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  [No.23218] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/02(Tue) 16:03:22

石飛先生、こんにちは。

仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 』のスレッドを立ち上げてから、
石飛先生には数多くのご回答ご教示をいただきました。
大変、感謝いたしております。
ありがとうございました。
お礼を申し上げておりませんでした。


先生は、大乗仏教はもともと仏陀の教えの中にあったものであり、龍樹は仏陀の教えそのものを説いたというお考えであり
私は、龍樹は独創的な天才(新しい大宗教の教祖となれるほどの)であったために、仏教を発展させ、仏陀が言った言葉から普遍性をもたらし新しい意味付けをしたように思っており、それ以降の仏教はかなり龍樹一色になったくらい景色を変えたように考えていますので、そこの違いがどうしてもあります。

しかしながら、意見や立場が違うのは悪いことではなく、『仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 』スレは非常に伸びましたし、数多くの皆さんにも参加いただけました。
違う意見の者が話すのが火花が散っていいのかもしれませんね。



> > そして、これは違ってもいいと思いますし、どちらが正しいと論じることでもなく、
> > 実践してみて、慧に向かうことができればいいのだと思います。
>
> まあ、そういうことだと思います。
>
> では、これで、退散いたします。ありがとうございました。

慧に向かえるかどうか、ですね。
本当にありがとうございました。


 

  [No.23220] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/02(Tue) 16:53:10

ショ-シャンクさま わざわざご丁寧におそれいります。

> 先生は、大乗仏教はもともと仏陀の教えの中にあったものであり、龍樹は仏陀の教えそのものを説いたというお考えであり
> 私は、龍樹は独創的な天才(新しい大宗教の教祖となれるほどの)であったために、仏教を発展させ、仏陀が言った言葉から普遍性をもたらし新しい意味付けをしたように思っており、それ以降の仏教はかなり龍樹一色になったくらい景色を変えたように考えていますので、そこの違いがどうしてもあります。
>
> しかしながら、意見や立場が違うのは悪いことではなく、『仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 』スレは非常に伸びましたし、数多くの皆さんにも参加いただけました。
> 違う意見の者が話すのが火花が散っていいのかもしれませんね。

なかなか白熱したやりとりでおもしろかったですね。

立場の違い、意見の違いを知る、というのは大切なことだと思います。
特に、ブッダの場合、いろいろな切り口で見ることができ、また、それを深く追究していくことも可能ですから、相手の述べていることをよく理解できると、また違った視野を得られます。

今回、「ブッダはなぜ、自分の遺骨の塔を作るように述べたか」という質問それ自体が、思いもよらないものであり、おもしろく感じました。
そのため、どういう結論になるのか、自分でもわからない点もあって、あらためていろいろと考えることになりました。

また、大乗は、ブッダの説いたものから変容していると見る見方も、わからないではありません。実は、変容の中身を、あれこれ考えていました。

凡夫的変容、声聞的変容、菩薩的変容と考えながら、どれが許容され、どれが許容しがたいかなど、いろいろ内心では思ったことです。

> > > そして、これは違ってもいいと思いますし、どちらが正しいと論じることでもなく、
> > > 実践してみて、慧に向かうことができればいいのだと思います。

龍樹は、そのように智慧によって変化していくとき、「空の智慧」などと呼んでいます。

> 慧に向かえるかどうか、ですね。

そうですね。向かうことができないと何もならないので、ぜひ頑張って智慧につなげていきたいと思います。

> 本当にありがとうございました。

ありがとうございました。
また、よろしくお願いします。


 

  [No.23115] 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:pocket  投稿日:2021/10/28(Thu) 10:45:49

ショ-シャンクさま、石飛先生

非常に本質的かつエキサティングな対話がなされていて、大変興奮しています。
横入りをお許しください

> > > もう、ここで、縁起からはずれてきましたね。「石飛が主張している」と見るなら、ブッダの教えをはずれてきています。法性などは、縁起したものを、語っているのです。
> >
> > 無常と言うことを法則として、その法則が常住、不変、永遠だということですか。
>
> このあたりに来ると、どうも、ショ-シャンクさまは、ことばにとらわれてくるようだと思います。「法則」ということばに、強い思い入れがあるのかな、と思います。
> これも「ダンマ(法)」ではあります。
> 「諸行」もダンマと言われ、「無常」もダンマと言われます。そして、「諸行無常」もダンマです。そして、ダンマは無我と教えられます。「諸法無我」ですね。
>
> そうなると、諸行無常がダンマなら、そこに無我という教えもあるわけだから、このダンマのあり方は、いつも定まっているなあと気づくこともあるでしょう。
>
> たとえば、「生まれることに縁って死ぬことがある」という縁起について、ブッダは、「如来が出現してもしなくても、その領域(界、ダ-トゥ)は『法として決定していること(ダンマ・ニヤマタ-)』である」と述べました。
>
> 「~タ-」とあると、抽象化する名詞なのですから、法(ダンマ)のあり方を説いていることになります。

ここは詩偈だけではなく、石飛先生も龍樹真撰と認めておられる(私も真撰だと思っています)『無畏論』を参照するのが筋ではないでしょうか。
龍樹は何が「不生不滅で涅槃の如し」と言ったか?

sems kyi spyod yul gzugs la sogs pa dag ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs
「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」

don dam par dngos po thams cad ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs pa yin na
「勝義としては一切有は不生不滅の法性であって涅槃と等しいならば」

『無畏論』を参照する限り、龍樹の意図は、「法のあり方」が不生不滅と言いたかったのではなく、『般若経典』に基づいて、色などの「一切有」が不生不滅と言いたかったことになります。(『般若心経』はもっと進んでサルヴァ・ダルマ-(一切法)が不生不滅だと言っていますが)

詩偈という形式の制約上、分かりにくいですが、『無畏論』に依る限り、
anutpannAniruddhA hi nirvANam iva dharmatA
というのは、「涅槃の如く、不生不滅の法性である」と読むのが正しい読みだと思います。

【2021/10/28(Thu) 11:09:46 投稿者により修正されました。】


 

  [No.23116] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 11:13:22

pocketさん、ありがとうございます。

> sems kyi spyod yul gzugs la sogs pa dag ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs
> 「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」
>
> don dam par dngos po thams cad ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs pa yin na
> 「勝義としては一切有は不生不滅の法性であって涅槃と等しいならば」
>
> 『無畏論』を参照する限り、龍樹の意図は、「法のあり方」が不生不滅と言いたかったのではなく、『般若経典』に基づいて、色などの一切有は不生不滅と言いたかったことになります。(『般若心経』はもっと進んでサルヴァ・ダルマ(一切法)が不生不滅だと言っていますが)
>
> 詩偈という形式の制約上、分かりにくいですが、『無畏論』に依る限り、
> anutpannAniruddhA hi nirvANam iva dharmatA
> というのは、「涅槃の如く、不生不滅の法性である」と読むのが正しい読みだと思います。


ここのところを教えていただきたいのですが、
「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」という言葉は、
仏陀の『色等は、生じたもので滅するものである』という理法と正反対のように思えるのですが、
どういう意味なのでしょうか。


 

  [No.23118] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:pocket  投稿日:2021/10/28(Thu) 12:51:56

ショ-シャンクさま

> 仏陀の『色等は、生じたもので滅するものである』という理法と正反対のように思えるのですが、
> どういう意味なのでしょうか。

これは私の解釈であるという事を最初にお断りしておきますが、
刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。

なぜかというと、龍樹の『宝行王正論』4:86に以下のようにあるからです。


> anutpAdo mahAyAne pareSAM zUnyatA kSayaH |
> kSayAnutpAdAyoz caikyam arthataM kSamyatAM yataH ||
> 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。


不生(生じないこと)と滅(尽きること)は同じ意味というのは、よく分からないのですが、アジタミトラ註によると、滅(クシャヤ)とは刹那滅(クシャナ・バンガ)のことと注釈されているので、不生=刹那滅ということになります。


> skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。


このようなわけで、一瞬のうちに生滅変化するのだから色という概念すら成り立たない、という意味で「色は生じることなく滅することもない」というのだろうと思っています。

【2021/10/28(Thu) 13:07:05 投稿者により修正されました。】


 

  [No.23119] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 15:40:22

pocketさん、ありがとうございます。

> 刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。
>
> なぜかというと、龍樹の『宝行王正論』4:86に以下のようにあるからです。
>
>
> > anutpAdo mahAyAne pareSAM zUnyatA kSayaH |
> > kSayAnutpAdAyoz caikyam arthataM kSamyatAM yataH ||
> > 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。
>
>
> 不生(生じないこと)と滅(尽きること)は同じ意味というのは、よく分からないのですが、アジタミトラ註によると、滅(クシャヤ)とは刹那滅(クシャナ・バンガ)のことと注釈されているので、不生=刹那滅ということになります。
>
>
> > skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> > 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
>
> このようなわけで、一瞬のうちに生滅変化するのだから色という概念すら成り立たない、という意味で「色は生じることなく滅することもない」というのだろうと思っています。



刹那滅の考えは、確か、部派、特に説一切有部において、無我説と因果説を両立させるべく、刹那滅の心の相続という理論が始まりだと思います。
心でなく、色についても刹那滅と考えるのですね。

色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?


> 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。

ここは、わからないではないのです。間違っているかもしれませんが。
原始仏教においては、生じ滅することが尽きたとき寂滅となりそれをもって安らぎ(涅槃)、つまり不生なるものとするので、不生も滅も空性であるという言葉は理解できる気がします。


> 刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。

とおっしゃっているということは、
心が刹那滅だから、ということでしょうか。
それとも、色が刹那滅だから、ということでしょうか。


 

  [No.23123] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/29(Fri) 06:36:04

pocketさま サンキュウです。
pocketさまが正しいと思います。
>
> sems kyi spyod yul gzugs la sogs pa dag ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs
> 「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」

心の領域(境)である色などは、不生不滅という法のあり方であって、涅槃と等しい。

「法性」の語は、ブッダの文脈では、文の最後にきます。「~というのが、ダルマタ-である(法のあり方である)」となって、常に述語の位置に置かれるのです。
「空性」という語の使い方と同じです。

ところが、語順を無視するわたしたちは、「法性とは、~~である」というように、主語に、それをもってきてしまうのです。なぜなら、それも煩悩のしわざなのですが、そこに気づいた人は龍樹くらいでしょう。

「法のあり方」を言うならば、一切法は不生不滅である、というので、正しいです。

> don dam par dngos po thams cad ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs pa yin na
> 「勝義としては一切有は不生不滅の法性であって涅槃と等しいならば」
>
> 『無畏論』を参照する限り、龍樹の意図は、「法のあり方」が不生不滅と言いたかったのではなく、『般若経典』に基づいて、色などの「一切有」が不生不滅と言いたかったことになります。(『般若心経』はもっと進んでサルヴァ・ダルマ-(一切法)が不生不滅だと言っていますが)
>
> 詩偈という形式の制約上、分かりにくいですが、『無畏論』に依る限り、
> anutpannAniruddhA hi nirvANam iva dharmatA
> というのは、「涅槃の如く、不生不滅の法性である」と読むのが正しい読みだと思います。

(法は)不生不滅であるのだが、(そして)実に(それは)涅槃の如くであるが、(それが)法性ということである。

意訳すると、こんな感じかな。
文の構造としては、不生不滅が女性形で、ダルマタ-に合わせてあるので、主語に「法性」をもってきて、述語に「不生不滅」をまわしてしまいますが、実際には、法のあり方を言うわけですから、法がどうであるのか、について語るものだと、わかっていなければなりませんね。

そして、そうなると、当然ショ-シャンクさまのご質問がやって来ると。。
> 仏陀の『色等は、生じたもので滅するものである』という理法と正反対のように思えるのですが、
> どういう意味なのでしょうか。

pocketさまは、不生を刹那滅とする解釈をあげてくれました。『宝行王正論』4.86を引いてくれました。これには、ヴァリエ-ションもあると思いますが、ここからは、わたしの考えをご説明します。

「法性」なので、法のあり方を問題にしていることは、まずおさえねばならないと思います。

「色」「受」「五蘊」など、ブッダが苦しみをなくすための教えに用いたことばは、みな法(ダンマ、ダルマ)と言われます。
そのダルマについて、述べているのです。『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.15、有名な経典です。

===
5.正しい智慧をもって、如実に、世間における集起(samudaya)を見るものには、世間において『無いこと(natthitA)』はない。
カッチャ-ヤナよ、正しい智慧をもって、如実に、世間における滅(nirodha)を見るものには、世間において『有ること(atthitA)』はない。
6.カッチャ-ヤナよ、世間の人々は、多くは、そのやり方に執着し、こだわり、縛り付けられている。
彼は、このようなやり方に執着すること、心のよりどころに固執し煩わされることに近づかず、執着せず、『わたしには、自己はない(自己はある)』と、生ずることがない。
生じてきている苦を『生じている』と、滅してきている苦を『滅している』と、疑うことなく、まどうことがない。彼にとって、他によることなく、智慧が、まさしくここにある。このかぎりのものが、カッチャ-ヤナよ、正見である。
===

今、この経典で考えねばならないことは、苦しみが生じてきたら「生じている」と見ることです。また、苦しみが滅してきていれば、「滅している」と見ることです。

さて、この場合、見るべきことがもう一つあります。「苦しみ」というダンマ(ことば)が生じてきている場合です。その場合も、「生じている」と見るのでしょう。滅する場合も同じです。では、その法それ自体は、どうなっているのでしょうか。法に自性はない、としてもよいかもしれません。カッチャ-ナに語った経典によれば、中道によってみることができます。

法そのものとしては、法それ自体のあり方としては「有ること(atthitA、アッティタ-)」※にもよらず「ないこと(natthitA,ナッティタ-)」にもよらない、ので、「法のあり方」そのものとしては、生滅を説くとも言えますし、中道の言い方を取りたいのであれば、法のあり方は不生不滅だとということも言えるかと思います。

※ 「有ること(アッティタ-)」や「無いこと(ナッティタ-)」も、存在のあり方、と言えます。「有ること」とは、この世のものが「有る」という状態にあることをいいますし、「無いこと」はその逆の考え方です。「~タ-」を用いた抽象化の表現です。


これは、その人それぞれの智慧によります。
ブッダが「彼にとって、他によることなく、智慧が、まさしくここにある。このかぎりのものが、カッチャ-ヤナよ、正見である」と語るとおりです。

ですから、わたしは、生じてきているものを見るとき「滅していない」と見れば、不滅が出てくる、と思いました。また、逆に、滅していっているものを見るとき「生じているのではない」と思えば、不生が出てきます。こういう風にして、不生不滅を見て行くこともできます。

また、pocketさまのご紹介のように、刹那滅から不生を導く人もいるようですね。

また、もう一人は、道元です。前にあげましたが、「へえ、こう考えるんだ?!」と驚いたのが、たき木の喩えです。もう一回あげます。

=====
たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
=====

自然現象と、それを表すことば(法)の違いをはっきりと分けて語っています。すごいですね。「生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ」とあって、こんな風にとらえるとは、とびっくりしました。また、「死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ」も、なるほどというところです。道元も、「仏法のさだまれるならひなり」といい、「法輪のさだまれる仏転なり」と言っていて、仏法の展開の仕方なのだと、よくわかっていますよね。『法のあり方』だと知っているのです。おそるべし!道元

ブッダのことばを、それぞれ、智慧によって受けとっているのです。

そして、これもまた「ブッダの教え」なのです。「他に依ることなく、智慧が、まさしくここにある」という、ここが、仏教では一番大事かもしれません。

自分の智慧によりなさい、という、この教えによって、仏教のダイナミズムが生まれてくるのだと思います。誰も智慧を使わなくなって、ブッダのことばにすがりついて、「こう言った」とがんじがらめに守るとき、それは、もはやブッダの教えではない、ということだと思います。」

【2021/10/29(Fri) 08:43:18 投稿者により修正されました。】


 

  [No.23411] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/15(Mon) 09:02:56

pocketさま おはようございます。

おお、原文がやってきた。

> lokasamudayaM kho, kaccAna, yathAbhUtaM sammappaJJAya passato yA loke natthitA sA na hoti. lokanirodhaM kho, kaccAna, yathAbhUtaM sammappaJJAya passato yA loke atthitA sA na hoti.
>
> > 生じてきている芽を見ているとき、伸びていく勢いを感じていると、「滅する」という意識はおきません。ここで、「不滅」がでてきます。意識としては、ブッダに倣って考えているわけです。<生じてきていること>によって<滅していない>が出てくる。
> > そして、逆も言えるので、滅に対しては「不生」が得られます。

おそらく、龍樹の発想と同じかもしれないと思っているのは、『無畏論』の最初の方に、

「不滅不生」の順で、八不を説きはじめていることです。そして、不滅の理由が、不生だからとなっています。
この語順に意味があるだろうとは見ていますが、ちょっと謎です。
>
> ここから大乗的な見方になりますね。
> 芽を仮設することなく、因縁の変易を見ている時、「滅する」という想いも「生じる」という想いもないのではないですか。

結果的には、そうなって「不生不滅」と中道が出てきますが、最初から、中道をひとくくりにしているのではなく、どこかに、それこそ「法輪の仏転」を見たいと思って、あれこれ探しているのです。必ず、あるはずなのだ、という思いがあります。
龍樹も見たし、道元も見てますからね。わたしも見なくちゃというところです。

> 「生じている芽」と言った途端に「芽」という想いが生じてくることになります。「あるということ」(astitA)があることになるし、「ないこと」(nAstitA)もあることになってしまいます。

いや、それはどうかな。。「芽」は仮設ですから。「有ること」は、「(常に)有ること」を見る見方であり、それは出てくる道理はありません。「生じてきている」と見ているとき、それを「ある」と見ても、「常に有る」(アッティタ-)と見ているわけではない。
そういう意識で、語っているのがブッダなのだから、そう取らなくちゃ。
それに「有ること」と「無いこと」という見方は同時には起こらない。

例えば、芽が消えても、実は一切は原因の中に既にひそんでいると、因中有果をとれば、サ-ンキヤ的なプラクリティという原理に行きつきます。
だから、現象的にあってもなくても「有ること」「無いこと」という見方をとることができます。そして、それをしない!と、ブッダは明言しています。

ブッダの中道にも、そこを見ないといけない。


> 故に、不生不滅はセットではなくてはならず、芽は生じるのでもなく滅するのでもなく、空性であると言わねばならないのではないですか。『般若心経』のように「芽は空というありかた(空性)である」と。
> どうでしょうか。

いや、ちゃうな。pocketさまの述べるとおりにすると、空性という言葉の中に、因中有果も因中無果も含まれそうです。微妙に意識を変えるだけで、因中有果的にも転べるし、無果的にも転べる。空性は、こうして、相手の批判として、大乗は無を説く、と理解されてしまうことになります。
そうではない!
空性を展開すると、即座に縁起がでてこなくてはならない。常に、縁起に絡んでものの見方が復活してこなくてはなりません。そのためには、道元のように考えなくてはならないし、龍樹のように考えなくてはならないし、ブッダのように考えなくてはならない。

ブッダがわからんですね。ブッダの見方には、何かまだほかにあるような気がします。
まあ、道元も,龍樹もわからんといえばわからんですが。こういうのを密意というんでしょうね。

> > 「有ること」と「無いこと」に近づかないとすると、中道としては、生には不滅をあててもよく、滅には不生をあててもよい、と縁起的に出てきます。
>
> 有無に近づかないなら、生も滅も見るべきではなく、まさに色即是空空即是色と見るべきだと愚考します。

「空」とやっちゃうと、時間が捨象されるので、それはそれでいいんですが、『中論頌』の発想とはずれます。「中道」を経て、「空」にいきます。

そして、空に行くなら、それはそれで、「色即是空空即是色」「色不異空空不異色」はとらえないとまずいだろうと思います。言語が壊れますね。

> 薪という言葉(法)に先があり後があるでしょうか?道元が見ているのは普遍的な薪一般ではなく、そこの薪でしょう。そこで燃えている薪という言葉(法)に先があり、後があるとするなら薪という言葉は消えることがなくなってしまいます。灰も同様です。

「さきありのちあり」とあって、ひらがなで書かれている。ここは、その現象を指しています。薪は法であり、法位がある。ここは一般ととらえてかまわない。しかし、現象的には、一般語を用いて、この眼の前の現象を表さなくてはならない。薪に「あとさき」あっても、法としての薪は前後際断されている。つじつま合ってます。

> しかし、道元はそうは言っていませんね。また普通なら「薪と火を縁として灰が生じる」と言わなければならないところです。う-ん、ちょっと論理が甘い気がします。

もちろん、その現象の表現方法をいおうとしているのではなく、言語論を展開しているので、現象を表すとき、どう見て、どう言語づけるか、という言語の理論として語っていると見ています。つまり、十二支縁起の「生に縁って死がある」というテ-ゼを問題にしているのです。

実は、これは、ただの現象では有りません。現象と見ても理解できるので、何も説明されません。しかし、よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。
ここは、「界」の話をしていると見ないと、理屈がわからないことになります。道元はわかっていると思います。そこを意識しています。現象から、スルッと、理論的な話に移行していると思います。

> 「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。」というのはまさに未来から現在に来たって、過去に落謝していく様に他ならないでしょう。

そう読んだのかっ!
どこがアビダルマ的なのか、全然ピンと来てませんでしたが、なるほど、そう読めばそういう読みもできるのかなぁ。

道元をわたしが読むと、こうです。
たき木がハイとなっていく、「さきとあと」のある現象を説明しようとしても、薪や灰という語は法としてあるのであって、前後は際断され、法位というものがあって、語りにくい。

> > だから「生の死になる」とはいってはならない。(法としては)「生に縁って死がある 」と表現しなくてはならない。これが法を説くときのブッダの定めたことだ(法輪のさだまれる仏のならいなり)ということです。「生に縁って死がある」は、不生というのだ、とあります。「生に縁って死がある」は生が死になるわけではないから「不生」とみよ、と、道元は受けとめています。
>
> その「生に縁って死がある」が道元にはないです。生は生、死は死というように見えます。

そうそう、それはわたしが見つけました。前後際断されているから、生は生で、死は死です。前後際断されているところまで、語りが進んでいます。

> 生が死にならないので不生、というのは部派とも大乗とも違いますね。

そうですよね。びっくりしましたね。しかし、あってますね。

道元がすごいのは、ブッダの理論を只管打坐で得て、しかも、それを自分で言語化できることです。
道元は「ブッダは、言語を用いて自分の得たものを理論化した」と見てとっているということです。

========「聖求経」(MN26)
比丘たちよ、わたしは、みずから生まれるもの(ジャ-ティ・ダンマ)でありながら、生まれるものの中に危難を見て、生まれることのない(アジャ-タ)無上の瑜伽安穏である涅槃を求めつつ、生まれることのない無上の瑜伽安穏である涅槃を得ました。
=============

生が死になってない境地を得たブッダは無上の涅槃にいきましたね。生から、ちゃんと不生が出てきています。ブッダの得た核心を、語りきっている道元は、すごいなあと思わざるをえません。
>
> 三世実有を大乗的に解釈したように見えますね。。。生が死にならないので不生というのがまさに道元オリジナルという感じで。龍樹とはまったく異なる論理だと思います。

大乗的展開ではなく、ブッダの説そのものを語っているように、わたしには見えてしかたありません。

> 私は違うものを見ました。色々、論点を挙げてみました。

pocketさまの論点には、答えられるかなと思っています。道元的には、矛盾はなく、ブッダをそのまま得ています。25歳くらいで得たんですよね。そして、中国から帰ってきたと。

もっと聞かれても、話せそうな予感がする。。


 

  [No.23500] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:pocket  投稿日:2021/11/26(Fri) 21:24:36

石飛先生、お久しぶりです。。。
どういうお返事をしたものかと思って色々考えているうちに時間が過ぎてしまいました。。。

> 「有ること」は、「(常に)有ること」を見る見方であり、それは出てくる道理はありません。「生じてきている」と見ているとき、それを「ある」と見ても、「常に有る」(アッティタ-)と見ているわけではない。
> そういう意識で、語っているのがブッダなのだから、そう取らなくちゃ。

先生の「アッティタ-」というのは「常に有る」(アッティタ-)という意味である、ということだったんですね。
ふぅむ、それならはじめから仰ってくれたらよかったのに・・・
つまり無自性的に「あること」を否定しているわけではないと。
ゲルク派的に常識的ですね。


> それに「有ること」と「無いこと」という見方は同時には起こらない。

「有りかつ無い」ということはない、というならそうでしょうね。



> > 故に、不生不滅はセットではなくてはならず、芽は生じるのでもなく滅するのでもなく、空性であると言わねばならないのではないですか。『般若心経』のように「芽は空というありかた(空性)である」と。
> > どうでしょうか。
>
> いや、ちゃうな。pocketさまの述べるとおりにすると、空性という言葉の中に、因中有果も因中無果も含まれそうです。微妙に意識を変えるだけで、因中有果的にも転べるし、無果的にも転べる。空性は、こうして、相手の批判として、大乗は無を説く、と理解されてしまうことになります。
> そうではない!
> 空性を展開すると、即座に縁起がでてこなくてはならない。常に、縁起に絡んでものの見方が復活してこなくてはなりません。そのためには、道元のように考えなくてはならないし、龍樹のように考えなくてはならないし、ブッダのように考えなくてはならない。

龍樹の八不の語りからは、縁起が見えてこないですね
いきなり不滅不生から始まりますから

> ブッダがわからんですね。ブッダの見方には、何かまだほかにあるような気がします。
> まあ、道元も,龍樹もわからんといえばわからんですが。こういうのを密意というんでしょうね。

あら、先生はかなり以前にブッダの言わんとしてることはだいたい理解できた、と仰っていたような

> > > 「有ること」と「無いこと」に近づかないとすると、中道としては、生には不滅をあててもよく、滅には不生をあててもよい、と縁起的に出てきます。
> >
> > 有無に近づかないなら、生も滅も見るべきではなく、まさに色即是空空即是色と見るべきだと愚考します。
>
> 「空」とやっちゃうと、時間が捨象されるので、それはそれでいいんですが、『中論頌』の発想とはずれます。「中道」を経て、「空」にいきます。

不滅=生、不生=滅と機械的に完全に置き換える解釈が可能ならそうでしょうが、
ではなぜ龍樹は生滅ではなく八不という形式で説いたのか理解できなくなります。



> > 薪という言葉(法)に先があり後があるでしょうか?道元が見ているのは普遍的な薪一般ではなく、そこの薪でしょう。そこで燃えている薪という言葉(法)に先があり、後があるとするなら薪という言葉は消えることがなくなってしまいます。灰も同様です。
>
> 「さきありのちあり」とあって、ひらがなで書かれている。ここは、その現象を指しています。薪は法であり、法位がある。ここは一般ととらえてかまわない。しかし、現象的には、一般語を用いて、この眼の前の現象を表さなくてはならない。薪に「あとさき」あっても、法としての薪は前後際断されている。つじつま合ってます。

と、石飛先生がそこまで断言できる根拠がいまいちよくわかりません。

> > しかし、道元はそうは言っていませんね。また普通なら「薪と火を縁として灰が生じる」と言わなければならないところです。う-ん、ちょっと論理が甘い気がします。
>
> もちろん、その現象の表現方法をいおうとしているのではなく、言語論を展開しているので、現象を表すとき、どう見て、どう言語づけるか、という言語の理論として語っていると見ています。つまり、十二支縁起の「生に縁って死がある」というテ-ゼを問題にしているのです。
>
> よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。
界(ダ-トゥ)ですか?
私も分かりません。oさまやおちゃらけさまやPLさまは分かっているのだろうか

> 道元をわたしが読むと、こうです。
> たき木がハイとなっていく、「さきとあと」のある現象を説明しようとしても、薪や灰という語は法としてあるのであって、前後は際断され、法位というものがあって、語りにくい。

法位とは何でしょうか。現象は変化しているのに頭の中だけでたき木を考えることでしょうか。それが「たき木の法位」?

> > > だから「生の死になる」とはいってはならない。(法としては)「生に縁って死がある 」と表現しなくてはならない。これが法を説くときのブッダの定めたことだ(法輪のさだまれる仏のならいなり)ということです。「生に縁って死がある」は、不生というのだ、とあります。「生に縁って死がある」は生が死になるわけではないから「不生」とみよ、と、道元は受けとめています。
> >
> > その「生に縁って死がある」が道元にはないです。生は生、死は死というように見えます。
>
> そうそう、それはわたしが見つけました。前後際断されているから、生は生で、死は死です。前後際断されているところまで、語りが進んでいます。

いや素直に読めばそう読めると思います。そして、道元において生と死の因果関係はよく理解できません。
前後際断されているからです。


> > 生が死にならないので不生、というのは部派とも大乗とも違いますね。
>
> そうですよね。びっくりしましたね。しかし、あってますね。

う-ん、あってるかなあ??
やっぱり奇妙な論理ですよ。

> > 三世実有を大乗的に解釈したように見えますね。。。生が死にならないので不生というのがまさに道元オリジナルという感じで。龍樹とはまったく異なる論理だと思います。
>
> 大乗的展開ではなく、ブッダの説そのものを語っているように、わたしには見えてしかたありません。

そ、う、ですか。。。う---ん
そうは思えないなあ。。。


 

  [No.23503] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:PL  投稿日:2021/11/27(Sat) 00:34:42

Pocketさま

どうも!げんきですか? 僕も興味を強く持っている話題が出てきたので、投稿しちゃいました。

> > よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
> > ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。
> 界(ダ-トゥ)ですか?
> 私も分かりません。oさまやおちゃらけさまやPLさまは分かっているのだろうか

難しいところですよね。もしよければ、久しぶりに、僕にも、pocketさまの疑問をぶつけてもらってもいいですか?
道元にまつわる話に限らず、石飛先生のおっしゃること全般、どれでもいいです。

もちろん、僕は各種の経論や梵語といった知識の類にはまるで暗いので、どうしても、論理的な内部整合性をつきつめていく、という方法に偏った説明になってしまうかもしれませんが。。。

ウィスキ-飲みすぎて眠いので今日は寝ます…。


 

  [No.23511] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/11/28(Sun) 06:53:46


よみとれなくても そこには 独座の 黄泉(冥) の ひと が いる


> > > 薪という言葉(法)に先があり後があるでしょうか?道元が見ているのは普遍的な薪一般ではなく、そこの薪でしょう。そこで燃えている薪という言葉(法)に先があり、後があるとするなら薪という言葉は消えることがなくなってしまいます。灰も同様です。

> > 「さきありのちあり」とあって、ひらがなで書かれている。ここは、その現象を指しています。薪は法であり、法位がある。ここは一般ととらえてかまわない。しかし、現象的には、一般語を用いて、この眼の前の現象を表さなくてはならない。薪に「あとさき」あっても、法としての薪は前後際断されている。つじつま合ってます。

> ・・・・・・・・・・・
> 生が死にならないので不生、というのは部派とも大乗とも違いますね。

そうですよね。びっくりしましたね。しかし、あってますね。

道元がすごいのは、ブッダの理論を只管打坐で得て、しかも、それを自分で言語化できることです。
道元は「ブッダは、言語を用いて自分の得たものを理論化した」と見てとっているということです。

========「聖求経」(MN26)
比丘たちよ、わたしは、みずから生まれるもの(ジャ-ティ・ダンマ)でありながら、生まれるものの中に危難を見て、生まれることのない(アジャ-タ)無上の瑜伽安穏である涅槃を求めつつ、生まれることのない無上の瑜伽安穏である涅槃を得ました。
=============

生が死になってない境地を得たブッダは無上の涅槃にいきましたね。
生から、ちゃんと不生が出てきています。
ブッダの得た核心を、語りきっている道元は、すごいなあと思わざるをえません。
> ・・・・・・・・・・・

>ブッダの説そのものを語っているように、わたしには見えてしかたありません。

そのもの とは そのもの によって、 語られていること
しかし
そのもの を 聞く者 には 聞くところに、 聞き方が起こされている
( 聞き方 は 薫習されている・積み重ねられている 選択・揀択 の 支配下にある )

そのもの ( = 如実 ) である ということ の あるところ( = ないところ )


そう見得ない者 に 対して ある 見得る=見える ということ
> ・・・・・・・・・・・
> > > しかし、道元はそうは言っていませんね。また普通なら「薪と火を縁として灰が生じる」と言わなければならないところです。う-ん、ちょっと論理が甘い気がします。
> ・・・・・・・・・・・
“ 論理 というとき ” の “ 論理 は どこにあるか ” ということ
そこを、 突き詰められないと 、 論理が甘くなる ( 迷路に入り込む )

甘い・からい と言うときの、 辛口の批評 が
唐辛子( 西洋 我 辛子 ) に 対処できている人には、
辛くないかの如く 、、、、 ( 辛い人の舌 を 辛さ が支配している )
からくも そのようにして、 「 論 」 を 開くが、
おしむらく は
開くところ に 開か せる(せとようとする) 対象 が いない ( ということ )

> > もちろん、その現象の表現方法をいおうとしているのではなく、言語論を展開しているので、現象を表すとき、どう見て、どう言語づけるか、という言語の理論として語っていると見ています。つまり、十二支縁起の「生に縁って死がある」というテ-ゼを問題にしているのです。

> > よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
> > ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。

> 界(ダ-トゥ)ですか?
> 私も分かりません。oさまやおちゃらけさまやPLさまは分かっているのだろうか

「 縁起 」 の 「 理 」 に 触れなければ、
“ 触れている 界(ダ-トゥ) ” には 触れること(能入)は出来ません

“ 「 縁起 」 に 触れる者 ” は
“ 「 如実 」 ・ 「 法 」 に 触れる ” 者 です

いくら触れていても、 「 論 」 にするには、
論じる土俵 を 「 世間 」 に 於いて 、 構築せざるを得ない
→ 「 構築された仏教思想 」 は 世間に起きている ・ あるように見えても「空」という


( 唯 )分かっている者 だけが 、 分かる者( 分かっている者 ) のことを 分かる

→ 「 唯仏与仏 」 、 「 乃能究尽 」


分かっていることを基にして 、 分からないことを 考えても
分かってはいないことの道 に “ 分かっていること ” が 落ちている



「 みちみち に みちをきくか な ひがん は な みちてしるとき そこにあり 」

華 の 中 にも ハクレンゲ



 

  [No.23507] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/27(Sat) 15:19:33

pocketさま おひさしぶりですか?

わたしとしては、そんなでもないのですが、ずいぶん考えていただけたようで、ありがたい限りです。

わたし自身としては、pocketさまとお話しするときは、はっきり言って「背伸び」してます。ちょっと、pocketさまにはむずかしく聞こえるような言い方をしたり、わかりやすく説明すべきところを端折ったりしているので、pocketさまは、「なんだろ、なんだろ」と思われているかもしれません。すみませんね。

> > 「有ること」は、「(常に)有ること」を見る見方であり、それは出てくる道理はありません。「生じてきている」と見ているとき、それを「ある」と見ても、「常に有る」(アッティタ-)と見ているわけではない。
> > そういう意識で、語っているのがブッダなのだから、そう取らなくちゃ。
>
> 先生の「アッティタ-」というのは「常に有る」(アッティタ-)という意味である、ということだったんですね。
> ふぅむ、それならはじめから仰ってくれたらよかったのに・・・
> つまり無自性的に「あること」を否定しているわけではないと。
> ゲルク派的に常識的ですね。

昔からそう言ってるんだけど。。
たとえば、自然界には、大木が生えています。木こりの人が、その木を切り倒して、丸太にします。そして、巧みな仏師が、その丸太を削って見事な仏像を作りあげたとします。
運慶や快慶の金剛力士像でもいいですね。
あまりに見事なので、みんなが「どうやって作ったのですか」と尋ねると、仏師は、「この丸太の中にはすでに仏さまがいて、わたしは、それを削り出しただけです」と答えたりするとき、そこには「有ること」というのがあります。

これも、微妙で、「有ること」は「いつも有ること」なのです。そのように見えるとき、その人には「有ること」というのがあるのです。

その人自身の「有ること」というのは、強く主張しなければ問題はないのですが、「これはそういうものとしていつでも有るのだ」という思いをもって主張するとき、「有ること(有性)」というのが際立ってくることになります。

「あらゆるところに神はおわす」とか、「原因の中にすでに結果は内在している」など、微妙に変化しつつ「有ること」は主張されていきます。

無自性的に「あること」を否定するとき、「無いこと」が出てきて、それも極端の一つとなりますね。そう言っているわけではないことは、中道という立場として見て行くことになります。

> > 空性を展開すると、即座に縁起がでてこなくてはならない。常に、縁起に絡んでものの見方が復活してこなくてはなりません。

> 龍樹の八不の語りからは、縁起が見えてこないですね
> いきなり不滅不生から始まりますから

八不の帰敬偈の中に、「プラティ-トヤ・サムトパ-ダ」の語は説かれています。
縁起が見えなくても、「縁起」について説かれるのだ、と知ることになります。

八不は、「縁起」を形容することばとしてあげられていることはわかりますから、それで十分だということでしょう。どのように「縁起」になっているのかは、『中論頌』が説明してくれています。

> あら、先生はかなり以前にブッダの言わんとしてることはだいたい理解できた、と仰っていたような

「だいたい理解できた」は、そこはそうです。
たとえば、一つの理論の枠組はとらえたとか、一つのやり方で通して理解できた、とか、そういうことは言えますが、それですべてが分かったかとなると、まだまだです。

一切の煩悩と向き合って、その理論を応用できるか、となると、全然ダメだなという感じがあります。

> 不滅=生、不生=滅と機械的に完全に置き換える解釈が可能ならそうでしょうが、
> ではなぜ龍樹は生滅ではなく八不という形式で説いたのか理解できなくなります。

機械的においてるのは、pocketさまだなあ。
生じてくるのを見て、滅ということはないな、と知るのは、一つの発見でありアイディアであり、智慧です。
聞いて機械的に「生=不滅」とするのは、智慧のある人ではなく、それを習った人であり、pocketさまにいたると「不滅=生」と置き換えたりもしています。
ル-ズだなあ。西洋論理の手法や、数理論理の手法を、なんの考察もなくイコ-ル(=)で結んで、その西洋論理の記号の意味で解釈している、ということに、まず、自分で気づかなくちゃ。「イコ-ル使えます」というのはわかったけど、自分でそれを入れた根拠は何ですか、と質問したくなります。

生の死になるといはざるは、法輪のさだまれる仏転なり。

これを、ブッダのことばの中に見いだしたのは、道元であり、道元智慧です。

「生=死」でもなく「生≠死」でもない。「生が死になるとはいわない」のがブッダの決まった言い方だ、ということです。ここに法の一つの「きまり」を、道元は見つけています。だから「不滅」というのだ、と受けとっています。道元智慧の結実ですね。
pocketさまが道元の説くところを了解して賛成すれば、「不滅」という法の使い方を道元と共有出来るわけです。

自分で見つけなさい、というのがまず一つ。
見つけたら、ダンマ・アヌダンマで、それを常に確かめ、そうかどうか実践しなさい、と言っています。

> > > 薪という言葉(法)に先があり後があるでしょうか?道元が見ているのは普遍的な薪一般ではなく、そこの薪でしょう。そこで燃えている薪という言葉(法)に先があり、後があるとするなら薪という言葉は消えることがなくなってしまいます。灰も同様です。
> >
> > 「さきありのちあり」とあって、ひらがなで書かれている。ここは、その現象を指しています。薪は法であり、法位がある。ここは一般ととらえてかまわない。しかし、現象的には、一般語を用いて、この眼の前の現象を表さなくてはならない。薪に「あとさき」あっても、法としての薪は前後際断されている。つじつま合ってます。
>
> と、石飛先生がそこまで断言できる根拠がいまいちよくわかりません。

書いてあるものを読んで、自分でもそのとおりになるかどうか、いつもやっているからです。だいぶ、手間暇かかっているんだけど、道元的理解を自分のものにしようとしています。
そして『正法眼蔵』のいろんなところで、道元が違ったこと言っていないか、確かめています。禅の人は、ミスしないですね。
>
> > よく見ていくと、十二支縁起は、その十二の一々が「界」といわれる領域を作って、そこでも、一つ一つ理論展開できるのです。
> > ショ-シャンクさまに話したけど、わかってもらえていない部分です。

> 界(ダ-トゥ)ですか?
> 私も分かりません。oさまやおちゃらけさまやPLさまは分かっているのだろうか

ご本人に聞いてみないとわかりませんが、わたしも強く意識してきたのは、最近ですね。
昔から気にはなっていました。ニヤ-ヤ学派を研究している頃から、潜在的にはいつもありましたが、そのことが意識にのぼったのは最近ですね。
>
>
> 法位とは何でしょうか。現象は変化しているのに頭の中だけでたき木を考えることでしょうか。それが「たき木の法位」?

たとえば、「薪」という法が、文の中で置かれる場所が「法位」ということかと思います。
また、頭の中だけで「薪」を考えるとき、頭の中で、「薪に火をつけると、薪は燃えて、やがて灰になるなあ」と考えたとします。ことばにはならなくても、薪と火と灰という意識があるとしますね。そうすると、そこに、頭の中で三つのことばがバラバラにあるのではなく、順序をもってつながります。薪があって、火をつけると、灰になる、という、薪・火・灰という意識の流れがあります。その順序が、法位だと思います。

それと現実のたきぎのひやはいは、状況によりいろいろですよね。
たき火をして焼き芋を作っているときは、灰の中から芋を探し、時に、まだ火が残っていたり、薪が残っていたりもします。その時、火と灰と薪は同時にありますが、もはや熾きになったような薪は、薪として認識していないかもしれないのです。灰の中から焼き芋を探すという意識が残ると、火や薪は、もはや意識にありません。


> > > その「生に縁って死がある」が道元にはないです。生は生、死は死というように見えます。
> >
> > そうそう、それはわたしが見つけました。前後際断されているから、生は生で、死は死です。前後際断されているところまで、語りが進んでいます。
>
> いや素直に読めばそう読めると思います。そして、道元において生と死の因果関係はよく理解できません。
> 前後際断されているからです。

====
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
===

なるほど、pocketさまの読み方で考えましょう。
「薪は薪の法位に住してのちありさきあり」なので、生は生の法位に住しており、うまれることとしぬこととの間には、さきやあとがある、というのもわかります。現象的には、人間はうまれてくるとのちにしんでいきます。その現象をあらわすのに、「生」や「死」をどのように用いたらよいのだろうか。
「生に縁って死がある」は、わたしが見つけたものなので、この縁起は今は忘れてください。道元は使っていませんから。

ただ、「生」は前後際断されている、というところだけ取るなら、現象的には、人間の生き死に関して「うまれてくるとしんでいく」とはするが、「生が死になる」というわけではない。つまり、生という法が死という法になると述べてはいないし、それを許す語法もない。
ただ、コ-ンダンニャが見いだしたように「生ずる性質(ダンマ)のものは滅する性質のものである」という‘法の眼’は絡んでくるだろう。

「生の死になるとはいわない」というのは、何だろうか。
『生』に生ずる性質があれば、滅する性質もあるだろうが、『生』に生ずる性質がなければ、滅する性質もないだろう。
で「生」は前後際断されており、生には生ずる性質はもたないから、「死になる」ともいわず、生という法は、「不生」である、と出てくる。

また、「死」という法についても、「しんだら、のちうまれる」とはブッダは言わないので、不滅が出てくる、ということになりますか。

> > > 生が死にならないので不生、というのは部派とも大乗とも違いますね。
> う-ん、あってるかなあ??
> やっぱり奇妙な論理ですよ。

生に生ずる性質を認めないのは、龍樹『中論頌』の第七章と同じですね。
「行くものは行かず」という、龍樹の言語論を、道元なりにつかんでいるというところではないかと思います。
それにしても、このあたり、すぐこんがらがりますね。

道元の語法では、仏法がちゃんと絡んできますね。薪と灰の個所は、語法(語の語り方)に関わってくるというのをつかんでいるところ、さすがだと思います。
龍樹でいえば、第七章のテ-マだと思いますし、また、第二章「去るものは去らず」という言語の論法とも絡みます。

わたしは、そう読んでいます。
>
> > > 三世実有を大乗的に解釈したように見えますね。。。生が死にならないので不生というのがまさに道元オリジナルという感じで。龍樹とはまったく異なる論理だと思います。

「生の死になる」と言わない、というところは、言語の使い方を述べていると思います。


 

  [No.23664] 年末ということでもろもろにお答えして 投稿者:o  投稿日:2021/12/27(Mon) 10:59:39

pocketさま、エム先生、Satya さま、ショ-シャンクさま、

色々答えられなくてすいません。無能なのでご寛恕願います。

pocketさま、苦楽、有無は二項対立、分別と捉えれば解決しませんか?

Satya さまのご質問ですが、日本でも六大縁起というものがあり、その一部を西洋人の学者でインド密教との類似を指摘している方がいらっしゃいます。そして、もちろんチベットにもあり、より緻密だと思います。
Satya さまがもし学びたいのでしたら、チベット文化研究所経由でラマ・ウゲン師に尋ねられるのがいいのではないかと思います。
行者なので相性がいいんじゃないかなあと思います。

ショ-シャンクさまのご質問になんと答えたらいいか、難しくて答えられませんでした。
要は、仏教はテクストから読んで分かるものではないということに集約されます。
法を伝えるのは聖者だと釈尊以来の伝統があります。
文献学と伝統の教えの違いは体感しました。
要は仏教と歴史的批判的文献学の解釈で、演奏者の教えと、批評家の解釈みたいなものと思います。

原典・テクストを読んで自分で解釈するというのは、プロテスタントの方法で、ルネサンス人文主義の影響を受けてプロテスタントが伝統でなく原典に帰れとしてきたものと思います。
さらに科学が成功すると、古典学は不要とされるようになり、その反動でマテリアルな文献学や歴史学言語学が生まれ、その中で植民地主義と結びつき、文献学等を用いて原典批判して、現状を否定し我々のが土人より分かってるから、我々が統治すべきというヤクザ論理に使われてきました。

仏教学はそういうもので、二百年以上探求して、文献収集、目録化、原典批判などマテリアルな面で成果をあげましたが、仏教の目的である苦の開放にはほとんど役に立たなかったことが、資料研究は緻密だけど、苦の軽減にもほとんど役にたたないということが分かるのではないでしょうか?

象徴的なのは、真宗プロテスタントの模倣したことで、効果がなくなったように見えることです。
これは清沢満之以降の『歎異抄』を強調した真宗教学に特徴的です。
同時代の七里恒順師などの教えが、妙好人を生み出していたことが、その反証に見えます。


最近流行したマインドフルネスやヴィパサナなどの方が、文献学より効果的ということにも現れていると思います。

ショ-シャンクさまのような優秀な方が、歴史的批判的なテクスト研究だけで、終わるのではないく、
ビルマチベットのような聖者をまだ出している伝統から直接学ばれることを願っております。

上手く言えませんが、正直な気持ちです。


 

  [No.23665] Re: 「論語と算盤」 投稿者:シャン坊  投稿日:2021/12/27(Mon) 11:53:57

o様
(そして、皆さま)

横から失礼します。
o様、長らくのご無沙汰、失礼しました。

「マニカナ」へのo様の投稿は、私がここに書き込まないでいた10年余りにも、
時々(本当に、時々ですが)拝見しておりました。

ただ、「修行のため、隠棲される」とお聞きしておりましたので、正直言って
「その後も、ネットに書き込まれるのは、一体どうしたことか?
(「牟尼」というように、沈黙を守られるべきではないか?)」
との思いも、禁じ得ませんでした。
(私のご無沙汰にも、ある意味で「その戸惑い」故の部分もあります。)

……しかし、今回の「皆さまへの誠実なご回答」を拝見し、
「なるほど、これは立派なことだ。“行者” には違いない」と痛感しましたので、
久しぶりのご挨拶を兼ねて、コメントさせて頂きました。
失礼は、お許し下さい。

> 要は、仏教はテクストから読んで分かるものではないということに集約されます。
> 法を伝えるのは聖者だと釈尊以来の伝統があります。
> 文献学と伝統の教えの違いは体感しました。
> 要は仏教と歴史的批判的文献学の解釈で、演奏者の教えと、批評家の解釈みたいなものと思います。

とおっしゃるのは、本当に、もっともです。

先に、 [No.23520]「 Re: 「人間が神となるために、神は人間となった」」などで、
若き日の「昔取った杵柄」で、キリスト教について「長広舌」をふるいました(笑)。

o様もご存じかと思いますが、
西方教会「伝統派」のカトリックでは「聖書と聖伝」を「信仰の依り所」としますが、
同じく「改革派」のプロテスタントでは「聖書のみ」とします。

それに対して、最近(といっても数年前ですが)、
Wikipediaのどこかで、
東方正教会では、“聖書も聖伝の一部” と見る」
と知って、「深く納得」しました。
……つまり、仏教でいえば、「経」「律」「論」(さらに、密教でいえば「儀軌」)などの「文献」も、
全て「師資相承の伝授」(=真実の意味での「ア-ガマ」)の一部と見る、ということだからです。

私も「全ての仏典」に対して、このように「信解」しています。

正直いって、以前、[No.23421] 「「マニカナ地獄」?!」以下で、
「マニカナの、この “言いたい放題” は一体、何ということか? まさに “地獄” か “煉獄” ではないか!」
とあきれかえっておりましたが(笑)、
その後、どこかでエム先生が「マニカナは煩悩サイト」とおっしゃっているのを拝見し、
なるほど、これが(親鸞やパトゥル・リンポチェのいう)「罪業深重の自覚」「自らの過失を突く教誡」というものか……
と、納得した次第です。

ともあれ、o様にも色々とご都合があるかと思いますが、
もし「縁が許せば」また、ご一緒に「仕事」をさせて頂ければ、幸甚です。

今年のNHK大河ドラマの主人公は、「日本資本主義の父」渋沢栄一でしたが、
その「論語と算盤」の精神は、
私も「一人の仏教徒ビジネスマン」として「お経と算盤」に読み替え、
「人生後半の範」としたいと願っております。

渋沢の訓言に「(金は)よく集め、よく散ぜよ(使え)!」というのがありますが、
確か、(伝)龍樹の『十住毘婆沙論』「分別布施品」にも、
「大いに儲けて、大いに布施せよ!」という言葉があったかと記憶しています。

既に指摘されているように、ブッダや龍樹の時代は「商業の発展と自由思想」の時代でもあり、
そうした背景に基づく「龍樹の言葉」とも取れますが、
渋沢も「大資本家」でありながら財閥を作らず、
日本における「社会福祉の父」の面もあるのは、
彼が「終生の範」とした『論語』によるものであると共に、
仏教から見れば、やはり「大乗菩薩道の一つの姿」ともいえるかもしれません。

ともあれ、o様の「誠実な回答への共感」と、
皆さまへの「年末のご挨拶」までに、書かせて頂きました。

……皆さま、よいお年を。



> pocketさま、エム先生、Satya さま、ショ-シャンクさま、
>
> 色々答えられなくてすいません。無能なのでご寛恕願います。
>
> pocketさま、苦楽、有無は二項対立、分別と捉えれば解決しませんか?
>
> Satya さまのご質問ですが、日本でも六大縁起というものがあり、その一部を西洋人の学者でインド密教との類似を指摘している方がいらっしゃいます。そして、もちろんチベットにもあり、より緻密だと思います。
> Satya さまがもし学びたいのでしたら、チベット文化研究所経由でラマ・ウゲン師に尋ねられるのがいいのではないかと思います。
> 行者なので相性がいいんじゃないかなあと思います。
>
ショ-シャンクさまのご質問になんと答えたらいいか、難しくて答えられませんでした。
> 要は、仏教はテクストから読んで分かるものではないということに集約されます。
> 法を伝えるのは聖者だと釈尊以来の伝統があります。
> 文献学と伝統の教えの違いは体感しました。
> 要は仏教と歴史的批判的文献学の解釈で、演奏者の教えと、批評家の解釈みたいなものと思います。
>
> 原典・テクストを読んで自分で解釈するというのは、プロテスタントの方法で、ルネサンス人文主義の影響を受けてプロテスタントが伝統でなく原典に帰れとしてきたものと思います。
> さらに科学が成功すると、古典学は不要とされるようになり、その反動でマテリアルな文献学や歴史学言語学が生まれ、その中で植民地主義と結びつき、文献学等を用いて原典批判して、現状を否定し我々のが土人より分かってるから、我々が統治すべきというヤクザ論理に使われてきました。
>
> 仏教学はそういうもので、二百年以上探求して、文献収集、目録化、原典批判などマテリアルな面で成果をあげましたが、仏教の目的である苦の開放にはほとんど役に立たなかったことが、資料研究は緻密だけど、苦の軽減にもほとんど役にたたないということが分かるのではないでしょうか?
>
> 象徴的なのは、真宗プロテスタントの模倣したことで、効果がなくなったように見えることです。
> これは清沢満之以降の『歎異抄』を強調した真宗教学に特徴的です。
> 同時代の七里恒順師などの教えが、妙好人を生み出していたことが、その反証に見えます。
>
>
> 最近流行したマインドフルネスやヴィパサナなどの方が、文献学より効果的ということにも現れていると思います。
>
ショ-シャンクさまのような優秀な方が、歴史的批判的なテクスト研究だけで、終わるのではないく、
> ビルマチベットのような聖者をまだ出している伝統から直接学ばれることを願っております。
>
> 上手く言えませんが、正直な気持ちです。

【2021/12/27(Mon) 12:04:40 投稿者により修正されました。】


 

  [No.23124] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/29(Fri) 08:10:41

pocketoさま ショ-シャンクさま おはようございます。
大乗と部派の違いが端的に表された次の表現、しみじみしますね。

> > anutpAdo mahAyAne pareSAM zUnyatA kSayaH |
> > kSayAnutpAdAyoz caikyam arthataM kSamyatAM yataH ||
> > 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。

生じたものが滅する世界では、考え方としては二つあると思います。

比丘たちに教えたように、解脱したとき、「滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない」と知る、というあり方です。

この場合、「滅(ニロ-ダ))」に力点が置かれるのは、輪廻から脱するということが目標だからだと思います。輪廻にもどらない、ということが大事です。

一方、大乗では、空によって世間を渡って行くので、菩薩たちは滅は見ません。涅槃の境地を得たという証はとりません。涅槃を脇に見て、そのまま行き過ぎて利他行を続けます。
「死王は見ない」と言われる生き方だと思います。現実には、端からみると輪廻しているように見える(?)でしょう。

その時、はっきり「輪廻にある」という生き方でもないと思います。菩薩たちは、ある意味、生死を超えているのであって、はた目には生まれて死んでいくように見えても、再び輪廻の世界に生まれているのではない、ということで「不生」を旗印にするのだと思います。ロングスパンで見てみるとこんな解釈になるかなと思います。

一方、ショ-トスパンの場合は、アジタミトラ註の如くですか。ここは、pocketさまの訳をお借りして

> > skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> > 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。

この説明では、空性を使っていますね。 また、密意にとったところがさすがですね。

> 「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。

ここは、実は、刹那滅というのが、厳密に言うと、矛盾(パラドックス)を引き起こしているとも言えるのですが、そういわないところが、仏教ですねぇ。ゼノンのパラドックスなどで扱われているものです。西洋論理では、パラドックスとして扱いますので。

おもしろいですねえ。


 

  [No.23127] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/29(Fri) 10:36:38

石飛先生、ありがとうございます。


> > > skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> > > 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
> この説明では、空性を使っていますね。 また、密意にとったところがさすがですね。
>
> > 「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
> ここは、実は、刹那滅というのが、厳密に言うと、矛盾(パラドックス)を引き起こしているとも言えるのですが、そういわないところが、仏教ですねぇ。ゼノンのパラドックスなどで扱われているものです。西洋論理では、パラドックスとして扱いますので。



そういえば、中学生の頃、アキレスと亀のことを知って得意になって言いふらしていたことがあります。

確かに刹那滅の考えは、それに似たところがありますね。

そもそも刹那滅は仏陀が言ったことではありません。

仏陀の死後、仏陀が言った諸法非我を諸法無我としてしまったため、『無我であるならば、因果の法で果を受ける主体がなくなってしまう』という矛盾を抱えてしまいました。
果を受ける存続する我を考えると、無我でなくなるからです。
そして考えに考えた末に説一切有部が生み出したのが刹那滅です。
心は刹那に滅するけど、すぐに生じて、また刹那に滅することを繰り返していて、連続しているように思えるけど、連続しておらず、業が相続されるだけ、という理論ですね。

かなり苦しい理論だとは思いますが、それでも、心の刹那滅はわからないでもないのです。
思考は、連続しているようで連続してないからです。
五官の感覚により生じ滅するからです。

しかし、それが、色の刹那滅となると、非常に疑問がわいてきます。
ですから私は
『色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?』
とお聞きしたのです。


 

  [No.23131] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/29(Fri) 14:11:47

ショ-シャンクさま

> > ここは、実は、刹那滅というのが、厳密に言うと、矛盾(パラドックス)を引き起こしているとも言えるのですが、そういわないところが、仏教ですねぇ。ゼノンのパラドックスなどで扱われているものです。西洋論理では、パラドックスとして扱いますので。
>

> 確かに刹那滅の考えは、それに似たところがありますね。

龍樹になりますと、実在論者の人と議論を起こしていると思います。

> そもそも刹那滅は仏陀が言ったことではありません。

龍樹も、この議論には、乗りませんね。因と縁の中に、「等無間縁」というのがありますが、これが刹那滅を説明するのに良いかもしれません。わたしは、専門ではないので、あまり詳しくはわかりません。龍樹は、等無間縁を認めていません。
>
> 仏陀の死後、仏陀が言った諸法非我を諸法無我としてしまったため、『無我であるならば、因果の法で果を受ける主体がなくなってしまう』という矛盾を抱えてしまいました。
> 果を受ける存続する我を考えると、無我でなくなるからです。

これ、よくある解説ですよね。矛盾を抱えていたのではないです。ブッダは縁起によって説明していますから。縁起を説けば、必然的に無我に行き、中道が出てきます。

有と無のどちらかに偏ると、矛盾を抱えてくるのです。「無我」は、アナ-トマンという語です。正確には、「我ならざるもの」と言ったのです。諸法は我ならざるものである、言い、その意味を三つに分けて語りました。

それは無我相経ほか、いろいろな経典に載っています。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html

無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。

> そして考えに考えた末に説一切有部が生み出したのが刹那滅です。

いや、もともと刹那滅に行く要素はあったのではないかと思いますが、どうなんだろう。

> 心は刹那に滅するけど、すぐに生じて、また刹那に滅することを繰り返していて、連続しているように思えるけど、連続しておらず、業が相続されるだけ、という理論ですね。

パラパラマンガの説明が模式的によく使われます。法有を取ると矛盾するんですよね。
だから、空を説かなくてはならなくなるけど、それが説けないわけですね、説一切有部ですから。

> かなり苦しい理論だとは思いますが、それでも、心の刹那滅はわからないでもないのです。
> 思考は、連続しているようで連続してないからです。
> 五官の感覚により生じ滅するからです。
>
> しかし、それが、色の刹那滅となると、非常に疑問がわいてきます。
> ですから私は
> 『色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
> この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?』
> とお聞きしたのです。


色の場合といっても、龍樹の『無畏論』においては、心の領域(チッタ・ゴ-チャラ)を述べていることがはっきりしています。心の対象としての色などについて語っています。
実在論をとっていないことに気をつけてください。(これは、ブッダから来ています))
認識されるものについて述べていると見てください。(これも、ブッダ以来同じです)

言い表されるべきものは消滅し、心の領域は消滅してしまう。法性というのは、
涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないことをいうのである。 (『中論頌』18.7)

先ほどの『中論頌』18.7を、少し変化させてみました。「ことをいう」を補ってみましたが、どうなのかな。もう少し考えてみます。

「心の領域」とあって、その対象が色などの法であることははっきりしているのだけれど、そう書いてしまうと、滅してしまうものについてあれこれ書くことになって問題の焦点がぼけると思ったかもしれませんね。

説一切有部の思想だと思いますが、龍樹は、『廻諍論』の中で非難しています。
たいへんだったと思います、龍樹は。
仏教の中にも実在論的な法有を説く者がいるし、非仏教の中には、ごりごりの実在論者たち(ヴァイシェ-シカ、ニヤ-ヤ)がいます。また、ちょっと見た目はわからなくても、サ-ンキヤのような転変説を説く者たちもいる、といったように、ふつうなら仏教は存続するなんて夢のまた夢だったと思いますが、よく生き残ったものだと思います。
心清浄と智慧の宗教ですね。


 

  [No.23134] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/30(Sat) 08:13:19

石飛先生、おはようございます。

> > 仏陀の死後、仏陀が言った諸法非我を諸法無我としてしまったため、『無我であるならば、因果の法で果を受ける主体がなくなってしまう』という矛盾を抱えてしまいました。
> > 果を受ける存続する我を考えると、無我でなくなるからです。
>


> これ、よくある解説ですよね。矛盾を抱えていたのではないです。ブッダは縁起によって説明していますから。縁起を説けば、必然的に無我に行き、中道が出てきます。


たぶん、ここが先生と私の違いなのでしょう。
私は、仏陀が言った縁起とは十二縁起を代表とする、苦の縁って起こる原因という意味だと考えています。
縁起を世界のありようにまで拡大したのは龍樹です。縁起⇒無我⇒中道となるのでしょうけど、私はそうは取りません。
無我というのは非我、一切の形成されたものを厭離したあとの形成されざるものについては無記、と考えています。
中道とは八正道のことだと考えていて、すべての両極端の中を取るという意味には取りません。

>
> 有と無のどちらかに偏ると、矛盾を抱えてくるのです。「無我」は、アナ-トマンという語です。正確には、「我ならざるもの」と言ったのです。諸法は我ならざるものである、言い、その意味を三つに分けて語りました。
>
> それは無我相経ほか、いろいろな経典に載っています。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html
>
> 無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> <これは、わたしのものである>
> <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> と見ることは、適当だろうか」
> 「適当ではありません、尊師よ」
>
> この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。

はい。その通りだと思います。
しかし、これでは無我ではなく、非我ではないですか?
無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか。
無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない、と見るのですから非我だと思います。



> > そして考えに考えた末に説一切有部が生み出したのが刹那滅です。
>
> いや、もともと刹那滅に行く要素はあったのではないかと思いますが、どうなんだろう。

たぶん最初に唱えたのは、説一切有部のような気がしますが。


> > 心は刹那に滅するけど、すぐに生じて、また刹那に滅することを繰り返していて、連続しているように思えるけど、連続しておらず、業が相続されるだけ、という理論ですね。
>
> パラパラマンガの説明が模式的によく使われます。法有を取ると矛盾するんですよね。
> だから、空を説かなくてはならなくなるけど、それが説けないわけですね、説一切有部ですから。
>
> > かなり苦しい理論だとは思いますが、それでも、心の刹那滅はわからないでもないのです。
> > 思考は、連続しているようで連続してないからです。
> > 五官の感覚により生じ滅するからです。
> >
> > しかし、それが、色の刹那滅となると、非常に疑問がわいてきます。
> > ですから私は
> > 『色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
> > この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?』
> > とお聞きしたのです。
>
>
> 色の場合といっても、龍樹の『無畏論』においては、心の領域(チッタ・ゴ-チャラ)を述べていることがはっきりしています。心の対象としての色などについて語っています。
> 実在論をとっていないことに気をつけてください。(これは、ブッダから来ています))
> 認識されるものについて述べていると見てください。(これも、ブッダ以来同じです)
>
> 言い表されるべきものは消滅し、心の領域は消滅してしまう。法性というのは、
> 涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないことをいうのである。 (『中論頌』18.7)
>
> 先ほどの『中論頌』18.7を、少し変化させてみました。「ことをいう」を補ってみましたが、どうなのかな。もう少し考えてみます。
>
> 「心の領域」とあって、その対象が色などの法であることははっきりしているのだけれど、そう書いてしまうと、滅してしまうものについてあれこれ書くことになって問題の焦点がぼけると思ったかもしれませんね。
>
> 説一切有部の思想だと思いますが、龍樹は、『廻諍論』の中で非難しています。
> たいへんだったと思います、龍樹は。
> 仏教の中にも実在論的な法有を説く者がいるし、非仏教の中には、ごりごりの実在論者たち(ヴァイシェ-シカ、ニヤ-ヤ)がいます。また、ちょっと見た目はわからなくても、サ-ンキヤのような転変説を説く者たちもいる、といったように、ふつうなら仏教は存続するなんて夢のまた夢だったと思いますが、よく生き残ったものだと思います。
> 心清浄と智慧の宗教ですね。


つまり、色の刹那滅を言ったのではなく、あくまでも、心の刹那滅を言ったということですね。


 

  [No.23136] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/30(Sat) 09:09:02

ショ-シャンクさま おはようございます。

> たぶん、ここが先生と私の違いなのでしょう。
> 私は、仏陀が言った縁起とは十二縁起を代表とする、苦の縁って起こる原因という意味だと考えています。
> 縁起を世界のありようにまで拡大したのは龍樹です。縁起⇒無我⇒中道となるのでしょうけど、私はそうは取りません。
> 無我というのは非我、一切の形成されたものを厭離したあとの形成されざるものについては無記、と考えています。

ふうむ、無為については無記ということですか。
『ウダ-ナヴァルガ』26.23-25の中で、安楽の境地(涅槃)をうたっています。

23 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、私はよく知っている。
25 来るもとも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することもない。―― それが苦しみの終滅であると説かれる。

さらに、まだ続きますが、このように無記ではなく、語っています。

> 中道とは八正道のことだと考えていて、すべての両極端の中を取るという意味には取りません。

そんなこと言われても、ブッダ自身が説いているのですが。。

如来所説経
http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html

中道は、八正道だとあります。


> > 無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> > <これは、わたしのものである>
> > <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> > <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> > と見ることは、適当だろうか」
> > 「適当ではありません、尊師よ」
> >
> > この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。
>
> はい。その通りだと思います。
> しかし、これでは無我ではなく、非我ではないですか?
> 無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか。
> 無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない、と見るのですから非我だと思います。

無常であり苦であり変化するものは、作られたものです。それすべてにわたって言えます。
一切について、<これはわたしではない>などが言えるなら、どこにも「わたし」はない、と知るでしょう。非我と無我は、結局は、同じことになると思います。個々に気をつけるか、最終的にまとめて言うか、という違いになるだけであって、徹底すれば、非我も無我も一つでしょう。
そうなると、最後に「わたし」という語も消えていくでしょう。

> > いや、もともと刹那滅に行く要素はあったのではないかと思いますが、どうなんだろう。
>
> たぶん最初に唱えたのは、説一切有部のような気がしますが。

残っている文献からすると、そうかもしれませんね。


> つまり、色の刹那滅を言ったのではなく、あくまでも、心の刹那滅を言ったということですね。

そうですね。「チッタ・ゴ-チャラ(心の領域)において」とあって、その具体例に「色など」があげられていますから。部派でなければ、刹那滅と必ずしもとる必要はないかと思います。

法性を語るのですから、とうぜん、法について語っていると分かります。法について語れば、心の領域だとわかります。


 

  [No.23137] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/30(Sat) 10:03:54

石飛先生、ありがとうございます。

> ふうむ、無為については無記ということですか。
> 『ウダ-ナヴァルガ』26.23-25の中で、安楽の境地(涅槃)をうたっています。
>
> 23 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
> 24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、私はよく知っている。
> 25 来るもとも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することもない。―― それが苦しみの終滅であると説かれる。
>
> さらに、まだ続きますが、このように無記ではなく、語っています。


一切のつくられたものがなくなったところが安楽である、というようには説いています。
一切が滅したところを寂静、苦の終焉として説いています。
あくまでも『何もなくなったところ』というように説いています。
ですから、後世、仏教は虚無論だとか、死んだら何もなくなるのが仏教だとか、何もない状態が仏教の理想の境地とか、勘違いされることが多くあります。
大乗仏典のように、悟りの世界をきらびやかな世界として説くことはありませんでしたし、それどころか、如来が死後存続するのかどうかについては無記としました。
如来の悟りの境地が死後も続くものかどうかさえ、説かなかったということです。
ただ、おっしゃるように、ところどころで、『無為はあるのだよ』というようなことは説いています。
ここは、断見にならないためには重要な言説だと思っています。




>
> > 中道とは八正道のことだと考えていて、すべての両極端の中を取るという意味には取りません。
>
> そんなこと言われても、ブッダ自身が説いているのですが。。
>
> 如来所説経
http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html
>
> 中道は、八正道だとあります。

もちろん、そうです。
ですから、中道とは八正道のことだと私は言っています。
快楽と苦行という両極端を捨てて八正道という中道を歩む、ということです。
それを、後世では、快楽と苦行だけではなく、なんでもかんでも、すべての両極端に関して当てはめて中道だ、というようになりました。
仏陀の使った意味からするとかなり拡大解釈だと思っています。


> > > 無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> > > <これは、わたしのものである>
> > > <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> > > <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> > > と見ることは、適当だろうか」
> > > 「適当ではありません、尊師よ」
> > >
> > > この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。
> >
> > はい。その通りだと思います。
> > しかし、これでは無我ではなく、非我ではないですか?
> > 無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか。
> > 無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない、と見るのですから非我だと思います。
>
> 無常であり苦であり変化するものは、作られたものです。それすべてにわたって言えます。
> 一切について、<これはわたしではない>などが言えるなら、どこにも「わたし」はない、と知るでしょう。非我と無我は、結局は、同じことになると思います。個々に気をつけるか、最終的にまとめて言うか、という違いになるだけであって、徹底すれば、非我も無我も一つでしょう。
> そうなると、最後に「わたし」という語も消えていくでしょう。


無我というのは、我(ア-トマン)がない、存続する主体がない、ということです。
ア-トマンとは存在の根源のことです。
根源に関しては、仏陀は言及を避け無記としました。
無記と『無い』は違います。
存続する主体が無いとなると、断見に陥ってしまいます。
有るとすると、今度は、永続する霊魂のようなものを想定してしまいます。常見です。
ですから無記なのでしょう。

『わたし』という限定されたものが消えていくのは、無我も非我も同じですが。


 

  [No.23140] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/31(Sun) 05:57:53


ショ-シャンクさま おはようございます。
>
> 一切のつくられたものがなくなったところが安楽である、というようには説いています。
> 一切が滅したところを寂静、苦の終焉として説いています。
> あくまでも『何もなくなったところ』というように説いています。
> ですから、後世、仏教は虚無論だとか、死んだら何もなくなるのが仏教だとか、何もない状態が仏教の理想の境地とか、勘違いされることが多くあります。
> 大乗仏典のように、悟りの世界をきらびやかな世界として説くことはありませんでしたし、それどころか、如来が死後存続するのかどうかについては無記としました。

無為については無記とおっしゃったので、『ウダ-ナ・ヴァルガ』を出してみたのですが、
これでは、語っているうちに入らないとお考えですね。
否定形で書かれたものは、説明に入らない、と思うのは、現代人の一般的な考え方ですね。
昔、わたしが指摘したことがあります。
「無我」も同じことです。「これは、わたしではない」などと見るのも、非我は説いたが無我は説いていない、というように限定して見るのは、否定形は説明には入らないという意識から出てきます。でも、そう考えると、その「非我」ということすら、理解がむずかしくなると思いますが。

> 如来の悟りの境地が死後も続くものかどうかさえ、説かなかったということです。
> ただ、おっしゃるように、ところどころで、『無為はあるのだよ』というようなことは説いています。
> ここは、断見にならないためには重要な言説だと思っています。

では、無為については無記ということではない、でよいですか。

> > 如来所説経
> > http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html
> >
> > 中道は、八正道だとあります。
>
> もちろん、そうです。
> ですから、中道とは八正道のことだと私は言っています。
> 快楽と苦行という両極端を捨てて八正道という中道を歩む、ということです。
> それを、後世では、快楽と苦行だけではなく、なんでもかんでも、すべての両極端に関して当てはめて中道だ、というようになりました。
> 仏陀の使った意味からするとかなり拡大解釈だと思っています。

快楽と苦行の両極端のほかに、『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.15では、カッチャ-ナに「有ること」「無いこと」の極端も説いていますね。また、『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.35では、「同じ」か「異なる」かの中道を説いています。

苦楽で、感受についての中道が教えられ、有無で、心についての中道が教えられ、同異で法についての中道が教えられたと見ることもできます。何でもかんでも中道と見るように、教えているのは、ブッダだと思います。

中道によって覚ったのであって、それは八正道だと説くとき、「正しい」ということの中身は「中道」を探して行きなさい、ということだと受けとるのは、弟子なら当然だと思います。ダンマ・アヌダンマ(法随法)ということがよく言われています。法に添ってその法を実践していくということで、法を押し広げるように実践していくことです。

応用能力を身につけろ、ということでしょう。「何でもかんでも」、そのやり方をやって行きなさいということだと思います。

> 無我というのは、我(ア-トマン)がない、存続する主体がない、ということです。
> ア-トマンとは存在の根源のことです。
> 根源に関しては、仏陀は言及を避け無記としました。

「我が無い」の「無い」にこだわっていると見るわけですね。

> 無記と『無い』は違います。
> 存続する主体が無いとなると、断見に陥ってしまいます。
> 有るとすると、今度は、永続する霊魂のようなものを想定してしまいます。常見です。
> ですから無記なのでしょう。

> 『わたし』という限定されたものが消えていくのは、無我も非我も同じですが。

それは、ことばでしかありませんから、無我でも非我でもいうでしょう。
「これはわたしではない」などと気づいていって、あるとき、「『わたし』というのはないんだなあ」と気づくかもしれません。そうなると、無我ということになるでしょう。

まあ、こんなのは、実はどうでも良いことで、「我ならざるもの(アナ-トマン、アナッタン)」ということばが、「無我」と訳されているのだ、と何度もいっているのですが。

ア-トマン、アッタンに対することばとして、アナ-トマン、アナッタンがある、という使い方です。それを、「我」、「無我」と訳しているのです。そしてその中身を
<これは、わたしではない>などの三種類で説明しているのです。無我も非我も説いています。
で、なぜ、「我が無い」という表現がないかといえば、主語に「アッタン」がこないのは、ブッダの認める法ではないからだ、と言えます。ですから、「わたし」「わたしのもの」などと言い換えて用いているとも言えます。
「私にとって、我がある(アッタ- メ-)」「私にとって、我がない(アッタ- ナ メ-)」のどちらにも近づくな、といっています。この「アッタ-」は、主語となっているわけではありません。英語でいえば、there is ~という構文のようなものです。

「カッチャ-ナ」経には、二つの読みがあって、第六結集版では「アッタ- メ-」を取り、PTS版では「アッタ- ナ メ-」を取っています。両方合わせて考えると、どちらにも近づくなととれます。

意図を汲んで理解することが大事で、表現にこだわることが大事なのではありません。

批判のことばも、定型的な批判の内容をご自分で信じ込んで、そこから「無記」にこだわっている、というのが、ショ-シャンクさまのなさっていることのように見えます。

実際、教えをよく知っている比丘になりますと、「わたし」という意識はないけれど、世間の表現に合わせて「わたし」と使ったり、また、ときには「『わたし』というのはありません」と説いたりすると思います。こだわりに合わせて語るかもしれませんが、こだわりがないところでは何も語らないでしょう。


 

  [No.23141] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/31(Sun) 07:33:59

石飛先生、おはようございます。

それでは、仏陀の言ったことへの私の考えをまとめてみます。

それまでのバラモン教では、ア-トマン、ブラフマンを中心に説いていました。
ア-トマンは人間存在の根源、ブラフマンは万物の根源です。
ヤ-ジュニャヴァルキヤが現れ、ア-トマンは主体であり対象物ではないから『非ず、非ず』としか言えないと言いました。

そして、仏陀が現れ、苦の苦の消滅を説きました。
苦の消滅、すなわち解脱、涅槃に赴かないものは無記としました。
仏陀は、苦と苦の消滅のみを説いてきたのであり、矢を抜く最上の人であったからです。
一切は苦である、と言いました。
その一切を厭離した後、如来が存続するのは永遠なのか、については無記でした。
ひたすら、一切を厭離すると、苦の消滅の境地があると言ったのです。
苦の消滅の境地を涅槃ともいい、寂静ともいい、無為とも言いました。
ほれ、涅槃を説いているではないか、無為を説いているではないか、無記ではないだろう、と言われればそうですが
涅槃が永遠だとか、無為の世界は死後も存続するのか、などはあくまでも無記であり、それにつき説くことはしませんでした。
一切を厭離し解脱したら、苦の消滅の境地がある、といっただけです。

仏陀は、存在の根源つまりア-トマン、ブラフマンに関しても、無記でした。
仏陀が言ったのは、『無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか』ということです。
私の本体が無いと言っているわけではなく、無常であり苦であるもの、つまり一切のつくられたものは私の本体ではない、と言っているのです。
つまり、諸法非我です。

これを、無我、という言葉にしてしまったために、我がない、ア-トマンが無い、主体が無い、ということになってしまいました。
無我説です。
しかし、存続する主体が無いのであれば、因果の果を受ける主体がないことになり、因果説が崩壊してしまいます。
そこで、心の刹那滅という、かなり苦しい理論が生み出されました。

仏教は、後世になればなるほど、バラモン教なるものを徹底的に排斥していきます。
最古層のスッタニパ-タでは、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と呼んでいるのに、後世にはそのような呼称は全くなくなります。
仏教とバラモン教との違いが極端に強調されていきます。
その中で、無我説、仏教はア-トマンは無いと説き、バラモン教はア-トマンを認める外道だ、となります。

私は、仏陀は『わたしの本体』については無記だったと考えています。
ただ『無常で苦なるものはわたしの本体ではない』と言っただけです。


中道については、次の投稿にします。


 

  [No.23143] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/10/31(Sun) 08:11:17


いくら投稿しても、 いくら考えようと、
考える自分 を 絶対化すれば、 考える意味はない

( 「 絶対化 など とは してはいない 」 という 絶対の言葉 )

そこから語ること に 、 「 無明 」 が 起き、 「 苦 」 が 起きる


「 苦 ではない 喜びの中・安楽の中 で 語っている 」 と言えますか ?

自らの 「 苦 」 に 人を引き込んではいませんか ?


人 としての 仕事( タスク ) は 「 奉仕 」 に ある

( 「 奉仕 」 から 語られねば
「 滅私 」 と ならず、 「 我利 」 となる )



> 言葉 は ( 行いとなっていくときに ) 成就の道にあります >
> “ 行いを伴わない ( 智慧に対応する ) 言葉 ” は 成就の道にはありません

成就してはいないこと の意味 は 成就するときに 全く違う意味となる
( 仏陀智慧 は 世間知 と 真逆にある )


> その 功徳 は ( その戒律の儀に於いて ) 道となり
> その 「 道 」 を 歩む者 は 智慧(戒律)の道 を 歩む者 である
> その 「 道 」 には 解脱がある ( 「 道 」 が 「 解脱 」 である )

如何なる道を歩もうと、 「 世間 」 に起きる道 は 「 顛倒 」 の道

何故、 出家 ・ 出離 が 必須の条件
としてある か ということ は
「 常見 」 ・ 世渡りの知恵 では 知ることが適わない


> > ( [No.23051] )
> > ショ-シャンクさまは仏教を理解するのに、あらかじめある「常識」を超えて理解したいとは思っていないようだ、と思います。

“ あらかじめある モノ ” というモノ は ない
ということ が、 解脱の 入口です
( “ない” という 常見 が あるない を 決める )
( ある・ない は 常見 です → 「 空性 」・「 空 」 )

( そこはまた別の機会に )

「 常識 」 とは、 薫習された 阿頼耶識 に 常住する 「 常見 」 です

「 色 」 は 無常である ということを 分からなければ、
五蘊仮和合 」 ということは、 分からない


いくら 言葉を繰り返しても “ アミタ ” には 届かない


 

  [No.23148] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/01(Mon) 05:29:04

ショ-シャンクさま たくさん読んでいらっしゃるのに、
仏教の理解は、何となく平板な印象ですね。

宮元先生の概説書の理解に似ています。

> 苦の消滅、すなわち解脱、涅槃に赴かないものは無記としました。
> 仏陀は、苦と苦の消滅のみを説いてきたのであり、矢を抜く最上の人であったからです。
> 一切は苦である、と言いました。

> ほれ、涅槃を説いているではないか、無為を説いているではないか、無記ではないだろう、と言われればそうですが
> 涅槃が永遠だとか、無為の世界は死後も存続するのか、などはあくまでも無記であり、それにつき説くことはしませんでした。

涅槃について無記であった、というのは、涅槃をそのようにとらえているショ-シャンクさまがいる、ということで、ブッダの説いたことをそのように理解しているということですね。

> 一切を厭離し解脱したら、苦の消滅の境地がある、といっただけです。

何となく、ただブッダに関する知識を得た、という印象ですね。
>
> 仏陀は、存在の根源つまりア-トマン、ブラフマンに関しても、無記でした。
> 仏陀が言ったのは、『無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか』ということです。
> 私の本体が無いと言っているわけではなく、無常であり苦であるもの、つまり一切のつくられたものは私の本体ではない、と言っているのです。
> つまり、諸法非我です。
>
> これを、無我、という言葉にしてしまったために、我がない、ア-トマンが無い、主体が無い、ということになってしまいました。

いや、もうわかってもらうのは諦めましたが、無我は「ア-トマンならざるもの」を訳したことばです。単なるショ-シャンクさまの誤解です。(「我がない」とも)「我がある」とも見ない、近づかないように、と述べています。

> しかし、存続する主体が無いのであれば、因果の果を受ける主体がないことになり、因果説が崩壊してしまいます。

この辺、宮元先生ですね。
ここには、大きな誤りがあります。「存続する主体がないのであれば」というところです。
ショ-シャンクさまも、ア-トマンを認める立場ということになりますね。
五蘊非我だと言うことで、そう考えたければそれでもよいのですが、なぜ、そう言ったのかが大事なところだと思います。

> そこで、心の刹那滅という、かなり苦しい理論が生み出されました。

縁起から出てきたものだと思います。主体を説けないから、困ったあげく出てきた、というのは、いくら何でも部派に失礼ではなかろうか、という気がします。

>
> 仏教は、後世になればなるほど、バラモン教なるものを徹底的に排斥していきます。
> 最古層のスッタニパ-タでは、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と呼んでいるのに、後世にはそのような呼称は全くなくなります。

ブッダは、自分のことを自分でそう言っています。

> 仏教とバラモン教との違いが極端に強調されていきます。
> その中で、無我説、仏教はア-トマンは無いと説き、バラモン教はア-トマンを認める外道だ、となります。

う-ん、問題だなあ。ことばだけにとらわれている感じがします。
>
> 私は、仏陀は『わたしの本体』については無記だったと考えています。
> ただ『無常で苦なるものはわたしの本体ではない』と言っただけです。

「わたし」「わたしのもの」「わたしの本体」について、ものごとを、そう捉えることを否定しています。

「無記だった」というところに、ショ-シャンクさまの理解があり、こだわりがありますね。


 

  [No.23150] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/11/01(Mon) 07:29:16


ショ-シャンクさま たくさん読んでいらっしゃるのに、
> 仏教の理解は、何となく平板な印象ですね。

平板 である
と 記される と 寂滅 に 思いが寄る


いくら読もうと、 いくら考えようと

自我の範疇 で 為されること は

「 他利 」 ト イエドモ・雖 ( イオウトモ イフ カギリ )

「 自利 ノ タメ ノ 理 」

ニ シカナラナイ ( ジリノ 道愚 デアル )



ヒトの道 ハ ヒト( 彼途 ) ニ アリ 足下ニモアル

彼方(途) の 思い が 此方 に 宿る

ナントモ コナッタ モン ダ ( コ-ナッタ トキ ニ ワレヲミル )

「 ワレヲミル モノ ニハ アナタノホウ ハ コ-ナタ ニアル 」

我を見る アホ- ( 彼方の法 ) を みる

「 ワレヲミルモノハホウヲミル ホウヲミルモノハワレヲミル 」


コナッタ モン ダ ( 摘 鼻 昏々 狐 )


 

  [No.23142] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/31(Sun) 07:58:30

続きます。
中道についてですが。

仏陀は、中道とは八正道のことである、と言いました。

快楽の道と苦行の道という両極端を取らず、中道たる八正道を行く、としました。

ここで苦行というのは、食を断つ断食行と息をしない止息行です。
つまり生命の否定です。生存の否定です。
生存欲に没頭する快楽の道と、生存欲を否定する苦行の道の両極端です。
この身体の生存の肯定否定の道によらず
智慧の道たる八正道による、としたのが中道の意味だと私は考えています。

有無については、
『生じているものであるから「無」とは言えない。滅するものであるから「有」とは言えない。』というほどの意味で、
有と無の中を取る、つまり生じたものは滅するということだと思っています。
確か、この中では十二縁起が説かれて八正道は説かれていません。

私は、仏陀がはっきりと中道として八正道を説いたのは、快楽と苦行の道の時だったと思っています。

それを、すべての二元対立する言葉に対して当てはめるのは拡大解釈だと思っています。

煩悩と菩提についても当てはめて解釈し、煩悩を滅するのではなく、煩悩即菩提だとなっていきました。
仏陀ははっきりと煩悩の滅によって解脱したと言っているのにもかかわらず。


 

  [No.23149] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/01(Mon) 06:28:59


続きをお聞きします。

> 仏陀は、中道とは八正道のことである、と言いました。
>
> 快楽の道と苦行の道という両極端を取らず、中道たる八正道を行く、としました。

> この身体の生存の肯定否定の道によらず
> 智慧の道たる八正道による、としたのが中道の意味だと私は考えています。

なるほど、「身体の生存」か。。
ア-トマンをもつ人は、生存にこだわりを持ちます。
智慧の道」というのは「八正道」を飾ることばですね。特に、内容があるわけでもないですね。


> 有無については、

> 有と無の中を取る、つまり生じたものは滅するということだと思っています。
> 確か、この中では十二縁起が説かれて八正道は説かれていません。
>
> 私は、仏陀がはっきりと中道として八正道を説いたのは、快楽と苦行の道の時だったと思っています。

五比丘に説いていますからね。かれらは、ブッダが贅沢に陥ったと思ってかれから離れていったわけですから、かれらのために中道は、苦楽の二辺を離れるものとなっています。「如来所説」経は初転法輪の経典です。

> それを、すべての二元対立する言葉に対して当てはめるのは拡大解釈だと思っています。

ブッダは、聞かれたことに対して答えているのです。「中」を説いているときは、相手が「中」をとれないから、訂正していたり、詳しく説明していたりしているのであって、「中」の中身を具体的に説明しているのです。ブッダは、世間話をしているわけではないので、八正道(実践道)だと、聞いている人は思うと思います。

でも、ショ-シャンクさまのことばは、ショ-シャンクさまの思いをよく表していると思います。
とにかく、ブッダの教えを、教養として得ておきたいという人が得るところのものだ、という感じがあります。

> 煩悩と菩提についても当てはめて解釈し、煩悩を滅するのではなく、煩悩即菩提だとなっていきました。
> 仏陀ははっきりと煩悩の滅によって解脱したと言っているのにもかかわらず。

ショ-シャンクさまの中道と八正道の理解から来る結論ですね。

この「中道」「八正道」ということばが何のために説かれたのか、ショ-シャンクさまは、すっかり忘れてしまっているようだ、と思います。『スッタニパ-タ』からです。

811.
聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。

813.
浄められた者は、見たことや聞いたこと、あるいは、考えた諸々のことをもとにして思いめぐらすことはありません。他のものによって清らかになることを求めることはありません。かれは、貪ることもないし、貪りを離れていることもありません。


 

  [No.23151] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/11/01(Mon) 07:32:56


> 「智慧の道」というのは「八正道」を飾ることばですね。特に、内容があるわけでもないですね。

智慧の道」 も 「八正道」 も 飾ることばですね

身を飾って も 身は 「 五蘊仮和合 」
仮の内容 以外の内容がある わけでもない

( 分けることが出来ない、 分けられない構築思想 )
> ア-トマンをもつ人は、生存にこだわりを持ちます。

ア-トマン が持つ アナ-トマン思想

アナッタン の 声 を アナッタ が 聞く
彼ナタ で 聞く
> > しかし、存続する主体が無いのであれば、因果の果を受ける主体がないことになり、因果説が崩壊してしまいます。
> この辺、宮元先生ですね。
> ここには、大きな誤りがあります。「存続する主体がないのであれば」というところです。
> ア-トマンを認める立場

> う-ん、問題だなあ。ことばだけにとらわれている感じがします。

言葉にとらわれている 自分に とらわれている

> 「無記だった」というところに、ショ-シャンクさまの理解があり、こだわりがありますね。

理解できない 「 理 」 があり、
理解しようとはしない 自我 が 起こされている



自縄自縛 デアリ
ジガ ナワ デアリ
ジガ ガ 縛シテ 自爆ス



誤チャ 雑ゼ ニシテ スマン ( スム ? )



 

  [No.23152] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/01(Mon) 07:37:24

石飛先生、おはようございます。

私は、仏陀を教養としたいと思ったことは一度もありません。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、何を言ったのか、を知りたいと思っているのです。

もちろん、その言葉は、すでに原始仏典として残されています。

しかし、今の仏教解説書が言うような意味で仏陀は言っているのか、と思って探求しています。

その結果、愕然としました。

仏陀は、今の巷の仏教解説書や仏教者が言っている意味で、語っていないことに愕然としたのです。
真逆な意味であることもしばしばなのです。

例えば、
『縁起』・・・先生はことあるごとに『これも縁起です』と言います。
しかし、仏陀が『縁起』というとき、十二縁起を代表とする苦の縁って起こる原因のことを指しています。
先生がいわれるような『これも縁起です』というような使い方をしている箇所は一か所もありません。
今の日本仏教では、『縁起』は龍樹から始まった『縁起』の意味で使っています。
仏陀が何故縁起の公式を使ったのか、それに思い至って、今の仏教の解釈とは全然違うことを仏陀は言ったのだという確信が生まれました。

『因縁』・・・・これも仏陀は、いま解釈されている言葉とは違って使っています。因も縁も同じ直接的な原因であり、そして現象の原因はkammaです。これが因果です。

因縁も因果も業も業縁も、後世になればなるほどそして日本にきてなおさら、おどろおどろしい宿業、宿命論、運命論みたいになってしまいました。
これも、仏陀の言っていることと真逆なのです。
そのことにも愕然としました。

『苦』=dukkha に関しても、上座部仏教では、dukkhaは苦や苦しみではない、空しいとか価値はないという意味だ、としてしまいました。
大乗仏教では、苦の代わりに空が前面に来ています。

仏陀のいうdukkhaを理解し洞察することが仏陀の理法のかなりの部分を占め、それがわからなければ、絶対に仏陀の理法はわかりません。
しかし、今の仏教では、苦の理解はほとんどなされていません。
仏教の入門書に申し訳程度に四諦が書いてあり、苦諦が説明されているだけです。
dukkhaが理解できなかったからです。


>なるほど、「身体の生存」か。。
>ア-トマンをもつ人は、生存にこだわりを持ちます。
>「智慧の道」というのは「八正道」を飾ることばですね。特に、内容があるわけでもないですね。

なぜ、このような言葉が出るのでしょうか。残念です。
すでに、『ア-トマンを持つ人』というように決めつけています。
無ではなく無記だといっただけで、ア-トマンを持つ人になってしまいました。外道というジャンルに入れられるというわけです。

智慧の道をただ八正道を飾る言葉で内容がないという決めつけも酷いものです。
八正道の正見は智慧そのものだというのが私の考えです。
顛倒夢想を180度転回した正見解こそ、智慧だということです。
その正見を基に残りの7つがあります。
ですから、まさしく、八正道は智慧の道なのです。

先生は、龍樹が言った『縁起』『中道』『空』の解釈と違う解釈をすると、とたんに激しく抵抗され、外道という決めつけをされるように思えます。
それはそれで、いいのです。
龍樹が日本仏教のもとになったことは疑いもありません。
天才だったと思います。

しかし、私はあくまでも、歴史上の仏陀は本当に、縁起や空や因縁や中道などの言葉を今の仏教解釈のように使っていたのか、そういう意味なのか、ということを知りたいとしてきたのです。


 

  [No.23157] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/11/01(Mon) 10:07:37

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 私は、仏陀を教養としたいと思ったことは一度もありません。
> 歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、何を言ったのか、を知りたいと思っているのです。

そこは承知しています。
わたし自身は、「歴史上の」にショ-シャンクさまのこだわりを感じてしまいますが、そこは、ぶつかる拠点にもなっていますね。でも基本的には、そのやり方を認めていますし、わたし自身も同じような道を歩んできました。

> もちろん、その言葉は、すでに原始仏典として残されています。
>
> しかし、今の仏教解説書が言うような意味で仏陀は言っているのか、と思って探求しています。
>
> その結果、愕然としました。
>
> 仏陀は、今の巷の仏教解説書や仏教者が言っている意味で、語っていないことに愕然としたのです。
> 真逆な意味であることもしばしばなのです。

なるほど。

> 例えば、
> 『縁起』・・・先生はことあるごとに『これも縁起です』と言います。
> しかし、仏陀が『縁起』というとき、十二縁起を代表とする苦の縁って起こる原因のことを指しています。
> 先生がいわれるような『これも縁起です』というような使い方をしている箇所は一か所もありません。
> 今の日本仏教では、『縁起』は龍樹から始まった『縁起』の意味で使っています。
> 仏陀が何故縁起の公式を使ったのか、それに思い至って、今の仏教の解釈とは全然違うことを仏陀は言ったのだという確信が生まれました。

ブッダから出発して、龍樹の使った意味は、ブッダとちがうとなったのですね。
>
> 『因縁』・・・・これも仏陀は、いま解釈されている言葉とは違って使っています。因も縁も同じ直接的な原因であり、そして現象の原因はkammaです。これが因果です。

因と縁は複雑に絡みあっていることが、ブッダの説く原始仏典から読みとれますか?
一つには、読まねばならないのは『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.20の「縁」という経典です。
ここには、聖なる弟子たちに語った深淵な教えがあって、縁起の正体の大部分のものが説かれています。

因と縁と言いますが、ヘ-トゥ(因)も、ヘ-トゥ・プラティヤヤ(因縁)という縁の一種としても説かれているのです。そういうこともわかってきます。

ブッダの教えは、誰でも読んですぐにわかるところはもちろんありますが、それがすべてではありません。何度読みかえしても、その度に発見があるものです。そのように書いてあるからです。

そのカラクリに気づいた人はあまりいないと思われます。自分の読みを、自分では信じますが、自分の読みも信じられなくなるのが、ブッダの経典なのです。なぜ信じられないかと言いますと、「自分」というものをもたないように書いてあるからです。

> 因縁も因果も業も業縁も、後世になればなるほどそして日本にきてなおさら、おどろおどろしい宿業、宿命論、運命論みたいになってしまいました。
> これも、仏陀の言っていることと真逆なのです。
> そのことにも愕然としました。

確かに変容していますが、わたしは、それでもうまくとらえてきたなと思っています。
おどろおどろしいところは、ほんとうはそんなに大事ではない、と知るなら、一体、何を受けとめてきたのか、というところに行くと、行為の因果かなと思います。

> 『苦』=dukkha に関しても、上座部仏教では、dukkhaは苦や苦しみではない、空しいとか価値はないという意味だ、としてしまいました。
> 大乗仏教では、苦の代わりに空が前面に来ています。

それなら、ショ-シャンクさまにとっては「苦」とは何でしょうか、とお聞きしたくなりますね。
おどろおどろしいのは苦ではないし、空しいのも苦ではないとなると、苦とは何でしょうか。
空は、理論的なものだから、苦を理解するための道具とすれば、少し違うかなと思います。
>
> 仏陀のいうdukkhaを理解し洞察することが仏陀の理法のかなりの部分を占め、それがわからなければ、絶対に仏陀の理法はわかりません。
> しかし、今の仏教では、苦の理解はほとんどなされていません。
> 仏教の入門書に申し訳程度に四諦が書いてあり、苦諦が説明されているだけです。
> dukkhaが理解できなかったからです。

苦は理解するものかどうか、ここに疑問があります。誰でも、苦しいことは嫌がります。様々な苦しみがあり、それらは全部「苦しみ」の中に入っています。

わたしたちが「楽」とするものまで、ブッダは苦しみに入れています。この考え方は、インド全般を覆う考え方で、ありとあらゆることを苦と教えるブッダは、独自の教えとして述べているわけでもないと思います。

ブッダの教えを知っていくと、今まで苦としてこなかったようなものまで、実は苦だと教えられて、びっくりすることがあります。

> >ア-トマンをもつ人は、生存にこだわりを持ちます。
> >「智慧の道」というのは「八正道」を飾ることばですね。特に、内容があるわけでもないですね。
>
> なぜ、このような言葉が出るのでしょうか。残念です。
> すでに、『ア-トマンを持つ人』というように決めつけています。

自分をもつ人のことです。自分をもたない人は、ほとんどいません。欲を持ち、生存にこだわりのある人の心の底には、「自分」という思いがある、とブッダが教えてくれました。

だから、自分(ア-トマン)をもつ人は、生存にこだわりをもちます、と言ったのです。
ブッダは無我(我ならざるもの)も非我(我でない)も説いたのですが、非我は説いたが無我は説いてない、と述べているからです。

そう言えば、どこかで「ア-トマンはない」もあったですね。こうはいったが、ああは言ってない、とする説明に、こだわりを見ます。「ア-トマンはない」と言われると、いやなんだな、と思うわけです。

> 無ではなく無記だといっただけで、ア-トマンを持つ人になってしまいました。外道というジャンルに入れられるというわけです。

そんなことは言っていません。ことばにこだわり過ぎです。そんなことを言えば、外道であるのは、ほとんどすべての人です。そういうなら、わたしも外道に入ります。ようやく外道を抜け出したんですけどね(笑)

日本人は、外道を貫くのはむずかしいと思います。インドの外道と言われる人は、筋金の入った人たちで、無我でもあり非我でもありえますが、自覚的に、ア-トマンを認める人たちです。仏教をよくよく知ったうえで、否定しているのです。
>
> 智慧の道をただ八正道を飾る言葉で内容がないという決めつけも酷いものです。
> 八正道の正見は智慧そのものだというのが私の考えです。

中道でないのに、具体的に八正道はどうする道なのですか。
説明は、それしかないのに、「中」をとらないなら、何をどう実践するのでしょうか。
智慧を発揮するといわれても、何が智慧なのかわかりません。

それに「中道」が、「縁起」につながっていくのも、見えにくいですよね。だから、ショ-シャンクさまは関係ないと思われたのかもしれませんね。

> 顛倒夢想を180度転回した正見解こそ、智慧だということです。

OKです。顛倒するのが凡夫なら、顛倒しないのが聖者だとするのですね。
苦を楽と見るのが凡夫だし、楽を苦と見るのも凡夫で、それらを聖者は正しく苦を苦と見て、楽を楽と見る、とするのですね。

> その正見を基に残りの7つがあります。
> ですから、まさしく、八正道は智慧の道なのです。

では、無記は?
>
> 先生は、龍樹が言った『縁起』『中道』『空』の解釈と違う解釈をすると、とたんに激しく抵抗され、外道という決めつけをされるように思えます。

そう見えるかもしれませんが、じつは龍樹が言ったものを良しとしているのではなくて、ブッダが言ったものを良しとしているのです。
でも、龍樹は、ブッダを八正道によって正しく解釈したと思います。
だから、龍樹をあげるのです。

わたしは、もとは外道で、外道の見解をすばらしいと思っていました。西洋哲学・論理学より勝れている、因果をもつから、と思っていたのです。かれらは、鉄の法則因果律を壊さないように、哲学を組み立てていました。今でも、勝れていると思っています。

しかし、その因果の法則も、ブッダから来たことを知り、あらゆるものがブッダに教えられて作られていることを知って、ブッダのもとに行ったのです。その間に、龍樹がいて、龍樹を伝って進んだら、最後にブッダに行き当たったのです。そして、龍樹の言っていることは、ブッダの言っていることだと知りました。

こんなに綺麗に重なる場合も珍しいです。ブッダの器と龍樹の器はピッタリと重なりますが、龍樹は、菩薩と言われます。龍樹自身が望んだからです。

わたしの理解は、こうですね。ほかの人がどう言っているのかは、あまりよく知りません。

> しかし、私はあくまでも、歴史上の仏陀は本当に、縁起や空や因縁や中道などの言葉を今の仏教解釈のように使っていたのか、そういう意味なのか、ということを知りたいとしてきたのです。

歴史上のブッダを知りたいのですよね。
ほんとうに「歴史上のブッダ」を知りたいのであれば、歴史の限定をもっとしっかりと見据えねばならないでしょう。

ほんと、ショ-シャンクさまの理解は、「甘い!」と文句を言いたくなります、この点は!

「ヴェ-ダの達人」や「バラモン」は、当時のバラモン社会を知らないと、何とも言えないでしょう。どういう意味で、ブッダはそう言ったか、それにみんなはどう反応したか、歴史の限定をよくよく知らねばなりません。

その点、わたしは、歴史上のブッダには、そんなに興味がないのですが、それでも、結局は歴史上のブッダを歴史に沿って調べています。その中に、普遍性が表れてくると思うからです。

わたしは、ショ-シャンクさまの問題点としては、顛倒と中道の順序が、逆になっているような気がします。
それが、ひっくり返れば、部派の理解だと思います。顛倒と中道の順序を、ショ-シャンクさまの説いているように考えると、そのまま考え続けていけば、大乗にいくような気がしますが。


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