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  [No.21842] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 19:29:04

メッタ-さん、こんばんは。

> スマナサ-ラ氏がドッカを苦じゃないと考えるわけがないと思うね。
> 現代人の考える苦を含んで、さらにより根本的な苦という意味。


スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。

『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。分かりやすく言いますと、日本語に「石」という語があります。この「石」の前に「小」という語をつけると、「小石」となります。小石というと、大きな石でもなく、きれいな石でもなく、どちらかといえば小さい石とか、たいしたことのない石、が思い浮かぶでしょう。「小」という漢字には「小さい」という意味もありますが、ほかにも「たいしたことがない・あまり価値がない・重要さの程度が少ない」いう意味もあるのです。
また「川」という語の場合なら、その前に「小」をつけると「小川」となり、意味は「たいした川ではない」となります。
このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。
「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』




しかしながら、
そもそも『kha』という語自体、仏陀の死後ずっと後世になって初めて現れた言葉です。
後期の上座部論書の清浄道論において、dukkhaをduとkhaに分解して解釈してからです。
それまでのどの経典にも『kha』という言葉はないはずです。

なぜわざわざ言葉を作ったかというと、dukkhaを苦とすることに非常に抵抗を感じたのだと思います。
人生には楽も苦もあり『一切皆苦』なんてあまりにも現実に即していないという批判があったからです。

私が言っているのはこれです。
人類は仏陀が言ったdukkha=苦が理解できなかったため、無理矢理解釈を捻じ曲げたということです。



『清浄道論』(Visuddhimagga)は5世紀くらいに書かれた論書です。
ですから、仏陀の死後1000年くらい経っていますね。

詳しく言うと、そこにこのような記述があります。

『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』

この5世紀の論書を基にスマナサ-ラは、『dukkhaは苦という意味ではなく、空しいということ。』と書いているのです。


 

  [No.21853] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 05:46:48

ショ-シャンクさま pipitさま メッタ-さま

おはようございます。

> スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。
>
> 『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。

> 「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』


ふうん、こんな解説をされているのですね。
分からないではありませんが、出家の僧という立場も影響しているのかもしれないとちょっと思いました。

dukkhaとsukhaは、対になることばなので、スマ長老さまの説明は、sukha(楽)をも意識された上での、解説だと思います。
苦を表すのがdukkhaだけなら、こういう風に言うこともできるかもしれませんが、実際、十二支縁起などの解説には、こうあります。


すなわち、無明に縁って行(志向作用)がある、行に縁って識(識別作用)がある、識に縁って名色(名称と形体)がある、名色に縁って六入(六つのよりどころ)がある、六入に縁って触(接触)がある、触に縁って受(感受)がある、受に縁って愛(渇愛)がある、愛に縁って取(執着)がある、取に縁って有(生存)がある、有に縁って生(生まれること)がある、生に縁って老死(老いること・死ぬこと)があり、
愁(soka)・悲(parideva)・苦(dukkha)・憂(domanassa)・悩(upAyAsa)が集まり起こる。
このように、この苦しみ(dukkha)の集まりの集起がある。 (『ウダ-ナ』1.1)


ここから見ても分かるように、苦しみに属すると思われるすべてのものを、いろいろなことば(愁悲苦憂悩)であげて、それを「dukkha」に代表させているので「苦しみ」でよいのだと思います。

スマ長老さまくらいになりますと、虚しい感覚や小さな不快の感情に感ずるくらいですむかもしれませんが、救われたい生き物からしますと、非常な苦痛や苦しみすべてをも含んでいてくれないと、ほんとに救われない、ということにもなります。


お釈迦さまは、後に、こういう解釈も出て来るかもしれないと思って、いろいろなことばで不快の感受を表したのかもしれませんね。


 

  [No.21864] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 08:40:03

ショ-シャンクさま

スマ長老のことばは、それはそれで吟味するとおもしろいことが見えてきますね。


> スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。
>

> 「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』


一切皆苦」の説明に、dukkhaの語源解釈をいれて


> 「一切のものは無意味で、気にするものではない」


という意味としている、ということですね。
そして、そこにショ-シャンクさまは反発を感じられると。

また、pipitさまは、無常、苦、無我の三相をあげて、どの相に触れるかは個性であるとされていますね。なるほど、というところです。

こういう点からしますと、ショ-シャンクさまのご不満が分かるような気がしてきます。

スマ長老さまは、「一切皆苦」の説明に、「諸行無常」でなされるような解説を与えているような気がします。
諸行無常」の説明なら、「一切のものは変化してやまないから、無意味で気にするものではない」といわれますと、おおかたは納得すると思います。

一切皆苦」に、この説明「一切は無意味で気にするものではない」といわれて、多くは納得いかないのも分かります。こんなに苦しいのに、どこがたいしたことないんだ、怒っちゃうぞ、となりそうです。

しかし、最近の上座部の解釈を見ますと、こうなっていくのも分かる気がします。
なぜなら、「一切皆苦」を文字通り苦しみとして解釈するなら、輪廻を語らないことはできないだろうと思われるからです。しかし、スマ長老さまは、いわゆる業や輪廻については積極的に語られません。

輪廻が出てくると、制止されますね。輪廻というのは、科学的な見地をともなった理論のように考えられてくるのでしょうか。わたしも、ちゃんと調べて読んだことがないので、はっきりしませんが、とにかく輪廻は語られなくなってきているという印象があります。

現在の上座部仏教は、その語り方が昔とはちがうようだ、ということで、けっこう納得するものがあります。


わたしの理解では、部派は、無常と苦をメインに説いてきたと思いますし、そこを自在に語れるところが部派の真骨頂みたいな気がしています。

で、もし、部派が苦を語らないのであれば、それは、大乗が引き受けねばならないかも、と思いますね。

大乗は、無我と空をメインにしてきました。しかし、そこに、苦も加わることになるのかな、って気がちょっとしています。


 

  [No.21869] 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 10:11:40

石飛先生、おはようございます。


> そして、そこにショ-シャンクさまは反発を感じられると。

反発を感じているわけではないのです。一番最初に書きましたように『情けない』と思っているだけです。

今まで大乗でも部派でも仏教書を読んで、『本当に歴史上の仏陀はこういうことを言いたかったのだろうか?』という疑問が出てきたので、私は、すべての仏教知識を白紙にして、仏陀が本当に言いたかったこととは何だろうと探求し始めたのです。
ですから、今さら、部派であれ反発や不満は感じません。
反発や不満は期待するときに生じますから、期待していない以上、そういう感情は生じません。

ただ、仏陀は成道の時に『これは説いても誰にもわからないから説くのは止めよう』と思った、その想いは、仏陀在世の時はともかく、仏陀がいなくなってからはかなりその通りだったと考えているだけです。
それほど、仏陀の理法は世間の常識とは正反対なものだったということでしょう。
特に『dukkha=苦』は、時代を経るに従って、本当にわかる人がいなくなっていったように思えます。

『dukkha=苦』は、仏陀の教えの核心中の核心なので、仏陀の理法の理解はdukkhaが本当にわかるかどうかにかかっていると思っています。

ただ、仏陀が言った『dukkha=苦』は、私たち人類が理解するのは非常に難しいと思います。
人生には苦もあるけど楽もあるのが常識だからです。
人生にはもちろん苦はありますが、楽しいことだって快楽だっていっぱいあります。
人生思い通りにならないのが苦の意味だ、というのが最近の定説のようですが
1%も思い通りにならない人もいれば、99%思い通りになる人だっている。
そういう人でも老いもあるし病いもあるし死ななくてはいけない、と言ったところで、
人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。

また、『人生は苦だ』『一切は苦だ』などというとは、仏教はなんて悲観主義なんだ、と西洋人から非難されることも多かったですね。

そんなこんなで、dukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味としてしまったのでしょう。
それも根拠は、5世紀の『清浄道論』(Visuddhimagga)の『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』という語義解釈からです。

この5世紀の『清浄道論』以前にできた原始仏典で、仏陀がdukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味で使ったことがあったでしょうか。

やはり、dukkhaは、仏陀の昔から苦、苦しみ、痛みなのです。

dukkhaは、仏陀の教えの核心中の核心であるがゆえに、ここを後世の者が意図的にねじ曲げてしまったら、仏陀の真意は伝わらなかったのも仕方ないことだと残念に思っているだけです。


 

  [No.21875] Re: 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 13:08:47



ショ-シャンクさま こんにちは。

> 反発を感じているわけではないのです。一番最初に書きましたように『情けない』と思っているだけです。

OKです。「情けない」と。

> ただ、仏陀は成道の時に『これは説いても誰にもわからないから説くのは止めよう』と思った、その想いは、仏陀在世の時はともかく、仏陀がいなくなってからはかなりその通りだったと考えているだけです。

人々はア-ラヤ(愛着)を喜び、ア-ラヤを楽しみ、ア-ラヤに喜悦しているから、「縁起」は分からないだろうと思ったわけですよね。


> それほど、仏陀の理法は世間の常識とは正反対なものだったということでしょう。
> 特に『dukkha=苦』は、時代を経るに従って、本当にわかる人がいなくなっていったように思えます。


わたしは、少し考え方が違います。愛着を喜ぶわたしたちは、縁起の理法を理解しがたいと、ブッダは見たのだと思っています。「ドゥッカが分からない」というのとは、ちょっと違うかな、という感じです。
>
> 『dukkha=苦』は、仏陀の教えの核心中の核心なので、仏陀の理法の理解はdukkhaが本当にわかるかどうかにかかっていると思っています。

「苦」が何であるか、わかりずらいということでしょうか。
確かにそうかもしれませんが、苦は学習すればどんどん得ていけると思います。ものの見方を学ぶと、それだけで、どんどん自分で得ていけると考えています。

「これも実際苦しみだったのだな」と知っていくと、苦しみに気づくのが習熟していき、それを避けることもできるようになっていきます。

>
> ただ、仏陀が言った『dukkha=苦』は、私たち人類が理解するのは非常に難しいと思います。
> 人生には苦もあるけど楽もあるのが常識だからです。

「楽は苦の本」とブッダが教えて、人々は学習していきましたね。習なわなければわからないかもしれませんが、教えてもらうなら気づいていけます。

> 人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。

これは、ある意味、思想だと思います。「一切は楽である」と考えて、人生をわたっていく人々もいます。ブッダは苦と見なさいと教えたのだと理解しています。

これにより、苦しみを滅する道を行くことができ、苦の滅を得るからです。
この回りくどいやり方をしようという人は、なかなかいないだろうというのはわかります。
てっとりばやく、幸せの青い鳥でも探した方が、それこそ楽な気がするからでしょう。

多くの人が、ぱっと見には行きたがらない道を、それを勧めるブッダは、その道を理解してくれる人は少ないことを、察知していたと思います。
>
> また、『人生は苦だ』『一切は苦だ』などというとは、仏教はなんて悲観主義なんだ、と西洋人から非難されることも多かったですね。

西洋人は、快楽主義の人も多いですし、有の哲学に染められていますから、ペシミスティックに見える「苦」の思想を好まなかったということは分かります。
しかし、考え深い人々は、ブッダの理屈を会得していきます。

ブッダの教えが難しいのは、直観だけでいくのではなく、推論と観察との両方を使って行く道だからだと思っています。

「一切は苦である」ということは、わたしたちでも十分分かる内容であり、素直な目をもってみつめるとき、そういう見方を納得していけるのだと思います。

「苦しいことばかりじゃなく楽しいことだってある」と言いながら、人は、苦しみへと向かって行くのだと思います。どこかで抗っているなと、自分でも分かるのではないでしょうか。智慧の宗教だと思いますね。至るところにある苦しみにきづくとき、それを滅する道が生まれてくる、ということかなと思っています。

まんま、自分の得た仏教の教えを語ってしまっています。


 

  [No.21877] Re: 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 13:52:32

石飛先生、こんにちは。


> わたしは、少し考え方が違います。愛着を喜ぶわたしたちは、縁起の理法を理解しがたいと、ブッダは見たのだと思っています。「ドゥッカが分からない」というのとは、ちょっと違うかな、という感じです。


そうですか。
私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
『執着を喜び、執着に歓喜する人々に、縁起の法は理解しがたい』と仏陀は思いました。
私は縁起の法とは、苦の縁って起こる原因のことだと思っています。
具体的には十二縁起です。
縁起の公式は、それを滅すれば苦が滅するという直接原因、根本原因を発見するための公式だったと見ています。

執着は苦そのものでもあるし、さらなる苦の集積の原因でもあります。
しかし、衆生は、執着を苦と見ずに執着を喜び執着に歓喜しているありさまです。

いま、苦にあることがわからないのに、苦の生起や苦の滅である縁起の法を説いても理解しがたいということだと考えています。


> 確かにそうかもしれませんが、苦は学習すればどんどん得ていけると思います。ものの見方を学ぶと、それだけで、どんどん自分で得ていけると考えています。
> 「これも実際苦しみだったのだな」と知っていくと、苦しみに気づくのが習熟していき、それを避けることもできるようになっていきます。

> 「楽は苦の本」とブッダが教えて、人々は学習していきましたね。習なわなければわからないかもしれませんが、教えてもらうなら気づいていけます。
>
> > 人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。
>
> これは、ある意味、思想だと思います。「一切は楽である」と考えて、人生をわたっていく人々もいます。ブッダは苦と見なさいと教えたのだと理解しています。


そうですか。
私は苦はもっと根源なるものと考えています。
仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。

苦に関しては議論しても仕方なく実感するしかないことだと思いますので、これで終わらせていただきます。


 

  [No.21880] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 05:31:11


ショ-シャンクさま おはようございます。


ショ-シャンクさまの考えをまとめて、わたしの理解としたいと思いますので、ここに要点を記しておきますね。

> 私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。

四聖諦を説いた、という判断ですね。
「縁起」は、四聖諦に至るための手段としてのみ用いるもの、と。

> 私は苦はもっと根源なるものと考えています。
> 仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。

一切皆苦」を、ブッダは、説いたのだと。

了解しました。

> 苦に関しては議論しても仕方なく実感するしかないことだと思いますので、これで終わらせていただきます。

十牛図」も、そのための手段の一つとして見ていたけれど、どうもうまくいかないようだ、ということでしょうか。。まあ、そういうことかなと、了解しています。


結論から言いますと、わたしは、ショ-シャンクさまとは部分では似るけれど、かなり違うようだと思っています。

わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。
そこに、ブッダの「一切」を見ています。最初に、ブッダが悟りを開いたとき、人々に教えを説こうと思いませんでした。


実にわたしによって得られたこの法は、深淵で、見がたく、理解しがたく、寂静であり、卓越していて、思考の領域にはなく、微妙であって、賢者によってのみ知ることのできるものである。
しかるに、人々は愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している。愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している人々には、「これに縁ること」であり、縁って起こるものである、このような道理は見がたいし、また、一切の形成力(行)の止息であり、一切の再生へのよりどころを捨てるものであり、渇愛の滅尽であり、離欲であり、止滅であり、涅槃である、このような道理も見がたい。(『中部』第26経「聖求経」)


ブッダによって得られた法は、ここに書かれたような道理(論理)であると思っています。論理であれば、捨てることはたやすいと思うからです。


 

  [No.21882] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 06:43:21

石飛先生、おはようございます。


> > 私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
>
> 四聖諦を説いた、という判断ですね。
> 「縁起」は、四聖諦に至るための手段としてのみ用いるもの、と。


仏陀は言っています。
『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』と。

仏陀の生涯にわたる膨大な教説は『苦と苦の消滅のみを説いているのです』。

それは、決して、四諦に限定されるのではありません。
すべての言説が、苦と苦の消滅のみのためになされたのです。

中部経典『蛇喩経』には、
『無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。
それゆえに、そなたたちに属さないものを捨断しなさい。
色・受・想・行・識を捨断しなさい。』


ここでは、苦と苦の消滅が、四諦でなく、五蘊非我によって語られています。



> > 私は苦はもっと根源なるものと考えています。
> > 仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。
>
> 「一切皆苦」を、ブッダは、説いたのだと。

苦と苦の消滅に至るためには、『苦』の全的な理解が必要なのです。
歴史上の仏陀が繰り返し言っていることのすべては、苦と苦の消滅なのに、
後世になればなるほど、仏陀の言ったdukkha は見向きもされないか、あるいは当たり障りのない言及でお茶を濁すようになります。
dukkhaは空っぽという意味などと言われ始めます。
あるいは、大乗仏教では、『苦』の代わりに『空』が仏教の根本教理となっていきます。

仏陀は『空』を説いていません。
スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。



> 「十牛図」も、そのための手段の一つとして見ていたけれど、どうもうまくいかないようだ、ということでしょうか。。まあ、そういうことかなと、了解しています。

禅では、仏陀の理法、つまり四諦十二縁起を洞察することがありません。
ですから、苦の全的な理解も無理です。
ただ、仏陀の理法を瞑想していると、なぜか、禅の公案が理解でき面白くなってきます。
禅の人は否定するでしょうけど。



> わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。

まさしく今、筏で激流を渡っているときに『筏を捨てなければならない』などとは考えません。
激流を渡り終えて、彼岸に着いたときに、筏は捨てればいいのです。
筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、
あまりにも観念的です。
向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。


 

  [No.21886] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 08:57:53

ショ-シャンクさま

> 仏陀は言っています。
> 『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』と。

これの根拠が、『蛇喩経』ということですね。

> 中部経典『蛇喩経』には、
> 『無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
> このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
> その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
> このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
> このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
> 私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。

> ここでは、苦と苦の消滅が、四諦でなく、五蘊非我によって語られています。

ああ、なるほど、こう理解していたのですか。

> 私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。

ショ-シャンクさまは、この一文を、この経典のテ-マに添った、沙門やバラモンの誹謗中傷に対するブッダの応答だ、という風には、とくに見ないのですね。
「苦と苦の消滅のみ」というところを、無条件に、ブッダの説と執っているわけですね。


よく見ますと、ブッダは、このように説くところは他にもあります。
たとえば、異説に心うばわれているマ-ルンキヤプッタにも、同じように語っていると思います。そこでは、ブッダは、説かれた教えと、説かれなかった教えがあることを説いています。


http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html
マ-ルンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
マ-ルンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。
マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。

それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。(「箭喩経」)


こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。


> 苦と苦の消滅に至るためには、『苦』の全的な理解が必要なのです。
> 歴史上の仏陀が繰り返し言っていることのすべては、苦と苦の消滅なのに、
> 後世になればなるほど、仏陀の言ったdukkha は見向きもされないか、あるいは当たり障りのない言及でお茶を濁すようになります。
> dukkhaは空っぽという意味などと言われ始めます。
> あるいは、大乗仏教では、『苦』の代わりに『空』が仏教の根本教理となっていきます。
>
> 仏陀は『空』を説いていません。

> スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
> そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。


では、泡のようにはかないものなら、無常を説いていますね。それも、説いてるうちに入らない?
また、五蘊非我も説いていますよね。それも、苦を滅するための補助手段でしかない?

これらは、仏弟子たち(声聞たち)に合った教えだから説いたのだ、とは考えませんか?
苦と苦の滅は、仏弟子たちに受け容れやすい教えだったから、そこをメインに説いたとは言えませんか?


> > わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。
>
> まさしく今、筏で激流を渡っているときに『筏を捨てなければならない』などとは考えません。
> 激流を渡り終えて、彼岸に着いたときに、筏は捨てればいいのです。
> 筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、
> あまりにも観念的です。


ショ-シャンクさまの筏は、ブッダの四聖諦・十二支縁起などからするものだとすれば、
どんどん解体されて捨てつつわたっているようですよ。

「蛇喩経」の中でも、たえず、自分のものでないものを捨てなさい、といっています。
だから、五蘊を捨てよ、と。
筏の喩えは、まさしく「蛇喩経」の中にあります。


比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。(「蛇喩経」)


この後、六つの見解の立場が説かれ、無常・苦・無我の教えが説かれます。
筏の喩えの経典を読んでいると、どんどん捨てて行かねばならないということを知っていくのではないでしょうか。

> 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。

向こう岸に着いたら、筏は解体されてすでになくなっているでしょう。筏の喩えも法なのですから、それも捨てられていると思います。

わたしは、観念で言っているのではありません。
ショ-シャンクさまとブッダの教え「蛇喩経」とを見て、そのように言っています。


 

  [No.21887] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 10:05:34

石飛先生、ありがとうございます。


ショ-シャンクさまは、この一文を、この経典のテ-マに添った、沙門やバラモンの誹謗中傷に対するブッダの応答だ、という風には、とくに見ないのですね。
> 「苦と苦の消滅のみ」というところを、無条件に、ブッダの説と執っているわけですね。
> よく見ますと、ブッダは、このように説くところは他にもあります。
> たとえば、異説に心うばわれているマ-ルンキヤプッタにも、同じように語っていると思います。そこでは、ブッダは、説かれた教えと、説かれなかった教えがあることを説いています。


先生が挙げられていた中部経典第63『小マ-ルンキヤ経』(箭喩経)にもまさしくありますように、

> マ-ルンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
> マ-ルンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。


つまり、仏陀が説いたことは苦と苦の消滅なのです。
このようにはっきりと仏陀が断言しているのですから、少なくとも仏陀の最も根本的なテ-マが苦と苦の消滅であったことは明らかです。
むしろ、このような仏典がありながら、何故、先生がそれを否定されるのかがわかりません。


> マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
> なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。
> それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。(「箭喩経」)
>
>
> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。


これは、そう読んではいけないと思います。
その言葉通りに受け取るべきかと思います。
『わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。』というのは、語られなかったことは、(厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないと言う理由で)語られなかったこととして受け止めなさい、と言うことだと思います。
つまり、厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないことをあれこれ考えずそのようなことに時間を割いてはいけません、ということでしょう。

片山一良の訳では
『それゆえに、マ-ルンキヤプッタよ、私によって解答されてないものは解答されないものとして受け止めなさい。また、私によって解答されているものは解答されているものとして受け止めなさい。』
です。

> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。

この仏陀の言葉を、仏陀が説かれなかった教えも憶持しなさい、というのは真逆な解釈だと思います。



> > 仏陀は『空』を説いていません。
> > スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
> > そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。
>
> では、泡のようにはかないものなら、無常を説いていますね。それも、説いてるうちに入らない?
> また、五蘊非我も説いていますよね。それも、苦を滅するための補助手段でしかない?


無常を説いています。
無常とは生滅の法のことです。
生じれば滅する、ことです。
生じれば滅するから苦なのです。無常であるから苦なのです。
これも仏陀は繰り返し繰り返し説いています。
五蘊非我も説いています。
仏陀は矢を抜く方法をいくつも説いてくれています。
仏陀は『私は矢を抜く最上の人だ』と言っています。
矢を抜く名人なのです。
人間は毒矢が刺さって苦しんでいるのです。
四念処も五蘊非我も矢を抜く方法、苦を生滅する方法です。



> これらは、仏弟子たち(声聞たち)に合った教えだから説いたのだ、とは考えませんか?
> 苦と苦の滅は、仏弟子たちに受け容れやすい教えだったから、そこをメインに説いたとは言えませんか?

私は、そう見てはいけないと思っています。
仏陀自身が、出家をし修行したのは、四門で苦を見、苦の消滅を見たからです。
仏陀自身の大テ-マでもあったのです。

声聞が受け入れやすいから説いた、というのはあまりにも後世の大乗の見地から仏陀を解釈することになります。
私はそれをしたくなかったので、大乗の知識しかなかったのですが、すべて白紙にして探求しようと思ったのです。


ショ-シャンクさまの筏は、ブッダの四聖諦・十二支縁起などからするものだとすれば、
> どんどん解体されて捨てつつわたっているようですよ。
> 「蛇喩経」の中でも、たえず、自分のものでないものを捨てなさい、といっています。
> だから、五蘊を捨てよ、と。
> 筏の喩えは、まさしく「蛇喩経」の中にあります。
> 比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。(「蛇喩経」)
> この後、六つの見解の立場が説かれ、無常・苦・無我の教えが説かれます。
> 筏の喩えの経典を読んでいると、どんどん捨てて行かねばならないということを知っていくのではないでしょうか。
>
> > 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。
>
> 向こう岸に着いたら、筏は解体されてすでになくなっているでしょう。筏の喩えも法なのですから、それも捨てられていると思います。
>
> わたしは、観念で言っているのではありません。
ショ-シャンクさまとブッダの教え「蛇喩経」とを見て、そのように言っています。


『筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。』と書いてあるではないです
か。
七覚支に択法というのがあるように、不善法をどんどん捨てていかなくてはいけません。
しかし、善法は選択され残されます。
そして、それを筏として向こう岸に渡ったならば、それも筏として捨てるべきです。
まさしく『渡るために説かれた法』なのです。
私はまだ渡っていないので、筏は絶対に必要なのです。


 

  [No.21889] Re:まとめ 投稿者:おちこぼれ  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:19:44

ショ-シャンクさん。

横レス失礼します。

ショ-シャンクさんと管理人エムさんの対話を興味深く読ませてもらっています。
この後も深く突っ込んだ議論を期待したいんですが、どうなって行くんでしょうか。

ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。


 

  [No.21890] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:30:21

ショ-シャンクさん。
>
> 横レス失礼します。
>
ショ-シャンクさんと管理人エムさんの対話を興味深く読ませてもらっています。
> この後も深く突っ込んだ議論を期待したいんですが、どうなって行くんでしょうか。
>
> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
> さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。



おちこぼれさん、ありがとうございます。

少し、タイミングが悪いのは、
今日の午後3時ころから私はかなり遠方に出かけるのです。
ですから、今日は3時以降は書き込みができないのと、
残念ながら仏典などの資料が全くないところに月曜までいますので
明日以降書き込みができても、仏典の引用ができません。

それもあって、昨日の時点でいったん終わりにしようと思ってたのですが、
読んでいただける方がおられるのであれば、なるべくレスいたします。

よろしくお願いいたします。


 

  [No.21892] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 14:01:05

おちこぼれさま

こんにちは。


> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
> さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。

わたし的には、何か終わったかな、って感じになってしまいました。

おちこぼれさまも、よかったら突っこんでみてもらえると、それなりにうれしいです。

わたしも、これから予習で、忙しくなりますが、数日かけてお返事していけると思いますので。よろしく。


 

  [No.21891] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:55:50

ショ-シャンクさま こんにちは。
>

> つまり、仏陀が説いたことは苦と苦の消滅なのです。
> このようにはっきりと仏陀が断言しているのですから、少なくとも仏陀の最も根本的なテ-マが苦と苦の消滅であったことは明らかです。
> むしろ、このような仏典がありながら、何故、先生がそれを否定されるのかがわかりません。

ショ-シャンクさまは、けっこう短絡されますね。
わたしは、苦と苦の滅を否定しているわけではありません。

「語られない法はそれはそれとして憶持するように」とも言っているので、それも忘れてはならないだろうと言っているのです。

つまり、マ-ルンキヤプッタには、四聖諦を明示して説いているのと、説かれない法である十難無記の十の命題も、説かれなかったものとして覚えておくように、と言っているのだと思います。
>
> その言葉通りに受け取るべきかと思います。
> 『わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。』というのは、語られなかったことは、(厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないと言う理由で)語られなかったこととして受け止めなさい、と言うことだと思います。

そうです。おっしゃる通りです。そう受けとめて、そのことも憶えておきなさい、と言っています。

> つまり、厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないことをあれこれ考えずそのようなことに時間を割いてはいけません、ということでしょう。

時間を割いてはなりません、と言うのは、そうです。マ-ルンキヤは、十難無記の見解を積極的に説いてほしいと思って、なぜ説かないのかを尋ねて、心を煩わせています。それを主張として説いてほしいと願っているのですが、ブッダは説きません。

説かないものを説かないものとして憶えておくのがそんなに難しいでしょうか。
ちょっとの手間だと思いますが。


> この仏陀の言葉を、仏陀が説かれなかった教えも憶持しなさい、というのは真逆な解釈だと思います。


何で真逆なのだ、と言いたいです。ブッダに言われたとおりにするだけです。
むしろ、ショ-シャンクさまの方が、観念的で、ブッダの法に抵触しているように、見えます。

観念的に見える理由は次の通りです。
要するに、苦と苦の滅の理解に何の寄与もしないのだから、とお考えなのかもしれませんが、そこは、ちょっと違うと思います。
言われたとおりに憶えておいた人は、苦と苦の滅を、異なる観点で知ることになるのです。

なぜかと言えば、こうです。
「蛇喩経」では、ブッダに反論して誹謗中傷する人が出てきます。その人たちに対抗するためにブッダの法を学んで使います。しかし、智慧によって考察しないまま使うと、苦しみがやって来るのです。誤って蛇をつかんだからだと説かれるのです。
説かれなかった法も憶えておくことなく、智慧も使わず、ただ九分教を学んで使おうとするなら、こういう目に会うこともあります。
苦しみがやってきて、その滅を知ることができません。簡略に、しかも、アレンジして述べたので、分かりにくいかもしれません。詳細は経典を用いて智慧により解釈していただけると幸いです。「箭喩経」と「蛇喩経」が混ざったような解釈になってしまってすみません。


また、仏法に抵触するというのは次の通りです。

「筏の喩えは、わたるためであって、執っておくためではない」と教えられているのに、

> 七覚支に択法というのがあるように、不善法をどんどん捨てていかなくてはいけません。
> しかし、善法は選択され残されます。
> そして、それを筏として向こう岸に渡ったならば、それも筏として捨てるべきです。
> まさしく『渡るために説かれた法』なのです。
> 私はまだ渡っていないので、筏は絶対に必要なのです。

と言って、渡る途中で使うべき「善法」である筏の喩えという法を選択的に残そうとしていて、使おうとしていません。

この法は、「渡るためであって執っておくためではない」と言われているにもかかわらず、筏の法も使わず、執っておくだけだからです。
それに、善法でも、「法は捨てろ」と教えられています。悪法はもちろん捨てますが、善法もどんどん捨てていけ、といわれているのに、渡りきるまで執っておこう、としているのです。

十二支縁起の逆観は、捨てる教えです。法を捨てていって、悟りに到達するのです。最後に一切の苦が滅するのです。

渡るために使え、と言われたら、使うとよいのではないでしょうか。


> 『筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。』と書いてあるではないです
> か。

その通りにしているのは、わたしで、そうしていないのは、ショ-シャンクさまのように見えて仕方ありません。

渡るまで抱えていよう、渡りおえたら捨てよう、などと思っていると、いつまで経っても渡れないのではないかと心配になります。



信から能く入って智慧を能度とする、ためには、ブッダの法をよく精査してみる必要があると思っています。

ショ-シャンクさま、わたしの考えを述べました。
ありがとうございました。


 

  [No.21893] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 14:43:38

石飛先生、こんにちは。

おちこぼれさんにも書きましたが、今日はあと何十分かで遠方にでますので、簡潔に書きます。
先生が終わりと言うことであればそれでも結構です。
昨日の時点で終わりにしようと思っていましたから。


『蛇喩経』で語られる『筏に喩えられる法』とは、仏陀が説いてきた優れた善い諸法のことです。
そのような諸法、善法であっても、筏なのだから、向こう岸に着いたら、頭に乗せたり肩に担ぐかせずに捨てるべきだ、ということです。

七覚支のうち、択法⇒精進(四正勤)は、不善法を捨断し善法を残し増大させることです。

激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。

善法は筏なのです。
先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。

そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。


これで、今日は書き込みできません。

後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。


 

  [No.21895] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 17:14:02

ショ-シャンクさま おちこぼれさま こんにちは。

お忙しいですね。

> 先生が終わりと言うことであればそれでも結構です。
> 昨日の時点で終わりにしようと思っていましたから。

あ、そうですか。わたしは、どちらでもかまいません。
煮詰まってきたかな、と思いましたので。

> 『蛇喩経』で語られる『筏に喩えられる法』とは、仏陀が説いてきた優れた善い諸法のことです。
> そのような諸法、善法であっても、筏なのだから、向こう岸に着いたら、頭に乗せたり肩に担ぐかせずに捨てるべきだ、ということです。
>
> 七覚支のうち、択法⇒精進(四正勤)は、不善法を捨断し善法を残し増大させることです。

四正勤など、「蛇喩経」には特にあがっていませんが、まあ、それでもよいでしょう。
すでに起こっている悪は捨断し、未来の悪は生じないようにする、生じていない善は起こるように努力するなどなど。筏の喩えの法を用いますと、これらであっても「渡るためのものなのであって執っておくためのものではない」と知らねばならない、ということです。

受持したら、四正勤を捨てるべきだということでしょう。(受持する前には捨てられません。)

なぜでしょうか。

頭のいいショ-シャンクさまならもうおわかりでしょう。執っておいて抱えてはいけないからです。すぐれた善い法なら執っておいて、渡った後で捨てればいいだろう、というその気持が、「蛇喩経」の後半に書かれる、「おまえたちのものではないものを捨てなさい」に抵触し、そうして抱えることによって不利益や苦しみをもたらすことになるからなのです。

苦と苦の滅のみを説くブッダによって、筏の喩えが説かれました。深謀遠慮のブッダの法は、すみずみまで考えられているのです。

もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。
>
> 激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。

向こう岸に渡る筏は、どうすれば強く破れないのでしょうか。
ブッダの言うとおり、どんどん捨てることによって軽く強い筏になるのではないでしょうか。苦しみにいかないのは、捨てることによるのです。
>
> 善法は筏なのです。
> 先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。

法は、いくつもあるのですよ。四正勤だけしか説かなかったわけではありません。適切につかんで得たら、それを捨てる。。つまり、法に対する執着が生まれる前に捨てるのです。執着とその滅も縁起によって得られます。

それに、また必要になったら、あらためて受持すればいいではありませんか。

> そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
> 筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。

筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。

まあ、渡ってしまえば、どうでもいいんだけどね。

それに「蛇喩経」の全体の文脈を善く読んでいただきたいです。
どういうものが法となっていて、何を捨てるのか、法とは何なのか。詳しくみていくと、実際にどうすれば善いかわかってくると思います。ブッダの言いたいことを、しっかりつかんで智慧をもってあたらねばなりません。

ブッダの文脈をはずして、勝手に読むなら、春間さまのことを文句言えないことになるのでは?


> そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
> しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。

渡ってみましょう。とりあえず。

> 後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。

落ちこぼれさま、待ってますわ。


 

  [No.21898] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/19(Sat) 08:54:38

石飛先生、おはようございます。


> すでに起こっている悪は捨断し、未来の悪は生じないようにする、生じていない善は起こるように努力するなどなど。筏の喩えの法を用いますと、これらであっても「渡るためのものなのであって執っておくためのものではない」と知らねばならない、ということです。
> 受持したら、四正勤を捨てるべきだということでしょう。(受持する前には捨てられません。)


そうですか。
四正勤とは精進のことです。
精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。



> なぜでしょうか。
> 執っておいて抱えてはいけないからです。すぐれた善い法なら執っておいて、渡った後で捨てればいいだろう、というその気持が、「蛇喩経」の後半に書かれる、「おまえたちのものではないものを捨てなさい」に抵触し、そうして抱えることによって不利益や苦しみをもたらすことになるからなのです。

どのような教えに対しても、欲貪を起こしてはいけない、と言うことだと思います。
これは、世界での宗教戦争の数々を見ればその通りで、筏の喩えは仏陀の凄さだと感じています。



> もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。


ここがおかしいと思います。
仏陀が言ったのは、向こう岸に着いたら、つまり陸地に上がったら、それでも筏を頭に乗せたり肩に担いだりするだろうか、と言うことです。
筏は激流を渡るためのものです。
いままさに、私を含めた人間は、激流の中にいるのです。
筏がないと溺れてしまうのです。苦の集積に向かって激流に押し流されていくのです。
このありさまを本当に見たときに、筏がいかに必要なものかがわかります。
本当に激流のなんたるか、激流の怖ろしさを見たことがない人、気づいたことがない人には、仏陀が言った激流の本当の意味さえわからないのです。

筏を抱えることができるのは陸地に上がってからです。激流の中で流されているものが、筏を抱えることなど出来ません。激流にいる者にとっては、筏は命綱なので、壊れないようにしていかなくてはいけないのです。

『筏を抱えて渡ってみてください』という言葉が出るのは、ひょっとすると,私が考えている激流や筏の意味と、先生が考えている激流や筏の意味が全く違うのかもと言う気がしています。



> > 激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。
>
> 向こう岸に渡る筏は、どうすれば強く破れないのでしょうか。
> ブッダの言うとおり、どんどん捨てることによって軽く強い筏になるのではないでしょうか。苦しみにいかないのは、捨てることによるのです。


筏とは仏陀が説いた理法のことです。
筏を破れないように強くするのは、理法を常に念じることです。理法を心に留めて繰り返し繰り返し観じることです。
念=sati の本来の意味は、記憶、憶念です。
仏陀の理法を記憶し、つまり心に留めておき、忘れずに繰り返し繰り返し念じること、これこそが念=sati です。

今は、satiというと、『気づき』と解釈して、自分の感覚をラベリングしていく技法がsatiだとなっているようですが。



> > 善法は筏なのです。
> > 先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
>
> 法は、いくつもあるのですよ。四正勤だけしか説かなかったわけではありません。適切につかんで得たら、それを捨てる。。つまり、法に対する執着が生まれる前に捨てるのです。執着とその滅も縁起によって得られます。
>
> それに、また必要になったら、あらためて受持すればいいではありませんか。
>
> > そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
> > 筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。
>
> 筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。
>
> まあ、渡ってしまえば、どうでもいいんだけどね。


仏陀の理法を知るまでは、人間の心には、不善の法が100%なのです。
肉体を持ち、感官を持ち、その感官が絶えず感受し、感受に好き嫌いが生じ、楽受は執着に、苦受は嫌悪になり、その感受の記憶を繰り返すことによって強固な観念が次々と生まれます。
また、親や教師、仲間や世間、マスコミによって様々な考えがふき込まれます。
そのすべてはmohaです。
そのmohaはさらにragaやdosaを生み続けます。

このように不善の法や煩悩は生み出され続けており、増殖に増殖を重ねています。

このような人間の有り様をまざまざと見たときに、仏陀の理法を筏とし、島とし、洲としないと、その激流に押し流されていくのがはっきりとわかります。

仏陀の凄いところは、そのような仏陀の理法でさえ、『向こう岸に渡ったら』捨てなさい、と言ったことです。

しかし、はっきりと『向こう岸に渡ったら』と言っています。
向こう岸に渡ってもない、激流に押し流されているときに、筏を捨てろ、などとは仏陀は一言も言っていないのです。

> それに「蛇喩経」の全体の文脈を善く読んでいただきたいです。
> どういうものが法となっていて、何を捨てるのか、法とは何なのか。詳しくみていくと、実際にどうすれば善いかわかってくると思います。ブッダの言いたいことを、しっかりつかんで智慧をもってあたらねばなりません。

来週の火曜日以降でないと、仏典が手元にある環境にないので、火曜日にもう一度精査してみます。
しかし、向こう岸に着く前に筏を捨てて行けとは言ってないとは思いますが。


> ブッダの文脈をはずして、勝手に読むなら、春間さまのことを文句言えないことになるのでは?

仏陀の文脈を外して勝手に読むなら、そうでしょう。
それはどなたにも言えることです。
何かの予断を持って仏陀を読むなら、必ずその文脈を外すことになります。
大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。



> > そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
> > しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。
>
> 渡ってみましょう。とりあえず。

ということは、先生は、既に自分は渡り終えたと思われているのですね。


 

  [No.21899] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/19(Sat) 10:37:11

ショ-シャンクさま おはようございます。

まだ全体を読んでいないのですが、次のフレ-ズが目に入ったので、ここだけ、とりあえずお答えします。

>
> ということは、先生は、既に自分は渡り終えたと思われているのですね。

違いますよ。
どちらかと言いますと、渡る途中に、いろいろ危難に出逢っているからだ、と申しあげると納得されるかもしれません。

「筏の喩えは、わたるためであって、執っておくためではない」

これが、わたしにとって、肝に銘じていることです。

つまり、法は、たえず、使っているか、捨てるか、どちらかでないといけない、という自覚です。

それをどう思うかは、ショ-シャンクさまのお考えですが、今の場合、諸法無我の実践にはつながります。

そういえば、諸法無我も法ですね。これも、使うか、捨てるかしなければならない、と、考えることになります。

いつもこんな感じです。


 

  [No.21902] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/19(Sat) 16:01:19

ショ-シャンクさま 続きです。

> そうですか。
> 四正勤とは精進のことです。
> 精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。


そうです。何でもです。ですが、これも、ショ-シャンクさまは何か違うことを考えておられるかもしれない気がしますので、少し説明します。

具体的に四正勤を得て、使う場合が出てきますよね。
たとえば、今までやってきた悪い行いを改めようとか思うときは、それが筏です。
さらに、悪いことをやめて何か新しいことにチャレンジしようとするとき、善いか悪いか分からないようなものであれば、もはや四正勤では判断できないなと思えば、それを捨てて、違う法に依るか何かするでしょう。

たとえば、禅をやってみたけれど、自分には合わないようだと思ってやめたとなるとき、四正勤ではちょっと判断つかないなと自分で思うなら、四正勤は使いません。


> どのような教えに対しても、欲貪を起こしてはいけない、と言うことだと思います。
> これは、世界での宗教戦争の数々を見ればその通りで、筏の喩えは仏陀の凄さだと感じています。

おっしゃる通りなのですが、その欲貪を起こさないために、筏の喩えは、また、使い道があるということを言おうとしています。>
>
> > もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。

> 筏は激流を渡るためのものです。
> いままさに、私を含めた人間は、激流の中にいるのです。
> 筏がないと溺れてしまうのです。苦の集積に向かって激流に押し流されていくのです。
> このありさまを本当に見たときに、筏がいかに必要なものかがわかります。
> 本当に激流のなんたるか、激流の怖ろしさを見たことがない人、気づいたことがない人には、仏陀が言った激流の本当の意味さえわからないのです。

「筏を抱えて」と言ったのは、失礼したかもしれません。
なぜかと言えば、たくさんの法をもってショ-シャンクさまは渡っているように見えるからです。
四正勤と七覚支と… というように、そんなにたくさんの法を一度に抱えていなくてもよいのではないか、と思ったのです。

といいますのは、一度に必要な法というのは、一つであって、たった一つであっても渡れるのじゃないかと思うからです。
たとえば、七覚支などを見ても、他にも言われている要素がたくさん入っています。
その時には、四正勤が必要かもしれないが、それを捨ててどうしようと思っていると、次に、違う五根が教えられて、五根で乗り切ったら、次に、八正道が教えられた、というように、必要なときに必要な法はやって来るようにできているし、四正勤を捨てたらもう駄目かというと、似たようなことが違うかたちで説かれている法はまだ他にたくさんあります。

激流を渡るには筏は必要ですが、輪廻の激流を渡るには、筏の喩えという法が必要だということでしょう。


> 『筏を抱えて渡ってみてください』という言葉が出るのは、ひょっとすると,私が考えている激流や筏の意味と、先生が考えている激流や筏の意味が全く違うのかもと言う気がしています。

そんな気はしますね。。
三十七菩提分法などとまとめられていますが、これらの法を憶えているだけでは、筏にはなりません。実際に使える筏とするには、一つ一つ実行してみなくてはなりません。

十牛図を使って禅を検討されたのも、筏になるかどうかを試されたのだと思います。
どうも筏になりそうもないと知って、それを捨てられたのだと思いますが、向こう岸に着くまで善法(仏法)をもっていることは、筏の喩えにかなっているのかが、問題の論点ですね。

> 筏とは仏陀が説いた理法のことです。
> 筏を破れないように強くするのは、理法を常に念じることです。理法を心に留めて繰り返し繰り返し観じることです。
> 念=sati の本来の意味は、記憶、憶念です。
> 仏陀の理法を記憶し、つまり心に留めておき、忘れずに繰り返し繰り返し念じること、これこそが念=sati です。

ショ-シャンクさまのご意見は了解しました。
理法の憶念が、筏を強くすることである、というご意見ですね。

分かったのですが、理法とは何かが分かりません。やはり「念じる」とあるのですから、具体的なものですよね。
いつも理法の何を念じているのですか。どんな理法を念じているのですか。


わたしは、そういう意味では、いつも縁起とブッダの論理を念じていますし、考えてもいます。あと、エゴの匂いに気をつけています。筏はそれかな?
だから、「捨てろ」といわれたら、捨てなきゃと思うのです。

> 仏陀の理法を知るまでは、人間の心には、不善の法が100%なのです。
> 肉体を持ち、感官を持ち、その感官が絶えず感受し、感受に好き嫌いが生じ、楽受は執着に、苦受は嫌悪になり、その感受の記憶を繰り返すことによって強固な観念が次々と生まれます。
> また、親や教師、仲間や世間、マスコミによって様々な考えがふき込まれます。
> そのすべてはmohaです。
> そのmohaはさらにragaやdosaを生み続けます。
>
> このように不善の法や煩悩は生み出され続けており、増殖に増殖を重ねています。
>
> このような人間の有り様をまざまざと見たときに、仏陀の理法を筏とし、島とし、洲としないと、その激流に押し流されていくのがはっきりとわかります。
>
> 仏陀の凄いところは、そのような仏陀の理法でさえ、『向こう岸に渡ったら』捨てなさい、と言ったことです。
>
> しかし、はっきりと『向こう岸に渡ったら』と言っています。
> 向こう岸に渡ってもない、激流に押し流されているときに、筏を捨てろ、などとは仏陀は一言も言っていないのです。

「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。

『中部』「蛇喩経」

比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。
あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。


ショ-シャンクさまは、何かわたしの述べていることをゆがめて執っているような気もしてきました。
筏の喩えというのは、ブッダの法なのです。
諸法無我の教えとつながっていくと思います。


> 来週の火曜日以降でないと、仏典が手元にある環境にないので、火曜日にもう一度精査してみます。
> しかし、向こう岸に着く前に筏を捨てて行けとは言ってないとは思いますが。

ゆっくり読んで見てください。
わたしのことばを「筏を捨てて行け」と受けとめられたのだと、理解しておきましょう。

> 大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。

大乗仏教の考え」とは何でしょうか?
何かの考えを考えていますか?


 

  [No.21904] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 01:08:09

石飛先生、こんばんは。


> > そうですか。
> > 四正勤とは精進のことです。
> > 精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。
>
>
> そうです。何でもです。ですが、これも、ショ-シャンクさまは何か違うことを考えておられるかもしれない気がしますので、少し説明します。
> 具体的に四正勤を得て、使う場合が出てきますよね。
> たとえば、今までやってきた悪い行いを改めようとか思うときは、それが筏です。
> さらに、悪いことをやめて何か新しいことにチャレンジしようとするとき、善いか悪いか分からないようなものであれば、もはや四正勤では判断できないなと思えば、それを捨てて、違う法に依るか何かするでしょう。


私は、精進=四正勤を、向こう岸に渡る前に捨てていい法だとは考えていません。
四正勤は、八正道の正精進です。
八正道は、ガンガ-の流れが必ず大洋に流れ込むように、涅槃へ行き着くのです。
涅槃に到達する前に、勝手に自分の判断で捨てたり拾ったりするようなものとは違います。

そもそも、三十七菩提分法は、三十七個のバラバラな法、バラバラにしていい法、ではありません。
精進を捨ててみて、次は喜にしようか、とか、七覚支を捨ててみて次は四神足にしようか、とかいうものではなく、大きく言えば有機的なひとつの理法とも言えます。


> たとえば、禅をやってみたけれど、自分には合わないようだと思ってやめたとなるとき、四正勤ではちょっと判断つかないなと自分で思うなら、四正勤は使いません。

私は、大乗は、仏陀の残した筏=仏陀の理法 を捨て去ってしまったと思っているので、大乗仏教が筏になることはありません。



> なぜかと言えば、たくさんの法をもってショ-シャンクさまは渡っているように見えるからです。
> 四正勤と七覚支と… というように、そんなにたくさんの法を一度に抱えていなくてもよいのではないか、と思ったのです。

そうでもないです。
七覚支が三十七菩提分法の中核でありほとんど包含していると私は見ているからです。

念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 が七覚支ですが
念は四念処、精進は四正勤、定は四神足です。


> といいますのは、一度に必要な法というのは、一つであって、たった一つであっても渡れるのじゃないかと思うからです。
> たとえば、七覚支などを見ても、他にも言われている要素がたくさん入っています。
> その時には、四正勤が必要かもしれないが、それを捨ててどうしようと思っていると、次に、違う五根が教えられて、五根で乗り切ったら、次に、八正道が教えられた、というように、必要なときに必要な法はやって来るようにできているし、四正勤を捨てたらもう駄目かというと、似たようなことが違うかたちで説かれている法はまだ他にたくさんあります。


それが先生のやり方だと言うことは理解しました。
どちらが間違っている正しいとは考えませんが、私のやり方とは違うというだけです。
私は、四諦十二縁起、四念処を順に瞑想します。
それで仏陀の理法の全体が見通せて、自我の成り立ちがわかるからです。


> 三十七菩提分法などとまとめられていますが、これらの法を憶えているだけでは、筏にはなりません。実際に使える筏とするには、一つ一つ実行してみなくてはなりません。

最も重要なのは、三十七菩提分法や四諦や十二縁起という仏陀の理法の解明、理解でしょう。
特に十二縁起は今まで解明した人がいないだろうくらい難解です。
四諦にしても、それを洞察することによって漏尽智に達するというのですから、とんでもなく深遠な理法です。
四諦は苦と苦の生起と苦の滅と苦の滅に至る道ですから、苦の全的な理解なくしては意味をなしません。
仏陀の理法そのものですから、向こう岸に至るまでに、四諦を捨てて十二縁起を拾って、また十二縁起を捨てて七覚支を拾って、というようなものではまったくありません。
四諦も十二縁起も今多くある解説のような表面的な理解では瞑想など出来ませんし、ましてそれによって苦の滅に至るなどできるはずがありません。


> 十牛図を使って禅を検討されたのも、筏になるかどうかを試されたのだと思います。
> どうも筏になりそうもないと知って、それを捨てられたのだと思いますが、向こう岸に着くまで善法(仏法)をもっていることは、筏の喩えにかなっているのかが、問題の論点ですね。

十牛図や禅の公案などは、学生の時に、興味があって見ていただけです。
筏になるとは思ってもいません。
ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。

> 分かったのですが、理法とは何かが分かりません。やはり「念じる」とあるのですから、具体的なものですよね。
> いつも理法の何を念じているのですか。どんな理法を念じているのですか。

十二縁起と四念処が主なものです。
十二縁起によって、無明により自我ができ苦の集積に向かっている有り様を洞察します。
四念処によって、身⇒受⇒心⇒法 が非我であることを洞察していきます。

>
>
> わたしは、そういう意味では、いつも縁起とブッダの論理を念じていますし、考えてもいます。あと、エゴの匂いに気をつけています。筏はそれかな?
> だから、「捨てろ」といわれたら、捨てなきゃと思うのです。

誰に捨てろと言われるのですか?
自分がそろそろこの法は捨てようと判断するのですか?



> 「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。

仏陀の理法が筏です。
先生にとっては、諸法が筏ではないのですか?


ショ-シャンクさまは、何かわたしの述べていることをゆがめて執っているような気もしてきました。
> 筏の喩えというのは、ブッダの法なのです。
> 諸法無我の教えとつながっていくと思います。

私たちが苦の集積に向かっているのは主に『私という中心がある』という思い込みからです。
この思い込みを」滅するために、四諦も十二縁起も四念処も五蘊非我もあります。
その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏として必要なのです。



> > 大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。
>
> 「大乗仏教の考え」とは何でしょうか?
> 何かの考えを考えていますか?

これに関しては長くなりそうですのでまたあらためて書きます。


 

  [No.21905] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 06:49:24

ショ-シャンクさま おはようございます。

全体的に、ショ-シャンクさまのお考えは分かりました。>
>
> 私は、精進=四正勤を、向こう岸に渡る前に捨てていい法だとは考えていません。
> 四正勤は、八正道の正精進です。
> 八正道は、ガンガ-の流れが必ず大洋に流れ込むように、涅槃へ行き着くのです。
> 涅槃に到達する前に、勝手に自分の判断で捨てたり拾ったりするようなものとは違います。

涅槃にたどり着く前には捨てたりできるような法ではない、とお考えだということを理解しました。

> そもそも、三十七菩提分法は、三十七個のバラバラな法、バラバラにしていい法、ではありません。
> 精進を捨ててみて、次は喜にしようか、とか、七覚支を捨ててみて次は四神足にしようか、とかいうものではなく、大きく言えば有機的なひとつの理法とも言えます。

有機的な理法ではもちろんありますが、使う時にはいっぺんに全部が必要というわけでもありません。次は、これにしよう、というように、自分で選べるわけでもありません。

縁起によって出てくるのです。


> 七覚支が三十七菩提分法の中核でありほとんど包含していると私は見ているからです。
>
> 念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 が七覚支ですが
> 念は四念処、精進は四正勤、定は四神足です。

まあ、そうですよね。
やってることは似たようなものかもしれませんね。
どれも必要なのだから捨てられないと、思ってするか、四念処をやっているのだから他はいらないと思うか、違いはそのあたりかもしれません。


> それが先生のやり方だと言うことは理解しました。
> どちらが間違っている正しいとは考えませんが、私のやり方とは違うというだけです。
> 私は、四諦十二縁起、四念処を順に瞑想します。
> それで仏陀の理法の全体が見通せて、自我の成り立ちがわかるからです。

四諦、十二支縁起、四念処ですか。。こういう順序なのですね。


> 最も重要なのは、三十七菩提分法や四諦や十二縁起という仏陀の理法の解明、理解でしょう。
> 特に十二縁起は今まで解明した人がいないだろうくらい難解です。
> 四諦にしても、それを洞察することによって漏尽智に達するというのですから、とんでもなく深遠な理法です。
> 四諦は苦と苦の生起と苦の滅と苦の滅に至る道ですから、苦の全的な理解なくしては意味をなしません。
> 仏陀の理法そのものですから、向こう岸に至るまでに、四諦を捨てて十二縁起を拾って、また十二縁起を捨てて七覚支を拾って、というようなものではまったくありません。
> 四諦も十二縁起も今多くある解説のような表面的な理解では瞑想など出来ませんし、ましてそれによって苦の滅に至るなどできるはずがありません。


そうお考えなら、確かにわたしと違うと思うだけです。
実際のところ、「四諦を捨てて十二支縁起を拾って…」などといわれているので、わたしのいう意味があまり伝わっていないことは分かっています。

わたしがいいたいのは、ブッダの理法は確かにあるのだけれど、四諦、八正道などと順序づけられている法は、ブッダが、その都度教えるその人に合わせて組み立てた方便としてあるのであって、それすらも「決まった法」としてあるのではない、ということです。

これは意識の違いなのであって、正しい間違っているの範疇ではありません。
そういう考え方もできる、というお話しです。

そう考えると、どういう点がいいのかと言いますと、漏尽智への道が分かりやすくなるということです。

> ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
> それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
> 自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
> そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。

心の底からわかるのは何ですか。自分の心の状態ですか?


> 十二縁起と四念処が主なものです。
> 十二縁起によって、無明により自我ができ苦の集積に向かっている有り様を洞察します。
> 四念処によって、身⇒受⇒心⇒法 が非我であることを洞察していきます。


了解しました。四念処の最後にある「法」を非我と思うことは、実際、なかなか難しそうだなとは思いますが。

> 誰に捨てろと言われるのですか?
> 自分がそろそろこの法は捨てようと判断するのですか?

いや、ブッダが言っていたじゃないですか?
ブッダの声を聞いた時ですよ。
自分が判断するのではありません。「自分が」ということはありません。

非我なのではありませんか?
問答無用、待ったなしにやってきます。おそらく、チャンスはその一瞬でしょう。
「捨てろ」と聞いて捨てられずにいると、また、いつもの日常に戻ります。
ただ、教えを読んでいる自分がいるだけです。

> > 「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。
>
> 仏陀の理法が筏です。
> 先生にとっては、諸法が筏ではないのですか?

「諸法を捨てろ」と言うのが、ブッダの直接のことばであって、
「諸法が筏なのだ」と考えるかどうかは、わたしの判断ということになります。

「河を渡った後で筏を担いで歩くな」とは言われています。それは、ブッダのことばです、私にとって。
これは、「法に執着をもつな」ということを喩えたのだな、とわたしは受けとめています。

その後、「筏の喩えは法として説かれたのだよ」と、ブッダに念押しされているのです。
「わたしのいうことがわかったのなら、諸法は捨てなさい、いわんや非法は言うまでもない」と、聞いたので、筏の喩えという法を受け取って、ブッダの言うことが了解できたから、実行したのです。
諸法を捨てよと言っているな、まして非法なら、率先して捨てねばならない、と。


しかし、ブッダの法は、捨てろというものだったので、ブッダの法は聞いてその直後ならむりやりでも捨てられるけど、実は、非法の方が捨てがたい、ということに気づくのです。

非法は、捨てねばならないとはっきりわかっているものです。
わたしにもわかるし、ショ-シャンクさまにもわかるものです。しかし、捨てようとして捨てられるかといえば、そんなに簡単なものではありません。

ショ-シャンクさまも、一生懸命ブッダの理法を念想して理解し、それを守って向こう岸に渡ろうとしています。しかし、それを実践していても、なかなか渡れません。
むしろ、非法の方こそ捨てにくいものだ、と実感するでしょう。

「これが捨てられたら、ブッダの法も簡単に捨てるさ、彼岸なんだから」と思っているかもしれません。

ここで、「非法なのになぜ、自分は捨てられないのか」と検討していくことになります。
ブッダの法だけ学んで渡ろうと思ったが、自分の中にすでに非法が巣くっているのだ、と気づくと、「ええい、非法も勉強しなくちゃだめじゃないか」となってくるのです。

これは、わたしのやり方ですが、こうして、法ももちろん勉強しますが、非法ですらおろそかにはできないと知るのです。それは、自己を知ることにつながります。

こうして、その結果、「語られた教えも語られたこととして憶えておき、語られなかったことも語られなかったこととして憶えておきなさい」と言われたら、そのとおりにしようという自分がいるわけなのです。

「蛇喩経」も同じように考えています。筏によって喩えられたのは、本当にブッダの法だったのでしょうか。
筏は、その人が、木や草や枝をあつめて、自分が作ったものです。
自分が作ったその筏を使って、また、自分の手足を使って苦労して渡った後、いつまでも惜しんでいるのはよくない、と言っているのではありませんか。

ショ-シャンクさまは、ブッダの法(=木や草)で筏を作ったのでしょう。
それだから、渡るまでは捨てられない、と思うわけです。


> 私たちが苦の集積に向かっているのは主に『私という中心がある』という思い込みからです。
> この思い込みを」滅するために、四諦も十二縁起も四念処も五蘊非我もあります。
> その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏として必要なのです。

正確には、「筏として」ではなく「筏の素材として」ですよね。

「その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏の素材として必要なのです」というのが正確なのかもしれません。
これでよいとして、

その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏の素材として必要なのです

という文をしみじみ眺めますと、『私という中心がある』という思い込みは、非法であり、その非法さえなくせば、すぐにでも法は捨てられる、ということもわかります。

渡っていると思っている暴流は、自分自身の中にある。
つまり、自分が抱え込んでいる非法を捨てるには、手にして「後生大事だ、この法をわたしは捨てるわけにはいかない」、と思っている、『わたしという中心がある』という思い込みを捨てることなんだ、と知ると、法と非法は、ほぼ同時に捨てられることになるでしょう。
法を捨てると、一緒に非法も捨てられる、ということになるのでは。

この理屈がわかるかわからないかは、ショ-シャンクさま次第なのですが、わたしは、こう理解したので、まあ、ブッダの言うことは何でも聞いておきましょう、となったのです。


 

  [No.21908] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 07:39:20

石飛先生、おはようございます。

> 全体的に、ショ-シャンクさまのお考えは分かりました。

私も先生のお考えがある程度わかりましたし、どこがどうして私の考えと違うのかもある程度わかりました。
どちらが正しい間違っていると言うことでなく、捉え方の問題でしょう。
あるいは、筏を仏陀の理法のみで出来たゴムボ-トのように思っているか、そこら中の木や草で作ったもので激流に流されながらも途中でその素材を替えていくことが出来ると考えているのか、の違いかも知れません。
先生のお考えも参考にさせていただきます。



> > ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
> > それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
> > 自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
> > そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。
>
> 心の底からわかるのは何ですか。自分の心の状態ですか?

例えば、それまでどうしてもわからなかった音楽、例えば、マ-ラ-の第九交響曲が心の底からわかって感激するとか、禅の公案でどうしてもわからなかった『牛過窓櫺』の公案が、あるときその意味の全体がわかったとか、『百丈野狐』の公案で、なぜ黄檗は師匠の百丈を殴ったのか、百丈は弟子の黄檗に殴られてなぜ手をたたいて笑ったのか、そのからくりがはっきりと頭に浮かんできたりします。
それはそのことを考えていたわけでもなく、意識の広がったときに自然と理解できたりする体験が複数あるのでそう書きました。


 

  [No.21909] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:05:51

ショ-シャンクさま

ほぼ、了解したように思いますが、ここが一点ひっかかります。

> あるいは、筏を仏陀の理法のみで出来たゴムボ-トのように思っているか、そこら中の木や草で作ったもので激流に流されながらも途中でその素材を替えていくことが出来ると考えているのか、の違いかも知れません。

「木や草で作ったもので素材を途中で変える」というところです。
木や草には、ブッダの法も入っています。それをつないだ筏は、一応、筏なのです。

その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。

それに、その河は大河ではありますが、それを渡ったら涅槃かどうかは、言われてはいません。

一つの難処は渡りおえたが、まだまだ難処は続くぞ、となっている可能性はあります。
一つの階梯での到達点(サマ-ディ)である可能性はあるな、と思っています。

そうなると、ゴムボ-トは、もって歩くことになる?

何だか、悩ましいことになってきますね。


ブッダの法というのは、どうしても考えなければならないようにできていることだけは確かです。


百丈野孤の公案、そう言えば、なつかしいです。昔、この掲示板で教わりました。

ありがとうございます。


 

  [No.21912] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:37:48

石飛先生

> 「木や草で作ったもので素材を途中で変える」というところです。
> 木や草には、ブッダの法も入っています。それをつないだ筏は、一応、筏なのです。
>
> その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。

それはまさしくそう思います。
私は、激流を渡っているときに素材を替えているいとまはないと思っています。
ただ、先生が『筏ではなく筏の素材』とか『筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。』とか書かれていたので、筏の素材を次々捨てては替えていくことを想定されていると思いました。
私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。


 

  [No.21918] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 19:16:09

ショ-シャンクさま こんばんは。

> > その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。
>
> それはまさしくそう思います。
> 私は、激流を渡っているときに素材を替えているいとまはないと思っています。
> ただ、先生が『筏ではなく筏の素材』とか『筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。』とか書かれていたので、筏の素材を次々捨てては替えていくことを想定されていると思いました。

ほんとに余計なことを書いたばかりに、墓穴を掘りましたね。
すみません。混乱させてしまいました。
何でしょうか、冒険もののアクションシ-ンにありそうだなと思って、つい、書いてしまいました。

まあ、でも、イメ-ジとしては悪くない感じはあります。「捨てる」ということが大事になってくるやはりやはり予期せぬ何かは起こるかもしれないという気がするからです。

> 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。

向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。


 

  [No.21922] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/21(Mon) 05:02:37

ショ-シャンクさま おはようございます。

> > 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。
>
> 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。


このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。


「法」ということばも、多義です。
ショ-シャンクさまは、ブッダの教えという意味で用いられているようですが、
わたしは、その「教え」という意味だけではなく、ただ、ブッダが語った「ことば」という意味も含めて用いています。
自分にとって有効なことばは、みな法です。

それなので、確かに浮き橋のときもあれば、筏のときもあり、中洲のあるときもありで、いろいろあるだろうと思っています。
あらゆることを想定しつつ、いろいろ模索しているのです。

逆に、そうなると、ショ-シャンクさまにとっては、「筏の喩え」は法ではなくて、ただ喩えということだったのかもしれないと思ってきています。


 

  [No.21924] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/21(Mon) 10:41:03

石飛先生、おはようございます。

> > 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
> このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。


それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。
向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。
何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。



> 「法」ということばも、多義です。
ショ-シャンクさまは、ブッダの教えという意味で用いられているようですが、
> わたしは、その「教え」という意味だけではなく、ただ、ブッダが語った「ことば」という意味も含めて用いています。
> 自分にとって有効なことばは、みな法です。

私も、仏陀が語った言葉は、みな仏陀の教えだと思っていますよ。
私が『仏陀の理法』と言う場合は、仏陀の教えの中でも、仏陀自身がダンマパダや大般涅槃経などで常に受持するように語った理法、具体的には、四諦や四念処や七覚支のようなことを指します。


> それなので、確かに浮き橋のときもあれば、筏のときもあり、中洲のあるときもありで、いろいろあるだろうと思っています。
> あらゆることを想定しつつ、いろいろ模索しているのです。
> 逆に、そうなると、ショ-シャンクさまにとっては、「筏の喩え」は法ではなくて、ただ喩えということだったのかもしれないと思ってきています。


筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
向こう岸に渡っていないときのことではありません。

私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
そう考えると、先生がここまで向こう岸に渡る前に諸法を捨てるということにこだわっておられる理由がはっきりします。
つまり、仏陀の言葉の数々をとらわれることなく取捨選択していき、向こう岸に着こうということなのではないですか?
そして、ついたときには既にそれらの言葉の数々は『寂滅』しており、『寂滅』していなければ、向こう岸に着いたとは言えない、と思っておられるような気がしています。


 

  [No.21930] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/22(Tue) 07:00:06


ショ-シャンクさま おはようございます。
>
> > > 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
>
> それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
> ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。

なるほど、そこを心配されているのですね。
初期仏教の考え方に近いのかな。

> これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。
> 向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。
> 何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
> それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。

そうですか。。ゴ-ディカ尊者ですよね。
かれは心解脱で覚った人ですよね。
心解脱の場合、それはそうかもしれませんね。
身体と心はくっついてますから、ヴィパッサナ-で行くとそうなるのかもしれません。
だから、慧解脱というのもあります。
禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。

> 私も、仏陀が語った言葉は、みな仏陀の教えだと思っていますよ。
> 私が『仏陀の理法』と言う場合は、仏陀の教えの中でも、仏陀自身がダンマパダや大般涅槃経などで常に受持するように語った理法、具体的には、四諦や四念処や七覚支のようなことを指します。

「理法」と「法」の使いわけで区別しているのですね。
わたしは、いつも、なんとなくおもしろいなあと思っているのですが、こういう、ブッダのことばは、そもそも整理されて語られているのもあれば、未整理のまま弟子に与えられるのもあります。
それでも、ちゃんと数で数えて憶えやすくまとめやすくして、たちまち弟子たちが整頓していくさまは、本当に興味深いです。
ブッダ自身が数えてまとめたものは、四聖諦、四念処、七覚支のように、たちまち整理され、記憶されていきます。便利なアイテムといった感じですよね。

でも、この便利アイテムも、智慧を用いて自分で検討しながら実践しないと身につかない、という側面があって、なかなか難しいものです。
この辺を、わたしはいつも注意しています。つまり、暗記のことばだけにならないように、と。

> 筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
> そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
> 向こう岸に渡っていないときのことではありません。

正直にいいますと、実は、わたしも、ずっとそう思って来ました。
それと関連して、「諸々の法を捨てよ、いわんや非法においておや」と受けとって来たのです。ここは、『楞伽経』にもあったことばです。
実際、今回「蛇喩経」の中に、この筏の喩えがあることを知って、また、「蛇の喩え」の直後におかれているのを知って、よく読む機会をえました。どちらの喩えもよく知っていると思っていたのですが、両方合わせて読んでみると、また違った印象をもったのです。

> 私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
> たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。

それは、まったく違っています。おっしゃるようなところには、龍樹は全然関係ありません。
「蛇喩経」の全体から得たものです。
よく読むと、ずれがあると思いませんか。

【筏の喩え】の意味
『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
また、
「諸々の法を捨てよ、非法においておや」

こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。

非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
といいたくなりますが、そうは書いていないのです。


「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
というのが、実は!わたしの思いです。
つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。


さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。


だから、

むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。


> そう考えると、先生がここまで向こう岸に渡る前に諸法を捨てるということにこだわっておられる理由がはっきりします。

着く前だと思っているのは、ショ-シャンクさまです。
わたしは、そうは思っていません。
身体が、たとえ残っていても、不退転でありたいと願っているだけです。
というか、身体のことは念頭にありませんでした。確実に窓の外を通り過ぎることだけを考えていた、というべきか。。


> つまり、仏陀の言葉の数々をとらわれることなく取捨選択していき、向こう岸に着こうということなのではないですか?
> そして、ついたときには既にそれらの言葉の数々は『寂滅』しており、『寂滅』していなければ、向こう岸に着いたとは言えない、と思っておられるような気がしています。

「寂滅」の意味が、おそらくショ-シャンクさまとは違います。
どんなにしゃべっていても、「寂滅」していると考えられるとき、それはあたっています。沈黙ではないのです。

ショ-シャンクさまの関心に近いことばでいえば、「無我」「非我」に到達したかどうか、ということが決め手になるのです。


何かスッキリしましたので、ここに尽きるのかな、と思っています。


 

  [No.21931] Re:まとめ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/22(Tue) 07:15:34

管理人エム 様 の 投稿が済んだので 上げます



06:50 未投稿 21924にたいして

・ Re:まとめ - 管理人エム 06/21-05:02 No.21922
・ Re:まとめ - ショ-シャンク 06/21-10:41 No.21924


> >> 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。

> >> 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
> > このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。

> それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。

あなたが、 “ 渡った ” と 仮定するときの “ おはなし ” であり
渡って、見なければ、分からない( 仮定に過ぎない) “おはなし” です

( ここは、 分かりにくいところですが )

渡らずにいる そこのところ で 考えていては 、
向こう岸の存在 さえ ワカリマセン( ワタリマセン )

「 渡る 」 ということは 「 成就する 」 ということです
「 滅尽する 」 という意味 でもあります
“ 思っている ” ところの、 “ その思い ” が 滅している
という意味です

> ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。

“ 肉体があり感覚がある限り ” という “ 肉体 = 「 色 」 ” を
渡り終え、 五蘊 は 消滅し、
即今の生 = ただ一つの生 に 生きる ということです

> これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。

“ 本当に観た ” ・ “ 本当 に 実感した ”
「 本当 」 ということは、 向こう岸に起きていること
「 観た 」 ということは、 向こう岸のことで、
激流中 には 「 見る 」 ということ “しか” 起きない
「 実感した」 ということは、 こちら側、 激流中に起きていること

「 本当 」 は どこにでもあるが、
“ 本当に知ること ” と “ 思いつくこと ” とは 別のことです

「 瞑想 」 という ( 修行の中においてのみ ) 本当 が 存在できる
そのようなこと を 坐れば 「 仏 」 と 言います

> 向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。

激流 を 渡り終えた ( 過程 を 渡った ) 「 処 」 に起きる 話 であり
激流 は どこかに 行ってしまっている( 見失われている )

> 何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
> それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。

悟った人 が 自殺しますか ?

空海 は “ 定 ” に入っている ( 自殺 ですか ? )
( メツジョウ して ジョウ・常 に ある = 「 恒常 」 にある )
「 経 」 を “ 何度も ” 読み返す時、 分かる 時もある 、、、、
まことに、 “ 度 ” とは “ 難 ” に ある


あなたの肉体 は 消滅していますか ?
( どのようにして、
激流中 で 激流を冷静に “ 観 ” 察 していますか ? )


筏 に 乗る前 の ハナシ に なっている
( 乗らなきゃ 「 大乗 」 は わからないこと )



 

  [No.21933] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/22(Tue) 11:04:06

> 管理人エム 様 の 投稿が済んだので 上げます


春間さん、もし、石飛先生と私のやり取りに加わりたいのであれば、石飛先生の書かれた次のことに関して、春間さんの考えをはっきりと書いてみてください。
上から目線で自分は向こう岸に渡ったことのアピ-ルしか書かれてない文章は不要です。
いま、中部経典『蛇喩経』についてのやり取りですから、次の石飛先生の文章に関して春間さんの考えをはっきり示してください。もしそれができないのであれば、この討論の流れを無視して自分は向こう岸に到達している自慢だけの文章は要りません。内容がないので。
私は、今朝は朝から税理士が来ているので、午後にでも書き込みます。
このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。


【石飛先生の文章】
【筏の喩え】の意味
『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
また、
「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
といいたくなりますが、そうは書いていないのです。
「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
というのが、実は!わたしの思いです。
つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
だから、
むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。
【以上】


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