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  [No.21839] Re: 五時教判の見事さ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/16(Wed) 13:31:05

ショ-シャンクさま こんにちは。


> 私は、今までの仏教理解をいったん白紙にして、歴史上の仏陀が言ったことは本当はどんなものだったのかを探求したいと思いましたので、大乗仏教や部派仏教の全否定を出発点としています。

何と、そうなんですね。
やはり、仏教は広まってしまっていますから、そういう環境の中で仏教を見ようと思いますと、どうしても、批判的な側面が出てきますよね。本当に、これでよいのだろうか、とか、なぜ他の仏教では違うことを説くのだろうか、とか。疑問が出て来るのが普通だろうと思います。

> ですから、様々な仏教者から反対意見をいただいてきたのですが、それでもそれを貫いてきたのでよかったと思っています。
> 仏陀の真意から見て、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏教という、全否定から全肯定へと進みつつあります。

なるほど、ある程度の納得を得つつ進んでいかれている、ということを了解してきました。

まあ、わたしも、ブッダの教えは何だったのだろう、というところから知ろうとしていますので、原点に返ろうとしています。
>
> 部派は、大いなるものを見失ってはいけないと思いますし、大乗仏教は、仏陀の理法、仏陀の残した筏を捨て去っては、どこにも行き着かないものとなります。
> その意味で、わたしのなかでは統一できつつあります。

部派については、基本的に、本当にこれでよいのかとずっと疑問でした。
阿羅漢になっただけで、滅してしまうのは、どうなんだろうとずっと思って来ました。
法華経』の中で、舎利弗が一仏乗を聞いて喜んでいるのを見て、やっぱりと納得した次第です。
>
> ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。


これは、何ですかね??
ほとんど概説書を読まないので、最近の風潮が分かりません。
しかし、苦でなかったら、何なのでしょう。一切皆苦は、仏法の柱だと思いますが。
>

> これは、仏陀が世間におもねって教えをアレンジしたという意味ではありません。
> 後世の者が、仏陀の言った意味を理解できなくて、世間や自分の考えに合わせてアレンジしたという意味です。

失礼しました。これは、ことばの綾のようなものです。


> 大乗仏教では、大乗仏典の量が膨大であるため、すべてを所依の経典にすることができず、どの経典を最勝の経典として宗を立てるかで、教相判釈が盛んでした。
> 仏典の最高を華厳経にする派と涅槃経にする派に分かれていましたが、天台の五時教判は、そのツ-トップをたくみに位置づけてなおかつ法華経を最高としました。
> ここは見事だと思っています。
> 教えの高低を判釈し、最高の教えを決定する教相判釈は、大乗仏教では一般的に行なわれていました。

まあ、そうかもしれません。個別性と、その特徴によって、
それぞれ自分にあった経典を読んでいくことができるでしょう。

教相判釈というのも、これこそ方便ということかと思います。
本来優劣はつかないと思いますが、理解するためには、順序づける必要があったのだろうと思っています。
>
> 空海の十住心論もそうです。
> 真言宗大日経を最高とし
> 華厳宗華厳経をその次に高い教えとし、
> 天台宗法華経をその次としました。

出てくる順番と関わっていますよね。
最初から、大日経があるわけにはいかないだろう、と思います。
部派があり、大乗があり、種々の論書や経典が出そろったところで、密教が出てくると受け容れられやすい、ということかと思っています。

時代としても、7世紀以降に密教の流れが、タントリズムなどと絡んででてきますね。

思想的には、空思想が極まってこないと、中期大乗経典や密教などが出てきません。また、唯識も準備されていなければなりません。
そういう思想の発展的な流れをつかむのが上手なのが、空海のような気がします。
ものすごく善く整理されていて、分かりやすいです。

日本はおもしろいですね。空海最澄によって、何でもありの密教が入ってきてから、鎌倉仏教の一つの行を進めるやり方が広まっていて、一見すごく奇妙なように見えながら、それをものともせずに取り込んできた一般の人々のパワ-と熱意に圧倒されます。


> 大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。

そうですね。でも、好みのままに選べるように何でもあるので、目移りしますね。
どれも、かなりの程度に確立されています。

優劣というのは、自分の個性に合うか合わないかの選択に用いられるのであって、本当に優劣があるわけではないと考えます。どの教えによっても悟りにいけるのに、どうして優劣があるだろうか、という気がします。


 

  [No.21840] dukkhaがわからない仏教では 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 17:11:03

石飛先生、こんにちは。

> > ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。
>
> これは、何ですかね??
> ほとんど概説書を読まないので、最近の風潮が分かりません。
> しかし、苦でなかったら、何なのでしょう。一切皆苦は、仏法の柱だと思いますが。


上座部仏教系の人たちは、dukkhaを苦しみという言葉に訳してはいけないと言っています。

たとえば、ワ-ルポラ・ラ-フラの『ブッダが説いたこと』では
『ドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。ドゥッカを一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。』
といっています。

スマナサ-ラも全く同じことを言っています。
『苦の見方』の帯には、大きく、『ブッダの「苦」は「苦しみ」ではなかった!』と謳っています。

空しさ、不完全さをdukkhaの本当の意味としたいようです。


私が部派に疑問を抱くのはこういうことからです。
『dukkha』こそ、仏陀の教えの核心なのに、それを曖昧にしてしまっています。
こんな説明をするようでは、本当には『矢』が何であるかを見ていない。
『要するに五蘊の集まりこそが苦(dukkha)なのだ』ということを見ていないですね。
dukkaは、まさしく、苦しみであり激痛です。
なにせ、毒矢に打ち抜かれているのですから。



ただ、私の、仏陀の教えの見方が絶対に正しいとは言い切れないとも思っています。
スマナサ-ラのほうが正しいのかもしれませんが、私には私の見方が合っているということです。




> 日本はおもしろいですね。空海最澄によって、何でもありの密教が入ってきてから、鎌倉仏教の一つの行を進めるやり方が広まっていて、一見すごく奇妙なように見えながら、それをものともせずに取り込んできた一般の人々のパワ-と熱意に圧倒されます。


鈴木大拙は、鎌倉仏教をもって、日本的霊性の発現としましたが、私は、平安時代比叡山のようなよく言えば豊穣な、悪く言えばごった煮で何でもありの仏教のほうが好きです。
プロテスタントのシンプルさより、悪いことばかりしたけどカトリックの荘厳な雰囲気のほうが好きなのと同じです。
ただ、道元にしても法然にしても親鸞にしても日蓮にしても、一つの行を絶対として選択したシンプルさは、平安の仏教とは比べものにならないエネルギ-を生み出しました。
すごいことだと思います。



> > 大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。
>
> そうですね。でも、好みのままに選べるように何でもあるので、目移りしますね。
> どれも、かなりの程度に確立されています。
>
> 優劣というのは、自分の個性に合うか合わないかの選択に用いられるのであって、本当に優劣があるわけではないと考えます。どの教えによっても悟りにいけるのに、どうして優劣があるだろうか、という気がします。


確かにその通りなのですが、実際の仏教の歴史では、仏陀の時代でも、部派の時代でも、龍樹の時代でも、あるいは中国仏教においても、日本仏教においても、法論、法戦、宗論、論争、教相判釈、が極めてさかんに行なわれてきました。
相手を論破することで、自らの法が優れていることを証明してきたのが仏教の歴史であることも事実です。

仏陀も、ジャイナ教の開祖マハ-ヴィラを論破した経典もあります。
龍樹も説一切有部との論争に明け暮れていましたね。
中国では、華厳宗天台宗の間の性起説と性具説の論争が有名です。
天台宗内部でも、山外派と山家派が論争していました。
日本仏教では、南都と北嶺の宗論の争いは何代にも続きました。
日蓮は念仏無間禅天魔真言亡国律国賊を旗印にさかんに法戦を挑みました。

平和的なイメ-ジが強い仏教ですが、こと、自らの法に関しては一歩も譲らない強さがあります。

穏やかで誰にも優しく柔和なイメ-ジしかない法然ですが、
師匠と違う考えを言ってたしなめられても頑として一歩も譲らなかったので、師匠にボコボコに殴られ血だらけになったことさえあります。


 

  [No.21846] Re: dukkhaがわからない仏教では 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 21:04:59

>たとえば、ワ-ルポラ・ラ-フラの『ブッダが説いたこと』では
『ドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。ドゥッカを一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。』
といっています。<

たまたまこの本を図書館から借りてます。

ショ-シャンクさんが引用された部分の後のp59に、
『同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経〕では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、
「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」と述べている。
ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。
「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。』
引用終了

とありますね。
禅定でもドゥッカと記されてる経典があるのかな?
詳しくは調べてなくてすみませんm(_ _)m


 

  [No.21855] Re: dukkhaがわからない仏教では 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 06:38:20

ショ-シャンクさま おはようございました。

ちょっと出遅れてしまいまして、すみません。
dukkhaの論議が、さかんに行われていたのですね。

一つ、わたしも、別のスレッドのところに意見を述べておきました。No.21853です。

> 上座部仏教系の人たちは、dukkhaを苦しみという言葉に訳してはいけないと言っています。
>
> たとえば、ワ-ルポラ・ラ-フラの『ブッダが説いたこと』では
> 『ドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。ドゥッカを一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。』
> といっています。
>
> スマナサ-ラも全く同じことを言っています。
> 『苦の見方』の帯には、大きく、『ブッダの「苦」は「苦しみ」ではなかった!』と謳っています。
>
> 空しさ、不完全さをdukkhaの本当の意味としたいようです。


そう言えば、わたしの指導教官だった先生も、dukkhaとsukhaに、そのような意味の変化を認めてかどうかわかりませんが、「不快感」と「快感」という訳語を与えていました。
印象深く覚えています。

わたしとしては、大事なのは、正確なことばの意味を探ることではなく、人々が何に苦しみを感じ、何を不快に思い、どんな苦痛を忍んでいるかということだろうと思います。

ことばの意味については、仏教は、「正確なことばの意味」など問題にしないと思います。

きつい言い方かもしれませんが、
ことばで言われたものは、その時、その一つのできごと・ものごとを指しており、共通する意味合いなど、ないはずなのです。諸行は無常なのですから。

したがって、すなわち、ことばというのは、多義なのです。
ですから、こういうことばを使ってはいけない、だの、このことばにはこの意味はないだの、ということは、非常に仏教的ではない印象を受けます。

「小さな空しさ」までもdukkhaで言えるのなら、「大きな苦痛」はdukkhaで当然言えるだろうと思います。


同じことばで同じ意味で、ことばを使うことは、欠陥である

と龍樹は言いました。

ブッダのことばの使い方をもっともよく知っていた人物が、龍樹だと思っています。
>
>
> 私が部派に疑問を抱くのはこういうことからです。
> 『dukkha』こそ、仏陀の教えの核心なのに、それを曖昧にしてしまっています。
> こんな説明をするようでは、本当には『矢』が何であるかを見ていない。
> 『要するに五蘊の集まりこそが苦(dukkha)なのだ』ということを見ていないですね。
> dukkaは、まさしく、苦しみであり激痛です。
> なにせ、毒矢に打ち抜かれているのですから。

おっしゃることは、わたしも納得できます。『スッタニパ-タ』の詩をいくつかあげます。

936. (第十五経第2偈)
水の少ないところにいる魚のように、おびえ震えている人々を見た後、お互いに反目している者たちを見た後、わたしに恐怖が走りました。

938. (第十五経第4偈)
(人々は)終わりになると、まったく逆転しているのを見て、わたしには不快の心が起こりました。さてまた、ここ(人々)の中に、その心臓にささる見分けにくい矢を、わたしは見ました。
939. (第十五経第5偈)
矢によって射ぬかれた人は、あらゆる方角に走り回りますが、その矢を引き抜いた後は、走ることもなく、沈むこともありません。(『スッタニパ-タ』)

この詩を読めば、誰も矢に射ぬかれた人が喜んでいるとは思わないと思います。あらゆる方角に走るのは、「苦しいからだろう」と誰でも思うと思います。

だから、どんな言葉が来ようと、この表現に人々は「苦」を見るのだと思います。
そして、それを癒やしてくれるブッダのことばを待ち望むのだろうと思います。


> 鈴木大拙は、鎌倉仏教をもって、日本的霊性の発現としましたが、私は、平安時代比叡山のようなよく言えば豊穣な、悪く言えばごった煮で何でもありの仏教のほうが好きです。
> プロテスタントのシンプルさより、悪いことばかりしたけどカトリックの荘厳な雰囲気のほうが好きなのと同じです。
> ただ、道元にしても法然にしても親鸞にしても日蓮にしても、一つの行を絶対として選択したシンプルさは、平安の仏教とは比べものにならないエネルギ-を生み出しました。
> すごいことだと思います。

わたしも、天台宗のごった煮的な仏教は好きですね。
清濁併せのむ感じが、優しいなと思います。

> 確かにその通りなのですが、実際の仏教の歴史では、仏陀の時代でも、部派の時代でも、龍樹の時代でも、あるいは中国仏教においても、日本仏教においても、法論、法戦、宗論、論争、教相判釈、が極めてさかんに行なわれてきました。
> 相手を論破することで、自らの法が優れていることを証明してきたのが仏教の歴史であることも事実です。
>
> 仏陀も、ジャイナ教の開祖マハ-ヴィラを論破した経典もあります。
> 龍樹も説一切有部との論争に明け暮れていましたね。
> 中国では、華厳宗天台宗の間の性起説と性具説の論争が有名です。
> 天台宗内部でも、山外派と山家派が論争していました。
> 日本仏教では、南都と北嶺の宗論の争いは何代にも続きました。
> 日蓮は念仏無間禅天魔真言亡国律国賊を旗印にさかんに法戦を挑みました。
>
> 平和的なイメ-ジが強い仏教ですが、こと、自らの法に関しては一歩も譲らない強さがあります。

そこがまた善いところだと思っています。
舌戦が火ぶたを切って行われているように見えて、どんだけ争っているんだ、という雰囲気ですが、実際には、大きな戦争も起こらず、思想界はそれぞれの思想が行きわたっています。

インドの思想をやっていますと、口を極めてののしり合っているのではないかという感じがしてきますが、実際に何か起こって争いになったり暴力沙汰になった、というのは、ほとんど聞きません。

議論は、あくまで、自説を論理的に説明すること、相手の説の非道理を追求すること、ということだろうと思っています。こうして、学問的にも変遷し発展を遂げるのだろうと思っています。見かけの言い争いではなく、本当に無駄な言い争いを見わけて話し合ってきたのが、仏教を含むインド思想の伝統だと思っています。

龍樹も実際に争ったのは、チャラカたち医学派の一派だったのだろうと思います。しっかり文献に残っているのはそのくらいで、説一切有部に、龍樹と争えるだけの技量があったのかどうか、わたしは、ちょっと疑問に思っています。

確かに、『廻諍論』あたりには、有部批判のようなことは書いてあるのですが、きちんと受けとめて龍樹に反論できた人はいなかったのじゃないでしょうか。
ある程度、論戦が続いて、まともに勝負できたのが、ニヤ-ヤ学派を作っていったのではないかと思っています。


> 穏やかで誰にも優しく柔和なイメ-ジしかない法然ですが、
> 師匠と違う考えを言ってたしなめられても頑として一歩も譲らなかったので、師匠にボコボコに殴られ血だらけになったことさえあります。

それはそれは!
さすが智慧法然ですね。お父さんに「あだ討ちはするな」と言われて、その約束を守って仏道に入ったとエピソ-ドにありますが、ここから見ますと、非暴力不服従は、仏教の伝統にもなっている感がありますね。


 

  [No.21828] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 12:10:37

石飛先生、ありがとうございます。

> > その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。
> > と禅の門外漢が戯言を言ってみます。

ショ-シャンクさまも、「門外漢」とおっしゃっているということは、この、禅という道からはずれていった、ということですね。
> 理解した最大の説明が、体・相・用の解釈だったと、いうことかと。
> う--ん、分からん!
> 「十牛図」は分からない、と、なりました。
> そもそも、自分の中では、断絶は起こりえません。
> ましてや、禅の行では、と、自分は思います。
> 区切りをつけるとすれば、サマ-ディということになると思います。


はい。ですから、禅の門外漢の戯れ言と言っています。

先にも書きましたように、禅は、公案禅でも黙照禅でも、仏陀の理法を瞑想することがありませんので、私は禅の道を進むことはありません。
仏陀の理法、具体的には四諦十二縁起、四念処、七覚支、これを洞察するのが仏陀の道だと思っているのです。

十牛図の私の解釈は、禅僧や禅者の誰の解説とも違います。
勝手に門外漢が戯れ言として言っています。

ただ、私の中では、こう見たときに、十牛図は実はとてもよくできていると感動したものですから、解釈の一つとして書きました。
先生は、やはり禅僧の解説で見られた方がいいと思います。

私は、仏教の解説書や禅の解説書でいままで納得したものが一つもないので、原典だけを見て自分なりの解釈をしているだけですから。

断絶が重要と書きましたのは、人間は誰でも、今まで積み上げてきた記憶の束を自分という『人』と思い込んでいます。
その『人』が発心し、その『人』が書物を読み、その『人』が修行をし、その『人』が『牛』という見失われた悟りの状態を見つけ、維持し、自分のものとなるまで格闘して、なんとか心の平安までいきます。
しかし、そのようなことの全体には、『私』という中心があります。
そのような『私』、そのような『人』というものはなかったんだと気づくこと、ここにおいて、中心の崩壊が起きて『空』そのものとなる、そこを断絶と呼んだのです。(私はあまり空という言い方はしませんが)

空と言う言葉を使うなら、第8図、第9図、第10図は、空の体、相、用、だと考えているということです。

たんなるサマ-ディではなく、中心の消滅を仮に断絶と言ったのです。

私は、禅の道を行く気は全くないので、ただの戯れ言です。


 

  [No.21799] ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 18:26:27

石飛先生、ありがとうございます。

続きです。


> > 仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
> おっしゃる通りです。
> バ-ラドヴァ-ジャに語った「耕す牛」の説明なら、矢が抜ける事がはっきり分かります。

確かに、仏陀の言葉は、十牛図とは比べ物にならない鋭さがありますね。


> ウパニシャッドは、矢を抜こうとして、楽に向かったと思います。オオクワガタの道ですよね。それなりに、極めるとその通りになる道だと思います。
> しかし、ブッダは、「楽は苦のもと」として、楽に向かわず、苦の滅を目指しました。
> 楽に向かった人々が求めたものが、ア-トマン(我)でありプルシャ(真人)でありますから、それらを求めることなく、無我を説き、プルシャ(人)を五蘊と分析したのでしょう。


そうなんですね。
ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラインド哲学では、というか世界の古今東西の哲学の中でも最高峰かもしれませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラも、矢を抜くことができない、これはもうどうしようもなくそうですね。
仏陀は言いました。
『わたしは矢を抜く最上の人である』と。
かれは、その意味で、天上天下唯我独尊です。
仏陀の理法、具体的には四諦十二縁起、四念処、七覚支ですが、つまり、自我の成り立ちを洞察しないと矢は抜けないと思っています。
その意味では、禅でも矢は抜けないでしょう。


> そうですね。だいたい「真の自己」を求めると、「楽」を希求することになりますから、ブッダの教えにはいけないことが多いのではないでしょうか。


自我というのは巧妙ですから、悟ったと思った瞬間、その体験がさらに強固な自我を構築してしまうでしょう。
いくら、坐禅の40分間だけ無思考でいることができても、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
思考がないと1分たりとも生活などできませんから。


> 真の自己が残ってしまって、それがその人を苦しめるのかもしれませんね。
> 坐禅をするとかえって煩悩がましてしまうので、ちょっと困ります。


黙照禅も公案禅も、結局、仏陀の理法を瞑想することはありません。
自我の成り立ちを洞察することがありません。
ただただ、無理やり無思考状態になろうとするのは、危険な感じがします。
実際に、坐禅でおかしくなった人は結構いると思います。
また、社会に適合できなくなる人もいるように聞きます。
仏陀が残してくれた智慧が抜け落ちているのだと思います。


> > 臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
> > 一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。
>
> もろに、ヤ-ジュニャヴァルキヤのア-トマンみたいな解釈ですね。。すごいな。
> プルシャ(ア-トマン)は心臓内にある光明です。死ぬ時、それは、目などの身体の部分からでていきます。それが出て行くとき、プラ-ナ(生気)が後に従い、それにつれて他の諸機能もすべて出て行くのです。
> 眠るとき、このプルシャは、この世とかの世(ブラフマン界)を行き来すると言われます。
> また、この他に、後代のヨ-ガ学派では、ア-トマンは身体のあらゆるところに行きわたっていると解釈したりします。それを観ずることも冥想です。生気の流れとして皮膚の表面にまでア-トマンが行きわたっているのを観ずるのです。
> う-ん、ほとんど、ア-トマン論のようですね。
> もし、「一無位の真人」を観ているのなら、さっさと消した方がいいのではないかと思いますね。
> 「十牛図」でも消えてましたよね。
>
> こういう形而上学的な「ア-トマン」という意味を、決してもたないのが、ブッダの使い方です。
> 「自洲」は、「自分を拠り所にしなさい」ということだと考えてよいと思います。


確かに仏陀は、ア-トマンのような形而上的なものを説きませんでした。
これは、有効だったと思います。
ア-トマンにしてもプルシャにしても、やはり個我、個別の生命、個別の霊魂のようなものをイメ-ジしてしまいます。
これは最も自我を強める考え方でしょう。
大きな迷いに入ってしまいます。
心霊主義の人が唯物論の人より自我が強いことは多いですね。

ただ、それだけだと、解脱したときに何もないのか、虚無が広がっているだけなのか、となります。
常見も邪見で、断見も邪見です。

仏教が灰身滅智に傾いてきたときに、大乗仏教は『そんなものは仏陀の真意ではない』として興ったと思います。
煩悩の滅をもって涅槃と思っているがそうではないのだ、大いなるものがあるのだ、として
初転法輪に次ぐ、大法の転法輪、第二の転法輪を宣言したのが法華経だと考えます。

部派仏教からは、『お前たちの言っていることは外道の論議だ』と非難されます。
部派からは大乗仏教は完全に外道の説に思えたでしょう。

大乗仏教説く大我とバラモン教ブラフマンはどこが違うのか、
ここは、大乗仏教側が正面から答えなければいけないところでしょう。


 

  [No.21806] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/13(Sun) 09:19:33

ショ-シャンクさま おはようございます。


> > バ-ラドヴァ-ジャに語った「耕す牛」の説明なら、矢が抜ける事がはっきり分かります。
>
> 確かに、仏陀の言葉は、十牛図とは比べ物にならない鋭さがありますね。

ほんとですね。この「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経が、禅の教則本としても使えるなんて、昨日書きながらはじめて知りました。
この経典は、いくつかの読みがあるとは思いますが、まったく異なる意味の教えとして、今まで読んできていました。


> ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラインド哲学では、というか世界の古今東西の哲学の中でも最高峰かもしれませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラも、矢を抜くことができない、これはもうどうしようもなくそうですね。

ほんとねえ、おっしゃる通りだと思います。
ヤ-ジュニャヴァルキヤは、それでも、ブッダ以前の人と思いますから、よくここまで到達したなと感心するところがあります。
シャンカラは、かしこい人だったかもしれませんが、ブッダの教えのパクリと言えますから、ちょっとさびしい感じがします。

> 仏陀は言いました。
> 『わたしは矢を抜く最上の人である』と。
> かれは、その意味で、天上天下唯我独尊です。
> 仏陀の理法、具体的には四諦十二縁起、四念処、七覚支ですが、つまり、自我の成り立ちを洞察しないと矢は抜けないと思っています。
> その意味では、禅でも矢は抜けないでしょう。

そうですか。。完全に抜けるには阿羅漢にならないとだめかもしれません。
禅も、苦を抜くというより、苦を押さえこむ、というところかもしれませんね。どうなんだろう。

> 自我というのは巧妙ですから、悟ったと思った瞬間、その体験がさらに強固な自我を構築してしまうでしょう。
> いくら、坐禅の40分間だけ無思考でいることができても、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
> 思考がないと1分たりとも生活などできませんから。

そういうことが分かるだけでも立派です。
思考するということが恐ろしいことは、わたしでもよく分かります。
たとえば、りんごを見て「あ、りんご」と思うだけでも、もう完全に煩悩のワザですから。
それに気づいた時は、愕然としました。
研究するということは、それだけで、煩悩が増していくという作業なのです。
しかし、いったんそうと分かると、また、それなりに対応する道もできるのが、仏法でもあります。

こういう風に掲示板で書いてる作業は、ふつうに考えると煩悩を増大化させていることになるかもしれません。しかし、生きて何をやっても煩悩は増す、と思うなら、何をやっても同じなわけで、かりに坐禅を行って無思考の40分を得るなら、それはある意味、すごいことだとも言えます。まあ、出定して、木阿弥になれば木阿弥だと知ることができるだけよい、とも言えます。。あまり、慰めにならないか。

> 黙照禅も公案禅も、結局、仏陀の理法を瞑想することはありません。
> 自我の成り立ちを洞察することがありません。
> ただただ、無理やり無思考状態になろうとするのは、危険な感じがします。

なるほど。。「ヨ-ガとは、心のはたらきの止滅である」と『ヨ-ガ・ス-トラ』が述べるようなものですね。
それ以上の生き方のモデルが得られないと、どうしてよいか理想が見つからない、ということかもしれません。

> 実際に、坐禅でおかしくなった人は結構いると思います。
> また、社会に適合できなくなる人もいるように聞きます。
> 仏陀が残してくれた智慧が抜け落ちているのだと思います。

五根五力が必要というところかもしれません。
信(シュラッダ-)・勤(ヴィ-リヤ)・念(スムリティ)・定(サマ-ディ)・慧(プラジュニャ-)の五つによって、最終的に智慧を開発して行きます。
>
> 確かに仏陀は、ア-トマンのような形而上的なものを説きませんでした。
> これは、有効だったと思います。
> ア-トマンにしてもプルシャにしても、やはり個我、個別の生命、個別の霊魂のようなものをイメ-ジしてしまいます。

それと同じく、形而上学ではないので、よいと思うかもしれませんが、「概念」「観念」という考え方も、一種の形而上学なのです。しかし、哲学だろうと思想だろうと、「概念」抜いたら、言語活動が不能になってきますから、いかに煩悩が根強いものか分かろうというものです。

学者やるなら、概念を持たないようにしないとだめなのです。何かを語って概念に行くようなら、もうブッダの教えにはいけてないということでしょう。語り方が問題になってきます。ことばを語るのは仕方ないとしても、そこに概念をもたないように語らなければなりません。
行者が無思考に行くようなものかもしれませんね。

> これは最も自我を強める考え方でしょう。
> 大きな迷いに入ってしまいます。
> 心霊主義の人が唯物論の人より自我が強いことは多いですね。

ああ、なるほど。。インド思想の人も、消えない自我に苦しむ人は多いですね。


> 仏教が灰身滅智に傾いてきたときに、大乗仏教は『そんなものは仏陀の真意ではない』として興ったと思います。
> 煩悩の滅をもって涅槃と思っているがそうではないのだ、大いなるものがあるのだ、として
> 初転法輪に次ぐ、大法の転法輪、第二の転法輪を宣言したのが法華経だと考えます。

なるほど、了解しました。もっともな展開かと思います。
>
> 部派仏教からは、『お前たちの言っていることは外道の論議だ』と非難されます。
> 部派からは大乗仏教は完全に外道の説に思えたでしょう。

ああ、ここも、なるほどです。「空」は、虚無に見えたかもしれません。

スマ長老さまは、四句分別は外道説で、仏教では使わない、と述べていました。「う-ん」と思っています。
部派には部派の気概があります。別名、こだわりともいいます。
>
> 大乗仏教説く大我とバラモン教ブラフマンはどこが違うのか、
> ここは、大乗仏教側が正面から答えなければいけないところでしょう。

バラモン教と圧倒的に違うのは、「縁起説」としても語れるところです。
縁起という関係と空という論理の二つを駆使して語るのが、仏教であって、バラモン教の場合、語りきれないところが出てくると思います。

仏教は、善悪を説き空も説けますが、それは、縁起と空という、二つの理論の柱をもっているからだと思っています。


 

  [No.21807] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 05:44:55

石飛先生、おはようございます。


> 思考するということが恐ろしいことは、わたしでもよく分かります。
> たとえば、りんごを見て「あ、りんご」と思うだけでも、もう完全に煩悩のワザですから。
> それに気づいた時は、愕然としました。
> 研究するということは、それだけで、煩悩が増していくという作業なのです。
> しかし、いったんそうと分かると、また、それなりに対応する道もできるのが、仏法でもあります。



ここを教えていただきたいのですが、『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。

ヤフ-掲示板のとき、4年前くらいでしたが、東哲板にはじめて『歴史上の仏陀の真意を探している』としてスレッドを立ち上げたときに、数多くの人たちが投稿してきました。
『自分は悟っている』『自分は目覚めていつも気づいている』『自分は救われている』という人たちが数多く『教えてやる』として投稿してきました。
しかし、仏陀の言う『激流』の怖ろしさを見ている人は一人もいませんでした。

激流に気づかぬまま、激流に押し流されたまま、『自分は悟っている』と思い込んでいる人たちばかりでした。

日常生活で、何かを感受すると、それまで積み上げてきた記憶の束がその感受に反応して思考を生み出します。その思考は連想となり激流となって欠乏、苦の集積へと押し流していきます。

これを見たときに、安易に『自分は悟っている』『自分はいつも目覚めている』『教えてやろう』とは思えるはずがないのです。
それはただ、社会生活や家庭生活で承認欲求が満たされない人たちが、乾ききった承認欲求を満たそうとして『大活躍』しているのです。

私が見る限り、石飛先生は、その激流を見て、その激流の怖ろしさを心底知っておられる人だと思います。

私は、激流を止めるには、四諦十二縁起、四念処しかないように思えています。
つまり激流の源を洞察しないと、いつまでたっても元の木阿弥になるような気がしています。

それで教えていただきたいのですが
石飛先生の言われる『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。


 

  [No.21809] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/14(Mon) 07:06:27


ショ-シャンク さん、 管理人エム 様 おはようございます

下記を無視して、 論を 続けて お進め ください


*** これは 自分自身( 春間 則廣 )に語ることでしかない ****

> しかし、仏陀の言う『激流』の怖ろしさを見ている人は一人もいませんでした。
> 激流に気づかぬまま、激流に押し流されたまま、『自分は悟っている』と思い込んでいる人たちばかりでした。

激流に流されている人達 を見る人 ( がいるところ )

その 見る立場( いる場所・ 見るということが起きる“時” ) が
“ 激流に流されることが無い立場 ” なのです


> 『自分は悟っている』『自分は目覚めていつも気づいている』『自分は救われている』という人たちが数多く『教えてやる』として投稿してきました。

その人たちが “ 悟ってはいない・目覚めてはいない・救われてはいない ”
ということ は
“ 激流に流されることが無い立場 ” から はっきりと分かること

**********

自分は そこから判断できる 裁判官 なのです
( 公正なる 裁きに 於いて、 裁いて 焼き殺す )

( ジャンヌダルク が 魔女 ではなく 裁きが 魔の所業 なのです )

福音書 ( マタイによる福音書 7:1-6 新共同訳 )


“ 裁くこと 莫れ ” ・ 「 唯嫌揀択 」

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

**********

> しかし、仏陀の言う『激流』の怖ろしさを見ている人は一人もいませんでした。
> 激流に気づかぬまま、激流に押し流されたまま、『自分は悟っている』と思い込んでいる人たちばかりでした。

わたし一人を除いて

> 日常生活で、何かを感受すると、それまで積み上げてきた記憶の束がその感受に反応して思考を生み出します。その思考は連想となり激流となって欠乏、苦の集積へと押し流していきます。


> 私が見る限り、石飛先生は、その激流を見て、その激流の怖ろしさを心底知っておられる人だと思います。

私は、 そのように認めることが出来る 「 洲 」 から このことを “ 判断・揀択・ 裁判 ” します

> それで教えていただきたいのですが
( それで ) そのような前提を受け入れたうえで 教えてください
> 石飛先生の言われる『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。

一度 論じてください
私は かの 「 洲 」から それを認めるとき
それが 「 正しいこと 」 と 判決を下します




*** これは 自分自身( 春間 則廣 )に語ることでしかない ****


「 私に 分かるように 話なさい 」

そうすれば 私は あなたが正しいという 判決を下しましょう


「 至道無難唯嫌揀択 」


*** これは 自分自身( 春間 則廣 )に語ることでしかない ****




 

  [No.21812] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/14(Mon) 08:59:40

ショ-シャンクさま おはようでございます。

だんだん核心にせまる、の図

という感じがしてきましたよ。


> > 研究するということは、それだけで、煩悩が増していくという作業なのです。
> > しかし、いったんそうと分かると、また、それなりに対応する道もできるのが、仏法でもあります。
>
> ここを教えていただきたいのですが、『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。

さすが、ドンピシャ、で核心に触れましたですね。


> 激流に気づかぬまま、激流に押し流されたまま、『自分は悟っている』と思い込んでいる人たちばかりでした。

実は、苦しみということを、まだ、よく分かっていないのかもしれません。気づいていないのかも。

> それはただ、社会生活や家庭生活で承認欲求が満たされない人たちが、乾ききった承認欲求を満たそうとして『大活躍』しているのです。

かりにその欲求が満たされたなら、さらに他に求めて行くわけですよね。とどまるところを知りません。


> 私が見る限り、石飛先生は、その激流を見て、その激流の怖ろしさを心底知っておられる人だと思います。

わたしが見ている苦は、思惟の中にひそむ、いわく言い難い苦しみです。ある意味、言語と結びついた苦しみと言ってもいいかと思います。
その苦しみは、確かに見ています。常識という苦しみ。見解という苦しみ。そこからくる無数の苦しみです。


> 私は、激流を止めるには、四諦十二縁起、四念処しかないように思えています。
> つまり激流の源を洞察しないと、いつまでたっても元の木阿弥になるような気がしています。

これで、確かに苦は消えるのですが、十二支縁起を悟っても、四聖諦は、まだ悟りきれていないという風にも見えます。
これは、わたしがそう思うだけで、理論上は、そうではないかもしれないのですが、とにかく自分としてはそう思っています。

十二支縁起は、四聖諦よりパ-スペクティヴが狭いと思っているのです。三明で悟れます。
四聖諦には、ブッダの戦略があるような気がします。
これは、ブッダが「言わない方がいい」というので、言いませんが、ものすごく巧みな方便になっているように思います。

> それで教えていただきたいのですが
> 石飛先生の言われる『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。


それは、ショ-シャンクさまもおっしゃっている大乗です。

> ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
> 大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。

ここを文字通り認める立場は、四聖諦を駆使した大乗の立場だと思います。

苦しみは人の数だけ、生類の数だけあって、本当はもっとあるかもしれません。その苦しみをなくしていくためには、それぞれに合わせて処方する仏法がいるかと思います。

そういう道に対応するのが、それなりに『対応する道』なのです。

これを、この世で明らかにした人が龍樹です。『中論頌』は、この『対応する道』を照らす灯りです。これは、苦しみをなくすための道具として、龍樹がブッダの教えを変形したものです。そのまま、ブッダの教えになっているのですが、みなさんは、ほとんど気づいていません。

言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。


簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。
たとえば、ショ-シャンクさまのような、努力する人にとって、これは、もっとも苦しみがすくないやり方なのです。


ブッダの真意は、生き物たちから苦しみを払ってやろう、というところにあると思います。
ブッダは、ひとつまみの土をつまみ上げながら、この土と大地の土とどちらが多いかと比丘たちに聞きます。大地の土が多いに決まっています。

ブッダは、わたしは、もっとたくさんのことを知っているけれど苦しみの滅に向かうという方法にしぼって教えているのだ、という意味のことを語っています。

これは、ブッダの言うとおりだと思います。ブッダは、善いことも悪いことも何でも知っているけれど、ただ、その中で、衆生の苦しみがなくなる、という方向にしぼって、語りを組み立てているのだと思っています。

だから、『(それなりに)対応する道』は、その道具を使って苦の滅に行けるかどうか、というだけなのです。


途中で苦しみが増しても、最終的になくなるのであればよい、と考える人には、中道を使わず、顛倒という方法を使うやり方もあります。

菩薩の誓願は、自我をもって語っていることにもなるかもしれませんが、菩薩にとって苦にならないのは、その先に悟りという大きな目標があるからです。悟りに至れば、一切の苦は滅します。

中道という方法は、苦しみを感じないで進む道で、もっとも行きやすい道でしょう。だから、比丘たちに勧めました。

最終的には、ショ-シャンクさまの見ているとおり、一切の苦しみが滅して、すべてを捨てるのだと思います。筏である仏法すら捨てられると、すべてを捨てることになりますから、その人は一切智者として、生類を救う能力を完全に得ることになるのだと思います。

「法すら捨てるのである、いわんや非法をや」といって、大乗では「一切を捨てる道」を模索して来ました。

どんな苦しみにでも対応できるためには「一切を捨てる」ことができる者でなければならない、と思っています。
その人自身に苦しみがなくなっていないと、他者の苦しみを抜くことはできないでしょう。その意味でも、ブッダになるしかないですね(笑)


 

  [No.21816] 仏陀は三明者 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 10:43:37

石飛先生、ありがとうございます。


> 十二支縁起は、四聖諦よりパ-スペクティヴが狭いと思っているのです。三明で悟れます。


これはよくわかります。

私も、仏陀は三明によって十二縁起を悟ったと思っています。
宿住智によって十二縁起を、宿住智と天眼智によって四諦を悟り、悟った四諦を観ずることによって漏尽智に達したと考えています。

私は仏陀の智とは三明のことだと思っていますので(三明ヴァッチャ経)、十二縁起だけでなく四諦も三明によって悟ったのだと考えているのです。


> 四聖諦には、ブッダの戦略があるような気がします。
> これは、ブッダが「言わない方がいい」というので、言いませんが、ものすごく巧みな方便になっているように思います。

これは、見当がつきません。
『方便』という言い方が気になりますが(笑)

ところで、先生は、仏陀の声が聴けるのですか?
もしそうなら、聞いていただきたいのですが、
私は、仏陀が80歳のとき、つまり入滅の年に語ったことは、それまでに言ったことのない、腹の中のものをすべて出したような気がしています。それを正しく聞いた後世の人たちが大乗仏教を興したように感じています。それで合っているか、聞いてもらえませんでしょうか。



> ここを文字通り認める立場は、四聖諦を駆使した大乗の立場だと思います。

ここも見当がつきません。
四諦の法を声聞の修行法として軽視してしまったのが大乗ですから、大乗で四諦を駆使するとは想像がつきません。



> これを、この世で明らかにした人が龍樹です。『中論頌』は、この『対応する道』を照らす灯りです。これは、苦しみをなくすための道具として、龍樹がブッダの教えを変形したものです。そのまま、ブッダの教えになっているのですが、みなさんは、ほとんど気づいていません。


それについて最もわかっていないのが私です。
仏陀の教えは、龍樹以降には(大乗仏教の国々では)すべて龍樹仏教に変形してしまったと考えているからです。
龍樹は天才であったが故に、龍樹の色一色になってしまいました。
物凄い影響力です。
ですから、私はことさら龍樹を避けて、龍樹の色のつく前の仏陀の教えを探求してきたところがあります。



> 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
> 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。


これは、龍樹を避けていた私にとっては難題中の難題です。
『龍樹をマスタ-』というのはハ-ドルが高すぎのような気がしますが。


 

  [No.21818] Re: 仏陀は三明者 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/14(Mon) 20:12:40

ショ-シャンクさま こんばんは。

> 私も、仏陀は三明によって十二縁起を悟ったと思っています。
> 宿住智によって十二縁起を、宿住智と天眼智によって四諦を悟り、悟った四諦を観ずることによって漏尽智に達したと考えています。

そこまで細かく考えたことがなかったので、
考えている内に、だんだん分からなくなってしまいました。
まとまったらお話ししたいと思いますが、とにかく三明は基本をなすと思います。この点はショ-シャンクさまと同じです。
>
> 私は仏陀の智とは三明のことだと思っていますので(三明ヴァッチャ経)、十二縁起だけでなく四諦も三明によって悟ったのだと考えているのです。

四諦も三明によって悟ったというのは、そうだと思います。

> > 四聖諦には、ブッダの戦略があるような気がします。
> > これは、ブッダが「言わない方がいい」というので、言いませんが、ものすごく巧みな方便になっているように思います。
>
> これは、見当がつきません。
> 『方便』という言い方が気になりますが(笑)

そのうち話せるだけのものが出てきましたら、お話ししたいと思ってますけど、今は、ちょっとクリアでないところがあるので、遠慮しますね。
>
> ところで、先生は、仏陀の声が聴けるのですか?

ブッダの声が聞けるかどうかは、自分でも分かりませんが、
たまに自分で語っていると思わず話してしまっていることがあり、言った本人もビックリすることがあります。

ブッダが言っているのか、自分が言おうとしているのか、自分でも分かりません。
ですが、語ったことは、わたしの責任です。


> もしそうなら、聞いていただきたいのですが、
> 私は、仏陀が80歳のとき、つまり入滅の年に語ったことは、それまでに言ったことのない、腹の中のものをすべて出したような気がしています。それを正しく聞いた後世の人たちが大乗仏教を興したように感じています。それで合っているか、聞いてもらえませんでしょうか。

これは、ショ-シャンクさまが、ブッダからそうお聞きになっているのだろうと思います。
これ、わたしも分かるような気がします。

> 腹の中のものをすべて出したような

というところ、何か、わたしも感じるものがあります。
それまで厳密に論理を用いているのに、けっこう、最後の方では、論理も何もぶっ飛んだようなところがあって、切実に迫るものを感じます。

龍樹は、全国を行脚して、経典などを求めて歩き回っています。龍樹の、この衝動にかられたような行為は、彼もまたブッダから何かを感じとったのかも、と思わないではありません。

ブッダの教えを、もっとも最初に聞いて深く感銘を受けた人たちは、ものすごく長いことかけてブッダのことばを検討しつづけて来たのではないかと思っています。

入滅の時だけではなく、最初に悟った時から、大乗への道は模索され続けていたのではないかと思いますが、そうは言ってもパ-リの『大般涅槃経』が果たした役割はものすごく大きなものだったと思っています。

大乗の経典類は、禅定も智慧ブッダクラスの者たちが、受けとって、残してきたものでしょう。

> > ここを文字通り認める立場は、四聖諦を駆使した大乗の立場だと思います。
>
> ここも見当がつきません。
> 四諦の法を声聞の修行法として軽視してしまったのが大乗ですから、大乗で四諦を駆使するとは想像がつきません。

あら、そうですか。四聖諦や縁起など、軽視している大乗教徒たちはいないのではないかと思います。ただ、表だって、それらを説くことはしませんので、目立たないですが、これらを当然のようにふまえて、それから先の展開をメインに語るのではないかと思っています。

法華経』など読みますと、初期仏教の教えなどほとんど出てこないように見えますが、要所要所で簡単に書いてあって、「あ、やっぱり使ってるんだ」と思います。さりげなく出てきますね。


> それについて最もわかっていないのが私です。
> 仏陀の教えは、龍樹以降には(大乗仏教の国々では)すべて龍樹仏教に変形してしまったと考えているからです。

わたしは、ブッダの仏教を正しく伝えよう、正しく使おうとしたのが、龍樹だと思っています。「正しく」というのは、ブッダの使ったような使い方で、という意味です。


> 龍樹は天才であったが故に、龍樹の色一色になってしまいました。
> 物凄い影響力です。

そうですかぁ、そのように捉えていらっしゃるんですね。。わたしは、龍樹は、すっかりゆがめられて、みんな勝手気ままに龍樹を使っているような気がしてなりません。

どんなにブッダからはずれても、「龍樹の仏教はこうだ」とかいう意見を聞くと、悲しくなります。龍樹は、ブッダと寸分違わず同じことを言っているのに、と。

> ですから、私はことさら龍樹を避けて、龍樹の色のつく前の仏陀の教えを探求してきたところがあります。

そうなんですか。
わたしも、もともと仏教から入っていたら、ショ-シャンクさまと同じように龍樹を敬遠していたかもしれないです。

世間の評価にとらわれて、ブッダとは違うと思って、龍樹には見向きもしなかったと思いますが、実際、龍樹とは外道の議論から入っていったので、外道にしっかりと向き合って誠実に答える龍樹を見て、また、その答の巧みなことを見て、確かにブッダのようだと思いました。
>
> > 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> > 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> > 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
> > 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。

> これは、龍樹を避けていた私にとっては難題中の難題です。
> 『龍樹をマスタ-』というのはハ-ドルが高すぎのような気がしますが。

ブッダが分かる人なら、龍樹もわかります。
世間の研究書は、龍樹を誤解しているように思われてなりません。
龍樹は、ブッダの空思想を明らかにしたのです。ブッダは、空だけは、明瞭に説きませんでした。いろいろ理由はあります。

特に言い争いを恐れたのはあるかと思います。
また、煩悩のもっともさかんに燃えさかるようなところに踏み込まねばなりませんから。その意味では、難しいところはありますが、でも、仏教の大事な部分ですので、多くの人は了解すると思っています。

今、『中論頌』を翻訳解説しているところです。
もし出せたら、読んでいただけると幸いです。


 

  [No.21821] 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 21:42:51

石飛先生、こんばんは。


> > 私は、仏陀が80歳のとき、つまり入滅の年に語ったことは、それまでに言ったことのない、腹の中のものをすべて出したような気がしています。それを正しく聞いた後世の人たちが大乗仏教を興したように感じています。それで合っているか、聞いてもらえませんでしょうか。
>
> これは、ショ-シャンクさまが、ブッダからそうお聞きになっているのだろうと思います。
> これ、わたしも分かるような気がします。
>
> > 腹の中のものをすべて出したような
>
> というところ、何か、わたしも感じるものがあります。
> それまで厳密に論理を用いているのに、けっこう、最後の方では、論理も何もぶっ飛んだようなところがあって、切実に迫るものを感じます。

> 入滅の時だけではなく、最初に悟った時から、大乗への道は模索され続けていたのではないかと思いますが、そうは言ってもパ-リの『大般涅槃経』が果たした役割はものすごく大きなものだったと思っています。


大般涅槃経もそうですが、もっとすごいのは『大獅子吼経』です。
別名、『身の毛のよだつ教え』です。
大獅子吼経も大般涅槃経と同じく、仏陀が80歳の時の言説だとされています。
私は、この大獅子吼経と大般涅槃経のメッセ-ジを正しく受取った者が、後世、大乗仏教を起こしたと考えています。
これも私が独自で勝手に考えているだけですが。

入滅の年の仏陀は、特別なメッセ-ジを発しています。
それを感知して身の毛のよだった者が大乗仏教を興していったのでしょう。
法華経の『一大事因縁故出現於世』は、大獅子吼経から来ていると思います。
如来寿量の片鱗もあります。

阿弥陀経の蓮池などの浄土の様子もひょっとしたらここから来ているのかもしれません。



> 今、『中論頌』を翻訳解説しているところです。
> もし出せたら、読んでいただけると幸いです。

はい。必ず読ませていただきます。


 

  [No.21825] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/15(Tue) 08:26:20

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 大般涅槃経もそうですが、もっとすごいのは『大獅子吼経』です。
> 別名、『身の毛のよだつ教え』です。
> 大獅子吼経も大般涅槃経と同じく、仏陀が80歳の時の言説だとされています。
> 私は、この大獅子吼経と大般涅槃経のメッセ-ジを正しく受取った者が、後世、大乗仏教を起こしたと考えています。
> これも私が独自で勝手に考えているだけですが。

な~るほど!ショ-シャンクさまの中では、確信されているのですね。
縁起を意識されて、考えられているのですね。


> 入滅の年の仏陀は、特別なメッセ-ジを発しています。
> それを感知して身の毛のよだった者が大乗仏教を興していったのでしょう。
> 法華経の『一大事因縁故出現於世』は、大獅子吼経から来ていると思います。
> 如来寿量の片鱗もあります。


実際、おっしゃる通りだろうといわねばならないと思います。
先にお釈迦さまに尋ねてみて欲しいといわれた時も、「そのとおりです」といわねばならない気はちょっとしたのです。

ただ、わたしが思いますのは、この『法華経』それ自体の構成が、予定調和ともいうべき様相を呈していて、すべてが何か定まっているかのように展開して行くことです。

「方便品」で、声聞乗の人々の500人が去ったあと、「一大事因縁故出現於世(ただ一大事の因縁をもってのゆえに世に出現する)」と述べて、一仏乗が説かれていきます。

如来寿量品」が最初におかれるわけではありません。『法華経』中程にきて、ようやく如来の寿命は無量なのだと告げられて行きます。

たぶん、現実には、起こったとおりの記録だろうと思います。しかし、その起こったとおりの記録が、縁起にしたがってまるで自動的に起こるかの如くに展開しているので、「実は如来の寿量は無量であって、方便として涅槃に入るのだ」と言われているような気がします。
>
> 阿弥陀経の蓮池などの浄土の様子もひょっとしたらここから来ているのかもしれません。

そうだと思います。そして、その根元は、梵天勧請の時に語られた蓮の花の喩えがあると思います。『法華経』の経典名も、そこから来ていると思います。

そして、パ-リ語の『大般涅槃経』ですが、これも、ブッダの影響が色濃く残った編纂であると思います。
亡くなっているのですから、ブッダ自身が編纂したとは言えないかもしれませんが、順序立てて説かれていくその構成は、ブッダが大乗への変遷を見据えているかのように、まとめられ、矛盾することがありません。


大乗にいくと「不可思議」ということばがたくさん出てくるのは納得できます。
確かに不可思議としか言いようがありません。

順序立てても語られうる、しかし、後のものを先にしても成りたちうる、というところで、
ブッダの体系は閉じてくるのだと思います。

人間ワザではないですね。


わたしは、あまりに不思議なので、掲示板をつくっているのです。
ブッダの教えに乗っかれば、本当に、このように展開していくのだろうか、と。。

今のところ、まったく同じように展開していっています。おそるべし、ブッダ


 

  [No.21829] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 16:06:26

石飛先生、ありがとうございます。


> > 入滅の年の仏陀は、特別なメッセ-ジを発しています。
> > それを感知して身の毛のよだった者が大乗仏教を興していったのでしょう。
> > 法華経の『一大事因縁故出現於世』は、大獅子吼経から来ていると思います。
>
>
> 実際、おっしゃる通りだろうといわねばならないと思います。
> 先にお釈迦さまに尋ねてみて欲しいといわれた時も、「そのとおりです」といわねばならない気はちょっとしたのです。



中部経典『大獅子吼経』において、仏陀はこう言います。

『迷妄のない生けるものが、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために、世界に現われている』
それが、私だ、と。


『私は、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、世界に現われている』
というような言説は、80歳のこのときまで、原始仏典ではなかったように思えます。


大獅子吼経といい、大般涅槃経といい、80歳の時の仏陀には、その心の底を吐露したと思われる言説があります。


 

  [No.21835] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/16(Wed) 07:40:52

ショ-シャンクさま

> 中部経典『大獅子吼経』において、仏陀はこう言います。
>
> 『迷妄のない生けるものが、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために、世界に現われている』
> それが、私だ、と。

確かに、おっしゃるとおりです。わたしは、勘違いしていました。『ディ-ガ・ニカ-ヤ』の中に説かれる獅子吼の個所を述べているのかと思ってしまいました。


> 『私は、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、世界に現われている』
> というような言説は、80歳のこのときまで、原始仏典ではなかったように思えます。

実は、これとまったく同じ文は、『マッジマ・ニカ-ヤ』第四経「怖駭経」にもあるのですが、こちらは、本当に身の毛のよだつような体験をさしているようです。

しかし、ショ-シャンクさまの読みは、わたしも正しいのではないかと思います。

といいますのは、「多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために」という部分の表現は、原始仏典の中で繰り返し用いられているからなのです。

『ヴィナヤ』の最初にも、阿羅漢がたくさん輩出した時、ブッダは、この表現を使って、比丘たちに「遊行せよ」と勧めます。印象深いことばで、衆生への慈悲があふれてくるような、この表現が、いろいろなところで活用されている、ということは、それだけ重要だったということであります。

ショ-シャンクさまのご指摘のように、この世に出現した正等覚者であり、阿羅漢であるものは、このわたしだ、と言っていると思います。

> 大獅子吼経といい、大般涅槃経といい、80歳の時の仏陀には、その心の底を吐露したと思われる言説があります。


梵天と約束をした時から、この思いを抱いてずっと衆生を教化しつづけてきた、ということを確認するような経典であると思います。

ショ-シャンクさまに言われるまで、読みながら気づきませんでした。
それにしても、わたしは、「多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために」という表現に心ひかれて、折りに触れて思い出していたのですが、この表現は、さまざまな展開の中に用いられていることを知って、「やっぱり!」と感慨深く思っています。

どうもありがとうございました。


 

  [No.21837] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 09:11:56

石飛先生、おはようございます。

おっしゃるように、中部経典『恐怖経』にも
『多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のために、迷妄のない生けるものが世に現われている』
という言葉がそのままありましたね。
見落としていました。
そして、確かに、霊園に住み、獣が来たりして、まさしく『身の毛のよだつ』ような場所です。

教えていただきありがとうございます。


 

  [No.21679] Re: もう学問の範囲を超えていると思います 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/05/16(Sun) 09:41:55



> あなたが おもう “ とおり ” に 、
> ↓ “ いつも ” あなたは後に 違和感を覚える


もちろん! そうです!
「後に」ということばが光っています。

だからこそ、『法華経』の説く「久遠実成の釈迦牟尼」にも到達します。

だからといって、時を語る相手に向かって、春間さまのように「久遠実成だ」と述べるのは、易しい(優しい)言い方だとは思いません。
>
> “ 今 ” は 、 あなた は ( あなたがある限り ) あなたから 離れられない
> そのような 「 処 」 で
> このような “ 記述 ” が 、 成り立っている( “存在” を 示している )
>
> “存在” とは 「 名称 」 であるけれど
> ( 「 名称 」 に過ぎないと知ろうと )
> 存在 を 以てして “ 存在 ” を 、 明かすことは出来ない
>
> 思い通り において 「 道 」 を 見ようとしている ( 観てはいない ) からです

「思い通り」というのは、この文脈では違うと思います。それは、わたしの言い方ではない。

本当は、こう言わなければならない、仏教を知るのであれば。

縁起にしたがって 「道」を見ようとしている(観てはいない)からです 、と。

突然ですが、「縁起にしたがう」ということについて、わたしは、こんなことも考えています。


実は、わたしは、KIMさまがどこでどう考えて、今の考えにいたったのかを追っています。
縁起を追っているのです。

第2章を、そのまま読めば、KIMさまの実力なら、ちゃんといけるところまでいけただろうに、どうしてこうなったかな、って思っています。そこで見えてくるのが、「縁起にしたがっていない」、ということなのです。

どこかで、何かの偏見が入ってきて、そこにとらわれた。
金剛般若経』もコツコツ読んでいるし、『中論頌』も読んでいる。
研究書にとらわれたかな、って、ちょっと思います。



> こういう表現群 から 違和感 を 覚えてしまう
> のは
> 違和感にいる “カラ” です ( 存在 とは そのようなモノ )
>
>
> そのようなモノ とは 存在するモノ ではありません
> ( これが、 記述として 存在するから ややこしい )


こういう表現群に違和感を覚えてはいません。春間さまの言い方だと思っています。

“間違っていない”表現は、自分自身のあり方を正しく示します。

わたしもよくやることで、奥歯に物がはさまったようになってしまいます。

しかし、“間違っていない表現”そのものが悪いわけではありません。縁起にしたがっていないのが、悪いのです。


ショ-シャンクさまに言われたので、違うあり方も試そう、って思っています。
そうすると、書きやすくなりました。春間さまも、そうしてみたら?


わたしは、シンプルですよ。変わっていけることを喜んでいます。


 

  [No.21501] 道場復活、おめでとうございます 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 08:29:29

石飛先生、おはようございます。

ヤフ-掲示板で、いくつもの良質な掲示板が荒らされて閉鎖に追い込まれていった姿を
数多く見ている私としては、心配しておりました。

道場が復活されるのは、一ファンとしてとてもうれしいです。


 

  [No.21502] Re: 道場復活、おめでとうございます 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/04/18(Sun) 10:17:27


> ヤフ-掲示板で、いくつもの良質な掲示板が荒らされて閉鎖に追い込まれていった姿を
> 数多く見ている私としては、心配しておりました。

ショ-シャンクさま

ご心配をおかけしていたとは、全然気づかず、申し訳ありません。

閉鎖に追い込まれるケ-スもあるのかぁ。。。
あらためてお聞きすると、えらいこっちゃ、って感じですね。

やってる方は、全然気にするそぶりもなく、どれだけ困るかを楽しみにしているところがありますから、たちが悪いです。


> 道場が復活されるのは、一ファンとしてとてもうれしいです。

もっと早く復活できなくて、すみませんでした。
なってみないと、わからないので、あらかじめ予定する事ができません。


お釈迦さまのおこなった 随犯随制 ってのですね。


 

  [No.21503] 随犯随制 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 10:57:56

石飛先生



> 閉鎖に追い込まれるケ-スもあるのかぁ。。。
> あらためてお聞きすると、えらいこっちゃ、って感じですね。



ヤフ-掲示板は、スレ主にアラシの投稿を削除する権限がなかったですから
アラシのやりたい放題でした。
スレ主が嫌になって、いなくなってしまうスレが大量に発生していました。
私はヤフ-掲示板の仏教カテは最後の2年足らずしかいませんでしたが
その間でも、アラシに悩まされているスレ主は多くいました。
特に悪質なアラシが5人いました。名前は言いませんが(笑)



> やってる方は、全然気にするそぶりもなく、どれだけ困るかを楽しみにしているところがありますから、たちが悪いです。



アラシの人は、自分のスレッドを作ってみるのですが、そこに誰も来ないので
閲覧者の多いスレッドに居座ったりするのです。

アラシの人は自己重要感が毀損されていますから、ほんの少しの否定でも過剰に反応します。
怒りにまかせた罵詈雑言を書き立てます。

ヤフ-掲示板と違って削除機能がある掲示板であれば、罵詈雑言を言う人はすぐ削除して関わらないのが一番だと思います。



> お釈迦さまのおこなった 随犯随制 ってのですね。



お釈迦様の最初の戒律は一つだけだったと思いますが
サンガが発展すると随犯随制で戒律がどんどん増えていきましたね。

特に、成道から20年たった時くらいからは、いろいろなレベルの人が入ってきて
とんでもないことをする人も出てきています。

随犯随制で作りすぎたとお釈迦様も思われたのでしょう。
亡くなるとき、小さい戒ならなくしてもいいとされました。

最初期の弟子たちであれば、戒律は一つだけでよかったかもしれませんが
様々な人が集まってくると難しいですね。


 

  [No.21510] Re: 随犯随制 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/04/18(Sun) 14:40:42


ショ-シャンクさま

さすが、わたしのやることは、穴だらけで、書き込み禁止にしたはずなのに、全然ふつうに書き込めてるみたいです。ちょっと、訂正してみました。ダメだったら、また考えます。

> ヤフ-掲示板は、スレ主にアラシの投稿を削除する権限がなかったですから
> アラシのやりたい放題でした。

ここも、似たようなものですが(笑)。

> スレ主が嫌になって、いなくなってしまうスレが大量に発生していました。
> 私はヤフ-掲示板の仏教カテは最後の2年足らずしかいませんでしたが
> その間でも、アラシに悩まされているスレ主は多くいました。
> 特に悪質なアラシが5人いました。名前は言いませんが(笑)

5人もいたのですか。たぶん、とまらなくなっているのでしょうね。
内心では、「早く禁止にしてくれえ」って叫んでいたかもしれない。というのは、甘いかな。

(ミチオくん、削除された事はない、っていばるなあ。
削除権限がなかったんだって、ショ-シャンクさまはおっしゃってますよ。)

>
> > やってる方は、全然気にするそぶりもなく、どれだけ困るかを楽しみにしているところがありますから、たちが悪いです。

> アラシの人は自己重要感が毀損されていますから、ほんの少しの否定でも過剰に反応します。
> 怒りにまかせた罵詈雑言を書き立てます。

ほんとですねえ。
>
> ヤフ-掲示板と違って削除機能がある掲示板であれば、罵詈雑言を言う人はすぐ削除して関わらないのが一番だと思います。

削除機能を使いこなせない管理人もいるのが、困ります。使っているうちに、だんだん覚えるかもしれないが、そうなるとそれはそれで困ったものです。


> > お釈迦さまのおこなった 随犯随制 ってのですね。
>
> お釈迦様の最初の戒律は一つだけだったと思いますが
> サンガが発展すると随犯随制で戒律がどんどん増えていきましたね。

ですねぇ。おおよそ、250戒と言われます。女性は、もっと多いし。

以前に、スマ長老に戒律は全部覚えるのですかとお聞きしたら、布薩のときに、読む人がいるから、ただ聞いていればよいようなことをおっしゃってました。そんなに覚えているわけではないのかな、と思ったものです。違うかもしれませんが。

お聞きした印象ですが、戒律は、自然に行いが正されると、覚えていなくても戒に触れることはしないようになるのだろうと思います。

そういうことからすると、この掲示板も、今までだれもアラしたりしなかったですから、幸せだったというべきかも。

>
> 特に、成道から20年たった時くらいからは、いろいろなレベルの人が入ってきて
> とんでもないことをする人も出てきています。

確かに、そうですね。わたしも、ある意味、そのトンデモぶりに感心しました。ここの掲示板のことですが。

良くここまで情熱を傾けて、投稿できるなあと思います。中身ないのに。

中身があったら、また、荒らせないからダメなんですよね。
知識はあってもいいけど、中身はない、という投稿でなければならないのが、アラしている人の書き込みの特徴ですよね。
引用をたくさん使って、知識を披露するふりをしながら、中身有益になりそうだと、相手や他人の悪口にきりかえる、ということになりますね。

わたしも、一生懸命、アラシの心理を勉強しました。相手が嫌がりそうなことを特に考えるのが、特徴ですね。相手を破壊しようという欲望がありますね。

> 随犯随制で作りすぎたとお釈迦様も思われたのでしょう。
> 亡くなるとき、小さい戒ならなくしてもいいとされました。
>
> 最初期の弟子たちであれば、戒律は一つだけでよかったかもしれませんが
> 様々な人が集まってくると難しいですね。

ほんとですね。


 

  [No.21518] Re: 随犯随制 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 19:05:02

石飛先生

> > ヤフ-掲示板は、スレ主にアラシの投稿を削除する権限がなかったですから
> > アラシのやりたい放題でした。
>


> ここも、似たようなものですが(笑)。


先生が鷹揚で優しいからだと思います。
私は鷹揚でも寛容でも優しくもなく、いい人でもないので、
自分のブログであればすぐ削除するつもりです。(今まで一人だけですが削除したことがあります)



> > 特に悪質なアラシが5人いました。名前は言いませんが(笑)


> 5人もいたのですか。たぶん、とまらなくなっているのでしょうね。
> 内心では、「早く禁止にしてくれえ」って叫んでいたかもしれない。というのは、甘いかな。



はい。甘いです(笑)
禁止しなければ、承認されたと思ってますますズケズケと入ってきます。
この人たちがよく使うのは
『スレはスレ主の所有物ではない。公共のものだ。』
言論の自由だ』

たまに、憲法の『検閲の禁止』を出してくる人もいました(笑)
すぐ論破しましたが。




> そういうことからすると、この掲示板も、今までだれもアラしたりしなかったですから、幸せだったというべきかも。


確かに、過去ログを見ても今までは品位は保たれていたと思います。

例えていえば、瀟洒な住宅地だったところが、ある人が癇癪を起して、スプレ-で落書き始めた感じですかね。
そうすると、それに続く者が現れて、スプレ-していいんだと思い込んでしまって
壁一面落書きばかりになって一気にスラム街化した感じですか。





> 良くここまで情熱を傾けて、投稿できるなあと思います。中身ないのに。
> 中身があったら、また、荒らせないからダメなんですよね。
> 知識はあってもいいけど、中身はない、という投稿でなければならないのが、アラしている人の書き込みの特徴ですよね。
> 引用をたくさん使って、知識を披露するふりをしながら、中身有益になりそうだと、相手や他人の悪口にきりかえる、ということになりますね。
> わたしも、一生懸命、アラシの心理を勉強しました。相手が嫌がりそうなことを特に考えるのが、特徴ですね。相手を破壊しようという欲望がありますね。




本当に中身が有って信心深いのであれば、ごく簡単な言葉幼稚な言葉であっても、
石見の才市のように、慕う人や賛同者が数多く出てくるはずです。
それが、何十年も毎日毎日大量投稿し続けているのに賛同者が出てこないのは
何かがおかしいと感じてもいいはずなんですけどね。


 

  [No.21532] Re: 随犯随制 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/04/18(Sun) 21:07:41

ショ-シャンクさま

> 先生が鷹揚で優しいからだと思います。
> 私は鷹揚でも寛容でも優しくもなく、いい人でもないので、
> 自分のブログであればすぐ削除するつもりです。(今まで一人だけですが削除したことがあります)

鷹揚で優しいといっても、今回二人削除してますので、わたしの方が多いです。

> > 内心では、「早く禁止にしてくれえ」って叫んでいたかもしれない。というのは、甘いかな。
>
> はい。甘いです(笑)

あ、甘かった(笑)

> 禁止しなければ、承認されたと思ってますますズケズケと入ってきます。
> この人たちがよく使うのは
> 『スレはスレ主の所有物ではない。公共のものだ。』
> 『言論の自由だ』

『言論は縁起だ』と、言い返せそうですね。
公共のものなら、なおさら、まずいような気もしますよね。

> たまに、憲法の『検閲の禁止』を出してくる人もいました(笑)
> すぐ論破しましたが。

そうですか。理屈とこう薬はどこにでもつく、という論法ですね。
>
> 確かに、過去ログを見ても今までは品位は保たれていたと思います。
>
> 例えていえば、瀟洒な住宅地だったところが、ある人が癇癪を起して、スプレ-で落書き始めた感じですかね。
> そうすると、それに続く者が現れて、スプレ-していいんだと思い込んでしまって
> 壁一面落書きばかりになって一気にスラム街化した感じですか。

スラム街化するのは、あっという間ですね。
バンクシ-みたいだと面白いけど。

> 本当に中身が有って信心深いのであれば、ごく簡単な言葉幼稚な言葉であっても、
> 石見の才市のように、慕う人や賛同者が数多く出てくるはずです。
> それが、何十年も毎日毎日大量投稿し続けているのに賛同者が出てこないのは
> 何かがおかしいと感じてもいいはずなんですけどね。

そうですよねえ。
今までですと、どこか本気で書いている人には、かならず賛同者がいました。
価値観の違う書き込みがあって、面白かったのですが、それもないですよね。

やっぱり、つまらないものは、だれも評価してくれない、ってことですね。


 

  [No.21520] 法華経も重要な書だが--- 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/04/18(Sun) 19:18:17

そこには結論はないんだよ

これは仏教学者の定石

涅槃経にあるってこと しかし 学者にも 誰にも紐解けなかった

紐解けるのは--浄土教関係者

だからな 親鸞さまも 一番 引用が多い

わかったね ショ-シャンク !

大乗を否定するから 叩かれる 極悪人のいちせんだい---


 

  [No.21525] Re: 法華経も重要な書だが--- 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 19:36:03

>大乗を否定するから 叩かれる 極悪人のいちせんだい---


別に大乗は否定していない。

仏陀の真意の復興運動が大乗仏教だと言っているくらい。

それに、極悪人の一闡提なら、悪人正客だから、一番大切なお客様でしょ?

一番大切なお客様を呼び捨てにしてはいけないんじゃないの?(笑)


 

  [No.21527] Re: 法華経も重要な書だが--- 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/04/18(Sun) 19:40:00

> >大乗を否定するから 叩かれる 極悪人のいちせんだい---
>
>
> 別に大乗は否定していない。
>
> 仏陀の真意の復興運動が大乗仏教だと言っているくらい。
>
> それに、極悪人の一闡提なら、悪人正客だから、一番大切なお客様でしょ?
>

方針が変わったのかい ?

涅槃経も なにやら誹謗 ショ-シャンク殿


 

  [No.21521] Re: だから最後に説かれたのが涅槃経だと 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 19:29:17

> また末法のれわれの為に説かれたのが
> 大乗涅槃経なのである ●後の世のために 説かれたと 記してある
> そして像法から末法
> そして 末法--- - これは 重要な書だと 誰にも分るものだ
> 涅槃宗まで あったくらいだよ
> しかし浄土教を知らないと 誰も 紐解けない



仏陀が最後に説かれた言葉を記しているのは、パ-リ語の大般涅槃経

大乗涅槃経は4世紀くらいに創作された。

しかし、大乗仏典の中では重要な書であることは確か。
天台の五時教判以前は、大乗仏典では、涅槃経と華厳経がツ-トップだった。

浄土教や浄土経典の成立より何百年も後に大乗涅槃経はできたのだから
成立時期からすると、大乗涅槃経の影響を受けて浄土教が成立したということはない。
浄土教の影響を大乗涅槃経が受けていることはあるかもしれない。


 

  [No.21508] 大乗涅槃経の成立は4世紀以降 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/04/18(Sun) 13:01:14

> 大乗涅槃経
> ここに 説かれているのが 重要な証拠になるんだ
> さいごに おときになられた 最終結
> 当時のすべての僧が 読まれていた 重要な書


当時のすべての僧って、いつの時代のこと?
大乗涅槃経が作成された、4世紀から5世紀のこと?
そのころには、大乗教団は存在しなかったので
『すべての僧』が読んでいたはずはない。

大乗涅槃経は、浄土教や浄土経典が成立した何百年も後に作られたもの。
だから、浄土教の成立に大乗涅槃経は直接関係しない。

当然、龍樹が生きているときは大乗涅槃経はない。

大乗涅槃経は、中国で重要視された。
中国では、涅槃経と華厳経がツ-トップだった。