石飛先生、ありがとうございます。
> > 先生は、龍樹が言った『縁起』『中道』『空』の解釈と違う解釈をすると、とたんに激しく抵抗され、外道という決めつけをされるように思えます。
>
> そう見えるかもしれませんが、じつは龍樹が言ったものを良しとしているのではなくて、ブッダが言ったものを良しとしているのです。
> でも、龍樹は、ブッダを八正道によって正しく解釈したと思います。
> だから、龍樹をあげるのです。
>
> わたしは、もとは外道で、外道の見解をすばらしいと思っていました。西洋哲学・論理学より勝れている、因果をもつから、と思っていたのです。かれらは、鉄の法則因果律を壊さないように、哲学を組み立てていました。今でも、勝れていると思っています。
>
> しかし、その因果の法則も、ブッダから来たことを知り、あらゆるものがブッダに教えられて作られていることを知って、ブッダのもとに行ったのです。その間に、龍樹がいて、龍樹を伝って進んだら、最後にブッダに行き当たったのです。そして、龍樹の言っていることは、ブッダの言っていることだと知りました。
>
> こんなに綺麗に重なる場合も珍しいです。ブッダの器と龍樹の器はピッタリと重なりますが、龍樹は、菩薩と言われます。龍樹自身が望んだからです。
>
> わたしの理解は、こうですね。ほかの人がどう言っているのかは、あまりよく知りません。
先生のお立場はわかる気がしますし、素晴らしいと思っています。
ただ、私とは方向性が逆と言うことです。
私は、後世の宗祖たちの解釈をすべて白紙にして仏陀が本当は何を言ったのか、どういう意味で言ったのかを知りたいのです。
もし、仮に、龍樹が仏陀の言ったことと100%同じ事を言ったとして、同じ事であれば、直接仏陀の言葉を読めばいいだけですので、そこに後世の人の言葉を挟む意味が私にはわからないのです。
先生が、龍樹は仏陀の後継者として、全く同じ事を知っているという証明をされようとしているのは知っています。
是非、その証明をしていただきたいとは思っています。
しかし、私は、先生より遙かに後ろに歩いている者で、まずは、後世の解釈をすべて白紙にして仏陀を読みたいというところから始めているのです。
> 歴史上のブッダを知りたいのですよね。
> ほんとうに「歴史上のブッダ」を知りたいのであれば、歴史の限定をもっとしっかりと見据えねばならないでしょう。
>
> ほんと、ショ-シャンクさまの理解は、「甘い!」と文句を言いたくなります、この点は!
>
> 「ヴェ-ダの達人」や「バラモン」は、当時のバラモン社会を知らないと、何とも言えないでしょう。どういう意味で、ブッダはそう言ったか、それにみんなはどう反応したか、歴史の限定をよくよく知らねばなりません。
>
> その点、わたしは、歴史上のブッダには、そんなに興味がないのですが、それでも、結局は歴史上のブッダを歴史に沿って調べています。その中に、普遍性が表れてくると思うからです。
私が指摘していることはごく単純です。
最古層の仏典スッタニパ-タには、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と読んでいる場面が度々出ますが、それ以降の仏典にはそのような場面がどんどんなくなり、バラモン教の表現などは排除されていっています。
先生は仏陀が自分を『バラモン』と言ったと言いますが、それだけでなく、例えば、1065では、仏陀に対しバラモンと呼びかけています。
私が言っているのは、最古層の仏典では、そのようなバラモン教の呼称や表現が排斥されずふんだんに使われているのに、だんだん、それらは排除されていったということです。
> わたしは、ショ-シャンクさまの問題点としては、顛倒と中道の順序が、逆になっているような気がします。
> それが、ひっくり返れば、部派の理解だと思います。顛倒と中道の順序を、ショ-シャンクさまの説いているように考えると、そのまま考え続けていけば、大乗にいくような気がしますが。
順序が逆とは思っていません。
顛倒妄想しているのが衆生です。
そして、仏陀の理法に触れて、その顛倒妄想が間違いであった、今までの見方は180度顛倒していたのだ、という大きな気づき、転回があって初めて正見解をもつことができ八正道が歩めると思っています。
顛倒妄想に気づいただけでは、我見はなくならず、正見にもとづく八正道を進めば、ガンガ-の流れが大海に行き着くように涅槃に行き着くのだと思います。
どこも順序は逆ではありません。
それを部派だの大乗だのと分ける必要はないと思います。
龍樹と違う見方をしたら違うというのであれば、立場が違うのですから、これ以上論じても意味ないと思います。
あなたは この話の中 にある 矛盾 を 知らなければならない
( 分別できないようでは、 仏陀の理 は 、 即近に在って 遠くに離れている )
> 先生のお立場はわかる気がしますし、素晴らしいと思っています。
知ったところにある、素晴らしいこと
が 為される ( べき ) こと
知らないことは出来ない のではなく、
していること を 知ろうとしていない のです
言ったこと を 知る のではなく、
したこと を 知る のです
言ったこと したこと の 解釈 を 立てるのではなく
何が 為されるべきこととして 為されたか
何故 それが、
為されなければならない事として、
為すべき語り と なった のか
語り の意味 ではなく、
行いの意味 は、 行い にあり
知るべき意味 は、 為されるべき行ない に 生まれる
自らの行い に のみ 、 自らの意味が起き得る
他人ごと を 知る のではなく 、 することを 知る
意味 というモノ は、 必ず 行いに付随する
素晴らしい( 立場に於いて 為されている ) と 思うことを しなさい
仏陀 は 魚屋に 切り身の食べ方を教えません
靴屋に 靴の履き方を 教えません
何故 切り身にするか 、 何故 靴を履くか を 示します
( その為に 助けとなるような、 すべてに通じる 「 理 」 を 示します )
「 理 」 は 「 菩薩 」 によって、 世間に示されます
龍樹 の 「 理 」 は 「 頌 」 として 示される 、、、、
> > > ああ、お金は大事ですが、お金が関係しないことも大事です。
お金が関係しない世界では、 お金 は 存在しません
お金の関係しないこと は、 お金 で 関係することとなります
お金が 関係しようが、 関係しまいが、
大事なこと は お金 という概念 の 外 に 起きています
そこ( 外 ) では、 お金 は 、 機能しない
“ Money can’ot by me LOVE ”
> > > お金にこだわらない、をやってみました(笑)
こだわる人 に こだわりをなくすこと を 通用させられない
( こだわり が なくなれば、 通用する )
> 先生が、龍樹は仏陀の後継者として、全く同じ事を知っているという証明をされようとしているのは知っています。
> 是非、その証明をしていただきたいとは思っています。
> しかし、私は、先生より遙かに後ろに歩いている者で、まずは、後世の解釈をすべて白紙にして仏陀を読みたいというところから始めているのです。
後の人 を 見る よりも、 前にあるモノ を 見なさい
( 後世の解釈 は あなたの解釈の後 に ついてくる )
先導者 が 前にある
あなたの解釈 は ( 後に起きる人の行い は )
「 足跡を追う車輪のように その後 に したがう 」 ということが 「 道理 」 です
> > ほんとうに「歴史上のブッダ」を知りたいのであれば、歴史の限定をもっとしっかりと見据えねばならないでしょう。
歴史 というモノ は 支配する者の都合 に 沿って 刻まれる
( 支配する 自我意識 が 歴史を提示する )
> > ほんと、ショ-シャンクさまの理解は、「甘い!」と文句を言いたくなります、この点は!
自分にとって 都合の良いこと が ( 他者に不都合 でも 構わないのが )
自我 の特質
> > わたしは、ショ-シャンクさまの問題点としては、顛倒と中道の順序が、逆になっているような気がします。
> > それが、ひっくり返れば、部派の理解だと思います。顛倒と中道の順序を、ショ-シャンクさまの説いているように考えると、そのまま考え続けていけば、大乗にいくような気がしますが。
> 順序が逆とは思っていません。
あなたが衆生であれば、 思っていることは 顛倒妄想 です
> 顛倒妄想しているのが衆生です。
> そして、仏陀の理法に触れて、その顛倒妄想が間違いであった、今までの見方は180度顛倒していたのだ、という大きな気づき、転回があって初めて正見解をもつことができ八正道が歩めると思っています。
そのように、 歩み始めた者 を 「 菩薩 」 と呼ぶ 慣わしです
歩み始めるまで は 菩薩に対して 瓦礫 を投げつけ、 杖木 にて打ち据える
離れて 、 離れている 手を合わせる ( 一つと知る 「 菩薩 」 )
> 龍樹と違う見方をしたら違うというのであれば、立場が違うのですから、これ以上論じても意味ないと思います。
そうであれば 、 最初から 論をここに起こす 意味はない
あなた は、 あなたが信じる あなたの道を 歩む
その意味 は
あなたの足跡を追う ( あなたが引く車 の )車輪のように
あなたに付き従う
・
ショ-シャンクさま 昼過ぎのひとときですね。。
授業を一個やってきました。
> 私は、後世の宗祖たちの解釈をすべて白紙にして仏陀が本当は何を言ったのか、どういう意味で言ったのかを知りたいのです。
そういう風に思うお気持ちはよくわかります。わたしも、そうです。
> もし、仮に、龍樹が仏陀の言ったことと100%同じ事を言ったとして、同じ事であれば、直接仏陀の言葉を読めばいいだけですので、そこに後世の人の言葉を挟む意味が私にはわからないのです。
ですね。ふつうは、そうです。
特に優れている人々ほど、ブッダに夢中になりますが、それもわかります。
その魅力の一つは、ブッダの説いたことは、確かにブッダの説いたこととして一つのことが説かれているように見えるのですが、それだけが説かれているわけではない、ということがあげられます。
簡単に言えば8万4千の法門へと展開する内容を含んで説かれる人工言語のようなものと見てもよいかもしれません。
「如来所説」経では、苦楽二辺の中道を説いて、そこから寂静、証智、正覚、涅槃を導くものだと言い、それは八正道だとなります。
さらに、四聖諦が説明され、その第4番目の苦を滅する道が八正道だとなっています。
これしか無いようですが、ここからいろいろなことがわかります。
たとえば、こんなのをやってみましょう。寂静、証智、正覚、涅槃は、四聖諦のそれぞれの項目にも対応しています。「<これ>が苦である」と知るそこが徹底されると、それを滅した境地は、寂静です。「<これ>が苦の原因である」ということを知れば、証智ということになります。「<これ>は苦の滅である」と知りつくせば、正覚を得ます。{<これ>が苦の滅に至る道である」という点を知りつくすなら、涅槃です。
修行が進めば、読みはさらに深くなります。
一度読んでわかって終わりではなく、何度も読み込めるのが、ブッダの教えなのです。
> 私が指摘していることはごく単純です。
> 最古層の仏典スッタニパ-タには、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と読んでいる場面が度々出ますが、それ以降の仏典にはそのような場面がどんどんなくなり、バラモン教の表現などは排除されていっています。
> 先生は仏陀が自分を『バラモン』と言ったと言いますが、それだけでなく、例えば、1065では、仏陀に対しバラモンと呼びかけています。
これは、『スッタニパ-タ』ですか。あれ、ここ、中村先生は「バラモンさま」となっていますが、わたしは「梵天よ(brahme」と訳しています。これは、ブラ-フマナとは書いていないので、梵天とした方がいいのではないかと思いますが。ブラ-フマナ(バラモン)以上の存在だということでしょう。
また、1061では「偉大な仙人よ」と呼んでいます。1063では「何も所有することなくふるまうバラモンを見ます」とあって、ここにバラモンが出てきます。これを受けて1065で「バラモンさま」としたのかな?
1063では、呼びかけの語は「普眼者よ(samantacakkhu)」です。バラモンの中であるとしても聖者である、という意識が現れています。
> 私が言っているのは、最古層の仏典では、そのようなバラモン教の呼称や表現が排斥されずふんだんに使われているのに、だんだん、それらは排除されていったということです。
う-ん、バラモンの用語を「清らかな行を完成した者」の意味に特化していったのは、ブッダだと思います。『スッタニパ-タ』の「サビヤ」経をごらんになってください。また、「スンダリカ・バ-ラドヴァ-ジャ」経も参考になると思います。
ここは時代的な流れがあると思います。自ら「ヴェ-ダの達人」であることを示し、心清らかにして修行を完成した特質をそなえたものを<バラモン>と呼ぶと宣言しています。『ダンマパダ』の最後の章に「バラモン」という章があります。
> 龍樹と違う見方をしたら違うというのであれば、立場が違うのですから、これ以上論じても意味ないと思います。
龍樹の見方とは関係なく、わたしが思うことですが、うまく伝わらなかったようなので、これで終わりにします。
どうもありがとうございました。
ショ-シャンクさま、亀レスの横入りでございます。
> 煩悩と菩提についても当てはめて解釈し、煩悩を滅するのではなく、煩悩即菩提だとなっていきました。
> 仏陀ははっきりと煩悩の滅によって解脱したと言っているのにもかかわらず。
煩悩即菩提というのは中論の以下の偈にあるようなものですね。
「輪廻は涅槃からすると少しも異なりがない。
涅槃は輪廻からすると少しも異なりがない。」
na saMsArasya nirvANAt kiMcid asti vizeSaNam /
na nirvANasya saMsArAt kiMcid asti vizeSaNam // MMK_25.19 //
「涅槃与世間, 無有少分別; 世間与涅槃, 亦無少分別。」(青目註)
「涅槃の辺際は生死の辺際である。
これら二つの間隙は少しも塵(ほど)も知られない。」
nirvANasya ca yA koTiH koTiH saMsaraNasya ca /
na tayor antaraM kiMcit susUkSmam api vidyate // MMK_25.20 //
「涅槃之実際, 及与世間際, 如是二際者, 無毫厘差別。」(青目註)
『無畏論』によると
de'i phyir chos thams cad skye ba med pa dang/ 'gag pa med pa mnyam pa nyid kyis 'khor ba ni mya ngan las 'das pa las khyad par cung zad kyang yod pa ma yin no/
「それゆえ、一切法は不生不滅であり、等しいことによって、輪廻は涅槃から少しでさえも、異なってあることがない。」
とあり、有(bhava)も不生不滅であり、涅槃も不生不滅であるが故に両者は等しいということのようです。
しかし有(bhava)が不生不滅であることと、涅槃が不生不滅であることは、言葉の上では同じ「不生不滅」ですが、意味が異なっており、前者は大乗においてのみ不生不滅であり、後者は「文字通り生じることも滅することもない」ことから考えると、「どちらも不生不滅だから、両者は等しい」というのは論理の飛躍があるように思われます。
> どのコメント に 対して
>
> どのように “ 横入り ” ですか ?
直前のポケットさまの投稿が、ショ-シャンクさまにあてているので、そこに入り込んだ、という心境です。
> 該当 投稿 を お知らせください
ショ-シャンクさまに対して語っているのではなく、pocketさまに向けて語っているので、「横入り」感があって、そんな気がしました。
ちょっと 寄り道 は いかがかな ?
> ブッダは、「中道が悟られた」と述べて、それを八正道と説明しました。そして、それを四聖諦の第四番目「道聖諦」としたのです。
> 言葉でいえば、苦に行かず楽にも行かない不苦不楽(苦でもなく楽でもない)の中道です。実践道として説かれています。
不苦不楽 ( 苦でもなく楽でもない ) ということ は
「 楽 」 の 別の言い方 なのです ( 不苦不落 = 「 楽 」 )
“ 楽 ” という 語 の 意味 が 問われるところです
( 「 苦 」 の 中 で 「 楽 」 を 求める時に、
「 楽 」 の 意味 を 顛倒するゆえに “ 楽を求めて苦を積む ” )
↑
“ 楽を求めて苦を積む ” の “楽” も “苦” も “ 「 苦 」の中の意味です ”
同じように、 「 中 」 という意味 も
「 中道 」 にあり、 かつ 「 偏( “ 脇道・路傍 ” ) 」 にもあります
( どのような 「 処 」 にも 「 中道 」 は 起きます・ 望 ・見える )
「 中道 」 の意味 を 説明しても
( ショ-シャンク さん の 解するように )
自らの 保つ( 手にもつ ) 意味を 、 理解の道具として使えば
その意味(道具)の使い方に応じた 「 果 」 が 得られます
その 「 果 」 は あなたの “ 手( 中 ) ” に あります
( その “ 手( 中 ) ” の 中 の
“中” は 手の真ん中 にありますか ? )
( 「 真理 」 は 通常言語によって 表される にもかかわらず )
「 中道 」 にあるまでは、 「 中道 」 の 意味は 分からないものです 、、、、
「 苦 」 の 中にいて 「 涅槃 」 にいる とは 実“感” 出来ません
( “ 感じること ” が 「 苦 」 なのですから )
“ 感じる ” こと を 放下 して
( 「 瞑想 」 にあるとき )
禅定( ジャ-ナ ) に あります
ジャ-ナ に 常住するとき 「 涅槃 」 に あります ( 行住坐臥 すべて禅 )
「 禅定 」 には なにものも存在しない 故に すべてが 存在している
( 色即是空 ) ( 空即是色 )
禅定に於いて 「 空 」 にある
> もしかすると、十難無記を捨てず、四聖諦をも捨てることもありうるかもしれません。それでも仏道を歩める、とするやり方もあるかもしれませんが、これはちょっとわからないです。最後に自分で四聖諦を導くことになりそうですね。
>
> 縁起を駆使して中道と四句分別にせまることになると思います。
> これは、誰でもが、自分で進む道なのかもしれません。
・
> 仏陀は、三明でありありと見たのです。
> 仏陀にとっての事実です。仏陀が想像して言っているわけではありません。
> 仏陀にとって事実だったと思われませんか?
> > > 事実か? 事実の正体はなんだろう、とひとり言風に言ってみます。
↓
> > 仏陀は、三明でありありと見たのです。
> > 仏陀にとっての事実です。仏陀が想像して言っているわけではありません。
> > 仏陀にとって事実だったと思われませんか?
↑
> 言いたいことはわかりますが、わかるからこそ!そうは思いません。
> ショ-シャンクさまの言う「事実」というのは、検証さるべきものだと思います。
( 検証 の 仕方 が 問われるところ です )
> わたしたちがふつうに考えることを、ブッダが同じように考えた、という保証はどこにもないです。
( どこにもない けれど ここにある 不思議 → 「 妙 」 と呼びます )
> ブッダは、識の転変するありさまを遡って追っていっています。識を追っていける、というのは、ふつうの人は体験しないと思います。宿命智は訓練したものしか得られないでしょう
普通の人 に 普通の人 が 語ると 、
普通の人 は 普通 に 読み取る
ブッダ の 言葉 を
“ 普通のこと ” にある言葉 と 考える
ブッダ は “ 普通 ではないこと ” を “ 「 普遍 」 にあること ” として 語る
普通の人 は それを “ どのように体験 出来る・する ” のか ??
「 唯仏与仏 乃能究尽 」
「 仏 」 に 語っていますか ?
“ 普通 に 拘る人 ” に 語っていますか ?
両方 に “ 一処の処 ” で 語っても
“ 一処 ” というモノ( 処 ) は
他所 が あるとき に 起こすことが出来る “概念”・“処” です
ちょうど
“ 自分 というモノは 、 他者 が あって 起きる概念 ” である
のと “ 同じ構造 ” ( 同じ とは 二つのモノ に 起きる概念 )
自分 を 一元化 できる時
二分 という “ 自分 と 自分を見る者 ” である 自分 が 分かる
そこを 指して
牟尼 は 「 無我 」 と 看破する
ここを しっかりと 弁えて 弁別する
( 二重のこと ・ 「 縁起 」 の こと !! )
・
pocketさま、こんにちはっ!
横ミチなんで新スレ立てますね。
[No.23500]
>> よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
>> ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。
> 界(ダ-トゥ)ですか?
> 私も分かりません。oさまやおちゃらけさまやPLさまは分かっているのだろうか
つか、話題自体がよくわかってないです。すみません。
道元とか龍樹の八不とかは私のアウトオブダ-トゥ(範疇)ですし。
「十二縁起支をダ-トゥとしてみる」ことにピンと来るか来ないか、みたいな話なんでしょか?
最近はつまみ読みなので、スレッド自体よく読んでない∧わかってないです…
ワンオブわかってないヒトとして「ダ-トゥと縁起」にテキト-に反応しまっす。
___________________
ダ-トゥの他に「界」に対応するパ-リ語で思い浮かぶのはアヴァチャラ、ロ-カ、ドヴァ-ラなどです。
水野辞書をみるとdhAtuはavacaraとして扱ってもヨシ!ってあります。
avacara「欲・色・無色の界で、一般にはdhAtuとするのを南方上座部(パ-リ佛教)では、すべてavacaraとする〕(増補改訂版 p.47)」
avacaraというと三界のカ-マヴァチャラ、ル-パ-、アル-パ-の名前があるので、三つの界avacara(=三つの要素=lokadhAtu)に輪廻する→何が?→五取蘊→ってことで一切(五蘊・六処・十八界)は縁起するよっていう意味ならば、わかってるorわかってないを別として、縁起の「支分」をダ-トゥ(十八の界)に当てはめて分類しても(ref:MN115『多界経』)、または縁起「支」をダ-トゥ(要素または成り立たせる領域)として扱っても、あんま違和感ないです。
ダ-トゥは多義語なんで「まとまったあつまりを指す」ぐらいの理解です。
ってのは、ビルマ語にもダ-トゥから派生した複合語があるのですが、たとえばダ-トゥがダッに音変異した複合語ダッチ-は電気のことをいいます。これもダ-トゥ?と思うんですが、「ダ-トゥは懐が広いヤツ」みたいです。
エジャ-トンのBHSDを見てみると、ダ-トゥの項目、長っ!!
https://archive.org/details/buddhisthybridsanskritgrammaranddicti ..... 2/mode/1up
七つに分類されてます。(とりま書き出します)
(1) 四大=physical element, constituent of the material world
(2) 体質(体液説)、身体の要素=element in the body
(3) 十八界=the 18 dhAtu
(4) 心の要素=constituent element of the mind
(5) 世間=sphere, region, world, state of existence
(6) とても大きいこと=from this last, world, sphere, develops the meaning mass, abundance, large quantity
(7) 舎利=(originaly elemental bodily substance, 2 above; hence) relics, bodily remains
MN115『多界経』の界は(1)(3)(4)(5)に関わってるかも。「界(ダ-トゥ)処(六の内外)、縁起(四諦)、道理非道理(この道理・タ-ナ[英語のsandと同根]って理解している[under-stand]イコ-ル説明できることだと考えてます)」の四のことがらに巧みな者の話がでてくるので縁起とダ-トゥは同じ作業台に乗せて作業してもいいよ、って受け取ってます。
あと、「行動領域」って感じのチャラつながりだと、ちょっと前に禅定とヴィタッカ・ヴィチャ-ラの話題がありましたが、タッカにアヴァチャラがくっついた複合語にatakkAvacara(a-takka-avacara)「推論の範囲を超える、深奥」ってのがあります。
チャラ男三兄弟は「avacara君、gocara君、vicAra君」です。個性は違えど兄弟っぽい。
なのでヴィタッカ・ヴィチャ-ラは思考の「領域(この場合はフィ-ルド)」が異なるんだな-って思ってます。
縁起つながりでいうと、数ヶ月前にちょこっと以下の論文の感想を述べましたが、縁起支に関する例文がどっさりでチミチミと経典に当ることができたのでマジ助かりました。
『初期経典における縁起説の展開』唐井隆徳
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_HBA09501009095
こんな感想を書きました。
> 十二支縁起は教義・修行・瞑想を分類してまとめた見取り図なんだな-ってことがようやく腑に落ちたのでした。
「縁起支」は各支が一列に横並び・縱並びに収まっているのではなく、DNAみたいに多層(多界)なものがギュッと濃縮されていて、たとえば「無明・三界・輪廻」をぴろ~ん取り出したり、渇愛を軸点にして有想無想、無色界、空の道筋とかもぴろ~んと取り出せそうだな~ってうっすらと思ってます。これも「領域(この場合は圏/sphere)」といえるかも?
つまり、私にとって縁起はプログラムの関数みたいなもんです。「これ」とか「あれ」という関数がある。
これだけではプログラムは何にも動かない。
「これ」と「あれ」に「何か」を「代入」して動かしてなんぼ使ってなんぼがプログラム(言語)。
「これ」と「あれ」に何を代入するかは、いろんなレイヤ-(階層というダ-トゥ)がある。
プログラムが言語の一部(言語の領域)だとするならば、単語(音や文字)だけあっても言語とは言えない。
「動かす=伝える」ためには「語」に「実行したいこと=伝えたいこと」を代入しなければならない。
そのようなひとつづりが縁起(行)で、使う人の意志や目的が代入されている、みたいなイメ-ジです。
なので、「縁起なんかない」という言葉も「縁起の視点からみると」「縁起」っていえるかも。
「これ」と「あれ」に代入しないことを選ぶ(行として成立する=沈黙)ならば、コレも縁起。
「これ」と「あれ」に代入するものがない(行として成立しない=滅)ならば、ソレも縁起。
ここまではだいたいオッケ-。
わかんなくなるのはココから。
他に説くこと=聴くことは「これ・わたし」と「あれ・あなた」の双方が多層・多界的に関わってくるので「道理・タ-ナ」の理解(under-stand)が難しくなる。
聴く人には信が必要だし、説く人には請願が必要。
ってなことが思い浮かびました。
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