> 止観の考察は、『ディ-ガ・ニカ-ヤ』第九経「ポッタパ-ダ経」で一皮むけました。
>
> 書いてあるじゃん。。何を読んでいたのか、というところです。
よかったです。 さらに認識を深められることを祈っています。
わたしとしては、ヴィパッサナ-とサマタに関するア-チャンチャ-の言葉に軽くコメントしたかっただけです。
前にも書きましたが、対話は苦手なんですよね。ショ-シャンクさんのような豊富な知識や深い経験もないので。 <おちこぼれ>ですから。
エムさんのいくつかの質問についてショ-シャンクさんが自身のサイトでいろいろ述べていらっしゃるので参考になるかもしれません。
該当のアドレスを貼っておきます。(ショ-シャンクさんには了解をとっていないので、参照するだけにとどめてください。くれぐれもよろしくお願いします。)
<■ 最高の非想非非想定も> https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2020/09/08/205918
<■禅定至上主義は間違い> https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2020/09/28/164008
ずいぶん前のことですが、師から教わったことを書留めたノ-トを現在見直しています。
そこにはブッダ釈尊の観想法(有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定)についてのコメントなどもありますので、いつか機会があればアップしたいと思います。
おちこぼれさま こんばんは。
> よかったです。 さらに認識を深められることを祈っています。
どうもありがとうございます。
> わたしとしては、ヴィパッサナ-とサマタに関するア-チャンチャ-の言葉に軽くコメントしたかっただけです。
そうなんですね。OKでございます。
> エムさんのいくつかの質問についてショ-シャンクさんが自身のサイトでいろいろ述べていらっしゃるので参考になるかもしれません。
一応、ありがとうございます。
おちこぼれさまのお気持ちはよくわかりませんが、お礼申しあげます。
でも、ショ-シャンクさまと直接お話しした方が、うれしいので、参考にはならないと思います。
> 該当のアドレスを貼っておきます。(ショ-シャンクさんには了解をとっていないので、参照するだけにとどめてください。くれぐれもよろしくお願いします。)
「この箱を決して、あけてはいけないよ」みたいなコメントですね。
参照以上のことをすると、呪いが来るのかな。。
> そこにはブッダ釈尊の観想法(有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定)についてのコメントなどもありますので、いつか機会があればアップしたいと思います。
どうもありがと、です。
半分だけ、お礼申しあげます。
残りのお礼は、アップのときに申しあげますね。
とりあえずお気持ちだけ、ちょうだいしましたっ!
おちこぼれさまは、律儀な人なのか、そうでないのかよくわかりませんが、お話しできてうれしかったですよ。
> > 該当のアドレスを貼っておきます。(ショ-シャンクさんには了解をとっていないので、参照するだけにとどめてください。くれぐれもよろしくお願いします。)
「この箱を決して、あけてはいけないよ」みたいなコメントですね。
参照以上のことをすると、呪いが来るのかな。。
> > そこにはブッダ釈尊の観想法(有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定)についてのコメントなどもありますので、いつか機会があればアップしたいと思います。
「 仏教についてのひとりごと 」 ですね
https://shawshank-blog.hatenablog.com/
簡単に言うと 「 世迷い事 」
もっとも 迷いにあるから 「 無明 に起きる 」 と 言われるのだが 、、、、
道元につても 、
道元の行いについての解釈 は
勝手な思い込みに拠っている
> 「 仏教についてのひとりごと 」 ですね
>
> https://shawshank-blog.hatenablog.com/
>
>
> 簡単に言うと 「 世迷い事 」
見解(ディッティ)については、昔、みんなで検討したことがありましたね。道場の過去ログにおそらく残っているのじゃないでしょうか。
ショ-シャンクさまのは、参照だけにして決して何か書いてはいけないよ、といわれているので、意見があっても書けないですね。
サンマ-ディッティを「正見」としてしたがうというご意見だと思います。
八正道の最初にある「正見」ですが、覚りに近づくと、だんだん見解は消えていきますね。
八正道は中道ですから。
> ショ-シャンクさまのは、参照だけにして決して何か書いてはいけないよ、といわれているので、意見があっても書けないですね。
おちこぼれ さま の 提示( する ペ-ジ )に対しては、 書かない方がよい
おちこぼれ さま の 意向を汲む方が よいとも言える
> サンマ-ディッティを「正見」としてしたがうというご意見だと思います。
「 正見 」 は 言葉に過ぎない
「 正見 」 を 正見するとき 言葉 は 消えている
知っている言葉を 適当に並べて
これぞ 「 仏教 」
と 悦に入る 様子 が 見えるが
見えない人も 多くいる 見えない現実( 「 即今 」 )
> 八正道の最初にある「正見」ですが、覚りに近づくと、だんだん見解は消えていきますね。
消えていく とき、 消えていくことに 直面している
消えない のは ( ポッタバ-ダ に説かれる ) “ 思い ”
消そうとする その思い に、
思いが 重ねられている
> 八正道は中道ですから。
ヘンデアルガ 変 があるから、 「 偏に 」 を
「 ひとえに 」 → 人 依 に
→ 人の生を受けた親鸞に 依る
と、 訓読する
「源空が信心も如来より賜りたる信心なり、善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心な り、さればただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」 と 仰せ候いしかば
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
「 中道 」 であろうと、
偏 から眺めれば、 他偏 の 方向 に 眺められる
ひとえに 偏 なる故に
( 蓋 は 「 慧 」 により 開かれる → 二重の依 ?? )
わたしの書き込みに対して
ならば、
なんの気がかり を も 起こす必要はない
・
> 見解(ディッティ)については、昔、みんなで検討したことがありましたね。道場の過去ログにおそらく残っているのじゃないでしょうか。
> ショ-シャンクさまのは、参照だけにして決して何か書いてはいけないよ、といわれているので、意見があっても書けないですね。
わたしは 書き込んでみた
反応 は ありました
削除して 問われる問題 から 逃げたいようです
( 逃げるという言葉に拒否感が起きれば ここに戻るはずです )
> サンマ-ディッティを「正見」としてしたがうというご意見だと思います。
そもそも 「 正見 」 に対して 「 正見 」 を 持たなければ
意見( 見解・ディッティ ) は 思い( “ 見解 ” ) に 起きるのみ
自分の 「 意 」 が 「 正見 」 である
という 大前提 で
人の言葉も、 聖者の言葉も 組み立てられている
問われるところ が どこか を、 問わなければならない
・
田中英道 という 東北大学名誉教授 が いる
中々の卓見を持つ人で わたしも 著書を五冊ほど購入している
( 読んでいるのは、 十冊以上 です )
鎌倉文化 を 高く評価している ( 「 鎌倉文化の思想と芸術 」 勉誠出版 )
運慶 を 高く評価している ( 代表として、MOA美術館蔵 「 無著 」像 )
西行がモデルとなっている として、
西行の出家 を 『 西行物語絵巻 』 から 採っている
《 煩悩のきづなを切るとおもひて、縁より下へ蹴落としたりければ 》
「 仏教 」 の道に入る 西行 が 幼い子供に対して 虐待行為を為した
と “ 英 断 ” する 英道
「 日本人における仏教思想の認識に片寄がある 」 ( 同書 180p )
という “偏り” を 展開する
「 人間としての西行の限界を示す 」
という 自らの 限界の下での “ 偏り ” ( “英断” )
どこかの 書き込みに ( どこかの 似非仏教者 の 書き込みに )
ショ-シャンク さん が 優秀である
という “英断” を 展開している
( 優秀なる者 の 知る 優秀なる “英断” )
( 英道 の 非道なる “英断” )
そこに、 優秀さを 「 顛倒 」 する “ 英断 ” が 起きている
優秀なる者は 優秀さによって 鈍才 と 呼ばれる
( 「 道 」 に 鋭鈍 は なく、 思いに 英鈍 が 起きる )
ドン なに 積み上げようと、
基が “ 思い ” を 積みこんで起こされているとき
“ 思い ” は 「 無明 」 に 起きている
( なにごとも 罪 こまれない 平らかなる 境地 )
・
春間さま おはようございます。
> 思い込みで、 思い込みを読む
というのは、ショ-シャンクさまのブログの
> 仏教についてのひとりごと (hatenablog.com)
> https://shawshank-blog.hatenablog.com/
2021-08-28 ■道元の、これはどうでしょう
について、評されているのですね。
わたしが、これを読んで思ったのは、ショ-シャンクさまの目指すものです。
2021-08-29 ■歴史上のブッダがほんとうは何を言ったかを知りたいだけです
この表題に見つけました。
「歴史上の仏陀」がほんとうに何を言ったか知りたいだけ、なんですね。
あれ、ニュアンスが違ってきましたか?
ショ-シャンクさまのスタンスがここに顕れているので、わたしは、なるほどと了解しました。
道元に関しても、同じように考えると良いのじゃないでしょうか。
ショ-シャンクさまにとっては、思い込みではなくて、記された事実、(すなわち、歴史上の仏陀が何をしたのか、に類するもの)として、取り上げられているのだと思います。逸話だから、記された事実として、それを取り上げるのは自由ということだろうと思います。
ただ、そこにはその事実(?)を取りあげるその人の意図は、ほとんど言及されていません。
なぜなら
=====ショ-シャンクさまのブログ■歴史上のブッダがほんとうは何を言ったかを知りたいだけです
例えば、キリスト教ではそのようなことは起きません。
何故かと言うと、四福音書は確定しているからです。
======
と書いてあって、資料の良し悪しまでは問題にしていないことが分かるからです。
でも、実際には、四福音書についても、いろいろ議論があります。
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とヨハネの福音書は、ずいぶん違っていることが指摘されています。
Q資料の存在などもいわれていて、ごちゃごちゃしています。また、荒井献氏が『トマスによる福音書』を出していて写本が発見されると、驚くほどの違いが浮かびあがります。
資料を選ぶ、という段階で、すでに「思い込み」が入っているかもしれない、ということを指摘できそうなのですが、ショ-シャンクさまは気にしないかもしれないな、と思います。
> ただ、私は、矢を抜く最上の人である仏陀が、本当はどういうことを言ったのかが知りたいだけです。
とおっしゃっているからです。
つまり、原始仏典に信をおいて、これが歴史上の仏陀のことばを集めたものだ、と思って、それを頼りにして読んでいる、ということだろうと思います。
その点は、わたしもそうだったので分かります。
でも、わたしの場合は、「歴史上の」という限定詞は取りはらわれてしまいました。
どこまでいっても、自分が良しとするものを仏陀の説だと思うように出来ている、と気づいたからです。
もし、世界が新しい方法論を取り入れて研究しはじめると、また、この考え方は古いのかな、と思って、新しいやり方を尊重するようになるかもしれません。
***
ほんとうに仏陀の教えが必要な人は、そのまま入っていってズバッとつかみますね。
仏陀は、何を説いたんだろう、って思うだけです。大乗の仏教も、部派の仏教も、姿かたちが変わっていると思う人には、仏陀の姿も違って見えているのです。
部派でも大乗でも、同じ仏陀がいる、と思う人は、ただ、そう思って仏陀を見るのです。
諸仏はあれど、教えは同じなのだと了解し、さまざまに説くけれど、みな仏教なのだと思うのです。
春間さま、仕方ないと思います。
どんな人も拒まないのが仏教だから、誰でもが好き放題に言えるのです。
でも、その中で、誰が仏陀の教えに預かり、誰が教えに預かっていないか、みんなの目には見えてくるのでしょう。
こんなに書いたのに、中身ないぞ、って言われるなあ。
井筒俊彦についての石飛先生とメッタ-さんの論争は、勝負にもなっていないと書いた理由をメッタ-さんは理解できてないようですので、説明しておきます。
石飛先生が芳和さんに言った言葉
『他人のことばで語らず、自分のことばで語ろうとしてください。
井筒も、矢島も捨てて、自分が本当に善いものだ、と思うものだけを語るとどうなるのですか。』
そして、メッタ-さんに言った言葉
『井筒氏が碩学であろうとどうだろうと、何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか』
この2つの言葉は、もちろん言葉は違いますが、同じことを意味しています。
井筒俊彦という借り物を捨てて、自分の言葉で仏陀を語りなさい、あるいは真理を語りなさい、ということです。
この場合、メッタ-さんには、井筒俊彦を捨てて自らの言葉で仏陀を語ることが最上の答えでした。
その次は、井筒俊彦のこのような言葉を通して自分は仏陀に対する目を開くことができた、というような実際の体験を話すことでした。
しかし、この言葉に対して、メッタ-さんは『何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか?』と言う言葉を、ただの質問と解釈したのか、井筒俊彦の禅のキャリアと造詣は深いとか、井筒俊彦の壮年期におけるコ-ランの翻訳やイスラム研究は本気とか、古今東西にわたる多言語をマスタ-し、それぞれ言語の最高のテキストを咀嚼したとか、ヘブライ語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語を介して、一神教の三兄弟の本質も理解しているとか、どうでもいい周辺のことばかり説明していきます。
『井筒氏が碩学であろうとどうだろうと、何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか』と言う問いかけに、延々と井筒俊彦がいかに碩学であるかを語ってるという的外れなことばかりしていました。
『井筒氏が碩学であろうとどうだろうと、何でわざわざ井筒氏を使って仏教解釈をしなくちゃいけないのか』というのが反語であるのはほんの少しの文章読解能力がある人には明白なのです。
つまり、『わざわざ井筒氏を使って仏教解釈をする必要なんかない』と言っているのです。
それに対して、メッタ-さんがもしどうしても井筒俊彦を通して仏教を解釈したいというのであれば、『井筒俊彦は仏教に関してこういうことを言っている。それによって、自分は仏教に対する目を開くことができた』という自らの体験をぶつけるべきでした。
井筒俊彦の禅のキャリアと造詣は深いとか、井筒俊彦の壮年期におけるコ-ランの翻訳やイスラム研究は本気とか、古今東西にわたる多言語をマスタ-し、それぞれ言語の最高のテキストを咀嚼したとか、ヘブライ語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語を介して、一神教の三兄弟の本質も理解しているとか、なんともとんちんかんで、本質にかすりさえしない言説がグダグダ続いたのが、あの『論争』でした。(論争と言うにはあまりにも幼稚だったですが。)
まずは、自分の言葉で語れるようになってから、他人を貶したらどうですか。
メッタ-さんに理解できるようにと説明したのですが、残念ながらレスはないようですね。
この前のように、癇癪を起したり、罵詈雑言の嵐という反応はしないようですが。
補足すれば、
メッタ-さんが書いたことに、
石飛先生が『ああ、この人、少しは見えてるみたいだ』と思わせるものがまるでなかったということです。
井筒俊彦というメッタ-さんにとって他人に過ぎない者がいかに優れていても、どうでもいいのです。
要は、メッタ-さんがどう仏教を把握しているか、の一点です。
それが全く伝わってこなかった。
押しても引いても何も出てこなかった。
私が見て、決定的に駄目だと思ったのは、メッタ-さんの
『物質的な環境を超えているのが普遍宗教でしょう。同時に人間の心も超える。仏教もナ-マとル-パを超えています。』
という言葉です。
まず、普遍宗教という言葉ですが、これはひょっとして、 ヴィヴェ-カ-ナンダの言葉を想定してる?
それとも、ただ、民族を超えた世界宗教という一般的な意味で使ってる?
『物質的な環境を超えている』という極めて抽象的で曖昧な言葉を使ってます。
具体的にどういうことを言っているのか。
物質的な環境を超えたら、人間はどうなるのか、言えますか。
『人間の心も超える』ってどういう状態のこと?
『仏教もナ-マとル-パを超えています』というところに、多分何もわかってないことが露呈してる。
ナ-マル-パを形成させる形成力を消滅するのが仏教ですよ。
抽象的な言葉でお茶を濁すのは簡単ですが、抽象的な言葉しか言えない人は基本的に頭が悪いと思っているので。
ショ-シャンクさま こんにちは。
メッタ-さまには申し訳ないですが、ある意味、気持ち良いくらい、徹底したメッタ-さま分析になっていますね。
おっしゃる通りで、メッタ-さまも、ここまで見極められているとは思いもよらなかったことだろうと思います。
> 『ああ、この人、少しは見えてるみたいだ』と思わせるものがまるでなかったということです。
残念ながら、おっしゃる通りです。
ただ、井筒俊彦氏について、少し補足できるかなと思います。
> 井筒俊彦というメッタ-さんにとって他人に過ぎない者がいかに優れていても、どうでもいいのです。
> 要は、メッタ-さんがどう仏教を把握しているか、の一点です。
そうなんですが、井筒氏も一つのスケ-ルにはなりえます。ですので、メッタ-さまが井筒哲学・思想をどうとらえているのか、という点も注目してはいました。
井筒氏をどうとらえるかで、仏教が分かっているか分かっていないかをはかることもできるのです。
概念分析を中心にした井筒氏のものの見方は、根強い西洋流の存在論から抜け出せておらず、観念や概念が一人歩きをするような、いかにもありがちな解釈です。
これをどの程度批判的に見ることができるか、で、そのまま仏教の理解をはかる尺度にもなっていくのですが、残念ながら、メッタ-さまは、井筒氏を理解するどころではなかったですね。問答無用で反発していました。
また、
「論争をしてはならない」というのが,仏教の教えだというのは、メッタ-さまもどこかで得たかもしれませんが、しかし、何が論争で,、何が論争でないのか、わからないと論争なのかどうかの判定すらできません。
要するに、その時なされた問いに真摯に返事をしないと、仏教での「問答」にはならないし、論争というものにすらならないのです。そして、ただその一点ができるだけで、仏教が分かってくるのです。
論争するためには、自分も見解をもたなければならないのですが,メッタ-さまは、そもそも見解をもつところまで至っていないのです。
自分の意見がもてるようになってくると、これを縁として「論争をしない」というブッダの教えに入ってくることになります。
最初から、何も考えず意見ももたずに「論争してはならない」とだけ考えて行くのもありかもしれませんが、わたしは危険な感じがします。気づくと、論争になってしまったり論争を起こしてしまったりしそうだなと思います。
メッタ-さまも、相手から何か返ってくると、全部悪口と捉えて反応する、ということになってしまっています。そして、それが論争を招いているようでもあり、何とも微妙な感じがします。
そして、その結果、ものすごく薄っぺらい答えになってしまうのです。
普遍宗教と聞きますと、ふつうですと、ヴィヴェ-カ-ナンダなど、一元論的理解を想起しますが、お見通しのように、たぶんそこまで考えなくてもよいと思います。「ナ-マル-パを超える」については、わたしも過去ログでしらべたら、自分も反応していました。
=====
ここからは、ショ-シャンクさまへのレスではなく、ひとりごとみたいなものです。
思い出した問答があります。ア-リアデ-ヴァ(提婆)とある外道の人の会話です。
こんなです。
外道「おまえは誰だ」
提婆「デ-ヴァである」
外道「デ-ヴァは誰だ」
提婆「わたしである」
外道「わたしは誰だ」
提婆「犬である」
外道「犬は誰だ?」
提婆「おまえである」
外道「おまえは誰だ」
提婆「デ-ヴァである」
外道「デ-ヴァは誰だ?」
提婆「わたしである」
……… 繰りかえされる ……
これも、どこにも論争はないし、ただ聞かれて答えているだけとも言えるのですが、
気づくと、外道は犬と言われ、提婆はデ-ヴァ(神)と常に答えている、ということになってしまっています。提婆は、対話として意味を考えて,きちんと答えているのに、外道の方は、機械的に相手の答えたものを「だれだ?」と尋ねていったというところでしょう。
答えねばならないところをきちんと答えずにいて、適当に返していると、思いもよらないことがおきてきます。この会話はそんな例ですかね。
こうして、人は、ありのままに見るのです。
どこに論争があるのか、どこに論争がないのか。
どこに悪口があるのか、どこに悪口がないのか。
石飛先生、おはようございます。
> メッタ-さまには申し訳ないですが、ある意味、気持ち良いくらい、徹底したメッタ-さま分析になっていますね。
> おっしゃる通りで、メッタ-さまも、ここまで見極められているとは思いもよらなかったことだろうと思います。
本人は、あくまで自分の仏教理解はすごい、仏教を超えて普遍宗教の域に達している、禅定も誰にも負けるものではない、と思い込んでいますから、『見極められている』なんて思ってもいないでしょう。
自分の心を見つめたことがない人のようですから、自分に面と向かって言われて強い怒りがわき上がった、その原因さえ全くつかめていないはずです。
> > 『ああ、この人、少しは見えてるみたいだ』と思わせるものがまるでなかったということです。
> 残念ながら、おっしゃる通りです。
仏教なり宗教は、判断基準が自分にあり、客観的な基準がありません。
商売でも株でも、損をしたか利益が出たか、というのは客観的な数字で誰が見ても明らかなのですが、宗教はそういう判断基準がありません。
ですから、瞬く間に、自我の温床となってしまいます。
自分では『見えてる人』と思っているでしょう。
> そうなんですが、井筒氏も一つのスケ-ルにはなりえます。ですので、メッタ-さまが井筒哲学・思想をどうとらえているのか、という点も注目してはいました。
> 井筒氏をどうとらえるかで、仏教が分かっているか分かっていないかをはかることもできるのです。
> 概念分析を中心にした井筒氏のものの見方は、根強い西洋流の存在論から抜け出せておらず、観念や概念が一人歩きをするような、いかにもありがちな解釈です。
> これをどの程度批判的に見ることができるか、で、そのまま仏教の理解をはかる尺度にもなっていくのですが、残念ながら、メッタ-さまは、井筒氏を理解するどころではなかったですね。問答無用で反発していました。
その結果が
『物質的な環境を超えているのが普遍宗教でしょう。同時に人間の心も超える。仏教もナ-マとル-パを超えています。』という言葉になって表れているのですね。この言葉には違和感しか感じません。
> 「論争をしてはならない」というのが,仏教の教えだというのは、メッタ-さまもどこかで得たかもしれませんが、しかし、何が論争で,、何が論争でないのか、わからないと論争なのかどうかの判定すらできません。
メッタ-さんも芳和さんも仏陀のことを井筒などの本から得ているので、仏陀がどのように問答したかを知らないのでしょう。
仏陀はバラモンからも沙門からも、さかんに絡まれます。
批判や非難の言葉を投げつけられます。
仏陀がそれを無視することはただの一度もありませんでした。
『論争してはいけないので論争はしないよ』とも、『目の前にいる本人からみて呆れるほどの出鱈目。粗雑に決めつけて悦にいる精神の幼さ!いちいち反論するにも値しない。』とも言いませんでした。
必ず、丁寧に返答していました。
その説得力が素晴らしく、みな弟子になっていきました。
> 要するに、その時なされた問いに真摯に返事をしないと、仏教での「問答」にはならないし、論争というものにすらならないのです。そして、ただその一点ができるだけで、仏教が分かってくるのです。
メッタ-さんと芳和さんに感じるのは、本当の自信のなさです。
真摯に返事をして突っ込まれて返答に詰まることを怖れています。
この人たちは『俺はこいつらよりずっとわかっているんだ。論破するのは簡単だが、幼稚過ぎて反論するにも値しない』というところにいて、自我が傷つくことからひたすら逃げているのです。
しかも、その事実に気がついていない。
それは、井筒などの解説に没頭して仏教が分かったように思っているだけなので、自分の心を見つめることがないからです。
> 論争するためには、自分も見解をもたなければならないのですが,メッタ-さまは、そもそも見解をもつところまで至っていないのです。
> 自分の意見がもてるようになってくると、これを縁として「論争をしない」というブッダの教えに入ってくることになります。
その通りだと思います。他者を容赦なく貶して、その人が向かってきたら『論争しない』と言って返事を拒否していては、いつまでも『自分はやればできる子なんだけどやらないだけ。』というモラトリアムな状態でい続けます。
> そして、その結果、ものすごく薄っぺらい答えになってしまうのです。
それが今の状況ですね。
ショ-シャンクさま
> 本人は、あくまで自分の仏教理解はすごい、仏教を超えて普遍宗教の域に達している、禅定も誰にも負けるものではない、と思い込んでいますから、『見極められている』なんて思ってもいないでしょう。
ここを読んで、ショ-シャンクさまって、ずいぶん優しい方なんだなと思いました。「卑小な人間」っておっしゃっていたですが、それを実践的に行じていらっしゃるようだと見えてきます。
いや、それとも、わたしが、悪いヤツなだけかもしれないですが。
かれは、仏教は知らないです。世界の三大宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教です、というのを習ったらしい、とは、思います。だから、それらを超える「普遍宗教」と出しておけば、よりグロ-バルな視点を出せて、反論されないだろうと思ったのかな、と推測。
ナ-マとル-パを出したのは、ナ-マル-パがナ-マとル-パからなっていると学んだから。「世界」と同義でしょうけど、かれがそのことを本当に知ってるのかどうかは不明です。
日本で言えば、大本教、世界で言えば、バハ-イ教などに、「万教同根」という考え方がありますが、そこら辺をイメ-ジしたかもしれません。それで「普遍宗教」を出してきたのかな、と。
ブッダの「一切智」について、こんなことも言っています。
> それに「一切智者」という語にも限定が必要だと思います。科学知や専門知を網羅し包摂し、さらにその上をいくという全知全能は人間には不可能でしょう。
科学知、専門知の上をいくものはない、と見ているということで、これを根拠にして,井筒氏の思想を批判するわたしを否定しています。
実際に、井筒氏を読んでいるわけではありません。また、こ「一切智」を限定しろ、という根拠も示されていないので、単なる権威に乗っかっただけと見ることができます。
「まさか,あの井筒氏に刃向かうとは」と思ったのではないでしょうか。『大乗起信論』の解釈についてなのですが、そんなことはメッタ-さまには念頭にありません。
ブッダの「一切智」は限定抜きです。科学知・専門知はブッダの手の平にあることを、自分で会得するまでに至っていないので、仏教には通達しておらず、禅定もないです。集中するだけの精神が育っていません。ヨ-ガもなくディヤ-ナもない、当然サマ-ディにも至っていない。
互いに犬猿の仲のようですが、芳和さまと二人三脚でやって来なければならない事情はそこにあったのかな、って見ています。
部派でも大乗でも、春間さまの説いていた「本質がないのが本質です」ということが、大きな意味をもってくると思います。「一切智者」の根拠となる無上正等覚は、言ってみれば、本質のないことを本質として、如実に顕れていきます。
たとえば、『法華経』では諸法實相ということばで言い表されたりします。違う言い方をすると、空ということにもなります。部派ではあまり説きませんが、衆生と交わりながら世間を渡るときには、ぜひともそなえていないとやっていけません。
メッタ-さまのような反応になってしまいます。
> 自分の心を見つめたことがない人のようですから、自分に面と向かって言われて強い怒りがわき上がった、その原因さえ全くつかめていないはずです。
強く出てしまうのは、怒りというより怖れを抱いたからかなと見たりもします。
表に出て、きちんと向き合うと、いろいろご本人としては不都合が生じるので、そこはできない、しかし、答えねばならない。となると、相手が悪口を言ったことにして、それに対応しようと安易に考えます。
自分は返答しているだけで、怒りを示したことにはならない、むしろ論争を避けるという点で、相手の優位に立てるだろう、とみているかもしれません。
>
> 仏教なり宗教は、判断基準が自分にあり、客観的な基準がありません。
> 商売でも株でも、損をしたか利益が出たか、というのは客観的な数字で誰が見ても明らかなのですが、宗教はそういう判断基準がありません。
いえ、そうとも言えないと思います。ショ-シャンクさま、ブッダは、利益を追求しています。
「比丘たちよ、行じていきなさい。多くの人々の利益のため、多くの人々の幸せのため、世間を憐れむがために、神々や人間の利のため、益のため、幸せのために。一人で行き、二人で行ってはいけない。」
などと『律』の中にもあります。
また、「沙門果経」という経典がありますが、現実の世において沙門の成果を示すことができるかと問われています。
ブッダは、具体的に、成果を示して、アジャ-タシャトル王を満足させました。
世俗の利潤ではないかもしれませんが、しかし、世俗的な利潤までも含めて、仏教は人々の利益になっています。
商売をやる人で、何か思想をもつ人は、仏教の教えを参考にすることが多くありますね。
長く続く老舗のようなところには、思想的な基盤がしっかりとあることが多いと思います。
わたしの書いた本も、そんな人たちの役に立っているようで、すごくビックリします。
> ですから、瞬く間に、自我の温床となってしまいます。
仏法を知るなら、本当に!知るなら、具体的な成果がすぐに出るはずなのです。
得たら、得たものがそのまま現れるのが、仏法でもあります。
だから、仏教というのは、常に具体的に成果が出るものだという感触があります。
だから、メッタ-さまも何か得たのならそれが即座にわたしにわかるはずなのです。
>
> メッタ-さんも芳和さんも仏陀のことを井筒などの本から得ているので、仏陀がどのように問答したかを知らないのでしょう。
芳和さまはわかりませんが、メッタ-さまには井筒氏の本は読めないと思います。
何がどう問題なのか、一つもわかっている風がありません。
わたしが何を問題にしていたのか、とか、皆目わからないと思います。一つでもわかることがあったら、あのようには答えませんから。
> 仏陀はバラモンからも沙門からも、さかんに絡まれます。
> 批判や非難の言葉を投げつけられます。
> 仏陀がそれを無視することはただの一度もありませんでした。
> 『論争してはいけないので論争はしないよ』とも、『目の前にいる本人からみて呆れるほどの出鱈目。粗雑に決めつけて悦にいる精神の幼さ!いちいち反論するにも値しない。』とも言いませんでした。
「目の前にいる本人」というように、無駄に形容詞をつけるところが、苦し紛れです。「本人」だけでいいのに。
何がどう出鱈目なのか、本人は、語ることはできないのです。
> 必ず、丁寧に返答していました。
> その説得力が素晴らしく、みな弟子になっていきました。
「論争してはいけないので論争しないよ」と答えて、相手を愚弄することばを放ったのでなく、全部丁寧に一々答えたので、論争にならなかったのだ、と知らないのです。
ブッダに答えられない問題は何一つありませんでした。だから一切智者なのです。
現代科学であろうと、専門の学問であろうと、全部答えているのです。
だから、反論の書が一つも出ないのだと思います。
ブッダを超えるものがあれば、出版して本なりなんなり出すでしょう。いまだに出てこないということは、超えられていない、ということでしょう。
> メッタ-さんと芳和さんに感じるのは、本当の自信のなさです。
> 真摯に返事をして突っ込まれて返答に詰まることを怖れています。
この辺、さすが、ショ-シャンクさま、鋭いですね。
> この人たちは『俺はこいつらよりずっとわかっているんだ。論破するのは簡単だが、幼稚過ぎて反論するにも値しない』というところにいて、自我が傷つくことからひたすら逃げているのです。
真摯に向き合えない、ということになりますね。
> > 論争するためには、自分も見解をもたなければならないのですが,メッタ-さまは、そもそも見解をもつところまで至っていないのです。
> > 自分の意見がもてるようになってくると、これを縁として「論争をしない」というブッダの教えに入ってくることになります。
>
> その通りだと思います。他者を容赦なく貶して、その人が向かってきたら『論争しない』と言って返事を拒否していては、いつまでも『自分はやればできる子なんだけどやらないだけ。』というモラトリアムな状態でい続けます。
かれは、仏教が利益を追求するということを知らないのです。世俗諦としても、第一義諦としても、利益になる教えなのだ、と知らないのです。
自分のためにもなり(自利)、相手のためにもなる(利他)、そんな教えだと知らないから、利益にならないようなことばかりを一生懸命やるのでしょう。
石飛先生、おはようございます。
> かれは、仏教は知らないです。世界の三大宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教です、というのを習ったらしい、とは、思います。だから、それらを超える「普遍宗教」と出しておけば、よりグロ-バルな視点を出せて、反論されないだろうと思ったのかな、と推測。
> ナ-マとル-パを出したのは、ナ-マル-パがナ-マとル-パからなっていると学んだから。「世界」と同義でしょうけど、かれがそのことを本当に知ってるのかどうかは不明です。
> 日本で言えば、大本教、世界で言えば、バハ-イ教などに、「万教同根」という考え方がありますが、そこら辺をイメ-ジしたかもしれません。それで「普遍宗教」を出してきたのかな、と。
私はメッタ-さんに、メッタ-さんがいう普遍宗教とは、一般的な世界宗教という意味なのか、ヴィヴェ-カ-ナンダが言った意味なのかを質問しましたが返答がありません。
多分、井筒が言ったという『メタ宗教』のことを指したのではないかと思っています。
中沢新一がこういうことを言っています。
『井筒先生が「メタ宗教」という考えについて書かれたときに、イスラムでもス-フィ-、神秘主義のほうに入っていくと、ほとんどこれは仏教と同じになってくる、キリスト教だってユダヤ教だってカバラから神秘主義へ入っていくと大体同じになるとおっしゃっていることは、そのことに関わっています。媒介しているのは必ず神秘主義的な体験と言われているもので、これは瞑想です』
ヴィヴェ-カ-ナンダの師、ラ-マクリシュナは、基本はヒンドゥ-教のバクティでしたが、イスラム教からでもキリスト教からでも同様の神秘体験ができることを自ら体験しました。
それを基に、個別の宗教を超える普遍宗教を提唱したのが弟子のヴィヴェ-カ-ナンダです。
井筒は最後の最後、そのようなところを志向していたのではないかと思われます。私は井筒には興味がないので、どうでもいいですが。
ラ-マクリシュナの道は尊重しますが、ここから仏教に入ってしまうと、仏陀の理法には行き着かないとは思います。
ヴィヴェ-カ-ナンダがいう普遍宗教と、井筒が言うメタ宗教とは、同じなのか違うのか、メッタ-さんの説明が全くないのでわかりませんが。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> 私はメッタ-さんに、メッタ-さんがいう普遍宗教とは、一般的な世界宗教という意味なのか、ヴィヴェ-カ-ナンダが言った意味なのかを質問しましたが返答がありません。
> 多分、井筒が言ったという『メタ宗教』のことを指したのではないかと思っています。
「メタ宗教」:宗教について語る宗教
と言うところでしょうか。ただ呼び名の違いであるようにも感じられます。
>
> 中沢新一がこういうことを言っています。
> 『井筒先生が「メタ宗教」という考えについて書かれたときに、イスラムでもス-フィ-、神秘主義のほうに入っていくと、ほとんどこれは仏教と同じになってくる、キリスト教だってユダヤ教だってカバラから神秘主義へ入っていくと大体同じになるとおっしゃっていることは、そのことに関わっています。媒介しているのは必ず神秘主義的な体験と言われているもので、これは瞑想です』
「万教同根」とも言えますね。そこに神秘主義を見いだすのは、ウパニシャッドの「梵我一如」にも通ずる考えで、仏教ではないと考えます。根拠もあります。
>
> ヴィヴェ-カ-ナンダの師、ラ-マクリシュナは、基本はヒンドゥ-教のバクティでしたが、イスラム教からでもキリスト教からでも同様の神秘体験ができることを自ら体験しました。
> それを基に、個別の宗教を超える普遍宗教を提唱したのが弟子のヴィヴェ-カ-ナンダです。
ラ-ジャ・ヨ-ガと仏教を用いて、ヴェ-ダ-ンタの不二一元論を主張したと見ています。
ヴィヴェ-カ-ナンダは、欧米での講演で絶賛されて、一躍有名になりヴェ-ダ-ンタ思想を印象づけました。
その時使ったのが、ラ-ジャ・ヨ-ガということばと、仏教の論理性・分析力です。そして、サ-ンキヤの二元論をこき下ろしました。巧みだったと思います。
> 井筒は最後の最後、そのようなところを志向していたのではないかと思われます。私は井筒には興味がないので、どうでもいいですが。
そこを見て、わたしは、井筒氏の思想を採らないのです。仏教は、ある意味、あたっているのです。「メタ宗教」という定義にです。
>
> ラ-マクリシュナの道は尊重しますが、ここから仏教に入ってしまうと、仏陀の理法には行き着かないとは思います。
おっしゃる通りです。メタ宗教として見たのなら、西洋流の分類方法である概念規定どおりにやらねばなりません。メタ宗教としての仏教、という見方です。
この考え方に従うと、スマ長老さまのように、「仏教は、宗教ではありません」と言わねばなりません。少なくても、神秘主義には行かない、と言うことを確認しておく必要があります。
> ヴィヴェ-カ-ナンダがいう普遍宗教と、井筒が言うメタ宗教とは、同じなのか違うのか、メッタ-さんの説明が全くないのでわかりませんが。。
メッタ-さまには、荷が重すぎると思います。
もし、本気で、井筒の言うメタ宗教とヴィヴェ-カ-ナンダの言う普遍宗教が、同じだとするなら、インドの不二一元論(アドヴァイタ思想)が、世界を席巻することになりましょう。ヨ-ガのやり方がとられることになります。
逆に、メタ宗教ということを主体に見ていくなら、メタ宗教を超えるメタメタ宗教も考慮しなければならなくなり、無限遡及に陥ることになりそうです。
仏教に戻りますと、ここで出てくるのが、仏教の「空」という思想であり、論理であると思います。ありとあらゆる宗教を乗りこえる道が、「空」という、この「ものの見方・考え方」になります。
「空」は、このようなややこしい議論が起こってくるとき、はじめて語られるような理論です。ですから、こういう思想が出てこない段階では語られることがないので、ブッダの時代はほとんど「空」は説かれなかったのです。
「空」を理論としてもつことにより、仏教は、宗教の中にもおさまることができ、また、宗教を乗りこえても語ることができ、どの宗教からも独立してなり立ち、誰も否定できない教えをもつことができます。
ブッダは直接述べてはいませんが、「論争してはならない」という思想と「空」を結びつけたのが、龍樹です。ブッダの教えを、伝えるだけでもありますけど、かれはこう言っています。無諍の立場と空は繋がるのです。
空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。(『中論頌』13.8)
つまり、空性(空であること)とは、見解から出ること、見解を超えること、と言うことになります。
井筒氏が、かなわないのは、明らかなのです。
仏教は智慧の宗教であり、智慧の学問であり、智慧者たちの行き交う道だと思っています。
pocketさま おはようございます。
気になっていたのですが、確信がもてずに、ずっと考えていました。
> > わたしは、何か「犬」ということばを含んだ名前だったのかなと思ったりしていました。
>
> あ、いえ。bho-vAdIじゃなくてもいいのですし、本当に犬関連の名前の方が自然かもしれませんね。犬、犬、インドに犬の神様、犬に関係する聖仙っているのかしら??
何か、「犬」に関係したものがあったなあ、って思って、なんだったかなとずっと考えていました。
とうとう思い出しました。「犬殺しのマ-タンガ」というのが、『スッタニパ-タ』に出てきます。ブッダの説くものです。
136 生まれによって賤しい者となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行いによって、賤しい者となり、行いによってバラモンとなる。
137 また、わたしが説くとおりに、次のようなことを知りなさい。
チャンダ-ラの子で、犬殺しのマ-タンガという高名な人がいます。
138 かれマ-タンガは、得ることのできないような最高の名誉を得たのである。かれのところに、多くの貴族やバラモンたちが、奉仕をするためにやって来たのであった。
「犬殺し(ソ-パ-カ)」というのは、賎民(アウトカ-スト)の中の一つの種族で、「犬を料理するもの」という名称です。マ-タンガという人は、その出身だったけれど、非常に尊敬される人物であって、貴族・婆羅門からも敬われたことがわかります。
ブッダの、人間を見る目が清らかであることが知られて、印象深い個所です。それと同時に「犬殺し」と名づけられるアウトカ-ストの名称にも、何かを感じますね。
もしかすると、このあたりに引っかけがあるとも考えられますが、そうなると、対論の相手が相当に仏教に詳しいことも予想されますね。
> ただ筆記者の弁機は「提婆(唐言天受)菩薩作広百論」と注釈していて、明らかに聖ダイバ菩薩とデ-ヴァダッタを混同してるのも気になります。これを見ると弁機は聞き書き、二次文献によって梵語を知るのみでサンスクリットができなかったみたいですね。玄奘三蔵が「狗(いぬ)」と言ったのをそのまま書いたのでしょうかね。
どうでしょうねえ。サンスクリットでは、「犬殺し」は「シュヴァパ-カ」です。
「シュヴァ-(犬である)」とでもあって、玄奘はそれを「犬」としたのかしら。。わからん、謎ですね。
> 個人的にはロ-カ-ヤタ派の婆羅門だったのだと思います。ロ-カ-ヤタは詭弁論と結びつきますもの。『入リョウガ経』での釈尊のロ-カ-ヤタ外道への返答は「まさに智慧っ!」って感じで私は大好きであります。
そうかあ、『入楞伽経』ねえ。。なるほど。
もし、そうだとすると、ブッダの頃のロ-カ-ヤタ(順世外道)ではなくて、この頃、ロ-カ-ヤタなどといわれるとすれば、ヴァイシェ-シカ(ニヤ-ヤ)の可能性大ですね。
ヴァイシェ-シカは、龍樹の頃から、存在論的な哲学として確立されて、仏教と対立しました。
ア-リヤデ-ヴァ(提婆、聖天)が、論争したのもの、このようなヴァイシェ-シカの徒かサ-ンキヤの徒か、いずれかであったと考えられます。相当に高度な議論をしていて、龍樹を通過して、ヴァイシェ-シカ学派が相当鍛えられたことがわかります。ヴァイシェ-シカはニヤ-ヤと結びつきますし、ニヤ-ヤの論師が、ヴァイシェ-シカの存在論に立って、提婆に反論しようとしたことは、十分ありえます。
『入楞伽経』の議論を、わたしも読みました。
この経典は、大乗の中期あたりでしょうか。『ラ-マ-ヤナ』の舞台を用いています。
ヒンドゥ-教の中でラ-マ信仰がさかんに興ってきている時代背景を反映していると推定できます。
そう思うと、この議論の洗練され具合から、非仏教徒の側にも相当龍樹の論説が広まって検討され、相手の能力が上がっていて、提婆もかなり心して対応しているのだなと推測されます。
漢訳の『百論』などですと、意味がよくわからないものが多くて、すごく難儀をしますね。
> 本当はもっと様々な名称について議論が交わされたのかもしれませんが、すごく簡略化、通俗化されていますね。
おっしゃるとおりです。微妙すぎて、ちょっとかじった者たち程度には、理解不能だったのではないでしょうか。
ただ、相手が黙ってしまうとか、表情が変わる等の反応を見て、与えた衝撃を察知していたのではないかと思ったりします。ですから、議論が簡略化されたり、物語のように通俗的になっているのも、やむを得ないと思います。
それが、龍樹の『中論頌』でも行われているような気がしています。学者がいろいろ龍樹説として出しているものも、ブッダの説くところと同じなのに、それをつかみきれずに簡略化した結果ではないだろうかと思ったりします。
> 名称や言葉は空であると見て、戯論寂滅させたのでしょう。龍樹菩薩にこのようなエピソ-ドがなくて、むしろ弟子の聖ダイバ菩薩にあるのは、面白いです。
龍樹は、とにかく、ニヤ-ヤ学派の前身と思われる医学派との論争が、そのまま残っているのがありがたいです。『ニヤ-ヤ・ス-トラ』『ニヤ-ヤ・バ-シャ』『廻諍論』『広破論』とか、議論の軌跡がそのまま残っているのが、ありがたいです。
当人同士しか話し合う内容がわからず、まわりは、何を話し合っているのかすらわからなかったのだろうと思っています。
> 聖ダイバ菩薩が(龍樹菩薩とくらべて)比較的に寡作なのは、外道と公開討論などを行って辻説法めいたことをしていたのかも。一切智者というより行者の気風の人物だったのでしょうね。そういうエピソ-ドだと私は受け取りました。
龍樹の教えを、そのまま実践したのかもしれませんね。そう思うと、提婆の偉大さも伝わります。
龍樹から提婆への繋ぎが明瞭にならないため、『方便心論』がちゃんと読めないのかもしれません。
突然、ディグナ-ガによって仏教論理学が生まれるように書かれていますが、その間には、提婆がいて、『方便心論』を源泉とする流れが育ってきているのが、見えてきます。
>
> 禅の聖者などの注釈が欲しい所ですねえ。必ずしも史実でなくても良いけれど、「コレ!」っていう本質を見抜いた注釈が。
ショ-シャンクさまの述べていた「本質を突く」ブッダの教えは、このようなディヤ-ナを用いることによって見えてくるかもしれません。
道元は、はっきりと、マハ-カッサパをブッダの教えの継承者として、その法燈が受け継がれていることを伝えました。
道元を見るとビックリします。パ-リ語経典と矛盾せず、しかも部派にはない独自の解釈(曹洞宗の伝統ですが)を打ち出していて、「そう読むのか!」と驚きますね。
しかし、ブッダの解釈としては合理的で整合的であるので、否定されません。
大乗は、わかる人にはわかる世界になっているのかもしれない、とも思います。
> どうでも良い小話につきあって頂きありがとうございました!
いや、ヴァイプルヤ(サンスクリット)、ヴェ-プッラ(パ-リ)ということを視野に入れて、広がる仏教に思いがいきます。「方広」ということが意識されてこないと、衆生は見えてこないのかもしれません。
こちらこそ、ありがとうございました。
すでに、 論争はいらない という 論争が起きている
( 自らの見解は正しい見解である )
“ 見解 ” は 、 起きて いる ・ 起きては いない ??
すでに 興奮が起きているが 冷静さ は 個人の “ 見解 ” に起きる
> 興奮して論争が続くのは、どちらも同じ次元にいる証拠。自分の方がレベルが上だと思い込みたいほど、悲しいまでに同レベル性を周りに印象づける。みんなバカじゃない。
“ みんな バカ ” です ( みんなバカじゃない から この見解が起きる )
バカ が 記述して、 バカ が 読みます
( その中にも 、 馬鹿ではないと “思う” 人 も いる )
読んで、 それを理解し、
そして、 記述に “ 誤り ・ 「 顛倒 」 ” が 満ちている
と 知ります ( という “ 知 ” を 得ます )
論争 が 起きる構造です
“論争が起きている”という人 と “起きてはいない”という人 とに 論争が起きます
まるで、 あらゆることは、 論争に起きているかのごときです
( そうではない という 論が起きる → すでに 論は 対立して 立っています )
みんなバカ ではない から、
“ みんなバカじゃない ” という 利口な思い が 起きます → 賛同者も起きる
それも含めて、 「 馬鹿馬鹿しい 」 という 見解 が 起きます
まことに 、 あらゆるところ に、 論争 は 起き得る
Su. 910 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 )
(「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、 かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、 そのように(一方的に)見たのである。
正しいこと は 「完全である」 、誤ったことは 「下劣である」 という訳
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
正しいこと は 「真実である」 という 訳しかた
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
世人はみな というところ が、 大事なところ
「 世間 」 のこと は、 「 無明 」 に 起きている
906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
> ショ-シャンク さん に 読んでもらいたい <
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
自らの見解 は そこに立っている が、
人は 、 そこに立っている 故に そこを見難い
そのようなこと が 「 経 」 には、
“ 得難き真理 ” ・ “ 深遠なる 「 縁起 」 の 理法 ” として 説かれている
まことに 自己とは見難きモノである ( 「 脚下照顧 」 )
Su. 910 は 一方的な見方であり “ 見解 ” に 過ぎない
( とも 読める = という 見解を起こす )
はてさて 見解は どこに起きているのであろう 、、、、
・
> 興奮して論争が続くのは、どちらも同じ次元にいる証拠。自分の方がレベルが上だと思い込みたいほど、悲しいまでに同レベル性を周りに印象づける。みんなバカじゃない。
一言居士がまた出ましたね。貶しの一言だけを投稿する輩はネットにはうんざりするほどいます。
そういうことを言っていいのは、自らがずっと上の次元にいて平和を体現しており論争したことがない人だけです。
そうでないと、『おまゆう』と言われますよ。
メッタ-さん、あなたは、いつか、井筒俊彦が道元や空海よりずっと上という主張で延々と論争してましたよね。
ヘブライ語やアラビア語、ギリシア語、ラテン語でテキストを読んでいるから凄いんだ、みたいな次元での論争でしたね。
それを見ていますから、あなたの貶しには説得力がないのです。
あのレベルの論争を延々とする人が、論争は低レベルと言ってもねえ、というのが正直な感想です。
少し前にも私の投稿に対して『スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い』というスレを立てていましたから、それに対して私は挨拶して返信しましたけど、それには応答なしでしたよね。
きちんと典拠を示したのですけどね。
それは無視して全く別のところからまた一言投げかけてましたね。
もし、批判したいのであれば、正々堂々と相手の目を見て批判しなさい。
その相手がレスしてきたときに逃げてどうするのですか。
そんな情けない精神であれば、最初から批判などしなければいいのです。
自らに何も根拠を持たず一言の貶ししかできないので
何も言い返せないだけです。
能力が足らなくて何も言い返せないのと、論争を離れた高い平和な次元にいることとは、全く違うことです。
『私が言い返さないのは、論争という低いレベルにいたくないからだ』と思うのは自由ですが
実際には、遠くから小石を投げて、たまたま向かってきた人がいたらすぐさま逃げて『俺は喧嘩という低次元にはいない』と嘯くようなものです。
あなたがそう思うのは自由ですよ。
私は、メッタ-さんと芳和さんはある一点が共通していると思っています。
それは、さかんに他人を貶す投稿を重ねるのですが、いざ、その人が面と向かってレスしてきたら
とたんに『仏陀は論争しないと言った』とか言って逃げてしまうことです。
芳和さんの場合、石飛先生を揶揄するようなことばかり書きますが、
いざ、石飛先生からレスされると、『論争はしない』と言って逃げるのです。
あなたも一言二言貶しの言葉を投げつけるだけですね。
それが仏教なのですか?
遠くから小石を投げつけることしかできない人、というイメ-ジしかないですね。
メッタ-さま こんばんは。
> 二人は大乗仏教やってるという雰囲気はある。この人には、なぜか仏教の香りが全くしない!この人が仏教?という雰囲気。
> 敵味方がはっきりして、容赦なく反撃する波動に仏教なんかないね。
ショ-シャンクさまは、ブッダの説いた原始仏教を中心に取り組んでおられるので、大乗仏教の匂いはしないでしょうけど、
仏教の香り豊かだと思います。
わたしは、メッタ-さまに、ちゃんと仏教をやってみたらどうかと思って、誘ってみているのですが、
まだなかなかですね。
仏教になるかならないかは、どこで決まるか、お話ししましょうか。
他人の言う事を、本当だと思ってきちんと聞くとき、その人は、ブッダの教えにいるのです。
そこには、ある種の真実というものがかならずあるのだと、見ているからです。
自分を脇に置いてはだめです。ブッダの教えにいることは、勇気のいることです。
ショ-シャンクさまも、春間さまも、その意味では立派な方だと思っています。
芳和さまも、そこを学んでいるところです。逃げずに、きちんと向き合えば、人は変わります。
ショ-シャンクさまの書いてくれたことを、きちんと自分のこととして受けとめてみませんか。
耳に痛いことばもあるでしょうけど、きちんと向き合うとき、世界が開けます。
問題 は 指摘が、 何を目指して行われるか ということであり
指摘するだけの ( 拠り所としての )何 を持っているか です
そして、 よりどころに在って( あるという 自覚・自己評価 でも構いません )
何の目的を持って、 指摘するか ということです
そこが 「 気 」 の 問題です
何の為に やる気を起こさせるか ?
( その人の為を思うこと が 自分の為 です )
> 自分を脇に置いてはだめです。ブッダの教えにいることは、勇気のいることです。
あなたは 勇気ある人ですか ?
( わたしには、 そうは 見えない )
( 強・弱 が 何故、 「 縁起 」 にあるかが ワカリマスカ ? )
ある人が( 多くの人が ) 、 強い勇気だという
聖者 は どのように見るかは、 「 経 」 に 拠るしかありません
( Su.762 ) この 「 経 」 は 、
苦楽について語りますが
同じ 骨格( 論理 ) を 用いて、 苦楽(?) を 語る ( ?? )
聖者であれば 話は別です
( 読解能力がない と、 この飛躍は 読み取れない )
( 読解能力のある人 に 成ればよい )
「 仏教 」 には 一つの真理(論理) しか ありません
「 平等 」 です
あなたは、 弱気の人 だと ( わたしに ) 見える( 映る )
「 弱さを知らぬ者は 賢くはない 」
これは ヘッセ が 「 仏教 」 から学んだことです
> ショ-シャンクさまも、春間さまも、その意味では立派な方だと思っています。
その意味以外 では どうでしょうか ?
立派なところは 見る必要はありません
立派でないところ を 見なければなりません ( 当たり前のことを、 人々は 立派であるという )
「 弱さを知らぬ者は 賢くはない 」
( 立派でないところ を 見てはいない わたし → 弱さを知る ?? )
ショ-シャンクさん のことは、 ショ-シャンクさん に まかせる外はない
あなたのことは あなたがするしかない
( 龍樹が ここにいるぞ )
> 芳和さまも、そこを学んでいるところです。逃げずに、きちんと向き合えば、人は変わります。
このように 見ることが出来るのが、 龍樹 です
> ショ-シャンクさまの書いてくれたことを、きちんと自分のこととして受けとめてみませんか。
「 山川草木悉有仏性 」
受け方( 聞き方 )を 変えれば、 語る人が変わる
キケンニオフル 草 が 安全・安楽 を 作る
> 耳に痛いことばもあるでしょうけど、きちんと向き合うとき、世界が開けます。
痛めつける言葉を 使ってはいけないと ショ-シャンクさん は 思っている
・
メッタ-さま はじめまして。
小さな頭脳の「路無」です(笑)
> 二人は大乗仏教やってるという雰囲気はある。この人には、なぜか仏教の香りが全くしない!この人が仏教?という雰囲気。
> 敵味方がはっきりして、容赦なく反撃する波動に仏教なんかないね。
ショ-シャンクさまの『法律についてのひとりごと』というブログをご存知でしょうか。
https://shawshank-blog.hateblo.jp/
金銭トラブルといういわばどん底の人の悩みに対して、正確な知識と知恵から、苦しむ人々に真剣にアドバイスをされているものです。わたしがそのブログを初めて読んだ時、そのショ-シャンクさまの姿は、どこまでも無私で社会の中でどこまでも人のために動いている菩薩の姿が重なりました。
そういえば、お釈迦様も世俗のもめごとに対して真剣に知恵を出されたと聞いています。
何だったかなぁ。。
確か、息子から不当に家を追い出された年取った親が悩んいるのを知って、お釈迦様は公衆の前で唱える文面を教え、老人がその通りにすると、息子が改心して、追い出されたその親が元の家に戻ることができたというものです。
ショ-シャンクさまは大乗には否定的だけど、菩薩の香りがする。
仏教って不思議ですね(笑)
> > 『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』をテ-マにした自費出版は、来年2月出版の予定です。
> > 自費出版会社と契約しました。
>
> 自己啓発本の出版は己(の懐)を救う道であって、他者を救う道じゃないと思います-
何か、よくわからない言説が私についてなされていますね。
会社の有利子負債2億円を株で返済しようと思い立って引き寄せの法則を勉強しましたが、
今時点では、引き寄せの法則では必ず失敗するというのが私の結論になっています。
自らの環境に困窮が起きた原因は、仏陀が三明で見た理法によっていまは完全にわかります。
いまは引き寄せの法則は完全否定しています。
それは仏陀の理法全体のほんの些少な断片にしか過ぎず、それも間違った形で様々に受け取られているものです。
kammaが果を生むという法が矮小化されて受け取られているものだということが今ははっきりとわかります。
『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』は私の人生の大テ-マです。
ただ、仏陀の真意は、限りなく深く、いつも新しい発見があるので、茫洋とし遅々として進まないのが現状です。
自費出版会社と契約したのは確かですが、どんどん新しい発見があって困っています。
ブログで書いていることがかなり幼稚に見える感じで最終的にはブログなどより全く深化していくような気がしてます。
内容もブログとは違ってくるでしょう。
このような私のことをこのマニカナで書くつもりは全くありませんでしたが、
なぜか私についてわけのわからないレッテル貼りをされていますので書きました。
私は菩薩の道を行こうと思ったことはありませんし、あくまでも一生、仏陀の真意は何かを探求していければいいと思っているだけです。
> 自己啓発本の出版は己(の懐)を救う道であって、他者を救う道じゃないと思います-
pocket さま おはようございます。
自己啓発本というものを自分はちょっとよく理解していないのですが、今、ショ-シャンク さまの書かれている本は「自己啓発本」に当たるものなのですか??
文献の引用が正しくなされ、その論理が通っているのであるなら、市井の研究者によってまとめられた準学術書に相当するもののように思っています。
また、pocket さまの書かれた上の言葉がわたしの読み違えではなければ、ショ-シャンク さまが己(の懐)を救おうとして、その本を出版されようとしているのではないと思いますよ。 引き寄せの法則と何の関係もない、長年ブッダに対してなされた自己探求の本だと思います。
わたしは「引き寄せの法則」というものもさっぱり分かっていないのですが、知りたい人に、自身の思うところが本当に開陳されているのであるなら、それはそれで人助けの道ではないでしょうか。たとえ、金銭に関わることであったとしても、それがどの人も害さないのであれば、やはり菩薩の智慧の顕われと言えるのではないでしょうか。
|
> > 『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』をテ-マにした自費出版は、来年2月出版の予定です。
> > 自費出版会社と契約しました。
>
> 自己啓発本の出版は己(の懐)を救う道であって、他者を救う道じゃないと思います-
あらためて読んでみるとこの部分が面白かったので言及します。
『自己啓発本の出版は己(の懐)を救う道』というのが面白かったですね。
一般の商業出版と違って、自費出版は、著者がその出版費用を持つのです。
300万円くらい必要です。
自費出版で実際に売れるのは、ほんの数十冊か数百冊です。
ですから、自費出版なんて己の懐を損なう道ですよ。
300万円のほぼまるまる損をします。
逆に言えば、どんな内容の本であっても、300万円のお金があれば、自費出版は誰でもできるということです。
自費出版しても全く売れることはないと思っていますし、形になったそれだけで本心から満足なのです。
究極の自己満足です。
出版されたとしても、ここで宣伝する気は毛頭ないですし、自分のブログでも触れないかもしれません。
それほど、売れることには執着していません。
自費出版なんて、もっぱら出版社がリスクなく儲けるためのものです。
社会なんてそういうものです。
> ショ-シャンクさまの『法律についてのひとりごと』というブログをご存知でしょうか。
> https://shawshank-blog.hateblo.jp/
>
> 金銭トラブルといういわばどん底の人の悩みに対して、正確な知識と知恵から、苦しむ人々に真剣にアドバイスをされているものです。わたしがそのブログを初めて読んだ時、そのショ-シャンクさまの姿は、どこまでも無私で社会の中でどこまでも人のために動いている菩薩の姿が重なりました。
はじめまして。
無私で利他的に生きる人は、古今東西無数にいると思います。その人たちが仏教の道にあるかとはまた別です。
自分がいかに利他的であるかを大々的に公表することでは、芳和さんと、同じとしかみえません。
メッタ-さま、お返事ありがとうございます。
> 自分がいかに利他的であるかを大々的に公表することでは、芳和さんと、同じとしかみえません。
ショ-シャンクさまは多くの人たちの悩みを解決されるように対話されたその記録をまとめられているだけですね。
何故そうされたかというと、世間では同じような苦しみにあっても解決の方法を一向に見出せないで心底思い悩む人が多くいて、それらの人に対して、ちょっとでも参考になるかと思ってネットで公表されただけだと思いますよ。
ショ-シャンクさまに「自分がいかに利他的である」という意識は無いと思います。
行為が利他的であるとわたしが判断したのです。
利他的という判断は、どこまでも他人によってされるものであるとよくご存じの方だと思います。
ロム1 さま
> ショ-シャンクさまに「自分がいかに利他的である」という意識は無いと思います。
あるかないかは、
彼 も 決める
あなた も 決める
他 も 決める
> 行為が利他的であるとわたしが判断したのです。
> 利他的という判断は、どこまでも他人によってされるものであるとよくご存じの方だと思います。
あなた の 利他的な 意識だと 思います ( 決める )