P52 ②

  [No.17805] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 17:42:24

輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB



↑の文章において
わざわざウィキペディアを貼っているのはどうしてですか?

根拠にしても、参照にしても、参考にしても、
【輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません】という文章を
裏付けるものとして貼ったのでしょう?

そうでないというなら、なぜ貼ったのですか?


 

  [No.17807] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 21:03:53

>>開いた口が塞がらない

>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


春間さん、あなたはいつものことですが
根拠もなく断定して
その矛盾点を突かれると、逃げてしまいます。

上の文章のように、あそこまで言って断言しなおかつわざわざウィキペディアを貼ったのですから
断言した内容と貼ったウィキペディアの内容の関連をちゃんと説明してください。

『開いた口が塞がらない』まで言って
答えられなくなったら『自分で考えなさい』『自分で答えを見つけなさい』と逃げてばかりいると
誰からも信用なくしますよ。

あなたにちゃんとレスするのが馬鹿馬鹿しくなります。

もう、逃げるのはやめませんか?


 

  [No.17809] Re: あなたの根拠 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/21(Mon) 21:18:12


[No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

***********
あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。
***********

そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?

もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません

「 輪廻 」 については、 正しい 記述を わたしは 見たことがありません
( 管理人エム 様 の それを含めても 、、、、 )
龍樹の輪廻思想 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。 『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。

これ (↑)が、 龍樹 の知る 「 輪廻 」 ですか ?

( 一つの 龍樹に対する 解釈に過ぎない )



「 輪廻 」 は あなたの行為に起きている
( あなた とは、 あなたであり、 管理人エム 様 であり、 これを眺める者である )


わたしは、 あなたと共に、 「 輪廻 」 している



 

  [No.17811] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 21:30:29


> そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
> 「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?
>
> もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
> わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません


は?何を言ってるのですか?
あなたが、ウィキペディアを貼ったのですよ。
↓↓↓
輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB



ですから、
『輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません』と
貼った https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB の関連を聞いているのです。

全く関係のないものを貼ったとでも言いますか?
関係があるから貼ったのですね?
ですから、どのように関係があるのかを聞いているのです。
なぜ貼ったか?という問いです。


 

  [No.17815] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 23:45:19

ごまかしはもうやめませんか?

私が書いた
『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそうした人はいますか?
いるなら名前を挙げてください。
そして、その考え方はゴ-タマ・シッダッタに引き継がれています。』

この言葉に、特に『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。』を
強く否定したのがあなたです。
『開いた口が塞がらない
輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません』と。
そして、ウィキペディアを貼ったのです。

あなたはその時点では、そのウキペディアの内容は、
ヤ-ジュニャヴァルキヤよりずっと昔から、インドでは行為によって輪廻が起きるということが言われていたということだと
確信していたのです。
しかし、指摘を受けてちゃんと読んでみるとそうでもないらしいということに気づいたのです。

あなたの性格では、それを認めたくないでしょうね。
私はあなたの多くのレスをスル-していましたが、
しかし、しつこく、自分もググってるではないかと言ってきたので
私は一度もググるのが悪いと言ってないとレスしたのです。


私が書いた『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。』を否定するのは
簡単なことだと思いますよ。
ヤ-ジュニャヴァルキヤより昔の文献で、行為により輪廻するという記述を示せばいいだけです。
なぜそれをしないのですか?
そういう根拠がないからですね?


 

  [No.17816] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 05:44:00

別に私は、私が書いた
『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。』
の説に固執しているのではありません。

ちゃんと文献を出して、そうではない、もっと前から言った人はいるというならそれに従います。
特に、ヤ-ジュナヴァルキヤの前にも、出家した人はいるのですから妻を捨てた出家者ということで名前が確定しているのが
ヤ-ジュナヴァルキヤというだけですので、他にいたかもしれません。

そこは本筋ではなく
ヴェ-ダ文化を仏陀は否定したのではなく、受け入れていた、というのが私が言いたいことです。

ですから、ヤ-ジュナヴァルキヤにこだわっているわけではありません。

しかし、春間さんは真っ向から、『ヤ-ジュナヴァルキヤではない』と断言してくるので
その根拠は何かを聞いているだけです。

もし、典拠があれば、それに修正することは全くかまいません。

はっきり言って、ヤ-ジュナヴァルキヤでなくてもいいのですから。


 

  [No.17818] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 07:58:00

> > 妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
>
> 出家( シュマラナ )は ヤ-ジュニャヴァルキヤ に 始まる という意味ですね ?


シュマラナではなくシュラマナです。シュラマナはサンスクリット語なので、私はサマナsamanaといいますが。
ヤ-ジュナヴァルキヤは、シュラマナ(サマナ)ではありません。
仏陀はsamanaです。

ヤ-ジュナヴァルギヤのころにも出家した人は多いです。
ただ、妻を捨てて出家したという記録が残っているのはヤ-ジュナヴァルギヤが最初でしょう。



> > ヴェ-ダ文化を仏陀は否定したのではなく、受け入れていた、というのが私が言いたいことです。
> ( と言うことが、 示されています )
>
> “受け入れる” という意味が 不確定です

仏陀はヴェ-ダ文化を否定していない、というのがその意味です。
これが私の言いたいことです。



> 止めてほしくなければ、 三度 訪ねてください

いや、前から言っていますように、私のコメントへのレスは一切不要です。
春間さんは、根拠も典拠も示さずに断言してきて、その根拠を聞くと、『自分で探しなさい』と逃げてしまうので
時間の無駄なのです。
どうか、私にはレスせずに他の人にレスしてあげてください。
私は、ちゃんと典拠を示して話せる人と話したいのです。
典拠があれば、私は柔軟に従います。

典拠がないのであれば、私の投稿へのレスは一切不要です。


 

  [No.17820] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 08:56:59

>>そういうことを、 記述したのですが
>>( 止めたこと に 関連してしまうから 止めます )

>>止めてほしくなければ、 三度 訪ねてください

>>一応・一度で( ここで ) 止めます


あなたも『止めます』と言っているではないですか。
ですから、止めましょう。
三度訪ねる気はないですから、これで止めましょう。

そして、あなたも一度くらいは、自分の投稿で終わらず、人の投稿に反応しない訓練も必要ですよ。

あなたの自我がどうしても、相手の投稿で終わらせたくない、終わらせると負けた気分になるのです。

この投稿に反応しないようになれば自我から離れる一歩でしょう。
ただ、絶対にレスしてきて、相手の投稿で終わらせないでしょうね(笑)

それでは、これで。これからは、私から春間さんにレスすることはないと思います。


 

  [No.17803] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 16:54:59

> 行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
という私の文章に対して
あなたはこう書きました。


輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


示されたそのウィキペディアのどこを見ても
ヤ-ジュナヴァルキヤが発見したことではないということの参考になる記述がありません。

あなたは、なぜ、そのウィキペディアを貼り付けたのですか?
どこの部分を参照すれば、その結論になるのでしょうか?


 

  [No.17797] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/20(Sun) 07:51:18

ショ-シャンクさま おはようございます。

> > 言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、
> >しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。
>
> ここは全面的に賛同いたします。
> むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
> 仏陀が成道したとき、説いても無駄だと考えたように、
> 説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
> そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。

お?! そうですか!
説かずに入滅した人の数は多い、と。
そういうことを考えますと、本当にブッダの存在は貴重であると思いますよね。
世に出て、人々に教えを説きました。

> 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

一種の中道だからでしょうね。
中道は、重要な道ですが、これは到達すべき目標ではなく、実践する修行道ですから。
滅尽定は、はっきりした目標になると思います。

> 私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
> 仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
> どのような理由からでしょうか。


ヤ-ジュニャヴァルキヤは、睡眠を重視して、そこに覚りの境地につながるものを見つけようとしたと思います。覚醒位(ブッダ-ンタ )、夢位(スヴァプナ-ンタ)、熟眠位(サンプラサ-ダ) 、死位(ムリタ)の四つの段階を認めたのですが、中でも、熟眠位を重視しました。

【熟眠位】 「これこそ実に、欲望を超越し、悪を滅し、恐怖を離れた、かれの姿なのであります。あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように、まさにこのプルシャは理知によって感ぜられたア-トマン(認識主体としてのブラフマン)に抱擁されるとき、外界も内部もまったく感知しないのであります。これは実に、欲望を満たして、ア-トマンだけを希求し、他に欲望なく、憂い悲しみを離れた彼の姿なのです。(『ブリハッド』4.3.21)

神秘主義の極致をよく表していると思うのですが、梵我一如をこのように説明したと思います。そこから、ヴェ-ダ-ンタでは、後代になると、サット(有)、チット(精神)、ア-ナンダ(歓喜)を、掲げていくことになります。ことばで示されていますよね。
この、最後のア-ナンダ(歓喜)というのが、どうも引っかかるのです。

ここは、神秘主義にとって到達する最高のものとして歓喜が説かれていると見られます。ヤ-ジュニャヴァルキヤの表現では「あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように」と、たとえで示されている、という点に、まだこれ以上の境地があるのではないかということを想像させるものがあります。

「熟睡の状態」や、「愛する人との抱擁」など、どうも、これ以上ない境地を示すにしては、平凡すぎるような気もします。わたしたちでも想像できる境地、というところに不満があります。
ヴェ-ダ-ンタでは後に、「死位」にあたる第四位をトゥリ-ヤとして、ここを最高の境地としていきます。まだ、改革の余地がある、という点に、ヤ-ジュニャヴァルキヤの到達点がそれほどでなかったと思う理由があります。


> 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。

ヘ-ゲル的に言えば、「正反」を乗り越え「合」に到達したとも言えますから、相対主義を乗り越えているかもしれませんが、しかし、その「合」が、又ことばを生んでいきますと、新たな「正反合」を生んでいく可能性も出てこないとは限りません。

「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。

>
> 六師外道というのはひとつのキ-ポイントだと思います。
> 私が注目するのは、六師外道が、いわゆるバラモン教でないことです。
> 六師とも仏陀と同じ自由思想家です。
> なぜ、それを『外道』の代表としたのか、そこに興味があります。
> 仏陀は『ヴェ-ダの達人』と呼ばれていました。
> 石飛先生によると、仏陀自身が『私はヴェ-ダの達人だよ』と言ったとのことです。

そうです。どこだったかな。『スッタニパ-タ』の中に、スンダリカ・バ-ラドヴァ-ジャという祭式大好きな婆羅門がいて、彼と会話するのです。そこで、暗にヴェ-ダグ-であることを語り、スンダリカは感服していろいろ尋ねるところがあります。訳が中村先生の訳と少し違うかもしれません。この訳が一番合理的かなと思っています。

祭式を行ったスンダリカが、供物のお下がりを誰にあげようかと思案して、近くに衣をかぶって坐っていたブッダに、婆羅門かどうか尋ねようとして「あなたはどのような生まれなのですか」と尋ねます。すると、ブッダは、カ-ストの四つの身分のどれでもないと答えて、凡夫の姓を知りつくして無一物で賢明に世の中を行じている身だと答えます。これに驚いたスンダリカは、次のように言います。
======
457(ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」

(ブッダ)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四音節からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」

※ サ-ヴィトリ-讃歌はガ-ヤトリ-とも言われ、当時からヴェ-ダ讃歌の最高のものとして暗唱されていました。サ-ヴィトリ-を知っているということは、上位の3ヴァルナに入ることから、ブッダがただ者ではないことを察知したスンダリカは、次のように聞きます。

458(ス)「仙人や貴族やバラモンは、何のためにこの世において広く神々の祭祀をとりおこなったのですか。」

(ブッダ)「究極に到達したヴェ-ダの達人が、祭祀のときに献供を得るならば、その(祭祀をした)人には、成就があるだろうと、わたしは説くのです。」

459(ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
=====

ブッダが「ヴェ-ダの達人」であることを、スンダリカは、あっさり納得していますので、
自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。

※ 「法」のあやまり

> このことから、仏陀自身は、自身をヴェ-ダの流れにあるものという認識だったのではないかと考えます。
> むしろ、自由思想家の方を外道としています。
> 仏陀が、バラモン教を全否定したというイメ-ジは弟子たちによって作られたものではないかと思うのです。

なるほど、そうお考えになったのですね。
わたしは、この微妙で訳しにくい表現から、自由思想家の婆羅門ではない道にもよらず、婆羅門のヴェ-ダの道にもよらなかった、という立場を見ています。中道ですね。

六師外道の人々は沙門に属すると思いますが、一応ブッダも沙門の流れを汲み、しかし、ヴェ-ダにも精通しており、ということで、やはり、出てくるのは「一切智」でしょうか。

> イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。
>
> これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。

そうですねぇ、このあたりは、イエスブッダも時代を超える器を示しているのかもしれません。解釈を超えてしまっている、という。
>
> なるほど。
> 私は龍樹のことはほとんど知りません。
> 私には、仏陀の教えを斬新な切り口で解釈した学者のように思えるのですが
> 禅定なども、実際の師なくして優れていたのでしょうか?

この辺は、わたしもどの程度まで行ったのだろうと、あれこれ見ているのですが、『大智度論』(これは龍樹作と思っています)などを読みますと、禅定も相当詳しく、けっこう達人クラスだったのではないかと思わせられます。

本人は、師について得た禅定の位はもっていなかったかもしれませんが、実際にはかなりのものだったと思います。
理論化できるということは、禅定もそこまで行っていたのだろうと想像するのですが、そこを証明するものはありません。菩薩で言えば、歓喜地だったということで、それでいいか、と思っています。
>
> 先生は神秘主義がお嫌いなのですか?
> 私はむしろ、教えの上澄み部分、エキスのように思えています。

う-ん、好きか嫌いかで言えば、どちらでもないのですが、先ほども言いましたように、世俗的な表現で喩えられる境地というのが、ちょっと引っかかるのです。
それに、「歓喜」というのが、人々にとっては求めやすいかと思います。
そこを最高とする、というところが、また、引っかかるところです。

> イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
> 神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。

そうですか?!
「宗教として」、という点を重視されるのですね。そうなのか。。
わたしはただの哲学でも、それによって生きる道しるべになるので、一向にかまわないのですが。

> 禅の見性や悟りも直接体験ということで神秘主義でしょうし
> 法華経如来秘密神通之力を説いています。

おおっと~~、そうなんですね。
禅や法華経に、わたしは、神秘主義を入れないようにしなくちゃと注意しているのですが。。。

わたし自身は、仏教には神秘主義は入っていないと思っています。神秘主義というのは、形而上学と結びついたところに生まれてくると思っています。
ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。

【2020/09/20(Sun) 07:58:35 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17798] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 09:44:18

石飛先生、おはようございます。

> お?! そうですか!
> 説かずに入滅した人の数は多い、と。
> そういうことを考えますと、本当にブッダの存在は貴重であると思いますよね。
> 世に出て、人々に教えを説きました。

私はそう思っています。
仏陀が思ったように『説いても無駄だ』と思う人は多いのではないかと。
あるいは『このまま溶け込んでいたい』と思うのはむしろ自然かもしれないと思います。
ですから、仏陀は本当に有り難いことです。

>
> > 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> > その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

> 一種の中道だからでしょうね。
> 中道は、重要な道ですが、これは到達すべき目標ではなく、実践する修行道ですから。
> 滅尽定は、はっきりした目標になると思います。


滅尽定は、誰かがそばにいないと、自分では禅定から抜け出せない(感覚も想念もなく意志がないために)と
記述された文章を見たことがあります。
かなり特殊な段階ですね。
それにしても疑問なのは、もし滅尽定に達することができたら、三界を出る、火宅を出ることができるのでしょうか。
私は禅定ではできないような気がします。智慧を生じないので。

> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、睡眠を重視して、そこに覚りの境地につながるものを見つけようとしたと思います。覚醒位(ブッダ-ンタ )、夢位(スヴァプナ-ンタ)、熟眠位(サンプラサ-ダ) 、死位(ムリタ)の四つの段階を認めたのですが、中でも、熟眠位を重視しました。
>
> 【熟眠位】 「これこそ実に、欲望を超越し、悪を滅し、恐怖を離れた、かれの姿なのであります。あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように、まさにこのプルシャは理知によって感ぜられたア-トマン(認識主体としてのブラフマン)に抱擁されるとき、外界も内部もまったく感知しないのであります。これは実に、欲望を満たして、ア-トマンだけを希求し、他に欲望なく、憂い悲しみを離れた彼の姿なのです。(『ブリハッド』4.3.21)
>
> 神秘主義の極致をよく表していると思うのですが、梵我一如をこのように説明したと思います。そこから、ヴェ-ダ-ンタでは、後代になると、サット(有)、チット(精神)、ア-ナンダ(歓喜)を、掲げていくことになります。ことばで示されていますよね。
> この、最後のア-ナンダ(歓喜)というのが、どうも引っかかるのです。
>
> ここは、神秘主義にとって到達する最高のものとして歓喜が説かれていると見られます。ヤ-ジュニャヴァルキヤの表現では「あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように」と、たとえで示されている、という点に、まだこれ以上の境地があるのではないかということを想像させるものがあります。
>
> 「熟睡の状態」や、「愛する人との抱擁」など、どうも、これ以上ない境地を示すにしては、平凡すぎるような気もします。わたしたちでも想像できる境地、というところに不満があります。
> ヴェ-ダ-ンタでは後に、「死位」にあたる第四位をトゥリ-ヤとして、ここを最高の境地としていきます。まだ、改革の余地がある、という点に、ヤ-ジュニャヴァルキヤの到達点がそれほどでなかったと思う理由があります。


なるほど。よくわかりました。
確かに低い感じはしますね。
真言立川流に流れていきそうな感じです。
神秘主義が変な方向にいくとどうしようもないですし、排除される理由が分かりました。


> > 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。
>
> ヘ-ゲル的に言えば、「正反」を乗り越え「合」に到達したとも言えますから、相対主義を乗り越えているかもしれませんが、しかし、その「合」が、又ことばを生んでいきますと、新たな「正反合」を生んでいく可能性も出てこないとは限りません。
>
> 「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。


否定でないと言い表せないということを最初に発見、または言い出した人なので、私はそこはすごいと思っているのです。
ここから大きな流れができたと思います。


> そうです。どこだったかな。『スッタニパ-タ』の中に、スンダリカ・バ-ラドヴァ-ジャという祭式大好きな婆羅門がいて、彼と会話するのです。そこで、暗にヴェ-ダグ-であることを語り、スンダリカは感服していろいろ尋ねるところがあります。訳が中村先生の訳と少し違うかもしれません。この訳が一番合理的かなと思っています。
>
> 祭式を行ったスンダリカが、供物のお下がりを誰にあげようかと思案して、近くに衣をかぶって坐っていたブッダに、婆羅門かどうか尋ねようとして「あなたはどのような生まれなのですか」と尋ねます。すると、ブッダは、カ-ストの四つの身分のどれでもないと答えて、凡夫の姓を知りつくして無一物で賢明に世の中を行じている身だと答えます。これに驚いたスンダリカは、次のように言います。
> ======
> 457(ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」
>
> (ブッダ)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四音節からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」
>
> ※ サ-ヴィトリ-讃歌はガ-ヤトリ-とも言われ、当時からヴェ-ダ讃歌の最高のものとして暗唱されていました。サ-ヴィトリ-を知っているということは、上位の3ヴァルナに入ることから、ブッダがただ者ではないことを察知したスンダリカは、次のように聞きます。
>
> 458(ス)「仙人や貴族やバラモンは、何のためにこの世において広く神々の祭祀をとりおこなったのですか。」
>
> (ブッダ)「究極に到達したヴェ-ダの達人が、祭祀のときに献供を得るならば、その(祭祀をした)人には、成就があるだろうと、わたしは説くのです。」
>
> 459(ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
> =====
>
> ブッダが「ヴェ-ダの達人」であることを、スンダリカは、あっさり納得していますので、
> 自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
> ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。


私はこの部分は本当に不思議な気がします。
仏陀は、ここで祭祀の効果を肯定しています。
ヴェ-ダでもウパニシャッドの知の道は肯定しても、仏陀は祭祀については否定的だと思い込んでいました。


> なるほど、そうお考えになったのですね。
> わたしは、この微妙で訳しにくい表現から、自由思想家の婆羅門ではない道にもよらず、婆羅門のヴェ-ダの道にもよらなかった、という立場を見ています。中道ですね。
>
> 六師外道の人々は沙門に属すると思いますが、一応ブッダも沙門の流れを汲み、しかし、ヴェ-ダにも精通しており、ということで、やはり、出てくるのは「一切智」でしょうか。


私も、仏陀がヴェ-ダをそのまま受け継いだとは思っていません。
ヴェ-ダを土壌としつつ、それをはるかに超えた法に至ったと思っています。

ただ、今までの仏教解釈では、ヴェ-ダ、いわゆるバラモン教仏陀が全否定したということが強固に信じられていますから
それでは本当の仏陀の真意はわからないと思っているところです。

ユダヤ教を知らないとイエス・キリストは分からないように。


後半はまた後から書かせていただきます。


 

  [No.17823] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/22(Tue) 10:39:20

ショ-シャンクさま、連休も終わりになってきましたね。わたしには関係ないですが(笑)
おはようございます。
>

> 仏陀が思ったように『説いても無駄だ』と思う人は多いのではないかと。
> あるいは『このまま溶け込んでいたい』と思うのはむしろ自然かもしれないと思います。
> ですから、仏陀は本当に有り難いことです。

まったくです。教えを説かないブッダも出て来るのですから、ここで人々を救おうと思ってくれたブッダは、ほんとに、そのまま、救世主です。
>
> 滅尽定は、誰かがそばにいないと、自分では禅定から抜け出せない(感覚も想念もなく意志がないために)と
> 記述された文章を見たことがあります。
> かなり特殊な段階ですね。

スマナサ-ラ長老は、あらかじめいつ出るか設定しておくのだとおっしゃっていました。
レンジでチンするみたいなものです、ともおっしゃっていたかな。

> それにしても疑問なのは、もし滅尽定に達することができたら、三界を出る、火宅を出ることができるのでしょうか。
> 私は禅定ではできないような気がします。智慧を生じないので。

滅尽定に入りっぱなしだと何も起きないかもしれないですが、出定すると、そこでは智慧を生ずることは可能ではないでしょうか。如来は、「このようにやって来た者」ということですから、時代や場所に合わせて「このように」やってきて、智慧と方便を駆使する存在であると考えています。
>

> なるほど。よくわかりました。
> 確かに低い感じはしますね。
> 真言立川流に流れていきそうな感じです。
> 神秘主義が変な方向にいくとどうしようもないですし、排除される理由が分かりました。

基本的に、バラモン教では、「有(ある)」ということを捨てられないと思います。そこが問題になるのではないかと思っています。
>
> > 「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。
>
>
> 否定でないと言い表せないということを最初に発見、または言い出した人なので、私はそこはすごいと思っているのです。
> ここから大きな流れができたと思います。

ここは、おっしゃる通りです。わたしも、そこを考えるとブッダを見るような思いもします。ここは、確かに、ブッダも使っているところなので一目置かざるを得ないのですが、そこまで行くなら、さらにもう一歩進めて、概念的な思考に蓋をかぶせてほしかった、と思うのです。まあ、でもそれができたら、ブッダに成る日も近いことにもなりますか。。
>
>
> > 自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
> > ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。
>
>
> 私はこの部分は本当に不思議な気がします。
> 仏陀は、ここで祭祀の効果を肯定しています。
> ヴェ-ダでもウパニシャッドの知の道は肯定しても、仏陀は祭祀については否定的だと思い込んでいました。

ここは、なかなか微妙なのでありまして、よくよく読みますと、スンダリカに教えているのは、ヴェ-ダ祭祀自体が効果があるかどうかではなくて、祭祀の供物の残りを誰に布施をすると効果があるか、というところが論点になっているのです。

ヴェ-ダの祭祀でなくても良いんだな、とちょっと思わせられるのですが、ですが、スンダリカにとっては、ヴェ-ダ祭祀はとても大切ですから、その供物の残り(プラサ-ダ)も大切で、それを誰に布施するかも重大問題になります。

そこで、ブッダがでてきて、清らかで汚れがなく寂滅している聖者に供物を捧げるなら、施主には大きな功徳がある、と述べているわけです。ヴェ-ダの祭祀を扱いながら、実質的には、ブッダの教えによる聖者がすぐれている、かれにお布施をすると大きな功徳がある、というのですから、実際、知らずに仏法に預かってもいることになります。

そして、このような人に供物を捧げなさい、と、あれこれ聖者の特徴をあげて、法を伝えています。うますぎる説法だなと思っています。巧みすぎて、仏法を教えられたとも気づかないまま、スンダリカは、ブッダのような聖者に出合えて、本当に良かったと納得し、最後は、そのまま弟子入りしてしまいます。

> 私も、仏陀がヴェ-ダをそのまま受け継いだとは思っていません。
> ヴェ-ダを土壌としつつ、それをはるかに超えた法に至ったと思っています。
>
> ただ、今までの仏教解釈では、ヴェ-ダ、いわゆるバラモン教仏陀が全否定したということが強固に信じられていますから
> それでは本当の仏陀の真意はわからないと思っているところです。
>
> ユダヤ教を知らないとイエス・キリストは分からないように。

なるほど、このあたりでしょうか、問題は。ブッダは、バラモン教の何を改革したのか、という点ですよね。

エスもまたすごいですね。

そう言えば、キリスト教の大学で、非常勤で仏教の講義を教えているのですが、「仏教もキリスト教と同じように、最初からある宗教だと思っていました」という感想があって、ビックリしました。仏教の前にはバラモン教の世界があり、キリスト教の前にはユダヤ教がある、ということを、つい忘れてしまうのかもしれません。

バラモン教はヒンドゥ-教として今もインドに存在し、ユダヤ教も現役の宗教です。
そういう意味では、キリスト教と仏教は似たところがあるのかもしれませんね。


 

  [No.17825] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 20:47:16

石飛先生、ありがとうございます。

ショ-シャンクさま、連休も終わりになってきましたね。わたしには関係ないですが(笑)

今日で連休も終わりですね。私も業種柄、連休と関係ないです。大学の先生も連休関係ないのですね。意外です。


> まったくです。教えを説かないブッダも出て来るのですから、ここで人々を救おうと思ってくれたブッダは、ほんとに、そのまま、救世主です。

教えを説くことを勧めた梵天様にも感謝してます。
そのまま教えを説かなかったら、仏教自体がなかったわけですから、ちょっと想像できないですね。


> スマナサ-ラ長老は、あらかじめいつ出るか設定しておくのだとおっしゃっていました。
> レンジでチンするみたいなものです、ともおっしゃっていたかな。

そうですか。誰かが側にいなくても大丈夫と言うことですね。設定というのも不思議な感じです。


> ここは、なかなか微妙なのでありまして、よくよく読みますと、スンダリカに教えているのは、ヴェ-ダ祭祀自体が効果があるかどうかではなくて、祭祀の供物の残りを誰に布施をすると効果があるか、というところが論点になっているのです。
> ヴェ-ダの祭祀でなくても良いんだな、とちょっと思わせられるのですが、ですが、スンダリカにとっては、ヴェ-ダ祭祀はとても大切ですから、その供物の残り(プラサ-ダ)も大切で、それを誰に布施するかも重大問題になります。
> そこで、ブッダがでてきて、清らかで汚れがなく寂滅している聖者に供物を捧げるなら、施主には大きな功徳がある、と述べているわけです。ヴェ-ダの祭祀を扱いながら、実質的には、ブッダの教えによる聖者がすぐれている、かれにお布施をすると大きな功徳がある、というのですから、実際、知らずに仏法に預かってもいることになります。
> そして、このような人に供物を捧げなさい、と、あれこれ聖者の特徴をあげて、法を伝えています。うますぎる説法だなと思っています。巧みすぎて、仏法を教えられたとも気づかないまま、スンダリカは、ブッダのような聖者に出合えて、本当に良かったと納得し、最後は、そのまま弟子入りしてしまいます。


スッタニパ-タは全体的に非常にわかりづらいですが、この箇所も難しいですね。
『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
そうであれば、諸仏は、そのお供えの菓子を食べることができないですね。
古代インドでは、火の祭祀は動物の生け贄を焼き、それを後で食べるということがあったように読んだことがあります。
その頃は牛も例外ではなく食べていたとか。
しかし、ここでは供物はお菓子のようです。
『詩を唱えて得たもの』と『お供えの菓子』が同じなのか違うのかがわかりにくいのです。


 

  [No.17829] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/23(Wed) 06:50:24

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 今日で連休も終わりですね。私も業種柄、連休と関係ないです。大学の先生も連休関係ないのですね。意外です。

講義の予習に追われているので、連休はリズムが狂ってかえって迷惑なくらいです。オンラインになってから、自宅が教室なので、教室で寝泊まりしている感じです。悲しい。


> スッタニパ-タは全体的に非常にわかりづらいですが、この箇所も難しいですね。
> 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。

ここは、説明できます。確かにスンダリカだけ読みますと分かりにくいのですが、他の経典にも出て来るので、そこを少しあげましょう。

『スッタニパ-タ』第一章4「耕作するバ-ラドヴァ-ジャ経」の中にもあります。
いろいろな人とブッダは会話していますが、その時、詩(韻律をもったもの)を用いてやりとりすることが良くあります。

『スッタニパ-タ』では番号がふってある文章は、詩を意味しています。どこか軽い感じのやりとりといった風な感覚ですが、その場合、ブッダはお布施を受けとらないのです。

81 「詩を唱えたのなら、わたしとしては食べるべきではない。バラモンよ、正しく観る者たちには、このような法(習慣)はないのです。詩を唱えて(報酬を得る)ことを除いているのが、諸仏(目覚めたものたち)なのです。(この)法があるとき、このような生活があるのです。
82 完全なる偉大な仙人であり、煩悩を滅尽し、悪しき行為が静まった人には、他の飲食物で奉仕しなさい。というのは、これは、功徳を期待するものの(福の)田であるから。
(『スッタニパ-タ』第一章4「耕作するバ-ラドヴァ-ジャ」経)

たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。

そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。

生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

> そうであれば、諸仏は、そのお供えの菓子を食べることができないですね。
> 古代インドでは、火の祭祀は動物の生け贄を焼き、それを後で食べるということがあったように読んだことがあります。
> その頃は牛も例外ではなく食べていたとか。
> しかし、ここでは供物はお菓子のようです。
> 『詩を唱えて得たもの』と『お供えの菓子』が同じなのか違うのかがわかりにくいのです。

供物のお下がりは、プラサ-ダ(神々の残餞)と呼ばれ、もっとも清らかな食べ物ということになっています。プラサ-ダには「恩寵」などという意味もありますから。
古代インドの供犠は、おっしゃるように生き物を殺すこともよくありました。仏教・ジャイナ教の影響を受けて、不殺生ということが徹底されてきて、プ-ジャ-(供養)というやり方になっていったということです。

「お供え物のお菓子」はプラサ-ダで、これをお布施することは、ヴェ-ダ祭式としては、功徳を増すことにつながります。しかし、誰に与えるかも重要で、ブッダは、施主に功徳をもたらしてくれるのは、修行を積んで高徳となった人であると説いて、そのような人を「福田(功徳をもたらしてくれる田んぼ)」と呼んでいるのです。

バラモン教やヒンドゥ-教の祭りでは、プラサ-ダはみんなで分け合い食べますが、その中でも、お坊さんや行者、バラモンなど徳の高そうな人にお布施すると御利益があります。お布施でしか生きられない行者などにお布施をすることは、その人の命を長らえさせることになりますし、いつか貴重な法を聞くことができるかもしれません。自分の功徳を積むことになります。

そんなこんなで、功徳を積む行為として、お布施を見るならば、福田たる聖者にお布施するのがよい、と、ブッダスンダリカに教えているのだと思います。

スンダリカの気持に逆らわず、そして、もっともだと思うことをブッダが説いてくれるのですから、ブッダにお供えのお下がりをお布施したくなる気持もわかりますが、それに対して、ブッダは、自分は、詩によってやりとりしたことでお布施をもらうわけにはいかない、と一線を引いているのだと思います。

ブッダは、あらゆることから自由であって、生きるため・生活するために食物を得ようとしているわけではないからです。


 

  [No.17837] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/23(Wed) 16:35:33

石飛先生、ありがとうございます。

> > 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
>
> たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。
> そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。
> 生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
> 純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

ご説明で大筋は分かりました。ありがとうございます。

ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。

バラモン
『あなたのようなヴェ-ダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。
先生、ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』
仏陀に懇願します。

それに対しての仏陀の答えが
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。』
と言います。

それに続けて
『全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。』
と言います。

この対話を見ると、
『お供えの菓子を召し上がってください』という願いに対し
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。』と拒否して
さらに
『他の飲食をささげよ。』と言っています。

これを素直に読めば、
つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。

ここの記述がどうしてもつながらないのです。


 

  [No.17846] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/25(Fri) 07:21:18

ショ-シャンクさま おはようございます。

> ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。
>

> これを素直に読めば、
> つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
> 祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。
>
> ここの記述がどうしてもつながらないのです。

な~る。。 たしかに、そのようにも読めるような気がしますね。
ちょっとだいたい訳をあげてみましょうか。

『スッタニパ-タ』第三章4「スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ」経
スンダリカとブッダの会話が詩によってやりとりされています。そのあたりからです。詩で答え始めたのは、ブッダの方ですね。

◇====
そこで、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者に近づいて、このように言いました。
「あなたは、どのような生まれなのですか」
そこで、尊者は、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンに、詩によって答えました。

455 「わたしは、バラモンではありません。王族の子でもありません。庶民階級でもありません。また、何ものでもありません。凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、賢明に世間の中で行じています。

456 わたしは、大衣を着て、家なく、髪を剃り、みずから寂滅して、この世で人々に汚されることなく、行じています。バラモンよ、わたしに、姓を尋ねるのは適当ではありません。」

457 (ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」

(尊者)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四文字からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」

※サ-ヴィトリ-讃歌は、ガ-ヤトリ-(韻律の名)とも言われ、有名なリグ・ヴェ-ダの讃歌で、これさえ覚えていれば罪を祓ってくれる御利益のある讃歌とされ、現在でも称えられている。youtubeにあったもの。現代風な歌になってます。
https://www.youtube.com/watch?v=tnVlRixTcZw
サ-ヴィトリ-讃歌を持ち出されて、スンダリカはブッダがヴェ-ダを知っていることを察知したと思います。そこで、すぐに、ブッダを「ヴェ-ダの達人」と呼んでいます。

459 (ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
460 (尊)「それ故に、バラモンよ、あなたは、必要があって求めてきたのですから、近寄って尋ねなさい。ここで、まさに、寂静に至り、(怒りの)煙の消えた、苦しみのない、欲のない賢者を見出すでしょう。」

461 (ス)「わたしは、祭祀が好きなのです。君、ゴ-タマよ、祭祀をしたいと思っています。ですが、わたしはわかっていないのです。わたしにどうぞ教えてください、尊者よ。どこに献供すれば成就するのですか。どうぞ、わたしに話してください。」

(尊)「では、バラモンよ、耳を傾けお聞きなさい。わたしは、あなたに法を説きましょう。」

462 「生まれを問うてはなりません。行いを問うてください。実際、薪(カッタ、無用の)から生ずるのが、火(ジャ-タヴェ-ダ、アグニの神)※なのです。賤しい生まれであっても、堅固な聖者であって、恥を知って慎むならば、高貴な者となるのです。

※ ジャ-タヴェ-ダスは、 『ケ-ナ・ウパニシャッド』16、17 『ブリハッド・ア-ラニヤカ・ウパニシャッド』6.3.1にも出ている。ただの火ではなく、ここでは、火神を指す。

463 真実によって調御され、(感覚器官を)制御して、ヴェ-ダの達意に達して、梵行を完成した人 ―― 時にしたがって、かれに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

464 欲望を捨てて、家を出て行じ、みずからよく制御して、梭のようにまっすぐな人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

465 欲を離れ、感覚器官をよく制御して、あたかも、月がラ-フ※の捕縛から逃れるように(捕らわれない)人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

※ラ-フ 月食、日食を引き起こすとされるアスラ(悪魔)。乳海撹拌の時、不死の霊薬をこっそり飲んだが、太陽と月の告げ口で首を切り落とされるも、首だけ不死になったと言われる。それを恨んで、天に昇ってからも月や太陽を飲み込んで日食、月食を起こすようになったと言われる。

466 執着をもつことなく、常に気づきをもって、わがものという執着を捨てて、世の中を遊歩している人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

467 諸々の欲を捨てて、(欲に)打ち勝って歩み、生死の極限を知って、寂静となって、湖沼のごとくに清涼である如来※は、献果を受けるにふさわしいのです。

※ 「如来」も上にある「ヴェ-ダの達意に達した人」も、特に、仏教やバラモン教の区別をつける必要はないだろう。修行を完成した聖者と受けとめると良いのではないか。

468 等しい者たちと等しく、等しくない者たちから離れている如来には、無辺の智慧があります。この世にも、かの世にも執着することのない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

469 まやかしなく住んでいて、慢心もなく、貪りを離れて、わがものとすることなく、求めることがなく、怒りを除いて、自ら寂滅したバラモンは、憂いの垢を運び去りました。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

470 心の執着を運び去って、所有するものが何もない人、この世もかの世も執着しない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

471 静慮して暴流を渡った、最高の見解によって法を知った人、煩悩を滅尽して、最後の身体を保つ如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

472 生存の諸煩悩も、粗暴なことばも滅ぼされて除き去って、今はなくなっている人、かれは、ヴェ-ダに通じた人であり、あらゆる点で解脱しています。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

473 執着を超えていて、執着のまったくない人、慢心にとらわれている者たちの中で、慢心にとらわれることもなく、田地(=苦の原因)とともにある苦しみをあまねく知っている如来は、献果を受けるにふさわしいのです。
474 願望をよりどころとすることなく、遠離することを見て、他人によって知られる見解を超えて行く、いかなる(認識の)対象もまったくない人、如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

475 これ以上ないすぐれた法が集められ(知られて)滅ぼされ除き去って、今はなくなっている人、寂静となって、執着が滅尽して解脱している、如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

476 結縛と生まれることの滅尽した極限を見て、貪りの道を残りなく除いて、清浄であり過失なく垢を離れ汚れのない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

477 自己によって自己を観察することがなく、静慮していて、まっすぐに行い、自ら立っている人、かれは、不動であって、頑迷ではなく、疑いがないのです。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

478 無知にもとづくものはまったくなく、あらゆる法において知見があり、最後の身体を保っていて、吉祥なる無上の正等覚を得ている人、― この限りで、夜叉(霊)の清らかさがあるのですが ― 如来は、献果を受けるにふさわしいのです。」

479 「このようなヴェ-ダの達人にお会いしたのですから、わたしの供物が、真実の供物になりますように。(このことは)梵天が証人となってくれるでしょう。どうぞ、わたしから受けてください。世尊よ。わたしの供物をお召し上がりください。世尊よ」

480 「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです。これは、正しく観る者たちの法(きまり)なのです。詩を唱えて得たものを、除外しているのが、諸仏であります。バラモンよ、法があるのですから、これが生活習慣になっているのです。

481 独存する者である偉大な仙人であって、煩悩を滅尽して後悔の心の静まった者には、他の飲食物を捧げなさい。なぜなら、それは、功徳を期待する者の福田であるからです。」

482 「すばらしいです。世尊よ、わたしのような者の施物を召し上がってくださる方、祭祀の時に求めるような方を、あなたの教えを受けて、わたしは、そのとおりに知りましょう。」

483 「憤激することが去ってなくなった者、心に濁りのなくなった者、諸々の欲望から自由になった者、落ち込むことを排除した者であり、

484 境界の極限(=煩悩)を調伏した者、生死を熟知した者で、聖者の行いをそなえた聖者が、このような祭祀にやって来るならば、渋ったりせずに、合掌して礼拝してください。そして、飲食物を捧げてください。このようであれば、諸々の施物は(果報を)成就するのです。」

485 「目覚めた者(ブッダ)である尊者は、献果を受けるにふさわしい方です。あなたは、無上の福田であり、あらゆる世界の施物を受ける方です。あなたに施与された者には大きな果報があります。」

さて、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者にこのように言いました。
「すばらしいです。君ゴ-タマよ、すばらしいです、君ゴ-タマよ。ゴ-タマは、あたかも、倒れた者を起こすように、また、覆われたものを開いてあけるように、また、道に迷った者に道を教えるように、暗闇の中で、『眼ある人々は、いろかたちが見えるだろう』と、燈火をかざすように、このように、君ゴ-タマによって、さまざまなやり方で、法が明らかにされました。そこで、わたしは、尊者ゴ-タマに帰依いたします。さらに、法と比丘の集まりにも帰依いたします。尊者ゴ-タマの元で、わたしは出家を得たいと思います。どうか、具足戒を受けさせてください。」
こうして、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者の元で出家し具足戒を受けました。それから、まもなく、このスンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、独りで他から離れ、怠ることなく熱心に励みながら、まもなく、無上の清らかな行いの究極 ―そのために、良き家の出家者(善男子)たちが正しく家より出て出家者となって得たのであるが―それを、現世において自ら覚り、体現して、成就して住んでいました。
「滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない」と覚りました。
こうして、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、阿羅漢となったのです。

=====◇

全体を読んでみますと、「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです」というのは、ヴェ-ダ祭式の際の詩を唱える行為を排除して言うのではなく、ブッダが詩をもって応答していることを指すことが、明らかなように思われるのですが、どうでしょうか。

『スッタニパ-タ』の第一章4「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経も読んで見てください。こちらの方が、よりわかりやすいかと思います。


 

  [No.17851] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/25(Fri) 09:50:57

石飛先生、おはようございます。


> 全体を読んでみますと、「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです」というのは、
>ヴェ-ダ祭式の際の詩を唱える行為を排除して言うのではなく、ブッダが詩をもって応答していることを指すことが、
>明らかなように思われるのですが、どうでしょうか。
> 『スッタニパ-タ』の第一章4「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経も読んで見てください。
>こちらの方が、よりわかりやすいかと思います。


よくわかりました。
確かにおっしゃるとおりです。

あれから、中村元の註を読んでみましたら、どうも中村元も私と同じように読み違えているようです。

『詩を唱えて得たもの』というのを、バラモンがヴェ-ダの詩句を唱えて布施を得ていたことの否定だと書いていました。

しかし、これは中村元の方の間違いですね。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経を読んでみますと、田を耕すバラモンの差し出す乳粥も拒否しています。
このバラモンはヴェ-ダの詩句を唱えてこの乳粥を得たわけではないのに拒否してます。
この場面でも、仏陀は詩を唱えています。

ですから、石飛先生が言われるように、これは仏陀が詩を唱えた対価として受け取ることを拒否したということだとわかりました。


ただ、少し釈然としないのは
そうであれば『他の飲食をささげよ』の『他の飲食』となぜ言ったのか?ということと
この乳粥がなぜ『如来とその弟子以外は食べることが出来ない』のか?
ここを少し自分で考えてみます。

ありがとうございました。


 

  [No.17856] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/26(Sat) 09:10:36

ショ-シャンクさま おはようございます。

中村先生の訳と比べてご検討くださったのですね。
ありがとうございます。

> ただ、少し釈然としないのは
> そうであれば『他の飲食をささげよ』の『他の飲食』となぜ言ったのか?ということと
> この乳粥がなぜ『如来とその弟子以外は食べることが出来ない』のか?
> ここを少し自分で考えてみます。

ここは、わたしも、自分なりに答を出したのですが、「少しご自分で考える」とのこと、しばし沈黙します。

何かわかりましたら、お教えいただけると幸いです。


> ありがとうございました。

こちらこそ、どうもありがとうございました。


 

  [No.17857] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/26(Sat) 17:59:54

石飛先生、こんにちは。

> ここは、わたしも、自分なりに答を出したのですが、「少しご自分で考える」とのこと、しばし沈黙します。
> 何かわかりましたら、お教えいただけると幸いです。


スッタニパ-タは本当に難しいですね。
どうしても矛盾点が出てきます。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経で考えてみますと、

まず中村元の説で検証してみます。
バラモンはヴェ-ダの詩句を唱えて布施をもらっているので、
バラモンから回ってきたものはすべて『詩句を唱えて得たもの』だから諸仏はそれを食べてはいけない、
と解釈する説です。

しかし、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経では、仏陀自らがこのバラモンから食を受けるために立っていたとあります。
これだと受け取ってはいけないのを知りながら受けようとしたことになりますから、矛盾します。

また、諸仏は食べてはいけない習わしでも、他の大多数の人たちは食べていいはずです。
なのに、この乳粥は如来と弟子以外は消化できないことになっています。これも矛盾です。

次に、石飛先生の説です。
仏陀が詩句を唱えたので、その対価としては布施は受け取ってはいけない、という解釈です。
しかし、それであればその食べ物(ここでは乳粥)には何の落ち度もないはずです。
仏陀が詩句を唱えなければ、その乳粥をもらうことはいいはずです。
しかし、『他の飲食をささげよ』と言います。
これは矛盾です。
また、この乳粥はなぜか如来とその弟子しか消化できないことになっています。
これも理由が見当たりません。


考えてみましたが、どう解釈しても、矛盾が起きます。

よろしければ答えを教えてください。


 

  [No.17860] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/27(Sun) 06:08:46

ショ-シャンクさま おはようございます。

> スッタニパ-タは本当に難しいですね。
> どうしても矛盾点が出てきます。

『スッタニパ-タ』は、バラモン文化にもある程度の関心をもっている必要がありますね。
>
> 「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経で考えてみますと、
>
> しかし、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経では、仏陀自らがこのバラモンから食を受けるために立っていたとあります。
> これだと受け取ってはいけないのを知りながら受けようとしたことになりますから、矛盾します。

この田を耕すバ-ラドヴァ-ジャは、農家の中ではかなり豊かな方ではないかと思います。
バラモンとはいえ、職業として農業も営む人もいました。祭式だけで食べていける人は、そう多くはなかったため、実際はいろいろな職業についていたことも考えられます。

そして、乞食(こつじき)する行者などに定期的にお布施として食べ物を配っている人のようです。配給している列に、ブッダも並んだとき、バラモンではないのを見とがめられたか何かで、「わたしは耕して種をまいてそれから食べるのだから、お前も耕して種をまいて食べたらどうだ」と文句を言われてしまいます。

そこで、ブッダは「わたしも耕して種をまいて、それから食べる」と答えて、やりとりが始まりますね。
バ-ラドヴァ-ジャの方から、詩で話しかけ、みごとバ-ラドヴァ-ジャをうならせる答を語ります。そこで、感心したバ-ラドヴァ-ジャは乳がゆを捧げようとしますが、ブッダは、「詩を唱えて得たものは、わたしとしては食べられない。そのような生活方法をとっている」と答えます。

ここで、注目するのは、バ-ラドヴァ-ジャは感銘を受けて、乳がゆをブッダに捧げようとしているというところです。バ-ラドヴァ-ジャとしては、お布施のつもりだったかもしれませんが、ブッダは、報酬とも受けとめられるそのようなお布施は受けとらないという生活のきまりを自らに課していたため断ります。

> また、諸仏は食べてはいけない習わしでも、他の大多数の人たちは食べていいはずです。
> なのに、この乳粥は如来と弟子以外は消化できないことになっています。これも矛盾です。

いや、そうではないと思います。バ-ラドヴァ-ジャがお布施をするのは、功徳を積んで来世をより善いものにしようという考えでしょう。熱心にお布施をするのは、自分の功徳を積むためだと思います。そうなると、バ-ラドヴァ-ジャがお布施しようという気持ちが大事になってくると思います。純粋にお布施をしようと心清らかになったその気持ちをもって乳がゆを、ブッダに捧げる、というその心の動きが大事になってくるのだろうと思います。
単に乳がゆという物ではなく、心を込めたお布施になると、もはや受けとる人はブッダに限定されています。そして、ブッダのような聖者にお布施をすることは、大きな功徳を生むのであって、そのため、福田(功徳を生む田んぼ)と高徳の聖者を呼んでいるわけです。

そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。

ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。

> しかし、それであればその食べ物(ここでは乳粥)には何の落ち度もないはずです。

乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、本来であれば、ブッダが食べるべきものとなってしまっています。そこで、「功徳」という点からいいますと、もはや他の人が与えることのできないほど大きなものを功徳として与えなければならず、そのため、「他の人には消化できない」と述べたのではないかと思います。

> 仏陀が詩句を唱えなければ、その乳粥をもらうことはいいはずです。

そうですね。詩を唱えて、語ってしまったので、もはや捧げられたものは受け取れなくなり、その乳がゆは宙に浮いた状態になっていると思います。

> しかし、『他の飲食をささげよ』と言います。
> これは矛盾です。

いえ、そうではなく、もし、功徳を求めてお布施をするなら、この乳がゆではない他の食べ物を新たに捧げられるなら、純粋のお布施として受けとることができる、ということではないでしょうか。

なぜなら、修行を完成して煩悩のない大仙人は、一般の人々の福田(功徳を積ませることのできる福の田んぼ)であるから、と答えています。

> また、この乳粥はなぜか如来とその弟子しか消化できないことになっています。
> これも理由が見当たりません。

これは、先ほど述べたとおりです。

お布施だけで生きるブッダとその弟子たちは、ただ食べ物をもらっているのではなく、それを捧げてもらうことによって、その人に大きな功徳をもたらしている、ということだと思います。

そのため、する側としてはお布施は純粋な気持ちでなければならず、される側はできるだけ多くの功徳がもたらされるように修行を積んでいなければならない、ということだと思います。

いかがでしょうか。


 

  [No.17867] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/27(Sun) 12:03:44

石飛先生、ありがとうございます。
素晴らしい解釈です。
すべて納得できました。
そして、疑問点の氷解以上の気づきがありました。


> 『スッタニパ-タ』は、バラモン文化にもある程度の関心をもっている必要がありますね。

これは本当にそう感じます。現代の日本の視点では絶対に分からないのではないかと思います。
その時代のインドに降り立った視点が必要となるのでしょう。
ですから、スッタニパ-タは難解です。


> この田を耕すバ-ラドヴァ-ジャは、農家の中ではかなり豊かな方ではないかと思います。

はい。非常に裕福なバラモンだったと思います。
『500挺の鋤を牛に結び付けた』とあります。
さすがに1頭の牛に500挺の鋤は結びつけませんから何百頭もの牛を所有していたということです。
牛はこの時代のインドでは資産の中でも最も価値があるものだったと思います。
非常な資産家ですね。

> バラモンとはいえ、職業として農業も営む人もいました。
> 祭式だけで食べていける人は、そう多くはなかったため、実際はいろいろな職業についていたことも考えられます。

確かにそうなのでしょうね。日本の神社の神主さんのようなものだったと思います。
祭祀だけで食べていけない人もいたでしょう。
ただ、このバラモンは非常に裕福です。これだけ資産があれば何もしなくても食べていける立場だったかもしれません。
このバラモンが田を耕しているのは、自分の信念からだと思います。
ですから、労働もせずに乞食している仏陀をたしなめたのでしょう。

たぶん、所有する牛は乳牛でも最も価値が高い若い牝牛だったのでしょう。
田でつくっていたのは米でしょう。
そこから穫れる大量の米と牛乳で乳粥を作り、多くの人に施していたのでしょう。



> そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
> 貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
> ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。

よくわかりました。
おっしゃる通りだと思います。
ありがとうございます。

今回、石飛先生の解説によって
仏陀とは福田であり続けることなのだとわかりました。
そして仏陀に捧げたことで価値の変換をもたらすのだとわかりました。

大学の先生は授業によって、学生に知識を与え、その対価として報酬をもらいます。
私などは、商品をお客に売って、その対価としてお金をもらいます。

しかし、出家者はそういう対価での取引でなく、すべての人にとっての福田でなければならないのですね。
その福田に種を蒔いた人(お布施をあげた人)が、多くの収穫、多くの功徳が得られるような良き田でなくてはいけない、
ここのあり方が実感としてわかった気がします。

本当にありがとうございます。


 

  [No.17884] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 07:23:41

石飛先生はこう書かれています。
『バ-ラドヴァ-ジャがお布施をするのは、功徳を積んで来世をより善いものにしようという考えでしょう。熱心にお布施をするのは、自分の功徳を積むためだと思います。そうなると、バ-ラドヴァ-ジャがお布施しようという気持ちが大事になってくると思います。純粋にお布施をしようと心清らかになったその気持ちをもって乳がゆを、ブッダに捧げる、というその心の動きが大事になってくるのだろうと思います。
単に乳がゆという物ではなく、心を込めたお布施になると、もはや受けとる人はブッダに限定されています。
そして、ブッダのような聖者にお布施をすることは、大きな功徳を生むのであって、
そのため、福田(功徳を生む田んぼ)と高徳の聖者を呼んでいるわけです。
そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。
心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。
乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、ブッダが食べるべきものとなってしまっています。
そこで、「功徳」という点からいいますと、もはや他の人が与えることのできないほど大きなものを功徳として与えなければならず、
そのため、「他の人には消化できない」と述べたのではないかと思います。』


私はこの解説に非常に感銘を受けました。
そしてこの事例を超えて、仏教そのもののあり方を仏陀がどう見ていたかが分かった気がしたからです。
仏陀は、衆生にとっての福田であるということ。衆生に功徳をもたらす良き田であること。
出家者、修行者は、福田になるように精進し、衆生は大きな功徳をもたらす福田を選んで種をまく(供養をする)のだと。

そして、バ-ラドヴァ-ジャの乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので
仏陀以外には消化できないものとなり、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈です。

それであれば
「乳粥の熱」が、「この私が、自分の所有している物を、与えてやったのだ」という自己へのこだわりで、逆に我執を強めて善行の底にも潜む末那識という燃えるような我執によるもの、
燃える我執によってチッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈とは正反対です。
これだと、我執による布施である乳粥に落ち度があることになります。


どういう解釈をしてもそれは自由です。
ただ、『その解釈は解釈でわかるけど、自分の解釈とは違うものだ』ということははっきりさせないと
道に真摯ではないということになります。


実際、自分の功徳を求めないお布施などあり得ないのです。
仏陀は、むしろ、自分の功徳を積むことを奨励し、その最も大きな功徳が仏への供養としました。
それで仏教システムは今日まで東南アジアでは存続しています。
大パリニッバ-ナ経にも、
『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。
まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』
と言っており、自分に利益があるから善行をしろと言っています。そんな我欲で布施をするなとは言っていません。

我執が少しでもあるお布施が、誰も消化できないものになるのであれば、今もさかんに行われている仏教のお布施はすべて
チッチタ、チッチタと音を立てて湯煙を出してしまうことになります。


 

  [No.17890] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 11:43:27

石飛先生の解説によってはっきりわかったことは、
仏陀とは、福田、よき田であることです。
衆生が布施をするのは、田に種を蒔くこと。
大きな収穫が得られる田がよき田であり、福田です。
この場合の収穫とは功徳のことです。

故に出家者は、良き田になるべく精進しなければならないし
衆生は多くの功徳をもたらす出家者を選んでお布施をする、というシステムなのだということです。

ここにおいて、お布施をする衆生は大きな功徳を求めてするのです。
なぜ功徳を求めるかというとそれが良い生、今世か来世か、どちらにしてもその人が望む良い生を願っているからです。

仏陀は『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』と言っており
自分に利益があるから善行をしなさいと説いています。
自分の利益を考えるのは我執だから駄目だということはありませんでした。

同じ大パリニッバ-ナ経には、遊女と貴公子が、仏陀への食事の供養を自分にやらせてくれと譲る譲らないで争う場面があります。
争ってまで、『自分が』仏陀に食事を提供しようとしているのです。
それは、遊女も貴公子も同じく良き生(今世か来世かはわかりませんが)を望み供養をしようとしているのです。
それは我執と言えば我執でしょう。
我執が全くないなら、他の人が仏陀に供養してもいいはずですから。

自分や自分のものという見解をすっかり滅ぼした人はすでに解脱しているのです。
その人そのものが『福田』『良き田』になっているのです。
それはもう供養される側、応供となっています。
ですから、そこまで解脱することをお布施をする側には求めていません。
仏陀は、お布施をする人の中の『自分のものを差し上げたい』そして『大きな功徳を得たい』という心を咎めたりしてません。
むしろ奨励したからこそ、このシステムは今も仏教を支えているのだと、石飛先生の解説で気づきました。


 

  [No.17905] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 07:06:15

どこを目指しているとか、そういうことを言っているのではありません。


なぜ乳粥が、湯煙を上げて仏陀以外には食べられないものとなったのか?について話し合っています。

石飛先生の解説では、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、ということでした。
崇高という言葉は私が勝手につけたのですが、つまりは、ブッダにささげられて特定され特別なものとなった、みたいな感じです。

芳和さんの説では
布施をしたバ-ラドヴァ-ジャに『自分がした』という我執があったので、その我執(エゴ)の熱により
乳粥は湯煙を上げ食べられないものとなった、ということでした。

この2つの説はまさしく正反対なので、その違いについて語れば新たな気づきもあると思います。
正反対の解釈なので、『正しく見ている』のはどちらか、が知りたいのです。


もし、自分の功徳を求めてお布施をすることが我執であり、
そういう我執が少しでもあれば湯煙を立てて食べられなくなるのであれば
いま特に東南アジアで行なわれているお布施などは、すべて湯煙を立ててしまう、と書いたのです。

お布施に自分の功徳などは求めないことが本当で心の底にでもそんなことがあると
食べられなくなるほど駄目なものだ、という結論は、仏陀が在家に説いた教えの数々からするとあり得ないような気がします。
現実の世界を見ない空論のように思えるのです。

よって、湯煙を立てたのは、石飛先生の解説の『ブッダに捧げられたものだから』というのが正しいように思えたのですが
どうでしょうか、と問題提起してみたのです。


 

  [No.17911] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 12:11:23

芳和さん

そうですか。わかりました。前と同じスタンスですね。
大乗仏教唯識論の理論をもって、『スッタニパ-タ』などの古層の原始仏典を解釈するというスタンスです。

原始仏典の中でも『スッタニパ-タ』は非常に難解です。
その難解さは、まだ理論が整っていない最初期の段階の仏教が生々しく描かれているからだと思います。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求している私にとっては、そういう難解さは貴重です。
まだ後世の手があまり入っていないからです。

何度も言いますように
『スッタニパ-タ』にしても『法華経』にしても、百人いれば百通りの読み方があっていいと思っていますよ。

ただ、単純にパ-リ語の読み間違いなどで私自身、全く違った解釈をしていることはままありますから
いろいろな人の意見を聞くのは非常に参考になることだと感じています。

ヤフ-掲示板の『東哲板』には私はヤフ-掲示板が終了する直前の1年半くらい前にはじめて自分のスレッドを立てました。
それまでは、ヤフ-掲示板の株式板と映画板に長く自分のスレッドを持っていました。
哲学カテゴリ-にいたことは1年あまりの短期間でしたが、いろいろな人が私のスレッドに来てくれました。

その中で、人の話は聞かずに、自分の理論だけ滔々と投稿する人も何人かいました。

異なった意見でもいろいろやりとりしていれば非常に参考になるのにもったいないことだと思っていました。


『この経典にはこうあるから、仏陀はこう考えたのではないか』というようなやりとりができれば面白いと思っていましたが
そういう場でないのかもしれませんね。


 

  [No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 17:01:56

芳和さん

ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
人の話を聞かないのは相変わらずです。

自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

それでは、ご自由に。


 

  [No.17838] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/23(Wed) 16:35:42

石飛先生、ありがとうございます。

> > 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
>
> たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。
> そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。
> 生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
> 純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

ご説明で大筋は分かりました。ありがとうございます。

ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。

バラモン
『あなたのようなヴェ-ダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。
先生、ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』
仏陀に懇願します。

それに対しての仏陀の答えが
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。』
と言います。

それに続けて
『全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。』
と言います。

この対話を見ると、
『お供えの菓子を召し上がってください』という願いに対し
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。』と拒否して
さらに
『他の飲食をささげよ。』と言っています。

これを素直に読めば、
つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。

ここの記述がどうしてもつながらないのです。


 

  [No.17799] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 13:31:25

続きます。

> > イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。
> > これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。
> そうですねぇ、このあたりは、イエスブッダも時代を超える器を示しているのかもしれません。解釈を超えてしまっている、という。

エス在世時は、サドカイ派も存在し、サドカイ派の方が権力に入り込んでいましたし、イエスの教えに反しているのはサドカイ派の考えで
ファリサイ派はイエスの考えに近いですし庶民派でもあります。
当然、イエスサドカイ派の方を攻撃してもおかしくないですが、なぜか、ファリサイ派とその律法学者ばかり攻撃してます。
ここが不思議で仕方ないです。

ということは、神殿破壊でサドカイ派が消滅してから、ユダヤ教ファリサイ派となりましたので
神殿破壊後に、弟子が記述したことから、ファリサイ派を攻撃している場面を選んだのではないかと思います。
ユダヤ教ファリサイ派をイエスは否定したという印象をつけたかったのではないかと思うのです。

それと同じことが、仏陀の弟子にもあって、仏陀の死後、バラモン教の否定ということが強調されたと見ています。




> > イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
> > 神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。
>
> そうですか?!
> 「宗教として」、という点を重視されるのですね。そうなのか。。
> わたしはただの哲学でも、それによって生きる道しるべになるので、一向にかまわないのですが。


例えば、イスラム教の聖典コ-ランを読んでも、規律や規則、礼拝の仕方などばかりで砂をかむような思いがします。
そういうイスラム教の中でもス-フィズムが生まれてる。
魂の救済や神と一つになろうとする姿勢があって、潤いを感じるのです。
規則規律ばかりの外面的なものばかりでなく、内面を掘り下げようとするところがあることに
ホッとするのです。


> おおっと~~、そうなんですね。
> 禅や法華経に、わたしは、神秘主義を入れないようにしなくちゃと注意しているのですが。。。
>
> わたし自身は、仏教には神秘主義は入っていないと思っています。神秘主義というのは、形而上学と結びついたところに生まれてくると思っています。
> ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。


神秘主義というのは、とても誤解の多い用語だと思います。
ただ、宗教学では、イスラム教のス-フィズムやユダヤ教カバラ、仏教の中の密教、インドのヨ-ガ、日本の修験道
神秘主義に入りますよね。

辞書を少しググると、神秘主義の定義は、
『絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場』
『神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、
その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。』

つまり、感覚や知性の働きを超えて体験しようとすることのようですので、
そのような要素はどの宗教にもあるのではないかと思います。
全く排除すると、知性の範囲内で収まることになりますので哲学となるのかもしれません。


 

  [No.17822] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/22(Tue) 10:01:03

> 続きます。

続きの方から先に行きます。なるほどと思うところが多いです。

> イエス在世時は、サドカイ派も存在し、サドカイ派の方が権力に入り込んでいましたし、イエスの教えに反しているのはサドカイ派の考えで
> ファリサイ派はイエスの考えに近いですし庶民派でもあります。
> 当然、イエスサドカイ派の方を攻撃してもおかしくないですが、なぜか、ファリサイ派とその律法学者ばかり攻撃してます。
> ここが不思議で仕方ないです。

確かに、わたしも、サドカイ派というのが出てこないのは不思議に思っていました。
>
> ということは、神殿破壊でサドカイ派が消滅してから、ユダヤ教ファリサイ派となりましたので
> 神殿破壊後に、弟子が記述したことから、ファリサイ派を攻撃している場面を選んだのではないかと思います。
> ユダヤ教ファリサイ派をイエスは否定したという印象をつけたかったのではないかと思うのです。

ふうむ、福音書の執筆者の意図というのが問題になってきそうですね。
また、イエスと近い立場に立つがゆえに、かえってその違いが強く印象づけられたというのもあるかもしれないですね。イエスの弟子が安息日に麦の穂をつまんだのを、労働だと非難したりするのは、自分たちの身近な問題であればあるほど、反発も強くなるという例かもしれません。

わたしは、キリスト教の方は研究したことがないのでよくわかりません。おっしゃるようにも考えられますし、結論を導くのは難しそうだなと自分で思っています。
>
> それと同じことが、仏陀の弟子にもあって、仏陀の死後、バラモン教の否定ということが強調されたと見ています。

なるほどね。。ちょっと話の向きが変わると、そちらの方向(バラモン教の否定・対立)へと向かいそうですものね。
どこまで、ブッダの教えを身につけているか、どこまでブッダと同じようにやれるか、弟子たちの力量の問題にもなってきそうです。

これは、部派だけですと、無理ですね。ブッダのような一切智者・一切勝者が、その力を存分に見せてくれると、反論できずに反対する人たちも黙るでしょうけど、ブッダの存在がいなくなると、声聞に代わって、その役を引き受けるべく菩薩たちが出てきたとしても、まだまだ役不足というところかもしれません。

また、かえって菩薩たちは、身近な、本来なら同じ教えに預かる声聞たちの反発も受けることになったかもしれません。
法華経』が世に出て、常不軽菩薩品のような章が説かれたりするのもわかりますね。

法華経』が、それでも比較的早い時期に世に現れたのは、ブッダの死を切実に捉えて何とか仏法を残そうという人々の意識の表れでしょうね。
実際、『法華経』は、ものすごい経典だと思います。あらゆる仏法に精通していないと、また、あらゆるブッダの理論を身につけていないと、ちょっと著すことができない経典だと思います。

ブッダの「一切智」に直結しているのが『法華経』ですね。一切智を支えている、といいますか。


> 例えば、イスラム教の聖典コ-ランを読んでも、規律や規則、礼拝の仕方などばかりで砂をかむような思いがします。
> そういうイスラム教の中でもス-フィズムが生まれてる。
> 魂の救済や神と一つになろうとする姿勢があって、潤いを感じるのです。
> 規則規律ばかりの外面的なものばかりでなく、内面を掘り下げようとするところがあることに
> ホッとするのです。

なるほどお。宗教の人ですねぇ。了解しました。
確かに、わたしが分からないのが、ス-フィズムなのです。まあ、よく勉強したことが無いのももちろんですが、イスラム教からス-フィズムも生まれてくるところに、意外な想いを抱いています。しかし、イスラム教のふところの深さをそこに感じてもいます。

「イスラ-ム(アッラ-にすべてをゆだねること)」ということばの中に、人々の煩悩(仏教的ですが)や欲望などさまざまな思いを包みこんでいるのが、なかなかすごいと思っています。

> > ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。
>
>
> 神秘主義というのは、とても誤解の多い用語だと思います。
> ただ、宗教学では、イスラム教のス-フィズムやユダヤ教カバラ、仏教の中の密教、インドのヨ-ガ、日本の修験道
> 神秘主義に入りますよね。
>
> 辞書を少しググると、神秘主義の定義は、
> 『絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
> それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場』
> 『神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、
> その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。』

そうですか。わたしが神秘主義をどうとらえているかといいますと、「自己の中に絶対者を見ること」と考えています。
ですから、ショ-シャンクさまの定義より、狭いかもしれないです。

体験があるのはもちろんなのですが、その時、「絶対的な存在」を自分の中に認めてしまうというところに、神秘主義の特徴を見ています。

密教修験道、他、仏教の瑜伽行では、絶対者を見ることはないと思いますので、体験的な行があるとしても、神秘主義にはならないと思っています。理論の「空」というのが、いかに大切かということにもなります。

> つまり、感覚や知性の働きを超えて体験しようとすることのようですので、
> そのような要素はどの宗教にもあるのではないかと思います。
> 全く排除すると、知性の範囲内で収まることになりますので哲学となるのかもしれません。

知性の範囲内で収まるのが哲学、という考え方は、わたし自身は、していませんので、このあたりが少し違うのかなと思います。

「理性や知性の範囲内で収まる」というのは、西洋的な・概念的な思考を続けているからだろうと思っています。仏教では、特に大乗になりますと「不可思議」ということばも多く出てまいります。思議できないところも、当然含めて、哲学・思想が成りたつと思いますので、宗教と哲学の違いというのは、同じ事柄を見方を変えているだけの違いのようにも感じています。

智慧というのは、ある意味、思議できないところから生じます。そこを感じとるのにも、哲学や思想の熟知が必要だと思います。場合によってはことばで説明もできる、というところを、耐えず模索するのが哲学の道だからです。

そういう意味で、釈尊、龍樹、道元は哲学者であるとも言えます。不立文字でありながら、ことばを捨てていないところに共鳴します。親鸞もそうですね。


 

  [No.17826] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 20:57:01

続きます。

> また、かえって菩薩たちは、身近な、本来なら同じ教えに預かる声聞たちの反発も受けることになったかもしれません。
> 『法華経』が世に出て、常不軽菩薩品のような章が説かれたりするのもわかりますね。
>
> 『法華経』が、それでも比較的早い時期に世に現れたのは、ブッダの死を切実に捉えて何とか仏法を残そうという人々の意識の表れでしょうね。
> 実際、『法華経』は、ものすごい経典だと思います。あらゆる仏法に精通していないと、また、あらゆるブッダの理論を身につけていないと、ちょっと著すことができない経典だと思います。
>
> ブッダの「一切智」に直結しているのが『法華経』ですね。一切智を支えている、といいますか。


確かにおっしゃるとおりですね。
仏塔管理者の在家が作ったという説がありましたが、やはり、サンガの中でひそかに、相当詳しい比丘が作ったのでしょう。


> 確かに、わたしが分からないのが、ス-フィズムなのです。まあ、よく勉強したことが無いのももちろんですが、イスラム教からス-フィズムも生まれてくるところに、意外な想いを抱いています。しかし、イスラム教のふところの深さをそこに感じてもいます。
>
> 「イスラ-ム(アッラ-にすべてをゆだねること)」ということばの中に、人々の煩悩(仏教的ですが)や欲望などさまざまな思いを包みこんでいるのが、なかなかすごいと思っています。


例えば、ス-フィ-の詩にこういうのがあります。


※※※※※

「神化」

蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。

「イスティグラ-ク」、すなわち
忘我の境地というのは、このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。

その者より生じるいかなるものも、
全てその原因はその者には属さない。

水に溺れてもがいている者、あがいている者、
「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
そうした者は未だ「イスティグラ-ク」に至ってはいない。

『アナ-・アル・ハック』

すなわち「われは真理(神)なり」という言は、2
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。
人びとは考える、『アナ-・アル・アブド』、
すなわち「われは神のしもべなり」、
という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。

断じて違う。

『アナ-・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、
真の謙譲を表わす言である。

『アナ-・アル・アブド』

「われは神のしもべなり」と言うとき、
その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。

『アナ-・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。

これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。

※※※※※

なんか、こういう詩が、あのイスラム教から生まれたというのが奇跡的な気がします。
砂漠の中のオアシスのような気がします。


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