P51 ②

  [No.17719] Re: どの通り か 分かりますか ? 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/21(Tue) 08:29:38

> 反応 は 「 色 」 ですか ?
> どのように間接 を 構成しますか ?
> 読経 は 「 声 」 に 起きますか ?
> 読誦 は 一切( 色声香味触法 ) の中で 行われますか ?
> 一切 の 姿 ですか ?
> 識別せずに 「 色 」 は 存在できますか ?
> 識別すると 「 色 」 は 姿を変えませんか ?
> ( わたしに、 わたしの 「 意 」 を介した 「 シキ 」 は 起きませんか ? )
> 変えない としても 変わった とすることを
> 誰が 権限をもって 示すことが出来ますか ?
> “ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?



あなたは、自分が言ったことの根拠を示せない時や言い返せなくなったときに
ごまかすための質問を連発します。

そうやって、言い返せない自分に向き合うことから逃げているのです。

わからないことはわからない、
知らないことは知らなかった、
仏典にはどう書いてあるか調べよう、という真摯な姿勢がありません。

必ず、自分の投稿で終わらないと気が済まないのも、マウンティングを取りたくて仕方ないからです。
相手の投稿で終わってしまうと負けた気になるのです。
ですから、前に延々と同じことをレスしていきましたが、どこまで行っても最後の投稿は自分で終えるべく
延々とレスしてきましたね。
これを、相手の投稿があっても終わることができるようになれば、少しは自我から解放されたということになるでしょうけど
いまのままだと、根強い自我、承認欲求の塊であるだけです。

口でいくら『上下は仏教にはありません』とか『上下は縁起です』と言っても、
そう言ってる本人が一番相手より上に立つマウンティングに固執してます。

この投稿へのレスは不要です。
この投稿にレスしないでおければ、あなたの自我の衝動を抑えられたということになると思います。


 

  [No.17670] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/17(Fri) 08:48:39



では、ショ-シャンクさま、続きです。


>
> 三乗思想ができあがったために
> 声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行となっていますから
> 四諦十二縁起という仏陀の最も重要な筏が、二乗の修行法と言うことになってしまい
> 誰もかえりみる者がいなくなりました。

もし、おっしゃるとおり本当にそうなら、愚かなことです。
四聖諦、十二因縁、六波羅蜜と、分けて概念思考に行ってしまう愚かな人々は、どんどんブッダの真意をはずして行くと思います。

ショ-シャンクさまは、独覚と縁覚は違うとおっしゃっていましたが、わたしも変だと思っていました。「独覚」は「一人で覚る」ということで、「縁覚」は「きっかけを得て覚る」ということと取れます。いずれにしても、ブッダにどこか(過去世かな)で教えを受けているのだ、ということでしょう。法華経では、そう考えていますよね。

確か、龍樹も『十住毘婆沙論』の中で、ブッダに教わっている、ということを述べていたように思います。道元も、そんな感じのことを述べていたように、わたしの中では記憶しています。

> 大乗仏教仏陀の真意の復興運動だと思っていますが、同時に、あまりにもそれまでの仏教そのものである部派仏教を
> 貶めてしまったので、仏陀の筏の四諦十二縁起も捨て去られてしまうことになりました。

もし、本当にそうなら、ここは、「もう何をやっているの!」というところですね。

そもそも「貶める」という行為自体、仏道からはずれていると知らねばなりません。
ほんとに貶めているなら、仏教外ですし、ほんとに貶められていると思うなら、これまた仏教外です。
これらの争いは、みずから「仏教という教えによりません」と宣言しているようなものです。

> 法華経の前にも、大乗仏典はできていたと思います。
> 部派のサンガの中で、ひそかに、大乗仏典を創作していたグル-プはいたと思います。
>
> そのような人たちが部派の人たちからは
> 『お前たちの言ってることは外道の論議だ』『勝手に経典を作って人を迷わしている』と糾弾されて
> サンガを追い出されていったと思います。
> その様子が法華経に書かれているのではないでしょうか。

そうかもしれません。ありうることだと思います。
>
> グレゴリ-・ショペンの、ずいぶん後になるまで、大乗教団は存在せず、大乗仏典だけが作られていった、と言う説は
> かなり史実に近い気がしています。

まあ、なぜ、そうなるかも分かります。
菩薩というのは、多くは、「ナ-ガ(龍)」と名称で呼ばれ、これは修行者のタイプを表してもいます。

森の奥深いところで一人でいるコブラのような存在、雄の象で一頭だけいる孤高の存在、これをナ-ガと呼んでいるので、そこからきたのでしょう。世間を行きながら、一人で歩み、汚れにふれないのですが、汚れを離れているわけでもなく、
汚れにふれないのではない、という中道の生き方をしている者たちの系統です。
コブラや象も、世間とふれていないのではないからです。

ブッダもナ-ガと呼ばれました。こういう人たちは、経典・論書を作るかもしれませんが、集団を作ることはありません。(たまに集団を率いることはあるのかもしれませんが、常に集団の中に成員としていることはないと思います。タイプがちがう、というところでしょうか)

> ところで、方便品の5000人の退出が気になります。
> 例えば、500羅漢という言葉は、第一結集の500人の直弟子から来ているのかもしれませんし
> 方便品の5000人にも何か史実が隠されていそうです。

そうですね。在家の信者さんたちもいたようですね。第一次結集の直弟子たちではないと思います。
舎利弗、大迦葉など偉大な弟子たちは、法華経の真意をつかんで、たいそう喜んでいるという風に説かれていますから、かれら偉大な弟子たちは、ナ-ガの如くに世間とつかず離れずにいて、大乗経典を編みだしていく役割も果たしていたかもしれない、と思います。

マハ-カッチャ-ナという論議第一と言われた比丘は、辺境に一人行って、人々を導き、その中で、ソ-ナという弟子を得ています。ソ-ナが、お釈迦さまに始めてお目にかかったとき、「何か学んだものを唱えてご覧」といわれて、この「八偈品」を唱えるのです。

カッチャ-ナがいかに優れた弟子であったかよく分かります。「八偈品」は、ブッダの直説で一切智を表すものと思いますから、かれのような人こそ、出家でありながら、孤高を行く原始大乗(ということばがあるなら)の人と見てもよいのかもしれません。

法華経』という経典は、偉大な弟子たちのその後の展開を授記という形でまとめる、たぐいまれな経典でもあるように思われて仕方ありません。

「(あの)偉大な弟子たちに授記を授ける」という内容を仏の口からじかに聞いている経典なのだ、と認識すると、『法華経』はとてつもないことが分かります。

ブッダとともに歩んだ仏弟子たちを、本当に大事に思っていたのだなとも受けとめられます。

そんなことを考えると、五千人って少ないですよね。他の数字が天文学的なのに比べると、5000なんて、無いも同然、ともいえるかな、と。だから、ちょっと分かっていない人たちだったのだろう、と、わたしは思っています。


> 提婆達多に従った人数なのかもと思ったこともありますが、いまだに分かりません。

もしかすると、そんな人もいたかもしれませんね。

法華経』みたいな経典が、この世にあるのが不思議ですし、また、それを仏教伝来の最初から、日本人が受けとって、わけが分かっても分からなくても、大事に唱えてきた、というのが、何とも言えません。
縁、ってこういう事をいうの、などと突然凡夫の発言になってしまいます。


 

  [No.17672] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/17(Fri) 11:50:20

石飛先生、おはようございます。


ショ-シャンクさまは、独覚と縁覚は違うとおっしゃっていましたが、わたしも変だと思っていました。
>「独覚」は「一人で覚る」ということで、「縁覚」は「きっかけを得て覚る」ということと取れます。
>いずれにしても、ブッダにどこか(過去世かな)で教えを受けているのだ、ということでしょう。
>法華経では、そう考えていますよね。


法華経譬喩品にこうあります。

『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』

これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。

よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。

ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。


 

  [No.17676] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:名無しの佛教徒  投稿日:2020/07/17(Fri) 21:16:01

時々訪れて拝見だけさせていただいている者です。
ショ-シャンクさんの投稿が気になり、ひと言書かせていただこうと思いました。
> 法華経譬喩品にこうあります。
> > 『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』
> > これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。
> > よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
> ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。
> ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
> 縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。

私から見ると、ショ-シャンクさんは縁覚そのものと思えます。法華経に直に当たり、そこを縁として佛の法を知る。それは縁覚そのものではないでしょうか。
では声聞はどうなるのか。それは私の様に祖師がいる、サンガの信者の事ではないですかね。天台宗曹洞宗日蓮宗の信者は、経典をそのままでは読みません。あくまでも祖師から、脈々と伝えられて来た法灯を通じてです。それらの先師達の言葉を通じて法華経を拝するわけです。
>龍樹や道元を通さなければ、法華経やスッタニパ-タは読めませんか?
ショ-シャンクさんは否定的に言われますが、それは伝統教団を、あまりに軽んじた考えに見えます。自分で考える事は大切ですが、先人の声を聴いて拝す事も、中々良いものですよ。


 

  [No.17682] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/07/18(Sat) 10:13:03

名無しの佛教徒さん。
そうですね。伝統教団はいいものです。
私は大好きですよ。
法華経の霊山にもたびたび行っています。
比叡山は毎年行っていますし、身延山も3年連続で行ったことがありました。
最初に比叡山に行ったときや最初に身延山に行ったときは、本当に呼ばれた感じがしました。
旅館で朝起きると、7時のNHKのニュ-スのトップで『山梨県に大雪警報』とありました。
チェ-ンも冬タイヤでもなかったのであきらめかけましたが、行けるところまで行こうと思い出ました。
今でも不思議なことになぜいけたかがよくわからないのですが、ノ-マルタイヤで着くことができました。
あの身延山で参拝客は私だけでした。雪の身延山貸し切りでした。
思親閣に登ったら、お坊さんが『えっ、今日、ロ-プウェイ動いてましたか?』とびっくりされていました。

私は、法華経を毎日読誦していますし、神仏や先祖、伝統宗教への尊崇の念は持っていますよ。

ただ、あるとき、どうしても、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのかを知りたいと思ったのです。
ですから、いったん、すべての仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から仏陀の真意を汲み取ろうと思ったのです。

まずは、それまでの仏教解釈の全否定から入りました。
ヤフ-掲示板で『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げてからは、数多くの伝統仏教信者の人からレスをもらいました。
それでも、やはり、仏陀の真意を探求してよかったと思っています。

仏陀の真意がわかって、法華経を読むと、もう有難くて仕方ないことがわかります。

白隠が若い時捨てた法華経を悟った後読んで号泣した気持ちがほんの少しだけわかります。

ですから、気に障るかもしれませんが、私は、仏陀の真意から、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏典を読み解いていきたいと思っているのです。


 

  [No.17684] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:名無しの佛教徒  投稿日:2020/07/19(Sun) 00:47:54

突然乱入して、申し訳ありませんでした。

> ですから、気に障るかもしれませんが、私は、仏陀の真意から、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏典を読み解いていきたいと思っているのです。

全然気に触ってなんかいませんよ。私が言いたかった事は、縁覚の意味・声聞の意味についてです。私の様な伝統仏教から佛教を学んでいる信者の印象に過ぎません。ショ-シャンクさんを見ると、縁覚に見えたものですから、ただ感想を述べたまでです。人はそれぞれがあって当然だし、だから違った見方ができる訳です。その多様性は、本当に大事な事だと思っています。声聞も縁覚も正に本有不改で、そのままでいい。法華経は、そう言ってる様に思っています。

本当に失礼しました。


 

  [No.17679] Re: 法華経について思うこと(続き) 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/18(Sat) 07:59:11

ショ-シャンクさま おはようございます。

>
> 『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』
>
> これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。


そうですね。この、「佛から法を聞いて悟る」という点は、先ほども言いましたように『十住毘婆沙論』にもあって、

一切の声聞、辟支佛は皆佛によって出ず (『大正蔵』26,p.20b)

となっています。ここは、これでOKだと思っています。
ただ、声聞の場合は、基本的にサンガに属して、そこで覚りを得ていくのに対して、
佛にふれて縁を得た辟支仏は、後、法華経にあるとおり、「自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る」ので、「独覚」とか「縁覚」とかいわれるのではないかと考えています。

ブッダが辟支佛でもあるというとき、かれは、最初に過去世において燃灯仏の授記を受けています。その点を指しているかなと思うのです。その後も仏には出合っているかもしれませんが、まずは、その佛との出合いを辟支佛の根拠とすることができ、さらには、ゴ-タマとして、無師独悟と述べたその点から、辟支佛と見ることができるかと思います。
ですから、独覚でも、縁覚でも、その呼び名は、ブッダに当てはまるのだと思います。

また、過去世の長い修行の期間は、菩薩としても過ごしました。だから、菩薩という呼び名も当てはまることに成ります。

釈迦牟尼の場合は、このように言えるかと思いますが、他のたくさんの人々が同じように言えるのかは分かりません。辟支佛の呼び名や独覚の呼び名は、どんな風に使い分けられているのかなと思ったりしています。そのような意味で、ちょっと疑問なのです。

>
> よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
> ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。

縁覚の悟りというのは、外からはわかりにくいため、法を以って説明されるのかもしれません。自分で、十二支縁起を観じて覚る場合をいう、というように。
>
> ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
> 縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。

どうでしょうね。たとえば、摩訶迦葉などは、ほとんどお釈迦さまとは行動を共にしていることはなかったようにも見えますが、それでも頭陀行第一の比丘として、サンガの一員になっています。摩訶迦葉の場合、自分で「わたしが弟子で、あなたが師匠です」と宣言していますから、そうなるのかと思いますが。

====
16.このように出家をして、このわたしは、長い間道を歩いていき、ラ-ジャガハとナ-ランダ-との間にあるバフプッタ塔廟に座っている尊師を見ました。見た後、わたしにはこのような思いがありました。「実に、わたしが師に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい。実に、わたしが善逝に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい。実に、わたしが正等覚者に出会うとすれば、尊師だけにお目にかかりたい」と。

17.友よ、そこで、わたしは、尊師の足に頭をつけて(礼拝し)、尊師にこのように言いました。「尊者よ、わたしの師は尊師です。わたしは、声聞(弟子)です」と。
==== 『サンユッタ・ニカ-ヤ』16.10


ですから、辟支佛の場合はサンガには所属していなかったのではないでしょうか。まあ、実情は、個人によりいろいろあったと思いますが、釈尊をモデルとした時、辟支佛と判定できる、菩薩と判定できる、声聞と判定できる、というようにして、だいたい本人の自覚的な意思と合わせて考えられていったのではないかと思っているところです。


 

  [No.17309] 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 07:40:03

春間さんは、龍樹や道元を読んで二元対立を超えた気分を味わったことを悟りと思っていて
それを自らのアイデンティティにしていませんか?

大乗仏教は、そのような『悟った気分の人』を大量に生み出しました。
私も一時期そうでしたからわかります。
本を読んで悟った気分になり、悟りすました視点から、下々の書いている文章の二元対立の言葉をことごとく否定していって
自分は偉いんだと悦に入る・・・これは精神には危険です。

春間さんにお聞きします。
あなたは、道元をよく出しますが、毎日坐禅していますか?
あなたは、親鸞をよく出しますが、自分の蛇蝎のような心を見て絶望したことがありますか?そのうえでの念仏をしていますか?
あなたは、法華経をよく出しますが、毎日、法華経の何品と何品を読誦していますか?


 

  [No.17314] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 09:29:05

> > 私も一時期そうでしたからわかります。
>
> あなたのその気分 は あなたのモノではありませんか ?


気分はただの気分です。名湯シリ-ズの入浴剤を入れて『温泉気分』になることはできても、そこは温泉ではありません。


> 分かって、 わたしに諭すあなたは 諭す智慧 に あるのでしょうか ?

あなたは自分について指摘されると必ずオウム返しします。それは小学生の口喧嘩と同じです。
誰であれ、いったん、指摘されたら、一度、自分について考えてみたらどうですか?
反論されるのは苦痛でしょうけど、自分の考えを述べた時にその反論があるのは普通のことです。
それを怖れているのであれば、自分の考えなど述べなければいいのです。
あなたは自分への反論や指摘にオウム返しでしか応えません。
それは自我を守ろうとする働きにしか過ぎません。


> わたしは 常に 坐禅 をしています

それは頭の中だけで、『自分は常時坐禅している』と考えているだけです。
道元を言うのであれば、本当に毎日結跏趺坐し坐禅を行じて始めて語れるでしょうね。


> 蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )
> 親鸞は それを知って、 わたしにそう伝えています


あなたは親鸞にかすりもしてない。
そのような解釈で親鸞を語るのはとんでもないことです。


> 法華経 を 一度でも 読誦すれば
> 法華経 は 常に 襟元に於縫い付けられています
> その 一度の読誦 が 誰にあろうと、 一度 ということは 遍く あることです
> 念仏 は 法華経 です



翻訳すれば、あなたは法華経を読誦もしてない。
道元などを読んで『法華経を分かった気分』になっているということですね。


 

  [No.17317] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 11:29:18

道元は、形や作法を非常に重視しています。
つまようじの使い方まで事細かに言及します。

『然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親しく得るなり。
然れば道を得ることは、正しく身を以て得るなり。これによりて坐を専らにすべしと覚ゆるなり。
(『普勧坐禅儀』三ノ三十一) 』

あなたは、道元親鸞もキリストもごっちゃまぜにしてしまい、
坐らなくても坐禅なんだ、と言います。坐禅しなくても『只管打坐』だと。



親鸞は、自分の心は蛇蝎のようだと言っています。
自分はどんな修行をしようと地獄が定まったところだという、徹底的な自己洞察とそして絶望を経験し
自分を全否定して、絶対他力としたのです。

あなたは『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』と言いました。
親鸞は自らの蛇蝎のような心を見つめ続けたからこそ、絶対他力に行き着いたのです。



道元にしても親鸞にしても、あなたの解釈は支離滅裂に感じます。


 

  [No.17319] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 12:27:08

自分の見解を握りしめて、その見解で親鸞道元を勝手に解釈しているのは
あなたの方ですよ。

私は真理を得たとは思ってもいません。

ただ、親鸞本人が自分の心は蛇蝎のようだと言っているのに
あなたが勝手に『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』
と断言したのです。
親鸞本人が言ったことと真逆なことを言って悦に入っているのが支離滅裂だと言ったのです。

その言葉に根拠があるのであれば
親鸞の文章から
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』の根拠を示してみてください。


 

  [No.17322] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 13:54:52

良い・悪いを判断しているのではありません。

親鸞本人が
『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』
と言っているのに
それと真逆の
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』
とあなたが書いたので
その根拠を聞いているのです。


 

  [No.17325] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 16:47:14

> > 親鸞本人が
> > 『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』
> > と言っているのに


> それを見出すことが適う その拠り所は
> 誰のどこにあるのですか ?


ごまかさずに、答えてくれませんか?
あなたの日本語は文法的にあやしかったりあやふやだったりします。
特に、答えに窮したときにはその傾向が顕著です。

親鸞の書に『『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり』』という文章があるのを知りませんか?
知らないのであれば、あなたはほとんど親鸞について知っていないということです。
知っているのであれば、わざわざ聞くのは、ごまかすためとしか思えません。

親鸞の言っていることと真逆の
『蛇蝎のような心 は 親鸞にはありません ( あったこともないのです )』ということをあなたは言っているのですから
その根拠を示してください。


 

  [No.17335] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 22:10:35


> ここは 暗い と思うときに
> どこに 明るさがあるのですか ?
>
> 何に比べて、 暗いのですか ?
>
> その答えが
> 答えとなります
>
> ・

なぞなぞは別にいいですから、他の人とやってください。


 

  [No.17327] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 18:34:12

>親鸞が あなたが 指摘するような “ 自分の蛇蝎のような心 ” を 見る時
>親鸞の心 は “ 蛇蝎のような心 ” に あるのでしょうか ?

> “ 蛇蝎のような心 ” は
誰の基にあって
>誰が それを規定するのでしょうか

>親鸞 は そのようなものは どこにもないと知るから、
>すべての人が 救われることを( 浄土にある事を ) 知るのです

>雲 に 陽光 は 遮られますが
>その雲 は 陽光 が ない限り 起ることはありません
>その 遍く照らす 陽光 を 「 大日 」 と 名付けます

>親鸞法華経の人なのです



どうも、春間さんは、浄土教も禅も法華経もごちゃまぜにしていますね。

親鸞 は そのようなものは どこにもないと知るから、すべての人が 救われることを 知るのです』

そうであれば、阿弥陀仏も本願も要らないではないですか。
達磨のように、迷っている心などどこにもないと悟るのであれば。

春間さんは自分で書いていたように、
まず解答を丸暗記して、それを無理やりどのケ-スにも当てはめるやり方をしてきたのですね。
中学の数学ならそれでいい点が取れるかもしれませんが、
こと人生にはそのような『解答』などありません。

仏陀なら仏陀法然なら法然親鸞なら親鸞の言葉から本当はその人は何を言ったのかを探求しないと
その人のことなどわかりません。

どれにも通用する解答なるものを暗記するやり方では、偉人たちの魂に迫ることはできないでしょう。


 

  [No.17321] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 13:49:41

> あなたに生きる親鸞 として 行じてください


前にも書きましたが、私は親鸞は評価していません。
親鸞は自分の心の醜さを徹底して洞察した人で、その凄みはあります。

しかし、そもそも、歴史上の仏陀の教えは、他に依存することとは真逆であり
他力を頼むという考えは一切ありませんでした。
よって、浄土教自体、仏陀の教えではなくバラモン教からの影響だと考えています。
ですから、浄土教にはほとんど関心がないのです。

ただ、法然の人格は好きです。
法然は自らは既に救われていましたが、無知な衆生を救う道を命がけで探求していきました。
そして易行道を確立しましたが
親鸞はその易行道を難行中の難行にしてしまった。

この意味が分かる人はほとんどいないでしょう。

私はせっかく法然が開いた易行道を惜しみます。


 

  [No.17326] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 16:55:54

そもそも、あなたは、真摯に学びたいとか探求したいとは思ってないでしょう?

自分は悟っていると思い込んでいて、上から目線で命令したり否定したりしているのですから。

自分への反論は、ことごとくオウム返しするだけですよね?

もし、真摯に探求したいのであれば
法然親鸞の教えの決定的な違いとは何だと考えているか答えてください。


 

  [No.17330] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 19:52:36

>
> > 法然親鸞の教えの決定的な違いとは何だと考えているか答えてください。
>
> 親鸞法然のことを どう言っているかを 知っていますか ?



親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。

しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
法然と違うからこそ、法然の弟子なのに、浄土真宗の宗祖とされたのです。
全く同じ教えなら浄土宗でよかったですよね。

このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。


 

  [No.17332] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 21:41:25

> > 親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。
>
> 地獄に行きましたか ?


親鸞が地獄に行ったかどうかはわかりません。
ただ、娘の覚信尼は父の親鸞を『本当に浄土に行ったのだろうか?』と
不安に思ったことは確かです。


> > しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
>
> どのように違うか
> 例を 挙げてみる こと はできますか


同じだと思いますか?違いますよね?私が指摘しなくても違いは明白ですよね。



> > このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。
>
> どういう矛盾 か
> 正しさを揚げて 立証できますか ?



それでは、これに答えてもらえますか?

親鸞は、息子の善鸞を義絶しますね。
しかし、親鸞は摂取不捨を徹底した人でした。
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪はないと言い切っています。
それであれば、どんな謗法をしたとしても、摂取不捨であり、切り捨てるのは
親鸞が言っていることと矛盾します。
これをどう思いますか?


 

  [No.17334] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/19(Sun) 22:08:54

>
> > > > 親鸞は、法然に騙されて地獄に行っても構わないと言いました。
> > > 地獄に行きましたか ?
>
> > 親鸞が地獄に行ったかどうかはわかりません。
>
> では 騙されたのですか ?


そもそも、法然が言ったことを実行してないですね?


>
> > > > しかし、親鸞法然とは全く違う教えを説きました。
> > > どのように違うか
> > > 例を 挙げてみる こと はできますか
> > 同じだと思いますか?違いますよね?私が指摘しなくても違いは明白ですよね。
>
> 明白なことを 明白にできますか



わかりませんか?全く同じだと思っていますか?

 


>
> > > > このほかにも、親鸞には矛盾点が多すぎます。
> > > どういう矛盾 か
> > > 正しさを揚げて 立証できますか ?
>
> 矛盾のないように、答えられますか
>
> > それでは、これに答えてもらえますか?
>
> 答えが なければ、
> 答えないという意味ですね
>
> 答えることが出来なくても構いません
>
> > 親鸞は、息子の善鸞を義絶しますね。
> > しかし、親鸞は摂取不捨を徹底した人でした。
>
> あなたは 徹底していないとみているのではないのですか ?
> > 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪はないと言い切っています。
>
> ありますか ?
>
> > それであれば、どんな謗法をしたとしても、摂取不捨であり、切り捨てるのは
> > 親鸞が言っていることと矛盾します。
> > これをどう思いますか?
>
> さまたぐるほどの悪 ですか ?
>
> ・

さまたぐるほどの悪はないと言ってるのに、どうして切り捨てたか?と聞いているのです。
答えられないのであれば正直にそう言ってください。時間の無駄ですから。


 

  [No.17337] Re: 悟った気分は自我 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 00:00:42

>
> > 答えられないのであれば正直にそう言ってください。時間の無駄ですから。
>
> 答えません
> 時間の無駄だからです
>
> 無駄は あなたにある
>
> ・



答えられないでしょう。
矛盾しているのです。
他にもたくさんあります。

例えば、親鸞は故郷である京に帰ろうとしますが
妻の恵信尼を連れて帰りません。
恵信尼は越後に帰って、夫婦バラバラになります。
どうしてだと思いますか?


 

  [No.17338] Re: 悟った気分は自我 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/20(Mon) 05:19:06

ショ-シャンクさま おはようございます。

脇からちょっとすみません。

> しかし、そもそも、歴史上の仏陀の教えは、他に依存することとは真逆であり
> 他力を頼むという考えは一切ありませんでした。
> よって、浄土教自体、仏陀の教えではなくバラモン教からの影響だと考えています。

わたしは、阿弥陀仏は、『大般涅槃経』の内容をふまえて出現したのではないかと思っているのですが、

バラモン教の影響をうけたと思われるのは、なぜですか。

実は、昔、少し検討したことがありました。

たとえば、ヴェ-ダ-ンタ学派などが説くブラフマン(世界原理)を、空じてみたら、諸仏になるだろうか、とか、
一神教の唯一絶対の神を、空じてみたら、大乗の思想に似てくるだろうか、とかです。

アドヴァイタ系の思想をもつ人達の中には、そんな風に考えている人たちも、ネット上ではいるような気もします。
部派のお坊さんの中には、大乗をそんな風にとらえている人もいるようです。

でも、バラモン教からでは大乗にはいきませんね。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩という菩薩が極楽世界を仏国土としてつくって、それからブッダになるので、
やはり、理屈をちょっといじって出てくるような名称だけの存在ではないですね。

矛盾があるように見えているのは、そのためかなとか思ってしまいました。

「空」だけ使っても、ダメで、「縁起」を駆使すると、出てきますね。
親鸞聖人は、ほとんど「空」を用いていませんよね。

教行信証』の中では、「縁起」を駆使して語っているように思います。
ブッダの教えの心髄を極めたな、と思うのは、「空」の理論をあえて出さないところでもあります。


 

  [No.17339] 浄土教の発祥 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 06:20:47

石飛先生、おはようございます。

浄土教仏陀本来の教えではなく、バラモン教(ヒンドゥ-教)から来たと私が考える理由につきましては
ヤフ-掲示板の自分のスレッドに投稿し、いま自分のブログに格納してますので、それを載せます。

※※※※※
特に浄土教の教えはゴ-タマ・シッダッタの教え本来のものではなく、ヒンズ-教から来たものですね。
ゴ-タマ・シッダッタは、想像上の神仏への信仰などは一切説きませんでしたし
なにより自燈明を説いたので他力を説いたことはありませんでした。

歴史上の仏陀が説いたことと違うから正しいとか間違ってると言ってるわけではありません。
それが事実だから言っています。

阿弥陀仏の師はヒンズ-教のシヴァ神ですから、浄土教がいかにヒンズ-教の影響を強く受けて誕生したかがわかりますね。
私はヒンズ-教にもジャイナ教にも偏見はありませんから影響を受けたからと言って貶しているわけではありません。

無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。

サンスクリット名ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャとはシヴァ神の別名である。

また、法蔵菩薩の第二六願にナ-ラ-ヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナ-ラ-ヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

浄土教徒の人もこういう記事を書いてますね。

【私は浄土教徒なので、阿弥陀如来の話から始めたい。
阿弥陀仏は古くから仏教と習合された仏様(神様?)の一人で、ア-キタイプはゾロアスタ-教の光明神アフラ・マズダとも、
さらに古いミスラ神とも言われる。
浄土三部経のうち『無量寿経』によると、往古、阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者で、
世自在王(ロ-ケ-シヴァラ・ラ-ジャ)如来という仏さまを師匠として修業していたという。
浄土真宗で読誦される「正信偈」の初めの方に、次のような箇所がある。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
この世自在王如来というのが、実はヒンズ-教の破壊神シヴァなのだという。
ガネ-シャの首を吹っ飛ばした物騒きわまりないお父さんである。
中村・早島・紀野訳註『浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)』P252の「ロケ-シヴァラ・ラ-ジャ」に対する訳注には、
次のようなことが書かれている。
ロ-ケ-シヴァラ・ラ-ジャ ― Lokeśvararāja. 「世自在王仏〔せじざいおうぶつ〕」と訳され、
無量寿仏の師として重要である。この仏に対する信仰も独立に行われていたもののごとく、
『ロ-ケ-シヴァラ讃』(Lokeśvarastava)という書も残っている。
また碑文にはロ-ケ-シヴァラがアヴァロ-キテ-シヴァラ(観世音菩薩)を意味して使われている例もある。
しかしロ-ケ-シヴァラとはヒンドゥ-教ではシヴァ神の別名であるから、
この点で何らかの連絡があるのかもしれない。】





歴史上の仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)は、その長い生涯で、阿弥陀仏について言及したことは一度もありません。
他力信心を説いたことも一切ありませんでした。
自燈明を説いた仏陀において、他力を頼むという考えはまさしく真逆なものでした。

いま、大乗仏教がどうして興ったかを調べています。
大乗仏教仏陀の真意の復興運動だったと思い始めていますが
浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥ-教のバクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

浄土教が発生する前から、インドでは神の名前を繰り返し唱え続ければ死後よいところに生まれるという信仰が民衆の間に熱狂的に広まり流行っていました。
そのような民衆に圧倒的な支持を受けている考えが仏教に入ってきたのは必然とも言えるでしょうね。

無量寿経によると、法蔵菩薩は、世自在王仏(ロ-ケ-シヴァラ)を師として阿弥陀仏となりました。
ロ-ケ-シヴァラとはヒンドゥ-教のシヴァ神の別名です。

これを見ても、浄土教がヒンドゥ-教発祥であることは明白です

※※※※※


 

  [No.17341] Re: 浄土教の発祥 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/01/20(Mon) 07:00:02

ショ-シャンクさま すばやっ!

さっそくお返事いただいて、ありがとうございます。

なるほど。そっちから来ましたか、という感じです。

前のご質問のところで書いた私の文ですが、

> でも、バラモン教からでは大乗にはいきませんね。
> 阿弥陀仏は、法蔵菩薩という菩薩が極楽世界を仏国土としてつくって、それからブッダになるので、
> やはり、理屈をちょっといじって出てくるような名称だけの存在ではないですね。

と書いて、「名称だけの存在」と書きながら、「この表現ちょっと変かな」とか思ったのですが、お話を伺うと、ああ、意外とはずれてなかったな、と思います。


> 大無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。
>
> サンスクリット名ロ-ケ-シュヴァラ・ラ-ジャとはシヴァ神の別名である。
>
> また、法蔵菩薩の第二六願にナ-ラ-ヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナ-ラ-ヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

> 浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
> 浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥ-教のバクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

なるほど、時代を考慮しなければ、そして、思想を考慮しなければ、また、ブッダの教えの特徴を考慮しなければ、たしかにおっしゃるように考えることもできるかもしれません。

私も、このあたりは、詳しく分からないのでしばし調べてみたいと思います。

ただ、ブッダのやり方からすれば、対機説法という説明もつけられるそうですが、でも、ちょっとその路線は危ないところもあるので、慎重にしましょう。

ありがとうございました。


 

  [No.17343] 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 10:44:40

管理人の石飛先生が、せっかくハンドルネ-ムでの投稿を想定した掲示板を作ってくださっているのに
わざわざ本名で投稿することに何か意味があるのでしょうか。
もちろん、本人が本名で投稿したいのであれば自由にすればいいとは思いますが
他の投稿者に強制することではないですね。

投稿者は同時に閲覧者でもあります。
閲覧する立場からいうと、投稿者の本名や社会的地位、財産、学歴、職歴、交友関係など何の興味もありません。
投稿した文章に閲覧する価値があるかどうか、だけです。
その人にとって、その文章が学びになるかどうか、だけです。

社会的制約の一切を外して、純粋に文章だけで判断されるネット掲示板は素晴らしいではないですか。
ネットが誕生したからできた開かれた学びのフィ-ルドではないですか。
そのような場所に、社会的地位や財産、経歴など属性を持ち込んでマウントを取ることには反対です。

もし、実名での投稿ばかりにしたいのであれば、自分でホ-ムペ-ジを作り、そのような設定にすればいいではないですか。
ここはあくまで石飛先生のホ-ムペ-ジですから、もし、石飛先生が私の文章に問題があると判断されれば削除されればいいだけです。


 

  [No.17346] Re: 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 14:03:06

> > 管理人の石飛先生が、せっかくハンドルネ-ムでの投稿を想定した掲示板を作ってくださっているのに

> そのように想定されていると 、 どうして知るのですか ?



管理人さん自身が『管理人エム』というハンドルネ-ムで投稿されているからです。


それに、ネット上に公開されている掲示板で実名でないと投稿できない、または実名を想定している掲示板は極めて稀で、
私はそういう掲示板を見たこともありません。もしあるなら、教えてください。
それほどほとんど全部の掲示板がハンドルネ-ムでの投稿を想定している以上、
管理人さんが『名前は実名で』と指定しない限りハンドルネ-ムを想定されているということです。


 

  [No.17348] Re: 掲示板について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/20(Mon) 17:33:38

>
> > > そのように想定されていると 、 どうして知るのですか ?
>
> > 管理人さん自身が『管理人エム』というハンドルネ-ムで投稿されているからです。
>
> > 管理人さんが『名前は実名で』と指定しない限りハンドルネ-ムを想定されているということです。
>
> 気にしていないだけ
>
> 本人が決めることで、
> あなたが決めることではない



まだ、言いますか。
しつこいですね。
管理人さん本人がハンドルネ-ムで投稿している掲示板なら、それが管理人さんの意思でしょうね。

そもそも、実名での投稿を想定している、オ-プンなネット掲示板などあなたはひとつでも知っているのですか?
そんな掲示板など、知らないでしょう?

そんなに実名の投稿にこだわるのなら、自分で掲示板を立ち上げて自分が管理人になればいいではないですか?
なぜ、他の人の掲示板で、自分が意のままに仕切ろうとするのですか?


 

  [No.17363] Re: 「 法華経 」 とは 「 明珠 」 投稿者:spinobuddhist  投稿日:2020/01/23(Thu) 13:13:04

> 一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。


個人的には私は、大乗仏教の真義は「菩薩乗」にあると考えている。
エスもラマナ・マハルシも菩薩であると考えれば、善勇猛般若経の「菩薩は異教の修行者として身を現し、異教を説きさえするが、異教に転向したことは一度も無いのである」という言葉がしっくりくる。
「方便」に命をかける姿がそこにある。

しかしイエスの意図とは裏腹に、その教えは死後「キリストの再臨」として書き換えられ、民衆操作の方法として利用されたことは事実である。仏教もまた釈迦の死後に組み替えられ、密教のように権力装置として機能し続けた歴史的事実は否定できないところである。

もちろん救済宗教は民衆には必要だから、浄土宗も密教もそれ自体として否定する気は無いのだが、権力装置としてのそれらを擁護し、学問領域で理論的に正当化するとなると話は別である。

法然は読んだことがないので私にはよくわからないが、ショ-シャンク氏が評価するということから、法然が民衆の救済を第一に考え、そこに大乗の真義を見ていたのではないかと考えたまでである。この観点からいえば、悪人正機とか愚禿とかいうアイデアからして、親鸞は民衆そのものではなく、民衆に布教する側の人間に動機付けを与えたように思える。知識人の倒錯的優越感を刺激し、それを布教のエネルギ-に変えている、とでもいおうか。一次的な民衆の救済よりも、救済する側の支配層に動機を与え、権力装置を強固なものにした、そんな印象を持つのである。

結局、「菩薩の死後」の権力装置である。エム先生や春間氏が必死に擁護しようとしているのはそれで、方便に命をかけたイエスそのものの精神ではないのだろう。

【2020/01/23(Thu) 21:35:21 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17364] 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 15:29:57

> > 一体大乗仏教の真義はどこにあるのか、シャ-シャンク氏に聞きたいところである。
>
> 法然は読んだことがないので私にはよくわからないが、ショ-シャンク氏が評価するということから、法然が民衆の救済を第一に考え、そこに大乗の真義を見ていたのではないかと考えたまでである。この観点からいえば、悪人正機とか愚禿とかいうアイデアからして、親鸞は民衆そのものではなく、民衆に布教する側の人間に動機付けを与えたように思える。知識人の倒錯的優越感を刺激し、それを布教のエネルギ-に変えている、とでもいおうか。一次的な民衆の救済よりも、救済する側の支配層に動機を与え、権力装置を強固なものにした、そんな印象を持つのである。


spinobuddhistさん、こんにちは。
大乗仏教が何故興ったのかというテ-マに関しては、書こうと思いましたがかなり長くなりますので
いくつかに分けて書かせてください。

法然親鸞に関しては、どちらも浄土教の人で、私は浄土教仏陀の教えとは性質が異なると思っていますので
あまり詳しくは知らないのですが、ただ、法然の人柄が好きなのです。

法然は、現代では親鸞が目立ちすぎてすっかりその陰に隠れている印象がありますが、本当に革新的なのは法然でしょう。

私は親鸞に関しては、現代人がこぞって褒めちぎるような素晴らしい人とはどうしても思えません。
法然は命をかけていましたが、親鸞にはそのようなところがありません。
どうして、親鸞ばかりを高く評価するのか、親鸞をよく出す春間さんに聞いているのですが答えがありません。

質問としては、
1、法然親鸞の教えの違いについてどう思うか
2,阿弥陀仏は摂取不捨なのに、親鸞は何故息子を義絶したのか
3,妻の恵心尼を京に連れて帰らなかったのは何故か
4,非僧非俗と言いながら、いいとこ取りしていたのは何故か

このようなものです。
親鸞は本当に救われたのか、と言う根本的なところまで疑問に思っています。

【2020/01/23(Thu) 17:48:14 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17366] Re: 親鸞への疑問 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/23(Thu) 20:16:54

> 親鸞 は “自ら” というモノ を 持たない
> 「 絶対 他力 」 です ( 対するものを 絶つ から 自らがない )
>
> 絶対 に “ 救われる ” と 説く
> 義絶しようと 摂取不捨 です
> 義絶 は 「 世間 」 のこと
> 「 世間 」 に 構う時( 対して ) 義絶は起こる
> 親子 が 起きるから 義絶は起きる


1,親鸞は、阿弥陀仏はどのような謗法の者でも摂取不捨と説きました。
阿弥陀仏が許しておられるのに、親鸞が許さずに義絶するのは人間のはからいではないですか?
2,義絶とは世間のことと言いますが、なぜ、あなたは世間と非世間の2つに分けるのですか?
行(行為)に世間も非世間もありません。親鸞の行為があるだけです。
3,親鸞は非僧非俗と自ら言ってます。出世間ではないということではないですか?
親子が起きるから義絶が起きると言いますが、親子であっても義絶する親子などほとんどいません。
自らの意思で義絶したのは親鸞です。
4,親鸞は、自らは弟子を一人も持たないと言いました。
それは、自分の計らいなど何もない、阿弥陀仏の計らいによるからです。
自分の弟子でもない、阿弥陀仏の弟子なのに、自分の判断で切り捨てるのは言っていることと矛盾しますね?
5,絶対に救われるのであれば、わざわざ義絶する必要などないではないですか。
6,人を排除する、切り捨てる、というのは、あなたのよく言う『至道無難 唯嫌揀択』の揀択ではないですか?

結局、自分は弟子を一人も持たないなどといいながら、自分の教団が乱されると考えれば切り捨てるということですね。
弟子がいないのであれば自分の教団などあるはずがないですね?

【2020/01/23(Thu) 20:23:50 投稿者により修正されました。】


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