それに対し輪廻については、我々の知らない世界が存在しますので、釈尊の言を先ず信ずることが必要です。
方々の経典にそれらしい記述が見られますが、決定打がなかなか見つかりません。
「御礼」のPLさんのスレッドでお話した「来世の功徳」はご覧になりましか?
金剛般若経の「説教の本質」に釈尊の言は「真実であり偽りはない」と自ら宣言し、その続きのような箇所に「来世の功徳」があったでしょう?
はっきりと「現世 前世」が述べられています。
この言葉が「偽りではない」ならば間違いなく「輪廻」は実在します。
ここで「信じる」が「確信」に変わります。
更に今回、ロム1さまがショ-シャンクさまのブログをご紹介してくださいまして、釈尊が悟りの叡智で自分の何代もの「前世」をお示しになっているのを拝見しました。
これが決定打ですね。
その他、阿含経にも修行者のころ、「輪廻から出離出来ない」と苦しんでいる様を告白しています。最大の悩みです。
だから「輪廻からの出離」がただ一つ、仏教を開いた理由です。
それでも「死後が無い」と仰るなら仏教への背信です。だから間違いに気が付いて頂きたくて、ご指摘の件を発言しました。
重要なところ
大乗は 竜樹菩薩にかかっているからさ
しかし 他力に関しては 0点 笑
ここは昔から その意味で注目 有難い存在
だからな 教えに 否定的な ショ-シャンクにも ここで 教えてもらえと
だったら
最近彼が 投稿していたよ そして カズマちゃんも投稿 思わず投稿してしまったといふ
因縁和合
> 先ず確認ですが、仰る「輪廻」は「輪廻転生」と同一だと考えて差し支えありませんか?
同じようなものだと思うのですが、「輪廻」というと、生まれ変わり生まれ変わりしているある種の循環状態を言い、
「輪廻転生」というと、生まれ変わった結果としての今の状態に力点が置かれているようにわたしには思えます。
「輪廻からの解脱」という表現はよく聞きますが、「輪廻転生からの解脱」とはとはあまり言わないように思います。
間違っていたらごめんなさい。
> 釈尊の言葉で「死してはまた再生する」とは「転生」のことですよね。
う-ん、わたしにはこれは「輪廻」のことを言っているように思います。
> 「輪廻転生」は「転生」が主体で「輪廻」は形容詞的なものですよね。
「輪廻」が形容詞的なものではないとは思うのですが、来生さまが感じられている通り、
「輪廻転生」というと、「転生」のほうに力点があって、輪廻した結果、何か今存在している状態にどこか注目しているように思うのです。
> > > 釈尊が出家したのは「輪廻転生」からの「出離」が目的だったので、「輪廻転生」は大前提だと思います。
> >
> > もちろん当時「輪廻」は修行者の大前提だったと思いますが、それを本当に真実だと身をもって知るのは、そのような智慧を具えた、やはり悟った後だったのではないでしょうか。
> ここのところが理解できませんが、「身をもって知る」ことが必要でしょうか?
まあ、悟るということですね。「輪廻の真実」を真実として悟るわけです。
>
> これは「体験」であって「理解」とは違います。
そうですね。そう思います。
> 外国の仏教の多くは「輪廻転生」を釈尊の教えを妄信して「体験者の説教」を「理解」しています。
そうですよね。でも、妄信というか、信じているわけですね。ブッダには虚言のないものだと。
>
> 「金剛般若経」に「説教の本質」として釈尊自身が「それはなぜか。スプ-ティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」と述べています。
うん。今、上に書いた通りですね。
> 従って「釈尊の教えを(直訳的に)妄信」して間違うことはありません。
そうですよね。そこが宗教的な側面でもありますね。
> 大前提ですから、そこを理解で済ませて、修行者はその「出離」に「身をもって」努力することではないでしようか。
そうだと思います。
その修行者は努力した結果、やがて悟りに至り、前世を知る智慧を得て、おそらく「本当に輪廻は真実であった!」と改めて知るわけだと思います。その智慧を「宿住智」と呼ぶそうです。悟りの智慧、三明の一つですね。
ショ-シャンクさまのブログで少し詳しく書かれています。一度ご覧になられたら如何でしょうか。
https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2021/01/12/114524
> 「輪廻からの解脱」という表現はよく聞きますが、「輪廻転生からの解脱」とはとはあまり言わないように思います。
> 間違っていたらごめんなさい。
判りました。「仏教の目的」で検索しましたら、確かに「輪廻からの解脱」になっていました。
若い頃、仏教の入門書を始めて開いたとき真っ先に目に入ったのが、「輪廻転生からの解脱」という言葉だったので、今でも通じると思っていました。
ウィキペディアも最初は過去の仏教の伝説に忠実でしたが、中観論が大勢を占めたころから、滅茶苦茶に変更されましたから止むを得ませんね。
> ショ-シャンクさまのブログで少し詳しく書かれています。一度ご覧になられたら如何でしょうか。
> https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2021/01/12/114524
貴重な資料を有難うございます。
私は三明六通を水野弘元先生の「釈尊の生涯」で知りましたが、具体的で、より詳しく説明してあって参考になりました。
「『宿住智』についての記述 」に
「そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。」とあります。
これが「梵天勧請」ですね。
そして般若心経の呪文の「彼岸に往けり」のことですね。
ここまで表現されているのに、日本仏教は輪廻転生を無視したままで過ごしているのは異常ですね。
> とすれば釈尊はそれ以外で何時、何のために「そこから死没し、この世へ再生した。」のでしょうか?
「そこから死没し、この世へ再生した。」
これは、わたしが紹介したショ-シャンクさまのブログにある「宿住智」の経典の引用ですよね。
「わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。
すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。
そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。
そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。
そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。
このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。」
お釈迦様が悟られた時、「宿住智」でもって、自身の過去生をこのように見通されたということですね。
ですから、「そこから死没し、この世へ再生した。」という場合の「そこから」とは、今悟っているお釈迦様の一つ前の「生」のことですね。
そしてその「生」を死没して、「この世へ再生」したのですね。「この世」とは、お釈迦様が王子として生まれ、出家し、修行し悟に至ったこの「生」のことですね。
この引用文について何か誤解があるのではないでしょうか。
> そこにも「『この悟りのよろこびの中に生涯を終えるのも悪くない。』と思っていたのでした。」と書かれていますが、
> 今の日本では死んで再生するという思想がありませんので、この表現になったのだと思います。
それは違うと思いますよ。経典の中に実際、『この悟りのよろこびの中に生涯を終えるのも悪くない。』という表現があるのだと思います。実際、お釈迦様と同時代にあったジャイナ教では、聖者が悟ると食を断って死を迎えるのが良いとされていましたから。
> 私は実際に死んだのだと思います。
実際にその時お釈迦様が死んだのでは、仏教はこの世には存在しませんね。
>
> 梵天自身もこの世の人物ではありませんし、我々の知らない世界の話ではないでしょうか?
それはそうですね。伝承された経典の中で語られている世界ですね。
>
> 梵天勧請以外の伝説で、「死んで再生する」事件がどこにあったか教えてください。
こうなってくると「死んで再生する」という言い方が気になりますね。
輪廻を信じている人にとっては、誰もがある意味、「死んで再生する」存在ではないでしょうか。
転生というべきかも知れませんが。
> 余談ですが、梵天勧請で、釈尊が4度も拒否したと伝えられています。
ああ、そうなのですか!
梵天勧請は3回で、お釈迦様は2回拒否されたと聞いていましたが。。
> 多分この世に戻れば、間接的にも殺生を余儀なくされるからだと思います。
ああ、分ってきました!
来生さまは、お釈迦様は一旦死んで、その霊が天かどこかに昇って、梵天に会ったということでしょうかねえ。。
科学的に言えば、一旦仮死状態になって、また、息を吹き返したっていう感じでしょうか。
でも、仏典が伝えている話はそのスト-リ-とは全然違うと思いますよ。
> 従って乞食になってで粗食に耐え、蟻も踏みつぶさずに気を付けて歩いたとの話もあります。
それは先ほど書いたジャイナ教の話ではないでしょうか。生き物を殺さないという意味で徹底していると聞きます。
そのために小さな箒を持っているとも。
> 「輪廻」を信じるという場合、「個人の感想」とはちょっと違います。
>
> この雑多な世界をその雑多な状態として見て、その消滅に対してお釈迦様の説かれた「縁起」という考え方を用いると、一つの生が終わると、また新たな生に生まれるという「輪廻」という考え方は、ある意味とても自然な考え方のように思います。
> 自然な考え方のように思うので、わたしは「輪廻」を信じるのです。そして三宝に帰依するのです。
「ある意味とても自然な考え方のように思います」とありますが、「ある意味」はさて置いて、「自然な考え方」という事は本能に忠実な考えと思われますが、私が仏教を知るまでは、死後が存在するというおどろおどろしい話をを非常に嫌いました。
現在の日本の大部分が同じ考え方を持っているから、誰も「輪廻」を信じないのではありませんか?「自然な考え方」とはとても思えません。
> >
> > 釈尊を信じています。従って「輪廻」は真実と確信しています。
>
> 来生さまはお釈迦様の一体何を信じてられるのでしょうか?
釈尊の「説教のの本質」(金剛般若経)です。
>
> > 仏教には神がいません。だから宗教ではありません。信じるものがないのです。論拠は真実だけです。
>
> その真実とは何ですか?
釈尊の「説教のの本質」(金剛般若経)です。
>
> > 周りは「輪廻」を信じない人が大勢います。それが間違いで、「輪廻」が真実であることを知らせたいのです。そのためのネットです。
>
> 「輪廻」を信じない人が間違いで、「輪廻」が真実であることがどうして分かるのですか?
> 何を根拠に分かるのでしょうか?
それが「阿含経」に示され、ショ-シャンクさまのブログの「過去世」にピッタリ一致しています。
>
> > 自分が信じるだけでは世の中何も変わりません。だから自殺すればそれで総て清算できると皆思っています。
>
> 人ってそんな単純なものでしょうか。。わたしにはそのように思えません。
> 「輪廻」を信じない人だから自殺しやすいとも思えません。苦難の中、新に生まれることにどこか希望を見出して悲しく死んでいかれる方も多いのではないでしょうか。
「輪廻」を信じない人が何故「新に生まれること」を知っているのでしょうか?
>
> 最近、仏教者でなされた「自殺」を巡った対談がありました。良き対談だと思うので一度ご覧になられたら如何でしょうか。
> https://www.youtube.com/watch?v=oHmD3MmqjqY&list=PLmwYOQLkF8Y ..... ;index=168
覗きましたが、会話ですね。時間が掛かりそうですので、あとで見ます。
私の記憶では佐々木先生は、NHKの「100分で名著般若心経」の解説者でしたね。
その講義は滅茶苦茶でした。今「阿含経」は真の姿、般若心経は仮の姿」というロゴもちらと見えましたが、
「空即是色」の解釈なんか「瞬間の映像」という,
とんでもない解釈をされていました。
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