> 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> キリスト教徒 である と 書き込んでいます
あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。
> キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。
> いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
> ( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
> ( dhAranI )
いえ、あなたが何を信じようと興味がないだけです。
人間はみんな自分の固定観念を信じています。それだけです。
>
> あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
> “ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?
> 本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
> その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
> 「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
> この マジカナ の 置かれている目的です
本質という言葉を使ったら『本質などありません』と何でもかんでも否定する人に対して、
本質の話をしても仕方ないでしょう。
ジャンヌダルク処刑裁判では、ジャンヌダルクが魔女である証拠は全く出ませんでした。
それどころか、魔女でなく、敬虔なキリスト教信者だったという証拠は数多くありました。
しかし、『絶対に』魔女としなくてはいけなかったのです。
それは、もし、ジャンヌダルクを本当に神の使いとしたならば、キリスト教の根幹を揺るがす大問題が出てくるからです。
少し考えたらわかると思います。
> > 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> > キリスト教徒 である と 書き込んでいます
>
> あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。
キリスト教 という 実体は何ですか ?
皆が 、 “ あると信じて 疑うことがない モノ ” が、 実体ですか ?
信じようと、 信じていまいと、
あなたには、 キリスト教の実体 と 呼べるモノ が ありますか ?
> > キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> > ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
> みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、
皆が皆 ナザレのイエス を キリスト と 承認しているわけではありません
「 旧約聖書 」 は キリスト を 規定( イエスキリスト )しますが
「 タナハ 」 では ( イエス は )否定されます
「 聖書 」 ( 旧約 ・ タナハ )
それは、 カトリックのモノでもなく、 プロテスタントのモノ でもなく
ユダヤ教徒 の モノでもありません
それを 読もうとする者の 共有物 なのです
> それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。
わたしは、 意味を 付加してはいません
あなたが、 一つの意味を 抱え込んでいるだけです
ナザレのイエス が キリストかどうか
ということは、 キリスト教徒には、 疑う余地はありません
わたしは、( その キリスト を ) 疑いもせず、 信じることもありません
その理由 は、
信じていようと ( いまいと )
問題は 何を行っているか
に 帰結するからです
「 新約聖書 」 には、 イエスの行動 の
( 一つの見方による ) 記録(記述) が 記されています
わたしは、 そこから、
イエスが 何を言っていたか・どのように行動していたか を 読み取ります
その、 読み取ること、 読み取ったこと が 「 信 」 に 起きているだけです
> > いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
> > ( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
> > ( dhAranI )
> いえ、あなたが何を信じようと興味がないだけです。
> 人間はみんな自分の固定観念を信じています。それだけです。
なたが、 興味のあることにだけに、 その懐き方に沿って( 固定概念に沿って )、
好き勝手に 応答するのは、 あなたサイド( あなたの味方 ) には 許される
“ その許す範囲 ” で、 ( 同じ見方 が 多い少ない は 別問題として )
好き勝手に 議論する
> > あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
> > “ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?
> > 本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
> > その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
> > 「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
> > この マジカナ の 置かれている目的です
> 本質という言葉を使ったら『本質などありません』と何でもかんでも否定する人に対して、
> 本質の話をしても仕方ないでしょう。
何でもかんでも 否定するわけではありません
しかし ( 否定するところだけ 取り上げて )
あなたは それを 金科玉条として 打ち立てる ( ワカルカナ ? )
あなたの( 本質 という語 の ) 今までの使い方に対しては、
そのように あなたが 思う・受け止める ” 対処 が起きています
本質 と 根源 とは 別の問題ですか ?
あなたの問題 ( 追求しようとすること ) は
私にとって 問題ではありませんか ?
わたしは、 それを、 問題とする
問題から逃げているのは 誰でしょうか ?
> ジャンヌダルク処刑裁判では、ジャンヌダルクが魔女である証拠は全く出ませんでした。
> それどころか、魔女でなく、敬虔なキリスト教信者だったという証拠は数多くありました。
> しかし、『絶対に』魔女としなくてはいけなかったのです。
> それは、もし、ジャンヌダルクを本当に神の使いとしたならば、キリスト教の根幹を揺るがす大問題が出てくるからです。
“ キリスト教 の 根幹 ” は、
新旧( プロテスタント・カトリック )すべてのキリスト教徒 の 根幹 “問題” ですか ?
裁判をやり直したのは、 プロテスタント ですか ?
キリスト教 という “ 教え ” は キリスト者の 「 法 」 です
古い 約束に縛られず、 新しい( 本等の解釈による ) 契約の姿 が
「 新約聖書 」 に ( 一つの方針 に 沿って ・ トレント公会議 )
( そのような方針 が 読み取りやすくいように 勘案されて )
最初に、 ギリシャ語 で 編纂・ 記述 されたのです
それを、 宗教会議で採択したわけです
( プロテスタント には 違う見解もあります )
> 少し考えたらわかると思います。
少し も 考えない で、 このように、 記述できますか ?
( 固定概念 を 外して )
少し考えることが出来るのであれば 分かることです
しかし、 好みに沿って 採用する 積み上げ方
そして、その方法で
好き好んで、 積み上げてきた概念
( 積み上げる本人には ) 動かし難いものである
・
> > > 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> > > キリスト教徒 である と 書き込んでいます
> >
> > あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。
>
> キリスト教 という 実体は何ですか ?
> 皆が 、 “ あると信じて 疑うことがない モノ ” が、 実体ですか ?
> 信じようと、 信じていまいと、
> あなたには、 キリスト教の実体 と 呼べるモノ が ありますか ?
もういい加減、言葉遊び、観念のお遊びは終わりにしませんか。
実体があるだのないだの、には私は何の興味もありません。
龍樹の教えから、すべてに実体がないという結論をひとつ覚えで繰り返しているのでしょうけど
それに何の意味があるのですか?
キリスト教の実体があったらあなたの精神にどう影響しますか?
キリスト教に実体がなかったらあなたの精神にどう影響しますか?
阿弥陀仏にも実体がないのでしたよね、あなたによれば。
浄土教の人にとって、阿弥陀仏に実体がなければ実体があるのと何が違うのですか?
> > > キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> > > ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
> > みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、
>
> 皆が皆 ナザレのイエス を キリスト と 承認しているわけではありません
> 「 旧約聖書 」 は キリスト を 規定( イエスキリスト )しますが
> 「 タナハ 」 では ( イエス は )否定されます
> 「 聖書 」 ( 旧約 ・ タナハ )
> それは、 カトリックのモノでもなく、 プロテスタントのモノ でもなく
> ユダヤ教徒 の モノでもありません
> それを 読もうとする者の 共有物 なのです
観念のお遊びはいい加減にしたらどうですか?
それがあなたの精神にどう影響しますか?
ナザレのイエスをキリストと信じることがないあなたが、なぜキリスト教徒なのですか?
あなたはどの言葉も自分勝手に恣意的に世間一般と違う意味を付加しているのですが
その意味のままに辿っていくと矛盾だらけなのです。
それに一々付き合うのは私にとって意味のないことなのです。
あなたにとってはどんな意味があるのですか?
>
> > それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。
>
> わたしは、 意味を 付加してはいません
> あなたが、 一つの意味を 抱え込んでいるだけです
>
> ナザレのイエス が キリストかどうか
> ということは、 キリスト教徒には、 疑う余地はありません
>
> わたしは、( その キリスト を ) 疑いもせず、 信じることもありません
イエスをキリストと信じないあなたが自分は『キリスト教徒 である』と勝手に思い込むのは自由ですが
私には馬鹿馬鹿しくて、そのような戯れ言はうんざりなのです。
はっきり言って、春間さんの掲示板での行ないを見るたびに
春間さんが信奉している龍樹の教えに何の意味があるのか、
このような行ないの者を生み出すだけなら何の興味も起きないのです。
もちろん、それは私に限ったことです。
ですから、他の人には今までとおり、実体があるだのないだの、言っていればいいと思います。
私には興味がないので、どうか、できれば私の投稿にレスしないでいただきたいのです。
実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです。
> ですから、他の人には今までとおり、実体があるだのないだの、言っていればいいと思います。
あなたが聞くから、 あなたに語ること と なる ( 語ることがある )
あなたが聞かなければ、 聞く人に 語っている( ことになる )
( あなたが聞かなければ、 聞く人に 語ることが ある だけです )
> 私には興味がないので、どうか、できれば私の投稿にレスしないでいただきたいのです。
あなた が 聞かなければ、 ( 聞くところの )あなたはいない
聞く、 実体がないのです
( 私の語るところに、 あなたは いない = いたくない )
読みたくなって、 読むところに、 あなたは 存在( 実体 ) を 置く
『中論頌』 は、 このようなことを、 示している
( だから、 「 真理 」 を知る人は 、 龍樹を 「 祖 」 とする )
読まなければ、 逃げる ということも 取り敢えずは、 回避されている 、、、、
( しかし、 ここで 回避の道は 閉ざされてしまった 、、、、 )
> 実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです
意味のないことに 意味のない応答をする
意味があるから( ないかな ? ) 、 その意味 を 否定したいが、
否定できないから
ここに来ないで( 「 レスしないで 」 ) と
つい、 「 いただきたい 」 と お願いしてしまう
読みたいから、 ここへ来る
お願い を わたしに 実行させるより
あなたが わたしから “ 逃げれば ” よい
( あなたが “ 善き 行ない ” を 起こせばよい )
善き行い には 決して 批判は起こせない
わたしも、 あなたについて、 書くことがなくなる
書かれることは、 ブッダ への 感謝( 報恩 ) となる
善き言葉 は 善き行い
ワカルカナ ?
自らの 心の動きが 、、、、
・
> > > ジャンヌダルクの時 ・・・・キリスト教の根底 ・ 揺るがす根本問題
あなたの 「 根本 」 という言葉 に
「 根底 」 となる意味がない ( そのことを、 “実体がない” というの です )
( 意味はある けれど、 “顛倒した、自分勝手な思い込み” です )
その “ キリスト教 を 揺るがす問題 ” を
語ることが 憚られる理由 は
問題を
“ 正しく ” 捉えてはいない からです
曖昧な 理解だから、 突っ込まれると 問題を逸らして 他へ逃げる
それは、 まさに、 あなたに起きていることです
わたしは、 違う言葉で、 同じ事に対して、 違う側面から それを深めているが
あなたは 偏に因った 一面的な捉え方しかできないから
ちがう( べつの )側面に ( 正面から ) 対処できないのです
それを、 あなたが、
わたしの逃げ・ごまかし という 解決方法で “ 逃げているわけです ”
> 実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです。
あなたが逃げている という 見方に
“ 実体がない ” のであれば、
見出すモノは 何もない
逃げているのではない のであれば、
そのように決めている “ 虚言 ” を 明らかにしなければ、
結果
逃げていることとなる
・
石飛先生、おはようございます。
先生の「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」」論文を読ませていただきました。
素晴らしい論文でした。
おっしゃるように、あの、短い問答をここまで深く掘り下げた考察は見事だと感嘆いたしております。
『有』の展開としての現象世界、ブラフマンの流出としての世界、諸々の流れはあらゆるところに向かって流れていく、
このように見ていたアジタにとって、
そのような流れを、『気づくこと』によって遮り、智慧によって止める、という仏陀の答えはさぞかし衝撃だったことでしょう。
それ以上に、『無明が頭であると知りなさい。明知が頭を落とすものであります。』という仏陀の言葉は
天地がひっくり返ったようなものだったでしょうね。
頭が裂け落ちると脅された師匠が十六人の弟子を遣わしたのですから、当然、弟子のアジタは、『師匠の頭が裂け落ちると大変だ。なんとかしなきゃ。』と強く思っていたはずです。
それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
驚天動地の大転回がそこにはあります。
短い問答の中で見落とされているヴェ-ダ思想の背景とそれに対する仏陀の鮮やかな答えを、ここまで深く切り込んで考察されているのは素晴らしいことです。
ショ-シャンクさま ありがとうございます。
>
> 先生の「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」」論文を読ませていただきました。
がっちりと読んでいただきまして、感謝でございます。
> 素晴らしい論文でした。
> おっしゃるように、あの、短い問答をここまで深く掘り下げた考察は見事だと感嘆いたしております。
ほんとに詩が一つか二つで、どんどん話が展開していくおそろしさは仏教を含めたインド思想のおそろしさを表していると思います。
どこまでも分かる者は、みずからその限界まで分かってください、そうでない者はみずからの力の範囲内で理解してください、というのが、インド思想の立場を示します。
学問上の常識とか定説とかコンセンサスみたいなものを頼りにしている人には、ほんとに怖い世界だろうと思います。
だから、ブッダの場合も、当時の最高の知識や思想を相手にして語っていることを想定しないと、何の意味も出てこないというところがありますね。
>
> 『有』の展開としての現象世界、ブラフマンの流出としての世界、諸々の流れはあらゆるところに向かって流れていく、
> このように見ていたアジタにとって、
> そのような流れを、『気づくこと』によって遮り、智慧によって止める、という仏陀の答えはさぞかし衝撃だったことでしょう。
そうだと思います。アジタ自身が、ウッダ-ラカの有論を信じていたのかどうかはまた別ですが、当時の最高峰の知識や智慧をもっていて、それが現在最高であると知っている人々の一人であったことは確かだと思います。
>
> それ以上に、『無明が頭であると知りなさい。明知が頭を落とすものであります。』という仏陀の言葉は
> 天地がひっくり返ったようなものだったでしょうね。
『ウパニシャッド』を読みますと、確かに、ブッダは、ヴェ-ダをよく知っていると実感します。すみずみまで理解し、その限界など完全に知りつくしていることが、だんだん浮かんできます。
> それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
ここ!おもしろいです!
ショ-シャンクさまは、ここに禅問答を見るのですねえ、な~るほど。
禅問答って、こんな感じなんですね、わたしも、なんとなく禅問答が分かって来たような。。
> 相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
> 驚天動地の大転回がそこにはあります。
ほんとですよ。ここまで情け容赦ないか、ってくらいですが、分からない人には、何が起こったか分からないだろうと思います。
>
> 短い問答の中で見落とされているヴェ-ダ思想の背景とそれに対する仏陀の鮮やかな答えを、ここまで深く切り込んで考察されているのは素晴らしいことです。
ブッダの一切智を、まじめに取り上げないでいると、この怖さは知られないと思います。
アジタが、苦し紛れに「名色はどこで破壊されるのか」とたずねた時、
もう、こういう質問出しているようじゃ、自分の負けだなとブッダを認める方向に向かっていたとおもいます。
そして、あっと驚くような答え「識が滅するとき名色が滅する」を、ブッダの口から聞くことになります。
最初から、サンガの中でブッダの理論を聞いていると、十二支縁起の中にある「識の滅によって名色の滅がある」を教えてもらいますから、ウパニシャッドの説などには見向きもしないのですが、実は、そこに大きな罠もひそんでいるような気がします。
このアジタの議論で衝撃を受けた人は、これ以降絶対間違うことはありませんが、部派など初期仏教の人たちは、インパクトをもたずに見過ごしてしまう可能性もあるかと思います。
また、実は、これだけではないのも驚きの展開です。『ダンマパダ』の中にも、サ-リプッタとの議論の中にも、実は、このアジタとの議論が繰りかえされているのだ、しかも、視点を変えて説かれているのだ、と知ったら、本当にブッダが一切智者であることを、身をもって実感します。
「重々無尽の縁起」ということばが自然に出てきますね。
やっぱり華厳経の世界も広がることになるのだなあと感慨深く思っているところです。
ありがとうございました。
石飛先生、ありがとうございます。
ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか。
『339 偈にある【三十六の好楽のへの流れ】というのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と書かれています。
中村元訳註では、この三十六の流れに関しては、様々な説を挙げながらも、どれも典拠が不明でどれもが確定していないように書かれていました。
先生が、『三十六の好楽のへの流れというのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と思われているのは、どのような理由からでしょうか。
また、十二処を欲愛・有愛・無有愛の3つにかけ合わせた場合、どのような意味になるのでしょうか。
十二処における欲愛はよくわかるのですが、十二処における無有愛というのはどういうものと思われていますか。
石飛先生、ありがとうございます。
三十六の流れは渇愛の網羅ということですね。
それにしても、無有愛というのはわかりづらいですね。
有が生存ということから、生存欲否定、つまり自殺への衝動と解説している人もいますし
殺したい、破壊したいという願望と言う人もいます。
「無有」とはvibhavaという原語で、「生存を離れること」ということであれば、仏教の目指すところです。
有すなわち生存を滅することで苦が滅するのですから、vibhavaはいい言葉のはずです。
できれば、
欲界 色界 無色界 に対応して
欲有 色有 無色有 があるように
欲愛 色愛 無色愛 であれば、非常にわかりやすかったのにと思います。
言っても仕方ないことですが。
ショ-シャンクさま こんにちは。
> 三十六の流れは渇愛の網羅ということですね。
渇愛(タンハ-)なのですが、これはヤ-ジュニャヴァルキヤにとっては、悟りの境地を示す「楽」として捉えられていると思います。
一方、ブッダは、これを渇愛と認め、滅ぼすべきもの、苦を生み出すものとしました。
実は、これは「マッジマニカ-ヤ」の第1経「根本法門経」でも、説かれている内容だと思っています。この経との関連を、まだうまく説明できないので、述べたくはなかったのですが、「楽は苦のもと」というブッダのことばが説かれているので、この点を考慮すると「好楽」を36に分類するのも、納得できます。
基本的に、一元論の立場で悟りを求めていきますと、自己の中にア-トマンなりブラフマンを認めたり、最高原理ブラフマンとの合一というかたちで書かれたりするので、ほとんどの場合、エクスタシ-のような強烈な楽を感じるのです。
そして、そこに到達すると、それが悟りだと思ってしまうようです、。
これを、ブッダは、苦をもたらすものとして、アジタたちに教えているのだと思います。
> それにしても、無有愛というのはわかりづらいですね。
>
> 有が生存ということから、生存欲否定、つまり自殺への衝動と解説している人もいますし
> 殺したい、破壊したいという願望と言う人もいます。
ほとんどの人は、ウパニシャッド思想を知らないですし、しかも、このヤ-ジュニャヴァルキヤとかウッダ-ラカの思想を語っているとは思わないので、仕方がないのでしょう。
しかし、ブッダの場合、ことばは必ず意味内容をともなっているので、これら三つ「欲愛、有愛、無有愛」と分類されている、ということは、かなり普遍的に成りたっていると考えてよいのだろうと思います。
仏教的な見方を最初にもってしまうと、インド思想的なものは、はなから受け付けないし、考慮もしませんので、こういう風に分からなくなるのではないかと思っています。
一神教や一元的な思想に見られる「楽」という境地を批判するものではないかと、わたしは読んでいます。
> 「無有」とはvibhavaという原語で、「生存を離れること」ということであれば、仏教の目指すところです。
> 有すなわち生存を滅することで苦が滅するのですから、vibhavaはいい言葉のはずです。
仏教では、形而上学にはいかないので、vibhavaは悪いことばではないかもしれませんが、しかし、これは、仏教においても問題になることばだとは思います。
たとえば、ヴィラ-ガ(離欲)のように、欲を離れるということですと、修行中の人には必要な行となります。vibhava(離生存)という風に捉えて、生存を離れようとすると、生まれてくることができなくなりますね。生存を滅すると、生まれることが滅するわけですから。そうなると、生存を離れた段階で、悟りへの大きなステップとなっているはずです。
しかし、悟るためには、生まれていることが大事な条件になりますので、「生存を滅することによって生まれることを滅する」というこの段階を実践的に行うのは、なかなかやりにくいのではないでしょうか。すでに生まれてきちゃっているわけですから。
「生存」ということで、この領域(界)を検討するなら、生まれて生きているこのわたしが検討せざるを得ないので、vibhavaという状態も、bhavaの一種と見なければ、合理的でないことになります。また、abhava(生存ではないこと、生存のないこと)も、やはり、同様のことが言えて、そのため、バヴァ-バヴァ(bhava+abhava)の熟語を、「種々の生存」と訳しているのではないかと思います。
わたしも、このように考えています。
vibhavaやabhavaも、生存の一形態であるという考え方です。
>
> できれば、
> 欲界 色界 無色界 に対応して
> 欲有 色有 無色有 があるように
> 欲愛 色愛 無色愛 であれば、非常にわかりやすかったのにと思います。
> 言っても仕方ないことですが。
無色界は、段階的にブッダが到達した境地でもあるので、色をもたない状態も認めていますね。しかし、インドの一元論的思想では、どうなんでしょうか。無色界を認めたとしても、そこはブラフマンの世界にはかわりはないわけですよね。そして、世俗的な「楽」の要素を保つとなると、やはり「生存(有)」を一歩も出てはいない、ということになりますかね。
わたしは、いつも感心します。ブッダが、よく、このブラフマニズムのごちゃごちゃした理論を含めて、十二因縁の縁起説にまとめたなあと。
ヴェ-ダ-ンタ思想は、シャンカラが出て来る以前には、ほんとに、どうしようもないほど錯綜している感じがあります。何でもかんでも抱え込んでいたのだなあと思います。
それはウパニシャッドの思想も同じです。各種のウパニシャッド文献は、それぞれ勝手にいろんなことを説いていて、到底まとめようとしてもまとめきれません。
それを、まとめたブッダは、ただそれだけをとっても立派です。
何をはなしていたかわからなくなってきました。けっこう、わたしも、支離滅裂な感じですね。まとまらなくてすみません。
> > それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
> > 相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
> > 驚天動地の大転回がそこにはあります。
> ここ!おもしろいです!
> ショ-シャンクさまは、ここに禅問答を見るのですねえ、な~るほど。
> 禅問答って、こんな感じなんですね、わたしも、なんとなく禅問答が分かって来たような。。
禅問答の痛快さは、相手の固定観念や見解を根こそぎ奪ってしまうところです。
禅問答では、よく、『賊』という言葉が出てきます。
賊というのは泥棒のことで、『この賊め!』などと言います。
日常生活では、『この泥棒め』というのは罵倒語ですが、
禅の世界では、『賊』というのは、最大の褒め言葉です.
ですから、『柏樹子の話に賊機あり』と言えば、褒めちぎったことになります。
アジタの問いでは、頭が裂け落ちたら大変だ、という固定観念を根こそぎ転回させています。
仏陀もなかなか賊の親玉ですね。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> 禅問答の痛快さは、相手の固定観念や見解を根こそぎ奪ってしまうところです。
そうか、そうですよね。
なにせ、仏教ですから。
見解として出すなら、完全にまったく相容れません。
ただ、ブッダの教えに従うと、見解を出して争うことはしませんから、こういう問答によって、相手の常識的な観念を打ちくだいて、相手に「目覚めてもらう」というやり方を方便として用いる以外にないわけですね。
それにしても強烈ですね。
これは、見解として出すなら、ただの論説の一つになってしまうけれど、そうしない道を取ることによって、もっとより善い事につながっていく、というブッダの計画ですね。
禅問答の起源は、ブッダであり、『スッタニパ-タ』の中で、随所にかれの実力が示されています。いかに衝撃を与えたか、想像するだけでもすごいことです。
この伝統は、龍樹に受け継がれ、龍樹以降、中観・唯識へと引き継がれていくということか。。
> 禅問答では、よく、『賊』という言葉が出てきます。
>
> 賊というのは泥棒のことで、『この賊め!』などと言います。
>
> 日常生活では、『この泥棒め』というのは罵倒語ですが、
> 禅の世界では、『賊』というのは、最大の褒め言葉です.
な~る。「賊」ですか。龍樹も、私にとって、賊でしたね。
>
> ですから、『柏樹子の話に賊機あり』と言えば、褒めちぎったことになります。
>
> アジタの問いでは、頭が裂け落ちたら大変だ、という固定観念を根こそぎ転回させています。
> 仏陀もなかなか賊の親玉ですね。
ブッダのすごいとこは、無明と明智と識は、相手の論説の専門用語だという点です。
ウパニシャッドの中の重要な用語、決めの用語を、あっさり用いて、答えているところです。しかも、相手の見解とは違う、自分の立場と思われるところで、相手の見解を否定するように用いているのです。
まさしく、大泥棒ですよね。「無明」と「明智」は、うばわれましたね。
無明を頭として、無明を落とすものを明智とし、そのままブッダの自説(?)へともっていかれて、焦ったでしょうね。
わたしが、特に、衝撃だったのは、「名色」を出したアジタに、「識の滅により名色が滅する」、と答をあっさり与えているところです。
ウパニシャッドでは、このあたりすごく錯綜した見解が重なり合っていて、明確ではありません。「名色」はウパニシャッドの重要語であり、ウッダ-ラカの思想を支えます。
その用語を出すのは、アジタにとっては自分の手の内をさらすような感じで、かなり勇気がいったのではないかと思いますが、そこで、答えとして出してきた「識(ヴィジュニャ-ナ)」によって、もう完全にやられたと思ったことでしょう。
「識」も、ウパニシャッドの思想の中の専門用語と言っていいと思いますから。
つまり、「名色」と「識」の重要語も、賊にうばわれたかっこうになってしまいました。
大泥棒!って言いたいかもしれませんが、これによって、アジタくん、完全に目が覚めたのでしょう。「目覚めたもの(ブッダ)」の呼び名も、ほんとに納得します。
こうして、無明と明智、名色と識は、仏教の重要な用語になりましたね。
何か、ウパニシャッド思想がかわいそうになってきちゃったわ(笑)
石飛先生、おはようございます。
先生も書いておられましたが、アジタはどこに立脚しているのかわかりづらいところがありますね。
「有」の展開、生命が流れ出ること、ブラフマンの流出としての世界、
この説を、アジタは肯定的に見ていたのかそうでないのか、がはっきりしないまま、仏陀との会話で混乱している感じがします。
『ウッダ-ラカは,有(sat)を宇宙の根源とする。太初にはこの有だけがあって,これが多となろう,繁殖しようと考えて,創造をはじめると説いている。』と書かれていました。
この、多様となりたい、繁殖したい、という『有』の意思をアジタはどう捉えていたのでしょうか。
『あらゆる処に向かって流れるのが,諸々の流れなのです。諸々の流れを遮るのは何ですか。諸々の流れを防ぎ守るものを語ってください。何によって諸々の流れは防ぎ止められるのですか。』
とアジタは聞きます。
この言葉からは、『諸々の流れ』は悪しきもの、防ぎ止めるべきもの、と考えていたように思えます。
しかし、
『智慧と気づくことと,名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』と聞いていることが、アジタが考えていることの理解を難しくします。
『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。
仏陀は明らかに、『智慧』と『気づくこと』が、『名称と形体』など多様への流れを止めると言っているにもかかわらず
アジタは、『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。
アジタにとっては、『智慧』も『気づくこと』も『名称と形体』も同じく、『その途中で出て来る変異物』と考えていたのでしょうか。
ショ-シャンクさま こんにちは。
> 先生も書いておられましたが、アジタはどこに立脚しているのかわかりづらいところがありますね。
そうですね。ただ、考えられるのは、ウパニシャッド全体に広がる思想は、否定のしようが無かったと思います。現代人が、なんだかんだ言っても、科学的知見とかエビデンスがどうとか、などと言われますと、言い返せずに黙ってしまうようなものです。
ウパニシャッドの哲学的な思想は、当時の世界の最先端の知識であって、ちょっと知識のある人なら当然そのような思考方法をもったことでしょう。
批判的に見るとしても、この視点を無視することはできなかったと考えられます。
>
> 「有」の展開、生命が流れ出ること、ブラフマンの流出としての世界、
> この説を、アジタは肯定的に見ていたのかそうでないのか、がはっきりしないまま、仏陀との会話で混乱している感じがします。
お師匠さんを救いたい一心でしょうか。ブッダにすがる気持と、眉唾の気持と、両方ない交ぜになった感じがします。
> 『あらゆる処に向かって流れるのが,諸々の流れなのです。諸々の流れを遮るのは何ですか。諸々の流れを防ぎ守るものを語ってください。何によって諸々の流れは防ぎ止められるのですか。』
> とアジタは聞きます。
> この言葉からは、『諸々の流れ』は悪しきもの、防ぎ止めるべきもの、と考えていたように思えます。
いや、そうとも言えないです。諸々の流れは、命我の流れでもあるように感じます。つまり、個人に存在するア-トマン(魂のようなもの)であって、それが流れている限り、その人は生きているという思想です。したがって、防ぎ止めないと、ア-トマンがさっていってしまうかもしれない、ア-トマンに出て行かれると、その人の命はないものとなって、身体はうち捨てられた衣のようなものになってしまう、と考えていたのではないでしょうか。
>
>
> 『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。
そうですね。智慧と気づくことは、ブッダのことばであって、所詮、最高原理である「有(ブラフマン)」からの派生物みたいなものだろうから、名色の中に含まれるだろうと考えているような感じがありますね。
名色というのは、有(最高原理)からの展開によって出てくるもので、多様な世界を作るものです。多様な世界は、根源的な世界に対すれば、劣った世界です。真実なものは、永遠不滅の唯一のブラフマン(あるいは有)ですが、多様な世界は、そこから出て来る輪廻する世界にすぎません。
この世において多様性だけを見る人は死から死に達する(「ブリハッドア-ラニヤカ」4.4.19)
>
> 仏陀は明らかに、『智慧』と『気づくこと』が、『名称と形体』など多様への流れを止めると言っているにもかかわらず
> アジタは、『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。
そうそう、ブッダの意図がどこにあるのか、アジタにはまったく見当がつかなかったことでしょう。まったく違う世界を見ているのですが、ことばだけが、なぜか一致している、というような感じかもしれません。アジタの衝撃は、もうすぐそこまで来ている予感がして来ます。
>
> アジタにとっては、『智慧』も『気づくこと』も『名称と形体』も同じく、『その途中で出て来る変異物』と考えていたのでしょうか。
他の考えは、考えつかなかったのではないかと思います。
社会の常識を覆しているのは、むしろ、ブッダの方ですから。
有(サット)という最高原理から名称が展開して、種々の現象界を生み出すという立場では、名称である「智慧」や「気づくこと」は、まず「有」から展開したものであることは明白だというところではないかと思います。
部派の人たちが、お釈迦さまは真理を語ったので、外道は屈服したのだと考えますが、そのような平板な理解(?)ではなく、もっと強烈なインパクトがあったと思います。
天地が文字通りひっくり返ったのだと思います。
> いや、そうとも言えないです。諸々の流れは、命我の流れでもあるように感じます。つまり、個人に存在するア-トマン(魂のようなもの)であって、それが流れている限り、その人は生きているという思想です。したがって、防ぎ止めないと、ア-トマンがさっていってしまうかもしれない、ア-トマンに出て行かれると、その人の命はないものとなって、身体はうち捨てられた衣のようなものになってしまう、と考えていたのではないでしょうか。
> 有(サット)という最高原理から名称が展開して、種々の現象界を生み出すという立場では、名称である「智慧」や「気づくこと」は、まず「有」から展開したものであることは明白だというところではないかと思います。
石飛先生、ありがとうございます。
スッタニパ-タを読んでどうしてもわからなかったところが、先生のご説明によってわかりました。
アジタが言った『諸々の流れ』が、中村元訳のように『煩悩の流れ』という否定的に捉えた言葉でなく、生命の流れ、あるいはプラナの流れのようなものを想定していたとは、思いもつきませんでした。
そして、アジタの質問の
『智慧と気づくことと名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』の意味がどうしてもわかりませんでした。
名称と形体が破壊されることがあっても、智慧と気づくことが破壊されるとは、その意味が理解できませんでした。
アジタにとっては、智慧や気づきも最高原理から流出したものに過ぎないと考えていたのですね。
先生のおかげですっきりとしました。
ありがとうございます。
それにしても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが言ったという
『無明を念想する者たちは,暗黒の闇に入って行く。だが一方,明智に愛着する者たちは,それより一層大きな闇に(入って行く)。』という言葉はすごくないですか。
先生は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは小さな虫のようだとおっしゃいましたが、仮に虫としても9cmのオオクワガタではあるような気がしますが。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> スッタニパ-タを読んでどうしてもわからなかったところが、先生のご説明によってわかりました。
そうですか。ここは逆転の発想ですよね。
>
> アジタが言った『諸々の流れ』が、中村元訳のように『煩悩の流れ』という否定的に捉えた言葉でなく、生命の流れ、あるいはプラナの流れのようなものを想定していたとは、思いもつきませんでした。
仏教になじんでしまうと、当然そのように考えるかと思いますが、しかし、当時としては、アジタの考えの方が(知識人にとっては)一般的だったと思います。
かの神格(デ-ヴァタ-)は考えた。「さあ、わたしは、これら三神格(水と熱と食べ物)に、生命であるこのア-トマンとともに入って、名称と形体(ナ-マル-パ)において分化していこう」と。(『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』6.3.2)
この中の「神格」とは、有(最高原理)から展開して出てきた三つの要素火と水と食べもののことです。「命であるア-トマンとともに入って」とあるので、個我が、身体などに流れ込むことにより、生命活動が引き起こされてくることが言われているのでしょう。
意志や意欲をもって活動するので「神格」とされているのではないかと思います。
こちらが、知識人たちや修行者たちの間では、最先端の思想であり、それを論じている時に、生命の流れと理解するはずのところを、渇愛・煩悩という解釈を出したとしたら、
ほんとに仰天すると思います。
> 『智慧と気づくことと名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』の意味がどうしてもわかりませんでした。
> 名称と形体が破壊されることがあっても、智慧と気づくことが破壊されるとは、その意味が理解できませんでした。
「智慧」と「気づき」も、名称(ナ-マ)に含められますから、名称が生まれてくるとそれに合わせた形体(ル-パ)も分化してくる、というところではないでしょうか。
> アジタにとっては、智慧や気づきも最高原理から流出したものに過ぎないと考えていたのですね。
アジタ自身の発想としては、そう考える他はないわけですが、どうやら違うようだとも思っていたと思います。というのは、師匠のバ-ヴァリンを救う教えを尋ねて、ブッダのところまでやって来たのですから、何かウパニシャッドの教えとは違う教えを教えてもらうのだろうと予想もしていたのだろうと思うのです。
アジタは、最高原理である有については、何も言っていませんよね。言及すらしていません。そうだろうと思います。
相手の理論がどのように展開するか分からない段階では、慎重に、多様な具体的な現象から話しはじめて、段々根本であり究極の思想に近づく、というのが安全な(?)方法かと思うからです。
ですから、アジタの聞き方は、相手が何をもっているか分からない段階では、非常によく分かる聞き方のような気がします。
それに対して、ブッダは、相手の慎重な姿勢などお構いなく、ピタッと合わせて、これまた、簡潔に答えるので、もう、この答え方からして、「すごい人物だ」と怖れをなしたと思います。
アジタが最初に口火をきったということは、この人は、十六人のバラモンの中でも実力派の一人だったと思います。まあ、仏教的に言えば、「智慧のサ-リプッタクラス」の人物ではあったろうと思います。名前が「アジタ(負けないもの)」ですから(笑)
今では、経典になっていますので、誰かが編集したのだろうとか、考える人もいるかもしれませんが、当時の会話を、要点として、そのまま記録していると思います。
実際に起こった会話だからこそ、このように詩の形で残っているのだろうと思います。
ブッダが、自身で、編集しているかもしれません。しかし、それも、たとえば、アジタが言い間違ったりしたところを正しく言い直すような、そんな訂正だったらしていそうだとは思いますが。。
ですから、ブッダが、一切智者だというのは、わたしには明らかなことなのです。
『ダンマパダ』にアジタの展開を残し、『サンユッタ・ニカ-ヤ』にサ-リプッタへの指導を残して、アジタとの対話は、一点の乱れもなくピタッと噛み合った理論を構成しています。36の好楽の流れも、ブッダの中では当然数え上げられているのだろうと思います。
部派だけでなく、大乗、密教、あらゆる展開を見据えて、ブッダは存在しています。
> 先生のおかげですっきりとしました。
こちらこそ、ブッダのことを書かせてもらって感謝です。
>
> それにしても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが言ったという
> 『無明を念想する者たちは,暗黒の闇に入って行く。だが一方,明智に愛着する者たちは,それより一層大きな闇に(入って行く)。』という言葉はすごくないですか。
おお、ここ、なかなかですよね。
この点は、学者の間でも解釈がいろいろあるようですが、無明と明智の上に、自分の立てた「非ず非ず」のア-トマンをおいているのだろうと思います。ここは、ウパニシャッドの到達点だろうと思います。さすが、インド思想!と、正直思います。
かれのすごいところは、相対主義を乗り越えているところです。
しかし、ブッダは、予想もしない形で、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えて正等覚者であることを示しました。いや、ほんとに、おそるべし、インド、ですね。
> 先生は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは小さな虫のようだとおっしゃいましたが、仮に虫としても9cmのオオクワガタではあるような気がしますが。
かもしれません。オオクワガタは、昆虫の中の王さまですから。
君臨しますよね。そこは、わたしも、そうだと認めます。
***
というところで、こんな話にもっていきたいです。実は、ヤ-ジュニャヴァルキヤ関連です。
ところで、禅の「庭前の柏樹子」のお話しありがとうございました。
調べているうち、こんなサイトにたどり着いておもしろく読んでいました。
http://rinnou.net/cont_04/zengo/011203.html
「庭前の柏樹子」
読んでて、心配になってきたのですが、
> 趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。
というところや
> 天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
というところを読んで、もしかして、ブログを書いている方は、気づかずにヤ-ジュニャヴァルキヤに戻ったりしていないよね、っと、ちょっと心配してしまいました。まあ、禅の方なので大丈夫だとは思いますが。ことばづかいがちょっと心配です。
ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えて、ブッダが登場したと思います。
もし、ブッダが出てこなければ、いまだに、ヤ-ジュニャヴァルキヤがインド思想の頂点にいるだろうと思います。また、西洋的な思想も、インド思想の影響を受けて、そのエゴを膨らまし続けるだろうと思います。
今日、このように、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えてブッダが出てきたことが忘れられると、またぞろ、芳和さまのようなことをいう人や、ちょっと心配な「絶対的な境涯」などということをいう人が出てくるのじゃないかと、案じています。
「庭前の柏樹子」が、境(認識対象)ではないのは、
絶対的な境涯 だからではなくて、ア-トマン(エゴ)が脱落している からではないかと。。。
道元でいえば、身心脱落 ということです。
石飛先生、おはようございます。
> > 趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。
> というところや
> > 天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
> というところを読んで、もしかして、ブログを書いている方は、気づかずにヤ-ジュニャヴァルキヤに戻ったりしていないよね、っと、ちょっと心配してしまいました。まあ、禅の方なので大丈夫だとは思いますが。ことばづかいがちょっと心配です。
いまの禅の人は、このブログの人のように、『天地一パイの柏樹子』とか『天地一パイの自分』とか言うことが非常に多いです。
『大我』が前提のことが多いように思えます。
ワンネスやネオアドヴァイタ、ノンデュアリティそのものの禅者も数多いです。
『十牛図』では牛飼いの童子が逃げた牛を探しに行きます。
牛は、本来の自分のことです。
ところが、第7図以降は牛は登場しません。
第8図に至っては何も描かれていません。
ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。
仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
本当に矢を抜くことができるのかどうか。
そこが禅に限らずすべての仏教あるいは仏教以外の宗教でも問われなければいけないところでしょう。
そもそも、自分に矢が刺さっているとはほとんど誰も気づいてないのですから、大変です。
仏陀が悟ったときに、『説いても無駄だ』と思ったのも当然な気がします。
禅で本当に矢を抜くことができるのか、それは少し疑問です。
見性をしたことを印可されても、その体験がかえって我塊になり矢になって刺さることも数多い感じがしています。
ごく少数の天才的な人は、禅で悟って矢を抜くことができたのでしょうけど。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えて、ブッダが登場したと思います。
> もし、ブッダが出てこなければ、いまだに、ヤ-ジュニャヴァルキヤがインド思想の頂点にいるだろうと思います。また、西洋的な思想も、インド思想の影響を受けて、そのエゴを膨らまし続けるだろうと思います。
> 今日、このように、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えてブッダが出てきたことが忘れられると、またぞろ、芳和さまのようなことをいう人や、ちょっと心配な「絶対的な境涯」などということをいう人が出てくるのじゃないかと、案じています。
>
> 「庭前の柏樹子」が、境(認識対象)ではないのは、
> 絶対的な境涯 だからではなくて、ア-トマン(エゴ)が脱落している からではないかと。。。
> 道元でいえば、身心脱落 ということです。
最も根本的な問題ですね。
臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。
この一無位の真人と無我との関係はどうなのか、一無位の真人とア-トマンはどう違うのか、
そもそもア-トマンとは何か、ブラフマンとは何か、自洲の『自』とは何か、ここは本当に難しく、この根本的なところで混乱を極めていると言う気がしています。
ショ-シャンクさま おはようございます。
だいぶ考えました。
> いまの禅の人は、このブログの人のように、『天地一パイの柏樹子』とか『天地一パイの自分』とか言うことが非常に多いです。
> 『大我』が前提のことが多いように思えます。
> ワンネスやネオアドヴァイタ、ノンデュアリティそのものの禅者も数多いです。
う-ん、そうですか。ちょっとひっかかりますね。
まあ、「空」でも、アドヴァイタ的理解をする人がたくさんいますから。
こちらの方が、考えやすいということかもしれません。
>
> 『十牛図』では牛飼いの童子が逃げた牛を探しに行きます。
> 牛は、本来の自分のことです。
> ところが、第7図以降は牛は登場しません。
> 第8図に至っては何も描かれていません。
> ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。
『十牛図』は、昔見たとき、なかなかピンと来ませんでしたが、今回、ちょっと分かりました。分かりましたけど、イマイチ評価しずらいです。
第7図以降に牛が出てこないところが、何とか、仏教の面目を保っている感じですね。
その分、第6図までの「牛」が、問題になるかと。
牛を「心」と見るなら、心で統一すればよいと思いますが、「自己」とか言われると、「なに?」とか思いますよね。「自己」は、本来、ふつうの意味での「自分」でしょうね。
ざっくり言えば、変転する心を制御して、落ち着きを得て、利他の行いをしていこう、ということと理解してよいのだろうと思います。
「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。
十牛図は、「人」を中心に語っていて、五蘊とか身心とかには触れていない見方をとっているようです。だから、「牛」と「牧者」なのでしょう。
これなら、これで押し通した方がいいです。
たえず「牛」を制御している「牧者」となってくる。そうなると、制御されるので「牛」が消える。 (図7)
牛は牧者と一体化した(?)と考える。(となると、「牛」は「自己」ではなく「心」と観るべきでしょうね)
そして、牧者も消える。なぜなら、牧者である必要がなくなるから。(図8)
「返本還源」とあったけど、自然(外界)が再び現れるということは、牧者が復活したということだけど、牛はいないので牧者である必要はない。牧者でなければ何になるのか。。ということで、認識の対象だけがかがやく。(図9)
図9のように、認識対象があるなら、認識主体もあるだろう。見る目はどこにあって、それは、誰なのか。。ということで、他を救う布袋さん(図10)
(これを見る目は、衆生の目か?)
はっきりさせるべきは、「牛」「牧者」は消える、ということではないでしょうか。
となると、「自己」とか「一無位の真人」も、消えるということですよね。
これを消さないと仏教にならないな。
「ありのままの自然がある」(図9)というとき、自然を観察する目がどこかにあるはずですが、その目は「悟った人の目」※としてどこかにあるのか、「すべてを見渡す目」としてあるのかで、ちがって来ます。仏教にいくか外道にいくか、ということになりそうです。
※ちょっと訂正します。「悟った人の目」というのはないですね。
そうではなくて、悟った人に救われる「衆生の目」というのが、合っているのではないかと思います。
「悟った人」であれば、もはや見ることもいらないかもしれません。「如来(このようにやって来た者)」といわれる理由にもなっています。常に、如来は、大衆が見つめる目線の先にいます。
> ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。
牛に気をとられていること自体が、何か、問題の本質がずれてる感じがあります。
『十牛図』は、大きな声では言えませんが、どことなく素人っぽい感じのする図柄ですね。
どうして素人っぽいか検証してみましょう。
『カタ・ウパニシャッド』に有名なヨ-ガの説明があるのです。
こちらは、馬と馬車が出てくるのです。「牛」にあたるものが「馬」なのです。
馬は、感覚器官です。目の前に広がる道路が、感覚対象です。馬は、自分の好きな感覚対象に向かって暴走します。牛を手なずける牧者にあたるものは何か。これは、御者です。御者は、ブッディ(知性)です。ブッディが手綱をにぎって、感覚器官の暴走をおさえます。そして、御者とは関係なく、馬車の中には、主人がいます。この主人こそが、ア-トマンなのです。認識の暴走には一切関わらないが、主体として観察を行う認識の主体、それが、真人であるプルシャ、あるいは、ア-トマンなのです。
これは、サ-ンキヤの思想を説明するものです。これはこれで一貫しています。
さて、一方、仏教では、
ブッダは、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経の中で、くびきをかけた牛が田を耕す姿にたとえましたね。
「おまえも耕せ、耕して、種をまいて、それから食べよ」と言われたブッダは、「わたしもたがやし、種をまいてそれから食べる」と答えます。
ブッダは、耕す牛なのです。ブッダ自身が牛です。
信が種、苦役が雨、智慧がわたしのくびきと鋤、慚(恥じること)が長柄、心が縛る紐だと答えます。気づきは、鋤先と(牛を追う)棒です。
棒でうたれるたびに「気づく」ということでしょう。
78 身体を守り、言葉を守り、お腹に入る食べ物を制御し、真実を草刈りとして行い、柔和であることを(くびきから牛を)解き放つこととして行います。
79 精進が、わたしにとって、くびきを掛けた牛であり、瑜伽安穏(=涅槃の境地)に運んでくれるものです。退くことなく行きます。そして、そこに到達したなら、憂うことはありません。(「スッタニパ-タ」)
やっぱり、レベルが違いますよね。ウパニシャッドも「十牛図」よりはるかに詳細ですが、さらに、ブッダの解説は、群を抜いていますね。解脱まできちんと説明されています。
牛がくびきをはずして労役を逃れるように、瑜伽安穏の境地は、ホッと寂静を呼ぶ涅槃です。お見事!ブッダ!
> 仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
おっしゃる通りです。
バ-ラドヴァ-ジャに語った「耕す牛」の説明なら、矢が抜ける事がはっきり分かります。
> 本当に矢を抜くことができるのかどうか。
> そこが禅に限らずすべての仏教あるいは仏教以外の宗教でも問われなければいけないところでしょう。
ウパニシャッドは、矢を抜こうとして、楽に向かったと思います。オオクワガタの道ですよね。それなりに、極めるとその通りになる道だと思います。
しかし、ブッダは、「楽は苦のもと」として、楽に向かわず、苦の滅を目指しました。
楽に向かった人々が求めたものが、ア-トマン(我)でありプルシャ(真人)でありますから、それらを求めることなく、無我を説き、プルシャ(人)を五蘊と分析したのでしょう。
>
> そもそも、自分に矢が刺さっているとはほとんど誰も気づいてないのですから、大変です。
> 仏陀が悟ったときに、『説いても無駄だ』と思ったのも当然な気がします。
そうですね。だいたい「真の自己」を求めると、「楽」を希求することになりますから、ブッダの教えにはいけないことが多いのではないでしょうか。
真の自己も、気づきを得るためだ、とすれば、自分の矢に気づく方法にもなるのかもしれませんが。
>
> 禅で本当に矢を抜くことができるのか、それは少し疑問です。
> 見性をしたことを印可されても、その体験がかえって我塊になり矢になって刺さることも数多い感じがしています。
真の自己が残ってしまって、それがその人を苦しめるのかもしれませんね。
坐禅をするとかえって煩悩がましてしまうので、ちょっと困ります。
> 最も根本的な問題ですね。
>
> 臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
> 一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。
もろに、ヤ-ジュニャヴァルキヤのア-トマンみたいな解釈ですね。。すごいな。
プルシャ(ア-トマン)は心臓内にある光明です。死ぬ時、それは、目などの身体の部分からでていきます。それが出て行くとき、プラ-ナ(生気)が後に従い、それにつれて他の諸機能もすべて出て行くのです。
眠るとき、このプルシャは、この世とかの世(ブラフマン界)を行き来すると言われます。
また、この他に、後代のヨ-ガ学派では、ア-トマンは身体のあらゆるところに行きわたっていると解釈したりします。それを観ずることも冥想です。生気の流れとして皮膚の表面にまでア-トマンが行きわたっているのを観ずるのです。
う-ん、ほとんど、ア-トマン論のようですね。
> この一無位の真人と無我との関係はどうなのか、一無位の真人とア-トマンはどう違うのか、
> そもそもア-トマンとは何か、ブラフマンとは何か、自洲の『自』とは何か、ここは本当に難しく、この根本的なところで混乱を極めていると言う気がしています。
混乱しますよね。
わたしは、ある程度、決着をつけています。外道も研究したおかげかも(笑)
もし、「一無位の真人」を観ているのなら、さっさと消した方がいいのではないかと思いますね。
「十牛図」でも消えてましたよね。
ア-トマン(我)とプルシャ(真人)は、もともとは違っていて、ア-トマンは、どちらかと言うと「気息」などと関連し、霊魂、霊我、魂などのような目に見えない生命のもとと言った感じがします。
プルシャは、「人」です。一個の人間、統括された生命体全体という感じです。「心臓の内部にある親指大のプルシャ」などと、説明されると、人のかたちをしたものが心臓内部にあるようなイメ-ジを持ちますね。やがて、どちらも同じ意味を担うようになり、区別せずに用いられるようになります。
こういう形而上学的な「ア-トマン」という意味を、決してもたないのが、ブッダの使い方です。
「自洲」は、「自分を拠り所にしなさい」ということだと考えてよいと思います。
ブッダは、わたしたちが普段使って話している話し方をそのまま認めてくれます。
相手に合わせて使い分けてくれるので、ブッダのことばであることがはっきりしているなら、自分が理解していることばの意味に受けとって大丈夫なのです。
外道が用いている意味にとってしまったらどうか?
その場合、最終的に、そのことばはかならず否定されてくると観てよいのじゃないでしょうか。
「賊」となったブッダが根こそぎさらっていってくれるということで。
【2021/06/12(Sat) 07:25:32 投稿者により修正されました。】
石飛先生、おはようございます。
> う-ん、そうですか。ちょっとひっかかりますね。
> まあ、「空」でも、アドヴァイタ的理解をする人がたくさんいますから。
> こちらの方が、考えやすいということかもしれません。
確かに、アドヴァイタはわかりやすいですね。
頭で十分理解ができます。
> 第7図以降に牛が出てこないところが、何とか、仏教の面目を保っている感じですね。
> その分、第6図までの「牛」が、問題になるかと。
> 牛を「心」と見るなら、心で統一すればよいと思いますが、「自己」とか言われると、「なに?」とか思いますよね。「自己」は、本来、ふつうの意味での「自分」でしょうね。
> ざっくり言えば、変転する心を制御して、落ち着きを得て、利他の行いをしていこう、ということと理解してよいのだろうと思います。
> 「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。
先生が、そこを問題とされるのは理解できます。
しかし、私のようなレベルのものは、『現在の自分と違う本来の自分』というものを設定したほうがわかりやすいことも確かです。
またそのような『化城』を設定しないと行こうという気にならないところがあります。
禅では、『父母未生以前本来の面目』を徹底的に考え抜きます。
もちろん考えても答えが出るわけはないのですが、これはある程度効果があるやり方だと思います。
私は、黙照だけの禅では、どこにも行き着かず、やはり仏陀の理法を洞察するやり方が最善だと思っているのですが
『父母未生以前本来の面目』は、知らず知らずに五蘊非我を観ずる結果になることもあるような気がします。
> 十牛図は、「人」を中心に語っていて、五蘊とか身心とかには触れていない見方をとっているようです。だから、「牛」と「牧者」なのでしょう。
> これなら、これで押し通した方がいいです。
> たえず「牛」を制御している「牧者」となってくる。そうなると、制御されるので「牛」が消える。 (図7)
>
> 牛は牧者と一体化した(?)と考える。(となると、「牛」は「自己」ではなく「心」と観るべきでしょうね)
> そして、牧者も消える。なぜなら、牧者である必要がなくなるから。(図8)
>
> 「返本還源」とあったけど、自然(外界)が再び現れるということは、牧者が復活したということだけど、牛はいないので牧者である必要はない。牧者でなければ何になるのか。。ということで、認識の対象だけがかがやく。(図9)
>
> 図9のように、認識対象があるなら、認識主体もあるだろう。見る目はどこにあって、それは、誰なのか。。ということで、他を救う布袋さん(図10)
> (これを見る目は、衆生の目か?)
> はっきりさせるべきは、「牛」「牧者」は消える、ということではないでしょうか。
> となると、「自己」とか「一無位の真人」も、消えるということですよね。
> これを消さないと仏教にならないな。
> 「ありのままの自然がある」(図9)というとき、自然を観察する目がどこかにあるはずですが、その目は「悟った人の目」※としてどこかにあるのか、「すべてを見渡す目」としてあるのかで、ちがって来ます。仏教にいくか外道にいくか、ということになりそうです。
>
> ※ちょっと訂正します。「悟った人の目」というのはないですね。
> そうではなくて、悟った人に救われる「衆生の目」というのが、合っているのではないかと思います。
> 「悟った人」であれば、もはや見ることもいらないかもしれません。「如来(このようにやって来た者)」といわれる理由にもなっています。常に、如来は、大衆が見つめる目線の先にいます。
>
> 牛に気をとられていること自体が、何か、問題の本質がずれてる感じがあります。
> 『十牛図』は、大きな声では言えませんが、どことなく素人っぽい感じのする図柄ですね。
確かに、先生からすると、十牛図は、幼稚で素人っぽいかもしれません。
牛を設定することなど必要ない、本質から外れてしまうと思われるのも分かります。
本来の自分とか、そういうものを設定するんじゃない!と怒られる気持ちもわかります。
第8図だけでいいのかもしれません。
しかし、それではとっかかりがありません。
最終的には、牛の設定も筏だったとわかればいいと思います。
まずは、彼岸に行こうとする意思を起こさなければ何も始まりません。
浄土教でも、やはり阿弥陀仏が実在していて蓮の花が咲いている浄土に仏像のような阿弥陀様が座っておられると信じるから救われる人も出てきます。
最初から、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』というのが本当なのでしょうけど、『それを言っちゃおしまい』のような気がします。
『いやあ、実はネタでした。』とは言わないほうがいいと思います。
これから出ますので、また後から続きを書かせていただきます。
ショ-シャンクさま
お出かけされているとは思いますが、気づいた点を書いてみておきます。
> > 「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。
>
>
> 先生が、そこを問題とされるのは理解できます。
> しかし、私のようなレベルのものは、『現在の自分と違う本来の自分』というものを設定したほうがわかりやすいことも確かです。
> またそのような『化城』を設定しないと行こうという気にならないところがあります。
ここを拝読して、納得しました。
了解です。
『現在の自分と違う本来の自分』と設定する、という、この「自分」とおっしゃるところに、わたしは興味をもつのです。
これは、本当に、お釈迦さまが述べるところの「自分」ということばの意味ですね。
『ダンマパダ』などで「自分が自分の守護者である。他人が、どうして守護者になるだろうか。自己をよく調御するならば、得難き守護者を獲得するのである。(160)」と言われることばの使い方と同じですね。
「『本来の』自分」か、なかなか悩ましい表現ですね。罠の危険を回避しつつ、考えていかねばならない、ということか。。なるほどなあ。
> 禅では、『父母未生以前本来の面目』を徹底的に考え抜きます。
> もちろん考えても答えが出るわけはないのですが、これはある程度効果があるやり方だと思います。
> 私は、黙照だけの禅では、どこにも行き着かず、やはり仏陀の理法を洞察するやり方が最善だと思っているのですが
> 『父母未生以前本来の面目』は、知らず知らずに五蘊非我を観ずる結果になることもあるような気がします。
ここも「『本来』の面目」といわれるのですね。自分というものをト-タルで考えていきましょう、という姿勢ですね。
「父母未生」により、わたしには、輪廻と業が意識されてきます。五蘊非我も確かに見えてきそうです。
> 確かに、先生からすると、十牛図は、幼稚で素人っぽいかもしれません。
> 牛を設定することなど必要ない、本質から外れてしまうと思われるのも分かります。
> 本来の自分とか、そういうものを設定するんじゃない!と怒られる気持ちもわかります。
いえ、別に怒っているわけではありません。
>
> 第8図だけでいいのかもしれません。
> しかし、それではとっかかりがありません。
確かにそうです。おっしゃる通りで、第8図だけではまずいです。
わたしが言いたいのは、牛と牧者をどう見るか、どう見ると、ブッダの説くような「矢を抜くこと」が可能になるか、ということで、分けるのが悪いと言っているのではないのです。
どんなやり方でも、悟りにいけるならそれでいいと思います。ただ、いかにも、我へと突き進みそうなところにチェックを入れていくのです。
>
> 最終的には、牛の設定も筏だったとわかればいいと思います。
> まずは、彼岸に行こうとする意思を起こさなければ何も始まりません。
おっしゃる通りで、その点では、牛と牧者でも問題はないのです。
わたしが心配するのは、牛と牧者が一体化するところで、これこそが「本来」の自己だと、して、執着にいかないか、という点です。
それがクリアできれば、問題はありません。
>
>
> 浄土教でも、やはり阿弥陀仏が実在していて蓮の花が咲いている浄土に仏像のような阿弥陀様が座っておられると信じるから救われる人も出てきます。
> 最初から、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』というのが本当なのでしょうけど、『それを言っちゃおしまい』のような気がします。
> 『いやあ、実はネタでした。』とは言わないほうがいいと思います。
わたしは、いわゆる「うそも方便」みたいなネタという考え方はろらないです。
最後に得られる感慨を、あらかじめ持ってしまうことは、大きな危険であり、誤った行いにもなると思っています。
仏教は順序が大事だからです。
> これから出ますので、また後から続きを書かせていただきます。
待ちきれず、余計なことを書いてしまったかもしれませんが、よろしくお願いします。
石飛先生、ありがとうございます。
> 『現在の自分と違う本来の自分』と設定する、という、この「自分」とおっしゃるところに、わたしは興味をもつのです。
> これは、本当に、お釈迦さまが述べるところの「自分」ということばの意味ですね。
> 『ダンマパダ』などで「自分が自分の守護者である。他人が、どうして守護者になるだろうか。自己をよく調御するならば、得難き守護者を獲得するのである。(160)」と言われることばの使い方と同じですね。
> 「『本来の』自分」か、なかなか悩ましい表現ですね。罠の危険を回避しつつ、考えていかねばならない、ということか。。なるほどなあ。
よく言われる言葉に、『何かになろうとするのも自我』『いまの自分でない何かになろうとするのは間違っている』『自分は自分であればいい』などというのがありますね。
あるいは『悟ろうというのも自我』という人もいます。
ただ、いまはっきりわかるのは、『ありのままの自分でいい』というよく言われる言葉は全く違うということです。
ありのままの自分では絶対にいけないと思います。
ありのままでは、激流に押し流されたままです。
今まで積み上げてきた記憶の束が感覚に対して今までと同じように反応しつづけ、苦の集積へと向かうだけです。
この人間の真実をみていないものが、『ありのままの自分でいい』というのだと思います。
最後の最後まで、つまり解脱するまでは、自我はなくならないと思っています。
これは自力だ、これは自我だ、と言っていては、よくなろうという意志が生まれないでしょう。
自我であっても自力であっても、あがく必要はあると思います。
また、大我のようなものを設定することに危険性を感じておられると思いますが、
これもある程度途中までは仕方ないことのように思えます。
最後に、『これも筏だった』と捨てられればいいのではないかと思うのですが、どう思われますか?
ショ-シャンクさま 微妙に難しくなりましたね。
少し論調が変わりましたか?
> よく言われる言葉に、『何かになろうとするのも自我』『いまの自分でない何かになろうとするのは間違っている』『自分は自分であればいい』などというのがありますね。
> あるいは『悟ろうというのも自我』という人もいます。
>
> ただ、いまはっきりわかるのは、『ありのままの自分でいい』というよく言われる言葉は全く違うということです。
これらのことばは、仏教を志そうとする人が述べているのでしょうか。
ふつうの人がこう言うなら、それはその人の考えかと思います。
「悟ろうとするのも自我」というなら、どういう状況で言うのかが問題ですね。
> ありのままの自分では絶対にいけないと思います。
> ありのままでは、激流に押し流されたままです。
まあ、わたしがこう言うわけではないので、ショ-シャンクさまにそう言われても、どうしようもありませんが。。
> 今まで積み上げてきた記憶の束が感覚に対して今までと同じように反応しつづけ、苦の集積へと向かうだけです。
> この人間の真実をみていないものが、『ありのままの自分でいい』というのだと思います。
状況としては、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりになりそうな感じはありますが、それぞれ個々に事情もありそうだなと。なんとなく、仏道の修行に入った人が、あきらめてきている雰囲気が漂います。挫折したかな、という感じです。
> 最後の最後まで、つまり解脱するまでは、自我はなくならないと思っています。
> これは自力だ、これは自我だ、と言っていては、よくなろうという意志が生まれないでしょう。
> 自我であっても自力であっても、あがく必要はあると思います。
ふうむ、やはり、ショ-シャンクさまは、自力聖道門の人ですね。
> また、大我のようなものを設定することに危険性を感じておられると思いますが、
> これもある程度途中までは仕方ないことのように思えます。
ショ-シャンクさまが自力聖道門タイプということであれば、大我の危険性は、一番ショ-シャンクさまがご存じです。
「父母未生『本来』の面目」「『本来』の自己」を自力で行こうという人が、それを目標に目指すとすれば、もし、本当に純粋にそう思うのであれば、そこには、「無知(痴)」という要素が見られると思います。
本人が矛盾していることに気づいていないかもしれません。原因としては、おそらく、欲などの三毒が悪さをしているかもしれないと思います。
なぜかと言えば、「ありのままの自分」を見失っているからです。
ありのままの自分で良いと思うなら、理屈からすれば、大我が出てきますね。
ありのままの自分を見つめたら、まず、確実に自我にぶち当たるのではないでしょうか。
途中までは仕方がない、として、ある程度出てきたところで止めよう、などと考えるのは甘いのではないでしょうか。大我を止められると思いますか。そんなに、人間、器用なものでしょうか。
実際に、大我をコントロ-ルして悟りに行こう、などと考えるゆとりはありません。
ご本人は気づかず、まわりに指摘されてようやく気づくことになるのではないでしょうか。
わたしが思いますのには、自力で行く人が「本来の自己」を見いだそうとするのは大我を求めて行くようなものだと思います。
もし、本来の自己を求めるなら、それは「壊すべき自己」でしかありません。
となると、これは、大我に気づいて、それを壊すために行っている作業なのではないでしょうか。
そうでないと、解脱を求めているのに、前に進まず後ろ向きに進んでいるような感じがします。
もし、「ありのままの自分でよい」と思うような人なら、その人こそ「父母未生本来の面目」を見つめていき、「空」と知ることになるのではないかと。
「ありのまま」と考える人が、大我にいかない道は、空しかありません。
> 最後に、『これも筏だった』と捨てられればいいのではないかと思うのですが、どう思われますか?
仏教の教えを捨てるのは、至難のワザです。
向こう岸に着くかどうかが、まず大問題ですが、彼岸にわたったとしても、これまでの法を全部捨ててかかるのは、なかなかたいへんだろうと思います。
しかし、捨てないとだめだということも分かります。捨てられるようでないと、彼岸にはわたりきれていないということにもなるかと。
惜しげなく捨てられる人は、一切智者なのです。
一切智を得ているということと、一切を捨てているということは、悟っていない者からすれば、同じことです。
結論から言いますと、大我を積極的に求めて行き、その苦しみを実感して、それらの教えを捨てる、という道もあると思います。
わたしは、どちらかと言いますと、この道を来ています。後になって、こういう道を来たことを知りました。龍樹に出会いましたね。
最初から仏法に行った人は、ブッダの教えるやり方(清浄行)が、早いと思います。声聞乗ですね。
「十牛図」で悟ろうと思う人は、徹底して「空」に行くか「無我」に行くかしないと、ぐちゃぐちゃになりそうだと思います。
その意味で、第10図に疑問を感じてます。
素人っぽい感じは、第10図があるからだと思います。
十牛図のYoutubeを見ていたのですが、第10図の説明がどうもよく分かりませんでした。
第9図までは、一貫していると思います。おっしゃるように、突然、最初から第8図を見いだすことはできないと思いますから。
もし、第10図に意味を見いだすとしたら、それは菩薩の道だろうなと思います。
悟りを求める、というより、菩薩であり続けようという道のような気がします。
石飛先生、おはようございます。
> ふうむ、やはり、ショ-シャンクさまは、自力聖道門の人ですね。
聖道門というのは、大乗仏教を浄土門と聖道門に分けたものですよね。
私は、そのどちらでもないと思います。
と言って、部派仏教でもないです。
大乗仏教でも部派仏教でもなく、仏陀と直弟子の時代、仏陀は本当は何を言いたかったのかに関心がある人間です。
ですから、私は、大我というものは立てません。ア-トマンやプルシャもただのmohaだと思っています。
ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。
私は、大我やア-トマン、ブラフマンは、立てませんが、強いて言うなら、本来の心の状態というのは無量心だと思っています。
この無量心が無明⇒行によって、五蘊が集まり、今の私のこの生があるのだと実感しています。
> 「十牛図」で悟ろうと思う人は、徹底して「空」に行くか「無我」に行くかしないと、ぐちゃぐちゃになりそうだと思います。
> その意味で、第10図に疑問を感じてます。
> 素人っぽい感じは、第10図があるからだと思います。
> 十牛図のYoutubeを見ていたのですが、第10図の説明がどうもよく分かりませんでした。
> 第9図までは、一貫していると思います。おっしゃるように、突然、最初から第8図を見いだすことはできないと思いますから。
> もし、第10図に意味を見いだすとしたら、それは菩薩の道だろうなと思います。
> 悟りを求める、というより、菩薩であり続けようという道のような気がします。
禅は仏陀の理法を洞察することがないので、私は禅の道を進もうとは思いません。
ただ、学生の時によく、禅の本は読んで公案は好きでした。
十牛図など懐かしい気分で思い出しています。
いまはあまり興味ありませんが。
私の解釈では、十牛図の第8図、第9図、第10図は、無量心の『体』、『相』、『用』なのです。
ですから、第十図は極めて重要だと感じています。
先生の言われる菩薩道を表わしたものでしょう。
ショ-シャンクさま おはようございます。
> 大乗仏教でも部派仏教でもなく、仏陀と直弟子の時代、仏陀は本当は何を言いたかったのかに関心がある人間です。
了解です。
> ですから、私は、大我というものは立てません。ア-トマンやプルシャもただのmohaだと思っています。
インド思想でない人は、むしろ考えにくいのかもしれない、と思ったりもします。
ア-トマンやプルシャという名称は、今日、違うことばに置き換わっているかもしれません。ちょっと、これという名前は出てきませんけど。
>
> ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
> 大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。
なるほど、なかなか仏法の要点を捉えていますね。
つまりは、仏法は仮設であるということでしょうか。
>
> 私は、大我やア-トマン、ブラフマンは、立てませんが、強いて言うなら、本来の心の状態というのは無量心だと思っています。
> この無量心が無明⇒行によって、五蘊が集まり、今の私のこの生があるのだと実感しています。
本来の心の状態、という風にお考えになるのですね。そこに無量心を見ると。
> 禅は仏陀の理法を洞察することがないので、私は禅の道を進もうとは思いません。
> ただ、学生の時によく、禅の本は読んで公案は好きでした。
> 十牛図など懐かしい気分で思い出しています。
> いまはあまり興味ありませんが。
そうですか。
禅は、あまり分かりませんが、道元はブッダの理法を洞察しているように思われて仕方ありません。
禅の心をもって到達したのかな、と最初は思っていましたが、実際は、すごくよく勉強しているんだなと思います。
若いうちに悟りを得ているように思いますので、巧みなのだろうと思っています。
> 私の解釈では、十牛図の第8図、第9図、第10図は、無量心の『体』、『相』、『用』なのです。
ふうむ、そうですか。そういう風にごらんになっているのですね。
おもしろい!
了解しました。。
大我は立てないということでしたが、パ-スペクティブとしては、広い視野でごらんになっているということですね。世界を見る目を得ている、という感じでしょうか。。
> ですから、第十図は極めて重要だと感じています。
> 先生の言われる菩薩道を表わしたものでしょう。
そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
イヤ、違うのかな。視野としては、最初から広い視野を持っているかもしれないと、今!、思いました。
そういうことなら、十牛図は矛盾していないかもしれません。
わたしは、禅ということなので自己の探究という要素が強いのだろうと、勝手に思い込んで理解しようとしていたので、ピンと来なかったのだと思います。
なるほどなあ、大我は立てないとしても、大我という視点は忘れていない、ということかもしれないなぁ。。(ほとんどひとりごとです)
個人的には、ゴ-パ-ル(牛飼い)であるクリシュナ(ヴィシュヌの化身)の画像と、一匹の迷える羊を探すキリストとが、重なるような図だなあと思って、まったく関係ないところで、おもしろく思っていました。
このように、どこか、一神教的な雰囲気も感じながらお話しを聞いていましたので、途中経過に大我が出てくるのも分かります。どうしても、そうなりますね。
これは、第8図がないとトンデモないことになるな、とも思います。第7図が過渡的な図で、第8図以降パ-スペクティブが、これまでとまったく違う、という風に考えます。
どうも、ありがとうございました。一つ大事なところを了解しました。
石飛先生、おはようございます。
> 禅は、あまり分かりませんが、道元はブッダの理法を洞察しているように思われて仕方ありません。
> 禅の心をもって到達したのかな、と最初は思っていましたが、実際は、すごくよく勉強しているんだなと思います。
> 若いうちに悟りを得ているように思いますので、巧みなのだろうと思っています。
今までの日本において、仏陀の理法、特に四諦十二縁起はほとんどかえりみられることはありませんでした。
それほど五時教判が強烈に支配してきましたし、文献学が発達していない時には、圧倒的な説得力を持っていました。
日本人がスッタニパ-タを読めるようになったのも、ここ何百年かのことではないかと思います。
道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
ただ、三十七菩提分法をわざわざ取り上げているのは、さすがというしかありません。
> そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
その通りです。
ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。
禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。
大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。
『人』がいて、『牛』を探してきたのは、顛倒妄想ということです。
その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。
と禅の門外漢が戯言を言ってみます。
ショ-シャンクさま 興味深い話題をありがとうございます。
> 今までの日本において、仏陀の理法、特に四諦十二縁起はほとんどかえりみられることはありませんでした。
なるほど、そのように受けとめられているのですね。
わたしは、最近、ようやく日本の仏教に入り込んできて、「なぜ、日本人は、ブッダの仏法をあやまたずに受けとめてきたのか」という問題を考えています。
わたしの目には、すごくうまく仏教を受けとめてきたような気がしてなりません。
庶民の仏教理解が、特に善いのかなとか思ったりもしています。
> それほど五時教判が強烈に支配してきましたし、文献学が発達していない時には、圧倒的な説得力を持っていました。
五時の教判は、それなりにあたっているところもあると思います。なるほど、と思ったりもします。
ブッダの教えを、巧みな方便(行法)として捉える捉え方だと思います。
> 道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
う-ん、どうなんだろう。
わたしは、インドの思想を適切に読み取っていると思って、「へえ~」と感心しています。
『大智度論』とかしっかり読んだのかしら。。などと思ったり。
> 小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
偏見でしょうか。
まず、道元は、大乗の人で、空を確実に手に入れていますね。
しかし、縁起にも強く、龍樹もよく知っています。そして、ミスがない。これは禅定の成果かと思っています。
パ-リ語仏典など知らないだろうと思われるのですが、それとの間に矛盾がみられないのも、驚愕です。ブッダの論理を知っている人だという気がします。
> > そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
>
> その通りです。
> ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。
そうですか。。断絶のあるのが禅、ですか。。
実際のところ、わたしが、素人っぽいと思うところに重なります。
禅なのに断絶があるなんて、という感じもあります。
> 禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。
あら、門外漢なのですか?!
わたしよりずっと詳しいし、禅をなさっているのかと思っていました。
この断絶のあるところが、ネックなのでしょうか。
わたしとしては、「十牛図」は、解釈がいくつもあり得るのが、ちょっと問題のように感じます。断絶する個所が、解釈によって移動するのが、何だか収まりが悪い感じがするのです。
>
> 大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
> ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。
ああ、なるほど、ここは、分かるような気がします。
大死一番、また、百尺の竿頭一歩を踏み出すのは、波羅蜜行の展開ですね。
「人」はなくなるとしても、「行(サンカ-ラ)」は強力に出てくると思います。
ここは、ここで善いけど、なんで、それが禅の中で現れるのか。。変な感じです。
>
> 『人』がいて、『牛』を探してきたのは、顛倒妄想ということです。
う-ん、「『牛』とはなんぞや?」とあらためて問いたくなりますね。
もっとスッキリした説明ができないのだろうか?
それより、「何やってんだ、何がやりたいんだ???」って言いたくなっちゃう。
もし、本当にショ-シャンクさまの説明どおりなら、空と縁起をでたらめに結びつけて修行っぽく見せてるだけのような気もしてきてしまいますが、まさかそんなことはないでしょう。
何か、わたしには分からない意図なり何なりあるのではないかと思うしかありません。
>
> その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。
>
> と禅の門外漢が戯言を言ってみます。
ショ-シャンクさまも、「門外漢」とおっしゃっているということは、この、禅という道からはずれていった、ということですね。
理解した最大の説明が、体・相・用の解釈だったと、いうことかと。
う--ん、分からん!
「十牛図」は分からない、と、なりました。
そもそも、自分の中では、断絶は起こりえません。
ましてや、禅の行では、と、自分は思います。
区切りをつけるとすれば、サマ-ディということになると思います。
> ショ-シャンクさま 興味深い話題をありがとうございます。
興味深くない話を 差し込む
***********
< 参照 > Re: 仏陀は三明者 - 春間 則廣 06/14-13:07 No.21817
> > 道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
> う-ん、どうなんだろう。
> わたしは、インドの思想を適切に読み取っていると思って、「へえ~」と感心しています。
> 『大智度論』とかしっかり読んだのかしら。。などと思ったり。
読まずに、 曹洞宗 の 十四祖 に 龍樹が存在できない
八宗兼学 は 日本仏教の要
( 道元に限らず、
玄ボウ、空海、最澄、法然、日蓮 等々 皆、 教判出来るほどに 仏教を学んでいる )
> > 小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
> 偏見でしょうか。
道元にある偏見 か 、 小乗 という処の 偏見 か
( 言われる処の偏見 ・ 言う処の偏見 どちらか ? )
> まず、道元は、大乗の人で、空を確実に手に入れていますね。
> しかし、縁起にも強く、龍樹もよく知っています。そして、ミスがない。これは禅定の成果かと思っています。
果 ではないが、 禅定にある ということ ( 行住坐臥 に 「 禅 」 )
> パ-リ語仏典など知らないだろうと思われるのですが、それとの間に矛盾がみられないのも、驚愕です。ブッダの論理を知っている人だという気がします。
パ-リ語仏典 が ブッダの言葉そのもの ではないが、
パ-リ語仏典 からでも ブッダの行いを知ることは適う
( ただし、 「 唯仏与仏乃能究尽 」 )
頭の悪い人は、 頭の悪いなりに、
頭の良い人のことを理解する が
頭の良い人 ( その良さの仕組み )の こと を
知らぬ ・ 知ろうとしないから 、 “ 頭が悪い ” となる
悪さ が 元々ある のではなく
悪さ を 選択することにより 悪さ は 起きる
( 他によって、 悪いと 選択される )
> > > そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
> > その通りです。
> > ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。
> そうですか。。断絶のあるのが禅、ですか。。
> 実際のところ、わたしが、素人っぽいと思うところに重なります。
> 禅なのに断絶があるなんて、という感じもあります。
禅( 禅宗・仏宗 ) には、 血脈があり 仏子 が起き、 釈家 が 起きる故に
釋 空海 と 記名したり 、 沙門( シャ-マン ) 空海 と 記したりする
その血脈 は 、 「 血 」 そのものであり、 仏陀 を 意味する
> > 禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。
> あら、門外漢なのですか?!
> わたしよりずっと詳しいし、禅をなさっているのかと思っていました。
わたしは 「 禅 」 を行じている とは 微塵も思ってはいない
ただ、 自分の理屈 を “ 自分の(!)生き様 ” に 当てはめているだけ
だと 観る ( 看過する )
以下 そのように、 思い込みが 続けられていく 、、、、 ( 思い込みではなく、 事実かな ? )
> > 大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
> > ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。
> ああ、なるほど、ここは、分かるような気がします。
『人』はなくなる ゆえに 人ではなく 仏陀となる
> 大死一番、また、百尺の竿頭一歩を踏み出すのは、波羅蜜行の展開ですね。
あくまでも、 他人事に過ぎなくなる
何を以てして、 「 百尺の竿頭一歩を踏み出す 」 ということになるのか 、、、、
・
石飛先生、おはようございます。
> わたしは、最近、ようやく日本の仏教に入り込んできて、「なぜ、日本人は、ブッダの仏法をあやまたずに受けとめてきたのか」という問題を考えています。
> わたしの目には、すごくうまく仏教を受けとめてきたような気がしてなりません。
> 庶民の仏教理解が、特に善いのかなとか思ったりもしています。
そうですか。
私は、仏陀が本当に言いたかったことを探しているうちに、いかにいまの仏教は仏陀が言おうとしたこととかけ離れていったのかを知って愕然としているところです。
仏陀の直説を正しく伝えていると自負している上座部仏教でさえ、『dukkhaは苦という意味ではない』などと言っていますから、仏陀が悟ったときに『説いても誰にもわからないだろう』と説くのをあきらめたのも仕方ないことかもと思っています。
それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。
> 五時の教判は、それなりにあたっているところもあると思います。なるほど、と思ったりもします。
> ブッダの教えを、巧みな方便(行法)として捉える捉え方だと思います。
五時教判は、見事というしかありません。
南三北七で、涅槃経と華厳経がそれまでの中国仏教でのツ-トップでした。
法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
それほど、華厳経と涅槃経は優れているからです。
特に、華厳経の、悟りそのままとも言える最高度に純度の高い教えをどう位置づけるか、これは難題でしょう。
その回答として、五時教判は実に見事です。
華厳経を仏陀の悟り直後の教えとしました。
高くて純粋で悟りそのままの教えだけど、純粋無垢すぎて方便がなく何より教えが高度すぎて誰にも理解できなかったとしました。
そこで反省した仏陀は、誰にもわかるようにレベルの低い教えである阿含経を説いたとしました。
それから段階的に教えのレベルを上げていくのですが、その場合、最後の教えが最も素晴らしいという結論にならざるを得ません。
そうすると、最期の教えたる涅槃経が最高という結論になってしまいます。
ここでまたまたウルトラCを使います。
仏陀は最後に真髄たる法華経を説いたけれども、入滅のとき、説きもらしていたものを補足の形で説いた、落穂拾いのような経典が涅槃経としました。
なんともすごいスト-リ-テラ-です。
そして、確かに、その経典の特徴をうまく表現していて、まさしく匠の技という感じです。
他にも教相判釈は数多いですが、ここまで見事なスト-リ-仕立てになっているものはありません。
いったん、切って、あとで続きを書かせていただきます。
ショ-シャンクさま
わたしとしては、なかなかお話ししにくいところに入ってきてしまいました。
ショ-シャンクさまとは、少しニュアンス的に異なる感触を得ているようです。
> 私は、仏陀が本当に言いたかったことを探しているうちに、いかにいまの仏教は仏陀が言おうとしたこととかけ離れていったのかを知って愕然としているところです。
ブッダが積極的に何かを言おうとしたのではなく、衆生の苦しみや悩みを見て、それをなくすような、そのような教えをそれらの人々に合わせて説いたものだろうと考えています。
そういう意味では、何をどう説いても、ブッダが衆生を救っていれば、ブッダのことばであるということで、説いた内容そのものはそれほど気になりません。
> 仏陀の直説を正しく伝えていると自負している上座部仏教でさえ、『dukkhaは苦という意味ではない』などと言っていますから、仏陀が悟ったときに『説いても誰にもわからないだろう』と説くのをあきらめたのも仕方ないことかもと思っています。
上座部の仏教であれなんであれ、、もし、こだわりを持つようになると、ブッダの説くところからはずれて行くだろうと思います。
> それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
> ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。
悟ったブッダは、別に衆生におもねる必要はないので、純粋に梵天との約束を守ってこの世で苦しむ人々を救うために、まさに「無知の闇に沈む世界で不死の太鼓を打ち鳴らし」たのだろう、と思っています。
> 法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
大乗経典は、何か意図をもって受けとられてきたように思いますので、困ることはなかったのではないか、という感じがしています。知らない人が、この経典を受けとったわけではなく、自分なりの必然性を以て探求して行った人がであったものだったのではないか、と思うのです。
こういうものは、人為というのは、そんなにはたらいていないと思います。おのずと定まるべき位置におさまっていくのではないかという風に考えます。
インドの伝統では、人間の手になるものではない、というのが、ヴェ-ダなど聖典の特徴です。
大乗などの経典類を受けとった者たちは、ブッダの教えに深く入っていき、信をもって受けとったでしょうから、受けとった経典がどこに位置づけられ、どんなものであるか心配することはなかったと思います。
> それほど、華厳経と涅槃経は優れているからです。
> 特に、華厳経の、悟りそのままとも言える最高度に純度の高い教えをどう位置づけるか、これは難題でしょう。
>
> その回答として、五時教判は実に見事です。
> 華厳経を仏陀の悟り直後の教えとしました。
そうですね。わたし自身も、あまりよくは分かりませんが、ブッダの悟りの直後瞑想に入っていましたから、その辺の事情は了解できます。
> 高くて純粋で悟りそのままの教えだけど、純粋無垢すぎて方便がなく何より教えが高度すぎて誰にも理解できなかったとしました。
> そこで反省した仏陀は、誰にもわかるようにレベルの低い教えである阿含経を説いたとしました。
部派の人に怒られそうですが、分かりやすい教えにしたのは了解できます。
ブッダは、人々に教えを説くにあたって、ものすごくいろいろと智慧を発揮しています。そこを知ると、レベルが低いなどと簡単には言えないと思います。
たとえ、分かりやすくなっていても、きちんと悟りにいけるのですから、手を抜いているわけではありません。
> それから段階的に教えのレベルを上げていくのですが、その場合、最後の教えが最も素晴らしいという結論にならざるを得ません。
> そうすると、最期の教えたる涅槃経が最高という結論になってしまいます。
>
> ここでまたまたウルトラCを使います。
> 仏陀は最後に真髄たる法華経を説いたけれども、入滅のとき、説きもらしていたものを補足の形で説いた、落穂拾いのような経典が涅槃経としました。
>
> なんともすごいスト-リ-テラ-です。
わたしは、『大般涅槃経』は、ブッダの未練(?)を感じて仕方ないですね。
涅槃に入らなければならないけど、衆生を救う気持は時を超えて持ち続けている、と、ブッダが意思表示しているように見えて仕方がありません。考えすぎかなとは思いますが。
また、『法華経』は、この世にありえないスタイルの経典だと思っています。
縁起と空を一つに何とかおさめた経典で、ありとあらゆる未来に対応し、過去にもつながる、常人の理解を超えていながら、しかし、どんな人でも読んで信仰できるように作られています。
日本人は、よく『法華経』を受容したなあと、ほんとに感心します。後、浄土教を受け容れましたね。
因果に向いた国民性だったのですかね。
一般庶民が、仏法を受け入れるだけの度量をもっていたのかなあ、と感慨深く思います。
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> そして、確かに、その経典の特徴をうまく表現していて、まさしく匠の技という感じです。
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> 他にも教相判釈は数多いですが、ここまで見事なスト-リ-仕立てになっているものはありません。
やはり、仏教に深い信心をもつ者たちが、智慧を駆使して出現させたのだろうと思わざるをえません。
ショ-シャンクさまとは、少しニュアンスが異なる解釈になってしまいましたが、大乗のすばらしさという点では、それは共有されているのかなと思います。
石飛先生、ありがとうございます。
> わたしとしては、なかなかお話ししにくいところに入ってきてしまいました。
> ショ-シャンクさまとは、少しニュアンス的に異なる感触を得ているようです。
私は、今までの仏教理解をいったん白紙にして、歴史上の仏陀が言ったことは本当はどんなものだったのかを探求したいと思いましたので、大乗仏教や部派仏教の全否定を出発点としています。
ですから、様々な仏教者から反対意見をいただいてきたのですが、それでもそれを貫いてきたのでよかったと思っています。
仏陀の真意から見て、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏教という、全否定から全肯定へと進みつつあります。
部派は、大いなるものを見失ってはいけないと思いますし、大乗仏教は、仏陀の理法、仏陀の残した筏を捨て去っては、どこにも行き着かないものとなります。
その意味で、わたしのなかでは統一できつつあります。
ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。
> > それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
> > ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。
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> 悟ったブッダは、別に衆生におもねる必要はないので、純粋に梵天との約束を守ってこの世で苦しむ人々を救うために、まさに「無知の闇に沈む世界で不死の太鼓を打ち鳴らし」たのだろう、と思っています。
これは、仏陀が世間におもねって教えをアレンジしたという意味ではありません。
後世の者が、仏陀の言った意味を理解できなくて、世間や自分の考えに合わせてアレンジしたという意味です。
> > 法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
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> 大乗経典は、何か意図をもって受けとられてきたように思いますので、困ることはなかったのではないか、という感じがしています。知らない人が、この経典を受けとったわけではなく、自分なりの必然性を以て探求して行った人がであったものだったのではないか、と思うのです。
> こういうものは、人為というのは、そんなにはたらいていないと思います。おのずと定まるべき位置におさまっていくのではないかという風に考えます。
> インドの伝統では、人間の手になるものではない、というのが、ヴェ-ダなど聖典の特徴です。
> 大乗などの経典類を受けとった者たちは、ブッダの教えに深く入っていき、信をもって受けとったでしょうから、受けとった経典がどこに位置づけられ、どんなものであるか心配することはなかったと思います。
大乗仏教では、大乗仏典の量が膨大であるため、すべてを所依の経典にすることができず、どの経典を最勝の経典として宗を立てるかで、教相判釈が盛んでした。
仏典の最高を華厳経にする派と涅槃経にする派に分かれていましたが、天台の五時教判は、そのツ-トップをたくみに位置づけてなおかつ法華経を最高としました。
ここは見事だと思っています。
教えの高低を判釈し、最高の教えを決定する教相判釈は、大乗仏教では一般的に行なわれていました。
空海の十住心論もそうです。
真言宗=大日経を最高とし
華厳宗=華厳経をその次に高い教えとし、
天台宗=法華経をその次としました。
大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。