでしょうか。
「龍樹の説く中道」を追求していけば、最終的には大乗仏教が説く無分別智に辿り着くことが出来るでしょう。
しかし、ブッダ釈尊が説く漏尽智を得ることは難しいと考えています。漏尽智を得る道(釈尊の説く中道)こそが解脱への道だと考えています。
はっきり言って書きたくなかったが、書いてしまいました。
おちこぼれさま こんばんは。
> 私はネットでの対話は苦手なんですよね。ハンドルネ-ム<おちこぼれ>からも分る通り何をやっても周りから取り残されちゃっていますのでw
> ショ-シャンクさんのように素早くネット上で会話の返しもできなくて、ひどい時は2,3日考えに考えてもまとめられず、あきらめて返信を放棄する場合もありますから。
対話は苦手とおっしゃるのに、むりやり誘ったようですみません。
>
> それと、大筋でショ-シャンクさんの発言に共感するってことは、申し訳ないが管理人エムさんの発言には共感しずらいことが多いってことです。
それは、全然かまいません。
共感しずらい人は、山のようにいると思います。
だいたい書き込んでくれる人は反対の意見をもっている人が多いです。
> だから過去の対話でも平行線になる場合が多くありました。しかし、これは割り切るしかありません、最終的には自分が納得できるか否かってところに帰着しますからね。
> 納得できなければ平行線で終わるだけです。でも、それでもいいと思います。対話ではいろいろ調べながら発言しますので副産物としていろんな発見があります。
> 平行線であっても収穫がある場合が多いんです。だから意見が違っていても対話する価値はあると考えています。
わたしもそうです。だから、対話しています。共感しやすいです、今のところ(笑)
> エムさんとは初期仏教と部派仏教そして大乗仏教の捉え方が根本的に異なっているんだから、そこはある程度認識して対話するしかないからね。
> それでも、おかしい所(納得できないこと)はおかしいと発言してもいいですよね? だっておかしいんだからw
もちw です。
>
> ★ [No.21812]
> > 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> > 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> > 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
> >
> > 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。
> > たとえば、ショ-シャンクさまのような、努力する人にとって、これは、もっとも苦しみがすくないやり方なのです。
>
> 龍樹の説く「中論」を読み解いて真理表15(FFFT)を「龍樹の説く中道」とするのならまだ理解できます。
> しかし、これをブッダ釈尊が説いた「中道」と同一視するのは疑問ですね。私は違うと考えています。
> その理由は★ [No.21880]の中で記述された(『中部』第26経「聖求経」)にもヒントがあると思いますが、どうでしょうか。
「ブッダの中道」はどんなものですか。「聖求経」は以下のようなものですね。
実にわたしによって得られたこの法は、深淵で、見がたく、理解しがたく、寂静であり、卓越していて、思考の領域にはなく、微妙であって、賢者によってのみ知ることのできるものである。
しかるに、人々は愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している。愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している人々には、「これに縁ること」であり、縁って起こるものである、このような道理は見がたいし、また、一切の形成力(行)の止息であり、一切の再生へのよりどころを捨てるものであり、渇愛の滅尽であり、離欲であり、止滅であり、涅槃である、このような道理も見がたい。(『中部』第26経「聖求経」)
> 「龍樹の説く中道」を追求していけば、最終的には大乗仏教が説く無分別智に辿り着くことが出来るでしょう。
なるほど、直接得られそうなのは無分別智かもしれませんね。
> しかし、ブッダ釈尊が説く漏尽智を得ることは難しいと考えています。漏尽智を得る道(釈尊の説く中道)こそが解脱への道だと考えています。
その中道は、十二支縁起ですか?
> はっきり言って書きたくなかったが、書いてしまいました。
あらあ、すみませんねぇ。むりやり書かせてしまって、ごめんなさいね。
なんとなく、了解する部分もありそうな感じがしてきました。
釈尊の説く中道は、苦楽二辺の中道、有無二辺の中道のあたりでしょうか。
苦楽二辺だと「苦でも楽でもない」という中道があり、有無二辺だと、「生滅」を説くか、寂滅するかですよね。
生滅が、釈尊の中道で、寂滅は、龍樹の中道、って感じに見てるのかな? 合ってます?
> > あまりにも観念的です。
> > 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。
>
> 意識して、 現成している “ 現実 ” を
> Dukkha ・ 仮にあるモノ と観る ( 行ったり来たり )
>
> 向こう岸にない から 今ここで 意識する
>
> 18願 寂滅に入らない
>
> たとい我 仏を得んに
>
> 十方の衆生 至心に信楽 して
> 我が国に生れんと欲し( 願生浄土 )
> 乃至十念せん 若し生れずば
>
> 正覚を取らじ
>
> ・
春間さん、これに関しても、そうです。
私は『筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、あまりにも観念的です。』
と書いたのですが『あまりにも観念的です。』だけ切り取られています。
そもそも、この投稿の主旨は仏陀が言った『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』という言葉です。
これがテ-マです。
投稿の本旨は無視して、端々の言葉を切り取ってあれこれ言うのではなく
もし本当に真摯に話し合いたいのであれば、正面からちゃんと相手の目を見て、本旨を外さずに堂々と受け答えすべきですね。
筏のことを言及したいようなので言っておきますと
例えば、浄土教の熱心な信者に対し、初めから『阿弥陀仏も筏ですよ。筏は捨てなければならないことを強く意識しておくべきです』と言いますか?
彼岸に達するまでは、その筏を命綱とするでしょう。
> そのように読む 観念的な読み方 が 自分の 観念 に 起きている
それは春間さんもそうです。人に言う前にまずは自分を見つめるべきです。特に春間さんは自分を棚に上げて人にあれこれ言うことばかりですから。
> しかし、 自分の事 は 棚に上げる
これ、まさしく、春間さんです。
> > そもそも、この投稿の主旨は仏陀が言った『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』という言葉です。
> > これがテ-マです。
>
> あなたが言っていることは 仏陀 の 言っていることと同じですか ?
意味のない質問です。
私は、中部経典『蛇喩経』の中の仏陀の言葉を引用しているのです。
> ( で あれ ば 、
> 今ある 「 苦 」 とは あなたにとって 何ですか ? )
まずは、春間さんがどう思っているのか、自分自身の考えをはっきり示してください。いつも春間さんは、自分お考えを言おうとしないので。私の考えはすでに数多く述べてきました。
> > 例えば、浄土教の熱心な信者に対し、初めから『阿弥陀仏も筏ですよ。筏は捨てなければならないことを強く意識しておくべきです』と言いますか?
>
> もし、 その人に、 本当に 熱望する心があるのであれば
> 言います
それでは、今までの人生で、実社会で、浄土教の人に『阿弥陀仏も筏だから捨てることを強く意識していないといけない』と言ったのですね。
本当に言いましたか?その反応はどうでしたか。
スマナサ-ラのこの解釈はおかしいと思いませんか?
『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』
kha が空、からっぽ、という意味であれば、「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
空、からっぽの否定、となるはずです。
からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。
> スマナサ-ラのこの解釈はおかしいと思いませんか?
>
> 『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』
>
> kha が空、からっぽ、という意味であれば、「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
> 空、からっぽの否定、となるはずです。
>
> からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
>
> dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。
みなさまこんにちは。
【du そんなに大事なものでない(価値のない)→kha 空っぽのもの】
という意味ではないでしょうか?
私が昔いただいた施本では、
『同様に、Dukkhaという語の「du」は「価値がない、賤しい、評価するに値しない」という前置詞です。
「kha」は「からっぽ」という意味です。
「du」という前置詞は「からっぽ」の意味を強調します。
評価にも値しないほど空っぽである、という意味のDukkhaです。
ですから「一切は苦である」ということは「一切のものは無意味で価値がなく、気にするものではない」という意味になるのです。』
(『なぜ苦は偉大なる真理なのか』A・スマナサ-ラ長老、日本テ-ラワ-ダ仏教協会施本、p34より引用)
となっていました。
ショ-シャンクさんが引用されたものから、文章を訂正されたのかもしれませんね??
似た文章の載った施本を持っていたので、投稿させていただきました。
失礼します m(_ _)m
pipitさん、こんばんは。
すみません。
またまたスマナサ-ラの悪口を言って、pipitさんに嫌な思いをさせてしまいました。
でも、施本の紹介ありがとうございます。
私の引用した文章は、
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-157/
からです。
『du』が強調の前置詞であれば、『評価に値しないほどの空っぽ』というようなものになりますね。
ところで、本当に、dukkhaが、duとkha からできていて『評価に値しないほどの空っぽ』という意味であれば、
piyehi dukkha 怨憎会苦 のdukkhaはどうなるのでしょう。
憎んでいる人と会うことは、空しいとか空っぽというようなものではないはずです。
苦しみそのものだと思います。
このように、四苦八苦のdukkhaが八苦ごとに違った意味を持たせられるのであれば、非常に不完全で不適切な言葉を仏陀は使ったことになります。
それはあり得ないので、dukkhaは苦以外の何物でもないと、私は思っています。
ショ-シャンクさん、返信ありがとうございます(^人^)
私個人の今の感覚で言えば、
痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。
厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
と、ぼんやりと 思います。
pipitさん、ありがとうございます。
> 私個人の今の感覚で言えば、
> 痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。
> 厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
> と、ぼんやりと 思います。
おっしゃる通りだと思います。
痛み、苦しみ、でないと、厭離に赴くことにはなりません。
無価値などと言う生ぬるい感覚ではないと思っています。
それでは、なぜ、そのように苦しみ、痛み、なのに、それに気づかない人が多いのか、です。
それは生まれたときから縛られた状態だからです。
『海の上のピアニスト』という映画がありました。
船の上で生まれ、ずっと船で生活してきた人の話です。
彼にとっては、その船が全世界だったのです。
陸に上がって生活するように言われた彼は拒否します。
ちょうど人間はそのようなものなんだと思います。
生まれたときから縛られているために、それが苦痛と感じないのです。
しかし、いったん、束縛が解かれ、自由に広大な世界を走り回ることができそれが本当だと気づいたときには
再び鎖で縛られたときには、物凄い苦痛を感じるはずです。激痛です。
それは空っぽとか空しいとかではないのです。
苦しみ以外の何物でもないはずです。
ショ-シャンクさんへ
返信ありがとうございます♪(^-^)
ショ-シャンクさんと議論する、とかではなく、頭に浮かんだことを書きます。
さっき、三相、という ことば が、浮かんでいました。
無常、苦、無我
どの相に心が触れる?か?は、個性あるのかも?
というようなことを思いました。
?ばっかりですみません。失礼しました m(_ _)m (^-^)
> 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> と知ることは
> Dukkha です
四苦で、
『老』に価値があると思っている人はいません。
『病』に価値があると思っている人はいません。
『死』に価値があると思っている人はいません。
価値があると思っていることから貪が起きます。
価値があると思って貪を起こすのがdukkha=苦です。
価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。
それはdukkhaとは正反対のことです。
>
> > > > 価値があると思っていることから貪が起きます。
> > > > 価値があると思って貪を起こすのがdukkha=苦です。
> > > > 価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。
> > > 自己の打ち立てた ( → それは、 自己中 では “ 正しい姿 ” )
> > > その姿 は 自己 が 量って 「 苦 」 ではない とされる
>
> > だから、なに?
> > こうして、誓願が生まれ、菩薩が出てくるのでは?
>
> あなたが見る “ 姿 ” は 、 “ あなたが見たいと望む姿 ”
> そのようにして 見たいという 欲望 が 起きる
> ( 欲望に沿って、 欲望が起こされる )
>
もう、そういうことではなくて、もう少し違うところに目をつけてほしいのです。
「価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。」
ショ-シャンクさまが述べている上のことばに意味があると言いたいのです。
「価値がある」と思っているものに「価値がない」と知ること
「ある」と思っているのに「ない」と知る、
ここが大事なことだと述べているのです。
ここにブッダの安らぎを求めるのです。それが、仏教だと。
> もう、そういうことではなくて、もう少し違うところに目をつけてほしいのです。
わたしの言うこと には 価値はない ( 不利益 を 生む )
> 「価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。」
「 智慧です 」 と、 智慧ある者 は 智慧を表出する
> ショ-シャンクさまが述べている上のことばに意味があると言いたいのです。
あなたは、 そこに、 智慧を見出す ( 智慧を望む 故に )
> 「価値がある」と思っているものに「価値がない」と知ること
> 「ある」と思っているのに「ない」と知る、
> ここが大事なことだと述べているのです。
ここ には わたしが はいれない ( 入れられること が 無い )
わたし は 大事を壊失 している ( 故 )
故知 般若波羅蜜多
依 般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提
般若波羅蜜多 には 「 多 」 があるが それは tA である
あなたの生き様 以外にも 「 他 」 は 起きる
> ここにブッダの安らぎを求めるのです。それが、仏教だと。
“ それも 「 仏教 」 ” であるのであれば、
唯一 という 「 真理 」 は 成り立たない
( 唯一には 唯一の側面 )
そのようなこと に 「 自性 」 という語 が 当てはめられる
自称 智慧ある者 に
・
> 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> と知ることは
> Dukkha です
> スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています
もし、スマナサ-ラを擁護したいのであれば、スマナサ-ラが言ったことを理解してからにしないと、それこそ『評価に値しないほどの空っぽ』な投稿になって、誰からも返信されないですよ。
スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。
私は、スマナサ-ラが言っていることもわからないではないのです。スマナサ-ラは理解の上で根拠をもって書かれていますので、それはそれで尊敬します。
しかし、春間さんの投稿は、理解してないのにもかかわらずあらゆる投稿にいっちょかみするので『評価に値しないほどの空っぽ』と見られてしまっているように思えます。
あまりにもストレ-トな言い方過ぎてすみませんが。
それは、どれもこれもその投稿の本質部分ではなく、言葉の上っ面をその投稿の本旨関係なくあれこれ言うことに終始しているので『評価に値しないほどの空っぽ』感が半端ないのです。
ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
芳和さんはああいう人ではありますが、自分が考えに考えて自分が本当に書きたいことを投稿してます。また、春間さんのように、石飛先生から認められていることを葵の御紋にしたりはしません。芳和さんと春間さんは瓜二つなほど似ていますが、その点が違います。
春間さんも、これからは、あらゆる投稿に理解しないまますべていっちょかみするのではなく、自分が本当に考えに考えて、その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿されたほうがいいのではないでしょうか。
★ [No.21873] 春間さん、自らの変革の時では? 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2021/06/17(Thu) 11:57:33
> > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > と知ることは
> > Dukkha です
> > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています
あなたの評価が ここに起きている
> もし、スマナサ-ラを擁護したいのであれば、スマナサ-ラが言ったことを理解してからにしないと、それこそ『評価に値しないほどの空っぽ』な投稿になって、誰からも返信されないですよ。
分かり易くするように、 順を変えて於く
> 私は、スマナサ-ラが言っていることもわからないではないのです。スマナサ-ラは理解の上で根拠をもって書かれていますので、それはそれで尊敬します。
わたしには 、 ( 尊敬が起きない が 批判は起きる )
スマナサ-ラ氏 の 言うことが
あなたの知るよう には 分かってはいない
わたしは、 下記に、あなたの理解 を 披見する
*************
スマナサ-ラのこの解釈はおかしい
> 『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』
kha が空、からっぽ、という意味であれば、
「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
空、からっぽの否定、となるはずです。
*************
> 「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になる
小ではなく、 劣っている という意味 を 小 と言っている
大事に 抱えているけれど、 同じ生(聖) を 生きることは 当たり前のこと
なぜ、抱えて 運ばなければならないか ?
大事 の 「 生 」 に ない 故 ですが
( 故 「 縁起 」 に起きる )
小事 は 小さくても 大事にすると、 大きく育ってしまう( 小事を 養う )
( ここに、 空海から最澄へ伝える 「 供養 」 が
大事・大乗 としてあり → 大(近くに見る大切) → 横井氏 の 「 電車 」
それ を 、 「 法幢 」 として 「 共建 」 する )
真面目に読まなければ、 意味は取れず
意味が取れないのであれば
読み取る意味は 読む前にある
自分の姿 ( 他人の姿 は 読みとれないところ にある )
ややこしく、 分かりにくい記述ではあるが
読むこと は
わたしとあなた に 起きていて、
いつもわたしは ( あなたを読みながら ) 自分を読んでいる
> からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
シュ-ニャ は 空っぽ ではなく 梵 の シュ-ニャ です ( 日本語の “ 空っぽ” であること も ある )
あると確信している その確信 が シュ-ニャ であるのなら
シュ-ニャ に 意味を与える事 が シュ-ニャ です
( ここが、 読み取りにくいところ )
いくら 読みがたくとも これが、 ここでの、 唯一の表現( 意味 )
あなたは 意味 を ( 二つに分けてしまい )
その一つ を 一つだけのモノ と する
> dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。
そこに起きる “ 少しだけ ” の 「 理 」 を 大きく取り上げて
自分事とする そのようなこと は 小事ではなく 大事です
*************
> スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。
どうして、 その 読み方(意味・わけ) が
ブッダ の いうこと・伝える事 に同じ なのか ?
あなたは、 自分なりに( 自分の言うことを ) 伝えようとする
> しかし、春間さんの投稿は、理解してないのにもかかわらずあらゆる投稿にいっちょかみするので『評価に値しないほどの空っぽ』と見られてしまっているように思えます。
あなたは、 そのように評価する
そうでない評価 は 『評価に値しないほどの空っぽ』 とされる
本当に、 値しないモノ なら、
そのように評価することが 値になっていること が
『評価に値しないほどの空っぽ』 の 値 と なる
( このこと が あなた自身 には 当てはめられず、 他にのみ 当てはめられる )
本当の評価 は 自分の(自分で起こす)評価 ではなく
他によって 起されるが
「 自他不二 」 を 知らぬ内 は
( 内にも外にも )
「 我 」 だけがいる ( 「 偏 」 に 拠る )
ここが難しい 「 天上天下 唯我独尊 」 ・ 内外において 我は正しい
> それは、どれもこれもその投稿の本質部分ではなく、言葉の上っ面をその投稿の本旨関係なくあれこれ言うことに終始しているので『評価に値しないほどの空っぽ』感が半端ないのです。
自分で言っていることを、 自分が聞いていますか ?
> ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
煮詰めない のは 、 あなたの行為
人のせいで、 あなたは 煮詰められない
> 芳和さんはああいう人ではありますが、自分が考えに考えて自分が本当に書きたいことを投稿してます。また、春間さんのように、石飛先生から認められていることを葵の御紋にしたりはしません。芳和さんと春間さんは瓜二つなほど似ていますが、その点が違います。
石飛さん は 葵の紋 の 使用許可を(みだりに)与えるようなことはしない
故に 春間に それ が ある という見方 は 怪しくなる 、、、、
> 春間さんも、これからは、あらゆる投稿に理解しないまますべていっちょかみするのではなく、自分が本当に考えに考えて、その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿されたほうがいいのではないでしょうか。
あなたの 投稿
( その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿 )
を 参考にすると
わたしの投稿 が 起きてくる
( あなたは、 すでに 参考 されている )
以上 これを読むあなた は これを読みとる
一人読むときには 二人と知る ( そこに親鸞がいる )
二人・フタリ いるときには ミタリ・三人 としる ( そこを ミタリ )
ミタリ・見たり と知る “その一人” が 三人・ミタリ に 起きている
三人 居様 とも 一人の 生( 一つ の生 ・ 一つだけ の生 )
ひとりごと ( 一人が 読み取る 「 生 」 )
・
> > > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > > と知ることは
> > > Dukkha です
> > > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています
> あなたの評価が ここに起きている
春間さん、何を言ってるんですか。
> > > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > > と知ることは
> > > Dukkha です
> > > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています
というのは春間さんが書いた文章ですよ。
自分が書いたことを忘れましたか?
> > からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
> シュ-ニャ は 空っぽ ではなく 梵 の シュ-ニャ です ( 日本語の “ 空っぽ” であること も ある )
これも何言ってるんですか?
スマナサ-ラはシュ-ニャのことを言っているのではありません。
dukkha の『kha』を空っぽとか空しいという語源解釈しているのです。
> > スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。
> どうして、 その 読み方(意味・わけ) が
> ブッダ の いうこと・伝える事 に同じ なのか ?
これも何を言ってるんですか?
いまはスマナサ-ラの言葉を取り上げています。
スマナサ-ラは春間さんが書いたような『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』と言っているわけではなく、dukkhaという言葉が、『空っぽ、空しい』『評価に値しないほど空っぽ』と言う意味だと言っているのです。
> > ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
>
> 煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
> 煮詰めない のは 、 あなたの行為
>
>
> 人のせいで、 あなたは 煮詰められない
ジャンヌダルク問題は実はキリスト教の根幹に関わる大問題を抱えているのです。
ジャンヌダルク処刑裁判は違法であり無効だと私は言いましたが、
それでは、ジャンヌダルクが本当に神の使いであったとしたときには、実は、キリスト教の根幹を揺るがすほどの大問題が発生するのです。
そのために殺されたと言っていいでしょう。
私と反対の立場の春間さんは、当然、そのことを切り込んでくると思っていましたが、いつまで経ってもそのことを深く掘り下げることは全くありませんでした。
『その時の裁判官が正しいと判断したから正しい裁判』などという表面的な、別にジャンヌダルクの裁判でなくてもいいような上っ面をなでるだけの言及に終始したので、内容が深まることはありませんでした。
私が私の反対意見を言うことは独り相撲になりますからしませんでした。
> スマナサ-ラ を 支えて 応援したい
春間さん、知っているとは思いますが、
スマナサ-ラは『大乗仏教は仏陀の法を骨抜きにする』と言っています。
いまは本が手元にない環境なので確かめられませんが、たしか『無常の見方』です。
春間さんは今手元に持っているでしょうから確かめてください。
私はこの言葉は、そういう側面もあると思っていますからいいのですが
スマナサ-ラの『大乗仏教は仏陀の法を骨抜きにする』という考えも含めて
春間さんはスマナサ-ラを支持するということですか。
> わたしは、 名古屋で スマナサ-ラ に 会っています
> 彼の熱心な信者で 説法会を 切り盛りする人 は、
> わたしに対して、
> 「 春間 は、 黙っていれば 格好が良い 」 と 言いました
それはよかったですね。
春間さんのこととは全く関係ないのですが、私の従業員で、黙っているとものすごく知的な美人に見える女性がいました。
でも、口を開いて何かをしゃべり出すと、とたんにがっかりしてしまう人でした。
あるとき、その女性から『私は黙って座っていると頭がいいように思われるのですけど、実は凄くバカなのでしゃべるとがっかりされるのですがどうしたらいいでしょうか。』と冗談で聞かれたことがあるのでこうアドバイスしました。
とにかく何もしゃべらずに、たった一言だけ『音楽では、モ-ツァルトの短調が好きです。』と言って、それから何を聞かれても、『全部』と『もちろん』と『はい』だけを言って静かに微笑んでいればいい。
ある程度知的な男性なら、『おお、凄い知的な美人だ。』と思ってくれるはずだ、と。
『音楽では、モ-ツァルトの短調が好きです。』
『短調のどの曲が好きなんですか?』
『全部です。』
『じゃ、交響曲の40番とか?』
『もちろん』
『ピアノ協奏曲の20番も?』
『もちろん』
『そういえば、レクイエムも短調ですね』
『はい』
あとはひたすら黙って静かに微笑みながらうなづいていれば、たぶん、1時間はばれない。
ただし、具体的なことを言ってしまうとすぐばれるから、絶対に具体的なことは言わないこと。
こういうアドバイスをしたことがあります。
春間さんの話とは全く何の関係もないですけど、思い出したので。
私自身への 自己批判 ( そう読めないのは わたしのせい )
> > > ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
> > 煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
> > 煮詰めない のは 、 あなたの行為
> > 人のせいで、 あなたは 煮詰められない
あなたが煮詰めているモノ を、 わたしは 薄めていますか ?
下記の二つにおいて
わたしは ジャンヌダルクについて語っています
あなたは 何故 それを深めることが 適わないのか ?
★ [No.21809] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2021/06/14(Mon) 07:06:27
★ [No.21916] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2021/06/20(Sun) 13:13:31
私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
キリスト教徒 である と 書き込んでいます
キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
( dhAranI )
あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
“ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?
本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
この マジカナ の 置かれている目的です
あなたは 本質に触れている
故に その触れ方にたがう キリスト教・仏教 を 批判する
批判するあなた が
“ 根拠とする その根拠 ” は
あなた自身によって 批判されることがない
あなた( ≒ わたし )は いつも 自己肯定 していることを 見逃している
( 私とあなた は = “ あなた( ≒ わたし ) ” という意味 )
( とは 違う時もある )