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  [No.18285] Re: 「十二因縁」後の「縁起」 投稿者:斑鳩の里  投稿日:2020/10/29(Thu) 12:36:17

ショ-シャンクさんのウェブサイト「仏教についてのひとりごと」に行ってきました。
彼も「縁起」や「十二因縁」についてはこだわりがあり、根本的な面での洞察がとても鋭い方です。
とても興味深いことが記載されているのでその箇所をここに転記します。(ショ-シャンクさん、了解を取らずごめんなさい)
「縁起」や「十二因縁」に関心がある方は是非とも読んでいただきたい。

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■縁起とは十二縁起のこと


『十二因縁は因・縁・果の時間的連鎖であり、「因縁」と「縁起」は分けるべきである。混同するから、表面的な言語に振り廻されて、群盲のカラ騒ぎとなる。十二縁起ではなく、〈十二因縁〉である。』

などと書いている人がいたので、それについてコメントします。



縁起の原語(パ-リ語)は、paticca-samppada です。

縁って生起すること、です。



因縁の原語(パ-リ語)は、hetu-paccaya です。

この場合、因(hetu)も縁(paccaya)も、同じ『原因』という意味です。



仏陀の死後、後世において、因を直接的な原因、縁を間接的な原因とする見解が生じました。あるいは、因を原因、縁を条件、という見解が生じてきましたが、そんなことは歴史上の仏陀は一切言っていません。

縁起の意味がどんどんねじ曲げられたため、仏陀の真意は失われていったのです。



相応部経典12.1 法説 において

仏陀は、『わたしはいま、なんじらに縁起を説こう』と言って

『比丘たちよ、縁起とは何であろうか。無明に縁りて行があり、行に縁りて識があり、識に縁りて名色があり、名色に縁りて六処があり・・・・・・有に縁りて生があり、生に縁りて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。これを縁によって生起するというのである。』と説いています。(増谷文雄訳)



およそ、十二縁起を説くときに、因縁などと言う言葉はどこにも使われていません。

仏陀が説く縁起とは十二縁起のことなのです。

五支縁起や十支縁起など略したものはありますが、縁起とはすべて苦の縁りて生起する原因のことです。



前にこう書きました。



仏陀が求めたのは、苦の消滅なのです。

苦の消滅のみを求め続けたのです。

そして、仏陀は苦の原因を探求していきました。

これが縁起です。

AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

Bをなくすのには、このようなAを見つけ、Aを滅することによってBを滅することができると考えたのです。

つまり、縁起の法とは

Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。

Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。

このようなAを発見するためのものでした。







AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

これが縁起の公式と呼ばれるものです。

これに当てはまらなくては縁起ではないのです。



つまり、縁とは間接的な原因などではなくまして条件などでは全くなく

それがないと生じない、それが生じれば生じる、まさに根本的な原因のことです。



つまり、後世の縁起、縁の解釈は全くの間違いなのです。

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  [No.18114] 「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/20(Tue) 11:05:50


こんな書き込みがあったので
ショ-シャンクさんの、「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました

[No.18113] 照らされて照る 投稿者:芳和 投稿日:2020/10/20(Tue) 09:59:55
ショ-シャンクさん、「仏教についてのひとりごと」というブログ覗かせていただきました。
お弟子さん増えたでしょうか。「仏教についてのひとりごと」には限られた人しか入れない狭き門
なので、こちらで失礼しますね。

********

芳和さんという人 は 心に 大きな問題を抱える人
であるから
注意を 大きく 構えて 対処しなければなりません

見ているモノ は、 見ている者 の 経験から 認識されます
( 自分が感じるように 物事は 起こっている )
( その感じ方 は 自己認識によって創り上げられている )
( その自己認識 は 自己認識によって のみ 認識できるモノ “ とは 限りません ” )
( と言って、 ブッダ に 一つのモノの見方 = “ 見解 ” が あるのではなく、
ブッダ を “ 認識する者の 自己見解 ” によって 知る というだけのことです )

ここは、 ややこしいから、 分からないかもしれません 、、、、



何れにしても、 一歩 引いたところから、 眺めている
ショ-シャンクさん に 出会ったのは、 愉快なことです

********

マニカナ では 出来てはいない “ やりとり ” が
深いところから 興味に 湧いてきました ( 興味 深く 読む )


https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2020/10/11/121222


くり (58.191.192.212) 2020-10-11 10:16:01
ショ-シャンクさま、高原さま 初めまして。
くりと申します。

ショ-シャンクさまのmanikanaでの石飛先生との真摯な議論をある種の感動を持って読ませていただいた、仏教は初心者の者です。
ショ-シャンクさまには改めてお礼申しあげます。



マニカナの石飛先生は龍樹の研究家です。
芳和さんという人も、龍樹がメインで唯識道元などに親しい感じです。
春間さんもまさしく興味分野は芳和さんと全く同じです。
ですから、芳和さんは、マニカナの分野とぴったり一致しているので、今になってはじめて参加するということに驚くばかりです。
私はヤフ-掲示板ではもともと株式板ばかりでしたし、東哲板(哲学板)にスレッドを立てたのはヤフ-掲示板が廃止される1年半くらい前でした。
ですから、東哲板のそれ以前については全く知りません。
しかし、芳和さんにしても春間さんにしてもかなり前からの東哲板住人だったでしょうから、芳和さんははるか昔にマニカナに参加しているとばかり思っていました。
春間さんの努力によってヤフ-掲示板の人が多くマニカナに参加しているようですから。
イストランさんとテルゼさんというのは名前はよく出ていましたが、その文章を見るのは初めてでした。
テルゼさんと石飛先生の間の『消える中洲』論争は非常に面白いですね。
自洲法洲の中洲は消えるものなのか、という論争です。
これは仏陀の法の根幹に関わるものなので、もっと掘り下げてよかったと思います。
テルゼという人は感情が先走りすぎて、せっかくのいい論点がただの口げんかのようになってしまっているのは残念です。

『仏教は無我』を標榜する人にとって『自洲法洲』の『自』は難問です。

~~~~~

芳和さん、投稿されたようですね。
石飛先生は認めることが上手な先生ですから、どんどん投稿されたらいいと思います。
石飛先生、春間さん、芳和さんは、龍樹メインで唯識道元などに興味範囲が広がっていますのでぴったり一致しています。
有益なものとなるでしょう。

わたしは、後世形成された仏教なるものの全否定から入って、仏陀より後世の宗祖たちから見た仏教知識を白紙にして仏陀の真意を探求しようとしてますので、龍樹の解釈から仏教を見ようとする立場とは正反対です。
わたしの場合どうしても正反対の見地から問題提起という形になってしまうので、本当に龍樹を掘り下げるには、龍樹信奉者が集まって掘り下げたほうがいいのは当然です。
賑わいが戻ればいいですね。



~~~~~

昨日、上の文章のように書いたのですが、今日(10月13日)のマニカナでの芳和さんの投稿を見てびっくりしました。
懺悔をして自我解体するとさかんに言っていたのに、自分の愛読する著者を少し批判された途端、人格が一変してますね。
⬇
※※※※※
★ [No.18025] Re:相対性理論と「 縁起 」投稿者:芳和 投稿日:2020/10/13(Tue) 12:59:38
――龍樹を踏み台にする石飛先生――

わたしは龍樹には興味がないので、どちらがどうという感想は全くありませんが、芳和さんはほんの2週間前にマナカナに初めて来たときには『自己の見解を主張し過ぎて、相手を追い詰めてしまう阿修羅性の心癖を懺悔する者として、自己の見解に固執しないという「空」を今更ながらに頷きます。』と殊勝なことを書いてたのに、結局、ヤフ-掲示板のときと何も変わってないですね。
自分の愛読している著者を少し批判されただけで、ここまで石飛先生を罵倒するとは。
いままで言い続けてきた『懺悔』や『自我の解体』や『無我』はどこに行ってしまったのでしょう。
口で言ってることと実際の振る舞いが違います。
まあ、『自分はいつも目覚めている』という人で、『犯罪者でも誰でも、すべては縁起や因果で、その人はそういう行動をするしかなかったので責めても仕方ない』をどこでも主張している人が、ブログで無駄話している人を見つけては血相変えて飛んでいって責めることを延々繰り返しているとか、口で言ってることと振る舞いが全く違う人はいますけど(笑) 殺人犯した人も縁起や因果でそういう行動をするしかないと思うのであれば、ネットで無駄話している人を自分のホ-ムペ-ジでもないのにいちいちチェックして血相変えて責めに行くのはどう見てもおかしいと、自分で気がつかないようです。そういう人は多いですね。
芳和さんももう少し大人になっているかと思いましたが。

石飛先生と春間さんと芳和さんという龍樹信奉者が三人集まったのですから仲良く深い話が展開すると期待していたのに、残念です。

芳和さんは、論争をしないようにというスッタニパ-タの言葉を引いていますが、そもそも龍樹その人が説一切有部との論争に明け暮れていた人ですからね。
それも非常に攻撃的です。
ですから、多くの人に恨まれていたみたいで、小乗の僧に向かって『お前はわたしが長生きするのはうれしくないだろう』と聞いて『その通りだ』という答えを受け取った後、部屋に閉じこもって死んでいきます。これで龍樹は自殺したと考える人もいるようです。

その人生を見てもなんとも破天荒で攻撃的です。
なぜ龍樹が大乗仏教の祖といわれるようになったかについてはわたしの考えがあるのですがここでは伏せます。

龍樹の本のレビュ-にこのようなことを書いていた人がいました。
◆決定的な問題点:
●悟りも救いも得られません。
●そもそも仏教は生きることが苦しみであるとしそこから救われる事が目的であり、空思想はその手段です。
●しかし本書で空思想を理解しても、何も楽になりません。救われません。他者を救えません。空思想と現実生活をつなぐものが何も示されていません。
●2章8節『否定の論理の実践』に期待しましたが、上記の疑問とは別の議論がされています。
それどころか徹底した否定の論理は『ニルヴァ-ナは存在しない』と結論します。
そして同節1項の最後の2行、中村先生の言葉で『各人の体験を通して理解するよりほかに仕方ない』と突き放されて終わりです。
●おそらく現存する龍樹の著作には、答えが無いのでしょう。
本書では竜樹の活動が論敵・説一切有部との論戦である事を示し、その議論に基づいて空思想が説明されています

さて、どうなのでしょうか。


********


 

  [No.18125] Re: 「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/20(Tue) 17:38:36

こんな書き込みがあったので
ショ-シャンクさんの、「仏教についてのひとりごと」というブログ を 覗いてみました

> 『仏教は無我』を標榜する人にとって『自洲法洲』の『自』は難問です。

『自』は難問 を 標榜する人にとって、

難問は 難問です


 

  [No.18119] ゼロが笑っている(ショ-シャンク様へ) 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 13:02:57



さて、大知者であるショ-シャンク様に凡庸な私はとてもついていけませんので、大智者のブログを
覗き見するのもこれでサヨナラといたしまして、公案に対する答えを申し述べ最後といたします。

>私が目指すのは、精神が無量であること、です。

そうですか。
私が目指すのは、精神がゼロであることです。

方向音痴かもしれませんが、ゼロが笑っていて、楽しいです。

ではでは、貴方は北に、私は南(皆身)に――ご精進をお祈りいたします。


 

  [No.18116] たとえ騙されてもという信頼関係 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 11:53:24

あらあら奥にこんなのがあったのですね。
一切智者であらされるショ-シャンクさんを阿修羅にしてしまったのは私ですので
ここだけお答えしておきますね。

>『こころは移ろい易きものである。 見落とすことなくその中に居よ』
>と訳すなんてありえないのです。
>上の単語のどこをどう訳すとそんなでたらめな訳になるのか、教えてください。

私はサンスクリット語を知りませんし、信頼する紀野一義先生の訳の文字を評価できません。
しかし、私は、紀野一義先生を心から信頼しているのですよ。

で、信用と信頼は違います。
信用は見返りを求めますが、信頼は「たとえ騙されても」です。
信頼関係ができたら大切にしたいですね。
親鸞の、「法然上人にすかされましても」です。
譬え地獄に落ちてもです。

さて、風の噂ではこんな訳もあるそうです。

――「諸行が過ぎ行く法となること」、そのことを怠ることなく達成せよ。――

この訳の、己事究明の「道標」になります。
公案をありがとうございました――南無ショ-シャンク観世音菩薩。

「仏教についてのひとりごと」――「只管レス」ですのでお返事はご自由に。

レス心は レスのみなり 更に我なし 相手なし

狡く見えますかね。ではでは(^^)


 

  [No.18113] 照らされて照る 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/20(Tue) 09:59:55

ショ-シャンクさん、「仏教についてのひとりごと」というブログ覗かせていただきました。
お弟子さん増えたでしょうか。「仏教についてのひとりごと」には限られた人しか入れない狭き門
なので、こちらで失礼しますね。

ところで、親鸞批判をゴシップ的におまとめになっておりますが、縁起によって、生かされ生きている。
ということを知見すれば、すべては業縁によるものではないでしょうかね。
御子息の問題は、太古の昔からどこにもある「お家騒動」でしょう。リ-ダ-となる器ではない人間は
どこにでもいますよ。

例えば遺伝子を例にすれば、私たちは人類発生以来の遺伝子によって生かされて生きているのだから、
誰もが、多かれ少なかれ、お家騒動の種子を抱えているのではないのでしょうか。
縁によっては、お家騒動は起こってしまうし、「さるべき業縁もよおせば、いかなるふるまいもすべし」
親鸞が言うのは「同苦」の心という「弥陀の大悲」ですよ。「悲しいではないか」と共に泣く。
何かジ-ンときませんか。

さて、ショ-シャンクさんは、サンスクリット語の研究者でしょうか。「法洲自洲」のご自分の訳、
ごくろうさまです。

拝見させていただくところよると、激流の中に「強固な中州」をお築きになりたいわけですか。
ご苦労さまです。頑張ってください。

私には、その後の「法燈明・自燈明」という燈明の譬喩の方がスッキリします。
これも譬喩ですが、夜の闇の中で、太陽に照らされて、静かに光っている月のように、私たちも、
釈尊の悟った法に光に照らされて、輝き出す。

ピタゴラスが死んでも、ピタゴラスの定理は今の輝いている、というようなものですよ。
ですから、釈尊の悟った法を発見し、その光明に照らされて生きる。なんて素敵じゃないですか。

「照らされて、照る」――昔の人はいいこと言いました。


 

  [No.18100] ショ-シャンクさんも餓鬼 投稿者:芳和  投稿日:2020/10/18(Sun) 15:12:32

ショ-シャンクさ~ん。お元気そうでなりよりで~す。(^^)
ヤフ-の掲示板が終わる頃に「仏教ついてのひとりごと」のトピ主さんですね。
ヤフ-掲示板にいらしたようなので“ショ-シャンクのブログ”で検索したらすぐ出てきました。
ブログをやれているようで、楽しんでください。

昔昔、自称内山興正老師の弟子なる方が、アメリカやタイで諸行してきたということで、大乗仏教
を低く見るような本を出版しまして、大乗批判の嵐が吹き荒れていたころ、「仏教についてのひとり
ごと」の大乗批判が東哲でも話題にました。そこで私は、大乗の守護神阿修羅に成り上がり、
短い間ではありましたが、「只管レス」をしていた時期がありましたね。

そうです。昔の名前は和弘でした。
ここの[過去トピ]で、イストランさんがテルゼさんへのレスのkazumaです。
和真だったのですが、私は「嫌われ者」だったのでロ-マ字表記ということでしょう。
イストランさんがあの世で笑っています。下記のレスです。

………
>このトピでは確か私はテルゼ氏から相当罵倒されていたんじゃないかな。そこへ突然知られざる氏
がテルゼ氏とkazuma氏を小馬鹿にしながら、私にすりよってきたのですよ。なんのことかわからん
ですよ。要するに、その必然性が見えない。
あるとすれば、やはりテルゼ氏とkazuma氏の接近にむかっときて、日頃のマッチョ主義と合わさり、
かつ、名誉毀損と侮辱の違いもわからないので、推測を事実にしてもいい、となっていった知られざる氏
のしょうもない性格ではないのかな。
………

歳を重ねますと、嫌なことは忘れるようですが、誰かさんが執拗に揚げ足を取って来たありましが、
私とテルゼさんが蜜月関係にあったころのお話です。その後テルゼさんの天敵になりましたが、
子供の頃のような懐かしいお話で、みんな可愛かったですね。
そういうことで、15年にも及ぶ長い歴史があるんですね。おかげ様で、蛇の皮のように我の皮がはがれ
ましたが……南無テレゼ観世音菩薩、南無イストラン観世音菩薩でございます。

ところで、蛇の皮が剥けてから歓喜の修行がはじまりますもので、ペンネ-ムも、観音信心らしく、
〈妙音林芳和〉と改めさせていただいています。

失礼なことを言って誠に申し訳ありませんが、蒼龍の窟に下って、嫌われ者になりたいと思います。
ズバリ申しまして、「ショ-シャンクさんも「餓鬼」です。
ただし、「も」すなわち、「貴方も私も」です。
貴方が阿修羅なら私も阿修羅――仏の智慧は自他平等ですよね。

諸行無常」の譬喩として六道輪廻が説かれますが、人の心は激流の如くに六道輪廻をしています。
六道輪廻の中で、私は阿修羅性を強く、ショ-シャンクさんは餓鬼性が強い。
それは、損するか得するかのビジネスや株の世界に身を挺しているからではないのでしょうか。
そんな世界におりますと、「もっと得よう」という貪欲に縛られてしまいます。

ショ-シャンクは、無我や無欲なんか仏教じゃない。
仏教の中には、自分の欲望を満足させるものがきっとあるに違いない、と思っていませんか。
涅槃に安住したい。というのも貪欲ですよ。

広大無辺な仏法は摑みどころがありせん。行っても行っても空亦空――“世俗”のご利益なし。
彼岸もまた空。

どうしましょうか。
それなら歩むだけ損だ!と止めますか?
それはそれでいいでしょう。
でもね、道が限りないからこそ、今を真剣に生きようとする人間がいます。
それは、高名や財産やらの利養を求めずに、「今を真剣に生きよ」ということです。
しかし、分かっているけれど止められないのが人間で、どうしたって利養を求める。
そんな危なっかしい自己だから、六道輪廻する自己を制御しなさいということです。

テルゼさんの「消える自州」問題で、石飛先生が「中州」と言っていたのはある意味正解です。
大河の中州で、激流をしっかり見つめて自己を制御する、と意味にもとれるからです。

の仏語には二義性があって、損も得も平等。出発も最終地点も平等。輪廻と涅槃も平等。今も永遠も平等。
……といのが仏の平等の智慧ですが――この輪廻の生死の渦中に涅槃があるということですよ。

損得勘定の世俗の「知恵」から、損得平等の仏の「智慧」への転換。そこから八正道がはじまります。
一切は思い通りにならないという「苦」を諦らかにして。
その苦の要素を「集め」諦らかにして。
集められた苦の「滅」を諦らかにして。
さて、苦が滅せられたからそこで終わりというわけじゃありません。
そこから「八正道」という正道が歩む決意をするのが悟りじゃありせんか。
苦・集・滅・道―――滅の後に道がある。永遠の道がある――菩薩道はブッダの教えを受け継いでいます。

さて、「ブッダ最後の言葉」ですね。
ショ-シャンクさんご自分の思いに合わない学者さんは信用しないようですが、私の初期仏教の師は
羽矢辰夫先生ですが、その著書『ゴ-タマ・ブッダ』にこうあります。

「修行僧たちよ。あなたたちよ、あなたたちに告げよう。もろもろの〔自己を〕形成〔する〕力は
無常である。怠ることなく修行を完成しなさい。(『ディ-ガ・ニカ-ヤ』2・156ペ-ジ)

と一般的な訳を示した上で、5ペ-ジにわたり緻密な解説がなされますが、最後がいいですね。

「ゴ-タマ・ブッダは最後の言葉を残して瞑想に入り、そのまま静かに亡くなったと言われます。
根底のところで転換がなされていたので、生きるも死ぬも同等に受け入れられ、静かに死を迎える
ことができたのです。」

心に染みますね。「生きるも死ぬも同等に受け入れられ」というところが核ではありませんか。
「生」と「死」を差別しない境涯となりなさいということです。
「スタ-ト」と「ゴ-ル」を差別しないということは、真実は始まりと終わりの途中の今にある。
要は、ゴ-ルに多大なご利益があると「お得な彼岸」を目指すと石に躓くということです。

サンスクリット語にご堪能のショ-シャンク大先生は、
>私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。
とありますが、「行じなさい」というのは、苦集滅道の「八正道」だと思いますので行じて下さい。
それは“煩悩断滅”の体験において、根底からの自己転換が成された後の「正しい道」です。
そこでは、生死平等、スタ-トとゴ-ル平等の智慧が現成する修行です。
明日の利養を貪らないで「今を真剣にいきよ」ということです。
言葉を変えれば、諸行無常の先端を生きよということでしょうか。
激流に逆らわず、流されず――大神通力ですね。

紀野一義先生は、今を真剣に生きられた方で、亡くなられた今も、仏と共に歓喜の内に修行中です。
それには、常に自分の生き方に対する反省が必要だといいますが、今になって心に染みます。

紀野一義『ええなあ!という人生、肯定、肯定、絶対肯定として生きる』102ペ-ジ。

痛みの自覚

人は
真実に生きようと思ったら
自分を痛切に
反省しなければならない
ひねもす 夜もすがら
自分の生き方が
真実であったか どうか
自分自身にと問わなければならない
このとき
自分がにせ者であり
罪深い者であることを
痛切に感ずるだろう
この「痛みに自覚」のない人は
ついに
仏をしることができない。

…………

「見落すことなく、その中に居よ」というはそういうことです。
懺悔と言いますが、日々チェックが必要のようですね。

私は、昨今やっと骨身に染みた大ばか者ですが……。


 

  [No.17968] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/07(Wed) 08:43:15

管理人エム 様 お忙しいでしょうけれど
我慢して これを読んで お返事ください


わたしの 投稿 が 多すぎる
それが(その記述の内容が) 他の人の投稿の邪魔をしていて
ここが、 過疎化していく

という意味の 指摘がありました

それに対しては わたしの 考えを 述べています
きちんと、 スレッド ? を 関連付けて 、、、、


> トピックを眺めて、何と言いますか、ぼうぜんとしていますが、混沌化はしていません。

呆然 としてはいるけれど、
混沌化せずに、 きちんと 体系づけることが出来ている
という意味ですか ?

> まだ、読んでいないところも多いので、ただトピックを眺めているだけです。

眺めているだけでは、 内容の 他 に対する関連性 は 読み取れません
( トピ が 立ちすぎている )

> こういう思考の方なんだなあと思っています。

思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?

人生に対して、 そのように 思考を 立てる やり方
( 関連付けて、 継続させない )

本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
一貫性 が 不足している
( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )


もし、 直ぐに分かるのであれば、 そこに 一貫性=関連性 が 見出されています
( やはり、 わたしの記述は 難解 ですか ? )
( それと、 ここでの 言いたい = 指摘したいこと とは 別の問題です )



これについて、 ショ-シャンクさん が 述べています

***********

[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

***********

これに関して わたしが
[No.17932] Re: 存在の解体と後始末 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2020/10/02(Fri) 11:42:47
と 置きます
重複しますが 内容を 再度 コピ- します
No.17923 以降に 続けておかない理由は 何でしょうか

ショ-シャンク さんが、
[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります

> 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> 人の話を聞かないのは相変わらずです。

見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです

敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます

しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
そこを、
ショ-シャンク さん は
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

“ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない

だけではなく

自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある

管理人エム 様 なら、
( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

( 出来ない かもしれない
けれど、 理解しなければ 何も始まらない )


始まらない と 言われようと、
新しい “ スレッド ” を
自らの意識に 立ち上げる 、、、、

***********

> 春間さまが取り上げた論点が論点となる、ということで、そんなに心配はしていませんが> いかがでしょうか。

わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

あなたが、 忙しくて
論点を見失って、 結果として、 応答を 失している のとは わけが違います


 

  [No.17988] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/10/08(Thu) 09:48:09

> 管理人エム 様 お忙しいでしょうけれど
> 我慢して これを読んで お返事ください
> 春間さま おはようございます。

> > トピックを眺めて、何と言いますか、ぼうぜんとしていますが、混沌化はしていません。
>
> 呆然 としてはいるけれど、
> 混沌化せずに、 きちんと 体系づけることが出来ている
> という意味ですか ?

何と言いますか、体系づけているわけではなく、何となくその人をつかまえよう、という感じで、ボ-ッと見ているのです。
一番言いたいことは何だろう、とか思いながら。

> ( トピ が 立ちすぎている )
>
> > こういう思考の方なんだなあと思っています。
>
> 思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?

「よし、最初からチャラにして、もう一度考えてみよう」とか思ったのかな、と私は勝手に想像したりしています。

> 本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
> 他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
> 一貫性 が 不足している
> ( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )

わかりますけど、芳和さまに、そのやり方を求めるのは、ちょっと無理かと。
常不軽菩薩なのですから、春間さまが何か言うと、ずっと遠くの方から、「あなたを軽蔑することはありません、あなたを礼拝いたします」と返ってくるのが、芳和さまなのではないかと思っています。

ショ-シャンク さんが、
> [No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
> において
>
> > 芳和さん
> > ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。
>
> 変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
> 関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります
>
> > 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> > レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> > 人の話を聞かないのは相変わらずです。
>
> 見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです
>
> 敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

ショ-シャンクさまは、きちんとしているので、気にされるのだと思います。
春間さまも、リズムと形式が整っているので、そこは同じように気になるのではないでしょうか。

むしろ、芳和さまは、そこを崩したがっているようにも思われます。

整っているものは、あえて崩したいとか、そんな感じかな、と思ったりするのですが、はずれていたら、ごめん!

> 理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます
>
> しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
> そこを、
ショ-シャンク さん は
> > 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。
>
> “ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> > 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない
>
> だけではなく
>
> 自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
> その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
> ( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

私には、芳和さまは、こんな自分をわかってくださいよ、とおっしゃっているようにも感じられます。
相手の話に乗らない、というより、乗ろうとしても乗れないのです、とも言われているような気もしているのですが、違うかな。

>
> あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある
>
> 管理人エム 様 なら、
> ( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

意識化できない障害がある、といわれたら、そうだなと思います。

誰でもが欠点をもっているように思われるのです、といって、自分の欠陥を隠そうとするのは、良くない癖だ。

> わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
> 論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

仏法の大海に乗り出すと、いつも行方不明になるような気がする。

春間さまの論点はわかるけど、話す相手は、その論点を嫌がるというのもまたあります。
認めたとしても、どうしようもないことが多いから。

そして、そこから生まれてくるのが、常不軽菩薩なのかもしれない、とちょっと今思いました。なかなか難しい菩薩の道です。

私も、ピンとくるとは言えませんが、理解しようとしています。


 

  [No.17992] Re: これで問題ありませんか ? 管理人様 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/08(Thu) 12:20:27


> 何と言いますか、体系づけているわけではなく、何となくその人をつかまえよう、という感じで、ボ-ッと見ているのです。
> 一番言いたいことは何だろう、とか思いながら。

一番言いたいこと

していること との間に 乖離があるとは 思わないのですか ?

> > > こういう思考の方なんだなあと思っています。
> > 思考 という意味は “ やり方 ” という意味ですか ?
> 「よし、最初からチャラにして、もう一度考えてみよう」とか思ったのかな、と私は勝手に想像したりしています。

自由気儘 が 自らに許される時
その許されることは 他によって 齎される
( 他が 気儘にしているからこそ、 自に根拠が起きる )

( 分かりますか ? 根拠に対しての この程度の書き方で 、、、、 )


> > 本人には、 自分の作る人生 の中で 一貫しているが
> > 他に対して、 働きかける( 菩薩道を含めて ) には
> > 一貫性 が 不足している
> > ( この わたしの記述で “どこに対して 言いたいこと か” が 理解できますか ? )

> わかりますけど、

> 芳和さまに、そのやり方を求めるのは、ちょっと無理かと。

人の行いに 「 (ヾノ・∀・`)ムリムリ 」 が ありますか ?

> 常不軽菩薩なのですから、春間さまが何か言うと、ずっと遠くの方から、「あなたを軽蔑することはありません、あなたを礼拝いたします」と返ってくるのが、芳和さまなのではないかと思っています。

礼拝されている のを知らず、
わたしは、 礼拝していた 、、、、

“ 返ってくるのは、言葉 だけ ”

木霊 のように、 聞いている
いや 杖木瓦礫 を受けている


いよいよ “ 遠ざかって ” 礼拝する


> > 敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです
ショ-シャンクさまは、きちんとしているので、気にされるのだと思います。

> 春間さまも、リズムと形式が整っているので、そこは同じように気になるのではないでしょうか。

わたしが 気に障って、 気にしている という意味に 読めます

> むしろ、芳和さまは、そこを崩したがっているようにも思われます。
> 整っているものは、あえて崩したいとか、そんな感じかな、と思ったりするのですが、はずれていたら、ごめん!

本人は、 きちんと 整えている という立場です
( 懺悔を済ませて、 新しき道を歩んでいるのだから 、、、、 )

> > 理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます
その理由 は
> > 自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
> > その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
> > ( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )
ですか 、、、、


> 私には、芳和さまは、こんな自分をわかってくださいよ、とおっしゃっているようにも感じられます。
> 相手の話に乗らない、というより、乗ろうとしても乗れないのです、とも言われているような気もしているのですが、違うかな。

違う・違わない では 話を進めません

> > あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある
> > 管理人エム 様 なら、
> > ( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

> 意識化できない障害がある、といわれたら、そうだなと思います。
> 誰でもが欠点をもっているように思われるのです、

思う事 は 常に、 正しいという前提で 意識に上らせることが適います
正しくなければ、 思いは構築できない 、、、、

> といって、自分の欠陥を隠そうとするのは、良くない癖だ。

癖 ですか ? ( 癖ではないと思う時には、 癖 には ありませんか ? )
( 精進している と する時に、 その思いに 精進していますか ? )


> > わたしは、 論点 を 続けるために 投稿しています
> > 論点 が 行くえ不明( 幾重にも不明 ) に なってはいませんか ?

> 仏法の大海に乗り出すと、いつも行方不明になるような気がする。

それは、 大海 に 乗り出す前の話です
「 信 」 を 持たねば、 大海には 「 能入 」 出来はしない

行方不明になる のであれば、 「 信 」 ではない

ま、
“ 気がする ” として、 精進していることは 分かってはいますが 、、、、


> 春間さまの論点はわかるけど、話す相手は、その論点を嫌がるというのもまたあります。

嫌なこと が 大事な “ところ” です
何故 嫌がるか を 問う のですが、

嫌なことは 、 したくないこと
何故だという問いかけ を 聞きたくない 、、、、

> 認めたとしても、どうしようもないことが多いから。

どうしようもないこと など ありません
何もしないこと という する事 を 選ぶわけです
( 敢えて言えば、 行く得 ・ 「 到彼岸 」 を 幾重 にも 覆おう ということです )
( 修証一如 )

> そして、そこから生まれてくるのが、常不軽菩薩なのかもしれない、とちょっと今思いました。なかなか難しい菩薩の道です。

そのように、 論理を飛躍させるから
他者 に 伝わりにくいのです

「 常不軽菩薩 の道 は “ 困難な道 ” ですか ? 」 と お聞きしたくなる

「 いぎょう 」 って 異形 ですか ?


> 私も、ピンとくるとは言えませんが、理解しようとしています。

自分 の 飛躍を 理解できていますか ?


わたしは、 敢えて( 理由をはっきり定めて ) 、 飛躍させます



 

  [No.17932] Re: 存在の解体と後始末 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/02(Fri) 11:42:47


> ブログ用にまとめましたので……。

と 最初の行 に 置く 「 行 」 ではあるけれど

敢えて、
No.17923 以降に 続けておかない理由は 何でしょうか

ショ-シャンク さんが、
[No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ
において

> 芳和さん
> ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

変わっているかどうかは 此処では判断できませんが
関連を 避けて、 新しい スレッド を 立てていることは 分かります

> 春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
> レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
> 人の話を聞かないのは相変わらずです。

見やすい ということは、 関連 を 検証しやすい ということです

敢えて、 避けて 別スレッド にする 理由があるわけです

理由が あるのであれば、 新しいスレッド を 立てるのは 頷けます

しかし、あなたの頷き と 他の頷き とは 違っています
そこを、
ショ-シャンク さん は
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

“ のも ” と 複数の理由 を 可能性として 上げています
> 自説を滔々と述べ立てることにしか興味がない

だけではなく

自説を展開することへの “ 障害 ” を 回避したいわけです
その “ 障害 ” は 、 わたしに帰すべき “私自身の障害” とするわけです
( ここを 理解するには、 「 仏法 」 = 「 仏教 」 の 理解が必要となる )

あなたには、 意識化できない( したくない ) 、 そういう障害がある

管理人エム 様 なら、
( この記述について ) 理解できるはず 、、、、

( 出来ない かもしれない
けれど、 理解しなければ 何も始まらない )


始まらない と 言われようと、
新しい “ スレッド ” を
自らの意識に 立ち上げる 、、、、



 

  [No.17746] ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/07(Mon) 14:35:27

石飛先生、こんにちは。

石飛先生は
『心臓の中にある光明を、ヤ-ジュニャヴァルキヤは「プルシャ」とも呼び、「ア-トマン」とも呼びました。
心臓の中に「人」の形をしたプルシャがあるのだ、ということもいわれます。いつでも、「人」を離れられないのが、
ヤ-ジュニャヴァルキヤなのか。相対的な考え方から離れられないことになってしまうような気がしてなりません。
ヤ-ジュニャヴァルキヤは、肯定と否定、能動と受動など、いつもこの相対的な判断から離れません』
と書かれていました。

確かにヤ-ジュニャヴァルキヤは自己(ア-トマン)を心臓の中の虚空に横たわっているという言い方をしている箇所があり、
ここは残念なところです。

しかし、私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)が最も影響を受けたのはヤ-ジュニャヴァルキヤだと考えます。
仏陀の教えの骨格はヤ-ジュニャヴァルキヤにあるように思えます。

自己(ア-トマン)を『~に非ず ~に非ず』としたこと。
行為(業)によって輪廻転生すること。
妻を捨てて出家するという生き方。

これらを見ると、青年期のゴ-タマ・シッダッタはヤ-ジュニャヴァルキヤの教えに甚大な影響を受けて出家し
行為や欲望を滅して不生に到達しようとしますがかなわず
ついに、行為や欲望のもっと元に、真の原因たる無明(苦を知らないこと)があることを発見し(四諦十二縁起)
独自のやり方で成道したのではないかと思えるのです。

ですから、仏陀は独自にそれまでにないやり方で無上の悟りを開いたのですから天上天下唯我独尊であることは確かですが
それに至るまでにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響は非常に大きいものがあると思っています。


 

  [No.17749] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/10(Thu) 17:12:25

仏陀が言った『私には師はない』ということと
仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
別に矛盾しません。

師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
師弟関係とは言いません。

青年期の仏陀が、インドの聖典を読んだこともなく影響を全く受けてないと思う方が現実的ではありません。
『ヴェ-ダの達人』とも呼ばれていますから、かなりインドの聖典には精通していたはずです。

これは、イエス・キリスト旧約聖書に詳しくて、人々が驚いたという記述を思い出させます。

イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。
無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。


 

  [No.17751] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/10(Thu) 19:24:29

> > 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> > 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> > 師弟関係とは言いません。


>
> それは、
> あなたの 本への接し方
> 人生への 解釈に仕方 に 過ぎません、
> “ 直接 ” って どういう意味か は、 あなたが決めることです
> わたしは、 ブッダからの 直接の働きかけを 受けていますし、
> 龍樹・空海親鸞からも 直接 (大事な)教えを 受け継いでいますが
> あなたが、 どのように そのことを、認めるか ・ 認めもしないか は
> あなたの自由 で、
> あなたの考え方 に 左右されることです


> ブッダ は 伝説上 幾人もの 師 と 呼ばれるモノのもとを訪れています
> 彼らは、 インドの伝統を受けているわけです
> その影響 が ブッダの独自性( 唯我独尊 )を生んでいます


あなたは自分で自分が展開していることを理解してますか?
否定のための否定は害しかありません。

私が、仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けていると書いたら
ブッダの( ウパカへの最初の説法の)言葉は 思い込みですか ?「 無師独覚 」』
と質問してきたのです。
本を読んで影響を受けたことまで師弟関係というなら、仏陀が言った無師は嘘となりますね?
あなたの意見はどちらなのですか?
仏陀は、影響は受けているけど師はいない、という結論ではないのですか?
それなら私の結論と一緒ですから、わざわざ否定する必要はないはずです。
あなたは否定ばかりしようとしているので論理が矛盾するのです。


> > これは、イエス・キリスト旧約聖書に詳しくて、人々が驚いたという記述を思い出させます。

> > イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように

> イエス は 飛び越えたりなどしません
> 旧約聖書 を 正しく読むから、 正しい 教えを 説くことが出来るだけです
> どこに、 旧約 の 飛び越えられるところがありますか ?



旧約聖書ユダヤ民族の聖書ですが、イエス・キリストは人類普遍の教えを説きました。
民族宗教世界宗教へとなりました。


> 「 無明 」 = 苦を知らないこと
> ということは、 仏典の どこに 説かれていますか


仏典を読めばわかります。
明白です。
人に聞くばかりではなく、自分で探したどうですか?
よくあなたも『自分で探しなさい』と言っていますよね?


 

  [No.17753] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 02:11:11

> ヤ-ジュニャヴァルキヤ が ブッダの骨格 だ(にある) と 書いています
> それを受けて、
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ の 骨格は 何か と 訊ねたわけです


行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。

ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそうした人はいますか?
いるなら名前を挙げてください。
そして、その考え方はゴ-タマ・シッダッタに引き継がれています。



> 何故、 旧約 と 新約 と 聖書についているかが 分かりますか ?
> 約 の 新しき 読み方が 新約 なのです ( 旧約を飛び越したりなどしていません )
> ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )



「新約」とは「新しい契約」の意味です。神と人間との間に結ばれる契約です。
旧約聖書ユダヤ教の経典で、いつか救い主が現れてユダヤ人の王となる、という伝承を伝えています。
それが「古い契約」です。
そしてキリストがその「救い主」です。
「救い主が現れる」という契約が成就したので「古い契約」になったのです。
そしてキリストによって新しい教えが説かれ、「キリスト教」として独立しました。
ですからキリストの教えを書いたものが「古い契約」に対して「新しい契約」と言われ新約聖書になりました。
ユダヤ教徒はキリストを救い主と認めず、旧約の教えを守ってずっと「救い主」の出現を待っています。
ですからユダヤ教徒にとっては「旧約」はまだ「古い契約」ではないので、「旧約聖書」という言い方はしません。
もちろん新約聖書は使いません。



> ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )


あなたは
旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません』と書いていますよ。




> >> 「 無明 」 = 苦を知らないこと
> >> ということは、 仏典の どこに 説かれていますか

無明とは四諦を知らないことです。
そして四諦とは、苦と苦の原因と苦の消滅です。
つまり苦についての真理です。
ですから、無明とは苦について知らないことです。


> 「 楽 」 を 知らないこと が 「 無明 」 です


これこそ、仏典のどこにありますか?



> > よくあなたも『自分で探しなさい』と言っていますよね?


>
> あるから 探しなさい と 言うわけです
> ないモノを探せとは言ってはいません



あたは、『受想行識が一切です』と言いました。
そして、それは仏典にあるから自分で探しなさいと。
そんなものは絶対にありません。
ないものを探せと平気で言っているではありませんか?


 

  [No.17757] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 09:22:32

何個かに分けて答えます。
時間が何時間も空いているときは全部書くことが出来ますが
来客と来客の間、商談と商談の間の時間しかないときは、分けて書きます。


> > 行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> 輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


反論の根拠がウィキペディアというのは恥ずかしいですよ。
ヤフ-掲示板のときにいろいろな人からよく反論をふっかけられましたがその反論の根拠がウィキペディアであることが多かったです。
まあ、ウィキペディアは言葉をググればすぐ出てきますから便利ではありますが浅すぎます。間違いも多いですし。

さて、あなたが上げたウィキペディアを見ましたが、何の反論にもなっていません。

輪廻の萌芽の五火二道説では、行為によりいいところや悪いところに輪廻転生するということにはなっていません。

そのウィキペディアには『そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥ-教の輪廻説が集大成された。』
と書いてあるだけです。

その様々な思想家のうち、行為により輪廻すると言ったのは、ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初です。

ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそれを言った人があるのですか?


 

  [No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

> 別に WIKI を 根拠としているわけではありません
> 参照してみたら ? という程度です
> わたしは、 参照事項として WIKI を 引くことはありますが
> 証明に使うことはありません
> 証明 は あくまでも 自らの歩む道 です


あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。

もし、そうでないなら、
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
の文章の根拠をウィキペディア以外で貼ればいいですね。是非貼ってください。根拠があるのであれば。


> 歴史的な( 文献上等 の )根拠 は ありますか ?

ブリハッドア-ラニヤカ・ウパニシャド

しかし、これを出してもあなたには無駄です。


> もしあろうと
> 誰かが、 そのように ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初 だと 証明しましたか ?
> ( たとえ、 その証明があっても、 それが事実だと どのように証明しますか ? )
とあらかじめ言っているのですから(笑)


> もしあろうと
> 誰かが、 そのように ヤ-ジュニャヴァルキヤが最初 だと 証明しましたか ?
> ( たとえ、 その証明があっても、 それが事実だと どのように証明しますか ? )


はいはい。どんなに文献を出そうとも、認めない、という宣言ですね。
何を出しても『それが事実だと どのように証明しますか ?』と言っていればいいのですから楽ですね。

自分は何の根拠も示さず、人が根拠を出しても『それが事実だとどうしてわかる?』と言うだけの人相手には
何を出しても無駄です。


> > ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそれを言った人があるのですか?


>
> どうして それを見つけなければなりませんか ?
>
> それを見つけるのは あなたの仕事です


はいはい。ちょっと話になりません。
私は、ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前には言ったことある人はいないと思っているのですから
ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前に言った人がいると断言するあなたが
その言った人を見つけるべきですね。



> その上で、 その根拠について お話しします

典拠を示さないのがあなたです。
今回も、典拠を示すことはないでしょう。

ただ、自分の思い込んでいる説をわけの分からない日本語で滔々と書き連ねるだけでしょうね。


 

  [No.17808] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/21(Mon) 21:15:40


[No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

***********
あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。
***********

そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?

もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません

「 輪廻 」 については、 正しい 記述を わたしは 見たことがありません
( 管理人エム 様 の それを含めても 、、、、 )
龍樹の輪廻思想 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。 『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。

これ (↑)が、 龍樹 の知る 「 輪廻 」 ですか ?

( 一つの 龍樹に対する 解釈に過ぎない )



「 輪廻 」 は あなたの行為に起きている
( あなた とは、 あなたであり、 管理人エム 様 であり、 これを眺める者である )


わたしは、 あなたと共に、 「 輪廻 」 している



 

  [No.17759] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 11:18:18

> > 自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
> > バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> ヤ-ジュニャヴァルキヤ のいう “ 真理 ” は
> ブッダの知った 「 真理 」 と 同じモノですか ?



自己を『~に非ず』としか言えないとした点と
祭祀で自己に到達するのではないとした点、
ここにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を見ているのです。


> > 妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。


>
> シュマラナ という語は 伝統的なモノ です


シュラマナですね。
ただ、シュラマナは、釈尊の時代以前から伝統的であったわけではなく、釈尊の自由思想家の時代になって流行したものです。

シュラマナでなくバラモンの出家はそれ以前にもあったと思いますが、名前が残っているもので最初はヤ-ジュニャヴァルキヤです。

特にヤ-ジュニャヴァルキヤの、妻を捨てて出家するという生き方は、
青年期のゴ-タマ・シッダッタの出家の決断に大きく影響を与えたのではないかと思っています。


このように、私は、ゴ-タマ・シッダッタの考えや生き方にヤ-ジュニャヴァルキヤは大きく影響を与えたと思っているのです。

影響を受けた可能性について述べているだけですから、
もし何でもかんでも否定したいのであれば、ちゃんとした根拠を示してください。

むしろ、古代のインドにおいて、悟りを求めている青年が、インドの聖典を読み影響を受けたと考えるのは自然だと思いますよ。


 

  [No.17766] 旧約聖書の約はシナイ契約 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 14:45:49

> > > 何故、 旧約 と 新約 と 聖書についているかが 分かりますか ?
> > > 約 の 新しき 読み方が 新約 なのです ( 旧約を飛び越したりなどしていません )
> > > ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> > > ユダヤ民族の宗教 などというモノはありません
> > > ( 自分たちのモノ とするのは 自由です が 神は 誰のモノでもない )
> > > ( 旧約聖書 に どのように記載があろうと、
> > > それを どのように読めば 正しいかを イエス は 説いたのです )


これは、キリスト教を知らない日本人がよく間違うことですが
旧約聖書新約聖書を、旧訳聖書、新訳聖書と思っている人が多いのです。
どのように訳したか、どのように解釈したか、ではないのです。

約というのが契約のこと、それも神との契約のことだと知らないのです。

契約にどのように読むかの問題は起きません。

シナイ契約が旧約聖書での神と人との契約です。石の板に書いた契約です。

そして、新しい契約は、心の中に書かれ、完全な罪の赦しがもたらされます。
最後の晩餐のときに聖杯によって契約されました。
これが新しい契約です。




> > あなたは
> > 『旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません』と書いていますよ。

> 宗教 とは それを保つ民族 の為 だけで “ ! ” 存続できますか ?


あなたが、旧約聖書ユダヤ人の為のモノで他の民族の為ではないと書いたのです。
ユダヤ教は今も存続してますね。


 

  [No.17768] Re: 旧約聖書の約はシナイ契約 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 19:57:32

> > そして、新しい契約は、心の中に書かれ、完全な罪の赦しがもたらされます。
> > 最後の晩餐のときに聖杯によって契約されました。
> > これが新しい契約です。

> それは、 あなたの 契約 です


あなたに提案ですが、条件反射のように反応せずに、
指し示す文献を確かめてから否定なり反応すればいいのではないですか?
特にこのような仏教やキリスト教のことを言っているときは、
文献を確かめていないときには否定も判断もするべきではないでしょうね。

指摘しているのは非常に重要な場面です。


【マタイ福音書】『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』

【マルコ福音書】『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』

【ルカ福音書】 『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』


 

  [No.17754] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/11(Fri) 02:56:09

下の文章が春間さんが書いた文です。

※※※※※
証明していった
のではなく、新しい 旧約や ユダヤ教 を 作り出したのです
( 古い革袋は 打ち捨てて、 新しい葡萄酒を 新しい革袋に 入れるのです )
旧約聖書ユダヤ教ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません
エスの教え( 説くこと ) は 人 すべての事です
“ 赤 ” の為の “ 赤い ” 教えは、 他の色 には あてはめられらないから、 あてはまりません
証明すべき ユダヤ教 は 打ち破る ユダヤ教 です
いわゆる キリスト教キリスト教徒 の 為のモノです
わたしが用いる “ キリスト教 ” は キリスト教徒の為のモノではありません
キリスト教 ” を 破壊するため=打ち破るため のモノです
( 下記にある 設害三界一切有情 “ 為 調伏 故 ” を 参照してください )

ナザレのイエス新約聖書 の 記述では
ユダヤ人 の 為 に 説くことが記述されていますが、
同時に 全人類の為のことも 記述されています
しかし、 それは 亀 に 毛を生えさせたこととは 違うのです
兎を 正しい概念として確立し
人として生きる イモ-タル の 指先に 移植したのでもありません
新約 は “ キリスト教会 の 意図に沿うよう ” に 編まれているのです
それが、 “ 兎の指 ” です
※※※※※


 

  [No.17774] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/16(Wed) 07:45:46

ショ-シャンクさま おはようございます。

こんな大事な投稿をいただいていたとは、気づかなくてすみません。
春間さまとひとしきりお話しになっていますが、まだそれらを読まずに、とりあえず、わたしの考えを書いてみますね。


>
> 石飛先生は
> 『心臓の中にある光明を、ヤ-ジュニャヴァルキヤは「プルシャ」とも呼び、「ア-トマン」とも呼びました。
> 心臓の中に「人」の形をしたプルシャがあるのだ、ということもいわれます。いつでも、「人」を離れられないのが、
> ヤ-ジュニャヴァルキヤなのか。相対的な考え方から離れられないことになってしまうような気がしてなりません。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、肯定と否定、能動と受動など、いつもこの相対的な判断から離れません』
> と書かれていました。



自分で書いた文章を自分で読んで「なるほど」と思っています。わすれてるんかい、おい!



> 確かにヤ-ジュニャヴァルキヤは自己(ア-トマン)を心臓の中の虚空に横たわっているという言い方をしている箇所があり、
> ここは残念なところです。

あ、そうお考えなのですね。
>
> しかし、私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)が最も影響を受けたのはヤ-ジュニャヴァルキヤだと考えます。
> 仏陀の教えの骨格はヤ-ジュニャヴァルキヤにあるように思えます。

たしかに、そうも見えます。
そこは反対するものではありません。
>
> 自己(ア-トマン)を『~に非ず ~に非ず』としたこと。
> 行為(業)によって輪廻転生すること。
> 妻を捨てて出家するという生き方。
>
> これらを見ると、青年期のゴ-タマ・シッダッタはヤ-ジュニャヴァルキヤの教えに甚大な影響を受けて出家し
> 行為や欲望を滅して不生に到達しようとしますがかなわず
> ついに、行為や欲望のもっと元に、真の原因たる無明(苦を知らないこと)があることを発見し(四諦十二縁起)
> 独自のやり方で成道したのではないかと思えるのです。
>
> ですから、仏陀は独自にそれまでにないやり方で無上の悟りを開いたのですから天上天下唯我独尊であることは確かですが
> それに至るまでにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響は非常に大きいものがあると思っています。

引用を、一つも略さずあげました。
否定はいたしません。
いたしませんが、わたしの中では、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響が非常に大きい」と言いうる段階であれば、ブッダはまだ一切智者ではない、という理解になります。

> 仏陀が言った『私には師はない』ということと
> 仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
> 別に矛盾しません。
>
> 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> 師弟関係とは言いません。

ここは、ちょっと。。。
「双方向」ってオンライン授業の要綱にあったなと思い出しながら、
「師弟関係は教え教えられの関係」ということを言葉どおりとるなら、師は教え、弟子は教えられるという関係が成りたてばよいのですよね。

本だけ読んでも、その関係が成りたてば双方向ではないでしょうか。

いつも本から教えられる、いつも本は先生の役目をはたしてくれる、のであれば、師弟関係は成りたつのではないかと思います。
わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。

> 青年期の仏陀が、インドの聖典を読んだこともなく影響を全く受けてないと思う方が現実的ではありません。
> 『ヴェ-ダの達人』とも呼ばれていますから、かなりインドの聖典には精通していたはずです。

ブッダは自分でそう言っています。「わたしは、ヴェ-ダ・グ-(ヴェ-ダの達人)だよ」、と。
そして、実際に、ブッダほどヴェ-ダに詳しい人はいないと、わたしも思います。

わたしは「ウパニシャッド」の類いは、何度もたくさん読みましたが、いつもモヤモヤしてわかりませんでした。
しかし、『スッタニパ-タ』を読むようになって、ウパニシャッドの内容が、はっきり見えてきたのです。
『スッタニパ-タ』「彼岸道品」は、「ウパニシャッド」の解説にもなり、又それを乗り越える道をも説いていると思います。

つまり、どんなに最初にヤ-ジュニャヴァルキヤの説の影響を受けようと、それを乗り越えてしまうなら、もはや「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」とは言われないと思うのです。

「一切智」とか「一切智者」とか、という言葉は、伊達に言われているのではなく、ブッダの特徴を過不足なく示すことばだと思っています。

ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けたと言っても、「ネ-ティ、ネ-ティ」の思考を会得した、相対的な立場を超える立場を模索した、というところで影響を受けたのであって、彼に教わらなくても、他の誰かに教わることはできたし、その考えに出会うか出会わないか、という違いでしかない、とすら言えると思います。それを乗り越えたところにいるブッダには気にする必要のないものです。

むしろ、ヤ-ジュニャヴァルキヤがブッダに教わることができたなら、かれは、即ブッダの弟子になったのではないかと思います。ヤ-ジュニャヴァルキヤほどすぐれた哲人であれば、たちどころにブッダの述べることを吸収したのではないかと思っています。

そういう意味では、ショ-シャンクさまのおっしゃることもわからないではありません。
当時の哲学的な思索が、どれほど進んだものであったか、ということは、わたしも本当に知れば知るほど感心します。もし、ブッダが出ていなければ、いまだにウパニシャッドを超える思想は、現代においても出ていないだろうとさえ思います。

しかし、ブッダは世に出現しました。

もう、ほんとに、これがすべてだと思います。

世界は、この瞬間から、ブッダの教えの中に存在することになりました。

世界で本当に、マジで「一切智者」ということばを発した唯一の人物だからです。


> イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
> 仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。

ここは、ショ-シャンクさまとわたしは一致していますね。
おっしゃる通りなので、わたしは、「ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた」とは言わないのです。厳しいようですが、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、ブッダに比べるとほんの小さな虫のようなものだ、という表現も当てはまるかと思うほどです。

> 無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。

「無明=苦を知らないこと」の上がありますね。
如来所説経(『サンユッタ・ニカ-ヤ』56.11)の中で
「いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智(ヴィドヤ-)が生じ、光明(ア-ロ-カ)が生じた」

無明(アヴィドヤ-)を否定して、明智(ヴィドヤ-)が生じ、さらに光明が生じている、という、この一点において、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」という段階は遥か昔に遠のき、到達点からすれば、たまたまヤ-ジュニャヴァルキヤがそこにいたから、ブッダはそう語ったのだ、という物言いになるかと思います。

他の人がいれば、他の人の言い方を使ってブッダはその人を教化するだろう、というようなものです。
対機説法という観点が出てくるのも、ブッダが一切智を得た、というここに注目するからだと思っています。

ショ-シャンクさまに賛成しているのか反対しているのかわからないような書き方になってしまっていますが、やはり、わたしは、ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた、とは言わないなあというところで、結論としたいと思います。


 

  [No.17775] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/16(Wed) 10:40:06

石飛先生、おはようございます。

> つまり、どんなに最初にヤ-ジュニャヴァルキヤの説の影響を受けようと、それを乗り越えてしまうなら、もはや「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」とは言われないと思うのです。
> 「一切智」とか「一切智者」とか、という言葉は、伊達に言われているのではなく、ブッダの特徴を過不足なく示すことばだと思っています。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けたと言っても、「ネ-ティ、ネ-ティ」の思考を会得した、相対的な立場を超える立場を模索した、というところで影響を受けたのであって、彼に教わらなくても、他の誰かに教わることはできたし、その考えに出会うか出会わないか、という違いでしかない、とすら言えると思います。それを乗り越えたところにいるブッダには気にする必要のないものです。
> むしろ、ヤ-ジュニャヴァルキヤがブッダに教わることができたなら、かれは、即ブッダの弟子になったのではないかと思います。ヤ-ジュニャヴァルキヤほどすぐれた哲人であれば、たちどころにブッダの述べることを吸収したのではないかと思っています。
> そういう意味では、ショ-シャンクさまのおっしゃることもわからないではありません。
> 当時の哲学的な思索が、どれほど進んだものであったか、ということは、わたしも本当に知れば知るほど感心します。もし、ブッダが出ていなければ、いまだにウパニシャッドを超える思想は、現代においても出ていないだろうとさえ思います。
> しかし、ブッダは世に出現しました。
> もう、ほんとに、これがすべてだと思います。
> 世界は、この瞬間から、ブッダの教えの中に存在することになりました。
> 世界で本当に、マジで「一切智者」ということばを発した唯一の人物だからです。


この大筋と言いますか、本質的なことに関しては、全くその通りだと思います。
成道の時には、それまでのすべての教えを超えた境地に至ったと思っていますので全く同意です。

私が、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を強く受けたと思っているのは、
出家の動機からスジャ-タ-が差し出した乳粥を受
け取って飲んだときまでだと思います。
ある音楽評論家が、ベ-ト-ヴェン交響曲3番『英雄』を『この先、ベ-ト-ヴェン』と評したことがありますが
乳粥を飲んだときから、『この先、ゴ-タマ・シッダッタ』なのだろうと思います。
それまでは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを頂点としたヴェ-ダ宗教の影響下だと考えます。

出家の決断に関しても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが妻を捨てて出家したエピソ-ドはかなり強く後押ししたはずです。
2人の仙人に、無所有定、非想非非想定を習ったのも、それを捨てて断食行に入ったのも
それまでの伝統的な考えの影響下でしょう。




> > 仏陀が言った『私には師はない』ということと
> > 仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
> > 別に矛盾しません。
> >
> > 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> > 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> > 師弟関係とは言いません。


>
> ここは、ちょっと。。。
> 「双方向」ってオンライン授業の要綱にあったなと思い出しながら、
> 「師弟関係は教え教えられの関係」ということを言葉どおりとるなら、師は教え、弟子は教えられるという関係が成りたてばよいのですよね。
> 本だけ読んでも、その関係が成りたてば双方向ではないでしょうか。
> いつも本から教えられる、いつも本は先生の役目をはたしてくれる、のであれば、師弟関係は成りたつのではないかと思います。
> わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
> 「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。


現代の日本では、それは成り立つと思います。
仏陀は私の心の師だ』と言って何の違和感もありません。
本で読んだ哲学者を師とするのはよくあることです。

しかし、ミラレパがマルパに弟子入りしたときや、慧可が達磨に弟子入りしたときのことを思うと
特にそれ以前の古代インドにおいて、弟子入りして師弟関係を結ぶというのは少なくとも師がその人を弟子と認めることが必要ではなかったでしょうか。
そういう意味の双方向です。
仏陀そしてその後の仏教であれば、師が弟子に戒を授けるということが必須だったと思います。
ですから、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けていたとしても『私には師はない』ということは矛盾しないと思います。



> > イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
> > 仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。


>
> ここは、ショ-シャンクさまとわたしは一致していますね。
> おっしゃる通りなので、わたしは、「ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた」とは言わないのです。
>厳しいようですが、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、ブッダに比べるとほんの小さな虫のようなものだ、という表現も当てはまるかと思うほどです。


小さい虫ですか(笑)


> > 無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。


>
> 「無明=苦を知らないこと」の上がありますね。
> 如来所説経(『サンユッタ・ニカ-ヤ』56.11)の中で
> 「いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智(ヴィドヤ-)が生じ、光明(ア-ロ-カ)が生じた」
> 無明(アヴィドヤ-)を否定して、明智(ヴィドヤ-)が生じ、さらに光明が生じている、という、この一点において、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」という段階は遥か昔に遠のき、到達点からすれば、たまたまヤ-ジュニャヴァルキヤがそこにいたから、ブッダはそう語ったのだ、という物言いになるかと思います。
> 他の人がいれば、他の人の言い方を使ってブッダはその人を教化するだろう、というようなものです。
> 対機説法という観点が出てくるのも、ブッダが一切智を得た、というここに注目するからだと思っています。
>わたしは、ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた、とは言わないなあというところで、結論としたいと思います。


 

  [No.17785] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/19(Sat) 09:05:34


ショ-シャンクさま おはようございます。

遅くなってしまって、すみません。

> 私が、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を強く受けたと思っているのは、
> 出家の動機からスジャ-タ-が差し出した乳粥を受
> け取って飲んだときまでだと思います。
> ある音楽評論家が、ベ-ト-ヴェン交響曲3番『英雄』を『この先、ベ-ト-ヴェン』と評したことがありますが
> 乳粥を飲んだときから、『この先、ゴ-タマ・シッダッタ』なのだろうと思います。
> それまでは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを頂点としたヴェ-ダ宗教の影響下だと考えます。

ふうむ。。そうか、ショ-シャンクさまはヤ-ジュニャヴァルキヤを高く買っておられるのですね。

> 出家の決断に関しても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが妻を捨てて出家したエピソ-ドはかなり強く後押ししたはずです。
> 2人の仙人に、無所有定、非想非非想定を習ったのも、それを捨てて断食行に入ったのも
> それまでの伝統的な考えの影響下でしょう。

わたし自身は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、沙門ゴ-タマに禅定を授けた二人の先生より、禅定としては下にいると思っていて、思想的なことを考えても、それほど高いものではないと思っています。

言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。

経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。

ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。
相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。

ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤ・ウッダ-ラカの時代を下って、ゴ-タマの出現する頃になりますと、サ-ンキヤ・ヴァイシェ-シカへとつながる思想的な源泉はすでに湧きだしていたのではないかと思っています。
>
>
> > わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
> > 「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。
>
>
> 現代の日本では、それは成り立つと思います。
> 『仏陀は私の心の師だ』と言って何の違和感もありません。
> 本で読んだ哲学者を師とするのはよくあることです。
>
> しかし、ミラレパがマルパに弟子入りしたときや、慧可が達磨に弟子入りしたときのことを思うと
> 特にそれ以前の古代インドにおいて、弟子入りして師弟関係を結ぶというのは少なくとも師がその人を弟子と認めることが必要ではなかったでしょうか。
> そういう意味の双方向です。

わたしは、古代において、自分と同じような意味で師弟関係を結んだ人を一人知っています。
それは、龍樹です。

かれが誰かの弟子入りをしたという記録は残っていません。
突然、経典が出てきて、それを解釈していくのです。師は、あきらかにブッダです。
部派の誰かについた記録もなく、大乗の誰かについた記録もない。伝説では、龍宮城で、大龍に教わったことになっていますが、ただ伝説のように言われています。


> ですから、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けていたとしても『私には師はない』ということは矛盾しないと思います。

なるほど、その点は、わたしも気になりませんが、やはり、ちょっと御説には疑問を感じます。
>
> 小さい虫ですか(笑)

やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。


 

  [No.17786] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 19:40:20

石飛先生、こんばんは。


> わたし自身は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、沙門ゴ-タマに禅定を授けた二人の先生より、禅定としては下にいると思っていて、
>思想的なことを考えても、それほど高いものではないと思っています。

そうですか。

> 言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、
>しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。

ここは全面的に賛同いたします。
むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
仏陀が成道したとき、説いても無駄だと考えたように、
説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。

> 経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。

禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。
>ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。
>わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。
>神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
> 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。

私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
どのような理由からでしょうか。


> 相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。

梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。


> ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。
>彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。
>宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、
>実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
> 文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤ・ウッダ-ラカの時代を下って、
>ゴ-タマの出現する頃になりますと、サ-ンキヤ・ヴァイシェ-シカへとつながる思想的な源泉はすでに湧きだしていたのではないかと思っています。


六師外道というのはひとつのキ-ポイントだと思います。
私が注目するのは、六師外道が、いわゆるバラモン教でないことです。
六師とも仏陀と同じ自由思想家です。
なぜ、それを『外道』の代表としたのか、そこに興味があります。
仏陀は『ヴェ-ダの達人』と呼ばれていました。
石飛先生によると、仏陀自身が『私はヴェ-ダの達人だよ』と言ったとのことです。

このことから、仏陀自身は、自身をヴェ-ダの流れにあるものという認識だったのではないかと考えます。
むしろ、自由思想家の方を外道としています。
仏陀が、バラモン教を全否定したというイメ-ジは弟子たちによって作られたものではないかと思うのです。

イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。

これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。



> わたしは、古代において、自分と同じような意味で師弟関係を結んだ人を一人知っています。
> それは、龍樹です。
> かれが誰かの弟子入りをしたという記録は残っていません。
> 突然、経典が出てきて、それを解釈していくのです。師は、あきらかにブッダです。
> 部派の誰かについた記録もなく、大乗の誰かについた記録もない。伝説では、龍宮城で、大龍に教わったことになっていますが、ただ伝説のように言われています。


なるほど。
私は龍樹のことはほとんど知りません。
私には、仏陀の教えを斬新な切り口で解釈した学者のように思えるのですが
禅定なども、実際の師なくして優れていたのでしょうか?


> > 小さい虫ですか(笑)
>
> やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。
>かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。


先生は神秘主義がお嫌いなのですか?
私はむしろ、教えの上澄み部分、エキスのように思えています。
イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。

禅の見性や悟りも直接体験ということで神秘主義でしょうし
法華経如来秘密神通之力を説いています。


 

  [No.17788] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 22:05:25

> 直接体験 が 神秘主義 であるということは、
> あなたが決めたことに過ぎない


それでは、あなたの、神秘主義の定義を教えてください。


神秘主義
絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場。
インドのヨ-ガ、プロティノスの新プラトン主義、キリスト教と対立したグノ-シス主義、
イスラム教のス-フィズム、エックハルトの中世神秘主義などが顕著な例。


わかりますか?
感覚や知性の働きでは認識できないので
直接に体験しようとする立場のことを神秘主義というのです。

哲学が知性の範囲に留まるのに対し
知性を超えて直接体験する姿勢が神秘主義です。

それを否定するなら、
あなたの、神秘主義の定義を教えてください。


 

  [No.17793] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 01:22:02

仏教における密教も代表的な神秘主義です。

神秘主義を否定するということは、密教も否定するということですね?


 

  [No.17789] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/19(Sat) 22:18:40

いいですか?

神秘主義とは、感覚や知性の働きを超えて直接体験しようとする立場のことです。

これは宗教と名がつけば、どの宗教宗派でも存在します。

知性や感覚は限界があり、それを超えて直接体験することがなければ、
それはもはや宗教ではなく、ただの頭だけの哲学です。


 

  [No.17802] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 16:42:49

私は『反論の根拠がウィキペディアというのは恥ずかしいですよ。』と書いたのです。
ググることが悪いなんて言ってないですから、ちゃんと読んでくださいね。

ウィキペディアは、誰でも記事を書いたり編集することができるのです。
春間さんでも私でも、ウィキペディアを書くことができます。
春間さんも私が書いた百科事典は参考にしないでしょうし
私も春間さんが作成した百科事典は参考にしないでしょう。
しかし、いま目の前にあるウィキペディアの項目はど素人の私が書いているかもしれないのです。

ですから、ウィキペディアを論文の根拠にすることはあり得ないことなのです。

ウィキペディア創始者自体が、『ウィキペディアの信頼がなくなった』と言って
新しい百科事典を始めたくらいですから。


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  [No.17805] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 17:42:24

輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB



↑の文章において
わざわざウィキペディアを貼っているのはどうしてですか?

根拠にしても、参照にしても、参考にしても、
【輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません】という文章を
裏付けるものとして貼ったのでしょう?

そうでないというなら、なぜ貼ったのですか?


 

  [No.17807] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 21:03:53

>>開いた口が塞がらない

>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


春間さん、あなたはいつものことですが
根拠もなく断定して
その矛盾点を突かれると、逃げてしまいます。

上の文章のように、あそこまで言って断言しなおかつわざわざウィキペディアを貼ったのですから
断言した内容と貼ったウィキペディアの内容の関連をちゃんと説明してください。

『開いた口が塞がらない』まで言って
答えられなくなったら『自分で考えなさい』『自分で答えを見つけなさい』と逃げてばかりいると
誰からも信用なくしますよ。

あなたにちゃんとレスするのが馬鹿馬鹿しくなります。

もう、逃げるのはやめませんか?


 

  [No.17809] Re: あなたの根拠 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/21(Mon) 21:18:12


[No.17761] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2020/09/11(Fri) 11:50:01

***********
あなたは
>>輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
>>ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
>> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

と書きました。わざわざウィキペディアを貼っているのは、証拠としたかったからではないですか。
***********

そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?

もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません

「 輪廻 」 については、 正しい 記述を わたしは 見たことがありません
( 管理人エム 様 の それを含めても 、、、、 )
龍樹の輪廻思想 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。 『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。

これ (↑)が、 龍樹 の知る 「 輪廻 」 ですか ?

( 一つの 龍樹に対する 解釈に過ぎない )



「 輪廻 」 は あなたの行為に起きている
( あなた とは、 あなたであり、 管理人エム 様 であり、 これを眺める者である )


わたしは、 あなたと共に、 「 輪廻 」 している



 

  [No.17811] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 21:30:29


> そこに、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
> 「 輪廻 」 は 行為に起きる との ( 内容の ) 記述はありますか ?
>
> もしそこに、 そういう記述があるのであれば、
> わたしが、 それを根拠としている とされても仕方がありません


は?何を言ってるのですか?
あなたが、ウィキペディアを貼ったのですよ。
↓↓↓
輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB



ですから、
『輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません』と
貼った https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB の関連を聞いているのです。

全く関係のないものを貼ったとでも言いますか?
関係があるから貼ったのですね?
ですから、どのように関係があるのかを聞いているのです。
なぜ貼ったか?という問いです。


 

  [No.17815] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 23:45:19

ごまかしはもうやめませんか?

私が書いた
『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
ヤ-ジュニャヴァルキヤ以前にそうした人はいますか?
いるなら名前を挙げてください。
そして、その考え方はゴ-タマ・シッダッタに引き継がれています。』

この言葉に、特に『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。』を
強く否定したのがあなたです。
『開いた口が塞がらない
輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません』と。
そして、ウィキペディアを貼ったのです。

あなたはその時点では、そのウキペディアの内容は、
ヤ-ジュニャヴァルキヤよりずっと昔から、インドでは行為によって輪廻が起きるということが言われていたということだと
確信していたのです。
しかし、指摘を受けてちゃんと読んでみるとそうでもないらしいということに気づいたのです。

あなたの性格では、それを認めたくないでしょうね。
私はあなたの多くのレスをスル-していましたが、
しかし、しつこく、自分もググってるではないかと言ってきたので
私は一度もググるのが悪いと言ってないとレスしたのです。


私が書いた『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。』を否定するのは
簡単なことだと思いますよ。
ヤ-ジュニャヴァルキヤより昔の文献で、行為により輪廻するという記述を示せばいいだけです。
なぜそれをしないのですか?
そういう根拠がないからですね?


 

  [No.17816] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 05:44:00

別に私は、私が書いた
『行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
自己を『~にあらず』としか言えないと言ったのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
バラモンでありながら祭祀ではなく真理を知ることによって自己に到達するとしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。』
の説に固執しているのではありません。

ちゃんと文献を出して、そうではない、もっと前から言った人はいるというならそれに従います。
特に、ヤ-ジュナヴァルキヤの前にも、出家した人はいるのですから妻を捨てた出家者ということで名前が確定しているのが
ヤ-ジュナヴァルキヤというだけですので、他にいたかもしれません。

そこは本筋ではなく
ヴェ-ダ文化を仏陀は否定したのではなく、受け入れていた、というのが私が言いたいことです。

ですから、ヤ-ジュナヴァルキヤにこだわっているわけではありません。

しかし、春間さんは真っ向から、『ヤ-ジュナヴァルキヤではない』と断言してくるので
その根拠は何かを聞いているだけです。

もし、典拠があれば、それに修正することは全くかまいません。

はっきり言って、ヤ-ジュナヴァルキヤでなくてもいいのですから。


 

  [No.17818] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 07:58:00

> > 妻を捨てて出家するという生き方をしたのもヤ-ジュニャヴァルキヤです。
>
> 出家( シュマラナ )は ヤ-ジュニャヴァルキヤ に 始まる という意味ですね ?


シュマラナではなくシュラマナです。シュラマナはサンスクリット語なので、私はサマナsamanaといいますが。
ヤ-ジュナヴァルキヤは、シュラマナ(サマナ)ではありません。
仏陀はsamanaです。

ヤ-ジュナヴァルギヤのころにも出家した人は多いです。
ただ、妻を捨てて出家したという記録が残っているのはヤ-ジュナヴァルギヤが最初でしょう。



> > ヴェ-ダ文化を仏陀は否定したのではなく、受け入れていた、というのが私が言いたいことです。
> ( と言うことが、 示されています )
>
> “受け入れる” という意味が 不確定です

仏陀はヴェ-ダ文化を否定していない、というのがその意味です。
これが私の言いたいことです。



> 止めてほしくなければ、 三度 訪ねてください

いや、前から言っていますように、私のコメントへのレスは一切不要です。
春間さんは、根拠も典拠も示さずに断言してきて、その根拠を聞くと、『自分で探しなさい』と逃げてしまうので
時間の無駄なのです。
どうか、私にはレスせずに他の人にレスしてあげてください。
私は、ちゃんと典拠を示して話せる人と話したいのです。
典拠があれば、私は柔軟に従います。

典拠がないのであれば、私の投稿へのレスは一切不要です。


 

  [No.17820] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 08:56:59

>>そういうことを、 記述したのですが
>>( 止めたこと に 関連してしまうから 止めます )

>>止めてほしくなければ、 三度 訪ねてください

>>一応・一度で( ここで ) 止めます


あなたも『止めます』と言っているではないですか。
ですから、止めましょう。
三度訪ねる気はないですから、これで止めましょう。

そして、あなたも一度くらいは、自分の投稿で終わらず、人の投稿に反応しない訓練も必要ですよ。

あなたの自我がどうしても、相手の投稿で終わらせたくない、終わらせると負けた気分になるのです。

この投稿に反応しないようになれば自我から離れる一歩でしょう。
ただ、絶対にレスしてきて、相手の投稿で終わらせないでしょうね(笑)

それでは、これで。これからは、私から春間さんにレスすることはないと思います。


 

  [No.17803] Re: あなたの根拠 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/21(Mon) 16:54:59

> 行為によって輪廻転生することを言い出したのがヤ-ジュニャヴァルキヤです。
という私の文章に対して
あなたはこう書きました。


輪廻 は 行為に起きます( 行為によって起きること )
ヤ-ジュニャヴァルキヤ が 発見したことではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB


示されたそのウィキペディアのどこを見ても
ヤ-ジュナヴァルキヤが発見したことではないということの参考になる記述がありません。

あなたは、なぜ、そのウィキペディアを貼り付けたのですか?
どこの部分を参照すれば、その結論になるのでしょうか?


 

  [No.17797] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/20(Sun) 07:51:18

ショ-シャンクさま おはようございます。

> > 言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、
> >しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。
>
> ここは全面的に賛同いたします。
> むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
> 仏陀が成道したとき、説いても無駄だと考えたように、
> 説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
> そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。

お?! そうですか!
説かずに入滅した人の数は多い、と。
そういうことを考えますと、本当にブッダの存在は貴重であると思いますよね。
世に出て、人々に教えを説きました。

> 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

一種の中道だからでしょうね。
中道は、重要な道ですが、これは到達すべき目標ではなく、実践する修行道ですから。
滅尽定は、はっきりした目標になると思います。

> 私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
> 仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
> どのような理由からでしょうか。


ヤ-ジュニャヴァルキヤは、睡眠を重視して、そこに覚りの境地につながるものを見つけようとしたと思います。覚醒位(ブッダ-ンタ )、夢位(スヴァプナ-ンタ)、熟眠位(サンプラサ-ダ) 、死位(ムリタ)の四つの段階を認めたのですが、中でも、熟眠位を重視しました。

【熟眠位】 「これこそ実に、欲望を超越し、悪を滅し、恐怖を離れた、かれの姿なのであります。あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように、まさにこのプルシャは理知によって感ぜられたア-トマン(認識主体としてのブラフマン)に抱擁されるとき、外界も内部もまったく感知しないのであります。これは実に、欲望を満たして、ア-トマンだけを希求し、他に欲望なく、憂い悲しみを離れた彼の姿なのです。(『ブリハッド』4.3.21)

神秘主義の極致をよく表していると思うのですが、梵我一如をこのように説明したと思います。そこから、ヴェ-ダ-ンタでは、後代になると、サット(有)、チット(精神)、ア-ナンダ(歓喜)を、掲げていくことになります。ことばで示されていますよね。
この、最後のア-ナンダ(歓喜)というのが、どうも引っかかるのです。

ここは、神秘主義にとって到達する最高のものとして歓喜が説かれていると見られます。ヤ-ジュニャヴァルキヤの表現では「あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように」と、たとえで示されている、という点に、まだこれ以上の境地があるのではないかということを想像させるものがあります。

「熟睡の状態」や、「愛する人との抱擁」など、どうも、これ以上ない境地を示すにしては、平凡すぎるような気もします。わたしたちでも想像できる境地、というところに不満があります。
ヴェ-ダ-ンタでは後に、「死位」にあたる第四位をトゥリ-ヤとして、ここを最高の境地としていきます。まだ、改革の余地がある、という点に、ヤ-ジュニャヴァルキヤの到達点がそれほどでなかったと思う理由があります。


> 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。

ヘ-ゲル的に言えば、「正反」を乗り越え「合」に到達したとも言えますから、相対主義を乗り越えているかもしれませんが、しかし、その「合」が、又ことばを生んでいきますと、新たな「正反合」を生んでいく可能性も出てこないとは限りません。

「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。

>
> 六師外道というのはひとつのキ-ポイントだと思います。
> 私が注目するのは、六師外道が、いわゆるバラモン教でないことです。
> 六師とも仏陀と同じ自由思想家です。
> なぜ、それを『外道』の代表としたのか、そこに興味があります。
> 仏陀は『ヴェ-ダの達人』と呼ばれていました。
> 石飛先生によると、仏陀自身が『私はヴェ-ダの達人だよ』と言ったとのことです。

そうです。どこだったかな。『スッタニパ-タ』の中に、スンダリカ・バ-ラドヴァ-ジャという祭式大好きな婆羅門がいて、彼と会話するのです。そこで、暗にヴェ-ダグ-であることを語り、スンダリカは感服していろいろ尋ねるところがあります。訳が中村先生の訳と少し違うかもしれません。この訳が一番合理的かなと思っています。

祭式を行ったスンダリカが、供物のお下がりを誰にあげようかと思案して、近くに衣をかぶって坐っていたブッダに、婆羅門かどうか尋ねようとして「あなたはどのような生まれなのですか」と尋ねます。すると、ブッダは、カ-ストの四つの身分のどれでもないと答えて、凡夫の姓を知りつくして無一物で賢明に世の中を行じている身だと答えます。これに驚いたスンダリカは、次のように言います。
======
457(ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」

(ブッダ)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四音節からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」

※ サ-ヴィトリ-讃歌はガ-ヤトリ-とも言われ、当時からヴェ-ダ讃歌の最高のものとして暗唱されていました。サ-ヴィトリ-を知っているということは、上位の3ヴァルナに入ることから、ブッダがただ者ではないことを察知したスンダリカは、次のように聞きます。

458(ス)「仙人や貴族やバラモンは、何のためにこの世において広く神々の祭祀をとりおこなったのですか。」

(ブッダ)「究極に到達したヴェ-ダの達人が、祭祀のときに献供を得るならば、その(祭祀をした)人には、成就があるだろうと、わたしは説くのです。」

459(ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
=====

ブッダが「ヴェ-ダの達人」であることを、スンダリカは、あっさり納得していますので、
自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。

※ 「法」のあやまり

> このことから、仏陀自身は、自身をヴェ-ダの流れにあるものという認識だったのではないかと考えます。
> むしろ、自由思想家の方を外道としています。
> 仏陀が、バラモン教を全否定したというイメ-ジは弟子たちによって作られたものではないかと思うのです。

なるほど、そうお考えになったのですね。
わたしは、この微妙で訳しにくい表現から、自由思想家の婆羅門ではない道にもよらず、婆羅門のヴェ-ダの道にもよらなかった、という立場を見ています。中道ですね。

六師外道の人々は沙門に属すると思いますが、一応ブッダも沙門の流れを汲み、しかし、ヴェ-ダにも精通しており、ということで、やはり、出てくるのは「一切智」でしょうか。

> イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。
>
> これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。

そうですねぇ、このあたりは、イエスブッダも時代を超える器を示しているのかもしれません。解釈を超えてしまっている、という。
>
> なるほど。
> 私は龍樹のことはほとんど知りません。
> 私には、仏陀の教えを斬新な切り口で解釈した学者のように思えるのですが
> 禅定なども、実際の師なくして優れていたのでしょうか?

この辺は、わたしもどの程度まで行ったのだろうと、あれこれ見ているのですが、『大智度論』(これは龍樹作と思っています)などを読みますと、禅定も相当詳しく、けっこう達人クラスだったのではないかと思わせられます。

本人は、師について得た禅定の位はもっていなかったかもしれませんが、実際にはかなりのものだったと思います。
理論化できるということは、禅定もそこまで行っていたのだろうと想像するのですが、そこを証明するものはありません。菩薩で言えば、歓喜地だったということで、それでいいか、と思っています。
>
> 先生は神秘主義がお嫌いなのですか?
> 私はむしろ、教えの上澄み部分、エキスのように思えています。

う-ん、好きか嫌いかで言えば、どちらでもないのですが、先ほども言いましたように、世俗的な表現で喩えられる境地というのが、ちょっと引っかかるのです。
それに、「歓喜」というのが、人々にとっては求めやすいかと思います。
そこを最高とする、というところが、また、引っかかるところです。

> イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
> 神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。

そうですか?!
「宗教として」、という点を重視されるのですね。そうなのか。。
わたしはただの哲学でも、それによって生きる道しるべになるので、一向にかまわないのですが。

> 禅の見性や悟りも直接体験ということで神秘主義でしょうし
> 法華経如来秘密神通之力を説いています。

おおっと~~、そうなんですね。
禅や法華経に、わたしは、神秘主義を入れないようにしなくちゃと注意しているのですが。。。

わたし自身は、仏教には神秘主義は入っていないと思っています。神秘主義というのは、形而上学と結びついたところに生まれてくると思っています。
ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。

【2020/09/20(Sun) 07:58:35 投稿者により修正されました。】


 

  [No.17798] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 09:44:18

石飛先生、おはようございます。

> お?! そうですか!
> 説かずに入滅した人の数は多い、と。
> そういうことを考えますと、本当にブッダの存在は貴重であると思いますよね。
> 世に出て、人々に教えを説きました。

私はそう思っています。
仏陀が思ったように『説いても無駄だ』と思う人は多いのではないかと。
あるいは『このまま溶け込んでいたい』と思うのはむしろ自然かもしれないと思います。
ですから、仏陀は本当に有り難いことです。

>
> > 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> > その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

> 一種の中道だからでしょうね。
> 中道は、重要な道ですが、これは到達すべき目標ではなく、実践する修行道ですから。
> 滅尽定は、はっきりした目標になると思います。


滅尽定は、誰かがそばにいないと、自分では禅定から抜け出せない(感覚も想念もなく意志がないために)と
記述された文章を見たことがあります。
かなり特殊な段階ですね。
それにしても疑問なのは、もし滅尽定に達することができたら、三界を出る、火宅を出ることができるのでしょうか。
私は禅定ではできないような気がします。智慧を生じないので。

> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、睡眠を重視して、そこに覚りの境地につながるものを見つけようとしたと思います。覚醒位(ブッダ-ンタ )、夢位(スヴァプナ-ンタ)、熟眠位(サンプラサ-ダ) 、死位(ムリタ)の四つの段階を認めたのですが、中でも、熟眠位を重視しました。
>
> 【熟眠位】 「これこそ実に、欲望を超越し、悪を滅し、恐怖を離れた、かれの姿なのであります。あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように、まさにこのプルシャは理知によって感ぜられたア-トマン(認識主体としてのブラフマン)に抱擁されるとき、外界も内部もまったく感知しないのであります。これは実に、欲望を満たして、ア-トマンだけを希求し、他に欲望なく、憂い悲しみを離れた彼の姿なのです。(『ブリハッド』4.3.21)
>
> 神秘主義の極致をよく表していると思うのですが、梵我一如をこのように説明したと思います。そこから、ヴェ-ダ-ンタでは、後代になると、サット(有)、チット(精神)、ア-ナンダ(歓喜)を、掲げていくことになります。ことばで示されていますよね。
> この、最後のア-ナンダ(歓喜)というのが、どうも引っかかるのです。
>
> ここは、神秘主義にとって到達する最高のものとして歓喜が説かれていると見られます。ヤ-ジュニャヴァルキヤの表現では「あたかも愛する女性に抱かれた男が外界のものも、内部のものも、まったく知らないように」と、たとえで示されている、という点に、まだこれ以上の境地があるのではないかということを想像させるものがあります。
>
> 「熟睡の状態」や、「愛する人との抱擁」など、どうも、これ以上ない境地を示すにしては、平凡すぎるような気もします。わたしたちでも想像できる境地、というところに不満があります。
> ヴェ-ダ-ンタでは後に、「死位」にあたる第四位をトゥリ-ヤとして、ここを最高の境地としていきます。まだ、改革の余地がある、という点に、ヤ-ジュニャヴァルキヤの到達点がそれほどでなかったと思う理由があります。


なるほど。よくわかりました。
確かに低い感じはしますね。
真言立川流に流れていきそうな感じです。
神秘主義が変な方向にいくとどうしようもないですし、排除される理由が分かりました。


> > 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。
>
> ヘ-ゲル的に言えば、「正反」を乗り越え「合」に到達したとも言えますから、相対主義を乗り越えているかもしれませんが、しかし、その「合」が、又ことばを生んでいきますと、新たな「正反合」を生んでいく可能性も出てこないとは限りません。
>
> 「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。


否定でないと言い表せないということを最初に発見、または言い出した人なので、私はそこはすごいと思っているのです。
ここから大きな流れができたと思います。


> そうです。どこだったかな。『スッタニパ-タ』の中に、スンダリカ・バ-ラドヴァ-ジャという祭式大好きな婆羅門がいて、彼と会話するのです。そこで、暗にヴェ-ダグ-であることを語り、スンダリカは感服していろいろ尋ねるところがあります。訳が中村先生の訳と少し違うかもしれません。この訳が一番合理的かなと思っています。
>
> 祭式を行ったスンダリカが、供物のお下がりを誰にあげようかと思案して、近くに衣をかぶって坐っていたブッダに、婆羅門かどうか尋ねようとして「あなたはどのような生まれなのですか」と尋ねます。すると、ブッダは、カ-ストの四つの身分のどれでもないと答えて、凡夫の姓を知りつくして無一物で賢明に世の中を行じている身だと答えます。これに驚いたスンダリカは、次のように言います。
> ======
> 457(ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」
>
> (ブッダ)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四音節からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」
>
> ※ サ-ヴィトリ-讃歌はガ-ヤトリ-とも言われ、当時からヴェ-ダ讃歌の最高のものとして暗唱されていました。サ-ヴィトリ-を知っているということは、上位の3ヴァルナに入ることから、ブッダがただ者ではないことを察知したスンダリカは、次のように聞きます。
>
> 458(ス)「仙人や貴族やバラモンは、何のためにこの世において広く神々の祭祀をとりおこなったのですか。」
>
> (ブッダ)「究極に到達したヴェ-ダの達人が、祭祀のときに献供を得るならば、その(祭祀をした)人には、成就があるだろうと、わたしは説くのです。」
>
> 459(ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
> =====
>
> ブッダが「ヴェ-ダの達人」であることを、スンダリカは、あっさり納得していますので、
> 自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
> ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。


私はこの部分は本当に不思議な気がします。
仏陀は、ここで祭祀の効果を肯定しています。
ヴェ-ダでもウパニシャッドの知の道は肯定しても、仏陀は祭祀については否定的だと思い込んでいました。


> なるほど、そうお考えになったのですね。
> わたしは、この微妙で訳しにくい表現から、自由思想家の婆羅門ではない道にもよらず、婆羅門のヴェ-ダの道にもよらなかった、という立場を見ています。中道ですね。
>
> 六師外道の人々は沙門に属すると思いますが、一応ブッダも沙門の流れを汲み、しかし、ヴェ-ダにも精通しており、ということで、やはり、出てくるのは「一切智」でしょうか。


私も、仏陀がヴェ-ダをそのまま受け継いだとは思っていません。
ヴェ-ダを土壌としつつ、それをはるかに超えた法に至ったと思っています。

ただ、今までの仏教解釈では、ヴェ-ダ、いわゆるバラモン教仏陀が全否定したということが強固に信じられていますから
それでは本当の仏陀の真意はわからないと思っているところです。

ユダヤ教を知らないとイエス・キリストは分からないように。


後半はまた後から書かせていただきます。


 

  [No.17823] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/22(Tue) 10:39:20

ショ-シャンクさま、連休も終わりになってきましたね。わたしには関係ないですが(笑)
おはようございます。
>

> 仏陀が思ったように『説いても無駄だ』と思う人は多いのではないかと。
> あるいは『このまま溶け込んでいたい』と思うのはむしろ自然かもしれないと思います。
> ですから、仏陀は本当に有り難いことです。

まったくです。教えを説かないブッダも出て来るのですから、ここで人々を救おうと思ってくれたブッダは、ほんとに、そのまま、救世主です。
>
> 滅尽定は、誰かがそばにいないと、自分では禅定から抜け出せない(感覚も想念もなく意志がないために)と
> 記述された文章を見たことがあります。
> かなり特殊な段階ですね。

スマナサ-ラ長老は、あらかじめいつ出るか設定しておくのだとおっしゃっていました。
レンジでチンするみたいなものです、ともおっしゃっていたかな。

> それにしても疑問なのは、もし滅尽定に達することができたら、三界を出る、火宅を出ることができるのでしょうか。
> 私は禅定ではできないような気がします。智慧を生じないので。

滅尽定に入りっぱなしだと何も起きないかもしれないですが、出定すると、そこでは智慧を生ずることは可能ではないでしょうか。如来は、「このようにやって来た者」ということですから、時代や場所に合わせて「このように」やってきて、智慧と方便を駆使する存在であると考えています。
>

> なるほど。よくわかりました。
> 確かに低い感じはしますね。
> 真言立川流に流れていきそうな感じです。
> 神秘主義が変な方向にいくとどうしようもないですし、排除される理由が分かりました。

基本的に、バラモン教では、「有(ある)」ということを捨てられないと思います。そこが問題になるのではないかと思っています。
>
> > 「ネ-ティ、ネ-ティ」のア-トマンと、言語で示しているので、そこを新たに言語で言い表すとすれば、又概念的な思考を生んでいきます。その可能性を秘めているところが、ちょっと気になります。
>
>
> 否定でないと言い表せないということを最初に発見、または言い出した人なので、私はそこはすごいと思っているのです。
> ここから大きな流れができたと思います。

ここは、おっしゃる通りです。わたしも、そこを考えるとブッダを見るような思いもします。ここは、確かに、ブッダも使っているところなので一目置かざるを得ないのですが、そこまで行くなら、さらにもう一歩進めて、概念的な思考に蓋をかぶせてほしかった、と思うのです。まあ、でもそれができたら、ブッダに成る日も近いことにもなりますか。。
>
>
> > 自らヴェ-ダの達人ということを示していると思います。
> > ブッダは自らの方※に従って語り、はっきりと、自慢するような表現をとらないので、訳がわかりにくくなっていますが、スンダリカは、ヴェ-ダに詳しい達人だと感服している様子がうかがえます。
>
>
> 私はこの部分は本当に不思議な気がします。
> 仏陀は、ここで祭祀の効果を肯定しています。
> ヴェ-ダでもウパニシャッドの知の道は肯定しても、仏陀は祭祀については否定的だと思い込んでいました。

ここは、なかなか微妙なのでありまして、よくよく読みますと、スンダリカに教えているのは、ヴェ-ダ祭祀自体が効果があるかどうかではなくて、祭祀の供物の残りを誰に布施をすると効果があるか、というところが論点になっているのです。

ヴェ-ダの祭祀でなくても良いんだな、とちょっと思わせられるのですが、ですが、スンダリカにとっては、ヴェ-ダ祭祀はとても大切ですから、その供物の残り(プラサ-ダ)も大切で、それを誰に布施するかも重大問題になります。

そこで、ブッダがでてきて、清らかで汚れがなく寂滅している聖者に供物を捧げるなら、施主には大きな功徳がある、と述べているわけです。ヴェ-ダの祭祀を扱いながら、実質的には、ブッダの教えによる聖者がすぐれている、かれにお布施をすると大きな功徳がある、というのですから、実際、知らずに仏法に預かってもいることになります。

そして、このような人に供物を捧げなさい、と、あれこれ聖者の特徴をあげて、法を伝えています。うますぎる説法だなと思っています。巧みすぎて、仏法を教えられたとも気づかないまま、スンダリカは、ブッダのような聖者に出合えて、本当に良かったと納得し、最後は、そのまま弟子入りしてしまいます。

> 私も、仏陀がヴェ-ダをそのまま受け継いだとは思っていません。
> ヴェ-ダを土壌としつつ、それをはるかに超えた法に至ったと思っています。
>
> ただ、今までの仏教解釈では、ヴェ-ダ、いわゆるバラモン教仏陀が全否定したということが強固に信じられていますから
> それでは本当の仏陀の真意はわからないと思っているところです。
>
> ユダヤ教を知らないとイエス・キリストは分からないように。

なるほど、このあたりでしょうか、問題は。ブッダは、バラモン教の何を改革したのか、という点ですよね。

エスもまたすごいですね。

そう言えば、キリスト教の大学で、非常勤で仏教の講義を教えているのですが、「仏教もキリスト教と同じように、最初からある宗教だと思っていました」という感想があって、ビックリしました。仏教の前にはバラモン教の世界があり、キリスト教の前にはユダヤ教がある、ということを、つい忘れてしまうのかもしれません。

バラモン教はヒンドゥ-教として今もインドに存在し、ユダヤ教も現役の宗教です。
そういう意味では、キリスト教と仏教は似たところがあるのかもしれませんね。


 

  [No.17825] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 20:47:16

石飛先生、ありがとうございます。

ショ-シャンクさま、連休も終わりになってきましたね。わたしには関係ないですが(笑)

今日で連休も終わりですね。私も業種柄、連休と関係ないです。大学の先生も連休関係ないのですね。意外です。


> まったくです。教えを説かないブッダも出て来るのですから、ここで人々を救おうと思ってくれたブッダは、ほんとに、そのまま、救世主です。

教えを説くことを勧めた梵天様にも感謝してます。
そのまま教えを説かなかったら、仏教自体がなかったわけですから、ちょっと想像できないですね。


> スマナサ-ラ長老は、あらかじめいつ出るか設定しておくのだとおっしゃっていました。
> レンジでチンするみたいなものです、ともおっしゃっていたかな。

そうですか。誰かが側にいなくても大丈夫と言うことですね。設定というのも不思議な感じです。


> ここは、なかなか微妙なのでありまして、よくよく読みますと、スンダリカに教えているのは、ヴェ-ダ祭祀自体が効果があるかどうかではなくて、祭祀の供物の残りを誰に布施をすると効果があるか、というところが論点になっているのです。
> ヴェ-ダの祭祀でなくても良いんだな、とちょっと思わせられるのですが、ですが、スンダリカにとっては、ヴェ-ダ祭祀はとても大切ですから、その供物の残り(プラサ-ダ)も大切で、それを誰に布施するかも重大問題になります。
> そこで、ブッダがでてきて、清らかで汚れがなく寂滅している聖者に供物を捧げるなら、施主には大きな功徳がある、と述べているわけです。ヴェ-ダの祭祀を扱いながら、実質的には、ブッダの教えによる聖者がすぐれている、かれにお布施をすると大きな功徳がある、というのですから、実際、知らずに仏法に預かってもいることになります。
> そして、このような人に供物を捧げなさい、と、あれこれ聖者の特徴をあげて、法を伝えています。うますぎる説法だなと思っています。巧みすぎて、仏法を教えられたとも気づかないまま、スンダリカは、ブッダのような聖者に出合えて、本当に良かったと納得し、最後は、そのまま弟子入りしてしまいます。


スッタニパ-タは全体的に非常にわかりづらいですが、この箇所も難しいですね。
『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
そうであれば、諸仏は、そのお供えの菓子を食べることができないですね。
古代インドでは、火の祭祀は動物の生け贄を焼き、それを後で食べるということがあったように読んだことがあります。
その頃は牛も例外ではなく食べていたとか。
しかし、ここでは供物はお菓子のようです。
『詩を唱えて得たもの』と『お供えの菓子』が同じなのか違うのかがわかりにくいのです。


 

  [No.17829] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/23(Wed) 06:50:24

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 今日で連休も終わりですね。私も業種柄、連休と関係ないです。大学の先生も連休関係ないのですね。意外です。

講義の予習に追われているので、連休はリズムが狂ってかえって迷惑なくらいです。オンラインになってから、自宅が教室なので、教室で寝泊まりしている感じです。悲しい。


> スッタニパ-タは全体的に非常にわかりづらいですが、この箇所も難しいですね。
> 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。

ここは、説明できます。確かにスンダリカだけ読みますと分かりにくいのですが、他の経典にも出て来るので、そこを少しあげましょう。

『スッタニパ-タ』第一章4「耕作するバ-ラドヴァ-ジャ経」の中にもあります。
いろいろな人とブッダは会話していますが、その時、詩(韻律をもったもの)を用いてやりとりすることが良くあります。

『スッタニパ-タ』では番号がふってある文章は、詩を意味しています。どこか軽い感じのやりとりといった風な感覚ですが、その場合、ブッダはお布施を受けとらないのです。

81 「詩を唱えたのなら、わたしとしては食べるべきではない。バラモンよ、正しく観る者たちには、このような法(習慣)はないのです。詩を唱えて(報酬を得る)ことを除いているのが、諸仏(目覚めたものたち)なのです。(この)法があるとき、このような生活があるのです。
82 完全なる偉大な仙人であり、煩悩を滅尽し、悪しき行為が静まった人には、他の飲食物で奉仕しなさい。というのは、これは、功徳を期待するものの(福の)田であるから。
(『スッタニパ-タ』第一章4「耕作するバ-ラドヴァ-ジャ」経)

たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。

そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。

生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

> そうであれば、諸仏は、そのお供えの菓子を食べることができないですね。
> 古代インドでは、火の祭祀は動物の生け贄を焼き、それを後で食べるということがあったように読んだことがあります。
> その頃は牛も例外ではなく食べていたとか。
> しかし、ここでは供物はお菓子のようです。
> 『詩を唱えて得たもの』と『お供えの菓子』が同じなのか違うのかがわかりにくいのです。

供物のお下がりは、プラサ-ダ(神々の残餞)と呼ばれ、もっとも清らかな食べ物ということになっています。プラサ-ダには「恩寵」などという意味もありますから。
古代インドの供犠は、おっしゃるように生き物を殺すこともよくありました。仏教・ジャイナ教の影響を受けて、不殺生ということが徹底されてきて、プ-ジャ-(供養)というやり方になっていったということです。

「お供え物のお菓子」はプラサ-ダで、これをお布施することは、ヴェ-ダ祭式としては、功徳を増すことにつながります。しかし、誰に与えるかも重要で、ブッダは、施主に功徳をもたらしてくれるのは、修行を積んで高徳となった人であると説いて、そのような人を「福田(功徳をもたらしてくれる田んぼ)」と呼んでいるのです。

バラモン教やヒンドゥ-教の祭りでは、プラサ-ダはみんなで分け合い食べますが、その中でも、お坊さんや行者、バラモンなど徳の高そうな人にお布施すると御利益があります。お布施でしか生きられない行者などにお布施をすることは、その人の命を長らえさせることになりますし、いつか貴重な法を聞くことができるかもしれません。自分の功徳を積むことになります。

そんなこんなで、功徳を積む行為として、お布施を見るならば、福田たる聖者にお布施するのがよい、と、ブッダスンダリカに教えているのだと思います。

スンダリカの気持に逆らわず、そして、もっともだと思うことをブッダが説いてくれるのですから、ブッダにお供えのお下がりをお布施したくなる気持もわかりますが、それに対して、ブッダは、自分は、詩によってやりとりしたことでお布施をもらうわけにはいかない、と一線を引いているのだと思います。

ブッダは、あらゆることから自由であって、生きるため・生活するために食物を得ようとしているわけではないからです。


 

  [No.17837] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/23(Wed) 16:35:33

石飛先生、ありがとうございます。

> > 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
>
> たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。
> そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。
> 生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
> 純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

ご説明で大筋は分かりました。ありがとうございます。

ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。

バラモン
『あなたのようなヴェ-ダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。
先生、ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』
仏陀に懇願します。

それに対しての仏陀の答えが
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。』
と言います。

それに続けて
『全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。』
と言います。

この対話を見ると、
『お供えの菓子を召し上がってください』という願いに対し
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。』と拒否して
さらに
『他の飲食をささげよ。』と言っています。

これを素直に読めば、
つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。

ここの記述がどうしてもつながらないのです。


 

  [No.17846] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/25(Fri) 07:21:18

ショ-シャンクさま おはようございます。

> ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。
>

> これを素直に読めば、
> つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
> 祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。
>
> ここの記述がどうしてもつながらないのです。

な~る。。 たしかに、そのようにも読めるような気がしますね。
ちょっとだいたい訳をあげてみましょうか。

『スッタニパ-タ』第三章4「スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ」経
スンダリカとブッダの会話が詩によってやりとりされています。そのあたりからです。詩で答え始めたのは、ブッダの方ですね。

◇====
そこで、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者に近づいて、このように言いました。
「あなたは、どのような生まれなのですか」
そこで、尊者は、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンに、詩によって答えました。

455 「わたしは、バラモンではありません。王族の子でもありません。庶民階級でもありません。また、何ものでもありません。凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、賢明に世間の中で行じています。

456 わたしは、大衣を着て、家なく、髪を剃り、みずから寂滅して、この世で人々に汚されることなく、行じています。バラモンよ、わたしに、姓を尋ねるのは適当ではありません。」

457 (ス)「友よ、バラモンであれば、バラモンと一緒のときには『あなたはバラモンでしょうか』と尋ねます。」

(尊者)「もし、あなたがバラモンであるというのならば、バラモンでないわたしに話してください。わたしは、あなたに、三句二十四文字からなるサ-ヴィトリ-讃歌を尋ねましょう。※」

※サ-ヴィトリ-讃歌は、ガ-ヤトリ-(韻律の名)とも言われ、有名なリグ・ヴェ-ダの讃歌で、これさえ覚えていれば罪を祓ってくれる御利益のある讃歌とされ、現在でも称えられている。youtubeにあったもの。現代風な歌になってます。
https://www.youtube.com/watch?v=tnVlRixTcZw
サ-ヴィトリ-讃歌を持ち出されて、スンダリカはブッダがヴェ-ダを知っていることを察知したと思います。そこで、すぐに、ブッダを「ヴェ-ダの達人」と呼んでいます。

459 (ス)「このようなヴェ-ダの達人にわたしたちはお目にかかったのですから、この方に献供をすれば成就があるでしょう。なぜなら、あなたのような人にお目にかからなかったので、他の人が献果を受けていたのですから。」
460 (尊)「それ故に、バラモンよ、あなたは、必要があって求めてきたのですから、近寄って尋ねなさい。ここで、まさに、寂静に至り、(怒りの)煙の消えた、苦しみのない、欲のない賢者を見出すでしょう。」

461 (ス)「わたしは、祭祀が好きなのです。君、ゴ-タマよ、祭祀をしたいと思っています。ですが、わたしはわかっていないのです。わたしにどうぞ教えてください、尊者よ。どこに献供すれば成就するのですか。どうぞ、わたしに話してください。」

(尊)「では、バラモンよ、耳を傾けお聞きなさい。わたしは、あなたに法を説きましょう。」

462 「生まれを問うてはなりません。行いを問うてください。実際、薪(カッタ、無用の)から生ずるのが、火(ジャ-タヴェ-ダ、アグニの神)※なのです。賤しい生まれであっても、堅固な聖者であって、恥を知って慎むならば、高貴な者となるのです。

※ ジャ-タヴェ-ダスは、 『ケ-ナ・ウパニシャッド』16、17 『ブリハッド・ア-ラニヤカ・ウパニシャッド』6.3.1にも出ている。ただの火ではなく、ここでは、火神を指す。

463 真実によって調御され、(感覚器官を)制御して、ヴェ-ダの達意に達して、梵行を完成した人 ―― 時にしたがって、かれに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

464 欲望を捨てて、家を出て行じ、みずからよく制御して、梭のようにまっすぐな人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

465 欲を離れ、感覚器官をよく制御して、あたかも、月がラ-フ※の捕縛から逃れるように(捕らわれない)人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

※ラ-フ 月食、日食を引き起こすとされるアスラ(悪魔)。乳海撹拌の時、不死の霊薬をこっそり飲んだが、太陽と月の告げ口で首を切り落とされるも、首だけ不死になったと言われる。それを恨んで、天に昇ってからも月や太陽を飲み込んで日食、月食を起こすようになったと言われる。

466 執着をもつことなく、常に気づきをもって、わがものという執着を捨てて、世の中を遊歩している人々 ―― 時にしたがって、かれらに供物を捧げるとよいでしょう。バラモンが功徳を望んで祭祀をするのであるならば。

467 諸々の欲を捨てて、(欲に)打ち勝って歩み、生死の極限を知って、寂静となって、湖沼のごとくに清涼である如来※は、献果を受けるにふさわしいのです。

※ 「如来」も上にある「ヴェ-ダの達意に達した人」も、特に、仏教やバラモン教の区別をつける必要はないだろう。修行を完成した聖者と受けとめると良いのではないか。

468 等しい者たちと等しく、等しくない者たちから離れている如来には、無辺の智慧があります。この世にも、かの世にも執着することのない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

469 まやかしなく住んでいて、慢心もなく、貪りを離れて、わがものとすることなく、求めることがなく、怒りを除いて、自ら寂滅したバラモンは、憂いの垢を運び去りました。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

470 心の執着を運び去って、所有するものが何もない人、この世もかの世も執着しない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

471 静慮して暴流を渡った、最高の見解によって法を知った人、煩悩を滅尽して、最後の身体を保つ如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

472 生存の諸煩悩も、粗暴なことばも滅ぼされて除き去って、今はなくなっている人、かれは、ヴェ-ダに通じた人であり、あらゆる点で解脱しています。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

473 執着を超えていて、執着のまったくない人、慢心にとらわれている者たちの中で、慢心にとらわれることもなく、田地(=苦の原因)とともにある苦しみをあまねく知っている如来は、献果を受けるにふさわしいのです。
474 願望をよりどころとすることなく、遠離することを見て、他人によって知られる見解を超えて行く、いかなる(認識の)対象もまったくない人、如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

475 これ以上ないすぐれた法が集められ(知られて)滅ぼされ除き去って、今はなくなっている人、寂静となって、執着が滅尽して解脱している、如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

476 結縛と生まれることの滅尽した極限を見て、貪りの道を残りなく除いて、清浄であり過失なく垢を離れ汚れのない如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

477 自己によって自己を観察することがなく、静慮していて、まっすぐに行い、自ら立っている人、かれは、不動であって、頑迷ではなく、疑いがないのです。如来は、献果を受けるにふさわしいのです。

478 無知にもとづくものはまったくなく、あらゆる法において知見があり、最後の身体を保っていて、吉祥なる無上の正等覚を得ている人、― この限りで、夜叉(霊)の清らかさがあるのですが ― 如来は、献果を受けるにふさわしいのです。」

479 「このようなヴェ-ダの達人にお会いしたのですから、わたしの供物が、真実の供物になりますように。(このことは)梵天が証人となってくれるでしょう。どうぞ、わたしから受けてください。世尊よ。わたしの供物をお召し上がりください。世尊よ」

480 「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです。これは、正しく観る者たちの法(きまり)なのです。詩を唱えて得たものを、除外しているのが、諸仏であります。バラモンよ、法があるのですから、これが生活習慣になっているのです。

481 独存する者である偉大な仙人であって、煩悩を滅尽して後悔の心の静まった者には、他の飲食物を捧げなさい。なぜなら、それは、功徳を期待する者の福田であるからです。」

482 「すばらしいです。世尊よ、わたしのような者の施物を召し上がってくださる方、祭祀の時に求めるような方を、あなたの教えを受けて、わたしは、そのとおりに知りましょう。」

483 「憤激することが去ってなくなった者、心に濁りのなくなった者、諸々の欲望から自由になった者、落ち込むことを排除した者であり、

484 境界の極限(=煩悩)を調伏した者、生死を熟知した者で、聖者の行いをそなえた聖者が、このような祭祀にやって来るならば、渋ったりせずに、合掌して礼拝してください。そして、飲食物を捧げてください。このようであれば、諸々の施物は(果報を)成就するのです。」

485 「目覚めた者(ブッダ)である尊者は、献果を受けるにふさわしい方です。あなたは、無上の福田であり、あらゆる世界の施物を受ける方です。あなたに施与された者には大きな果報があります。」

さて、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者にこのように言いました。
「すばらしいです。君ゴ-タマよ、すばらしいです、君ゴ-タマよ。ゴ-タマは、あたかも、倒れた者を起こすように、また、覆われたものを開いてあけるように、また、道に迷った者に道を教えるように、暗闇の中で、『眼ある人々は、いろかたちが見えるだろう』と、燈火をかざすように、このように、君ゴ-タマによって、さまざまなやり方で、法が明らかにされました。そこで、わたしは、尊者ゴ-タマに帰依いたします。さらに、法と比丘の集まりにも帰依いたします。尊者ゴ-タマの元で、わたしは出家を得たいと思います。どうか、具足戒を受けさせてください。」
こうして、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、尊者の元で出家し具足戒を受けました。それから、まもなく、このスンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、独りで他から離れ、怠ることなく熱心に励みながら、まもなく、無上の清らかな行いの究極 ―そのために、良き家の出家者(善男子)たちが正しく家より出て出家者となって得たのであるが―それを、現世において自ら覚り、体現して、成就して住んでいました。
「滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない」と覚りました。
こうして、スンダリカバ-ラドヴァ-ジャ・バラモンは、阿羅漢となったのです。

=====◇

全体を読んでみますと、「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです」というのは、ヴェ-ダ祭式の際の詩を唱える行為を排除して言うのではなく、ブッダが詩をもって応答していることを指すことが、明らかなように思われるのですが、どうでしょうか。

『スッタニパ-タ』の第一章4「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経も読んで見てください。こちらの方が、よりわかりやすいかと思います。


 

  [No.17851] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/25(Fri) 09:50:57

石飛先生、おはようございます。


> 全体を読んでみますと、「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです」というのは、
>ヴェ-ダ祭式の際の詩を唱える行為を排除して言うのではなく、ブッダが詩をもって応答していることを指すことが、
>明らかなように思われるのですが、どうでしょうか。
> 『スッタニパ-タ』の第一章4「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経も読んで見てください。
>こちらの方が、よりわかりやすいかと思います。


よくわかりました。
確かにおっしゃるとおりです。

あれから、中村元の註を読んでみましたら、どうも中村元も私と同じように読み違えているようです。

『詩を唱えて得たもの』というのを、バラモンがヴェ-ダの詩句を唱えて布施を得ていたことの否定だと書いていました。

しかし、これは中村元の方の間違いですね。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経を読んでみますと、田を耕すバラモンの差し出す乳粥も拒否しています。
このバラモンはヴェ-ダの詩句を唱えてこの乳粥を得たわけではないのに拒否してます。
この場面でも、仏陀は詩を唱えています。

ですから、石飛先生が言われるように、これは仏陀が詩を唱えた対価として受け取ることを拒否したということだとわかりました。


ただ、少し釈然としないのは
そうであれば『他の飲食をささげよ』の『他の飲食』となぜ言ったのか?ということと
この乳粥がなぜ『如来とその弟子以外は食べることが出来ない』のか?
ここを少し自分で考えてみます。

ありがとうございました。


 

  [No.17856] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/26(Sat) 09:10:36

ショ-シャンクさま おはようございます。

中村先生の訳と比べてご検討くださったのですね。
ありがとうございます。

> ただ、少し釈然としないのは
> そうであれば『他の飲食をささげよ』の『他の飲食』となぜ言ったのか?ということと
> この乳粥がなぜ『如来とその弟子以外は食べることが出来ない』のか?
> ここを少し自分で考えてみます。

ここは、わたしも、自分なりに答を出したのですが、「少しご自分で考える」とのこと、しばし沈黙します。

何かわかりましたら、お教えいただけると幸いです。


> ありがとうございました。

こちらこそ、どうもありがとうございました。


 

  [No.17857] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/26(Sat) 17:59:54

石飛先生、こんにちは。

> ここは、わたしも、自分なりに答を出したのですが、「少しご自分で考える」とのこと、しばし沈黙します。
> 何かわかりましたら、お教えいただけると幸いです。


スッタニパ-タは本当に難しいですね。
どうしても矛盾点が出てきます。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経で考えてみますと、

まず中村元の説で検証してみます。
バラモンはヴェ-ダの詩句を唱えて布施をもらっているので、
バラモンから回ってきたものはすべて『詩句を唱えて得たもの』だから諸仏はそれを食べてはいけない、
と解釈する説です。

しかし、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経では、仏陀自らがこのバラモンから食を受けるために立っていたとあります。
これだと受け取ってはいけないのを知りながら受けようとしたことになりますから、矛盾します。

また、諸仏は食べてはいけない習わしでも、他の大多数の人たちは食べていいはずです。
なのに、この乳粥は如来と弟子以外は消化できないことになっています。これも矛盾です。

次に、石飛先生の説です。
仏陀が詩句を唱えたので、その対価としては布施は受け取ってはいけない、という解釈です。
しかし、それであればその食べ物(ここでは乳粥)には何の落ち度もないはずです。
仏陀が詩句を唱えなければ、その乳粥をもらうことはいいはずです。
しかし、『他の飲食をささげよ』と言います。
これは矛盾です。
また、この乳粥はなぜか如来とその弟子しか消化できないことになっています。
これも理由が見当たりません。


考えてみましたが、どう解釈しても、矛盾が起きます。

よろしければ答えを教えてください。


 

  [No.17860] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/27(Sun) 06:08:46

ショ-シャンクさま おはようございます。

> スッタニパ-タは本当に難しいですね。
> どうしても矛盾点が出てきます。

『スッタニパ-タ』は、バラモン文化にもある程度の関心をもっている必要がありますね。
>
> 「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経で考えてみますと、
>
> しかし、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経では、仏陀自らがこのバラモンから食を受けるために立っていたとあります。
> これだと受け取ってはいけないのを知りながら受けようとしたことになりますから、矛盾します。

この田を耕すバ-ラドヴァ-ジャは、農家の中ではかなり豊かな方ではないかと思います。
バラモンとはいえ、職業として農業も営む人もいました。祭式だけで食べていける人は、そう多くはなかったため、実際はいろいろな職業についていたことも考えられます。

そして、乞食(こつじき)する行者などに定期的にお布施として食べ物を配っている人のようです。配給している列に、ブッダも並んだとき、バラモンではないのを見とがめられたか何かで、「わたしは耕して種をまいてそれから食べるのだから、お前も耕して種をまいて食べたらどうだ」と文句を言われてしまいます。

そこで、ブッダは「わたしも耕して種をまいて、それから食べる」と答えて、やりとりが始まりますね。
バ-ラドヴァ-ジャの方から、詩で話しかけ、みごとバ-ラドヴァ-ジャをうならせる答を語ります。そこで、感心したバ-ラドヴァ-ジャは乳がゆを捧げようとしますが、ブッダは、「詩を唱えて得たものは、わたしとしては食べられない。そのような生活方法をとっている」と答えます。

ここで、注目するのは、バ-ラドヴァ-ジャは感銘を受けて、乳がゆをブッダに捧げようとしているというところです。バ-ラドヴァ-ジャとしては、お布施のつもりだったかもしれませんが、ブッダは、報酬とも受けとめられるそのようなお布施は受けとらないという生活のきまりを自らに課していたため断ります。

> また、諸仏は食べてはいけない習わしでも、他の大多数の人たちは食べていいはずです。
> なのに、この乳粥は如来と弟子以外は消化できないことになっています。これも矛盾です。

いや、そうではないと思います。バ-ラドヴァ-ジャがお布施をするのは、功徳を積んで来世をより善いものにしようという考えでしょう。熱心にお布施をするのは、自分の功徳を積むためだと思います。そうなると、バ-ラドヴァ-ジャがお布施しようという気持ちが大事になってくると思います。純粋にお布施をしようと心清らかになったその気持ちをもって乳がゆを、ブッダに捧げる、というその心の動きが大事になってくるのだろうと思います。
単に乳がゆという物ではなく、心を込めたお布施になると、もはや受けとる人はブッダに限定されています。そして、ブッダのような聖者にお布施をすることは、大きな功徳を生むのであって、そのため、福田(功徳を生む田んぼ)と高徳の聖者を呼んでいるわけです。

そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。

ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。

> しかし、それであればその食べ物(ここでは乳粥)には何の落ち度もないはずです。

乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、本来であれば、ブッダが食べるべきものとなってしまっています。そこで、「功徳」という点からいいますと、もはや他の人が与えることのできないほど大きなものを功徳として与えなければならず、そのため、「他の人には消化できない」と述べたのではないかと思います。

> 仏陀が詩句を唱えなければ、その乳粥をもらうことはいいはずです。

そうですね。詩を唱えて、語ってしまったので、もはや捧げられたものは受け取れなくなり、その乳がゆは宙に浮いた状態になっていると思います。

> しかし、『他の飲食をささげよ』と言います。
> これは矛盾です。

いえ、そうではなく、もし、功徳を求めてお布施をするなら、この乳がゆではない他の食べ物を新たに捧げられるなら、純粋のお布施として受けとることができる、ということではないでしょうか。

なぜなら、修行を完成して煩悩のない大仙人は、一般の人々の福田(功徳を積ませることのできる福の田んぼ)であるから、と答えています。

> また、この乳粥はなぜか如来とその弟子しか消化できないことになっています。
> これも理由が見当たりません。

これは、先ほど述べたとおりです。

お布施だけで生きるブッダとその弟子たちは、ただ食べ物をもらっているのではなく、それを捧げてもらうことによって、その人に大きな功徳をもたらしている、ということだと思います。

そのため、する側としてはお布施は純粋な気持ちでなければならず、される側はできるだけ多くの功徳がもたらされるように修行を積んでいなければならない、ということだと思います。

いかがでしょうか。


 

  [No.17867] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/27(Sun) 12:03:44

石飛先生、ありがとうございます。
素晴らしい解釈です。
すべて納得できました。
そして、疑問点の氷解以上の気づきがありました。


> 『スッタニパ-タ』は、バラモン文化にもある程度の関心をもっている必要がありますね。

これは本当にそう感じます。現代の日本の視点では絶対に分からないのではないかと思います。
その時代のインドに降り立った視点が必要となるのでしょう。
ですから、スッタニパ-タは難解です。


> この田を耕すバ-ラドヴァ-ジャは、農家の中ではかなり豊かな方ではないかと思います。

はい。非常に裕福なバラモンだったと思います。
『500挺の鋤を牛に結び付けた』とあります。
さすがに1頭の牛に500挺の鋤は結びつけませんから何百頭もの牛を所有していたということです。
牛はこの時代のインドでは資産の中でも最も価値があるものだったと思います。
非常な資産家ですね。

> バラモンとはいえ、職業として農業も営む人もいました。
> 祭式だけで食べていける人は、そう多くはなかったため、実際はいろいろな職業についていたことも考えられます。

確かにそうなのでしょうね。日本の神社の神主さんのようなものだったと思います。
祭祀だけで食べていけない人もいたでしょう。
ただ、このバラモンは非常に裕福です。これだけ資産があれば何もしなくても食べていける立場だったかもしれません。
このバラモンが田を耕しているのは、自分の信念からだと思います。
ですから、労働もせずに乞食している仏陀をたしなめたのでしょう。

たぶん、所有する牛は乳牛でも最も価値が高い若い牝牛だったのでしょう。
田でつくっていたのは米でしょう。
そこから穫れる大量の米と牛乳で乳粥を作り、多くの人に施していたのでしょう。



> そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
> 貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
> ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。

よくわかりました。
おっしゃる通りだと思います。
ありがとうございます。

今回、石飛先生の解説によって
仏陀とは福田であり続けることなのだとわかりました。
そして仏陀に捧げたことで価値の変換をもたらすのだとわかりました。

大学の先生は授業によって、学生に知識を与え、その対価として報酬をもらいます。
私などは、商品をお客に売って、その対価としてお金をもらいます。

しかし、出家者はそういう対価での取引でなく、すべての人にとっての福田でなければならないのですね。
その福田に種を蒔いた人(お布施をあげた人)が、多くの収穫、多くの功徳が得られるような良き田でなくてはいけない、
ここのあり方が実感としてわかった気がします。

本当にありがとうございます。


 

  [No.17884] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 07:23:41

石飛先生はこう書かれています。
『バ-ラドヴァ-ジャがお布施をするのは、功徳を積んで来世をより善いものにしようという考えでしょう。熱心にお布施をするのは、自分の功徳を積むためだと思います。そうなると、バ-ラドヴァ-ジャがお布施しようという気持ちが大事になってくると思います。純粋にお布施をしようと心清らかになったその気持ちをもって乳がゆを、ブッダに捧げる、というその心の動きが大事になってくるのだろうと思います。
単に乳がゆという物ではなく、心を込めたお布施になると、もはや受けとる人はブッダに限定されています。
そして、ブッダのような聖者にお布施をすることは、大きな功徳を生むのであって、
そのため、福田(功徳を生む田んぼ)と高徳の聖者を呼んでいるわけです。
そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。
心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。
乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、ブッダが食べるべきものとなってしまっています。
そこで、「功徳」という点からいいますと、もはや他の人が与えることのできないほど大きなものを功徳として与えなければならず、
そのため、「他の人には消化できない」と述べたのではないかと思います。』


私はこの解説に非常に感銘を受けました。
そしてこの事例を超えて、仏教そのもののあり方を仏陀がどう見ていたかが分かった気がしたからです。
仏陀は、衆生にとっての福田であるということ。衆生に功徳をもたらす良き田であること。
出家者、修行者は、福田になるように精進し、衆生は大きな功徳をもたらす福田を選んで種をまく(供養をする)のだと。

そして、バ-ラドヴァ-ジャの乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので
仏陀以外には消化できないものとなり、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈です。

それであれば
「乳粥の熱」が、「この私が、自分の所有している物を、与えてやったのだ」という自己へのこだわりで、逆に我執を強めて善行の底にも潜む末那識という燃えるような我執によるもの、
燃える我執によってチッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈とは正反対です。
これだと、我執による布施である乳粥に落ち度があることになります。


どういう解釈をしてもそれは自由です。
ただ、『その解釈は解釈でわかるけど、自分の解釈とは違うものだ』ということははっきりさせないと
道に真摯ではないということになります。


実際、自分の功徳を求めないお布施などあり得ないのです。
仏陀は、むしろ、自分の功徳を積むことを奨励し、その最も大きな功徳が仏への供養としました。
それで仏教システムは今日まで東南アジアでは存続しています。
大パリニッバ-ナ経にも、
『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。
まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』
と言っており、自分に利益があるから善行をしろと言っています。そんな我欲で布施をするなとは言っていません。

我執が少しでもあるお布施が、誰も消化できないものになるのであれば、今もさかんに行われている仏教のお布施はすべて
チッチタ、チッチタと音を立てて湯煙を出してしまうことになります。


 

  [No.17890] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 11:43:27

石飛先生の解説によってはっきりわかったことは、
仏陀とは、福田、よき田であることです。
衆生が布施をするのは、田に種を蒔くこと。
大きな収穫が得られる田がよき田であり、福田です。
この場合の収穫とは功徳のことです。

故に出家者は、良き田になるべく精進しなければならないし
衆生は多くの功徳をもたらす出家者を選んでお布施をする、というシステムなのだということです。

ここにおいて、お布施をする衆生は大きな功徳を求めてするのです。
なぜ功徳を求めるかというとそれが良い生、今世か来世か、どちらにしてもその人が望む良い生を願っているからです。

仏陀は『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』と言っており
自分に利益があるから善行をしなさいと説いています。
自分の利益を考えるのは我執だから駄目だということはありませんでした。

同じ大パリニッバ-ナ経には、遊女と貴公子が、仏陀への食事の供養を自分にやらせてくれと譲る譲らないで争う場面があります。
争ってまで、『自分が』仏陀に食事を提供しようとしているのです。
それは、遊女も貴公子も同じく良き生(今世か来世かはわかりませんが)を望み供養をしようとしているのです。
それは我執と言えば我執でしょう。
我執が全くないなら、他の人が仏陀に供養してもいいはずですから。

自分や自分のものという見解をすっかり滅ぼした人はすでに解脱しているのです。
その人そのものが『福田』『良き田』になっているのです。
それはもう供養される側、応供となっています。
ですから、そこまで解脱することをお布施をする側には求めていません。
仏陀は、お布施をする人の中の『自分のものを差し上げたい』そして『大きな功徳を得たい』という心を咎めたりしてません。
むしろ奨励したからこそ、このシステムは今も仏教を支えているのだと、石飛先生の解説で気づきました。


 

  [No.17905] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 07:06:15

どこを目指しているとか、そういうことを言っているのではありません。


なぜ乳粥が、湯煙を上げて仏陀以外には食べられないものとなったのか?について話し合っています。

石飛先生の解説では、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、ということでした。
崇高という言葉は私が勝手につけたのですが、つまりは、ブッダにささげられて特定され特別なものとなった、みたいな感じです。

芳和さんの説では
布施をしたバ-ラドヴァ-ジャに『自分がした』という我執があったので、その我執(エゴ)の熱により
乳粥は湯煙を上げ食べられないものとなった、ということでした。

この2つの説はまさしく正反対なので、その違いについて語れば新たな気づきもあると思います。
正反対の解釈なので、『正しく見ている』のはどちらか、が知りたいのです。


もし、自分の功徳を求めてお布施をすることが我執であり、
そういう我執が少しでもあれば湯煙を立てて食べられなくなるのであれば
いま特に東南アジアで行なわれているお布施などは、すべて湯煙を立ててしまう、と書いたのです。

お布施に自分の功徳などは求めないことが本当で心の底にでもそんなことがあると
食べられなくなるほど駄目なものだ、という結論は、仏陀が在家に説いた教えの数々からするとあり得ないような気がします。
現実の世界を見ない空論のように思えるのです。

よって、湯煙を立てたのは、石飛先生の解説の『ブッダに捧げられたものだから』というのが正しいように思えたのですが
どうでしょうか、と問題提起してみたのです。


 

  [No.17911] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 12:11:23

芳和さん

そうですか。わかりました。前と同じスタンスですね。
大乗仏教唯識論の理論をもって、『スッタニパ-タ』などの古層の原始仏典を解釈するというスタンスです。

原始仏典の中でも『スッタニパ-タ』は非常に難解です。
その難解さは、まだ理論が整っていない最初期の段階の仏教が生々しく描かれているからだと思います。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求している私にとっては、そういう難解さは貴重です。
まだ後世の手があまり入っていないからです。

何度も言いますように
『スッタニパ-タ』にしても『法華経』にしても、百人いれば百通りの読み方があっていいと思っていますよ。

ただ、単純にパ-リ語の読み間違いなどで私自身、全く違った解釈をしていることはままありますから
いろいろな人の意見を聞くのは非常に参考になることだと感じています。

ヤフ-掲示板の『東哲板』には私はヤフ-掲示板が終了する直前の1年半くらい前にはじめて自分のスレッドを立てました。
それまでは、ヤフ-掲示板の株式板と映画板に長く自分のスレッドを持っていました。
哲学カテゴリ-にいたことは1年あまりの短期間でしたが、いろいろな人が私のスレッドに来てくれました。

その中で、人の話は聞かずに、自分の理論だけ滔々と投稿する人も何人かいました。

異なった意見でもいろいろやりとりしていれば非常に参考になるのにもったいないことだと思っていました。


『この経典にはこうあるから、仏陀はこう考えたのではないか』というようなやりとりができれば面白いと思っていましたが
そういう場でないのかもしれませんね。


 

  [No.17915] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 17:01:56

芳和さん

ヤフ-掲示板のときと変わりませんね。

春間さんが、必要もなく新しいスレッドを立てることせず、
レスの形で返事した方が閲覧者に見やすいと注意しているのに、
人の話を聞かないのは相変わらずです。

自説を滔々と述べ立てることにしか興味がないのもたぶん変わっていないのでしょう。

それでは、ご自由に。


 

  [No.17838] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/23(Wed) 16:35:42

石飛先生、ありがとうございます。

> > 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
>
> たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。
> そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。
> 生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
> 純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

ご説明で大筋は分かりました。ありがとうございます。

ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。

バラモン
『あなたのようなヴェ-ダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。
先生、ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』
仏陀に懇願します。

それに対しての仏陀の答えが
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。』
と言います。

それに続けて
『全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。』
と言います。

この対話を見ると、
『お供えの菓子を召し上がってください』という願いに対し
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。』と拒否して
さらに
『他の飲食をささげよ。』と言っています。

これを素直に読めば、
つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。

ここの記述がどうしてもつながらないのです。


 

  [No.17799] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/20(Sun) 13:31:25

続きます。

> > イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。
> > これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。
> そうですねぇ、このあたりは、イエスブッダも時代を超える器を示しているのかもしれません。解釈を超えてしまっている、という。

エス在世時は、サドカイ派も存在し、サドカイ派の方が権力に入り込んでいましたし、イエスの教えに反しているのはサドカイ派の考えで
ファリサイ派はイエスの考えに近いですし庶民派でもあります。
当然、イエスサドカイ派の方を攻撃してもおかしくないですが、なぜか、ファリサイ派とその律法学者ばかり攻撃してます。
ここが不思議で仕方ないです。

ということは、神殿破壊でサドカイ派が消滅してから、ユダヤ教ファリサイ派となりましたので
神殿破壊後に、弟子が記述したことから、ファリサイ派を攻撃している場面を選んだのではないかと思います。
ユダヤ教ファリサイ派をイエスは否定したという印象をつけたかったのではないかと思うのです。

それと同じことが、仏陀の弟子にもあって、仏陀の死後、バラモン教の否定ということが強調されたと見ています。




> > イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
> > 神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。
>
> そうですか?!
> 「宗教として」、という点を重視されるのですね。そうなのか。。
> わたしはただの哲学でも、それによって生きる道しるべになるので、一向にかまわないのですが。


例えば、イスラム教の聖典コ-ランを読んでも、規律や規則、礼拝の仕方などばかりで砂をかむような思いがします。
そういうイスラム教の中でもス-フィズムが生まれてる。
魂の救済や神と一つになろうとする姿勢があって、潤いを感じるのです。
規則規律ばかりの外面的なものばかりでなく、内面を掘り下げようとするところがあることに
ホッとするのです。


> おおっと~~、そうなんですね。
> 禅や法華経に、わたしは、神秘主義を入れないようにしなくちゃと注意しているのですが。。。
>
> わたし自身は、仏教には神秘主義は入っていないと思っています。神秘主義というのは、形而上学と結びついたところに生まれてくると思っています。
> ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。


神秘主義というのは、とても誤解の多い用語だと思います。
ただ、宗教学では、イスラム教のス-フィズムやユダヤ教カバラ、仏教の中の密教、インドのヨ-ガ、日本の修験道
神秘主義に入りますよね。

辞書を少しググると、神秘主義の定義は、
『絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場』
『神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、
その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。』

つまり、感覚や知性の働きを超えて体験しようとすることのようですので、
そのような要素はどの宗教にもあるのではないかと思います。
全く排除すると、知性の範囲内で収まることになりますので哲学となるのかもしれません。


 

  [No.17822] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/22(Tue) 10:01:03

> 続きます。

続きの方から先に行きます。なるほどと思うところが多いです。

> イエス在世時は、サドカイ派も存在し、サドカイ派の方が権力に入り込んでいましたし、イエスの教えに反しているのはサドカイ派の考えで
> ファリサイ派はイエスの考えに近いですし庶民派でもあります。
> 当然、イエスサドカイ派の方を攻撃してもおかしくないですが、なぜか、ファリサイ派とその律法学者ばかり攻撃してます。
> ここが不思議で仕方ないです。

確かに、わたしも、サドカイ派というのが出てこないのは不思議に思っていました。
>
> ということは、神殿破壊でサドカイ派が消滅してから、ユダヤ教ファリサイ派となりましたので
> 神殿破壊後に、弟子が記述したことから、ファリサイ派を攻撃している場面を選んだのではないかと思います。
> ユダヤ教ファリサイ派をイエスは否定したという印象をつけたかったのではないかと思うのです。

ふうむ、福音書の執筆者の意図というのが問題になってきそうですね。
また、イエスと近い立場に立つがゆえに、かえってその違いが強く印象づけられたというのもあるかもしれないですね。イエスの弟子が安息日に麦の穂をつまんだのを、労働だと非難したりするのは、自分たちの身近な問題であればあるほど、反発も強くなるという例かもしれません。

わたしは、キリスト教の方は研究したことがないのでよくわかりません。おっしゃるようにも考えられますし、結論を導くのは難しそうだなと自分で思っています。
>
> それと同じことが、仏陀の弟子にもあって、仏陀の死後、バラモン教の否定ということが強調されたと見ています。

なるほどね。。ちょっと話の向きが変わると、そちらの方向(バラモン教の否定・対立)へと向かいそうですものね。
どこまで、ブッダの教えを身につけているか、どこまでブッダと同じようにやれるか、弟子たちの力量の問題にもなってきそうです。

これは、部派だけですと、無理ですね。ブッダのような一切智者・一切勝者が、その力を存分に見せてくれると、反論できずに反対する人たちも黙るでしょうけど、ブッダの存在がいなくなると、声聞に代わって、その役を引き受けるべく菩薩たちが出てきたとしても、まだまだ役不足というところかもしれません。

また、かえって菩薩たちは、身近な、本来なら同じ教えに預かる声聞たちの反発も受けることになったかもしれません。
法華経』が世に出て、常不軽菩薩品のような章が説かれたりするのもわかりますね。

法華経』が、それでも比較的早い時期に世に現れたのは、ブッダの死を切実に捉えて何とか仏法を残そうという人々の意識の表れでしょうね。
実際、『法華経』は、ものすごい経典だと思います。あらゆる仏法に精通していないと、また、あらゆるブッダの理論を身につけていないと、ちょっと著すことができない経典だと思います。

ブッダの「一切智」に直結しているのが『法華経』ですね。一切智を支えている、といいますか。


> 例えば、イスラム教の聖典コ-ランを読んでも、規律や規則、礼拝の仕方などばかりで砂をかむような思いがします。
> そういうイスラム教の中でもス-フィズムが生まれてる。
> 魂の救済や神と一つになろうとする姿勢があって、潤いを感じるのです。
> 規則規律ばかりの外面的なものばかりでなく、内面を掘り下げようとするところがあることに
> ホッとするのです。

なるほどお。宗教の人ですねぇ。了解しました。
確かに、わたしが分からないのが、ス-フィズムなのです。まあ、よく勉強したことが無いのももちろんですが、イスラム教からス-フィズムも生まれてくるところに、意外な想いを抱いています。しかし、イスラム教のふところの深さをそこに感じてもいます。

「イスラ-ム(アッラ-にすべてをゆだねること)」ということばの中に、人々の煩悩(仏教的ですが)や欲望などさまざまな思いを包みこんでいるのが、なかなかすごいと思っています。

> > ブッダは、形而上学を否定した、とする学説は、正しいと思っています。なので、神秘主義をできるだけ除くように考えてしまうのです。
>
>
> 神秘主義というのは、とても誤解の多い用語だと思います。
> ただ、宗教学では、イスラム教のス-フィズムやユダヤ教カバラ、仏教の中の密教、インドのヨ-ガ、日本の修験道
> 神秘主義に入りますよね。
>
> 辞書を少しググると、神秘主義の定義は、
> 『絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
> それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場』
> 『神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、
> その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。』

そうですか。わたしが神秘主義をどうとらえているかといいますと、「自己の中に絶対者を見ること」と考えています。
ですから、ショ-シャンクさまの定義より、狭いかもしれないです。

体験があるのはもちろんなのですが、その時、「絶対的な存在」を自分の中に認めてしまうというところに、神秘主義の特徴を見ています。

密教修験道、他、仏教の瑜伽行では、絶対者を見ることはないと思いますので、体験的な行があるとしても、神秘主義にはならないと思っています。理論の「空」というのが、いかに大切かということにもなります。

> つまり、感覚や知性の働きを超えて体験しようとすることのようですので、
> そのような要素はどの宗教にもあるのではないかと思います。
> 全く排除すると、知性の範囲内で収まることになりますので哲学となるのかもしれません。

知性の範囲内で収まるのが哲学、という考え方は、わたし自身は、していませんので、このあたりが少し違うのかなと思います。

「理性や知性の範囲内で収まる」というのは、西洋的な・概念的な思考を続けているからだろうと思っています。仏教では、特に大乗になりますと「不可思議」ということばも多く出てまいります。思議できないところも、当然含めて、哲学・思想が成りたつと思いますので、宗教と哲学の違いというのは、同じ事柄を見方を変えているだけの違いのようにも感じています。

智慧というのは、ある意味、思議できないところから生じます。そこを感じとるのにも、哲学や思想の熟知が必要だと思います。場合によってはことばで説明もできる、というところを、耐えず模索するのが哲学の道だからです。

そういう意味で、釈尊、龍樹、道元は哲学者であるとも言えます。不立文字でありながら、ことばを捨てていないところに共鳴します。親鸞もそうですね。


 

  [No.17826] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 20:57:01

続きます。

> また、かえって菩薩たちは、身近な、本来なら同じ教えに預かる声聞たちの反発も受けることになったかもしれません。
> 『法華経』が世に出て、常不軽菩薩品のような章が説かれたりするのもわかりますね。
>
> 『法華経』が、それでも比較的早い時期に世に現れたのは、ブッダの死を切実に捉えて何とか仏法を残そうという人々の意識の表れでしょうね。
> 実際、『法華経』は、ものすごい経典だと思います。あらゆる仏法に精通していないと、また、あらゆるブッダの理論を身につけていないと、ちょっと著すことができない経典だと思います。
>
> ブッダの「一切智」に直結しているのが『法華経』ですね。一切智を支えている、といいますか。


確かにおっしゃるとおりですね。
仏塔管理者の在家が作ったという説がありましたが、やはり、サンガの中でひそかに、相当詳しい比丘が作ったのでしょう。


> 確かに、わたしが分からないのが、ス-フィズムなのです。まあ、よく勉強したことが無いのももちろんですが、イスラム教からス-フィズムも生まれてくるところに、意外な想いを抱いています。しかし、イスラム教のふところの深さをそこに感じてもいます。
>
> 「イスラ-ム(アッラ-にすべてをゆだねること)」ということばの中に、人々の煩悩(仏教的ですが)や欲望などさまざまな思いを包みこんでいるのが、なかなかすごいと思っています。


例えば、ス-フィ-の詩にこういうのがあります。


※※※※※

「神化」

蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。

「イスティグラ-ク」、すなわち
忘我の境地というのは、このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。

その者より生じるいかなるものも、
全てその原因はその者には属さない。

水に溺れてもがいている者、あがいている者、
「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
そうした者は未だ「イスティグラ-ク」に至ってはいない。

『アナ-・アル・ハック』

すなわち「われは真理(神)なり」という言は、2
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。
人びとは考える、『アナ-・アル・アブド』、
すなわち「われは神のしもべなり」、
という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。

断じて違う。

『アナ-・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、
真の謙譲を表わす言である。

『アナ-・アル・アブド』

「われは神のしもべなり」と言うとき、
その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。

『アナ-・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。

これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。

※※※※※

なんか、こういう詩が、あのイスラム教から生まれたというのが奇跡的な気がします。
砂漠の中のオアシスのような気がします。


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P52 ③

  [No.17830] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/23(Wed) 07:12:49

ショ-シャンクさま 素晴らしい詩をありがとうございます。
>
> 例えば、ス-フィ-の詩にこういうのがあります。
>
>
> ※※※※※
>
> 「神化」
>
> 蠅が蜜に落ちる。
> 体のどこもかしこも、部位の別なく
> 蜜に絡めとられて動かなくなる。
>
> 「イスティグラ-ク」、すなわち
> 忘我の境地というのは、このような状態を指す。
> 自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。
>
> その者より生じるいかなるものも、
> 全てその原因はその者には属さない。
>
> 水に溺れてもがいている者、あがいている者、
> 「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
> そうした者は未だ「イスティグラ-ク」に至ってはいない。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> すなわち「われは真理(神)なり」という言は、2
> この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。
>
> 人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。
> 人びとは考える、『アナ-・アル・アブド』、
> すなわち「われは神のしもべなり」、
> という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。
>
> 断じて違う。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> 「われは真理なり(神なり)」こそが、
> 真の謙譲を表わす言である。
>
> 『アナ-・アル・アブド』
>
> 「われは神のしもべなり」と言うとき、
> その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
> しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
> しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
> 自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。
>
> 『アナ-・アル・ハック』
>
> 「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
> その者は自己を消滅し尽くしている。
> そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
> ただ神のみが存在する。
>
> これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
>
> ※※※※※
>
> なんか、こういう詩が、あのイスラム教から生まれたというのが奇跡的な気がします。
> 砂漠の中のオアシスのような気がします。

なるほど、すっかり了解です。
ショ-シャンクさまが、神秘主義を評価される理由が、氷解しました。

> 蠅が蜜に落ちる。
> 体のどこもかしこも、部位の別なく
> 蜜に絡めとられて動かなくなる。

これですね!
ヴィトゲンシュタインだったか、忘れましたが、はえ取り紙と蠅の喩えを読んだことがありますが、蜜と蠅か! これは、さすがだなと思います。

蜜という甘い好ましいもの、と、蠅という自分の存在。
これに包みこまれることが、至福なのか、はたまた、恐怖なのか、この違いで、神秘主義に行くか行かないか分かれてきますね。蠅は消えるなぁ、神が現れてきますね。

「われは神のしもべなり」は相対的な関係がまだ残っていますが、「われは真理なり(神なり)」は神だけが存在している、というのは、その通りです。否定できないなあ。

シャンカラの不二一元論の解釈が、大乗の空を応用して説いていくようなものに近いかもしれない、とちょっと思いました。本気でシャンカラにせまったことがないので、どうもわからないと思っていましたが、この詩を読んで、この境地に近いのかもしれないという気がしてきました。

衝撃のすごい詩をどうもありがとうございます。
ちょっと余韻に浸ることにします。


 

  [No.17869] Re: 廃墟で語る 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/27(Sun) 17:12:08


家に戻りました


> > かくの如くある ということの “ ある ” ということは、
> > 実体にある ということですか ?
> 違います。縁起的にあるということです。無自性です。仮説です。

そうすると、
言われていることは “ かくの如く には ない ” という 意味になります
( という意味 に 同意されなければ、 また、 表し方を 変えます )


> > > > その〔私〕はそこから死してあそこへ生まれた。あそこでまた私はかくの如き名、かくの如き種姓、かくの如き階級であり、かくの如き食を取り、かくの如き楽苦を経験し、かくの如く寿命を終えた。その〔私〕はあそこから死してここへ生まれた』というように。
> > そこ とは、 ここ では ありませんか ?
> > ( そこ は ここに於いて 述べられていて、 存在している )

> 妄想ということでしょうか?ならそれでもいいのです。

仮設 である 仮説 も
事実として 存在する この世界 も
“ 存在に対する 認識 ” = 「 識 」 です

妄想 である とするには、 妄想ではない “ 理 ・ 立つ処 ” が 必要です
成就=悟得 しなければ それは 必然として “ 妄想 ” です
( 妄想ではない というには、 「 明 」 に なければならない )

「 識 」 は 実在ですが
「 識 」 が どのようにあるか ということは 「 識 」 ということの解釈です
( 同じ事を繰り返すので、 分かりにくいですか ? )

「 思考 」 とは “ モノ ” である
という意味です
物の存在 には、 実在はない ( 「 世間 」 においては、 物は 「 無常 」 です )

しかし、 ( あなたは )
“ ここにある記述 の 存在 ” を 疑うことはできない

わたしの此処 は “わたしだけが認識する 此処” です
あなたにとって の 此処 は (わたしにとっての)
あなたの(所有する)此処 であり、
その 認識 には、 わたしは 立ち入ることはできない

そういうことを踏まえて、
ブッダ は 「 わたしは道を示す 歩むのは あなたです 」 と 語りかける

わたしの記述 と 仏陀の言葉 を
「 聞く(歩む)のは あなたなのです 」

あなたは、 あなたの道を、 実際に(実体として) あなたの足で歩む

> あくまでゴ-タマ・ブッダ はそのように考えたということで、それが受け入れられない、理にかなっていないというのならそれはそれでいいと思うのです。

意味不明です
理にかなってはいない ということは、 それでいいのですか ?
( 言う人しだい である = 人は色々な 考えを持つ ということは 正しいのですか ? )

いろいろな過り などというモノは いろいろな過り の 一つです
( 一つの誤り を いろいろに解釈している ということです )
( 一つの誤 には 一つの真理 が 起きている )
( 誤り も 「 真理 」 も 一つしかない )
( それぞれの真理 が ある ということは 誤りではありませんか ? → Su. 824 など )

> 問題なのは真の仏説、ブッダの真意などを探る不毛な探求です。

不毛な探求は 不毛の人生( 「 生 」 ) に 起きることです

「 精進 」 が なければ、 「 不生 」 は ない → 「 生 」 に 起きる

> どうして仏教やキリスト教でだけこのような不毛な議論が執拗に重ねられるのか分かりません。

形而上学 というモノは 不毛 です

空海 は 「 聾瞽指帰 」 で 毛の生えた 亀毛先生 について 説きます
道教儒教 は 形而上 のこと
( 異論 は 形而 に起きる )

瑜伽行 は 「 識 」 を 認めない → 「 瑜伽行唯識

> (イエス・キリストは死後の世界を説かなかったetc.のような説です。)
> しかもそれを「仏教学者」、「キリスト教学者」というアカデミックな人間がやっているのだから、ますます不思議です。

アカデミック は 学業 という “ 「 業 」 ” に 起きている

> > 何々である ということは、 実体ですか ?
> 違うと思います。

本当に、 違うと “ 思いますか ” ?

本当のこと を 実体 と 呼びます


> > 食をとる ということは、 「 四食 」 の ただ一つのことですか ?

> 段色だと思います。

「 段色 」 も 食の一つ です ( 「 触食 」 は、 「 段色 」の 重要な構成要素です ) が、
“ かくの如き食を取り ” ということは 、
“ かくの如くない 食 がある ” という 前提( 「 縁起 」 ) が 起されます
そこに於いて、 「 思食 」 ・ 「 識食 」 が 起きます

そういうことを、 聞き取るかどうか が 道の歩み方です


> > 楽苦 とは 誰に起きることを指しますか ?

> その問いは正しくないと思います。

物事は、 認識に起きます
認識 は その識 の 所有者 に 起きます

ブッダ に 起きるのは 認識 = 「 識 」 ではありません

ブッダ は 認識しない
ただ、 あるモノを あるがままに 知る( 智慧とする ) だけです

ジュニャ-ナ(知) ではなく、 プラジュニャ-( 慧・智慧般若波羅蜜多 プラジュニャ-パ-ラミタ ) です


> > 「 永遠 」 の生にある 者 が 寿命を終える ということは、どういう意味ですか ?
> > そこに於いて、 アミタ-ユス は どのように 存在しますか ?

> 永遠の生にあるのではなく、永遠の相にあるアミタ-ユスは法身仏として存在します。

アミタ-ユス とは アミタ・無量 ユス・寿命 という 合成語 と 理解されます
寿命 は 「 生=命 」 に ついて回る 用語 です

無量寿 ということは、 アミタ において どういう意味( ありよう )ですか ?

そのありよう を 「 光明 」 とする時、 アミタ-バ- が 起きます

「 無量 」 を 智慧とする時、 「 明 」 に あります
( 「 妙 」 である 「 明 」 )
「 明 」 は 知( 認識 ) によって、 “量る” こと はできません
( 人知によって 価値を定めることはできない → 「 無量 」 )
( 「 真理 」 は 言葉をもって 顕される ということ と、 矛盾しません )
ショ-シャンク さん は そこに矛盾を見るでしょう 、、、、 )


> > そこに死して、ここに生まれる それは 「 輪廻 」 ですか ?
> 輪廻でなかったらなんでしょうか?

同じ言葉を重ねても、否定し合っても、 同じ意味ではありません
「 輪廻 」 ではなく、 「 輪廻 」 です
「 輪廻 」 は 「 輪廻 」 です


「 輪廻 」 は 「 輪廻 」 ではないこと によって 「 輪廻 」 である


> > > 石飛先生なら脱神話化して語るので、以下のような長部経典そのままの解釈を取ることはないだろうなと思います。
> > 長部経典 そのままの解釈 など ありますか ?

> ないでしょう。テキストの解釈は色々でしょう。
> テキストを直解する解釈も解釈のひとつです。

それも、 一つの解釈に過ぎません

チョッカイ と 直解する解釈 に対して、
わたし は、 チョッカイ を かける( 出す )

直解 は 解釈ではなく 「 明知 」 です


> しかし、石飛先生はあまり根拠を述べることなくいきなり最終解釈を述べる傾向にあるように見えます。
> 神々のあるいはグルのご託宣のようにです。そこが学者としての石飛先生の評価を損なっているように感じます。

> > ( あなたの解釈 なら、 いかようにも あり得ます )
> > ( 多勢を頼もうと、 あなたの解釈を離れることはない )

> 私は別に石飛先生が別の解釈を示すのもアリだと思っています。
> ただし、それは充分な根拠が述べられた場合のみ、です。

御託 に 解釈はいらない

信仰する
あるいは
検択(揀択) し、 悪いを 被せる

>> > 方広経は菩薩たちが「 如是我聞 」した聖典です。
> > あなたの読み方 は あなたの “聞き方” です
> > それは
> > 「 如是我聞 」 ですか ?

> 直解主義によって「如是我聞」しました。

直解 には 主義が立ちません
授受 が 同一だからです ( 分かりますか ? )
( 主義 は 他義がある 時に 主体に 起きます )

> > しかし、 「 不了義 」 と 敢えて言うのには、 意味がある

> 誰が何を不了義と言おうとそれぞれの立場でしょう。しかし、そこにはある程度の理屈が付けられねばなりません。小乗だから間違っているというのは何でも言えてしまいます。大乗とは何でしょうか?いくつもの生を超えてブッダになる道ではないのでしょうか?

誰かが、それを 不了義 と 言ったわけではありません
「 経 」 にある ことは、 仏陀 が 説くことです
わたしは、 説かれたことを 受けるのみ

> > 『法華経』 <方便品>
> > 「 我九部法 随順衆生説 入大乗為本 以故説是経 」
> 法華経の引用は「我此九部法」に訂正すべきでしょう。

鳩摩羅什訳 を 写したので 「此」 は 抜けていることになります
( 必要があれば、 足して読んでください )

一つの法が 九つの部分(九分) に 説かれている と言うのが サンスクリット の 訳です

正法眼蔵』 「仏教」
修多羅 伽陀 本事 本生 未曾有
因縁 譬喩 祇夜 優婆提舎

「 いまの一句一偈は、九部法なり、我此なるがゆえに随順衆生説なり。 」

九分教
・修多羅 ・祇夜 ・伽陀 ・憂陀那 ・伊帝目多伽 ・闍陀伽 ・毘仏略 ・阿浮陀達磨 ・和伽羅那


> > 何年も前のことですが 「 摩可止観 」 について、 ZAPO さん と 話を重ねたことがあります
> zapoさまも、石飛先生が記号論理学において教祖性を最後まで発揮したためか、去っていきましたね。
> もう話しをしても無駄だと感じられたのでしょう。

去った理由は 他にある と わたしは 知ります

違うところ を 同じに させたかった が、
出来ない と 知ったからです

拒否されている と 思ったのです

> 石飛先生の記号論理学解釈は様々な人々から批判されていますが、先生は道場に籠ってまともに弁解することがありません。内弟子にこそこそと言い訳するのみです。

> そのため、私も石飛先生の解釈が絶対的に正しく、記号論理学・西洋論理学の識者たちは「ブッダ論理学」を理解しない無知蒙昧で守旧的で頑固な愚か者だと思っていました。
> (自分は記号論理学の教科書すら開いたことがないにもかかわらず!)

「 微妙甚深無上の法 」 です

鳩摩羅什
「 教化諸菩薩 」 「 無 声聞 弟子 」
「 当知是妙法 諸仏之秘要 」 と 訳します

これで、 分かりますか ?


> > 『 大宝積経 』 についてです
> > 大小 の 大 について、 話を重ねました
> > 「 大経 」 とは なんであるか ?
> 今となっては懐かしい思い出でしょうね。
> いまのマニカナは廃墟です。

廃墟 にしているのは 誰でしょうか ?

> > ( 管理人エム 様 なら、 これでわかるかと。 )
> はっきり申し上げるとエム様は、興味を持ってらっしゃらないかもしれません。

興味はあっても、
うかつ には 入れない
シットジ が 上策

と しているだけです ???


 

  [No.17901] Re: 六神通(三明)も神秘主義ですか? 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/09/30(Wed) 06:20:02

pocketさま おはようございます。

> > 『沙門果経』ですよね。
>
> え、これは神秘主義ではないのですか??
> 先生の神秘主義の基準は何なのだろう・・・?

わたしには、神秘主義ではないです。
ショ-シャンクさまに語った定義では、「自己の中に絶対者を見ること」なのですが、もうちょっと微妙にいいますと、身体であれ心であれ、自己と意識するものの中に絶対的なものを見る、ということですね。あんまり変わらないか。

> > > 例えば、縁起を順観で見て宿命通、天眼通、逆観で見て漏尽通を得て解脱というような解釈ですか。
> >
> > あ、そうですね。宿命智をえ、天眼智を得て、漏尽智によって解脱する、ということです。
>
> この解釈に「私は過去世で〇〇という名前で、こういう身分で…」という体験を混ぜてもいいのですか?

最初は、わたしも「何だろうか、これは?」と思いましたが、良く考えますと識別作用(識)だから、こうなるなと思いました。
自分でもやろうとしました。過去世はダメでも昨日一昨日一週間前一年前五年前十年前と遡ることはできるかもしれない、何を食べたかやってみることはできるかもしれない、と思いました。

つまり、一端は識別していないとでてきませんし、ぼうっと生きていると識別できてもいないことになるので、いつでもクリアな識別作用を磨いていないといけないということに気づいたのです。
言ってみれば、目覚めていないといけないのです。

しかし、神秘主義というのは、自己という何かこだわりの中で絶対的なものに絡めとられるような感触を大事にします。一体化するような、渾然とした境地をいう、とわたしはh思っています。
たとえば、「主客未分の境地」などと出て来ると、わたしは、もしかして神秘主義じゃないか、とちょっと疑ったりすることも多いです。

古代インドでは、梵我一如といいますね。ウパニシャッドなどの思想をまとめて、ブラフマンとア-トマンが一つになることだとする見解が見られますが、もし、その通りだとすると、ア-トマン(個我)の特徴(?)は問題になりません。
個我は一つなのですし、その個我が、その人なのか、そのミミズなのかは問題にならず、また、人であっても、どんな身分で、何を食べたかも問題になりません。

そういうことを語ろうとすると、目覚めた状態の現実に起きている時でないと、語るのは無理なのです。だから、ヴェ-ダ-ンタ学派のような不二一元論を説く人には、仏教の語りが必要になるのだと思っています。形而上のことを語るなら、形而下はどうでもよくなる。だから、何か現実を語りたいなら、形而下だけを語ってきた仏教を必要とすることになります。仏教ほど現実を分析している教えはありません。
おもしろいことに、一元論で注目してきたのは、目覚めている時ではなく、深く熟睡している時を考察の対象にして来ているのです。夢も見ない熟睡のとき、ブラフマンと合一している、という思想を語ってきたのです。

> > いや、色界定から無色界定へと移行して、識の転変として語られていくということです。そして、そこから解脱しても行きます。
>
> う-ん、分からない…
> 石飛先生は独特な用語を使うので理解できない時が多いです

あらぁ、すみません、端折りすぎましたね。識別作用だけを問題にするなら、色(ル-パ、色かたち)はいらないのですが、わたしたちは、物(色かたち)を抜きに話をすることに慣れていないので、身体があり心がある、というように意識して語ります。物に即して語ることをするので、「どこに生まれてどんな身分で何を食べた」という風に語るのだと思います。こうして、欲を振り払い、色界に進んで、身体と心について語ると、最後は、色のない心のみだけを語りうるのですが、心だけを語る時も、語り方がわからないので、物と混みで語りながら、その識だけに集中していくのではないかと思います。

ですから、どこに生まれて、どんな身分で…などとあっても、そこにおいては、意識されるのは、識のあり方のみ、ということになります。ジャ-タカなどは、皆、そう思って読んでいます。

> 端から見ていても、例えば0さまに、話が通じてないなあ…と思うことがありました

あ、そうですか。わたしも、通じてないなあとわかることが、ままあります。

> zapoさまにはzapoさまの言い分があると思います。

ですね。 zapoさまの識の転変が、けっこう見えてくるところもありますね。
言った瞬間、気づいたのですが、まあ、こんなものかとも思います。


 

  [No.17796] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/20(Sun) 07:11:43


> > やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。



> > しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。
>
> ここは全面的に賛同いたします。
> むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。

何も説かない と 何も行わない とは 違う と 分かりますか ?

あなたは、 “ 説かれた言葉 ” に 執着する

「 仏教 」 = 至道( 真理=道 に至る ) は 行ない を示します
( その中での、 “ 説く・説かれる ” という 行ない がある )

そういう 執着 を 離れることを説く のが
仏( 真理を知る者 ) の 示している 行ない です

> 仏陀が成 道したとき、説いても無駄だと考えたように、
> 説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。

説かずとも、 行ない は 消えない
行ないの中から 周利槃特(チュ-ラパンタカ) は 成道している

> そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。

高かろうが、 低かろうが
あなたが 高くない ことには お話にはならない
( 高い低い は 「 縁起 」 です )
( 「 縁起 」 を 知る者には “高くある ことが 高いことになる” )

あなたが、
自分が 高い( 正しい ) とすれば
そのことは、 正しい( 高い ) のですか ?
( 低い とすれば、 低い のですか ? )

自分が 正しい ( と思えば ) それは 正しい のですか ?
それは 誤りである → それは 誤っていますか ?



**********

> > 経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。

> 禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
> その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。

> > ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。
> >ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。
> > わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。
> > 神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
> > 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。

> 私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。

どこから 見て( 判断の根拠 ) 高いのですか ?

( あなたが 根拠 と なり得ますか ? )

> 仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
> どのような理由からでしょうか。

“ 「 縁起 」 を知る ” という 理由 からです

「 縁起 」 を 知ろうとする時
「 道 」 は 始まり
その道を歩む者 を ( 「 道の人 」 は ) 「 道の人 」 と 呼びます

あなたが 道の人ではない と 言っているのではなく
自らの掘る 穴に落ち始めている と 言っているのです

落ちても、 道に戻れるかどうか は 道にあり ミチ のことです
( それを、 “ 実有” と 説くのが 「 法華経 」 です )

> > 相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。

文献的 には 検証されてはいない
ということです

> 梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。

> > 神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
神秘主義的な梵我一如 とは 絶対が成り立つ 梵我一如 ではない
> > 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません

梵我一如 に なってみれば 初めて分かることですが
たとえ ならなくとも
「 信 」 が ある時 自然( ジネン = 侘念 ≠ 自念 ) が ある

文献などなくとも 自らが、 自らの行い が、
( 要せられるときには )
文献 を 表出させる

その 表出 は 「 信 」 が なければ “事実” とは ならない
( あなたが 受け入れること だけ が “事実” なのです )

> > ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。
> > 彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。
> > 宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、
> > 実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。

思います という 前提で 構築されているに過ぎないことですが 、、、、
かなり高度 である と いうことは
かなり程度 が低い という意味です

( ブッダ の 思索 を 基準点という “常住 の 基準” とすると 、、、、 )

思います という 表現方法 は 何によって 必然とされるかが 分かりますか ?

自らの真理 を 握りこむ人に対しては
その人は 絶対の真理( 保持者 ) ですから、
思います という 表現となります


> > 文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありません

あります

行ない が 手立て です
( あなたが 説くこと )


 

  [No.17925] ixtlan さん と ショ-シャンク さん 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/10/01(Thu) 08:58:34


わたしが、 ショ-シャンク さんに、
否定的である と 読むのは ショ-シャンク さんに限らず あなたでもある

しかし、
わたしは 一度として ( 彼の存在“性” を ) 否定してはいない
( そう読む・読まない の判断 は、 あなたにある )

ショ-シャンク さんからは ixtlan さん と “ 同じ匂い ” を 受ける
だから
マニカナ へと、 招いたのです

どちらも
ヤフ-掲示板 で 出会っています

************

[No.3333] 輪廻即涅槃-おちゃらけ氏 投稿者:ixtlan 《URL》 投稿日:2013/06/21(Fri) 20:49:17

> Davis.L.S.-.Advaita-Vedanta-and-Zen-Buddhism.pdf

これはちょっと前にここで目次を訳しました、一部だけ。

で、ここでも言われてますが、やはり「輪廻即涅槃」が肝になりそうです。

なぜこんなことを龍樹は言ったのか。体験からか。とすればアドヴァイタ体験以外に考えられるか、ってことです。


Re: 55654・55666 『歴史上の仏陀など存在しません』 ショ-シャンク 2019/11/19(Tue) 11:08 No.55702
面倒くさい人ですね。
あなたが勝手にまるごと消去したトピックには石飛先生と私のやり取りがありそれは私にとっても重要な投稿でした。
前にも私の投稿ごとあなたに全部消されたことがあり、なんか投稿するのが虚しく馬鹿馬鹿しくなってきました。

あなたもこのまま投稿が途絶えるとかまってもらえないということでまたけしかけるようなスレを立てましたね。あなたの自我の動きがよく出ています。結局、かまってちゃんなのですね。
あなたが自分の過去ログを見なさいと言ったので、初めて見てみました。
ixtlanという人のあなたという人物に対する見方を読んで笑ってしまいました。私と全く同じ考えでした。
ixtlanという人は私は知りません。私はヤフ-掲示板ではずっと株式板だけに投稿していて、他のカテゴリ-を見ることはなかったので。東哲板に投稿したのはここ最近1年と何カ月間だけのことでしたし、東哲板でも自分の立てたスレッドにしか投稿してなかったので、 ixtlanという人は全く知りませんでした。
あなたの投稿を言葉遊びに過ぎないと言っていました。私も全く同じ意見です。言葉遊びを10年20年毎日重ねても、あなたの精神は何も変わりません。誰もあなたに惹きつけられません。



あなたは仏教の基本的な歴史も知らないようですが、歴史上の仏陀の肉声を聞いた直弟子たち500人が仏陀が本当に言ったことを間違いがないように確かめ合ったのです。
そうしてくれたおかげで、歴史上の仏陀の言った言葉が今に至るまで伝わってきているのです。
現代では文献学が非常に発達していて、原始仏典でもどれが古層で仏陀の肉声に近いかどうかもわかるようになりました。
いま、歴史上はじめて、仏陀の肉声に近づける時が来たのですから、それをもとに仏陀が本当に言ったことを探求して何が悪いのでしょう。


そのような歴史上の仏陀が言ったことを否定して、自分の認識した仏陀だけが本物だというのは、麻原やあなたの考えです。非常に危険です。

もし、あなたの考えが、古層の仏典が説くところと矛盾しているのであれば、それはそれで矛盾していると認めなければいけません。

私は、古層の仏典にあるから正しい、ないから間違い、と言っているのではありません。
歴史上の仏陀が言っていることと違うか、違わないか、だけを言っています。

あなたがどのような仏教理解をしようが勝手です。
私には何の興味もありません。

ただ、あなたは会話の中に横からいきなり割り込んできて否定して回るようなことばかりしています。
クォ-クさんが『四念処について教えてください』
と言って来られたので
私が『歴史上の仏陀が涅槃に至る一乗道と言ったくらいなので四念処は重要だと思います』
と返事したところに、いきなり
『歴史上の仏陀など存在しません』と言ってきたのです。

あなたは自分の自我、自分が構築してきた知識を否定されることを怖れているだけです。あるいは不快に思っているだけです。

自分の心の中に根深く巣食っているどろどろした自我を見つめたほうがいいですよ。

************

ixtlan さん と ショ-シャンク さん
どちらも
“わたし” を 否定している
が、
わたしは、 そのようには読まない

「 山川草木悉有仏性 」 であるのに

稀有な 出生 である 「 人 」 が 「 仏性 」 を 持たない理由はない

問題は 「 “性” 」 を どのように受けるか にある


評価 ・ 検量 しているのではなく

身に沁みている のです


 

  [No.17910] 見解によって争うことを超越し 投稿者:芳和  投稿日:2020/09/30(Wed) 11:21:59

ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を
感じているのですね。私は、釈尊の説法は教条的なものではなく、人に自ら考える機を与えるために譬喩を
多く使い、自発的に「真理への道」に入らしめるものであると信じています。

またブッダは実践を説くものであり、ブッダの言葉は、その表層だけではなく、根底にあるものを自ら実践
の道で試し、学問的に味わいつくせないものを、瞑想などのできうる限りの方法で考察するものではないの
でしょうか。ですから、それぞれの機根に応じて、龍樹研究者の石飛先生と凡夫の私の見解が違うのは当然
だと思います。

それでも道を踏み外してしまう凡夫ですが、第一経四章を胸に刻んでいます。

「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。
他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」

石飛先生は、仏教学研究の実践においての見解ですから味わい深いものがあります。それに対して私は唯識
を学んでいますから、「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を重ねたのです。



ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わ
い自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然で
はないのでしょうか。

石飛先生――バ-ラドヴァ-ジャの感銘が詩に感銘し菩提心を発したので、乳粥が世俗の布施ではなくなった。
凡夫芳和――「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を観じた。
そして、ショ-シャンク様は石飛先生の見解に共感した。

石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。

見解によって争うことを超越し

ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を
感じているのですね。私は、釈尊の説法は教条的なものではなく、人に自ら考える機を与えるために譬喩を
多く使い、自発的に「真理への道」に入らしめるものであると信じています。

またブッダは実践を説くものであり、ブッダの言葉は、その表層だけではなく、根底にあるものを自ら実践
の道で試し、学問的に味わいつくせないものを、瞑想などのできうる限りの方法で考察するものではないの
でしょうか。ですから、それぞれの機根に応じて、龍樹研究者の石飛先生と凡夫の私の見解が違うのは当然
だと思います。

それでも道を踏み外してしまう凡夫ですが、第一経四章を胸に刻んでいます。

「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。
他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」

石飛先生は、仏教学研究の実践においての見解ですから味わい深いものがあります。それに対して私は唯識
を学んでいますから、「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を重ねたのです。



ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わ
い自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然で
はないのでしょうか。

石飛先生――バ-ラドヴァ-ジャの感銘が詩に感銘し菩提心を発したので、乳粥が世俗の布施ではなくなった。
凡夫芳和――「チッチタ、チッチタ」に唯識学の「末那識」を観じた。
そして、ショ-シャンク様は石飛先生の見解に共感した。

石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。
ショ-シャンク様自身の見解を語って頂ければ『スッタニパ-タ』もより生きるのではないのでしょうか。


 

  [No.17913] 論争 と 二つ の 果報 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/30(Wed) 13:20:56


果報 が 二つあろうと、 食するときには 一つ です

( こういうことが分かると、 「 量子論 」 が 分かります )



このように、 新たな スレッド を立てるのは良いのですが
その因 となる 書き込み との関連性 が 見つけにくくなります

新たに立てた方が良い 理由があれば 別です



> 「見解によって争うことを超越し、(さとりにいたる)自信を得、道を修得して、「わたしには智慧が生じた。

どのような智慧 ですか ?

智慧 のない者に、 智慧 は 存在していますか ?

> 他のものに指導される必要はない」と、犀のようにただ独り歩め」

“ 犀のようにただひとり歩め ” とは 説かれてはいません

“ 犀の角 ” のように です

違い は 何故起きているのか というところに 「 唯識 」 が あります
「 瑜伽行唯識 」 と されることです

瑜伽 にあると 犀の角 に あります
( これが、 すんなり 分からないようでは、 「 瞑想 」 が “正しく” できてはいません )
( 正しさ ということには 「 縁起 」 が 起きます )


聖者 は 「 真理 」 を 正しい と いうことが出来る

( 愚者 は 自分の正しさ を 正しいこととする → 下記参照 “ Su. 796 ” )


ショ-シャンク様は、『スッタニパ-タ』第一章四経の、石飛先生と私の“味わい方”が違うことに疑問を感じているのですね。


> ですから、「法燈明・自燈明」と自由意志を尊重するブッタの説法は、それぞれの機根に応じて、自ら味わい自ら考えるものでありますから、龍樹の研究者である石飛先生と凡夫の私の「味わい方」が違って当然ではないのでしょうか。

問題は 「 法 」 は 一つである ということです
味わい方が違って、 「 法 」 が 違ってしまうと 本末転倒 です

同じ事 を 知らない 限り
味わい が 違えば、 味わうモノ が 違います
( タタ-ガタ を 味わっているのではなく、 “味わい” を 味わっているのです )

“ 同じ事 ” について、 初めて、 違う味わい ということが起きる のです
( 同じと知ることがなければ、 味が違えば、 味を持つモノ が 違う )

論理 を 間違えると、 違っても同じモノ と なってしまいます

> 石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。

石飛 教授 の 見解 は 間違っています
正しいとするあなたの見解 に タガウ からです

> 正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。

これだけ 取り出すと いうところが正しいこと と なる見解も起きます

見解 は 常に 自らのモノで
常に 他のモノ とは 違うから
自らの “ 見解 ” が 立ちます

論争にある時には “ 同一させようと、 一つのこと ” を 語り合って( 論“争”して )います ?
Su. 884
「 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。 」

どちらに対しても、<道の人> によって、 違うことが 語られます

Su. 796
「 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。 」

自分が正しいとすることを 見解を立てて 主張します
違う見解 が 正しくないからです

もし、 それを認めるのであれば
自分の見解 と 他の見解 が 同じとなり、 論争は起きません

“ 二つの観察 ” というモノは
二つの見解 ではなく
一つである “ 真理の姿 ” = 「 縁起 」 = ( 一つの)果報 です

Su.728 ~
「 『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。 」



> 石飛先生の見解は深いと思います。だからといって、末那識を観じた私の見解が正しくないとは言えません。
> 正か邪か、その偏った見解を超えるところに『スッタニパ-タ』があると思います。

ということが、 偏った見解ではない と “ なぜ 信じる ” のですか

あなたが 聖者 である のであれば
“ 偏り ” は ありません

何故、 そこに、 不安を感じないのですか ?


( 「 いや、 不安です 」 ということが 何故、 不安ではないのですか ? )



 

  [No.17900] 「世俗の功徳」と「仏の功徳」 投稿者:芳和  投稿日:2020/09/30(Wed) 02:16:47

ショ-シャンクとは目的地が違うようなので一言失礼します。

>すると釈尊は、「世間の中で私ほど功徳を求めている者はいない。」と言われました。

これも、「世俗の功徳」と「仏の功徳」とは違うということだと私には読めます。
当時のインド社会においては、功徳を積むということは、輪廻転生の世界観において善い世界に生れる
ことが世俗の功徳の認識ですが、「仏の功徳」は自己が我執に気づき心を清浄にすることだと言いたいの
ではないのでしょうか。

通仏教の基本といわれる「七仏通戒偈」(ダンマパダ183)のそれです。

ありとある悪をば なさず 善なるを おこない そなえ
みずからのこころを 浄む これぞ実に 諸々の諸仏の教え

自浄其意(自ら其の意を浄むる)…です。

ショ-シャンクさんがどんな修道をされているのか知りませんが、観音信心の私ではありますが、大乗の
修道論の基本である、十地経の修道論に基づいた唯識の五位の修道論を基底としています。おそらく、
ショ-シャンクさんとは目的地が違うのでしょうね。仏教の修道にも色々あるのでその人の合ったものを
選択すればいいのではないのでしょうか。

私の場合は、「資糧位――加行位――通達位――修習位――究竟位」という五位の修道です。

その資糧位では、六波羅蜜や三十七菩提分法、四摂事(布施・愛語・同事・利行)・四無量(慈・悲・喜・捨)
の修行あります。大乗仏教では六波羅蜜が基本で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧で、布施波羅蜜
そこに含まれます。

この資糧位の六波羅蜜も、加行位を収めて、見道ともいわれる通達位で主―客二元的分裂を超えた「無分別智」
智慧を発することです。ですから布施波羅蜜のめざす功徳が違うのですね。世俗の功徳を超えて、目指すの
は自浄其意という仏の功徳です。

そして、通達位という見道を超えると修習位という十地の修行に入る。そこでは無分別智を発して、始めと
終りの二元対立を超えていますので、初地という始めと究竟位という終りの対立を絶しますので、空海など
は「初地即極」と言います。そして、最終的には、阿頼耶識が大円境地となり、末那識が平等性智に、意識が
妙観察智に、前五識が成所作智となり、四智円明の仏が完成されるといいます。唯識の修道論に批判的な方の
多いですが、私にはわかりやすいのでこれを前提としています。

この修道は、無辺・無尽・無量・無上という、仏に導かれて永遠なるものを目指す道です。

いろいろ御批判はあるでしょうが、これが私の道です。
目的地位が違えば、布施行の目的も違ってくるのでしょうね。
その人にあった道を選択すればいいのだと思います。
ご精進をお祈りします。


 

  [No.17904] 賑やかさ は “半眼” にある 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/09/30(Wed) 06:54:38


「 瞑想 」 すると 分かります

沈黙 でもなく 潜在 でもない “ところ”


> とは目的地が違うようなので一言失礼します。

ショ-シャンクさん と 違う
あなた と 違う から

“ 同じ事 ” ということ について、

“ 論 ” を 建てます


> いろいろ御批判はあるでしょうが、これが私の道です。
> 目的地位が違えば、布施行の目的も違ってくるのでしょうね。
> その人にあった道を選択すればいいのだと思います。

一聴 まともで、そうに決まっている と “ 聞こえる”
“ その人にあった道 ”

その人 という 個 は 自我 ではありませんか ?
合った とする 己 に 合う が 自己に合う ということ

ややこしいのですが

( その己 を 「 自己 」 という → 「 己事究明 」 されるところの “ 己 ” です )


そこに ( どこに ? )

Dmp. 62 「 我すでになし ・・・・ なんぞ 財あらん 」

という句 を 当てはめることは出来ませんか ?

( 財 とは アルタ であり、 自己の所有するところ は すべて アルタ です )
この句 は そのことについて 説かれています


> ご精進をお祈りします。

その人に合う 「 精進 」 が ありそうですが、
「 精進 」 とは “いろいろな道にある” のではありません


色々に 彩られ 、 違って見える 「 道 」
ではあるが
「 道 」 は 一つ です
( 「 真理 」 は 一つ → 唯一無二 )

Su.884 ( 出典 中村元岩波文庫ブッダのことば 」 )
「 真実は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。
それ故にもろもろの < 道の人 > は 同一の事を語らないのである。 」
( > 同一 ということを “論ぜず” < )

わたしは、 論じているのでしょうか ?


“ 龍樹 は 論ぜず、ただ示すのみ ” ( わたしは、 あなたの財 である 龍樹 ではない )


( 「三蔵」 を否定せず、 「論蔵」 を 否定せず )
「 論蔵 」 は 名称であり、 「 空 」 である


あなたの道 以外に、 “ あなたの道 ” は ありますか ?


その道筋に、 論 が 咲いています 、、、、

道端 に 華が咲く ( 道は いくたび も 踏まれ、 華やかさ は ない )

華 が 咲くのは 道にではなく 道端 です
( 中心・端 が ないのが 一本の 「 道 」 )
このことを 論じて 何を得ますか ?
( 何も得ない ということが 得るということです )

「 本来 無 一仏 」


こいうことを 言うから
pocket さんは
廃墟となる 因が起きる
とします

その因 は 誰の因 でしょうか ?


にぎやか であれば 良い というわけではありません

サンガ は いくら賑わおうと そこでは 「 黙 」 が 主眼 です

( 「 眼 」 といっても “ 半眼 ” だということが、 ここで述べていることです )

このようなこと を 読み取ることが “ 知る = 智とする ” ということです
( 「 智 」 は 「 瞑想 」 からしか得られない )


飛躍 を 知らなければ、 成就 はない
( 智る ということは 「 瞑想 」 からやってくる
→ 賜わる モノ → 自己にはない )
周利槃特(チュ-ラパンタカ) は
掃除から 「 総持 」 へと 飛躍したのです
( 総て を 内蔵している から ダ-ラ-ニ です )



論じては いけない
ということを
論じています



 

  [No.17892] 布施について 投稿者:芳和  投稿日:2020/09/29(Tue) 15:10:59

ショ-シャンク様はじめまして。初期仏典の言葉そのものから真理を見る立場と、菩薩道の立場から真理を
見る立場という視点の違いなのでしょうね。福田という功徳を求める布施を否定していません。だいたい私
に功徳を求める気持ちはないと言ったら嘘になりますから。自己の内からチッチタ、チッチタと音を立てる
湯煙を感じます。これを書いているこの時も灰の中から煙が出そうになりますから、注意しています。

観音経などは、あからさまに現世利益をうたいます。そして観音菩薩は、煩悩に縛られて迷っている、私の
ような凡夫の性を見すえて、さまざまな欲望をなだめすかすようにして、高次の悟りへと導きます。
初期仏教の福田も、在家の凡夫を仏道に導くためのものだったのではないのでしょうか。
これを機に、ショ-シャンク様のレスを、布施について確認するための公案とさせていただきます。
失礼いたします。

ウィキペディア(Wikipedia)』から、
布施(ふせ)は、梵語では「檀那(旦那)(ダ-ナ、दान、dāna)」といい、他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、贈与、与えることを指す[1]。英語の Donation (寄贈者)やDonor(ドナ-)とダ-ナは、同じインド・ヨ-ロッパ語族の語源をもつ[1]。

仏教においては、全ての宗派において主要な実践項目のひとつである。六波羅蜜のひとつでもある。布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種がある(大智度論)。布施をする人をダ-ナパティ(dānapati)といい、施主(せしゅ)、檀越(だんおつ、だんえつ、だんのつ)、檀徒(だんと)などと訳される。なお、菩提寺にお布施をする家を檀家(だんか)という言葉も、檀那、檀越から来たものである。


>実際、自分の功徳を求めないお布施などあり得ないのです。

ですね。だから、自分の功徳という自己中心性という「エゴ」の焔で、「乳粥は、水の中に投げ棄てられると、
チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出した」のではないのでしょうか。
仏のコトバから、自らの行動を振り返り、自己を凝視すれば、煩悩の焔に燃える自己に気づくということを
最近になって知った頑迷な私でした。
「愛は地球を救う」ではないですが、此縁性という照らし合い無尽の縁起の理を知れば、自己中心性が苦しみ
を生むという道理は納得がいくのではないのでしょうか。

私は毎朝、般若心経の読経の最後に「回向文」を唱えています。

願以此功徳 [がんにしくどく]
普及於一切 [ふぎゅうおいっさい]
我等与衆生 [がとうよしゅじょう]
皆共成仏道 [かいぐじょうぶつどう]

現代語訳
願わくは私の行った善い行いの功徳が、この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、
自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが、皆と共にあらゆるものに対しての
慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように。

私を生かしめているあらゆる存在に功徳を廻す、という廻向の誓願もあります。
私など、ただ唱えているだけかもしれませんが……。

>『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。
>まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯>乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
>これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
>まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
>死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』
>と言っており、自分に利益があるから善行をしろと言っています。そんな我欲で布施をするなとは言っていません。

そのようなことを私も中村元博士の書物から学んだ記憶があり、その初期仏教の在家者への教えも心得ています。
当時のインドの輪廻転生観の地盤で、来世の種々なる想定することは、道徳的実践のための不可欠な要素であると
考えていたらしい。と中村博士は『原始仏教』P163で語っています。

私も檀家であり、お布施をするときがありますが、お世話になっている御礼であり、お寺にもお金が必要だから
寺への布施は「相互扶助」で行っています。ご利益を求め過ぎると、自己中心性に躓き怪我をしますから……。

切り口の違い、立場の違いがあるのでしょうね。
いろいろあった方が面白いと思いますので、ショ-シャンク様はショ-シャンク様の道をご精進ください。
お気にさわったら申し訳ありません。失礼しました。


 

  [No.17893] Re: 布施について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 16:22:11

芳和さん、はじめまして。
といっても、はじめましてではないですね。
ヤフ-掲示板のとき、よく私のスレッドに来られていましたよね。
春間さんもよく来られて、ジャンヌダルクのことなどで言い合ったりしました。
春間さんも芳和さんもご自分の理論を披露することが多かったので
それほど会話はなかったかもしれませんが。

乳粥が湯気を出した件については、私は中村元の説の通りと思っていました。
バラモンは詩句を唱えて布施をもらうので、バラモンからは受け取らないのだという説です。

しかし、石飛先生は、そうではなく、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、
と言う解釈なのです。

たぶん、この石飛先生の解釈を芳和さんも、春間さんもあまり読んでなく、
この説と正反対の、
バ-ラドヴァ-ジャの我執(エゴ)の熱により、この乳粥は湯気が出て食べられないものになったということを
書かれました。

スッタニパ-タを読んでも法華経を読んでも解釈は百人いれば百通りあっていいと思います。
私は元々、中村元の説と思っていましたから、どちらでもこだわりはないのです。

ただ、石飛先生が、中村元先生の説を否定しても自分はこう思うと言われたのですから
『芳和さんの解釈はそうなのですね。私の解釈はこうです。』と
きちんと説明されるのが、自分の思うところに真摯であるということではないかと思ったので書きました。

自説と違うことを隠すよりも、違う点をいろいろ話したほうが、より理解も深まるでしょうし
止揚することができるかもしれませんから。


 

  [No.17897] Re: 布施について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 20:22:03

芳和さん


> ですね。だから、自分の功徳という自己中心性という「エゴ」の焔で、「乳粥は、水の中に投げ棄てられると、
> チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出した」のではないのでしょうか。
> 仏のコトバから、自らの行動を振り返り、自己を凝視すれば、煩悩の焔に燃える自己に気づくということを
> 最近になって知った頑迷な私でした。
> 「愛は地球を救う」ではないですが、此縁性という照らし合い無尽の縁起の理を知れば、自己中心性が苦しみ
> を生むという道理は納得がいくのではないのでしょうか。


芳和さんは、完璧主義のように思えます。
無我という完璧な状態を観念で想定して、その状態にない自分を追い詰める傾向にありませんか?
『自分の』功徳という、その言葉に拒絶反応してしまうところはありませんか?

こういうエピソ-ドをご存じでしょう。
お釈迦様の十大弟子のひとり、阿那律尊者は目が見えなくなっていました。
ある時に、衣の修繕をしようとして針の穴に糸を通すのに苦心していた尊者は、
「誰か功徳を積もうと思う者はいないか?目の見えない私のためにこの針に糸を通してもらえないか」
と言いました。
すると、釈尊が真っ先に歩み寄り、「私が功徳を積ませていただきましょう」と言われたそうです。
驚いた阿那律尊者は、「道を極め覚者となった釈尊には、もう功徳を積む必要はないのではないでしょうか」と言いました。
すると釈尊は、「世間の中で私ほど功徳を求めている者はいない。」と言われました。


前にも書きましたが、
自分と自分のものという見解を滅している人はすでに解脱しています。
『自分』や『自分のもの』や『自分の功徳』ということから全く離れている人は
もうその人自身が福田になっています。
応供、つまり供養を受けるに相応しい人=仏 です。

布施をする人、供養をする人が、少しでも『自分のもの』というような考えを持っていたら
供養した食べ物がチッチタ、チッチタと音を立てて湯煙を出し誰も食べることができなくなるのであれば
世界中で布施をしたものすべて煙を出してしまうことになります。


 

  [No.17724] その通り 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/07/22(Wed) 22:56:57


あなたは、 直ぐに 「 その通り 」 という
もはや 「 名称 」 が一致するときには つい口に出てしまう 習性 の如し

今までに、 幾度となく 「 その通り 」 を 聞いてきました

( わたしは )その通り に ( 居て、 聞いて )来ていたのでしょうか ?


[No.17657]

> 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。

ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。

[No.17677]
> 大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
> 仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。

ああ、なるほど、それなら確かに、おっしゃるとおりかもしれません

[No.17685]
> 法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。

その点は、おっしゃるとおりかと思いますが

***********

その通りに 居る時
“ その通り ” と言えます

“ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?

そこだけ その通り ということはありません
その通り には それまでの生き様が すべて 積まれています
これから 積むことも
その通り に 積まれますが

その時は “ その通り ” ではなく “ 正しい 道( 通り )” と 名を変えます
( そのように 授記 されているからです )


道は 一つであることが “ 南無 とも 妙 ” なこと です



 

  [No.17727] Re: その通り 投稿者:管理人エム  投稿日:2020/07/23(Thu) 20:20:32

>
> あなたは、 直ぐに 「 その通り 」 という
> もはや 「 名称 」 が一致するときには つい口に出てしまう 習性 の如し

ここで、おっしゃるとおりです、と言ったら、まずいか。

口癖のようになっていると言われると、そうかもしれない。

なぜ、「そのとおり」と言うかと言えば、その人がそう書いたことを読むと、
そのとおりだな、と思うからです。

思わないときは言わない。
思うときだけそう言うのですが、それが、非常に多い、と言うことかもしれません。

ただ、「そのとおりなんだけど…」と言いたいときも多いのです。

それでも、まず「その通り(なんだけど)」と言わないと、「その通り」以外のことが言えないので、「その通りなんだけど…、しかし、実は~」と続くのです。

最初から、全然違う時というのは、あまり無いです。
ショ-シャンクさまの場合も、おおむね、「なるほど、そうだな」と思うことが多かったので、そういうことになりました。

三乗方便一乗真実も、「三乗はいらない、一仏乗だけでよい」と言われると、「確かに、そうだな」とは思いますが、三乗方便がなければ、『法華経』はこの世で誰も書かないよね、とも思うので、
「そうなんだけど…」と言うのです。

三乗方便は、ブッダの説いた道のうちの三つであり、16通りが真実です。三乗は、世俗の一般の定説として、比較的分かりやすく詳しく説かれたので、三乗でいく人が多かったのでしょう。しかし、本当は一仏乗として説かれているのだよ、と『法華経』は語っています。それは、みんなが、そうだと知らなかったからでしょう。


> 今までに、 幾度となく 「 その通り 」 を 聞いてきました
>
> ( わたしは )その通り に ( 居て、 聞いて )来ていたのでしょうか ?
>

「その通り」とだけ聞いていたのなら、その通りに来ていたのではないかもしれません。

「その通りです」だけではなくて、さらに、その上に何か加わるように、わたしは語ってきてもいるつもりなんだけど。。。

つまり、その通りの考え方で、さらにいくと、こうなるのではないか、という部分を入れるようにしてきているつもりだけど、そうは、見えない?


 

  [No.17728] Re: その通り 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2020/07/23(Thu) 21:46:55


> ここで、おっしゃるとおりです、と言ったら、まずいか。

まずくはない

> 口癖のようになっていると言われると、そうかもしれない。

その通り は まずい通り ではないから


> なぜ、「そのとおり」と言うかと言えば、その人がそう書いたことを読むと、
> そのとおりだな、と思うからです。

その通り だと 知っています
( 思わなく て 言う時 には 問題が “あることも” あります )
( ないことも ない )

言葉は 面白いですね
読みようで、 いくらでも 混乱できる

> 思わないときは言わない。
> 思うときだけそう言うのですが、それが、非常に多い、と言うことかもしれません。

刹那的なのです

人は、 刹那 刹那 では タタタ- です

繋ぐと、 矛盾が起きる ことを 「 無明 」 に起きる と言います

起き続ける 一貫性の無さ

ただし、 あなたは 一貫している

それを 知らずに、 糾弾している のだと
言う風 に 綴っているだけです

綴り方 を 読む人がいる
あなたが 読む
あなた以外 が 読む

あなたは あなた以外 が 読む ということを
読まない から
わたしが 弱点を 指摘していると読む

弱点ではなく、 世間ずれ でもなく
あなたの 優しさ の 表し方 だと知っています

そういうこと( そのような 優しさの表し方 ) は、 あなたに任せる
そうではないことを、 わたしは 担当する

わたしには、 わたしの歩み方があり
それは、 事象 を はっきりさせること

まずは はっきりしないことには 始まらない
始まって、 それに対して どのように対処するかが、 記述に残り
その残ったことが 道を 示していく 、、、、
いずれ はっきり顕われ出たことを 契機として
必ず、 “ 頭が割れて、 菩薩が湧出する ”
正しい道を 見出せる ということが 授記されている 、、、、

いずれ ( 近く・遠く ) は 「 縁起 」 です)
「 時 」 とは 空間の 別の呼び名に過ぎない

あなたが “ 直ぐ近く ” と 思おうと
そこには ( 毫釐 ) の 距離( 差 ) が ある
「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」
遠近 遅速 は 「 縁起 」 にあるけれど
「 縁起 」 を 知る者が
“ 近い ” と言えば それは 「 即近 」 を 示している
“ 遠い ” と言えば 「 顛倒 」 を 示している

SN 1-3章 < 剣 >
『 わたしが語る 』
名称 と 言語表現



> ただ、「そのとおりなんだけど…」と言いたいときも多いのです。

そう言っています ( 言っていないと 言っていない が 言っている とも 言ってはいない )

> それでも、まず「その通り(なんだけど)」と言わないと、「その通り」以外のことが言えないので、「その通りなんだけど…、しかし、実は~」と続くのです。

その通り を うまく切り抜けました

> 最初から、全然違う時というのは、あまり無いです。

刹那的です

ショ-シャンクさまの場合も、おおむね、「なるほど、そうだな」と思うことが多かったので、そういうことになりました。

それは、 問題です
おお旨 は 間違っている( 顛倒している )

まず 自分が 「 仏教 」 を 知る立場にある
という設定を 見逃している ( 仏教を知らない と いうことです )

立ち処を 顛倒しているのです

ブッダ は 間違えない のではなく

間違いを起こすと 瞬時に 間違いに気づき 間違いを 正しているのです

間違いがなければ、 間違いを知ることはできない
( だから、 間違いがない と 間違う ! )


> 三乗方便一乗真実も、「三乗はいらない、一仏乗だけでよい」と言われると、「確かに、そうだな」とは思いますが、三乗方便がなければ、『法華経』はこの世で誰も書かないよね、とも思うので、
> 「そうなんだけど…」と言うのです。

言葉の 遊び( まやかし ) です

ブラック企業 では
「 お前は 何の為に 会社に来ている 」
と 置き、
「 するべきことを しろ 」 と いう

するべきことは、 そのような会社を なくすこと

ここを “ 援用 ” 出来なければ ならない

何の為の会社設立か ということです

会社 を 閉めて ( 得難き人の生の )人生が ハジマル

( もっとも、 道は すべて繋がっていて
一つしかないのだけれども
釈迦牟尼 の 成道 という道 )


> 「その通りです」だけではなくて、さらに、その上に何か加わるように、わたしは語ってきてもいるつもりなんだけど。。。

> つまり、その通りの考え方で、さらにいくと、こうなるのではないか、という部分を入れるようにしてきているつもりだけど、そうは、見えない?


> ***********

> その通りに 居る時
> “ その通り ” と言えます
>
> “ どの通り ” のことを “ どの通り で 言っているか ” が 分かりますか ?

> そこだけ その通り ということはありません
> その通り には それまでの生き様が すべて 積まれています
> これから 積むことも
> その通り に 積まれますが

> その時は “ その通り ” ではなく “ 正しい 道( 通り )” と 名を変えます
> ( そのように 授記 されているからです )


> 道は 一つであることが “ 南無 とも 妙 ” なこと です

> ***********


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P55 全

  [No.20253] Re: 信じることについて 投稿者:来生  投稿日:2021/03/12(Fri) 10:38:40

それに対し輪廻については、我々の知らない世界が存在しますので、釈尊の言を先ず信ずることが必要です。

方々の経典にそれらしい記述が見られますが、決定打がなかなか見つかりません。

「御礼」のPLさんのスレッドでお話した「来世の功徳」はご覧になりましか?

金剛般若経の「説教の本質」に釈尊の言は「真実であり偽りはない」と自ら宣言し、その続きのような箇所に「来世の功徳」があったでしょう?

はっきりと「現世 前世」が述べられています。

この言葉が「偽りではない」ならば間違いなく「輪廻」は実在します。

ここで「信じる」が「確信」に変わります。

更に今回、ロム1さまがショ-シャンクさまのブログをご紹介してくださいまして、釈尊が悟りの叡智で自分の何代もの「前世」をお示しになっているのを拝見しました。

これが決定打ですね。

その他、阿含経にも修行者のころ、「輪廻から出離出来ない」と苦しんでいる様を告白しています。最大の悩みです。

だから「輪廻からの出離」がただ一つ、仏教を開いた理由です。

それでも「死後が無い」と仰るなら仏教への背信です。だから間違いに気が付いて頂きたくて、ご指摘の件を発言しました。


 

  [No.20242] ここは竜樹の研究機関 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/03/12(Fri) 03:19:55

重要なところ

大乗は 竜樹菩薩にかかっているからさ


しかし 他力に関しては 0点 笑


ここは昔から その意味で注目 有難い存在

だからな 教えに 否定的な ショ-シャンクにも ここで 教えてもらえと

だったら
最近彼が 投稿していたよ そして カズマちゃんも投稿 思わず投稿してしまったといふ


因縁和合


 

  [No.20083] Re: 仏教は「輪廻転生」という災厄の対策に尽きる 投稿者:ロム1  投稿日:2021/03/06(Sat) 12:54:35

> 先ず確認ですが、仰る「輪廻」は「輪廻転生」と同一だと考えて差し支えありませんか?

同じようなものだと思うのですが、「輪廻」というと、生まれ変わり生まれ変わりしているある種の循環状態を言い、
「輪廻転生」というと、生まれ変わった結果としての今の状態に力点が置かれているようにわたしには思えます。

「輪廻からの解脱」という表現はよく聞きますが、「輪廻転生からの解脱」とはとはあまり言わないように思います。
間違っていたらごめんなさい。

> 釈尊の言葉で「死してはまた再生する」とは「転生」のことですよね。

う-ん、わたしにはこれは「輪廻」のことを言っているように思います。

> 「輪廻転生」は「転生」が主体で「輪廻」は形容詞的なものですよね。

「輪廻」が形容詞的なものではないとは思うのですが、来生さまが感じられている通り、
「輪廻転生」というと、「転生」のほうに力点があって、輪廻した結果、何か今存在している状態にどこか注目しているように思うのです。

> > > 釈尊が出家したのは「輪廻転生」からの「出離」が目的だったので、「輪廻転生」は大前提だと思います。
> >
> > もちろん当時「輪廻」は修行者の大前提だったと思いますが、それを本当に真実だと身をもって知るのは、そのような智慧を具えた、やはり悟った後だったのではないでしょうか。

> ここのところが理解できませんが、「身をもって知る」ことが必要でしょうか?

まあ、悟るということですね。「輪廻の真実」を真実として悟るわけです。
>
> これは「体験」であって「理解」とは違います。

そうですね。そう思います。

> 外国の仏教の多くは「輪廻転生」を釈尊の教えを妄信して「体験者の説教」を「理解」しています。

そうですよね。でも、妄信というか、信じているわけですね。ブッダには虚言のないものだと。
>
> 「金剛般若経」に「説教の本質」として釈尊自身が「それはなぜか。スプ-ティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」と述べています。

うん。今、上に書いた通りですね。

> 従って「釈尊の教えを(直訳的に)妄信」して間違うことはありません。

そうですよね。そこが宗教的な側面でもありますね。

> 大前提ですから、そこを理解で済ませて、修行者はその「出離」に「身をもって」努力することではないでしようか。

そうだと思います。
その修行者は努力した結果、やがて悟りに至り、前世を知る智慧を得て、おそらく「本当に輪廻は真実であった!」と改めて知るわけだと思います。その智慧を「宿住智」と呼ぶそうです。悟りの智慧、三明の一つですね。

ショ-シャンクさまのブログで少し詳しく書かれています。一度ご覧になられたら如何でしょうか。
https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2021/01/12/114524


 

  [No.20102] Re: 仏教は「輪廻転生」という災厄の対策に尽きる 投稿者:来生  投稿日:2021/03/07(Sun) 09:48:36

> 「輪廻からの解脱」という表現はよく聞きますが、「輪廻転生からの解脱」とはとはあまり言わないように思います。
> 間違っていたらごめんなさい。

判りました。「仏教の目的」で検索しましたら、確かに「輪廻からの解脱」になっていました。

若い頃、仏教の入門書を始めて開いたとき真っ先に目に入ったのが、「輪廻転生からの解脱」という言葉だったので、今でも通じると思っていました。

ウィキペディアも最初は過去の仏教の伝説に忠実でしたが、中観論が大勢を占めたころから、滅茶苦茶に変更されましたから止むを得ませんね。


ショ-シャンクさまのブログで少し詳しく書かれています。一度ご覧になられたら如何でしょうか。
https://shawshank-blog.hatenablog.com/entry/2021/01/12/114524

貴重な資料を有難うございます。

私は三明六通を水野弘元先生の「釈尊の生涯」で知りましたが、具体的で、より詳しく説明してあって参考になりました。

「『宿住智』についての記述 」に

「そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。」とあります。

これが「梵天勧請」ですね。

そして般若心経の呪文の「彼岸に往けり」のことですね。

ここまで表現されているのに、日本仏教は輪廻転生を無視したままで過ごしているのは異常ですね。


 

  [No.20131] Re: 仏教は「輪廻転生」という災厄の対策に尽きる 投稿者:ロム1  投稿日:2021/03/07(Sun) 22:05:09

> とすれば釈尊はそれ以外で何時、何のために「そこから死没し、この世へ再生した。」のでしょうか?

「そこから死没し、この世へ再生した。」

これは、わたしが紹介したショ-シャンクさまのブログにある「宿住智」の経典の引用ですよね。

「わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。

そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。

このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。」

お釈迦様が悟られた時、「宿住智」でもって、自身の過去生をこのように見通されたということですね。

ですから、「そこから死没し、この世へ再生した。」という場合の「そこから」とは、今悟っているお釈迦様の一つ前の「生」のことですね。
そしてその「生」を死没して、「この世へ再生」したのですね。「この世」とは、お釈迦様が王子として生まれ、出家し、修行し悟に至ったこの「生」のことですね。

この引用文について何か誤解があるのではないでしょうか。

> そこにも「『この悟りのよろこびの中に生涯を終えるのも悪くない。』と思っていたのでした。」と書かれていますが、
> 今の日本では死んで再生するという思想がありませんので、この表現になったのだと思います。

それは違うと思いますよ。経典の中に実際、『この悟りのよろこびの中に生涯を終えるのも悪くない。』という表現があるのだと思います。実際、お釈迦様と同時代にあったジャイナ教では、聖者が悟ると食を断って死を迎えるのが良いとされていましたから。

> 私は実際に死んだのだと思います。

実際にその時お釈迦様が死んだのでは、仏教はこの世には存在しませんね。
>
> 梵天自身もこの世の人物ではありませんし、我々の知らない世界の話ではないでしょうか?

それはそうですね。伝承された経典の中で語られている世界ですね。
>
> 梵天勧請以外の伝説で、「死んで再生する」事件がどこにあったか教えてください。

こうなってくると「死んで再生する」という言い方が気になりますね。
輪廻を信じている人にとっては、誰もがある意味、「死んで再生する」存在ではないでしょうか。
転生というべきかも知れませんが。

> 余談ですが、梵天勧請で、釈尊が4度も拒否したと伝えられています。

ああ、そうなのですか!
梵天勧請は3回で、お釈迦様は2回拒否されたと聞いていましたが。。

> 多分この世に戻れば、間接的にも殺生を余儀なくされるからだと思います。

ああ、分ってきました!
来生さまは、お釈迦様は一旦死んで、その霊が天かどこかに昇って、梵天に会ったということでしょうかねえ。。
科学的に言えば、一旦仮死状態になって、また、息を吹き返したっていう感じでしょうか。

でも、仏典が伝えている話はそのスト-リ-とは全然違うと思いますよ。

> 従って乞食になってで粗食に耐え、蟻も踏みつぶさずに気を付けて歩いたとの話もあります。

それは先ほど書いたジャイナ教の話ではないでしょうか。生き物を殺さないという意味で徹底していると聞きます。
そのために小さな箒を持っているとも。


 

  [No.20182] Re: 御礼 投稿者:来生  投稿日:2021/03/10(Wed) 11:01:47

> 「輪廻」を信じるという場合、「個人の感想」とはちょっと違います。
>
> この雑多な世界をその雑多な状態として見て、その消滅に対してお釈迦様の説かれた「縁起」という考え方を用いると、一つの生が終わると、また新たな生に生まれるという「輪廻」という考え方は、ある意味とても自然な考え方のように思います。
> 自然な考え方のように思うので、わたしは「輪廻」を信じるのです。そして三宝に帰依するのです。


「ある意味とても自然な考え方のように思います」とありますが、「ある意味」はさて置いて、「自然な考え方」という事は本能に忠実な考えと思われますが、私が仏教を知るまでは、死後が存在するというおどろおどろしい話をを非常に嫌いました。

現在の日本の大部分が同じ考え方を持っているから、誰も「輪廻」を信じないのではありませんか?「自然な考え方」とはとても思えません。

> >
> > 釈尊を信じています。従って「輪廻」は真実と確信しています。
>
> 来生さまはお釈迦様の一体何を信じてられるのでしょうか?

釈尊の「説教のの本質」(金剛般若経)です。
>
> > 仏教には神がいません。だから宗教ではありません。信じるものがないのです。論拠は真実だけです。
>
> その真実とは何ですか?

釈尊の「説教のの本質」(金剛般若経)です。
>
> > 周りは「輪廻」を信じない人が大勢います。それが間違いで、「輪廻」が真実であることを知らせたいのです。そのためのネットです。
>
> 「輪廻」を信じない人が間違いで、「輪廻」が真実であることがどうして分かるのですか?
> 何を根拠に分かるのでしょうか?

それが「阿含経」に示され、ショ-シャンクさまのブログの「過去世」にピッタリ一致しています。


>
> > 自分が信じるだけでは世の中何も変わりません。だから自殺すればそれで総て清算できると皆思っています。
>
> 人ってそんな単純なものでしょうか。。わたしにはそのように思えません。
> 「輪廻」を信じない人だから自殺しやすいとも思えません。苦難の中、新に生まれることにどこか希望を見出して悲しく死んでいかれる方も多いのではないでしょうか。

「輪廻」を信じない人が何故「新に生まれること」を知っているのでしょうか?

>
> 最近、仏教者でなされた「自殺」を巡った対談がありました。良き対談だと思うので一度ご覧になられたら如何でしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=oHmD3MmqjqY&list=PLmwYOQLkF8Y ..... ;index=168

覗きましたが、会話ですね。時間が掛かりそうですので、あとで見ます。

私の記憶では佐々木先生は、NHKの「100分で名著般若心経」の解説者でしたね。

その講義は滅茶苦茶でした。今「阿含経」は真の姿、般若心経は仮の姿」というロゴもちらと見えましたが、
「空即是色」の解釈なんか「瞬間の映像」という,
とんでもない解釈をされていました。


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P57 ①

  [No.21842] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 19:29:04

メッタ-さん、こんばんは。

> スマナサ-ラ氏がドッカを苦じゃないと考えるわけがないと思うね。
> 現代人の考える苦を含んで、さらにより根本的な苦という意味。


スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。

『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。分かりやすく言いますと、日本語に「石」という語があります。この「石」の前に「小」という語をつけると、「小石」となります。小石というと、大きな石でもなく、きれいな石でもなく、どちらかといえば小さい石とか、たいしたことのない石、が思い浮かぶでしょう。「小」という漢字には「小さい」という意味もありますが、ほかにも「たいしたことがない・あまり価値がない・重要さの程度が少ない」いう意味もあるのです。
また「川」という語の場合なら、その前に「小」をつけると「小川」となり、意味は「たいした川ではない」となります。
このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。
「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』




しかしながら、
そもそも『kha』という語自体、仏陀の死後ずっと後世になって初めて現れた言葉です。
後期の上座部論書の清浄道論において、dukkhaをduとkhaに分解して解釈してからです。
それまでのどの経典にも『kha』という言葉はないはずです。

なぜわざわざ言葉を作ったかというと、dukkhaを苦とすることに非常に抵抗を感じたのだと思います。
人生には楽も苦もあり『一切皆苦』なんてあまりにも現実に即していないという批判があったからです。

私が言っているのはこれです。
人類は仏陀が言ったdukkha=苦が理解できなかったため、無理矢理解釈を捻じ曲げたということです。



『清浄道論』(Visuddhimagga)は5世紀くらいに書かれた論書です。
ですから、仏陀の死後1000年くらい経っていますね。

詳しく言うと、そこにこのような記述があります。

『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』

この5世紀の論書を基にスマナサ-ラは、『dukkhaは苦という意味ではなく、空しいということ。』と書いているのです。


 

  [No.21853] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 05:46:48

ショ-シャンクさま pipitさま メッタ-さま

おはようございます。

> スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。
>
> 『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。

> 「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』


ふうん、こんな解説をされているのですね。
分からないではありませんが、出家の僧という立場も影響しているのかもしれないとちょっと思いました。

dukkhaとsukhaは、対になることばなので、スマ長老さまの説明は、sukha(楽)をも意識された上での、解説だと思います。
苦を表すのがdukkhaだけなら、こういう風に言うこともできるかもしれませんが、実際、十二支縁起などの解説には、こうあります。


すなわち、無明に縁って行(志向作用)がある、行に縁って識(識別作用)がある、識に縁って名色(名称と形体)がある、名色に縁って六入(六つのよりどころ)がある、六入に縁って触(接触)がある、触に縁って受(感受)がある、受に縁って愛(渇愛)がある、愛に縁って取(執着)がある、取に縁って有(生存)がある、有に縁って生(生まれること)がある、生に縁って老死(老いること・死ぬこと)があり、
愁(soka)・悲(parideva)・苦(dukkha)・憂(domanassa)・悩(upAyAsa)が集まり起こる。
このように、この苦しみ(dukkha)の集まりの集起がある。 (『ウダ-ナ』1.1)


ここから見ても分かるように、苦しみに属すると思われるすべてのものを、いろいろなことば(愁悲苦憂悩)であげて、それを「dukkha」に代表させているので「苦しみ」でよいのだと思います。

スマ長老さまくらいになりますと、虚しい感覚や小さな不快の感情に感ずるくらいですむかもしれませんが、救われたい生き物からしますと、非常な苦痛や苦しみすべてをも含んでいてくれないと、ほんとに救われない、ということにもなります。


お釈迦さまは、後に、こういう解釈も出て来るかもしれないと思って、いろいろなことばで不快の感受を表したのかもしれませんね。


 

  [No.21864] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 08:40:03

ショ-シャンクさま

スマ長老のことばは、それはそれで吟味するとおもしろいことが見えてきますね。


> スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。
>

> 「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』


一切皆苦」の説明に、dukkhaの語源解釈をいれて


> 「一切のものは無意味で、気にするものではない」


という意味としている、ということですね。
そして、そこにショ-シャンクさまは反発を感じられると。

また、pipitさまは、無常、苦、無我の三相をあげて、どの相に触れるかは個性であるとされていますね。なるほど、というところです。

こういう点からしますと、ショ-シャンクさまのご不満が分かるような気がしてきます。

スマ長老さまは、「一切皆苦」の説明に、「諸行無常」でなされるような解説を与えているような気がします。
諸行無常」の説明なら、「一切のものは変化してやまないから、無意味で気にするものではない」といわれますと、おおかたは納得すると思います。

一切皆苦」に、この説明「一切は無意味で気にするものではない」といわれて、多くは納得いかないのも分かります。こんなに苦しいのに、どこがたいしたことないんだ、怒っちゃうぞ、となりそうです。

しかし、最近の上座部の解釈を見ますと、こうなっていくのも分かる気がします。
なぜなら、「一切皆苦」を文字通り苦しみとして解釈するなら、輪廻を語らないことはできないだろうと思われるからです。しかし、スマ長老さまは、いわゆる業や輪廻については積極的に語られません。

輪廻が出てくると、制止されますね。輪廻というのは、科学的な見地をともなった理論のように考えられてくるのでしょうか。わたしも、ちゃんと調べて読んだことがないので、はっきりしませんが、とにかく輪廻は語られなくなってきているという印象があります。

現在の上座部仏教は、その語り方が昔とはちがうようだ、ということで、けっこう納得するものがあります。


わたしの理解では、部派は、無常と苦をメインに説いてきたと思いますし、そこを自在に語れるところが部派の真骨頂みたいな気がしています。

で、もし、部派が苦を語らないのであれば、それは、大乗が引き受けねばならないかも、と思いますね。

大乗は、無我と空をメインにしてきました。しかし、そこに、苦も加わることになるのかな、って気がちょっとしています。


 

  [No.21869] 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 10:11:40

石飛先生、おはようございます。


> そして、そこにショ-シャンクさまは反発を感じられると。

反発を感じているわけではないのです。一番最初に書きましたように『情けない』と思っているだけです。

今まで大乗でも部派でも仏教書を読んで、『本当に歴史上の仏陀はこういうことを言いたかったのだろうか?』という疑問が出てきたので、私は、すべての仏教知識を白紙にして、仏陀が本当に言いたかったこととは何だろうと探求し始めたのです。
ですから、今さら、部派であれ反発や不満は感じません。
反発や不満は期待するときに生じますから、期待していない以上、そういう感情は生じません。

ただ、仏陀は成道の時に『これは説いても誰にもわからないから説くのは止めよう』と思った、その想いは、仏陀在世の時はともかく、仏陀がいなくなってからはかなりその通りだったと考えているだけです。
それほど、仏陀の理法は世間の常識とは正反対なものだったということでしょう。
特に『dukkha=苦』は、時代を経るに従って、本当にわかる人がいなくなっていったように思えます。

『dukkha=苦』は、仏陀の教えの核心中の核心なので、仏陀の理法の理解はdukkhaが本当にわかるかどうかにかかっていると思っています。

ただ、仏陀が言った『dukkha=苦』は、私たち人類が理解するのは非常に難しいと思います。
人生には苦もあるけど楽もあるのが常識だからです。
人生にはもちろん苦はありますが、楽しいことだって快楽だっていっぱいあります。
人生思い通りにならないのが苦の意味だ、というのが最近の定説のようですが
1%も思い通りにならない人もいれば、99%思い通りになる人だっている。
そういう人でも老いもあるし病いもあるし死ななくてはいけない、と言ったところで、
人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。

また、『人生は苦だ』『一切は苦だ』などというとは、仏教はなんて悲観主義なんだ、と西洋人から非難されることも多かったですね。

そんなこんなで、dukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味としてしまったのでしょう。
それも根拠は、5世紀の『清浄道論』(Visuddhimagga)の『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』という語義解釈からです。

この5世紀の『清浄道論』以前にできた原始仏典で、仏陀がdukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味で使ったことがあったでしょうか。

やはり、dukkhaは、仏陀の昔から苦、苦しみ、痛みなのです。

dukkhaは、仏陀の教えの核心中の核心であるがゆえに、ここを後世の者が意図的にねじ曲げてしまったら、仏陀の真意は伝わらなかったのも仕方ないことだと残念に思っているだけです。


 

  [No.21875] Re: 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 13:08:47



ショ-シャンクさま こんにちは。

> 反発を感じているわけではないのです。一番最初に書きましたように『情けない』と思っているだけです。

OKです。「情けない」と。

> ただ、仏陀は成道の時に『これは説いても誰にもわからないから説くのは止めよう』と思った、その想いは、仏陀在世の時はともかく、仏陀がいなくなってからはかなりその通りだったと考えているだけです。

人々はア-ラヤ(愛着)を喜び、ア-ラヤを楽しみ、ア-ラヤに喜悦しているから、「縁起」は分からないだろうと思ったわけですよね。


> それほど、仏陀の理法は世間の常識とは正反対なものだったということでしょう。
> 特に『dukkha=苦』は、時代を経るに従って、本当にわかる人がいなくなっていったように思えます。


わたしは、少し考え方が違います。愛着を喜ぶわたしたちは、縁起の理法を理解しがたいと、ブッダは見たのだと思っています。「ドゥッカが分からない」というのとは、ちょっと違うかな、という感じです。
>
> 『dukkha=苦』は、仏陀の教えの核心中の核心なので、仏陀の理法の理解はdukkhaが本当にわかるかどうかにかかっていると思っています。

「苦」が何であるか、わかりずらいということでしょうか。
確かにそうかもしれませんが、苦は学習すればどんどん得ていけると思います。ものの見方を学ぶと、それだけで、どんどん自分で得ていけると考えています。

「これも実際苦しみだったのだな」と知っていくと、苦しみに気づくのが習熟していき、それを避けることもできるようになっていきます。

>
> ただ、仏陀が言った『dukkha=苦』は、私たち人類が理解するのは非常に難しいと思います。
> 人生には苦もあるけど楽もあるのが常識だからです。

「楽は苦の本」とブッダが教えて、人々は学習していきましたね。習なわなければわからないかもしれませんが、教えてもらうなら気づいていけます。

> 人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。

これは、ある意味、思想だと思います。「一切は楽である」と考えて、人生をわたっていく人々もいます。ブッダは苦と見なさいと教えたのだと理解しています。

これにより、苦しみを滅する道を行くことができ、苦の滅を得るからです。
この回りくどいやり方をしようという人は、なかなかいないだろうというのはわかります。
てっとりばやく、幸せの青い鳥でも探した方が、それこそ楽な気がするからでしょう。

多くの人が、ぱっと見には行きたがらない道を、それを勧めるブッダは、その道を理解してくれる人は少ないことを、察知していたと思います。
>
> また、『人生は苦だ』『一切は苦だ』などというとは、仏教はなんて悲観主義なんだ、と西洋人から非難されることも多かったですね。

西洋人は、快楽主義の人も多いですし、有の哲学に染められていますから、ペシミスティックに見える「苦」の思想を好まなかったということは分かります。
しかし、考え深い人々は、ブッダの理屈を会得していきます。

ブッダの教えが難しいのは、直観だけでいくのではなく、推論と観察との両方を使って行く道だからだと思っています。

「一切は苦である」ということは、わたしたちでも十分分かる内容であり、素直な目をもってみつめるとき、そういう見方を納得していけるのだと思います。

「苦しいことばかりじゃなく楽しいことだってある」と言いながら、人は、苦しみへと向かって行くのだと思います。どこかで抗っているなと、自分でも分かるのではないでしょうか。智慧の宗教だと思いますね。至るところにある苦しみにきづくとき、それを滅する道が生まれてくる、ということかなと思っています。

まんま、自分の得た仏教の教えを語ってしまっています。


 

  [No.21877] Re: 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 13:52:32

石飛先生、こんにちは。


> わたしは、少し考え方が違います。愛着を喜ぶわたしたちは、縁起の理法を理解しがたいと、ブッダは見たのだと思っています。「ドゥッカが分からない」というのとは、ちょっと違うかな、という感じです。


そうですか。
私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
『執着を喜び、執着に歓喜する人々に、縁起の法は理解しがたい』と仏陀は思いました。
私は縁起の法とは、苦の縁って起こる原因のことだと思っています。
具体的には十二縁起です。
縁起の公式は、それを滅すれば苦が滅するという直接原因、根本原因を発見するための公式だったと見ています。

執着は苦そのものでもあるし、さらなる苦の集積の原因でもあります。
しかし、衆生は、執着を苦と見ずに執着を喜び執着に歓喜しているありさまです。

いま、苦にあることがわからないのに、苦の生起や苦の滅である縁起の法を説いても理解しがたいということだと考えています。


> 確かにそうかもしれませんが、苦は学習すればどんどん得ていけると思います。ものの見方を学ぶと、それだけで、どんどん自分で得ていけると考えています。
> 「これも実際苦しみだったのだな」と知っていくと、苦しみに気づくのが習熟していき、それを避けることもできるようになっていきます。

> 「楽は苦の本」とブッダが教えて、人々は学習していきましたね。習なわなければわからないかもしれませんが、教えてもらうなら気づいていけます。
>
> > 人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。
>
> これは、ある意味、思想だと思います。「一切は楽である」と考えて、人生をわたっていく人々もいます。ブッダは苦と見なさいと教えたのだと理解しています。


そうですか。
私は苦はもっと根源なるものと考えています。
仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。

苦に関しては議論しても仕方なく実感するしかないことだと思いますので、これで終わらせていただきます。


 

  [No.21880] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 05:31:11


ショ-シャンクさま おはようございます。


ショ-シャンクさまの考えをまとめて、わたしの理解としたいと思いますので、ここに要点を記しておきますね。

> 私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。

四聖諦を説いた、という判断ですね。
「縁起」は、四聖諦に至るための手段としてのみ用いるもの、と。

> 私は苦はもっと根源なるものと考えています。
> 仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。

一切皆苦」を、ブッダは、説いたのだと。

了解しました。

> 苦に関しては議論しても仕方なく実感するしかないことだと思いますので、これで終わらせていただきます。

十牛図」も、そのための手段の一つとして見ていたけれど、どうもうまくいかないようだ、ということでしょうか。。まあ、そういうことかなと、了解しています。


結論から言いますと、わたしは、ショ-シャンクさまとは部分では似るけれど、かなり違うようだと思っています。

わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。
そこに、ブッダの「一切」を見ています。最初に、ブッダが悟りを開いたとき、人々に教えを説こうと思いませんでした。


実にわたしによって得られたこの法は、深淵で、見がたく、理解しがたく、寂静であり、卓越していて、思考の領域にはなく、微妙であって、賢者によってのみ知ることのできるものである。
しかるに、人々は愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している。愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している人々には、「これに縁ること」であり、縁って起こるものである、このような道理は見がたいし、また、一切の形成力(行)の止息であり、一切の再生へのよりどころを捨てるものであり、渇愛の滅尽であり、離欲であり、止滅であり、涅槃である、このような道理も見がたい。(『中部』第26経「聖求経」)


ブッダによって得られた法は、ここに書かれたような道理(論理)であると思っています。論理であれば、捨てることはたやすいと思うからです。


 

  [No.21882] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 06:43:21

石飛先生、おはようございます。


> > 私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
>
> 四聖諦を説いた、という判断ですね。
> 「縁起」は、四聖諦に至るための手段としてのみ用いるもの、と。


仏陀は言っています。
『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』と。

仏陀の生涯にわたる膨大な教説は『苦と苦の消滅のみを説いているのです』。

それは、決して、四諦に限定されるのではありません。
すべての言説が、苦と苦の消滅のみのためになされたのです。

中部経典『蛇喩経』には、
『無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。
それゆえに、そなたたちに属さないものを捨断しなさい。
色・受・想・行・識を捨断しなさい。』


ここでは、苦と苦の消滅が、四諦でなく、五蘊非我によって語られています。



> > 私は苦はもっと根源なるものと考えています。
> > 仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。
>
> 「一切皆苦」を、ブッダは、説いたのだと。

苦と苦の消滅に至るためには、『苦』の全的な理解が必要なのです。
歴史上の仏陀が繰り返し言っていることのすべては、苦と苦の消滅なのに、
後世になればなるほど、仏陀の言ったdukkha は見向きもされないか、あるいは当たり障りのない言及でお茶を濁すようになります。
dukkhaは空っぽという意味などと言われ始めます。
あるいは、大乗仏教では、『苦』の代わりに『空』が仏教の根本教理となっていきます。

仏陀は『空』を説いていません。
スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。



> 「十牛図」も、そのための手段の一つとして見ていたけれど、どうもうまくいかないようだ、ということでしょうか。。まあ、そういうことかなと、了解しています。

禅では、仏陀の理法、つまり四諦十二縁起を洞察することがありません。
ですから、苦の全的な理解も無理です。
ただ、仏陀の理法を瞑想していると、なぜか、禅の公案が理解でき面白くなってきます。
禅の人は否定するでしょうけど。



> わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。

まさしく今、筏で激流を渡っているときに『筏を捨てなければならない』などとは考えません。
激流を渡り終えて、彼岸に着いたときに、筏は捨てればいいのです。
筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、
あまりにも観念的です。
向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。


 

  [No.21886] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 08:57:53

ショ-シャンクさま

> 仏陀は言っています。
> 『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』と。

これの根拠が、『蛇喩経』ということですね。

> 中部経典『蛇喩経』には、
> 『無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
> このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
> その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
> このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
> このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
> 私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。

> ここでは、苦と苦の消滅が、四諦でなく、五蘊非我によって語られています。

ああ、なるほど、こう理解していたのですか。

> 私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。

ショ-シャンクさまは、この一文を、この経典のテ-マに添った、沙門やバラモンの誹謗中傷に対するブッダの応答だ、という風には、とくに見ないのですね。
「苦と苦の消滅のみ」というところを、無条件に、ブッダの説と執っているわけですね。


よく見ますと、ブッダは、このように説くところは他にもあります。
たとえば、異説に心うばわれているマ-ルンキヤプッタにも、同じように語っていると思います。そこでは、ブッダは、説かれた教えと、説かれなかった教えがあることを説いています。


http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html
マ-ルンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
マ-ルンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。
マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。

それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。(「箭喩経」)


こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。


> 苦と苦の消滅に至るためには、『苦』の全的な理解が必要なのです。
> 歴史上の仏陀が繰り返し言っていることのすべては、苦と苦の消滅なのに、
> 後世になればなるほど、仏陀の言ったdukkha は見向きもされないか、あるいは当たり障りのない言及でお茶を濁すようになります。
> dukkhaは空っぽという意味などと言われ始めます。
> あるいは、大乗仏教では、『苦』の代わりに『空』が仏教の根本教理となっていきます。
>
> 仏陀は『空』を説いていません。

> スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
> そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。


では、泡のようにはかないものなら、無常を説いていますね。それも、説いてるうちに入らない?
また、五蘊非我も説いていますよね。それも、苦を滅するための補助手段でしかない?

これらは、仏弟子たち(声聞たち)に合った教えだから説いたのだ、とは考えませんか?
苦と苦の滅は、仏弟子たちに受け容れやすい教えだったから、そこをメインに説いたとは言えませんか?


> > わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。
>
> まさしく今、筏で激流を渡っているときに『筏を捨てなければならない』などとは考えません。
> 激流を渡り終えて、彼岸に着いたときに、筏は捨てればいいのです。
> 筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、
> あまりにも観念的です。


ショ-シャンクさまの筏は、ブッダの四聖諦・十二支縁起などからするものだとすれば、
どんどん解体されて捨てつつわたっているようですよ。

「蛇喩経」の中でも、たえず、自分のものでないものを捨てなさい、といっています。
だから、五蘊を捨てよ、と。
筏の喩えは、まさしく「蛇喩経」の中にあります。


比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。(「蛇喩経」)


この後、六つの見解の立場が説かれ、無常・苦・無我の教えが説かれます。
筏の喩えの経典を読んでいると、どんどん捨てて行かねばならないということを知っていくのではないでしょうか。

> 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。

向こう岸に着いたら、筏は解体されてすでになくなっているでしょう。筏の喩えも法なのですから、それも捨てられていると思います。

わたしは、観念で言っているのではありません。
ショ-シャンクさまとブッダの教え「蛇喩経」とを見て、そのように言っています。


 

  [No.21887] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 10:05:34

石飛先生、ありがとうございます。


ショ-シャンクさまは、この一文を、この経典のテ-マに添った、沙門やバラモンの誹謗中傷に対するブッダの応答だ、という風には、とくに見ないのですね。
> 「苦と苦の消滅のみ」というところを、無条件に、ブッダの説と執っているわけですね。
> よく見ますと、ブッダは、このように説くところは他にもあります。
> たとえば、異説に心うばわれているマ-ルンキヤプッタにも、同じように語っていると思います。そこでは、ブッダは、説かれた教えと、説かれなかった教えがあることを説いています。


先生が挙げられていた中部経典第63『小マ-ルンキヤ経』(箭喩経)にもまさしくありますように、

> マ-ルンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
> マ-ルンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。


つまり、仏陀が説いたことは苦と苦の消滅なのです。
このようにはっきりと仏陀が断言しているのですから、少なくとも仏陀の最も根本的なテ-マが苦と苦の消滅であったことは明らかです。
むしろ、このような仏典がありながら、何故、先生がそれを否定されるのかがわかりません。


> マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
> なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。
> それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。(「箭喩経」)
>
>
> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。


これは、そう読んではいけないと思います。
その言葉通りに受け取るべきかと思います。
『わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。』というのは、語られなかったことは、(厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないと言う理由で)語られなかったこととして受け止めなさい、と言うことだと思います。
つまり、厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないことをあれこれ考えずそのようなことに時間を割いてはいけません、ということでしょう。

片山一良の訳では
『それゆえに、マ-ルンキヤプッタよ、私によって解答されてないものは解答されないものとして受け止めなさい。また、私によって解答されているものは解答されているものとして受け止めなさい。』
です。

> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。

この仏陀の言葉を、仏陀が説かれなかった教えも憶持しなさい、というのは真逆な解釈だと思います。



> > 仏陀は『空』を説いていません。
> > スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
> > そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。
>
> では、泡のようにはかないものなら、無常を説いていますね。それも、説いてるうちに入らない?
> また、五蘊非我も説いていますよね。それも、苦を滅するための補助手段でしかない?


無常を説いています。
無常とは生滅の法のことです。
生じれば滅する、ことです。
生じれば滅するから苦なのです。無常であるから苦なのです。
これも仏陀は繰り返し繰り返し説いています。
五蘊非我も説いています。
仏陀は矢を抜く方法をいくつも説いてくれています。
仏陀は『私は矢を抜く最上の人だ』と言っています。
矢を抜く名人なのです。
人間は毒矢が刺さって苦しんでいるのです。
四念処も五蘊非我も矢を抜く方法、苦を生滅する方法です。



> これらは、仏弟子たち(声聞たち)に合った教えだから説いたのだ、とは考えませんか?
> 苦と苦の滅は、仏弟子たちに受け容れやすい教えだったから、そこをメインに説いたとは言えませんか?

私は、そう見てはいけないと思っています。
仏陀自身が、出家をし修行したのは、四門で苦を見、苦の消滅を見たからです。
仏陀自身の大テ-マでもあったのです。

声聞が受け入れやすいから説いた、というのはあまりにも後世の大乗の見地から仏陀を解釈することになります。
私はそれをしたくなかったので、大乗の知識しかなかったのですが、すべて白紙にして探求しようと思ったのです。


ショ-シャンクさまの筏は、ブッダの四聖諦・十二支縁起などからするものだとすれば、
> どんどん解体されて捨てつつわたっているようですよ。
> 「蛇喩経」の中でも、たえず、自分のものでないものを捨てなさい、といっています。
> だから、五蘊を捨てよ、と。
> 筏の喩えは、まさしく「蛇喩経」の中にあります。
> 比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。(「蛇喩経」)
> この後、六つの見解の立場が説かれ、無常・苦・無我の教えが説かれます。
> 筏の喩えの経典を読んでいると、どんどん捨てて行かねばならないということを知っていくのではないでしょうか。
>
> > 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。
>
> 向こう岸に着いたら、筏は解体されてすでになくなっているでしょう。筏の喩えも法なのですから、それも捨てられていると思います。
>
> わたしは、観念で言っているのではありません。
ショ-シャンクさまとブッダの教え「蛇喩経」とを見て、そのように言っています。


『筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。』と書いてあるではないです
か。
七覚支に択法というのがあるように、不善法をどんどん捨てていかなくてはいけません。
しかし、善法は選択され残されます。
そして、それを筏として向こう岸に渡ったならば、それも筏として捨てるべきです。
まさしく『渡るために説かれた法』なのです。
私はまだ渡っていないので、筏は絶対に必要なのです。


 

  [No.21889] Re:まとめ 投稿者:おちこぼれ  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:19:44

ショ-シャンクさん。

横レス失礼します。

ショ-シャンクさんと管理人エムさんの対話を興味深く読ませてもらっています。
この後も深く突っ込んだ議論を期待したいんですが、どうなって行くんでしょうか。

ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。


 

  [No.21890] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:30:21

ショ-シャンクさん。
>
> 横レス失礼します。
>
ショ-シャンクさんと管理人エムさんの対話を興味深く読ませてもらっています。
> この後も深く突っ込んだ議論を期待したいんですが、どうなって行くんでしょうか。
>
> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
> さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。



おちこぼれさん、ありがとうございます。

少し、タイミングが悪いのは、
今日の午後3時ころから私はかなり遠方に出かけるのです。
ですから、今日は3時以降は書き込みができないのと、
残念ながら仏典などの資料が全くないところに月曜までいますので
明日以降書き込みができても、仏典の引用ができません。

それもあって、昨日の時点でいったん終わりにしようと思ってたのですが、
読んでいただける方がおられるのであれば、なるべくレスいたします。

よろしくお願いいたします。


 

  [No.21892] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 14:01:05

おちこぼれさま

こんにちは。


> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
> さらに深い階層へと話が進んで行くのかどうか微妙な段階ですが、せっかくの機会ですから更に突っ込んでほしいですね。

わたし的には、何か終わったかな、って感じになってしまいました。

おちこぼれさまも、よかったら突っこんでみてもらえると、それなりにうれしいです。

わたしも、これから予習で、忙しくなりますが、数日かけてお返事していけると思いますので。よろしく。


 

  [No.21891] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 13:55:50

ショ-シャンクさま こんにちは。
>

> つまり、仏陀が説いたことは苦と苦の消滅なのです。
> このようにはっきりと仏陀が断言しているのですから、少なくとも仏陀の最も根本的なテ-マが苦と苦の消滅であったことは明らかです。
> むしろ、このような仏典がありながら、何故、先生がそれを否定されるのかがわかりません。

ショ-シャンクさまは、けっこう短絡されますね。
わたしは、苦と苦の滅を否定しているわけではありません。

「語られない法はそれはそれとして憶持するように」とも言っているので、それも忘れてはならないだろうと言っているのです。

つまり、マ-ルンキヤプッタには、四聖諦を明示して説いているのと、説かれない法である十難無記の十の命題も、説かれなかったものとして覚えておくように、と言っているのだと思います。
>
> その言葉通りに受け取るべきかと思います。
> 『わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。』というのは、語られなかったことは、(厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないと言う理由で)語られなかったこととして受け止めなさい、と言うことだと思います。

そうです。おっしゃる通りです。そう受けとめて、そのことも憶えておきなさい、と言っています。

> つまり、厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないことをあれこれ考えずそのようなことに時間を割いてはいけません、ということでしょう。

時間を割いてはなりません、と言うのは、そうです。マ-ルンキヤは、十難無記の見解を積極的に説いてほしいと思って、なぜ説かないのかを尋ねて、心を煩わせています。それを主張として説いてほしいと願っているのですが、ブッダは説きません。

説かないものを説かないものとして憶えておくのがそんなに難しいでしょうか。
ちょっとの手間だと思いますが。


> この仏陀の言葉を、仏陀が説かれなかった教えも憶持しなさい、というのは真逆な解釈だと思います。


何で真逆なのだ、と言いたいです。ブッダに言われたとおりにするだけです。
むしろ、ショ-シャンクさまの方が、観念的で、ブッダの法に抵触しているように、見えます。

観念的に見える理由は次の通りです。
要するに、苦と苦の滅の理解に何の寄与もしないのだから、とお考えなのかもしれませんが、そこは、ちょっと違うと思います。
言われたとおりに憶えておいた人は、苦と苦の滅を、異なる観点で知ることになるのです。

なぜかと言えば、こうです。
「蛇喩経」では、ブッダに反論して誹謗中傷する人が出てきます。その人たちに対抗するためにブッダの法を学んで使います。しかし、智慧によって考察しないまま使うと、苦しみがやって来るのです。誤って蛇をつかんだからだと説かれるのです。
説かれなかった法も憶えておくことなく、智慧も使わず、ただ九分教を学んで使おうとするなら、こういう目に会うこともあります。
苦しみがやってきて、その滅を知ることができません。簡略に、しかも、アレンジして述べたので、分かりにくいかもしれません。詳細は経典を用いて智慧により解釈していただけると幸いです。「箭喩経」と「蛇喩経」が混ざったような解釈になってしまってすみません。


また、仏法に抵触するというのは次の通りです。

「筏の喩えは、わたるためであって、執っておくためではない」と教えられているのに、

> 七覚支に択法というのがあるように、不善法をどんどん捨てていかなくてはいけません。
> しかし、善法は選択され残されます。
> そして、それを筏として向こう岸に渡ったならば、それも筏として捨てるべきです。
> まさしく『渡るために説かれた法』なのです。
> 私はまだ渡っていないので、筏は絶対に必要なのです。

と言って、渡る途中で使うべき「善法」である筏の喩えという法を選択的に残そうとしていて、使おうとしていません。

この法は、「渡るためであって執っておくためではない」と言われているにもかかわらず、筏の法も使わず、執っておくだけだからです。
それに、善法でも、「法は捨てろ」と教えられています。悪法はもちろん捨てますが、善法もどんどん捨てていけ、といわれているのに、渡りきるまで執っておこう、としているのです。

十二支縁起の逆観は、捨てる教えです。法を捨てていって、悟りに到達するのです。最後に一切の苦が滅するのです。

渡るために使え、と言われたら、使うとよいのではないでしょうか。


> 『筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。』と書いてあるではないです
> か。

その通りにしているのは、わたしで、そうしていないのは、ショ-シャンクさまのように見えて仕方ありません。

渡るまで抱えていよう、渡りおえたら捨てよう、などと思っていると、いつまで経っても渡れないのではないかと心配になります。



信から能く入って智慧を能度とする、ためには、ブッダの法をよく精査してみる必要があると思っています。

ショ-シャンクさま、わたしの考えを述べました。
ありがとうございました。


 

  [No.21893] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 14:43:38

石飛先生、こんにちは。

おちこぼれさんにも書きましたが、今日はあと何十分かで遠方にでますので、簡潔に書きます。
先生が終わりと言うことであればそれでも結構です。
昨日の時点で終わりにしようと思っていましたから。


『蛇喩経』で語られる『筏に喩えられる法』とは、仏陀が説いてきた優れた善い諸法のことです。
そのような諸法、善法であっても、筏なのだから、向こう岸に着いたら、頭に乗せたり肩に担ぐかせずに捨てるべきだ、ということです。

七覚支のうち、択法⇒精進(四正勤)は、不善法を捨断し善法を残し増大させることです。

激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。

善法は筏なのです。
先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。

そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。


これで、今日は書き込みできません。

後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。


 

  [No.21895] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/18(Fri) 17:14:02

ショ-シャンクさま おちこぼれさま こんにちは。

お忙しいですね。

> 先生が終わりと言うことであればそれでも結構です。
> 昨日の時点で終わりにしようと思っていましたから。

あ、そうですか。わたしは、どちらでもかまいません。
煮詰まってきたかな、と思いましたので。

> 『蛇喩経』で語られる『筏に喩えられる法』とは、仏陀が説いてきた優れた善い諸法のことです。
> そのような諸法、善法であっても、筏なのだから、向こう岸に着いたら、頭に乗せたり肩に担ぐかせずに捨てるべきだ、ということです。
>
> 七覚支のうち、択法⇒精進(四正勤)は、不善法を捨断し善法を残し増大させることです。

四正勤など、「蛇喩経」には特にあがっていませんが、まあ、それでもよいでしょう。
すでに起こっている悪は捨断し、未来の悪は生じないようにする、生じていない善は起こるように努力するなどなど。筏の喩えの法を用いますと、これらであっても「渡るためのものなのであって執っておくためのものではない」と知らねばならない、ということです。

受持したら、四正勤を捨てるべきだということでしょう。(受持する前には捨てられません。)

なぜでしょうか。

頭のいいショ-シャンクさまならもうおわかりでしょう。執っておいて抱えてはいけないからです。すぐれた善い法なら執っておいて、渡った後で捨てればいいだろう、というその気持が、「蛇喩経」の後半に書かれる、「おまえたちのものではないものを捨てなさい」に抵触し、そうして抱えることによって不利益や苦しみをもたらすことになるからなのです。

苦と苦の滅のみを説くブッダによって、筏の喩えが説かれました。深謀遠慮のブッダの法は、すみずみまで考えられているのです。

もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。
>
> 激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。

向こう岸に渡る筏は、どうすれば強く破れないのでしょうか。
ブッダの言うとおり、どんどん捨てることによって軽く強い筏になるのではないでしょうか。苦しみにいかないのは、捨てることによるのです。
>
> 善法は筏なのです。
> 先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。

法は、いくつもあるのですよ。四正勤だけしか説かなかったわけではありません。適切につかんで得たら、それを捨てる。。つまり、法に対する執着が生まれる前に捨てるのです。執着とその滅も縁起によって得られます。

それに、また必要になったら、あらためて受持すればいいではありませんか。

> そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
> 筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。

筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。

まあ、渡ってしまえば、どうでもいいんだけどね。

それに「蛇喩経」の全体の文脈を善く読んでいただきたいです。
どういうものが法となっていて、何を捨てるのか、法とは何なのか。詳しくみていくと、実際にどうすれば善いかわかってくると思います。ブッダの言いたいことを、しっかりつかんで智慧をもってあたらねばなりません。

ブッダの文脈をはずして、勝手に読むなら、春間さまのことを文句言えないことになるのでは?


> そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
> しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。

渡ってみましょう。とりあえず。

> 後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。

落ちこぼれさま、待ってますわ。


 

  [No.21898] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/19(Sat) 08:54:38

石飛先生、おはようございます。


> すでに起こっている悪は捨断し、未来の悪は生じないようにする、生じていない善は起こるように努力するなどなど。筏の喩えの法を用いますと、これらであっても「渡るためのものなのであって執っておくためのものではない」と知らねばならない、ということです。
> 受持したら、四正勤を捨てるべきだということでしょう。(受持する前には捨てられません。)


そうですか。
四正勤とは精進のことです。
精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。



> なぜでしょうか。
> 執っておいて抱えてはいけないからです。すぐれた善い法なら執っておいて、渡った後で捨てればいいだろう、というその気持が、「蛇喩経」の後半に書かれる、「おまえたちのものではないものを捨てなさい」に抵触し、そうして抱えることによって不利益や苦しみをもたらすことになるからなのです。

どのような教えに対しても、欲貪を起こしてはいけない、と言うことだと思います。
これは、世界での宗教戦争の数々を見ればその通りで、筏の喩えは仏陀の凄さだと感じています。



> もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。


ここがおかしいと思います。
仏陀が言ったのは、向こう岸に着いたら、つまり陸地に上がったら、それでも筏を頭に乗せたり肩に担いだりするだろうか、と言うことです。
筏は激流を渡るためのものです。
いままさに、私を含めた人間は、激流の中にいるのです。
筏がないと溺れてしまうのです。苦の集積に向かって激流に押し流されていくのです。
このありさまを本当に見たときに、筏がいかに必要なものかがわかります。
本当に激流のなんたるか、激流の怖ろしさを見たことがない人、気づいたことがない人には、仏陀が言った激流の本当の意味さえわからないのです。

筏を抱えることができるのは陸地に上がってからです。激流の中で流されているものが、筏を抱えることなど出来ません。激流にいる者にとっては、筏は命綱なので、壊れないようにしていかなくてはいけないのです。

『筏を抱えて渡ってみてください』という言葉が出るのは、ひょっとすると,私が考えている激流や筏の意味と、先生が考えている激流や筏の意味が全く違うのかもと言う気がしています。



> > 激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。
>
> 向こう岸に渡る筏は、どうすれば強く破れないのでしょうか。
> ブッダの言うとおり、どんどん捨てることによって軽く強い筏になるのではないでしょうか。苦しみにいかないのは、捨てることによるのです。


筏とは仏陀が説いた理法のことです。
筏を破れないように強くするのは、理法を常に念じることです。理法を心に留めて繰り返し繰り返し観じることです。
念=sati の本来の意味は、記憶、憶念です。
仏陀の理法を記憶し、つまり心に留めておき、忘れずに繰り返し繰り返し念じること、これこそが念=sati です。

今は、satiというと、『気づき』と解釈して、自分の感覚をラベリングしていく技法がsatiだとなっているようですが。



> > 善法は筏なのです。
> > 先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
>
> 法は、いくつもあるのですよ。四正勤だけしか説かなかったわけではありません。適切につかんで得たら、それを捨てる。。つまり、法に対する執着が生まれる前に捨てるのです。執着とその滅も縁起によって得られます。
>
> それに、また必要になったら、あらためて受持すればいいではありませんか。
>
> > そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
> > 筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。
>
> 筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。
>
> まあ、渡ってしまえば、どうでもいいんだけどね。


仏陀の理法を知るまでは、人間の心には、不善の法が100%なのです。
肉体を持ち、感官を持ち、その感官が絶えず感受し、感受に好き嫌いが生じ、楽受は執着に、苦受は嫌悪になり、その感受の記憶を繰り返すことによって強固な観念が次々と生まれます。
また、親や教師、仲間や世間、マスコミによって様々な考えがふき込まれます。
そのすべてはmohaです。
そのmohaはさらにragaやdosaを生み続けます。

このように不善の法や煩悩は生み出され続けており、増殖に増殖を重ねています。

このような人間の有り様をまざまざと見たときに、仏陀の理法を筏とし、島とし、洲としないと、その激流に押し流されていくのがはっきりとわかります。

仏陀の凄いところは、そのような仏陀の理法でさえ、『向こう岸に渡ったら』捨てなさい、と言ったことです。

しかし、はっきりと『向こう岸に渡ったら』と言っています。
向こう岸に渡ってもない、激流に押し流されているときに、筏を捨てろ、などとは仏陀は一言も言っていないのです。

> それに「蛇喩経」の全体の文脈を善く読んでいただきたいです。
> どういうものが法となっていて、何を捨てるのか、法とは何なのか。詳しくみていくと、実際にどうすれば善いかわかってくると思います。ブッダの言いたいことを、しっかりつかんで智慧をもってあたらねばなりません。

来週の火曜日以降でないと、仏典が手元にある環境にないので、火曜日にもう一度精査してみます。
しかし、向こう岸に着く前に筏を捨てて行けとは言ってないとは思いますが。


> ブッダの文脈をはずして、勝手に読むなら、春間さまのことを文句言えないことになるのでは?

仏陀の文脈を外して勝手に読むなら、そうでしょう。
それはどなたにも言えることです。
何かの予断を持って仏陀を読むなら、必ずその文脈を外すことになります。
大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。



> > そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
> > しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。
>
> 渡ってみましょう。とりあえず。

ということは、先生は、既に自分は渡り終えたと思われているのですね。


 

  [No.21899] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/19(Sat) 10:37:11

ショ-シャンクさま おはようございます。

まだ全体を読んでいないのですが、次のフレ-ズが目に入ったので、ここだけ、とりあえずお答えします。

>
> ということは、先生は、既に自分は渡り終えたと思われているのですね。

違いますよ。
どちらかと言いますと、渡る途中に、いろいろ危難に出逢っているからだ、と申しあげると納得されるかもしれません。

「筏の喩えは、わたるためであって、執っておくためではない」

これが、わたしにとって、肝に銘じていることです。

つまり、法は、たえず、使っているか、捨てるか、どちらかでないといけない、という自覚です。

それをどう思うかは、ショ-シャンクさまのお考えですが、今の場合、諸法無我の実践にはつながります。

そういえば、諸法無我も法ですね。これも、使うか、捨てるかしなければならない、と、考えることになります。

いつもこんな感じです。


 

  [No.21902] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/19(Sat) 16:01:19

ショ-シャンクさま 続きです。

> そうですか。
> 四正勤とは精進のことです。
> 精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。


そうです。何でもです。ですが、これも、ショ-シャンクさまは何か違うことを考えておられるかもしれない気がしますので、少し説明します。

具体的に四正勤を得て、使う場合が出てきますよね。
たとえば、今までやってきた悪い行いを改めようとか思うときは、それが筏です。
さらに、悪いことをやめて何か新しいことにチャレンジしようとするとき、善いか悪いか分からないようなものであれば、もはや四正勤では判断できないなと思えば、それを捨てて、違う法に依るか何かするでしょう。

たとえば、禅をやってみたけれど、自分には合わないようだと思ってやめたとなるとき、四正勤ではちょっと判断つかないなと自分で思うなら、四正勤は使いません。


> どのような教えに対しても、欲貪を起こしてはいけない、と言うことだと思います。
> これは、世界での宗教戦争の数々を見ればその通りで、筏の喩えは仏陀の凄さだと感じています。

おっしゃる通りなのですが、その欲貪を起こさないために、筏の喩えは、また、使い道があるということを言おうとしています。>
>
> > もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。

> 筏は激流を渡るためのものです。
> いままさに、私を含めた人間は、激流の中にいるのです。
> 筏がないと溺れてしまうのです。苦の集積に向かって激流に押し流されていくのです。
> このありさまを本当に見たときに、筏がいかに必要なものかがわかります。
> 本当に激流のなんたるか、激流の怖ろしさを見たことがない人、気づいたことがない人には、仏陀が言った激流の本当の意味さえわからないのです。

「筏を抱えて」と言ったのは、失礼したかもしれません。
なぜかと言えば、たくさんの法をもってショ-シャンクさまは渡っているように見えるからです。
四正勤と七覚支と… というように、そんなにたくさんの法を一度に抱えていなくてもよいのではないか、と思ったのです。

といいますのは、一度に必要な法というのは、一つであって、たった一つであっても渡れるのじゃないかと思うからです。
たとえば、七覚支などを見ても、他にも言われている要素がたくさん入っています。
その時には、四正勤が必要かもしれないが、それを捨ててどうしようと思っていると、次に、違う五根が教えられて、五根で乗り切ったら、次に、八正道が教えられた、というように、必要なときに必要な法はやって来るようにできているし、四正勤を捨てたらもう駄目かというと、似たようなことが違うかたちで説かれている法はまだ他にたくさんあります。

激流を渡るには筏は必要ですが、輪廻の激流を渡るには、筏の喩えという法が必要だということでしょう。


> 『筏を抱えて渡ってみてください』という言葉が出るのは、ひょっとすると,私が考えている激流や筏の意味と、先生が考えている激流や筏の意味が全く違うのかもと言う気がしています。

そんな気はしますね。。
三十七菩提分法などとまとめられていますが、これらの法を憶えているだけでは、筏にはなりません。実際に使える筏とするには、一つ一つ実行してみなくてはなりません。

十牛図を使って禅を検討されたのも、筏になるかどうかを試されたのだと思います。
どうも筏になりそうもないと知って、それを捨てられたのだと思いますが、向こう岸に着くまで善法(仏法)をもっていることは、筏の喩えにかなっているのかが、問題の論点ですね。

> 筏とは仏陀が説いた理法のことです。
> 筏を破れないように強くするのは、理法を常に念じることです。理法を心に留めて繰り返し繰り返し観じることです。
> 念=sati の本来の意味は、記憶、憶念です。
> 仏陀の理法を記憶し、つまり心に留めておき、忘れずに繰り返し繰り返し念じること、これこそが念=sati です。

ショ-シャンクさまのご意見は了解しました。
理法の憶念が、筏を強くすることである、というご意見ですね。

分かったのですが、理法とは何かが分かりません。やはり「念じる」とあるのですから、具体的なものですよね。
いつも理法の何を念じているのですか。どんな理法を念じているのですか。


わたしは、そういう意味では、いつも縁起とブッダの論理を念じていますし、考えてもいます。あと、エゴの匂いに気をつけています。筏はそれかな?
だから、「捨てろ」といわれたら、捨てなきゃと思うのです。

> 仏陀の理法を知るまでは、人間の心には、不善の法が100%なのです。
> 肉体を持ち、感官を持ち、その感官が絶えず感受し、感受に好き嫌いが生じ、楽受は執着に、苦受は嫌悪になり、その感受の記憶を繰り返すことによって強固な観念が次々と生まれます。
> また、親や教師、仲間や世間、マスコミによって様々な考えがふき込まれます。
> そのすべてはmohaです。
> そのmohaはさらにragaやdosaを生み続けます。
>
> このように不善の法や煩悩は生み出され続けており、増殖に増殖を重ねています。
>
> このような人間の有り様をまざまざと見たときに、仏陀の理法を筏とし、島とし、洲としないと、その激流に押し流されていくのがはっきりとわかります。
>
> 仏陀の凄いところは、そのような仏陀の理法でさえ、『向こう岸に渡ったら』捨てなさい、と言ったことです。
>
> しかし、はっきりと『向こう岸に渡ったら』と言っています。
> 向こう岸に渡ってもない、激流に押し流されているときに、筏を捨てろ、などとは仏陀は一言も言っていないのです。

「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。

『中部』「蛇喩経」

比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。
あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。


ショ-シャンクさまは、何かわたしの述べていることをゆがめて執っているような気もしてきました。
筏の喩えというのは、ブッダの法なのです。
諸法無我の教えとつながっていくと思います。


> 来週の火曜日以降でないと、仏典が手元にある環境にないので、火曜日にもう一度精査してみます。
> しかし、向こう岸に着く前に筏を捨てて行けとは言ってないとは思いますが。

ゆっくり読んで見てください。
わたしのことばを「筏を捨てて行け」と受けとめられたのだと、理解しておきましょう。

> 大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。

大乗仏教の考え」とは何でしょうか?
何かの考えを考えていますか?


 

  [No.21904] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 01:08:09

石飛先生、こんばんは。


> > そうですか。
> > 四正勤とは精進のことです。
> > 精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。
>
>
> そうです。何でもです。ですが、これも、ショ-シャンクさまは何か違うことを考えておられるかもしれない気がしますので、少し説明します。
> 具体的に四正勤を得て、使う場合が出てきますよね。
> たとえば、今までやってきた悪い行いを改めようとか思うときは、それが筏です。
> さらに、悪いことをやめて何か新しいことにチャレンジしようとするとき、善いか悪いか分からないようなものであれば、もはや四正勤では判断できないなと思えば、それを捨てて、違う法に依るか何かするでしょう。


私は、精進=四正勤を、向こう岸に渡る前に捨てていい法だとは考えていません。
四正勤は、八正道の正精進です。
八正道は、ガンガ-の流れが必ず大洋に流れ込むように、涅槃へ行き着くのです。
涅槃に到達する前に、勝手に自分の判断で捨てたり拾ったりするようなものとは違います。

そもそも、三十七菩提分法は、三十七個のバラバラな法、バラバラにしていい法、ではありません。
精進を捨ててみて、次は喜にしようか、とか、七覚支を捨ててみて次は四神足にしようか、とかいうものではなく、大きく言えば有機的なひとつの理法とも言えます。


> たとえば、禅をやってみたけれど、自分には合わないようだと思ってやめたとなるとき、四正勤ではちょっと判断つかないなと自分で思うなら、四正勤は使いません。

私は、大乗は、仏陀の残した筏=仏陀の理法 を捨て去ってしまったと思っているので、大乗仏教が筏になることはありません。



> なぜかと言えば、たくさんの法をもってショ-シャンクさまは渡っているように見えるからです。
> 四正勤と七覚支と… というように、そんなにたくさんの法を一度に抱えていなくてもよいのではないか、と思ったのです。

そうでもないです。
七覚支が三十七菩提分法の中核でありほとんど包含していると私は見ているからです。

念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 が七覚支ですが
念は四念処、精進は四正勤、定は四神足です。


> といいますのは、一度に必要な法というのは、一つであって、たった一つであっても渡れるのじゃないかと思うからです。
> たとえば、七覚支などを見ても、他にも言われている要素がたくさん入っています。
> その時には、四正勤が必要かもしれないが、それを捨ててどうしようと思っていると、次に、違う五根が教えられて、五根で乗り切ったら、次に、八正道が教えられた、というように、必要なときに必要な法はやって来るようにできているし、四正勤を捨てたらもう駄目かというと、似たようなことが違うかたちで説かれている法はまだ他にたくさんあります。


それが先生のやり方だと言うことは理解しました。
どちらが間違っている正しいとは考えませんが、私のやり方とは違うというだけです。
私は、四諦十二縁起、四念処を順に瞑想します。
それで仏陀の理法の全体が見通せて、自我の成り立ちがわかるからです。


> 三十七菩提分法などとまとめられていますが、これらの法を憶えているだけでは、筏にはなりません。実際に使える筏とするには、一つ一つ実行してみなくてはなりません。

最も重要なのは、三十七菩提分法や四諦や十二縁起という仏陀の理法の解明、理解でしょう。
特に十二縁起は今まで解明した人がいないだろうくらい難解です。
四諦にしても、それを洞察することによって漏尽智に達するというのですから、とんでもなく深遠な理法です。
四諦は苦と苦の生起と苦の滅と苦の滅に至る道ですから、苦の全的な理解なくしては意味をなしません。
仏陀の理法そのものですから、向こう岸に至るまでに、四諦を捨てて十二縁起を拾って、また十二縁起を捨てて七覚支を拾って、というようなものではまったくありません。
四諦も十二縁起も今多くある解説のような表面的な理解では瞑想など出来ませんし、ましてそれによって苦の滅に至るなどできるはずがありません。


> 十牛図を使って禅を検討されたのも、筏になるかどうかを試されたのだと思います。
> どうも筏になりそうもないと知って、それを捨てられたのだと思いますが、向こう岸に着くまで善法(仏法)をもっていることは、筏の喩えにかなっているのかが、問題の論点ですね。

十牛図や禅の公案などは、学生の時に、興味があって見ていただけです。
筏になるとは思ってもいません。
ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。

> 分かったのですが、理法とは何かが分かりません。やはり「念じる」とあるのですから、具体的なものですよね。
> いつも理法の何を念じているのですか。どんな理法を念じているのですか。

十二縁起と四念処が主なものです。
十二縁起によって、無明により自我ができ苦の集積に向かっている有り様を洞察します。
四念処によって、身⇒受⇒心⇒法 が非我であることを洞察していきます。

>
>
> わたしは、そういう意味では、いつも縁起とブッダの論理を念じていますし、考えてもいます。あと、エゴの匂いに気をつけています。筏はそれかな?
> だから、「捨てろ」といわれたら、捨てなきゃと思うのです。

誰に捨てろと言われるのですか?
自分がそろそろこの法は捨てようと判断するのですか?



> 「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。

仏陀の理法が筏です。
先生にとっては、諸法が筏ではないのですか?


ショ-シャンクさまは、何かわたしの述べていることをゆがめて執っているような気もしてきました。
> 筏の喩えというのは、ブッダの法なのです。
> 諸法無我の教えとつながっていくと思います。

私たちが苦の集積に向かっているのは主に『私という中心がある』という思い込みからです。
この思い込みを」滅するために、四諦も十二縁起も四念処も五蘊非我もあります。
その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏として必要なのです。



> > 大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。
>
> 「大乗仏教の考え」とは何でしょうか?
> 何かの考えを考えていますか?

これに関しては長くなりそうですのでまたあらためて書きます。


 

  [No.21905] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 06:49:24

ショ-シャンクさま おはようございます。

全体的に、ショ-シャンクさまのお考えは分かりました。>
>
> 私は、精進=四正勤を、向こう岸に渡る前に捨てていい法だとは考えていません。
> 四正勤は、八正道の正精進です。
> 八正道は、ガンガ-の流れが必ず大洋に流れ込むように、涅槃へ行き着くのです。
> 涅槃に到達する前に、勝手に自分の判断で捨てたり拾ったりするようなものとは違います。

涅槃にたどり着く前には捨てたりできるような法ではない、とお考えだということを理解しました。

> そもそも、三十七菩提分法は、三十七個のバラバラな法、バラバラにしていい法、ではありません。
> 精進を捨ててみて、次は喜にしようか、とか、七覚支を捨ててみて次は四神足にしようか、とかいうものではなく、大きく言えば有機的なひとつの理法とも言えます。

有機的な理法ではもちろんありますが、使う時にはいっぺんに全部が必要というわけでもありません。次は、これにしよう、というように、自分で選べるわけでもありません。

縁起によって出てくるのです。


> 七覚支が三十七菩提分法の中核でありほとんど包含していると私は見ているからです。
>
> 念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 が七覚支ですが
> 念は四念処、精進は四正勤、定は四神足です。

まあ、そうですよね。
やってることは似たようなものかもしれませんね。
どれも必要なのだから捨てられないと、思ってするか、四念処をやっているのだから他はいらないと思うか、違いはそのあたりかもしれません。


> それが先生のやり方だと言うことは理解しました。
> どちらが間違っている正しいとは考えませんが、私のやり方とは違うというだけです。
> 私は、四諦十二縁起、四念処を順に瞑想します。
> それで仏陀の理法の全体が見通せて、自我の成り立ちがわかるからです。

四諦、十二支縁起、四念処ですか。。こういう順序なのですね。


> 最も重要なのは、三十七菩提分法や四諦や十二縁起という仏陀の理法の解明、理解でしょう。
> 特に十二縁起は今まで解明した人がいないだろうくらい難解です。
> 四諦にしても、それを洞察することによって漏尽智に達するというのですから、とんでもなく深遠な理法です。
> 四諦は苦と苦の生起と苦の滅と苦の滅に至る道ですから、苦の全的な理解なくしては意味をなしません。
> 仏陀の理法そのものですから、向こう岸に至るまでに、四諦を捨てて十二縁起を拾って、また十二縁起を捨てて七覚支を拾って、というようなものではまったくありません。
> 四諦も十二縁起も今多くある解説のような表面的な理解では瞑想など出来ませんし、ましてそれによって苦の滅に至るなどできるはずがありません。


そうお考えなら、確かにわたしと違うと思うだけです。
実際のところ、「四諦を捨てて十二支縁起を拾って…」などといわれているので、わたしのいう意味があまり伝わっていないことは分かっています。

わたしがいいたいのは、ブッダの理法は確かにあるのだけれど、四諦、八正道などと順序づけられている法は、ブッダが、その都度教えるその人に合わせて組み立てた方便としてあるのであって、それすらも「決まった法」としてあるのではない、ということです。

これは意識の違いなのであって、正しい間違っているの範疇ではありません。
そういう考え方もできる、というお話しです。

そう考えると、どういう点がいいのかと言いますと、漏尽智への道が分かりやすくなるということです。

> ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
> それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
> 自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
> そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。

心の底からわかるのは何ですか。自分の心の状態ですか?


> 十二縁起と四念処が主なものです。
> 十二縁起によって、無明により自我ができ苦の集積に向かっている有り様を洞察します。
> 四念処によって、身⇒受⇒心⇒法 が非我であることを洞察していきます。


了解しました。四念処の最後にある「法」を非我と思うことは、実際、なかなか難しそうだなとは思いますが。

> 誰に捨てろと言われるのですか?
> 自分がそろそろこの法は捨てようと判断するのですか?

いや、ブッダが言っていたじゃないですか?
ブッダの声を聞いた時ですよ。
自分が判断するのではありません。「自分が」ということはありません。

非我なのではありませんか?
問答無用、待ったなしにやってきます。おそらく、チャンスはその一瞬でしょう。
「捨てろ」と聞いて捨てられずにいると、また、いつもの日常に戻ります。
ただ、教えを読んでいる自分がいるだけです。

> > 「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。
>
> 仏陀の理法が筏です。
> 先生にとっては、諸法が筏ではないのですか?

「諸法を捨てろ」と言うのが、ブッダの直接のことばであって、
「諸法が筏なのだ」と考えるかどうかは、わたしの判断ということになります。

「河を渡った後で筏を担いで歩くな」とは言われています。それは、ブッダのことばです、私にとって。
これは、「法に執着をもつな」ということを喩えたのだな、とわたしは受けとめています。

その後、「筏の喩えは法として説かれたのだよ」と、ブッダに念押しされているのです。
「わたしのいうことがわかったのなら、諸法は捨てなさい、いわんや非法は言うまでもない」と、聞いたので、筏の喩えという法を受け取って、ブッダの言うことが了解できたから、実行したのです。
諸法を捨てよと言っているな、まして非法なら、率先して捨てねばならない、と。


しかし、ブッダの法は、捨てろというものだったので、ブッダの法は聞いてその直後ならむりやりでも捨てられるけど、実は、非法の方が捨てがたい、ということに気づくのです。

非法は、捨てねばならないとはっきりわかっているものです。
わたしにもわかるし、ショ-シャンクさまにもわかるものです。しかし、捨てようとして捨てられるかといえば、そんなに簡単なものではありません。

ショ-シャンクさまも、一生懸命ブッダの理法を念想して理解し、それを守って向こう岸に渡ろうとしています。しかし、それを実践していても、なかなか渡れません。
むしろ、非法の方こそ捨てにくいものだ、と実感するでしょう。

「これが捨てられたら、ブッダの法も簡単に捨てるさ、彼岸なんだから」と思っているかもしれません。

ここで、「非法なのになぜ、自分は捨てられないのか」と検討していくことになります。
ブッダの法だけ学んで渡ろうと思ったが、自分の中にすでに非法が巣くっているのだ、と気づくと、「ええい、非法も勉強しなくちゃだめじゃないか」となってくるのです。

これは、わたしのやり方ですが、こうして、法ももちろん勉強しますが、非法ですらおろそかにはできないと知るのです。それは、自己を知ることにつながります。

こうして、その結果、「語られた教えも語られたこととして憶えておき、語られなかったことも語られなかったこととして憶えておきなさい」と言われたら、そのとおりにしようという自分がいるわけなのです。

「蛇喩経」も同じように考えています。筏によって喩えられたのは、本当にブッダの法だったのでしょうか。
筏は、その人が、木や草や枝をあつめて、自分が作ったものです。
自分が作ったその筏を使って、また、自分の手足を使って苦労して渡った後、いつまでも惜しんでいるのはよくない、と言っているのではありませんか。

ショ-シャンクさまは、ブッダの法(=木や草)で筏を作ったのでしょう。
それだから、渡るまでは捨てられない、と思うわけです。


> 私たちが苦の集積に向かっているのは主に『私という中心がある』という思い込みからです。
> この思い込みを」滅するために、四諦も十二縁起も四念処も五蘊非我もあります。
> その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏として必要なのです。

正確には、「筏として」ではなく「筏の素材として」ですよね。

「その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏の素材として必要なのです」というのが正確なのかもしれません。
これでよいとして、

その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏の素材として必要なのです

という文をしみじみ眺めますと、『私という中心がある』という思い込みは、非法であり、その非法さえなくせば、すぐにでも法は捨てられる、ということもわかります。

渡っていると思っている暴流は、自分自身の中にある。
つまり、自分が抱え込んでいる非法を捨てるには、手にして「後生大事だ、この法をわたしは捨てるわけにはいかない」、と思っている、『わたしという中心がある』という思い込みを捨てることなんだ、と知ると、法と非法は、ほぼ同時に捨てられることになるでしょう。
法を捨てると、一緒に非法も捨てられる、ということになるのでは。

この理屈がわかるかわからないかは、ショ-シャンクさま次第なのですが、わたしは、こう理解したので、まあ、ブッダの言うことは何でも聞いておきましょう、となったのです。


 

  [No.21908] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 07:39:20

石飛先生、おはようございます。

> 全体的に、ショ-シャンクさまのお考えは分かりました。

私も先生のお考えがある程度わかりましたし、どこがどうして私の考えと違うのかもある程度わかりました。
どちらが正しい間違っていると言うことでなく、捉え方の問題でしょう。
あるいは、筏を仏陀の理法のみで出来たゴムボ-トのように思っているか、そこら中の木や草で作ったもので激流に流されながらも途中でその素材を替えていくことが出来ると考えているのか、の違いかも知れません。
先生のお考えも参考にさせていただきます。



> > ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
> > それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
> > 自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
> > そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。
>
> 心の底からわかるのは何ですか。自分の心の状態ですか?

例えば、それまでどうしてもわからなかった音楽、例えば、マ-ラ-の第九交響曲が心の底からわかって感激するとか、禅の公案でどうしてもわからなかった『牛過窓櫺』の公案が、あるときその意味の全体がわかったとか、『百丈野狐』の公案で、なぜ黄檗は師匠の百丈を殴ったのか、百丈は弟子の黄檗に殴られてなぜ手をたたいて笑ったのか、そのからくりがはっきりと頭に浮かんできたりします。
それはそのことを考えていたわけでもなく、意識の広がったときに自然と理解できたりする体験が複数あるのでそう書きました。


 

  [No.21909] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:05:51

ショ-シャンクさま

ほぼ、了解したように思いますが、ここが一点ひっかかります。

> あるいは、筏を仏陀の理法のみで出来たゴムボ-トのように思っているか、そこら中の木や草で作ったもので激流に流されながらも途中でその素材を替えていくことが出来ると考えているのか、の違いかも知れません。

「木や草で作ったもので素材を途中で変える」というところです。
木や草には、ブッダの法も入っています。それをつないだ筏は、一応、筏なのです。

その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。

それに、その河は大河ではありますが、それを渡ったら涅槃かどうかは、言われてはいません。

一つの難処は渡りおえたが、まだまだ難処は続くぞ、となっている可能性はあります。
一つの階梯での到達点(サマ-ディ)である可能性はあるな、と思っています。

そうなると、ゴムボ-トは、もって歩くことになる?

何だか、悩ましいことになってきますね。


ブッダの法というのは、どうしても考えなければならないようにできていることだけは確かです。


百丈野孤の公案、そう言えば、なつかしいです。昔、この掲示板で教わりました。

ありがとうございます。


 

  [No.21912] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:37:48

石飛先生

> 「木や草で作ったもので素材を途中で変える」というところです。
> 木や草には、ブッダの法も入っています。それをつないだ筏は、一応、筏なのです。
>
> その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。

それはまさしくそう思います。
私は、激流を渡っているときに素材を替えているいとまはないと思っています。
ただ、先生が『筏ではなく筏の素材』とか『筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。』とか書かれていたので、筏の素材を次々捨てては替えていくことを想定されていると思いました。
私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。


 

  [No.21918] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/20(Sun) 19:16:09

ショ-シャンクさま こんばんは。

> > その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。
>
> それはまさしくそう思います。
> 私は、激流を渡っているときに素材を替えているいとまはないと思っています。
> ただ、先生が『筏ではなく筏の素材』とか『筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。』とか書かれていたので、筏の素材を次々捨てては替えていくことを想定されていると思いました。

ほんとに余計なことを書いたばかりに、墓穴を掘りましたね。
すみません。混乱させてしまいました。
何でしょうか、冒険もののアクションシ-ンにありそうだなと思って、つい、書いてしまいました。

まあ、でも、イメ-ジとしては悪くない感じはあります。「捨てる」ということが大事になってくるやはりやはり予期せぬ何かは起こるかもしれないという気がするからです。

> 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。

向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。


 

  [No.21922] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/21(Mon) 05:02:37

ショ-シャンクさま おはようございます。

> > 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。
>
> 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。


このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。


「法」ということばも、多義です。
ショ-シャンクさまは、ブッダの教えという意味で用いられているようですが、
わたしは、その「教え」という意味だけではなく、ただ、ブッダが語った「ことば」という意味も含めて用いています。
自分にとって有効なことばは、みな法です。

それなので、確かに浮き橋のときもあれば、筏のときもあり、中洲のあるときもありで、いろいろあるだろうと思っています。
あらゆることを想定しつつ、いろいろ模索しているのです。

逆に、そうなると、ショ-シャンクさまにとっては、「筏の喩え」は法ではなくて、ただ喩えということだったのかもしれないと思ってきています。


 

  [No.21924] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/21(Mon) 10:41:03

石飛先生、おはようございます。

> > 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
> このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。


それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。
向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。
何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。



> 「法」ということばも、多義です。
ショ-シャンクさまは、ブッダの教えという意味で用いられているようですが、
> わたしは、その「教え」という意味だけではなく、ただ、ブッダが語った「ことば」という意味も含めて用いています。
> 自分にとって有効なことばは、みな法です。

私も、仏陀が語った言葉は、みな仏陀の教えだと思っていますよ。
私が『仏陀の理法』と言う場合は、仏陀の教えの中でも、仏陀自身がダンマパダや大般涅槃経などで常に受持するように語った理法、具体的には、四諦や四念処や七覚支のようなことを指します。


> それなので、確かに浮き橋のときもあれば、筏のときもあり、中洲のあるときもありで、いろいろあるだろうと思っています。
> あらゆることを想定しつつ、いろいろ模索しているのです。
> 逆に、そうなると、ショ-シャンクさまにとっては、「筏の喩え」は法ではなくて、ただ喩えということだったのかもしれないと思ってきています。


筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
向こう岸に渡っていないときのことではありません。

私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
そう考えると、先生がここまで向こう岸に渡る前に諸法を捨てるということにこだわっておられる理由がはっきりします。
つまり、仏陀の言葉の数々をとらわれることなく取捨選択していき、向こう岸に着こうということなのではないですか?
そして、ついたときには既にそれらの言葉の数々は『寂滅』しており、『寂滅』していなければ、向こう岸に着いたとは言えない、と思っておられるような気がしています。


 

  [No.21930] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/22(Tue) 07:00:06


ショ-シャンクさま おはようございます。
>
> > > 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
>
> それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
> ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。

なるほど、そこを心配されているのですね。
初期仏教の考え方に近いのかな。

> これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。
> 向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。
> 何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
> それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。

そうですか。。ゴ-ディカ尊者ですよね。
かれは心解脱で覚った人ですよね。
心解脱の場合、それはそうかもしれませんね。
身体と心はくっついてますから、ヴィパッサナ-で行くとそうなるのかもしれません。
だから、慧解脱というのもあります。
禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。

> 私も、仏陀が語った言葉は、みな仏陀の教えだと思っていますよ。
> 私が『仏陀の理法』と言う場合は、仏陀の教えの中でも、仏陀自身がダンマパダや大般涅槃経などで常に受持するように語った理法、具体的には、四諦や四念処や七覚支のようなことを指します。

「理法」と「法」の使いわけで区別しているのですね。
わたしは、いつも、なんとなくおもしろいなあと思っているのですが、こういう、ブッダのことばは、そもそも整理されて語られているのもあれば、未整理のまま弟子に与えられるのもあります。
それでも、ちゃんと数で数えて憶えやすくまとめやすくして、たちまち弟子たちが整頓していくさまは、本当に興味深いです。
ブッダ自身が数えてまとめたものは、四聖諦、四念処、七覚支のように、たちまち整理され、記憶されていきます。便利なアイテムといった感じですよね。

でも、この便利アイテムも、智慧を用いて自分で検討しながら実践しないと身につかない、という側面があって、なかなか難しいものです。
この辺を、わたしはいつも注意しています。つまり、暗記のことばだけにならないように、と。

> 筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
> そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
> 向こう岸に渡っていないときのことではありません。

正直にいいますと、実は、わたしも、ずっとそう思って来ました。
それと関連して、「諸々の法を捨てよ、いわんや非法においておや」と受けとって来たのです。ここは、『楞伽経』にもあったことばです。
実際、今回「蛇喩経」の中に、この筏の喩えがあることを知って、また、「蛇の喩え」の直後におかれているのを知って、よく読む機会をえました。どちらの喩えもよく知っていると思っていたのですが、両方合わせて読んでみると、また違った印象をもったのです。

> 私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
> たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。

それは、まったく違っています。おっしゃるようなところには、龍樹は全然関係ありません。
「蛇喩経」の全体から得たものです。
よく読むと、ずれがあると思いませんか。

【筏の喩え】の意味
『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
また、
「諸々の法を捨てよ、非法においておや」

こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。

非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
といいたくなりますが、そうは書いていないのです。


「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
というのが、実は!わたしの思いです。
つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。


さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。


だから、

むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。


> そう考えると、先生がここまで向こう岸に渡る前に諸法を捨てるということにこだわっておられる理由がはっきりします。

着く前だと思っているのは、ショ-シャンクさまです。
わたしは、そうは思っていません。
身体が、たとえ残っていても、不退転でありたいと願っているだけです。
というか、身体のことは念頭にありませんでした。確実に窓の外を通り過ぎることだけを考えていた、というべきか。。


> つまり、仏陀の言葉の数々をとらわれることなく取捨選択していき、向こう岸に着こうということなのではないですか?
> そして、ついたときには既にそれらの言葉の数々は『寂滅』しており、『寂滅』していなければ、向こう岸に着いたとは言えない、と思っておられるような気がしています。

「寂滅」の意味が、おそらくショ-シャンクさまとは違います。
どんなにしゃべっていても、「寂滅」していると考えられるとき、それはあたっています。沈黙ではないのです。

ショ-シャンクさまの関心に近いことばでいえば、「無我」「非我」に到達したかどうか、ということが決め手になるのです。


何かスッキリしましたので、ここに尽きるのかな、と思っています。


 

  [No.21931] Re:まとめ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/22(Tue) 07:15:34

管理人エム 様 の 投稿が済んだので 上げます



06:50 未投稿 21924にたいして

・ Re:まとめ - 管理人エム 06/21-05:02 No.21922
・ Re:まとめ - ショ-シャンク 06/21-10:41 No.21924


> >> 私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。

> >> 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
> > このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。

> それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。

あなたが、 “ 渡った ” と 仮定するときの “ おはなし ” であり
渡って、見なければ、分からない( 仮定に過ぎない) “おはなし” です

( ここは、 分かりにくいところですが )

渡らずにいる そこのところ で 考えていては 、
向こう岸の存在 さえ ワカリマセン( ワタリマセン )

「 渡る 」 ということは 「 成就する 」 ということです
「 滅尽する 」 という意味 でもあります
“ 思っている ” ところの、 “ その思い ” が 滅している
という意味です

> ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。

“ 肉体があり感覚がある限り ” という “ 肉体 = 「 色 」 ” を
渡り終え、 五蘊 は 消滅し、
即今の生 = ただ一つの生 に 生きる ということです

> これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。

“ 本当に観た ” ・ “ 本当 に 実感した ”
「 本当 」 ということは、 向こう岸に起きていること
「 観た 」 ということは、 向こう岸のことで、
激流中 には 「 見る 」 ということ “しか” 起きない
「 実感した」 ということは、 こちら側、 激流中に起きていること

「 本当 」 は どこにでもあるが、
“ 本当に知ること ” と “ 思いつくこと ” とは 別のことです

「 瞑想 」 という ( 修行の中においてのみ ) 本当 が 存在できる
そのようなこと を 坐れば 「 仏 」 と 言います

> 向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。

激流 を 渡り終えた ( 過程 を 渡った ) 「 処 」 に起きる 話 であり
激流 は どこかに 行ってしまっている( 見失われている )

> 何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
> それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。

悟った人 が 自殺しますか ?

空海 は “ 定 ” に入っている ( 自殺 ですか ? )
( メツジョウ して ジョウ・常 に ある = 「 恒常 」 にある )
「 経 」 を “ 何度も ” 読み返す時、 分かる 時もある 、、、、
まことに、 “ 度 ” とは “ 難 ” に ある


あなたの肉体 は 消滅していますか ?
( どのようにして、
激流中 で 激流を冷静に “ 観 ” 察 していますか ? )


筏 に 乗る前 の ハナシ に なっている
( 乗らなきゃ 「 大乗 」 は わからないこと )



 

  [No.21933] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/22(Tue) 11:04:06

> 管理人エム 様 の 投稿が済んだので 上げます


春間さん、もし、石飛先生と私のやり取りに加わりたいのであれば、石飛先生の書かれた次のことに関して、春間さんの考えをはっきりと書いてみてください。
上から目線で自分は向こう岸に渡ったことのアピ-ルしか書かれてない文章は不要です。
いま、中部経典『蛇喩経』についてのやり取りですから、次の石飛先生の文章に関して春間さんの考えをはっきり示してください。もしそれができないのであれば、この討論の流れを無視して自分は向こう岸に到達している自慢だけの文章は要りません。内容がないので。
私は、今朝は朝から税理士が来ているので、午後にでも書き込みます。
このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。


【石飛先生の文章】
【筏の喩え】の意味
『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
また、
「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
といいたくなりますが、そうは書いていないのです。
「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
というのが、実は!わたしの思いです。
つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
だから、
むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。
【以上】


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P57 ②

  [No.21934] Re:まとめ 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/22(Tue) 11:35:13


あなたと、 やり取りしたい わけではない
あなたとは、 やりとりが成立しないから

しかし、 あなたが、 やりとりに参加するのは 構いません


この意味を、 知ろうとはしないから やり取りにはならない

( あなたには、 意味は 、 自分の 読み取る通り に
決まっている 故に 変えることを 考慮に入れない )

( そのようなことはない と 意味を変えない )
決まっている


わたしは、 簡単に、 前提を変える

> このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。

管理人エム 様 の 受け止め方 は “ 管理人エム 様 らしい ”

> 『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
> また、
> 「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
> こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
> 向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
> 非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
> といいたくなりますが、そうは書いていないのです。
> 「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
> というのが、実は!わたしの思いです。
> つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
> 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
> さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
> あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
> だから、
> むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。


そのような 読み方( 受け止め方 ) も 、
相手に分からせようとする 一つの選択 ( 対する相手による )


どうやら、 対話は 成り立たないようです 、、、、


しかし、 読者( “ これ ” を 読む人 ) の中には、
これを 理解する人 もいる
> ここまでのお話(アウトライン)に関して、私は100%ショ-シャンクさんに賛同できます。
“ これ ” を 理解しない人 もいる

“ これ ” って、 当該投稿にかかること だけ ではない

“ これが一貫 ” という こと ( 恒常にはいないということ )


 

  [No.21936] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/22(Tue) 16:30:33

> あなたと、 やり取りしたい わけではない
> あなたとは、 やりとりが成立しないから


春間さんとやりとりが成立した人は今までいましたか?
春間さんと誰かがやり取りしているところを、私は見たことがないのですが。
やりとりが成立している過去ログを教えていただければ幸いです。


> しかし、 あなたが、 やりとりに参加するのは 構いません

春間さんはここを春間さん主催の掲示板だと思い込んでいるのですね。




> > このやり取りに加わるのであれば、下の石飛先生の文章に関して春間さんの考えを聞かせてください。
>
> 管理人エム 様 の 受け止め方 は “ 管理人エム 様 らしい ”


これだけですか?
具体的なことは全くなしですか。。


 

  [No.21935] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/22(Tue) 16:14:52

石飛先生、こんにちは。

> > それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
> > ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> なるほど、そこを心配されているのですね。
> 初期仏教の考え方に近いのかな。

心配しているわけではありません。
感覚⇒記憶⇒感覚⇒思考⇒連想 と言う流れを見ると感覚を持つ限り、激流に巻き込まれる可能性はいつもあるという事実を言っています。


> そうですか。。ゴ-ディカ尊者ですよね。
> かれは心解脱で覚った人ですよね。
> 心解脱の場合、それはそうかもしれませんね。
> 身体と心はくっついてますから、ヴィパッサナ-で行くとそうなるのかもしれません。
> だから、慧解脱というのもあります。
> 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。


禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。


> 「理法」と「法」の使いわけで区別しているのですね。
> わたしは、いつも、なんとなくおもしろいなあと思っているのですが、こういう、ブッダのことばは、そもそも整理されて語られているのもあれば、未整理のまま弟子に与えられるのもあります。
> それでも、ちゃんと数で数えて憶えやすくまとめやすくして、たちまち弟子たちが整頓していくさまは、本当に興味深いです。
> ブッダ自身が数えてまとめたものは、四聖諦、四念処、七覚支のように、たちまち整理され、記憶されていきます。便利なアイテムといった感じですよね。
> でも、この便利アイテムも、智慧を用いて自分で検討しながら実践しないと身につかない、という側面があって、なかなか難しいものです。
> この辺を、わたしはいつも注意しています。つまり、暗記のことばだけにならないように、と。

これはその通りです。
仏教は決められたフレ-ズが多く、wikiでその言葉を調べただけでわかった気になる人がいかに多いか。そういう人はヤフ-掲示板の東哲板には非常に多かったです。
wikiや解説書でなく仏典を直接読んでいけば、たとえば、七覚支にしても、仏陀が繰り返し繰り返し説いていた重要な法をまとめていったことがわかります。
とすると、一語一語の背景や奥深さがわかってきます。
また、その一語一語の正確な意味がわかってきます。
wikiでわかった気になるのは大変危険です。全く違う意味であることが非常に多いからです。

>
> > 筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
> > そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
> > 向こう岸に渡っていないときのことではありません。
>
> 正直にいいますと、実は、わたしも、ずっとそう思って来ました。
> それと関連して、「諸々の法を捨てよ、いわんや非法においておや」と受けとって来たのです。ここは、『楞伽経』にもあったことばです。
> 実際、今回「蛇喩経」の中に、この筏の喩えがあることを知って、また、「蛇の喩え」の直後におかれているのを知って、よく読む機会をえました。どちらの喩えもよく知っていると思っていたのですが、両方合わせて読んでみると、また違った印象をもったのです。

読み返してみて、アリッタ比丘がどのような間違いをしたのかも鍵になると思いました。

> > 私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
> > たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
>
> それは、まったく違っています。おっしゃるようなところには、龍樹は全然関係ありません。

そうですか。失礼いたしました。

> 「蛇喩経」の全体から得たものです。
> よく読むと、ずれがあると思いませんか。
> 【筏の喩え】の意味
> 『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
> また、
> 「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
> こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
> 向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
> 非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
> といいたくなりますが、そうは書いていないのです。


もう一度、読み返してみました。
蛇の喩えも筏の喩えも『渡るためであって、捉えるためではない』ことを言うための喩えであることは確かのようです。
法を学ぶ目的の重要性を説いています。
真摯に涅槃を求め、向こう岸に達するために学ぶ者たちは、法の意味を慧によって考察する。
しかし、愚かな者は、経典を、他者を非難するために学ぶ、とあります。

蛇の喩えも筏の喩えもこのことを第一に言いたくて説いたようです。
『渡るため』というのは、真摯に涅槃を求め、解脱に到達するために、ということです。
『捉えるため』というのは、経典の教えを自慢のため優越感のため、上から目線で他者を否定するために、誤って把握する、という意味です。
そのために、蛇を胴体か尾のところで捕まえることになる、と言います。
この喩えも巧みで、慧によって蛇の首を捕まえる者と誤って胴体や尾のところを捕まえる者とを対比してます。
経典を学んでも、慧のある者は、その本質、その要点、その核心を見抜きます。まさしく蛇の首を捕まえます。
しかし、他者を非難し否定し優越感に浸るために経典を把握する者は、どうでもいい言葉の端々を捕まえて鬼の首を取ったように非難します。蛇の尾をつかむということです。

アリッタ比丘は、『在家の奴は、五種妙楽を受けながら預流者にも一来果にも不還果にもなっている。それなら女性を見ても触ってもいいはずだ。それらのことは障害にならずいいはずだ。』というようなことを自分で結論づけ、仲間たちにもそう説いて回っていたようです。
明らかに非法、悪法です。
その非法を自信満々で、仲間たちに上から目線で優越感に浸りながら説いていたのでしょう。
『力により執着によって固持し、主張した』とあります。

これが、この2つの喩えの背景です。

この2つの喩えを説いた後に、仏陀はこう言います。

『このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。』

それから五蘊非我が説かれます。

つまり、最終的には、仏陀の諸法も五蘊非我として捨てていくものだということですね。

アリッタ比丘のように悪法を捉え捕まえ執着し自我としてはいけないことはもちろんだけれども
仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。



> 「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
> というのが、実は!わたしの思いです。
> つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
> 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。

これはどうでしょう。
慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
それほど激流の力はすごく、万力に喩えられる力です。
ゴ-ディカがアリッタのように非法にとらわれたとは思えませんが。


> さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
> あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
> だから、
> むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。

『牛過窓櫺』は禅の公案のなかでも最も難しい公案の一つです。
この『牛の尻尾』の正体やいかに・・・と言ったところです。
長くなりそうなのでいったん切ります。


 

  [No.21939] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/23(Wed) 05:28:30

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 感覚⇒記憶⇒感覚⇒思考⇒連想 と言う流れを見ると感覚を持つ限り、激流に巻き込まれる可能性はいつもあるという事実を言っています。

ふうむ、そうですか。。ちょっと、どうでしょうね。

事実でしょうか。
感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。
わたしには、やっぱり「心配」に見えるんですが。

たとえば、ヨ-ガ学派に、制感(プラティヤ-ハ-ラ)という段階があって、感覚器官を制御することを教えます。また、それよりもずっと前になりますが、ブッダも、亀が甲羅に四肢を引っ込め危険を避けるように、そのように感覚器官を引っ込めて制御しなさいと教えます。
感覚器官を制御する前には、呼吸を意識してそちらに集中するというのも、有効な方法です。


> > だから、慧解脱というのもあります。
> > 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。


> 禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
> 黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
> 慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。


う-む、このあたりも、わたしとはちょっと違う考えのようですが、この辺は、わたしもはっきりしないので、そのままお聞きしておきます。


> これはその通りです。
> 仏教は決められたフレ-ズが多く、wikiでその言葉を調べただけでわかった気になる人がいかに多いか。そういう人はヤフ-掲示板の東哲板には非常に多かったです。

ああ、ときどきそんな方もいます。話が続かなくなってしまいます。

> wikiや解説書でなく仏典を直接読んでいけば、たとえば、七覚支にしても、仏陀が繰り返し繰り返し説いていた重要な法をまとめていったことがわかります。

仏弟子たちにとくに強調して説いたものは、何度も仏典に出てきますし、まとめ方も同じようになっていますね。
おもしろいのは、仏弟子たちだけではなく、他のさまざまな人々に説いたものでも、仏弟子たちに説いたものと、有機的につながっていて、少しも乱れがないことです。

わたしは、ブッダの一切智を実感しますね。どんな法であれ、必ずブッダの体系の枠内のあるべき位置にピタッとおさまっているのを見ると、ほんと驚愕します。
はっきり言って人智を超えていますが、人智から出ていることも確かです。


> > 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。
>
> これはどうでしょう。
> 慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。

慧解脱については、また、別にショ-シャンクさまのお考えをお聞きすることにします。


> ゴ-ディカがアリッタのように非法にとらわれたとは思えませんが。

ショ-シャンクさまは、「五蘊非我として捨てていきなさい」と先ほどお書きでした。以下のようです。

> 仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。

しかし、これは、まだ諸法(仏法)を捨てるということではないです。ただ、五蘊非我を説くだけです。まあ、でも、これも「わたしのものではないものを捨てなさい」ということだとしますと、実質的には、やがて法を捨てることに繋がっていくかとは、思います。

この辺の微妙な差異に触れているのではないかと思います。

ゴ-ディカ比丘は、アリッタ比丘のようには非法にとらわれたのではないかもしれません。
五蘊非我も達成できたのかもしれません。その点では、アリッタ比丘とは比べものにならないというべきでしょう。

ですが、「五蘊非我を達成した」と思っているなら、まだとらわれています。
「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」は、ここで効いてきますね。

五蘊非我を達成した」という知見は、この五蘊非我という法は、わたしのものだという思いが残っているということになるでしょう。
ブッダの法である五蘊非我をわたしのものとした(=達成した)、という思いです。

完全に法を達成したときには、法を達成したという思いもなく、ただ比丘であれば、「解脱した。二度とこの状態に戻ることはない」と知るだけです。
つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。

完全に覚った後は、法にこだわることはなくなるわけですが、こだわらないこともなくなるのです。
『スッタニパ-タ』には、このような聖者の境地を、こんな表現で表しています。

811. (第六経第8偈)
聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
812. (第六経第9偈)
蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。


こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。

激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。

慧解脱でいくと、おそらくは、この辺のカラクリに智慧で気づけるのだと思います。智慧とは、縁起だけではなく、縁起をアレンジした推論なども使えることをさします。


 

  [No.21940] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 06:40:07

石飛先生、おはようございます。


> 感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。

ずいぶん、簡単ですね。
人間が激流に巻き込まれるのは、五蘊を非我と見ることができないからです。
もちろん、瞑想の時に、五蘊非我を観ずるのはそれほど難しいことではありません。
しかし、日常生活ではそうではありません。
この感覚の中心、思考の中心、記憶の束を『私』と認識しないと、社会生活などできないからです。
自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
そしてそれを中心に利益を守ることもしなければいけません。
他社と自社の利益が相反すれば、自社優先に行動し、結果他社に損害を与えることもあるでしょう。

五蘊非我は観念では簡単ですが、社会生活を踏まえると、困難を極めます。
ですから社会生活をすべて放棄した出家を仏陀はしたし勧めてもいるのでしょう。
しかし、社会生活をしなくても、五官があり感覚があって、肉体として生活していかなくてはいけませんから
必ず『私』と『私以外』との認識が必要となります。
出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。

肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
だから、有余涅槃と無余涅槃で、完全なのは無余涅槃ということでしょう。


> たとえば、ヨ-ガ学派に、制感(プラティヤ-ハ-ラ)という段階があって、感覚器官を制御することを教えます。また、それよりもずっと前になりますが、ブッダも、亀が甲羅に四肢を引っ込め危険を避けるように、そのように感覚器官を引っ込めて制御しなさいと教えます。
> 感覚器官を制御する前には、呼吸を意識してそちらに集中するというのも、有効な方法です。

もちろん、ゴ-ディカは感官制御は当然していたと思います。


> ゴ-ディカ比丘は、アリッタ比丘のようには非法にとらわれたのではないかもしれません。
> 五蘊非我も達成できたのかもしれません。その点では、アリッタ比丘とは比べものにならないというべきでしょう。
>
> ですが、「五蘊非我を達成した」と思っているなら、まだとらわれています。
> 「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」は、ここで効いてきますね。
>
> 「五蘊非我を達成した」という知見は、この五蘊非我という法は、わたしのものだという思いが残っているということになるでしょう。
> ブッダの法である五蘊非我をわたしのものとした(=達成した)、という思いです。
>
> 完全に法を達成したときには、法を達成したという思いもなく、ただ比丘であれば、「解脱した。二度とこの状態に戻ることはない」と知るだけです。
> つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。
>
> 完全に覚った後は、法にこだわることはなくなるわけですが、こだわらないこともなくなるのです。
> 『スッタニパ-タ』には、このような聖者の境地を、こんな表現で表しています。
>
> 811. (第六経第8偈)
> 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
> 812. (第六経第9偈)
> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。


確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。

『牛過窓櫺』の牛の尻尾が通り過ぎないのは駄目なんだ、捉われずに通り過ぎればいいんだ、と考えるようなものです。

しかしながら、ことはそう単純ではありません。
ゴ-ディカの最後を仏陀は認めているからです。
仏陀は悪魔の言うことを退け、ゴ-ディカが涅槃に至ったことを称賛しています。

ゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、とするのであれば、涅槃に至ったということはあり得ないことになります。

『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
過ぎ去ってはいけないのです。


 

  [No.21941] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/23(Wed) 08:56:46

ショ-シャンクさま

> > 感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。
>
> ずいぶん、簡単ですね。

至るのはやっかいですが、書いてしまえば、おっしゃるように一言ですね。

> 人間が激流に巻き込まれるのは、五蘊を非我と見ることができないからです。
> もちろん、瞑想の時に、五蘊非我を観ずるのはそれほど難しいことではありません。
> しかし、日常生活ではそうではありません。

日常生活でも、「非我」、いや、正確には「無我」を実践することもできますよ。

> この感覚の中心、思考の中心、記憶の束を『私』と認識しないと、社会生活などできないからです。

もちろんです。
「この仕事は誰がやるんだ」と上司にいわれて「わたしがやります」と答えるなら、「わたし」はありそうですが。。

> 自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
> 瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。

ちょっと待ってくださいね。こんな風に考えてみたらどうでしょうか。

行いには三つあります。身行・口行・心行です。
「わたしがやります」とか
「○○さん」と呼ばれて「はい」と返事をするのは、口の行いです。ことばの使い方です。

心の中の思いは心行ですが、日常生活では、心行が口行に伴うこともあれば、口行だけのこともあります。心にもないお世辞などは、心の行いはないが口の行いはある、という例かもしれません。
しかし、破綻なく社会生活がおくれているのは、いつもいつも「わたし」を意識しているとばかりは言えないからではないでしょうか。
仕事をしている時、大半「わたし」は消えていて、仕事のことばかり考えていたりします。
ときどき『わたしという中心』が意識されるかもしれませんが、しょっちゅうではありません。叱責されたときくらいでしょうか。

こういう状態を観察するなら、「言語に気をつけよう」、「心に思うことに気をつけよう」としていくだけで、感覚や感情にもて遊ばれなくなります。

> そしてそれを中心に利益を守ることもしなければいけません。
> 他社と自社の利益が相反すれば、自社優先に行動し、結果他社に損害を与えることもあるでしょう。

会社の社長さんとか、仏教を勉強して、取り入れている人が多くいますね。
自社の利益と相手の損害とを考慮しつつ、ともにある程度共存できるように調整したりするかもしれません。また、自社の利益のみ追求したりもするかもしれません。それは、会社の方針などいろいろな事情によるかもしれないです。


> しかし、社会生活をしなくても、五官があり感覚があって、肉体として生活していかなくてはいけませんから
> 必ず『私』と『私以外』との認識が必要となります。

それはもちろんです。そういう場合は、社会全体を考えたり、他者とともに生きる自分を考えたりします。そして、「自分が愛しいなら他者を害してはいけない(他人にされて嫌なことは自分はしない)」という、ブッダの教えの原則に従って行為することになるでしょう。こうすれば、一番苦しみが少ない行為になります。

自他というのは、「わたし」ではなく、相対的な関係ととして、「他」とともに意識される、そのような「自分」という意味になってきます。「エゴ」「わたし」という自我意識とは少し違う関係のように思います。

> 出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
> どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。

いや、違います。自分のものだから食べるのではありません。
(他により)与えられたものだから、食べてもよいのです。与えられないものを(自分のものとして)取ってはならない、というのが、不偸盗の戒ですが、これは、「自分のもの」を保護する教えととらない方がよいと思います。

むしろ、「自分のもの」として抱え込まない行為により、他者と共栄共存できるのではないかと思います。自社の利益ばかり追求すると、他の人々の支持を失っていくでしょう。
>
> 肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。

そうなってくると、たえず五蘊非我を考えていなければならないかもしれませんね。
色蘊は非我である、と意識しつづける必要があるのかもしれないですが、わたしは、大半「色蘊」の存在を忘れているので、いつも考えるべきだという必然性を感じません。

むしろ、多くの場合、非我であり、無我でありつつ、呼ばれたら口行として返事をするということをしています。注意しなければならないのは、どういうときでしょうか。
強く「われ」「わがもの」が意識される場面です。
「おまえの責任だ」とか「おまえがやれ」とか言われる状況で、自分の責任ではないと思ったり、自分はやりたくないと思ったりする場面です。
強い苦しみを感じ、「なんでわたしが…」と愚痴りたくもなってきます。

現実生活は、実際、こんな感じではないでしょうか。

こういうことであれば、これはこれで気をつけることにより、感覚を制御していくことが可能になります。一つのコツは、他者との相対的な関係を考えて生きることです。


> 確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。

え? いや、わたしは、そうは言っていません。
>
> 『牛過窓櫺』の牛の尻尾が通り過ぎないのは駄目なんだ、捉われずに通り過ぎればいいんだ、と考えるようなものです。
>
> しかしながら、ことはそう単純ではありません。
> ゴ-ディカの最後を仏陀は認めているからです。
> 仏陀は悪魔の言うことを退け、ゴ-ディカが涅槃に至ったことを称賛しています。
>
> ゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、とするのであれば、涅槃に至ったということはあり得ないことになります。

「退転して自殺した」というのは、よくわからないですね。
退転したら自殺しないでしょう。

わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。


> 『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
> 過ぎ去ってはいけないのです。

ああ、そうなんですか。
な~る!

> 811. (第六経第8偈)
> 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。

この詩の前半が効いてきますね。中道として生きなければならない、ということでしょう。
そこが難しかったので、入滅したのですね。

「愛することもなく愛さないこともない」ように、「わたしがあるのでもなくないのでもない」ように生きる、というのが、ゴ-ディカ比丘には難しかった、ということではないかと思います。

これ、難しい公案なんですね。確かに、ここを実践的に生きるのは智慧がいるな、と思います。
菩薩っぽいですね。
ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ったかも。。


 

  [No.21943] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 10:36:05

石飛先生、ありがとうございます。


> > 自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
> > 瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
>
> ちょっと待ってくださいね。こんな風に考えてみたらどうでしょうか。
>
> 行いには三つあります。身行・口行・心行です。
> 「わたしがやります」とか
> 「○○さん」と呼ばれて「はい」と返事をするのは、口の行いです。ことばの使い方です。
> 心の中の思いは心行ですが、日常生活では、心行が口行に伴うこともあれば、口行だけのこともあります。心にもないお世辞などは、心の行いはないが口の行いはある、という例かもしれません。


ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
私はあり得ないと思っているのです。
心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。
もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。



> しかし、破綻なく社会生活がおくれているのは、いつもいつも「わたし」を意識しているとばかりは言えないからではないでしょうか。
> 仕事をしている時、大半「わたし」は消えていて、仕事のことばかり考えていたりします。
> ときどき『わたしという中心』が意識されるかもしれませんが、しょっちゅうではありません。叱責されたときくらいでしょうか。
> こういう状態を観察するなら、「言語に気をつけよう」、「心に思うことに気をつけよう」としていくだけで、感覚や感情にもて遊ばれなくなります。


確かにそれはそうですね。
その通りだと思います。


> > 出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
> > どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。
>
> いや、違います。自分のものだから食べるのではありません。
> (他により)与えられたものだから、食べてもよいのです。与えられないものを(自分のものとして)取ってはならない、というのが、不偸盗の戒ですが、これは、「自分のもの」を保護する教えととらない方がよいと思います。

そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。
ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。



> むしろ、「自分のもの」として抱え込まない行為により、他者と共栄共存できるのではないかと思います。自社の利益ばかり追求すると、他の人々の支持を失っていくでしょう。

現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。


> > 肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> そうなってくると、たえず五蘊非我を考えていなければならないかもしれませんね。
> 色蘊は非我である、と意識しつづける必要があるのかもしれないですが、わたしは、大半「色蘊」の存在を忘れているので、いつも考えるべきだという必然性を感じません。
>
> むしろ、多くの場合、非我であり、無我でありつつ、呼ばれたら口行として返事をするということをしています。注意しなければならないのは、どういうときでしょうか。
> 強く「われ」「わがもの」が意識される場面です。
> 「おまえの責任だ」とか「おまえがやれ」とか言われる状況で、自分の責任ではないと思ったり、自分はやりたくないと思ったりする場面です。
> 強い苦しみを感じ、「なんでわたしが…」と愚痴りたくもなってきます。
> 現実生活は、実際、こんな感じではないでしょうか。
> こういうことであれば、これはこれで気をつけることにより、感覚を制御していくことが可能になります。一つのコツは、他者との相対的な関係を考えて生きることです。

これは確かにそうですね。
こころします。

> > 確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。
>
> え? いや、わたしは、そうは言っていません。


そうでしたね。
先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。


> わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。

もちろん、そうですね。



> > 『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
> > 過ぎ去ってはいけないのです。
>
> ああ、そうなんですか。
> な~る!
>
> > 811. (第六経第8偈)
> > 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> > 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
>
> この詩の前半が効いてきますね。中道として生きなければならない、ということでしょう。
> そこが難しかったので、入滅したのですね。
>
> 「愛することもなく愛さないこともない」ように、「わたしがあるのでもなくないのでもない」ように生きる、というのが、ゴ-ディカ比丘には難しかった、ということではないかと思います。
> これ、難しい公案なんですね。確かに、ここを実践的に生きるのは智慧がいるな、と思います。
> 菩薩っぽいですね。
> ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ったかも。。


先生、さすがですね。
『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。

『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』


 

  [No.21946] Re: さすが の 立場 を さがす 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 11:09:32


> > 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』
>
> 落ちていないかな ? ( 拾っては いけない )



わかってないようですね。

過ぎ去るのは実はすごいことなのです。
回り来たるのはすごくないですが。

『落ちていないかな ? 』って何がですか?

『( 拾っては いけない )』
これで、わかってないことがはっきりします。


 

  [No.21948] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/23(Wed) 14:39:48

ショ-シャンクさま なかなかツッコミどころが厳しいですね(笑)

たしかにそうだなと思うところがいくつかあります。

> ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
> 私はあり得ないと思っているのです。
> 心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。

確かに、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という気持をもって、ことばを発することはありますね。
その意図があるから、意図通りに「わたしは、そう思ってないけど、相手が喜ぶからこう言ってみる」として語るとすれば、その意図が透けて見えるとき「かれは心にもないお世辞を述べた」と言われるのですよね。
さらに、この場合、単純に相手を喜ばせたいと望む場合、もっと腹黒い意図をもっていて騙そうとする場合、違いがあります。もしかすると、お世辞ではすまなくなってうそをついたと見なされるかもしれません。

また、自分の意図を隠していても相手に見透かされている場合もあります。

> もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
> 日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。

ですね。
しかし、何かを語る場合、自分としては板挟みのようになって、どちらにも荷担せずただ機械のようにまた空念仏のように事実のみ語る場合もでてくるかもしれません。すごくいろいろな語り方が可能になります。


> そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。

確かに出家したことがないので、わたしも何とも言えませんが、「わたしのもの」とは考えないようにと教えられるのではないかと思います。

何だったか、昔、釈尊が菩薩の頃、辟支仏が一人出て、清らかなかれが托鉢をしていると、ある家の人がたくさんの食べものをお布施したら、菩薩の釈尊が嫉妬して、相手の辟支仏のお鉢を見せてくれとと頼んで、辟支仏が見せると、それを地面にぶちまけたというお話しがあります。
そうすると辟支仏は、あなたが望むならこの食べものをあげようと思っていたのに、と言って去っていきました。その自分の行為によって、菩薩の釈尊は地獄で長いこと苦しんだとありました。お釈迦さんもいろいろあるんですね。

托鉢は、厳しい修行の一貫です。

> ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
> 逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。

ああ、アンバパ-リ-とリッチャヴィの若者たちが争ってましたね。在家の人々だから、仕方ないところもあるのかもしれませんね。

> 現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
> サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
> パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
> 逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
> どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。

まあ、厳しい商売の世界ではおおかたはそうかもしれませんが、長く続く商道徳のしっかりした商人は、違う考え方をもっている人もいます。顧客にも商人同士も、利益になるように、として、信用を大切にする人もいるかと思います。薄利多売より、商品の質を大事にする場合もあるかもしれません。

何にしても生き残っていくのはたいへんです。
>
>
> そうでしたね。
> 先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。
>
>
> > わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> > 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。
>
> もちろん、そうですね。

ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ってしまって、まあ、残念です。
本人は涅槃に入るとしても、せっかくの阿羅漢がもったいなかった、という感じがします。
多くの人々の利益となりえたのに。

> 先生、さすがですね。
> 『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。

そうなんですかね。
空の効いた仏法のようですね。

> 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』

やはり、ここは、般若波羅蜜で行かないと難しいのかもしれませんねぇ。


 

  [No.21956] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/26(Sat) 15:29:18

石飛先生、こんにちは。

> > > だから、慧解脱というのもあります。
> > > 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。
>
>
> > 禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
> > 黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
> > 慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。
>
> う-む、このあたりも、わたしとはちょっと違う考えのようですが、この辺は、わたしもはっきりしないので、そのままお聞きしておきます。

> > 慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
>
> 慧解脱については、また、別にショ-シャンクさまのお考えをお聞きすることにします。

> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
>
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。
>
> 慧解脱でいくと、おそらくは、この辺のカラクリに智慧で気づけるのだと思います。智慧とは、縁起だけではなく、縁起をアレンジした推論なども使えることをさします。




終わりにしようと思っていましたが、
先生が私と考えが違うと言われた、心解脱や慧解脱について簡単に私の考えを書いて終わりにします。

心解脱と慧解脱の両方の解脱を成し遂げたのが、倶分解脱です。
『無色の解脱に身をもって触れて住みます。しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』と言われます。

慧解脱は、『無色の解脱に身をもって触れずに住みます。しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』とあります。つまり、禅定による解脱の体験はなく、慧をもって煩悩が尽くされています。
煩悩が尽くされる慧は漏尽智です。
漏尽智は、四諦の法を洞察することで煩悩が滅尽することに至る智慧です。


心解脱は、禅定によって解脱することです。想受滅まで至る禅定です。


慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。
ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。
禅定至上主義です。
ですから、禅は心解脱だと思っています。

ゴ-ディカは心解脱まで行っても6回も退転しました。

慧解脱でも退転があるかどうかはわかりません。
しかし、禅定力がない以上、肉体や五官を持っている限り退転もあり得ると思っています。

さすがに、倶分解脱であれば退転はないかもしれませんが。このあたりは想像にしか過ぎません。


 

  [No.21958] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/27(Sun) 09:14:45

ショ-シャンクさま おはようございます。


> 先生が私と考えが違うと言われた、心解脱や慧解脱について簡単に私の考えを書いて終わりにします。

そうですね、わたしも、出るべきものは出てしまったかなという感じがしました。

> 心解脱と慧解脱の両方の解脱を成し遂げたのが、倶分解脱です。
> 『無色の解脱に身をもって触れて住みます。しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』と言われます。

なるほど、そうですね。
>
> 慧解脱は、『無色の解脱に身をもって触れずに住みます。しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』とあります。つまり、禅定による解脱の体験はなく、慧をもって煩悩が尽くされています。
> 煩悩が尽くされる慧は漏尽智です。
> 漏尽智は、四諦の法を洞察することで煩悩が滅尽することに至る智慧です。

ここも、おっしゃるとおりで、よいと思います。

> 心解脱は、禅定によって解脱することです。想受滅まで至る禅定です。

> 慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。
> ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。

実際、やってることを見ますと、そう見えるかもしれませんが、わたしは、そうでもないと思っています。
禅は確かに四諦の瞑想は行っていないようですが(わかっていってるわけではなく、そう見えるというだけですが)、しかし、無我や非我は瞑想の対象になっていると考えられますので、実質的には、苦のない境地を得ると思います。

道元のものを読みますと、四聖諦や諸行無常など、ちゃんと会得しています。

> 禅定至上主義です。
> ですから、禅は心解脱だと思っています。

禅定至上主義であっても、智慧の部分をずいぶんもっていますよね。
十牛図」の第八図以降は智慧を用いないとでてこないのではないかという気がします。

無色の解脱に触れるのが、心解脱ですよね。その後、想受滅を体験して覚りに至ります。
これは、黙照禅や公案禅の禅定とたぶん重なっているのではないかとにらんでいます。

禅は、禅定を修行の根本におきますが、行いとしては口行の部分も多くもちます。
話す話し方が重要になってくることを、知っているため、禅は欠かせないのだと思います。
>
> 慧解脱でも退転があるかどうかはわかりません。
> しかし、禅定力がない以上、肉体や五官を持っている限り退転もあり得ると思っています。

どうでしょうね。肉体や五官は、智慧を求めるものにとっては、それほどのものではないようにも思います。

智慧を得るというのは、信じられない程の力があります。しかし、その智慧にも個人差や段階があるかもしれません。菩薩などでも、退転する菩薩、不退転の菩薩がいますから、智慧の程度によるかもしれません。

本願他力にすがる衆生は、信だけしかないようですが、この「信」によって、やすやすと智慧に行きます。惑うことがないからではないでしょうか。

こう考えると、五根五力のどの項目一つによっても、覚りにいけそうですね。


わたしは、ブッダの頃の禅定と、大乗になって禅宗などで行われる禅定とが、根本において、そう大きくちがっているとは思いません。
自分では、行えるわけではないですが、智慧によって調べていると、そんな気がしてきます。

わたしも、自分で気付いた点をお話ししてみました。


 

  [No.21901] Re:まとめ 投稿者:おちこぼれ  投稿日:2021/06/19(Sat) 15:30:10

ショ-シャンクさん、管理人エムさん。

>> 後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。
>
>落ちこぼれさま、待ってますわ。


私はネットでの対話は苦手なんですよね。ハンドルネ-ム<おちこぼれ>からも分る通り何をやっても周りから取り残されちゃっていますのでw
ショ-シャンクさんのように素早くネット上で会話の返しもできなくて、ひどい時は2,3日考えに考えてもまとめられず、あきらめて返信を放棄する場合もありますから。

それと、大筋でショ-シャンクさんの発言に共感するってことは、申し訳ないが管理人エムさんの発言には共感しずらいことが多いってことです。
だから過去の対話でも平行線になる場合が多くありました。しかし、これは割り切るしかありません、最終的には自分が納得できるか否かってところに帰着しますからね。
納得できなければ平行線で終わるだけです。でも、それでもいいと思います。対話ではいろいろ調べながら発言しますので副産物としていろんな発見があります。
平行線であっても収穫がある場合が多いんです。だから意見が違っていても対話する価値はあると考えています。

エムさんとは初期仏教と部派仏教そして大乗仏教の捉え方が根本的に異なっているんだから、そこはある程度認識して対話するしかないからね。
それでも、おかしい所(納得できないこと)はおかしいと発言してもいいですよね? だっておかしいんだからw

たとえば、ショ-シャンクさんとの対話の中でも出てきていますが、「中道」に関することです。
過去ログの中でも度々出てきますら、たぶんエムさんにとっては中核に位置している重要事柄なのでしょう。

★ [No.21812]
> 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
>
> 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。
> たとえば、ショ-シャンクさまのような、努力する人にとって、これは、もっとも苦しみがすくないやり方なのです。

龍樹の説く「中論」を読み解いて真理表15(FFFT)を「龍樹の説く中道」とするのならまだ理解できます。
しかし、これをブッダ釈尊が説いた「中道」と同一視するのは疑問ですね。私は違うと考えています。
その理由は★ [No.21880]の中で記述された(『中部』第26経「聖求経」)にもヒントがあると思いますが、どうでしょうか。

「龍樹の説く中道」を追求していけば、最終的には大乗仏教が説く無分別智に辿り着くことが出来るでしょう。
しかし、ブッダ釈尊が説く漏尽智を得ることは難しいと考えています。漏尽智を得る道(釈尊の説く中道)こそが解脱への道だと考えています。

はっきり言って書きたくなかったが、書いてしまいました。


 

  [No.21903] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/19(Sat) 16:26:24

おちこぼれさま こんばんは。

> 私はネットでの対話は苦手なんですよね。ハンドルネ-ム<おちこぼれ>からも分る通り何をやっても周りから取り残されちゃっていますのでw
ショ-シャンクさんのように素早くネット上で会話の返しもできなくて、ひどい時は2,3日考えに考えてもまとめられず、あきらめて返信を放棄する場合もありますから。

対話は苦手とおっしゃるのに、むりやり誘ったようですみません。


>
> それと、大筋でショ-シャンクさんの発言に共感するってことは、申し訳ないが管理人エムさんの発言には共感しずらいことが多いってことです。

それは、全然かまいません。
共感しずらい人は、山のようにいると思います。
だいたい書き込んでくれる人は反対の意見をもっている人が多いです。

> だから過去の対話でも平行線になる場合が多くありました。しかし、これは割り切るしかありません、最終的には自分が納得できるか否かってところに帰着しますからね。
> 納得できなければ平行線で終わるだけです。でも、それでもいいと思います。対話ではいろいろ調べながら発言しますので副産物としていろんな発見があります。
> 平行線であっても収穫がある場合が多いんです。だから意見が違っていても対話する価値はあると考えています。

わたしもそうです。だから、対話しています。共感しやすいです、今のところ(笑)

> エムさんとは初期仏教と部派仏教そして大乗仏教の捉え方が根本的に異なっているんだから、そこはある程度認識して対話するしかないからね。
> それでも、おかしい所(納得できないこと)はおかしいと発言してもいいですよね? だっておかしいんだからw

もちw です。

>
> ★ [No.21812]
> > 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> > 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> > 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
> >
> > 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。
> > たとえば、ショ-シャンクさまのような、努力する人にとって、これは、もっとも苦しみがすくないやり方なのです。
>
> 龍樹の説く「中論」を読み解いて真理表15(FFFT)を「龍樹の説く中道」とするのならまだ理解できます。
> しかし、これをブッダ釈尊が説いた「中道」と同一視するのは疑問ですね。私は違うと考えています。
> その理由は★ [No.21880]の中で記述された(『中部』第26経「聖求経」)にもヒントがあると思いますが、どうでしょうか。



ブッダの中道」はどんなものですか。「聖求経」は以下のようなものですね。

実にわたしによって得られたこの法は、深淵で、見がたく、理解しがたく、寂静であり、卓越していて、思考の領域にはなく、微妙であって、賢者によってのみ知ることのできるものである。
しかるに、人々は愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している。愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に喜悦している人々には、「これに縁ること」であり、縁って起こるものである、このような道理は見がたいし、また、一切の形成力(行)の止息であり、一切の再生へのよりどころを捨てるものであり、渇愛の滅尽であり、離欲であり、止滅であり、涅槃である、このような道理も見がたい。(『中部』第26経「聖求経」)




> 「龍樹の説く中道」を追求していけば、最終的には大乗仏教が説く無分別智に辿り着くことが出来るでしょう。



なるほど、直接得られそうなのは無分別智かもしれませんね。



> しかし、ブッダ釈尊が説く漏尽智を得ることは難しいと考えています。漏尽智を得る道(釈尊の説く中道)こそが解脱への道だと考えています。

その中道は、十二支縁起ですか?

> はっきり言って書きたくなかったが、書いてしまいました。

あらあ、すみませんねぇ。むりやり書かせてしまって、ごめんなさいね。

なんとなく、了解する部分もありそうな感じがしてきました。
釈尊の説く中道は、苦楽二辺の中道、有無二辺の中道のあたりでしょうか。

苦楽二辺だと「苦でも楽でもない」という中道があり、有無二辺だと、「生滅」を説くか、寂滅するかですよね。

生滅が、釈尊の中道で、寂滅は、龍樹の中道、って感じに見てるのかな? 合ってます?


 

  [No.21884] 言葉の端々の切り取りでなく、本質を 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 08:32:00

> > あまりにも観念的です。
> > 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。
>
> 意識して、 現成している “ 現実 ” を
> Dukkha ・ 仮にあるモノ と観る ( 行ったり来たり )
>
> 向こう岸にない から 今ここで 意識する
>
> 18願 寂滅に入らない
>
> たとい我 仏を得んに
>
> 十方の衆生 至心に信楽 して
> 我が国に生れんと欲し( 願生浄土 )
> 乃至十念せん 若し生れずば
>
> 正覚を取らじ
>
> ・



春間さん、これに関しても、そうです。
私は『筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、あまりにも観念的です。』
と書いたのですが『あまりにも観念的です。』だけ切り取られています。

そもそも、この投稿の主旨は仏陀が言った『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』という言葉です。
これがテ-マです。
投稿の本旨は無視して、端々の言葉を切り取ってあれこれ言うのではなく
もし本当に真摯に話し合いたいのであれば、正面からちゃんと相手の目を見て、本旨を外さずに堂々と受け答えすべきですね。


筏のことを言及したいようなので言っておきますと
例えば、浄土教の熱心な信者に対し、初めから『阿弥陀仏も筏ですよ。筏は捨てなければならないことを強く意識しておくべきです』と言いますか?
彼岸に達するまでは、その筏を命綱とするでしょう。


 

  [No.21888] Re: 言葉の端々の切り取りでなく、本質を 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 10:14:24

> そのように読む 観念的な読み方 が 自分の 観念 に 起きている

それは春間さんもそうです。人に言う前にまずは自分を見つめるべきです。特に春間さんは自分を棚に上げて人にあれこれ言うことばかりですから。

> しかし、 自分の事 は 棚に上げる

これ、まさしく、春間さんです。


> > そもそも、この投稿の主旨は仏陀が言った『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』という言葉です。
> > これがテ-マです。
>
> あなたが言っていることは 仏陀 の 言っていることと同じですか ?

意味のない質問です。
私は、中部経典『蛇喩経』の中の仏陀の言葉を引用しているのです。


> ( で あれ ば 、
> 今ある 「 苦 」 とは あなたにとって 何ですか ? )

まずは、春間さんがどう思っているのか、自分自身の考えをはっきり示してください。いつも春間さんは、自分お考えを言おうとしないので。私の考えはすでに数多く述べてきました。


> > 例えば、浄土教の熱心な信者に対し、初めから『阿弥陀仏も筏ですよ。筏は捨てなければならないことを強く意識しておくべきです』と言いますか?
>
> もし、 その人に、 本当に 熱望する心があるのであれば
> 言います

それでは、今までの人生で、実社会で、浄土教の人に『阿弥陀仏も筏だから捨てることを強く意識していないといけない』と言ったのですね。
本当に言いましたか?その反応はどうでしたか。


 

  [No.21843] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 19:38:34

スマナサ-ラのこの解釈はおかしいと思いませんか?

『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』

kha が空、からっぽ、という意味であれば、「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
空、からっぽの否定、となるはずです。

からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。

dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。


 

  [No.21845] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 20:44:54

> スマナサ-ラのこの解釈はおかしいと思いませんか?
>
> 『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』
>
> kha が空、からっぽ、という意味であれば、「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
> 空、からっぽの否定、となるはずです。
>
> からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
>
> dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。

みなさまこんにちは。

【du そんなに大事なものでない(価値のない)→kha 空っぽのもの】
という意味ではないでしょうか?

私が昔いただいた施本では、

『同様に、Dukkhaという語の「du」は「価値がない、賤しい、評価するに値しない」という前置詞です。
「kha」は「からっぽ」という意味です。
「du」という前置詞は「からっぽ」の意味を強調します。
評価にも値しないほど空っぽである、という意味のDukkhaです。
ですから「一切は苦である」ということは「一切のものは無意味で価値がなく、気にするものではない」という意味になるのです。』
(『なぜ苦は偉大なる真理なのか』A・スマナサ-ラ長老、日本テ-ラワ-ダ仏教協会施本、p34より引用)

となっていました。
ショ-シャンクさんが引用されたものから、文章を訂正されたのかもしれませんね??
似た文章の載った施本を持っていたので、投稿させていただきました。

失礼します m(_ _)m


 

  [No.21847] もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 21:32:04

pipitさん、こんばんは。

すみません。
またまたスマナサ-ラの悪口を言って、pipitさんに嫌な思いをさせてしまいました。

でも、施本の紹介ありがとうございます。

私の引用した文章は、
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-157/
からです。

『du』が強調の前置詞であれば、『評価に値しないほどの空っぽ』というようなものになりますね。


ところで、本当に、dukkhaが、duとkha からできていて『評価に値しないほどの空っぽ』という意味であれば、
piyehi dukkha 怨憎会苦 のdukkhaはどうなるのでしょう。

憎んでいる人と会うことは、空しいとか空っぽというようなものではないはずです。
苦しみそのものだと思います。

このように、四苦八苦のdukkhaが八苦ごとに違った意味を持たせられるのであれば、非常に不完全で不適切な言葉を仏陀は使ったことになります。
それはあり得ないので、dukkhaは苦以外の何物でもないと、私は思っています。


 

  [No.21848] Re: もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 21:41:09

ショ-シャンクさん、返信ありがとうございます(^人^)

私個人の今の感覚で言えば、

痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。

厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
と、ぼんやりと 思います。


 

  [No.21849] Re: もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 22:00:06

pipitさん、ありがとうございます。

> 私個人の今の感覚で言えば、
> 痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。
> 厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
> と、ぼんやりと 思います。

おっしゃる通りだと思います。
痛み、苦しみ、でないと、厭離に赴くことにはなりません。
無価値などと言う生ぬるい感覚ではないと思っています。

それでは、なぜ、そのように苦しみ、痛み、なのに、それに気づかない人が多いのか、です。

それは生まれたときから縛られた状態だからです。

海の上のピアニスト』という映画がありました。
船の上で生まれ、ずっと船で生活してきた人の話です。
彼にとっては、その船が全世界だったのです。
陸に上がって生活するように言われた彼は拒否します。
ちょうど人間はそのようなものなんだと思います。
生まれたときから縛られているために、それが苦痛と感じないのです。

しかし、いったん、束縛が解かれ、自由に広大な世界を走り回ることができそれが本当だと気づいたときには
再び鎖で縛られたときには、物凄い苦痛を感じるはずです。激痛です。
それは空っぽとか空しいとかではないのです。
苦しみ以外の何物でもないはずです。


 

  [No.21852] Re: もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 22:54:58

ショ-シャンクさんへ

返信ありがとうございます♪(^-^)

ショ-シャンクさんと議論する、とかではなく、頭に浮かんだことを書きます。

さっき、三相、という ことば が、浮かんでいました。

無常、苦、無我

どの相に心が触れる?か?は、個性あるのかも?
というようなことを思いました。

?ばっかりですみません。失礼しました m(_ _)m (^-^)


 

  [No.21851] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 22:37:11


> 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> と知ることは
> Dukkha です


四苦で、
『老』に価値があると思っている人はいません。
『病』に価値があると思っている人はいません。
『死』に価値があると思っている人はいません。


価値があると思っていることから貪が起きます。
価値があると思って貪を起こすのがdukkha=苦です。
価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。
それはdukkhaとは正反対のことです。


 

  [No.21865] Re: 混乱( 「 顛倒 」 ) は 「 苦 」 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/17(Thu) 09:00:40

>
> > > > 価値があると思っていることから貪が起きます。
> > > > 価値があると思って貪を起こすのがdukkha=苦です。
> > > > 価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。
> > > 自己の打ち立てた ( → それは、 自己中 では “ 正しい姿 ” )
> > > その姿 は 自己 が 量って 「 苦 」 ではない とされる
>
> > だから、なに?
> > こうして、誓願が生まれ、菩薩が出てくるのでは?
>
> あなたが見る “ 姿 ” は 、 “ あなたが見たいと望む姿 ”
> そのようにして 見たいという 欲望 が 起きる
> ( 欲望に沿って、 欲望が起こされる )
>

もう、そういうことではなくて、もう少し違うところに目をつけてほしいのです。


「価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。」


ショ-シャンクさまが述べている上のことばに意味があると言いたいのです。

「価値がある」と思っているものに「価値がない」と知ること

「ある」と思っているのに「ない」と知る、

ここが大事なことだと述べているのです。


ここにブッダの安らぎを求めるのです。それが、仏教だと。


 

  [No.21867] Re: 混乱( 「 顛倒 」 ) は 「 苦 」 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/17(Thu) 09:41:45


> もう、そういうことではなくて、もう少し違うところに目をつけてほしいのです。

わたしの言うこと には 価値はない ( 不利益 を 生む )

> 「価値があると思っているものに価値がないと知ることは貪を離れることであり智慧です。」

智慧です 」 と、 智慧ある者 は 智慧を表出する

ショ-シャンクさまが述べている上のことばに意味があると言いたいのです。

あなたは、 そこに、 智慧を見出す ( 智慧を望む 故に )

> 「価値がある」と思っているものに「価値がない」と知ること
> 「ある」と思っているのに「ない」と知る、
> ここが大事なことだと述べているのです。

ここ には わたしが はいれない ( 入れられること が 無い )

わたし は 大事を壊失 している ( 故 )
故知 般若波羅蜜
般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提

般若波羅蜜多 には 「 多 」 があるが それは tA である

あなたの生き様 以外にも 「 他 」 は 起きる

> ここにブッダの安らぎを求めるのです。それが、仏教だと。

“ それも 「 仏教 」 ” であるのであれば、
唯一 という 「 真理 」 は 成り立たない
( 唯一には 唯一の側面 )

そのようなこと に 「 自性 」 という語 が 当てはめられる


自称 智慧ある者 に



 

  [No.21873] 春間さん、自らの変革の時では? 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 11:57:33

> 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> と知ることは
> Dukkha です
> スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています


もし、スマナサ-ラを擁護したいのであれば、スマナサ-ラが言ったことを理解してからにしないと、それこそ『評価に値しないほどの空っぽ』な投稿になって、誰からも返信されないですよ。
スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。

私は、スマナサ-ラが言っていることもわからないではないのです。スマナサ-ラは理解の上で根拠をもって書かれていますので、それはそれで尊敬します。

しかし、春間さんの投稿は、理解してないのにもかかわらずあらゆる投稿にいっちょかみするので『評価に値しないほどの空っぽ』と見られてしまっているように思えます。

あまりにもストレ-トな言い方過ぎてすみませんが。

それは、どれもこれもその投稿の本質部分ではなく、言葉の上っ面をその投稿の本旨関係なくあれこれ言うことに終始しているので『評価に値しないほどの空っぽ』感が半端ないのです。

ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。

芳和さんはああいう人ではありますが、自分が考えに考えて自分が本当に書きたいことを投稿してます。また、春間さんのように、石飛先生から認められていることを葵の御紋にしたりはしません。芳和さんと春間さんは瓜二つなほど似ていますが、その点が違います。

春間さんも、これからは、あらゆる投稿に理解しないまますべていっちょかみするのではなく、自分が本当に考えに考えて、その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿されたほうがいいのではないでしょうか。


 

  [No.21897] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/19(Sat) 07:51:17


★ [No.21873] 春間さん、自らの変革の時では? 投稿者:ショ-シャンク 投稿日:2021/06/17(Thu) 11:57:33


> > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > と知ることは
> > Dukkha です
> > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています
あなたの評価が ここに起きている
> もし、スマナサ-ラを擁護したいのであれば、スマナサ-ラが言ったことを理解してからにしないと、それこそ『評価に値しないほどの空っぽ』な投稿になって、誰からも返信されないですよ。
分かり易くするように、 順を変えて於く
> 私は、スマナサ-ラが言っていることもわからないではないのです。スマナサ-ラは理解の上で根拠をもって書かれていますので、それはそれで尊敬します。
わたしには 、 ( 尊敬が起きない が 批判は起きる )
スマナサ-ラ氏 の 言うことが
あなたの知るよう には 分かってはいない

わたしは、 下記に、あなたの理解 を 披見する

*************

スマナサ-ラのこの解釈はおかしい

> 『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』

kha が空、からっぽ、という意味であれば、
「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
空、からっぽの否定、となるはずです。

*************

> 「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になる

小ではなく、 劣っている という意味 を 小 と言っている
大事に 抱えているけれど、 同じ生(聖) を 生きることは 当たり前のこと
なぜ、抱えて 運ばなければならないか ?
大事 の 「 生 」 に ない 故 ですが
( 故 「 縁起 」 に起きる )
小事 は 小さくても 大事にすると、 大きく育ってしまう( 小事を 養う )
( ここに、 空海から最澄へ伝える 「 供養 」 が
大事・大乗 としてあり → 大(近くに見る大切) → 横井氏 の 「 電車 」
それ を 、 「 法幢 」 として 「 共建 」 する )

真面目に読まなければ、 意味は取れず
意味が取れないのであれば
読み取る意味は 読む前にある
自分の姿 ( 他人の姿 は 読みとれないところ にある )


ややこしく、 分かりにくい記述ではあるが
読むこと は
わたしとあなた に 起きていて、
いつもわたしは ( あなたを読みながら ) 自分を読んでいる


> からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
シュ-ニャ は 空っぽ ではなく 梵 の シュ-ニャ です ( 日本語の “ 空っぽ” であること も ある )

あると確信している その確信 が シュ-ニャ であるのなら
シュ-ニャ に 意味を与える事 が シュ-ニャ です
( ここが、 読み取りにくいところ )
いくら 読みがたくとも これが、 ここでの、 唯一の表現( 意味 )

あなたは 意味 を ( 二つに分けてしまい )
その一つ を 一つだけのモノ と する

> dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。

そこに起きる “ 少しだけ ” の 「 理 」 を 大きく取り上げて
自分事とする そのようなこと は 小事ではなく 大事です

*************



> スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。
どうして、 その 読み方(意味・わけ) が
ブッダ の いうこと・伝える事 に同じ なのか ?

あなたは、 自分なりに( 自分の言うことを ) 伝えようとする

> しかし、春間さんの投稿は、理解してないのにもかかわらずあらゆる投稿にいっちょかみするので『評価に値しないほどの空っぽ』と見られてしまっているように思えます。
あなたは、 そのように評価する
そうでない評価 は 『評価に値しないほどの空っぽ』 とされる

本当に、 値しないモノ なら、
そのように評価することが 値になっていること が
『評価に値しないほどの空っぽ』 の 値 と なる
( このこと が あなた自身 には 当てはめられず、 他にのみ 当てはめられる )

本当の評価 は 自分の(自分で起こす)評価 ではなく
他によって 起されるが
「 自他不二 」 を 知らぬ内 は
( 内にも外にも )
「 我 」 だけがいる ( 「 偏 」 に 拠る )


ここが難しい 「 天上天下 唯我独尊 」 ・ 内外において 我は正しい

> それは、どれもこれもその投稿の本質部分ではなく、言葉の上っ面をその投稿の本旨関係なくあれこれ言うことに終始しているので『評価に値しないほどの空っぽ』感が半端ないのです。

自分で言っていることを、 自分が聞いていますか ?


> ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。

煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
煮詰めない のは 、 あなたの行為


人のせいで、 あなたは 煮詰められない




> 芳和さんはああいう人ではありますが、自分が考えに考えて自分が本当に書きたいことを投稿してます。また、春間さんのように、石飛先生から認められていることを葵の御紋にしたりはしません。芳和さんと春間さんは瓜二つなほど似ていますが、その点が違います。
石飛さん は 葵の紋 の 使用許可を(みだりに)与えるようなことはしない
故に 春間に それ が ある という見方 は 怪しくなる 、、、、


> 春間さんも、これからは、あらゆる投稿に理解しないまますべていっちょかみするのではなく、自分が本当に考えに考えて、その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿されたほうがいいのではないでしょうか。

あなたの 投稿
( その本質部分に対して本当に興味があり考察した上でレスする形で投稿 )
を 参考にすると
わたしの投稿 が 起きてくる
( あなたは、 すでに 参考 されている )



以上 これを読むあなた は これを読みとる


一人読むときには 二人と知る ( そこに親鸞がいる )
二人・フタリ いるときには ミタリ・三人 としる ( そこを ミタリ )

ミタリ・見たり と知る “その一人” が 三人・ミタリ に 起きている

三人 居様 とも 一人の 生( 一つ の生 ・ 一つだけ の生 )

ひとりごと ( 一人が 読み取る 「 生 」 )




 

  [No.21911] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:26:22


> > > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > > と知ることは
> > > Dukkha です
> > > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています

> あなたの評価が ここに起きている


春間さん、何を言ってるんですか。



> > > 価値がある と思っているモノに ( 根源的に ) 価値がない
> > > と知ることは
> > > Dukkha です
> > > スマナサ-ラ氏 は 根源的に物事を考えて 語っています


というのは春間さんが書いた文章ですよ。
自分が書いたことを忘れましたか?


> > からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
> シュ-ニャ は 空っぽ ではなく 梵 の シュ-ニャ です ( 日本語の “ 空っぽ” であること も ある )

これも何言ってるんですか?
スマナサ-ラはシュ-ニャのことを言っているのではありません。
dukkha の『kha』を空っぽとか空しいという語源解釈しているのです。



> > スマナサ-ラは、『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』といっているわけではありません。
> どうして、 その 読み方(意味・わけ) が
> ブッダ の いうこと・伝える事 に同じ なのか ?

これも何を言ってるんですか?
いまはスマナサ-ラの言葉を取り上げています。
スマナサ-ラは春間さんが書いたような『価値があると思っているモノに(根源的に)価値がないと知ることは Dukkhaです』と言っているわけではなく、dukkhaという言葉が、『空っぽ、空しい』『評価に値しないほど空っぽ』と言う意味だと言っているのです。


> > ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
>
> 煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
> 煮詰めない のは 、 あなたの行為
>
>
> 人のせいで、 あなたは 煮詰められない


ジャンヌダルク問題は実はキリスト教の根幹に関わる大問題を抱えているのです。
ジャンヌダルク処刑裁判は違法であり無効だと私は言いましたが、
それでは、ジャンヌダルクが本当に神の使いであったとしたときには、実は、キリスト教の根幹を揺るがすほどの大問題が発生するのです。
そのために殺されたと言っていいでしょう。
私と反対の立場の春間さんは、当然、そのことを切り込んでくると思っていましたが、いつまで経ってもそのことを深く掘り下げることは全くありませんでした。
『その時の裁判官が正しいと判断したから正しい裁判』などという表面的な、別にジャンヌダルクの裁判でなくてもいいような上っ面をなでるだけの言及に終始したので、内容が深まることはありませんでした。
私が私の反対意見を言うことは独り相撲になりますからしませんでした。


 

  [No.21913] Re: 揚げ足取り論法の無駄さ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:52:26


> スマナサ-ラ を 支えて 応援したい


春間さん、知っているとは思いますが、
スマナサ-ラは『大乗仏教仏陀の法を骨抜きにする』と言っています。
いまは本が手元にない環境なので確かめられませんが、たしか『無常の見方』です。
春間さんは今手元に持っているでしょうから確かめてください。

私はこの言葉は、そういう側面もあると思っていますからいいのですが
スマナサ-ラの『大乗仏教仏陀の法を骨抜きにする』という考えも含めて
春間さんはスマナサ-ラを支持するということですか。


 

  [No.21917] モ-ツァルトの短調 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 17:09:07

> わたしは、 名古屋で スマナサ-ラ に 会っています
> 彼の熱心な信者で 説法会を 切り盛りする人 は、
> わたしに対して、
> 「 春間 は、 黙っていれば 格好が良い 」 と 言いました


それはよかったですね。

春間さんのこととは全く関係ないのですが、私の従業員で、黙っているとものすごく知的な美人に見える女性がいました。
でも、口を開いて何かをしゃべり出すと、とたんにがっかりしてしまう人でした。

あるとき、その女性から『私は黙って座っていると頭がいいように思われるのですけど、実は凄くバカなのでしゃべるとがっかりされるのですがどうしたらいいでしょうか。』と冗談で聞かれたことがあるのでこうアドバイスしました。

とにかく何もしゃべらずに、たった一言だけ『音楽では、モ-ツァルトの短調が好きです。』と言って、それから何を聞かれても、『全部』と『もちろん』と『はい』だけを言って静かに微笑んでいればいい。
ある程度知的な男性なら、『おお、凄い知的な美人だ。』と思ってくれるはずだ、と。


『音楽では、モ-ツァルトの短調が好きです。』
短調のどの曲が好きなんですか?』
『全部です。』
『じゃ、交響曲の40番とか?』
『もちろん』
『ピアノ協奏曲の20番も?』
『もちろん』
『そういえば、レクイエムも短調ですね』
『はい』

あとはひたすら黙って静かに微笑みながらうなづいていれば、たぶん、1時間はばれない。
ただし、具体的なことを言ってしまうとすぐばれるから、絶対に具体的なことは言わないこと。

こういうアドバイスをしたことがあります。
春間さんの話とは全く何の関係もないですけど、思い出したので。


 

  [No.21923] ジャンヌダルク の ショ-シャンク さん 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/21(Mon) 06:59:29


私自身への 自己批判 ( そう読めないのは わたしのせい )

> > > ジャンヌダルクの時でも、もし相手が春間さんでなく石飛先生であれば、ジャンヌダルク問題のキリスト教の根底を揺るがす根本問題まで切り込めたと思うのですが、春間さんとのやり取りは、延々とたとえば『正しい』という言葉の上っ面をなでるだけなので、いつまでたっても内容が深まらないのです。ジャンヌダルク問題は実は、キリスト教の根本が問われる大問題を抱えているのです。そのために殺されたと言ってもいいでしょう。
> > 煮詰められない のは 、 “ 他のせい ” = 理由は 春間にある
> > 煮詰めない のは 、 あなたの行為
> > 人のせいで、 あなたは 煮詰められない
あなたが煮詰めているモノ を、 わたしは 薄めていますか ?


下記の二つにおいて
わたしは ジャンヌダルクについて語っています

あなたは 何故 それを深めることが 適わないのか ?

★ [No.21809] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2021/06/14(Mon) 07:06:27
★ [No.21916] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2021/06/20(Sun) 13:13:31


私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
キリスト教徒 である と 書き込んでいます

キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )

いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
( dhAranI )


あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
“ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?


本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
この マジカナ の 置かれている目的です


あなたは 本質に触れている
故に その触れ方にたがう キリスト教・仏教 を 批判する


批判するあなた が
“ 根拠とする その根拠 ” は
あなた自身によって 批判されることがない


あなた( ≒ わたし )は いつも 自己肯定 していることを 見逃している

( 私とあなた は = “ あなた( ≒ わたし ) ” という意味 )
( とは 違う時もある )

P57 ③

  [No.21925] Re: ジャンヌダルク の ショ-シャンク さん 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/21(Mon) 11:09:51


> 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> キリスト教徒 である と 書き込んでいます

あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。


> キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )

みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。


> いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
> ( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
> ( dhAranI )

いえ、あなたが何を信じようと興味がないだけです。
人間はみんな自分の固定観念を信じています。それだけです。


>
> あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
> “ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?
> 本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
> その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
> 「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
> この マジカナ の 置かれている目的です


本質という言葉を使ったら『本質などありません』と何でもかんでも否定する人に対して、
本質の話をしても仕方ないでしょう。

ジャンヌダルク処刑裁判では、ジャンヌダルクが魔女である証拠は全く出ませんでした。
それどころか、魔女でなく、敬虔なキリスト教信者だったという証拠は数多くありました。
しかし、『絶対に』魔女としなくてはいけなかったのです。
それは、もし、ジャンヌダルクを本当に神の使いとしたならば、キリスト教の根幹を揺るがす大問題が出てくるからです。

少し考えたらわかると思います。


 

  [No.21926] Re: ジャンヌダルク の ショ-シャンク さん 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/21(Mon) 12:44:54


> > 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> > キリスト教徒 である と 書き込んでいます
>
> あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。

キリスト教 という 実体は何ですか ?
皆が 、 “ あると信じて 疑うことがない モノ ” が、 実体ですか ?
信じようと、 信じていまいと、
あなたには、 キリスト教の実体 と 呼べるモノ が ありますか ?

> > キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> > ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
> みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、

皆が皆 ナザレのイエス を キリスト と 承認しているわけではありません
旧約聖書 」 は キリスト を 規定( イエスキリスト )しますが
「 タナハ 」 では ( イエス は )否定されます

「 聖書 」 ( 旧約 ・ タナハ )
それは、 カトリックのモノでもなく、 プロテスタントのモノ でもなく
ユダヤ教徒 の モノでもありません

それを 読もうとする者の 共有物 なのです

> それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。

わたしは、 意味を 付加してはいません
あなたが、 一つの意味を 抱え込んでいるだけです

ナザレのイエス が キリストかどうか
ということは、 キリスト教徒には、 疑う余地はありません

わたしは、( その キリスト を ) 疑いもせず、 信じることもありません

その理由 は、
信じていようと ( いまいと )
問題は 何を行っているか
に 帰結するからです


新約聖書 」 には、 イエスの行動 の
( 一つの見方による ) 記録(記述) が 記されています

わたしは、 そこから、
エスが 何を言っていたか・どのように行動していたか を 読み取ります


その、 読み取ること、 読み取ったこと が 「 信 」 に 起きているだけです



> > いつも 「 信 」 を持って( 陀羅尼・憶持 ) イエスを語り ブッダを語る
> > ( そのような持ち方 を あなたは 「 信 」 とは 捉えられない )
> > ( dhAranI )

> いえ、あなたが何を信じようと興味がないだけです。
> 人間はみんな自分の固定観念を信じています。それだけです。

なたが、 興味のあることにだけに、 その懐き方に沿って( 固定概念に沿って )、
好き勝手に 応答するのは、 あなたサイド( あなたの味方 ) には 許される

“ その許す範囲 ” で、 ( 同じ見方 が 多い少ない は 別問題として )
好き勝手に 議論する

> > あなたが “ 捕らえた本質 ( キリスト教の根底を揺るがす根本問題 ) ”
> > “ それ ” を 、 ここに 開陳できますか ?
> > 本質を( 自分なりに )知る者 が ( 本質に自分なりに触れた者が )
> > その知ったこと( 深められた本質 “問題” ) を
> > 「 仏教 」 の 場において さまざまに 語ること が
> > この マジカナ の 置かれている目的です

> 本質という言葉を使ったら『本質などありません』と何でもかんでも否定する人に対して、
> 本質の話をしても仕方ないでしょう。

何でもかんでも 否定するわけではありません
しかし ( 否定するところだけ 取り上げて )
あなたは それを 金科玉条として 打ち立てる ( ワカルカナ ? )

あなたの( 本質 という語 の ) 今までの使い方に対しては、
そのように あなたが 思う・受け止める ” 対処 が起きています

本質 と 根源 とは 別の問題ですか ?

あなたの問題 ( 追求しようとすること ) は
私にとって 問題ではありませんか ?

わたしは、 それを、 問題とする

問題から逃げているのは 誰でしょうか ?


> ジャンヌダルク処刑裁判では、ジャンヌダルクが魔女である証拠は全く出ませんでした。
> それどころか、魔女でなく、敬虔なキリスト教信者だったという証拠は数多くありました。
> しかし、『絶対に』魔女としなくてはいけなかったのです。
> それは、もし、ジャンヌダルクを本当に神の使いとしたならば、キリスト教の根幹を揺るがす大問題が出てくるからです。

キリスト教 の 根幹 ” は、
新旧( プロテスタントカトリック )すべてのキリスト教徒 の 根幹 “問題” ですか ?
裁判をやり直したのは、 プロテスタント ですか ?

キリスト教 という “ 教え ” は キリスト者の 「 法 」 です


古い 約束に縛られず、 新しい( 本等の解釈による ) 契約の姿 が
新約聖書 」 に ( 一つの方針 に 沿って ・ トレント公会議 )
( そのような方針 が 読み取りやすくいように 勘案されて )
最初に、 ギリシャ語 で 編纂・ 記述 されたのです

それを、 宗教会議で採択したわけです

( プロテスタント には 違う見解もあります )


> 少し考えたらわかると思います。

少し も 考えない で、 このように、 記述できますか ?
( 固定概念 を 外して )
少し考えることが出来るのであれば 分かることです

しかし、 好みに沿って 採用する 積み上げ方
そして、その方法で
好き好んで、 積み上げてきた概念


( 積み上げる本人には ) 動かし難いものである



 

  [No.21927] Re: ジャンヌダルク の ショ-シャンク さん 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/21(Mon) 19:23:17

> > > 私は、 以前から この 道場 ・ 道の場 に於いて、
> > > キリスト教徒 である と 書き込んでいます
> >
> > あなたは、『キリスト教という実体はない』と書いていますが。
>
> キリスト教 という 実体は何ですか ?
> 皆が 、 “ あると信じて 疑うことがない モノ ” が、 実体ですか ?
> 信じようと、 信じていまいと、
> あなたには、 キリスト教の実体 と 呼べるモノ が ありますか ?


もういい加減、言葉遊び、観念のお遊びは終わりにしませんか。
実体があるだのないだの、には私は何の興味もありません。
龍樹の教えから、すべてに実体がないという結論をひとつ覚えで繰り返しているのでしょうけど
それに何の意味があるのですか?
キリスト教の実体があったらあなたの精神にどう影響しますか?
キリスト教に実体がなかったらあなたの精神にどう影響しますか?

阿弥陀仏にも実体がないのでしたよね、あなたによれば。
浄土教の人にとって、阿弥陀仏に実体がなければ実体があるのと何が違うのですか?



> > > キリスト を 信じることがない イエスを信じる 非キリスト者 です
> > > ( そのような信じ方 は、 “ 信 ” とは 言えませんか ? )
> > みなが、イエス・キリストというのは実際に生きた一人の人の名前と思っているのに、あなたが恣意的に、キリストとイエスを分けてそれぞれに意味を持たせて悦に入っているのは勝手なのですが、
>
> 皆が皆 ナザレのイエス を キリスト と 承認しているわけではありません
> 「 旧約聖書 」 は キリスト を 規定( イエスキリスト )しますが
> 「 タナハ 」 では ( イエス は )否定されます
> 「 聖書 」 ( 旧約 ・ タナハ )
> それは、 カトリックのモノでもなく、 プロテスタントのモノ でもなく
> ユダヤ教徒 の モノでもありません
> それを 読もうとする者の 共有物 なのです


観念のお遊びはいい加減にしたらどうですか?
それがあなたの精神にどう影響しますか?
ナザレのイエスをキリストと信じることがないあなたが、なぜキリスト教徒なのですか?
あなたはどの言葉も自分勝手に恣意的に世間一般と違う意味を付加しているのですが
その意味のままに辿っていくと矛盾だらけなのです。
それに一々付き合うのは私にとって意味のないことなのです。
あなたにとってはどんな意味があるのですか?

>
> > それを人に質問するのであれば、あなたが自分なりに付加しているその言葉の意味を最初に言わなければ対話にはなりません。あなた以外の人が思っている意味と違う意味でその言葉を使っているのですから。
>
> わたしは、 意味を 付加してはいません
> あなたが、 一つの意味を 抱え込んでいるだけです
>
> ナザレのイエス が キリストかどうか
> ということは、 キリスト教徒には、 疑う余地はありません
>
> わたしは、( その キリスト を ) 疑いもせず、 信じることもありません


エスをキリストと信じないあなたが自分は『キリスト教徒 である』と勝手に思い込むのは自由ですが
私には馬鹿馬鹿しくて、そのような戯れ言はうんざりなのです。


はっきり言って、春間さんの掲示板での行ないを見るたびに
春間さんが信奉している龍樹の教えに何の意味があるのか、
このような行ないの者を生み出すだけなら何の興味も起きないのです。

もちろん、それは私に限ったことです。
ですから、他の人には今までとおり、実体があるだのないだの、言っていればいいと思います。
私には興味がないので、どうか、できれば私の投稿にレスしないでいただきたいのです。

実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです。


 

  [No.21928] Re: ジャンヌダルク の ショ-シャンク さん 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/21(Mon) 20:43:49


> ですから、他の人には今までとおり、実体があるだのないだの、言っていればいいと思います。

あなたが聞くから、 あなたに語ること と なる ( 語ることがある )
あなたが聞かなければ、 聞く人に 語っている( ことになる )

( あなたが聞かなければ、 聞く人に 語ることが ある だけです )

> 私には興味がないので、どうか、できれば私の投稿にレスしないでいただきたいのです。

あなた が 聞かなければ、 ( 聞くところの )あなたはいない
聞く、 実体がないのです
( 私の語るところに、 あなたは いない = いたくない )
読みたくなって、 読むところに、 あなたは 存在( 実体 ) を 置く

『中論頌』 は、 このようなことを、 示している
( だから、 「 真理 」 を知る人は 、 龍樹を 「 祖 」 とする )


読まなければ、 逃げる ということも 取り敢えずは、 回避されている 、、、、

( しかし、 ここで 回避の道は 閉ざされてしまった 、、、、 )

> 実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです

意味のないことに 意味のない応答をする
意味があるから( ないかな ? ) 、 その意味 を 否定したいが、

否定できないから
ここに来ないで( 「 レスしないで 」 ) と
つい、 「 いただきたい 」 と お願いしてしまう



読みたいから、 ここへ来る

お願い を わたしに 実行させるより
あなたが わたしから “ 逃げれば ” よい
( あなたが “ 善き 行ない ” を 起こせばよい )
善き行い には 決して 批判は起こせない
わたしも、 あなたについて、 書くことがなくなる

書かれることは、 ブッダ への 感謝( 報恩 ) となる



善き言葉 は 善き行い



ワカルカナ ?

自らの 心の動きが 、、、、



 

  [No.21929] ショ-シャンクさん 追加 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/21(Mon) 21:19:40


> > > ジャンヌダルクの時 ・・・・キリスト教の根底 ・ 揺るがす根本問題

あなたの 「 根本 」 という言葉 に
「 根底 」 となる意味がない ( そのことを、 “実体がない” というの です )
( 意味はある けれど、 “顛倒した、自分勝手な思い込み” です )

その “ キリスト教 を 揺るがす問題 ” を
語ることが 憚られる理由 は
問題を
“ 正しく ” 捉えてはいない からです

曖昧な 理解だから、 突っ込まれると 問題を逸らして 他へ逃げる
それは、 まさに、 あなたに起きていることです

わたしは、 違う言葉で、 同じ事に対して、 違う側面から それを深めているが
あなたは 偏に因った 一面的な捉え方しかできないから
ちがう( べつの )側面に ( 正面から ) 対処できないのです

それを、 あなたが、
わたしの逃げ・ごまかし という 解決方法で “ 逃げているわけです ”


> 実体があるだのないだのに何の意味も見いださないからです。

あなたが逃げている という 見方に
“ 実体がない ” のであれば、
見出すモノは 何もない

逃げているのではない のであれば、
そのように決めている “ 虚言 ” を 明らかにしなければ、
結果
逃げていることとなる


 

  [No.21773] 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い論文論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 10:55:20

石飛先生、おはようございます。

先生の「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」」論文を読ませていただきました。

素晴らしい論文でした。
おっしゃるように、あの、短い問答をここまで深く掘り下げた考察は見事だと感嘆いたしております。

『有』の展開としての現象世界、ブラフマンの流出としての世界、諸々の流れはあらゆるところに向かって流れていく、
このように見ていたアジタにとって、
そのような流れを、『気づくこと』によって遮り、智慧によって止める、という仏陀の答えはさぞかし衝撃だったことでしょう。

それ以上に、『無明が頭であると知りなさい。明知が頭を落とすものであります。』という仏陀の言葉は
天地がひっくり返ったようなものだったでしょうね。

頭が裂け落ちると脅された師匠が十六人の弟子を遣わしたのですから、当然、弟子のアジタは、『師匠の頭が裂け落ちると大変だ。なんとかしなきゃ。』と強く思っていたはずです。

それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
驚天動地の大転回がそこにはあります。

短い問答の中で見落とされているヴェ-ダ思想の背景とそれに対する仏陀の鮮やかな答えを、ここまで深く切り込んで考察されているのは素晴らしいことです。


 

  [No.21774] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い論文論文 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/09(Wed) 12:41:02

ショ-シャンクさま ありがとうございます。
>
> 先生の「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」」論文を読ませていただきました。

がっちりと読んでいただきまして、感謝でございます。

> 素晴らしい論文でした。
> おっしゃるように、あの、短い問答をここまで深く掘り下げた考察は見事だと感嘆いたしております。

ほんとに詩が一つか二つで、どんどん話が展開していくおそろしさは仏教を含めたインド思想のおそろしさを表していると思います。

どこまでも分かる者は、みずからその限界まで分かってください、そうでない者はみずからの力の範囲内で理解してください、というのが、インド思想の立場を示します。

学問上の常識とか定説とかコンセンサスみたいなものを頼りにしている人には、ほんとに怖い世界だろうと思います。

だから、ブッダの場合も、当時の最高の知識や思想を相手にして語っていることを想定しないと、何の意味も出てこないというところがありますね。

>
> 『有』の展開としての現象世界、ブラフマンの流出としての世界、諸々の流れはあらゆるところに向かって流れていく、
> このように見ていたアジタにとって、
> そのような流れを、『気づくこと』によって遮り、智慧によって止める、という仏陀の答えはさぞかし衝撃だったことでしょう。

そうだと思います。アジタ自身が、ウッダ-ラカの有論を信じていたのかどうかはまた別ですが、当時の最高峰の知識や智慧をもっていて、それが現在最高であると知っている人々の一人であったことは確かだと思います。
>
> それ以上に、『無明が頭であると知りなさい。明知が頭を落とすものであります。』という仏陀の言葉は
> 天地がひっくり返ったようなものだったでしょうね。

ウパニシャッド』を読みますと、確かに、ブッダは、ヴェ-ダをよく知っていると実感します。すみずみまで理解し、その限界など完全に知りつくしていることが、だんだん浮かんできます。

> それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。

ここ!おもしろいです!
ショ-シャンクさまは、ここに禅問答を見るのですねえ、な~るほど。
禅問答って、こんな感じなんですね、わたしも、なんとなく禅問答が分かって来たような。。

> 相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
> 驚天動地の大転回がそこにはあります。

ほんとですよ。ここまで情け容赦ないか、ってくらいですが、分からない人には、何が起こったか分からないだろうと思います。
>
> 短い問答の中で見落とされているヴェ-ダ思想の背景とそれに対する仏陀の鮮やかな答えを、ここまで深く切り込んで考察されているのは素晴らしいことです。

ブッダの一切智を、まじめに取り上げないでいると、この怖さは知られないと思います。

アジタが、苦し紛れに「名色はどこで破壊されるのか」とたずねた時、
もう、こういう質問出しているようじゃ、自分の負けだなとブッダを認める方向に向かっていたとおもいます。

そして、あっと驚くような答え「識が滅するとき名色が滅する」を、ブッダの口から聞くことになります。

最初から、サンガの中でブッダの理論を聞いていると、十二支縁起の中にある「識の滅によって名色の滅がある」を教えてもらいますから、ウパニシャッドの説などには見向きもしないのですが、実は、そこに大きな罠もひそんでいるような気がします。

このアジタの議論で衝撃を受けた人は、これ以降絶対間違うことはありませんが、部派など初期仏教の人たちは、インパクトをもたずに見過ごしてしまう可能性もあるかと思います。


また、実は、これだけではないのも驚きの展開です。『ダンマパダ』の中にも、サ-リプッタとの議論の中にも、実は、このアジタとの議論が繰りかえされているのだ、しかも、視点を変えて説かれているのだ、と知ったら、本当にブッダが一切智者であることを、身をもって実感します。

「重々無尽の縁起」ということばが自然に出てきますね。
やっぱり華厳経の世界も広がることになるのだなあと感慨深く思っているところです。

ありがとうございました。


 

  [No.21775] 三十六の好楽のへの流れ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 13:06:20

石飛先生、ありがとうございます。

ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか。

『339 偈にある【三十六の好楽のへの流れ】というのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と書かれています。

中村元訳註では、この三十六の流れに関しては、様々な説を挙げながらも、どれも典拠が不明でどれもが確定していないように書かれていました。

先生が、『三十六の好楽のへの流れというのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と思われているのは、どのような理由からでしょうか。

また、十二処を欲愛・有愛・無有愛の3つにかけ合わせた場合、どのような意味になるのでしょうか。
十二処における欲愛はよくわかるのですが、十二処における無有愛というのはどういうものと思われていますか。


 

  [No.21781] Re: 三十六の好楽への流れ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 11:16:53

石飛先生、ありがとうございます。

三十六の流れは渇愛の網羅ということですね。

それにしても、無有愛というのはわかりづらいですね。

有が生存ということから、生存欲否定、つまり自殺への衝動と解説している人もいますし
殺したい、破壊したいという願望と言う人もいます。

「無有」とはvibhavaという原語で、「生存を離れること」ということであれば、仏教の目指すところです。
有すなわち生存を滅することで苦が滅するのですから、vibhavaはいい言葉のはずです。


できれば、
欲界 色界 無色界 に対応して
欲有 色有 無色有 があるように
欲愛 色愛 無色愛 であれば、非常にわかりやすかったのにと思います。
言っても仕方ないことですが。


 

  [No.21784] Re: 三十六の好楽への流れ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/10(Thu) 13:39:31

ショ-シャンクさま こんにちは。

> 三十六の流れは渇愛の網羅ということですね。

渇愛(タンハ-)なのですが、これはヤ-ジュニャヴァルキヤにとっては、悟りの境地を示す「楽」として捉えられていると思います。
一方、ブッダは、これを渇愛と認め、滅ぼすべきもの、苦を生み出すものとしました。

実は、これは「マッジマニカ-ヤ」の第1経「根本法門経」でも、説かれている内容だと思っています。この経との関連を、まだうまく説明できないので、述べたくはなかったのですが、「楽は苦のもと」というブッダのことばが説かれているので、この点を考慮すると「好楽」を36に分類するのも、納得できます。

基本的に、一元論の立場で悟りを求めていきますと、自己の中にア-トマンなりブラフマンを認めたり、最高原理ブラフマンとの合一というかたちで書かれたりするので、ほとんどの場合、エクスタシ-のような強烈な楽を感じるのです。

そして、そこに到達すると、それが悟りだと思ってしまうようです、。
これを、ブッダは、苦をもたらすものとして、アジタたちに教えているのだと思います。

> それにしても、無有愛というのはわかりづらいですね。
>
> 有が生存ということから、生存欲否定、つまり自殺への衝動と解説している人もいますし
> 殺したい、破壊したいという願望と言う人もいます。

ほとんどの人は、ウパニシャッド思想を知らないですし、しかも、このヤ-ジュニャヴァルキヤとかウッダ-ラカの思想を語っているとは思わないので、仕方がないのでしょう。

しかし、ブッダの場合、ことばは必ず意味内容をともなっているので、これら三つ「欲愛、有愛、無有愛」と分類されている、ということは、かなり普遍的に成りたっていると考えてよいのだろうと思います。

仏教的な見方を最初にもってしまうと、インド思想的なものは、はなから受け付けないし、考慮もしませんので、こういう風に分からなくなるのではないかと思っています。

一神教や一元的な思想に見られる「楽」という境地を批判するものではないかと、わたしは読んでいます。

> 「無有」とはvibhavaという原語で、「生存を離れること」ということであれば、仏教の目指すところです。
> 有すなわち生存を滅することで苦が滅するのですから、vibhavaはいい言葉のはずです。

仏教では、形而上学にはいかないので、vibhavaは悪いことばではないかもしれませんが、しかし、これは、仏教においても問題になることばだとは思います。

たとえば、ヴィラ-ガ(離欲)のように、欲を離れるということですと、修行中の人には必要な行となります。vibhava(離生存)という風に捉えて、生存を離れようとすると、生まれてくることができなくなりますね。生存を滅すると、生まれることが滅するわけですから。そうなると、生存を離れた段階で、悟りへの大きなステップとなっているはずです。
しかし、悟るためには、生まれていることが大事な条件になりますので、「生存を滅することによって生まれることを滅する」というこの段階を実践的に行うのは、なかなかやりにくいのではないでしょうか。すでに生まれてきちゃっているわけですから。

「生存」ということで、この領域(界)を検討するなら、生まれて生きているこのわたしが検討せざるを得ないので、vibhavaという状態も、bhavaの一種と見なければ、合理的でないことになります。また、abhava(生存ではないこと、生存のないこと)も、やはり、同様のことが言えて、そのため、バヴァ-バヴァ(bhava+abhava)の熟語を、「種々の生存」と訳しているのではないかと思います。

わたしも、このように考えています。
vibhavaやabhavaも、生存の一形態であるという考え方です。
>
> できれば、
> 欲界 色界 無色界 に対応して
> 欲有 色有 無色有 があるように
> 欲愛 色愛 無色愛 であれば、非常にわかりやすかったのにと思います。
> 言っても仕方ないことですが。

無色界は、段階的にブッダが到達した境地でもあるので、色をもたない状態も認めていますね。しかし、インドの一元論的思想では、どうなんでしょうか。無色界を認めたとしても、そこはブラフマンの世界にはかわりはないわけですよね。そして、世俗的な「楽」の要素を保つとなると、やはり「生存(有)」を一歩も出てはいない、ということになりますかね。

わたしは、いつも感心します。ブッダが、よく、このブラフマニズムのごちゃごちゃした理論を含めて、十二因縁の縁起説にまとめたなあと。

ヴェ-ダ-ンタ思想は、シャンカラが出て来る以前には、ほんとに、どうしようもないほど錯綜している感じがあります。何でもかんでも抱え込んでいたのだなあと思います。
それはウパニシャッドの思想も同じです。各種のウパニシャッド文献は、それぞれ勝手にいろんなことを説いていて、到底まとめようとしてもまとめきれません。

それを、まとめたブッダは、ただそれだけをとっても立派です。

何をはなしていたかわからなくなってきました。けっこう、わたしも、支離滅裂な感じですね。まとまらなくてすみません。


 

  [No.21776] 賊という褒め言葉 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 18:08:32

> > それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
> > 相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
> > 驚天動地の大転回がそこにはあります。


> ここ!おもしろいです!
ショ-シャンクさまは、ここに禅問答を見るのですねえ、な~るほど。
> 禅問答って、こんな感じなんですね、わたしも、なんとなく禅問答が分かって来たような。。



禅問答の痛快さは、相手の固定観念や見解を根こそぎ奪ってしまうところです。

禅問答では、よく、『賊』という言葉が出てきます。

賊というのは泥棒のことで、『この賊め!』などと言います。

日常生活では、『この泥棒め』というのは罵倒語ですが、
禅の世界では、『賊』というのは、最大の褒め言葉です.

ですから、『柏樹子の話に賊機あり』と言えば、褒めちぎったことになります。

アジタの問いでは、頭が裂け落ちたら大変だ、という固定観念を根こそぎ転回させています。
仏陀もなかなか賊の親玉ですね。


 

  [No.21779] Re: 賊という褒め言葉 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/10(Thu) 09:59:52


ショ-シャンクさま おはようございます。

> 禅問答の痛快さは、相手の固定観念や見解を根こそぎ奪ってしまうところです。

そうか、そうですよね。
なにせ、仏教ですから。
見解として出すなら、完全にまったく相容れません。
ただ、ブッダの教えに従うと、見解を出して争うことはしませんから、こういう問答によって、相手の常識的な観念を打ちくだいて、相手に「目覚めてもらう」というやり方を方便として用いる以外にないわけですね。

それにしても強烈ですね。

これは、見解として出すなら、ただの論説の一つになってしまうけれど、そうしない道を取ることによって、もっとより善い事につながっていく、というブッダの計画ですね。

禅問答の起源は、ブッダであり、『スッタニパ-タ』の中で、随所にかれの実力が示されています。いかに衝撃を与えたか、想像するだけでもすごいことです。

この伝統は、龍樹に受け継がれ、龍樹以降、中観・唯識へと引き継がれていくということか。。


> 禅問答では、よく、『賊』という言葉が出てきます。
>
> 賊というのは泥棒のことで、『この賊め!』などと言います。
>
> 日常生活では、『この泥棒め』というのは罵倒語ですが、
> 禅の世界では、『賊』というのは、最大の褒め言葉です.

な~る。「賊」ですか。龍樹も、私にとって、賊でしたね。
>
> ですから、『柏樹子の話に賊機あり』と言えば、褒めちぎったことになります。
>
> アジタの問いでは、頭が裂け落ちたら大変だ、という固定観念を根こそぎ転回させています。
> 仏陀もなかなか賊の親玉ですね。

ブッダのすごいとこは、無明と明智と識は、相手の論説の専門用語だという点です。

ウパニシャッドの中の重要な用語、決めの用語を、あっさり用いて、答えているところです。しかも、相手の見解とは違う、自分の立場と思われるところで、相手の見解を否定するように用いているのです。
まさしく、大泥棒ですよね。「無明」と「明智」は、うばわれましたね。
無明を頭として、無明を落とすものを明智とし、そのままブッダの自説(?)へともっていかれて、焦ったでしょうね。

わたしが、特に、衝撃だったのは、「名色」を出したアジタに、「識の滅により名色が滅する」、と答をあっさり与えているところです。

ウパニシャッドでは、このあたりすごく錯綜した見解が重なり合っていて、明確ではありません。「名色」はウパニシャッドの重要語であり、ウッダ-ラカの思想を支えます。

その用語を出すのは、アジタにとっては自分の手の内をさらすような感じで、かなり勇気がいったのではないかと思いますが、そこで、答えとして出してきた「識(ヴィジュニャ-ナ)」によって、もう完全にやられたと思ったことでしょう。
「識」も、ウパニシャッドの思想の中の専門用語と言っていいと思いますから。

つまり、「名色」と「識」の重要語も、賊にうばわれたかっこうになってしまいました。
大泥棒!って言いたいかもしれませんが、これによって、アジタくん、完全に目が覚めたのでしょう。「目覚めたもの(ブッダ)」の呼び名も、ほんとに納得します。

こうして、無明と明智、名色と識は、仏教の重要な用語になりましたね。

何か、ウパニシャッド思想がかわいそうになってきちゃったわ(笑)


 

  [No.21780] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 11:06:37

石飛先生、おはようございます。

先生も書いておられましたが、アジタはどこに立脚しているのかわかりづらいところがありますね。

「有」の展開、生命が流れ出ること、ブラフマンの流出としての世界、
この説を、アジタは肯定的に見ていたのかそうでないのか、がはっきりしないまま、仏陀との会話で混乱している感じがします。

『ウッダ-ラカは,有(sat)を宇宙の根源とする。太初にはこの有だけがあって,これが多となろう,繁殖しようと考えて,創造をはじめると説いている。』と書かれていました。
この、多様となりたい、繁殖したい、という『有』の意思をアジタはどう捉えていたのでしょうか。


『あらゆる処に向かって流れるのが,諸々の流れなのです。諸々の流れを遮るのは何ですか。諸々の流れを防ぎ守るものを語ってください。何によって諸々の流れは防ぎ止められるのですか。』
とアジタは聞きます。
この言葉からは、『諸々の流れ』は悪しきもの、防ぎ止めるべきもの、と考えていたように思えます。


しかし、
智慧と気づくことと,名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』と聞いていることが、アジタが考えていることの理解を難しくします。

智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

仏陀は明らかに、『智慧』と『気づくこと』が、『名称と形体』など多様への流れを止めると言っているにもかかわらず
アジタは、『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

アジタにとっては、『智慧』も『気づくこと』も『名称と形体』も同じく、『その途中で出て来る変異物』と考えていたのでしょうか。


 

  [No.21785] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/10(Thu) 14:10:42

ショ-シャンクさま こんにちは。

> 先生も書いておられましたが、アジタはどこに立脚しているのかわかりづらいところがありますね。

そうですね。ただ、考えられるのは、ウパニシャッド全体に広がる思想は、否定のしようが無かったと思います。現代人が、なんだかんだ言っても、科学的知見とかエビデンスがどうとか、などと言われますと、言い返せずに黙ってしまうようなものです。
ウパニシャッドの哲学的な思想は、当時の世界の最先端の知識であって、ちょっと知識のある人なら当然そのような思考方法をもったことでしょう。
批判的に見るとしても、この視点を無視することはできなかったと考えられます。
>
> 「有」の展開、生命が流れ出ること、ブラフマンの流出としての世界、
> この説を、アジタは肯定的に見ていたのかそうでないのか、がはっきりしないまま、仏陀との会話で混乱している感じがします。

お師匠さんを救いたい一心でしょうか。ブッダにすがる気持と、眉唾の気持と、両方ない交ぜになった感じがします。

> 『あらゆる処に向かって流れるのが,諸々の流れなのです。諸々の流れを遮るのは何ですか。諸々の流れを防ぎ守るものを語ってください。何によって諸々の流れは防ぎ止められるのですか。』
> とアジタは聞きます。
> この言葉からは、『諸々の流れ』は悪しきもの、防ぎ止めるべきもの、と考えていたように思えます。

いや、そうとも言えないです。諸々の流れは、命我の流れでもあるように感じます。つまり、個人に存在するア-トマン(魂のようなもの)であって、それが流れている限り、その人は生きているという思想です。したがって、防ぎ止めないと、ア-トマンがさっていってしまうかもしれない、ア-トマンに出て行かれると、その人の命はないものとなって、身体はうち捨てられた衣のようなものになってしまう、と考えていたのではないでしょうか。
>
>
> 『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

そうですね。智慧と気づくことは、ブッダのことばであって、所詮、最高原理である「有(ブラフマン)」からの派生物みたいなものだろうから、名色の中に含まれるだろうと考えているような感じがありますね。
名色というのは、有(最高原理)からの展開によって出てくるもので、多様な世界を作るものです。多様な世界は、根源的な世界に対すれば、劣った世界です。真実なものは、永遠不滅の唯一のブラフマン(あるいは有)ですが、多様な世界は、そこから出て来る輪廻する世界にすぎません。

この世において多様性だけを見る人は死から死に達する(「ブリハッドア-ラニヤカ」4.4.19)
>
> 仏陀は明らかに、『智慧』と『気づくこと』が、『名称と形体』など多様への流れを止めると言っているにもかかわらず
> アジタは、『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

そうそう、ブッダの意図がどこにあるのか、アジタにはまったく見当がつかなかったことでしょう。まったく違う世界を見ているのですが、ことばだけが、なぜか一致している、というような感じかもしれません。アジタの衝撃は、もうすぐそこまで来ている予感がして来ます。

>
> アジタにとっては、『智慧』も『気づくこと』も『名称と形体』も同じく、『その途中で出て来る変異物』と考えていたのでしょうか。

他の考えは、考えつかなかったのではないかと思います。
社会の常識を覆しているのは、むしろ、ブッダの方ですから。

有(サット)という最高原理から名称が展開して、種々の現象界を生み出すという立場では、名称である「智慧」や「気づくこと」は、まず「有」から展開したものであることは明白だというところではないかと思います。

部派の人たちが、お釈迦さまは真理を語ったので、外道は屈服したのだと考えますが、そのような平板な理解(?)ではなく、もっと強烈なインパクトがあったと思います。

天地が文字通りひっくり返ったのだと思います。


 

  [No.21786] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 15:16:31

> いや、そうとも言えないです。諸々の流れは、命我の流れでもあるように感じます。つまり、個人に存在するア-トマン(魂のようなもの)であって、それが流れている限り、その人は生きているという思想です。したがって、防ぎ止めないと、ア-トマンがさっていってしまうかもしれない、ア-トマンに出て行かれると、その人の命はないものとなって、身体はうち捨てられた衣のようなものになってしまう、と考えていたのではないでしょうか。


> 有(サット)という最高原理から名称が展開して、種々の現象界を生み出すという立場では、名称である「智慧」や「気づくこと」は、まず「有」から展開したものであることは明白だというところではないかと思います。




石飛先生、ありがとうございます。

スッタニパ-タを読んでどうしてもわからなかったところが、先生のご説明によってわかりました。

アジタが言った『諸々の流れ』が、中村元訳のように『煩悩の流れ』という否定的に捉えた言葉でなく、生命の流れ、あるいはプラナの流れのようなものを想定していたとは、思いもつきませんでした。

そして、アジタの質問の
智慧と気づくことと名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』の意味がどうしてもわかりませんでした。
名称と形体が破壊されることがあっても、智慧と気づくことが破壊されるとは、その意味が理解できませんでした。
アジタにとっては、智慧や気づきも最高原理から流出したものに過ぎないと考えていたのですね。

先生のおかげですっきりとしました。
ありがとうございます。



それにしても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが言ったという
『無明を念想する者たちは,暗黒の闇に入って行く。だが一方,明智に愛着する者たちは,それより一層大きな闇に(入って行く)。』という言葉はすごくないですか。
先生は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは小さな虫のようだとおっしゃいましたが、仮に虫としても9cmのオオクワガタではあるような気がしますが。


 

  [No.21787] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/11(Fri) 07:25:44

ショ-シャンクさま おはようございます。

> スッタニパ-タを読んでどうしてもわからなかったところが、先生のご説明によってわかりました。

そうですか。ここは逆転の発想ですよね。
>
> アジタが言った『諸々の流れ』が、中村元訳のように『煩悩の流れ』という否定的に捉えた言葉でなく、生命の流れ、あるいはプラナの流れのようなものを想定していたとは、思いもつきませんでした。

仏教になじんでしまうと、当然そのように考えるかと思いますが、しかし、当時としては、アジタの考えの方が(知識人にとっては)一般的だったと思います。


かの神格(デ-ヴァタ-)は考えた。「さあ、わたしは、これら三神格(水と熱と食べ物)に、生命であるこのア-トマンとともに入って、名称と形体(ナ-マル-パ)において分化していこう」と。(『チャ-ンド-ギヤ・ウパニシャッド』6.3.2)


この中の「神格」とは、有(最高原理)から展開して出てきた三つの要素火と水と食べもののことです。「命であるア-トマンとともに入って」とあるので、個我が、身体などに流れ込むことにより、生命活動が引き起こされてくることが言われているのでしょう。

意志や意欲をもって活動するので「神格」とされているのではないかと思います。
こちらが、知識人たちや修行者たちの間では、最先端の思想であり、それを論じている時に、生命の流れと理解するはずのところを、渇愛・煩悩という解釈を出したとしたら、
ほんとに仰天すると思います。

> 『智慧と気づくことと名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』の意味がどうしてもわかりませんでした。
> 名称と形体が破壊されることがあっても、智慧と気づくことが破壊されるとは、その意味が理解できませんでした。

智慧」と「気づき」も、名称(ナ-マ)に含められますから、名称が生まれてくるとそれに合わせた形体(ル-パ)も分化してくる、というところではないでしょうか。

> アジタにとっては、智慧や気づきも最高原理から流出したものに過ぎないと考えていたのですね。

アジタ自身の発想としては、そう考える他はないわけですが、どうやら違うようだとも思っていたと思います。というのは、師匠のバ-ヴァリンを救う教えを尋ねて、ブッダのところまでやって来たのですから、何かウパニシャッドの教えとは違う教えを教えてもらうのだろうと予想もしていたのだろうと思うのです。

アジタは、最高原理である有については、何も言っていませんよね。言及すらしていません。そうだろうと思います。
相手の理論がどのように展開するか分からない段階では、慎重に、多様な具体的な現象から話しはじめて、段々根本であり究極の思想に近づく、というのが安全な(?)方法かと思うからです。

ですから、アジタの聞き方は、相手が何をもっているか分からない段階では、非常によく分かる聞き方のような気がします。

それに対して、ブッダは、相手の慎重な姿勢などお構いなく、ピタッと合わせて、これまた、簡潔に答えるので、もう、この答え方からして、「すごい人物だ」と怖れをなしたと思います。

アジタが最初に口火をきったということは、この人は、十六人のバラモンの中でも実力派の一人だったと思います。まあ、仏教的に言えば、「智慧のサ-リプッタクラス」の人物ではあったろうと思います。名前が「アジタ(負けないもの)」ですから(笑)

今では、経典になっていますので、誰かが編集したのだろうとか、考える人もいるかもしれませんが、当時の会話を、要点として、そのまま記録していると思います。

実際に起こった会話だからこそ、このように詩の形で残っているのだろうと思います。

ブッダが、自身で、編集しているかもしれません。しかし、それも、たとえば、アジタが言い間違ったりしたところを正しく言い直すような、そんな訂正だったらしていそうだとは思いますが。。

ですから、ブッダが、一切智者だというのは、わたしには明らかなことなのです。

『ダンマパダ』にアジタの展開を残し、『サンユッタ・ニカ-ヤ』にサ-リプッタへの指導を残して、アジタとの対話は、一点の乱れもなくピタッと噛み合った理論を構成しています。36の好楽の流れも、ブッダの中では当然数え上げられているのだろうと思います。

部派だけでなく、大乗、密教、あらゆる展開を見据えて、ブッダは存在しています。

> 先生のおかげですっきりとしました。

こちらこそ、ブッダのことを書かせてもらって感謝です。
>
> それにしても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが言ったという
> 『無明を念想する者たちは,暗黒の闇に入って行く。だが一方,明智に愛着する者たちは,それより一層大きな闇に(入って行く)。』という言葉はすごくないですか。

おお、ここ、なかなかですよね。
この点は、学者の間でも解釈がいろいろあるようですが、無明と明智の上に、自分の立てた「非ず非ず」のア-トマンをおいているのだろうと思います。ここは、ウパニシャッドの到達点だろうと思います。さすが、インド思想!と、正直思います。

かれのすごいところは、相対主義を乗り越えているところです。
しかし、ブッダは、予想もしない形で、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えて正等覚者であることを示しました。いや、ほんとに、おそるべし、インド、ですね。

> 先生は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは小さな虫のようだとおっしゃいましたが、仮に虫としても9cmのオオクワガタではあるような気がしますが。

かもしれません。オオクワガタは、昆虫の中の王さまですから。
君臨しますよね。そこは、わたしも、そうだと認めます。

***

というところで、こんな話にもっていきたいです。実は、ヤ-ジュニャヴァルキヤ関連です。


ところで、禅の「庭前の柏樹子」のお話しありがとうございました。
調べているうち、こんなサイトにたどり着いておもしろく読んでいました。

http://rinnou.net/cont_04/zengo/011203.html
「庭前の柏樹子」

読んでて、心配になってきたのですが、

> 趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。

というところや

> 天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。

というところを読んで、もしかして、ブログを書いている方は、気づかずにヤ-ジュニャヴァルキヤに戻ったりしていないよね、っと、ちょっと心配してしまいました。まあ、禅の方なので大丈夫だとは思いますが。ことばづかいがちょっと心配です。

ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えて、ブッダが登場したと思います。
もし、ブッダが出てこなければ、いまだに、ヤ-ジュニャヴァルキヤがインド思想の頂点にいるだろうと思います。また、西洋的な思想も、インド思想の影響を受けて、そのエゴを膨らまし続けるだろうと思います。

今日、このように、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えてブッダが出てきたことが忘れられると、またぞろ、芳和さまのようなことをいう人や、ちょっと心配な「絶対的な境涯」などということをいう人が出てくるのじゃないかと、案じています。

「庭前の柏樹子」が、境(認識対象)ではないのは、

絶対的な境涯 だからではなくて、ア-トマン(エゴ)が脱落している からではないかと。。。

道元でいえば、身心脱落 ということです。


 

  [No.21790] 一無位の真人とは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/11(Fri) 10:47:25

石飛先生、おはようございます。


> > 趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。
> というところや
> > 天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
> というところを読んで、もしかして、ブログを書いている方は、気づかずにヤ-ジュニャヴァルキヤに戻ったりしていないよね、っと、ちょっと心配してしまいました。まあ、禅の方なので大丈夫だとは思いますが。ことばづかいがちょっと心配です。


いまの禅の人は、このブログの人のように、『天地一パイの柏樹子』とか『天地一パイの自分』とか言うことが非常に多いです。
『大我』が前提のことが多いように思えます。
ワンネスやネオアドヴァイタ、ノンデュアリティそのものの禅者も数多いです。

十牛図』では牛飼いの童子が逃げた牛を探しに行きます。
牛は、本来の自分のことです。
ところが、第7図以降は牛は登場しません。
第8図に至っては何も描かれていません。
ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。

仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
本当に矢を抜くことができるのかどうか。
そこが禅に限らずすべての仏教あるいは仏教以外の宗教でも問われなければいけないところでしょう。

そもそも、自分に矢が刺さっているとはほとんど誰も気づいてないのですから、大変です。
仏陀が悟ったときに、『説いても無駄だ』と思ったのも当然な気がします。

禅で本当に矢を抜くことができるのか、それは少し疑問です。
見性をしたことを印可されても、その体験がかえって我塊になり矢になって刺さることも数多い感じがしています。
ごく少数の天才的な人は、禅で悟って矢を抜くことができたのでしょうけど。



> ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えて、ブッダが登場したと思います。
> もし、ブッダが出てこなければ、いまだに、ヤ-ジュニャヴァルキヤがインド思想の頂点にいるだろうと思います。また、西洋的な思想も、インド思想の影響を受けて、そのエゴを膨らまし続けるだろうと思います。
> 今日、このように、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えてブッダが出てきたことが忘れられると、またぞろ、芳和さまのようなことをいう人や、ちょっと心配な「絶対的な境涯」などということをいう人が出てくるのじゃないかと、案じています。
>
> 「庭前の柏樹子」が、境(認識対象)ではないのは、
> 絶対的な境涯 だからではなくて、ア-トマン(エゴ)が脱落している からではないかと。。。
> 道元でいえば、身心脱落 ということです。


最も根本的な問題ですね。

臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。

この一無位の真人と無我との関係はどうなのか、一無位の真人とア-トマンはどう違うのか、
そもそもア-トマンとは何か、ブラフマンとは何か、自洲の『自』とは何か、ここは本当に難しく、この根本的なところで混乱を極めていると言う気がしています。


 

  [No.21791] Re: 一無位の真人とは 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/12(Sat) 07:08:01

ショ-シャンクさま おはようございます。
だいぶ考えました。

> いまの禅の人は、このブログの人のように、『天地一パイの柏樹子』とか『天地一パイの自分』とか言うことが非常に多いです。
> 『大我』が前提のことが多いように思えます。
> ワンネスやネオアドヴァイタ、ノンデュアリティそのものの禅者も数多いです。

う-ん、そうですか。ちょっとひっかかりますね。
まあ、「空」でも、アドヴァイタ的理解をする人がたくさんいますから。
こちらの方が、考えやすいということかもしれません。
>
> 『十牛図』では牛飼いの童子が逃げた牛を探しに行きます。
> 牛は、本来の自分のことです。
> ところが、第7図以降は牛は登場しません。
> 第8図に至っては何も描かれていません。
> ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。

十牛図』は、昔見たとき、なかなかピンと来ませんでしたが、今回、ちょっと分かりました。分かりましたけど、イマイチ評価しずらいです。

第7図以降に牛が出てこないところが、何とか、仏教の面目を保っている感じですね。
その分、第6図までの「牛」が、問題になるかと。

牛を「心」と見るなら、心で統一すればよいと思いますが、「自己」とか言われると、「なに?」とか思いますよね。「自己」は、本来、ふつうの意味での「自分」でしょうね。


ざっくり言えば、変転する心を制御して、落ち着きを得て、利他の行いをしていこう、ということと理解してよいのだろうと思います。


「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。

十牛図は、「人」を中心に語っていて、五蘊とか身心とかには触れていない見方をとっているようです。だから、「牛」と「牧者」なのでしょう。
これなら、これで押し通した方がいいです。

たえず「牛」を制御している「牧者」となってくる。そうなると、制御されるので「牛」が消える。 (図7)

牛は牧者と一体化した(?)と考える。(となると、「牛」は「自己」ではなく「心」と観るべきでしょうね)
そして、牧者も消える。なぜなら、牧者である必要がなくなるから。(図8)

「返本還源」とあったけど、自然(外界)が再び現れるということは、牧者が復活したということだけど、牛はいないので牧者である必要はない。牧者でなければ何になるのか。。ということで、認識の対象だけがかがやく。(図9)

図9のように、認識対象があるなら、認識主体もあるだろう。見る目はどこにあって、それは、誰なのか。。ということで、他を救う布袋さん(図10)
(これを見る目は、衆生の目か?)


はっきりさせるべきは、「牛」「牧者」は消える、ということではないでしょうか。
となると、「自己」とか「一無位の真人」も、消えるということですよね。
これを消さないと仏教にならないな。


「ありのままの自然がある」(図9)というとき、自然を観察する目がどこかにあるはずですが、その目は「悟った人の目」※としてどこかにあるのか、「すべてを見渡す目」としてあるのかで、ちがって来ます。仏教にいくか外道にいくか、ということになりそうです。

※ちょっと訂正します。「悟った人の目」というのはないですね。
そうではなくて、悟った人に救われる「衆生の目」というのが、合っているのではないかと思います。
「悟った人」であれば、もはや見ることもいらないかもしれません。「如来(このようにやって来た者)」といわれる理由にもなっています。常に、如来は、大衆が見つめる目線の先にいます。




> ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。

牛に気をとられていること自体が、何か、問題の本質がずれてる感じがあります。
十牛図』は、大きな声では言えませんが、どことなく素人っぽい感じのする図柄ですね。
どうして素人っぽいか検証してみましょう。


『カタ・ウパニシャッド』に有名なヨ-ガの説明があるのです。
こちらは、馬と馬車が出てくるのです。「牛」にあたるものが「馬」なのです。

馬は、感覚器官です。目の前に広がる道路が、感覚対象です。馬は、自分の好きな感覚対象に向かって暴走します。牛を手なずける牧者にあたるものは何か。これは、御者です。御者は、ブッディ(知性)です。ブッディが手綱をにぎって、感覚器官の暴走をおさえます。そして、御者とは関係なく、馬車の中には、主人がいます。この主人こそが、ア-トマンなのです。認識の暴走には一切関わらないが、主体として観察を行う認識の主体、それが、真人であるプルシャ、あるいは、ア-トマンなのです。

これは、サ-ンキヤの思想を説明するものです。これはこれで一貫しています。


さて、一方、仏教では、
ブッダは、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経の中で、くびきをかけた牛が田を耕す姿にたとえましたね。

「おまえも耕せ、耕して、種をまいて、それから食べよ」と言われたブッダは、「わたしもたがやし、種をまいてそれから食べる」と答えます。

ブッダは、耕す牛なのです。ブッダ自身が牛です。
信が種、苦役が雨、智慧がわたしのくびきと鋤、慚(恥じること)が長柄、心が縛る紐だと答えます。気づきは、鋤先と(牛を追う)棒です。
棒でうたれるたびに「気づく」ということでしょう。

78 身体を守り、言葉を守り、お腹に入る食べ物を制御し、真実を草刈りとして行い、柔和であることを(くびきから牛を)解き放つこととして行います。

79 精進が、わたしにとって、くびきを掛けた牛であり、瑜伽安穏(=涅槃の境地)に運んでくれるものです。退くことなく行きます。そして、そこに到達したなら、憂うことはありません。(「スッタニパ-タ」)

やっぱり、レベルが違いますよね。ウパニシャッドも「十牛図」よりはるかに詳細ですが、さらに、ブッダの解説は、群を抜いていますね。解脱まできちんと説明されています。

牛がくびきをはずして労役を逃れるように、瑜伽安穏の境地は、ホッと寂静を呼ぶ涅槃です。お見事!ブッダ


> 仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。

おっしゃる通りです。
バ-ラドヴァ-ジャに語った「耕す牛」の説明なら、矢が抜ける事がはっきり分かります。

> 本当に矢を抜くことができるのかどうか。
> そこが禅に限らずすべての仏教あるいは仏教以外の宗教でも問われなければいけないところでしょう。

ウパニシャッドは、矢を抜こうとして、楽に向かったと思います。オオクワガタの道ですよね。それなりに、極めるとその通りになる道だと思います。

しかし、ブッダは、「楽は苦のもと」として、楽に向かわず、苦の滅を目指しました。
楽に向かった人々が求めたものが、ア-トマン(我)でありプルシャ(真人)でありますから、それらを求めることなく、無我を説き、プルシャ(人)を五蘊と分析したのでしょう。

>
> そもそも、自分に矢が刺さっているとはほとんど誰も気づいてないのですから、大変です。
> 仏陀が悟ったときに、『説いても無駄だ』と思ったのも当然な気がします。

そうですね。だいたい「真の自己」を求めると、「楽」を希求することになりますから、ブッダの教えにはいけないことが多いのではないでしょうか。

真の自己も、気づきを得るためだ、とすれば、自分の矢に気づく方法にもなるのかもしれませんが。
>
> 禅で本当に矢を抜くことができるのか、それは少し疑問です。
> 見性をしたことを印可されても、その体験がかえって我塊になり矢になって刺さることも数多い感じがしています。


真の自己が残ってしまって、それがその人を苦しめるのかもしれませんね。
坐禅をするとかえって煩悩がましてしまうので、ちょっと困ります。


> 最も根本的な問題ですね。
>
> 臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
> 一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。


もろに、ヤ-ジュニャヴァルキヤのア-トマンみたいな解釈ですね。。すごいな。
プルシャ(ア-トマン)は心臓内にある光明です。死ぬ時、それは、目などの身体の部分からでていきます。それが出て行くとき、プラ-ナ(生気)が後に従い、それにつれて他の諸機能もすべて出て行くのです。

眠るとき、このプルシャは、この世とかの世(ブラフマン界)を行き来すると言われます。

また、この他に、後代のヨ-ガ学派では、ア-トマンは身体のあらゆるところに行きわたっていると解釈したりします。それを観ずることも冥想です。生気の流れとして皮膚の表面にまでア-トマンが行きわたっているのを観ずるのです。

う-ん、ほとんど、ア-トマン論のようですね。

> この一無位の真人と無我との関係はどうなのか、一無位の真人とア-トマンはどう違うのか、
> そもそもア-トマンとは何か、ブラフマンとは何か、自洲の『自』とは何か、ここは本当に難しく、この根本的なところで混乱を極めていると言う気がしています。

混乱しますよね。
わたしは、ある程度、決着をつけています。外道も研究したおかげかも(笑)

もし、「一無位の真人」を観ているのなら、さっさと消した方がいいのではないかと思いますね。
十牛図」でも消えてましたよね。


ア-トマン(我)とプルシャ(真人)は、もともとは違っていて、ア-トマンは、どちらかと言うと「気息」などと関連し、霊魂、霊我、魂などのような目に見えない生命のもとと言った感じがします。

プルシャは、「人」です。一個の人間、統括された生命体全体という感じです。「心臓の内部にある親指大のプルシャ」などと、説明されると、人のかたちをしたものが心臓内部にあるようなイメ-ジを持ちますね。やがて、どちらも同じ意味を担うようになり、区別せずに用いられるようになります。

こういう形而上学的な「ア-トマン」という意味を、決してもたないのが、ブッダの使い方です。
「自洲」は、「自分を拠り所にしなさい」ということだと考えてよいと思います。

ブッダは、わたしたちが普段使って話している話し方をそのまま認めてくれます。
相手に合わせて使い分けてくれるので、ブッダのことばであることがはっきりしているなら、自分が理解していることばの意味に受けとって大丈夫なのです。

外道が用いている意味にとってしまったらどうか?

その場合、最終的に、そのことばはかならず否定されてくると観てよいのじゃないでしょうか。
「賊」となったブッダが根こそぎさらっていってくれるということで。

【2021/06/12(Sat) 07:25:32 投稿者により修正されました。】


 

  [No.21793] 十牛図は幼稚かもしれませんが 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 10:17:30

石飛先生、おはようございます。


> う-ん、そうですか。ちょっとひっかかりますね。
> まあ、「空」でも、アドヴァイタ的理解をする人がたくさんいますから。
> こちらの方が、考えやすいということかもしれません。

確かに、アドヴァイタはわかりやすいですね。
頭で十分理解ができます。


> 第7図以降に牛が出てこないところが、何とか、仏教の面目を保っている感じですね。
> その分、第6図までの「牛」が、問題になるかと。
> 牛を「心」と見るなら、心で統一すればよいと思いますが、「自己」とか言われると、「なに?」とか思いますよね。「自己」は、本来、ふつうの意味での「自分」でしょうね。
> ざっくり言えば、変転する心を制御して、落ち着きを得て、利他の行いをしていこう、ということと理解してよいのだろうと思います。
> 「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。


先生が、そこを問題とされるのは理解できます。
しかし、私のようなレベルのものは、『現在の自分と違う本来の自分』というものを設定したほうがわかりやすいことも確かです。
またそのような『化城』を設定しないと行こうという気にならないところがあります。

禅では、『父母未生以前本来の面目』を徹底的に考え抜きます。
もちろん考えても答えが出るわけはないのですが、これはある程度効果があるやり方だと思います。
私は、黙照だけの禅では、どこにも行き着かず、やはり仏陀の理法を洞察するやり方が最善だと思っているのですが
『父母未生以前本来の面目』は、知らず知らずに五蘊非我を観ずる結果になることもあるような気がします。



> 十牛図は、「人」を中心に語っていて、五蘊とか身心とかには触れていない見方をとっているようです。だから、「牛」と「牧者」なのでしょう。
> これなら、これで押し通した方がいいです。
> たえず「牛」を制御している「牧者」となってくる。そうなると、制御されるので「牛」が消える。 (図7)
>
> 牛は牧者と一体化した(?)と考える。(となると、「牛」は「自己」ではなく「心」と観るべきでしょうね)
> そして、牧者も消える。なぜなら、牧者である必要がなくなるから。(図8)
>
> 「返本還源」とあったけど、自然(外界)が再び現れるということは、牧者が復活したということだけど、牛はいないので牧者である必要はない。牧者でなければ何になるのか。。ということで、認識の対象だけがかがやく。(図9)
>
> 図9のように、認識対象があるなら、認識主体もあるだろう。見る目はどこにあって、それは、誰なのか。。ということで、他を救う布袋さん(図10)
> (これを見る目は、衆生の目か?)
> はっきりさせるべきは、「牛」「牧者」は消える、ということではないでしょうか。
> となると、「自己」とか「一無位の真人」も、消えるということですよね。
> これを消さないと仏教にならないな。
> 「ありのままの自然がある」(図9)というとき、自然を観察する目がどこかにあるはずですが、その目は「悟った人の目」※としてどこかにあるのか、「すべてを見渡す目」としてあるのかで、ちがって来ます。仏教にいくか外道にいくか、ということになりそうです。
>
> ※ちょっと訂正します。「悟った人の目」というのはないですね。
> そうではなくて、悟った人に救われる「衆生の目」というのが、合っているのではないかと思います。
> 「悟った人」であれば、もはや見ることもいらないかもしれません。「如来(このようにやって来た者)」といわれる理由にもなっています。常に、如来は、大衆が見つめる目線の先にいます。
>
> 牛に気をとられていること自体が、何か、問題の本質がずれてる感じがあります。
> 『十牛図』は、大きな声では言えませんが、どことなく素人っぽい感じのする図柄ですね。


確かに、先生からすると、十牛図は、幼稚で素人っぽいかもしれません。
牛を設定することなど必要ない、本質から外れてしまうと思われるのも分かります。
本来の自分とか、そういうものを設定するんじゃない!と怒られる気持ちもわかります。

第8図だけでいいのかもしれません。
しかし、それではとっかかりがありません。

最終的には、牛の設定も筏だったとわかればいいと思います。
まずは、彼岸に行こうとする意思を起こさなければ何も始まりません。


浄土教でも、やはり阿弥陀仏が実在していて蓮の花が咲いている浄土に仏像のような阿弥陀様が座っておられると信じるから救われる人も出てきます。
最初から、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』というのが本当なのでしょうけど、『それを言っちゃおしまい』のような気がします。
『いやあ、実はネタでした。』とは言わないほうがいいと思います。



これから出ますので、また後から続きを書かせていただきます。


 

  [No.21795] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/12(Sat) 13:38:43


ショ-シャンクさま
お出かけされているとは思いますが、気づいた点を書いてみておきます。

> > 「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。
>
>
> 先生が、そこを問題とされるのは理解できます。
> しかし、私のようなレベルのものは、『現在の自分と違う本来の自分』というものを設定したほうがわかりやすいことも確かです。
> またそのような『化城』を設定しないと行こうという気にならないところがあります。


ここを拝読して、納得しました。
了解です。

『現在の自分と違う本来の自分』と設定する、という、この「自分」とおっしゃるところに、わたしは興味をもつのです。
これは、本当に、お釈迦さまが述べるところの「自分」ということばの意味ですね。
『ダンマパダ』などで「自分が自分の守護者である。他人が、どうして守護者になるだろうか。自己をよく調御するならば、得難き守護者を獲得するのである。(160)」と言われることばの使い方と同じですね。

「『本来の』自分」か、なかなか悩ましい表現ですね。罠の危険を回避しつつ、考えていかねばならない、ということか。。なるほどなあ。


> 禅では、『父母未生以前本来の面目』を徹底的に考え抜きます。
> もちろん考えても答えが出るわけはないのですが、これはある程度効果があるやり方だと思います。
> 私は、黙照だけの禅では、どこにも行き着かず、やはり仏陀の理法を洞察するやり方が最善だと思っているのですが
> 『父母未生以前本来の面目』は、知らず知らずに五蘊非我を観ずる結果になることもあるような気がします。


ここも「『本来』の面目」といわれるのですね。自分というものをト-タルで考えていきましょう、という姿勢ですね。
「父母未生」により、わたしには、輪廻と業が意識されてきます。五蘊非我も確かに見えてきそうです。

> 確かに、先生からすると、十牛図は、幼稚で素人っぽいかもしれません。
> 牛を設定することなど必要ない、本質から外れてしまうと思われるのも分かります。
> 本来の自分とか、そういうものを設定するんじゃない!と怒られる気持ちもわかります。


いえ、別に怒っているわけではありません。
>
> 第8図だけでいいのかもしれません。
> しかし、それではとっかかりがありません。

確かにそうです。おっしゃる通りで、第8図だけではまずいです。

わたしが言いたいのは、牛と牧者をどう見るか、どう見ると、ブッダの説くような「矢を抜くこと」が可能になるか、ということで、分けるのが悪いと言っているのではないのです。

どんなやり方でも、悟りにいけるならそれでいいと思います。ただ、いかにも、我へと突き進みそうなところにチェックを入れていくのです。
>
> 最終的には、牛の設定も筏だったとわかればいいと思います。
> まずは、彼岸に行こうとする意思を起こさなければ何も始まりません。

おっしゃる通りで、その点では、牛と牧者でも問題はないのです。

わたしが心配するのは、牛と牧者が一体化するところで、これこそが「本来」の自己だと、して、執着にいかないか、という点です。

それがクリアできれば、問題はありません。
>
>
> 浄土教でも、やはり阿弥陀仏が実在していて蓮の花が咲いている浄土に仏像のような阿弥陀様が座っておられると信じるから救われる人も出てきます。
> 最初から、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』というのが本当なのでしょうけど、『それを言っちゃおしまい』のような気がします。
> 『いやあ、実はネタでした。』とは言わないほうがいいと思います。

わたしは、いわゆる「うそも方便」みたいなネタという考え方はろらないです。
最後に得られる感慨を、あらかじめ持ってしまうことは、大きな危険であり、誤った行いにもなると思っています。

仏教は順序が大事だからです。


> これから出ますので、また後から続きを書かせていただきます。


待ちきれず、余計なことを書いてしまったかもしれませんが、よろしくお願いします。


 

  [No.21800] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 18:53:36

石飛先生、ありがとうございます。

> 『現在の自分と違う本来の自分』と設定する、という、この「自分」とおっしゃるところに、わたしは興味をもつのです。
> これは、本当に、お釈迦さまが述べるところの「自分」ということばの意味ですね。
> 『ダンマパダ』などで「自分が自分の守護者である。他人が、どうして守護者になるだろうか。自己をよく調御するならば、得難き守護者を獲得するのである。(160)」と言われることばの使い方と同じですね。
> 「『本来の』自分」か、なかなか悩ましい表現ですね。罠の危険を回避しつつ、考えていかねばならない、ということか。。なるほどなあ。

よく言われる言葉に、『何かになろうとするのも自我』『いまの自分でない何かになろうとするのは間違っている』『自分は自分であればいい』などというのがありますね。
あるいは『悟ろうというのも自我』という人もいます。

ただ、いまはっきりわかるのは、『ありのままの自分でいい』というよく言われる言葉は全く違うということです。
ありのままの自分では絶対にいけないと思います。
ありのままでは、激流に押し流されたままです。
今まで積み上げてきた記憶の束が感覚に対して今までと同じように反応しつづけ、苦の集積へと向かうだけです。
この人間の真実をみていないものが、『ありのままの自分でいい』というのだと思います。

最後の最後まで、つまり解脱するまでは、自我はなくならないと思っています。
これは自力だ、これは自我だ、と言っていては、よくなろうという意志が生まれないでしょう。
自我であっても自力であっても、あがく必要はあると思います。

また、大我のようなものを設定することに危険性を感じておられると思いますが、
これもある程度途中までは仕方ないことのように思えます。
最後に、『これも筏だった』と捨てられればいいのではないかと思うのですが、どう思われますか?


 

  [No.21802] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/13(Sun) 06:21:35

ショ-シャンクさま 微妙に難しくなりましたね。

少し論調が変わりましたか?

> よく言われる言葉に、『何かになろうとするのも自我』『いまの自分でない何かになろうとするのは間違っている』『自分は自分であればいい』などというのがありますね。
> あるいは『悟ろうというのも自我』という人もいます。
>
> ただ、いまはっきりわかるのは、『ありのままの自分でいい』というよく言われる言葉は全く違うということです。

これらのことばは、仏教を志そうとする人が述べているのでしょうか。
ふつうの人がこう言うなら、それはその人の考えかと思います。

「悟ろうとするのも自我」というなら、どういう状況で言うのかが問題ですね。

> ありのままの自分では絶対にいけないと思います。
> ありのままでは、激流に押し流されたままです。

まあ、わたしがこう言うわけではないので、ショ-シャンクさまにそう言われても、どうしようもありませんが。。

> 今まで積み上げてきた記憶の束が感覚に対して今までと同じように反応しつづけ、苦の集積へと向かうだけです。
> この人間の真実をみていないものが、『ありのままの自分でいい』というのだと思います。

状況としては、ショ-シャンクさまのおっしゃるとおりになりそうな感じはありますが、それぞれ個々に事情もありそうだなと。なんとなく、仏道の修行に入った人が、あきらめてきている雰囲気が漂います。挫折したかな、という感じです。

> 最後の最後まで、つまり解脱するまでは、自我はなくならないと思っています。
> これは自力だ、これは自我だ、と言っていては、よくなろうという意志が生まれないでしょう。
> 自我であっても自力であっても、あがく必要はあると思います。

ふうむ、やはり、ショ-シャンクさまは、自力聖道門の人ですね。

> また、大我のようなものを設定することに危険性を感じておられると思いますが、
> これもある程度途中までは仕方ないことのように思えます。

ショ-シャンクさまが自力聖道門タイプということであれば、大我の危険性は、一番ショ-シャンクさまがご存じです。

「父母未生『本来』の面目」「『本来』の自己」を自力で行こうという人が、それを目標に目指すとすれば、もし、本当に純粋にそう思うのであれば、そこには、「無知(痴)」という要素が見られると思います。

本人が矛盾していることに気づいていないかもしれません。原因としては、おそらく、欲などの三毒が悪さをしているかもしれないと思います。

なぜかと言えば、「ありのままの自分」を見失っているからです。

ありのままの自分で良いと思うなら、理屈からすれば、大我が出てきますね。
ありのままの自分を見つめたら、まず、確実に自我にぶち当たるのではないでしょうか。

途中までは仕方がない、として、ある程度出てきたところで止めよう、などと考えるのは甘いのではないでしょうか。大我を止められると思いますか。そんなに、人間、器用なものでしょうか。

実際に、大我をコントロ-ルして悟りに行こう、などと考えるゆとりはありません。
ご本人は気づかず、まわりに指摘されてようやく気づくことになるのではないでしょうか。

わたしが思いますのには、自力で行く人が「本来の自己」を見いだそうとするのは大我を求めて行くようなものだと思います。
もし、本来の自己を求めるなら、それは「壊すべき自己」でしかありません。
となると、これは、大我に気づいて、それを壊すために行っている作業なのではないでしょうか。
そうでないと、解脱を求めているのに、前に進まず後ろ向きに進んでいるような感じがします。


もし、「ありのままの自分でよい」と思うような人なら、その人こそ「父母未生本来の面目」を見つめていき、「空」と知ることになるのではないかと。
「ありのまま」と考える人が、大我にいかない道は、空しかありません。


> 最後に、『これも筏だった』と捨てられればいいのではないかと思うのですが、どう思われますか?

仏教の教えを捨てるのは、至難のワザです。
向こう岸に着くかどうかが、まず大問題ですが、彼岸にわたったとしても、これまでの法を全部捨ててかかるのは、なかなかたいへんだろうと思います。

しかし、捨てないとだめだということも分かります。捨てられるようでないと、彼岸にはわたりきれていないということにもなるかと。

惜しげなく捨てられる人は、一切智者なのです。
一切智を得ているということと、一切を捨てているということは、悟っていない者からすれば、同じことです。


結論から言いますと、大我を積極的に求めて行き、その苦しみを実感して、それらの教えを捨てる、という道もあると思います。
わたしは、どちらかと言いますと、この道を来ています。後になって、こういう道を来たことを知りました。龍樹に出会いましたね。

最初から仏法に行った人は、ブッダの教えるやり方(清浄行)が、早いと思います。声聞乗ですね。

十牛図」で悟ろうと思う人は、徹底して「空」に行くか「無我」に行くかしないと、ぐちゃぐちゃになりそうだと思います。

その意味で、第10図に疑問を感じてます。
素人っぽい感じは、第10図があるからだと思います。
十牛図Youtubeを見ていたのですが、第10図の説明がどうもよく分かりませんでした。

第9図までは、一貫していると思います。おっしゃるように、突然、最初から第8図を見いだすことはできないと思いますから。

もし、第10図に意味を見いだすとしたら、それは菩薩の道だろうなと思います。
悟りを求める、というより、菩薩であり続けようという道のような気がします。


 

  [No.21805] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/13(Sun) 08:50:46

石飛先生、おはようございます。


> ふうむ、やはり、ショ-シャンクさまは、自力聖道門の人ですね。

聖道門というのは、大乗仏教浄土門と聖道門に分けたものですよね。
私は、そのどちらでもないと思います。
と言って、部派仏教でもないです。

大乗仏教でも部派仏教でもなく、仏陀と直弟子の時代、仏陀は本当は何を言いたかったのかに関心がある人間です。

ですから、私は、大我というものは立てません。ア-トマンやプルシャもただのmohaだと思っています。

ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。

私は、大我やア-トマン、ブラフマンは、立てませんが、強いて言うなら、本来の心の状態というのは無量心だと思っています。
この無量心が無明⇒行によって、五蘊が集まり、今の私のこの生があるのだと実感しています。



> 「十牛図」で悟ろうと思う人は、徹底して「空」に行くか「無我」に行くかしないと、ぐちゃぐちゃになりそうだと思います。
> その意味で、第10図に疑問を感じてます。
> 素人っぽい感じは、第10図があるからだと思います。
> 十牛図Youtubeを見ていたのですが、第10図の説明がどうもよく分かりませんでした。
> 第9図までは、一貫していると思います。おっしゃるように、突然、最初から第8図を見いだすことはできないと思いますから。
> もし、第10図に意味を見いだすとしたら、それは菩薩の道だろうなと思います。
> 悟りを求める、というより、菩薩であり続けようという道のような気がします。



禅は仏陀の理法を洞察することがないので、私は禅の道を進もうとは思いません。
ただ、学生の時によく、禅の本は読んで公案は好きでした。
十牛図など懐かしい気分で思い出しています。
いまはあまり興味ありませんが。

私の解釈では、十牛図の第8図、第9図、第10図は、無量心の『体』、『相』、『用』なのです。

ですから、第十図は極めて重要だと感じています。
先生の言われる菩薩道を表わしたものでしょう。


 

  [No.21808] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/14(Mon) 07:03:47

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 大乗仏教でも部派仏教でもなく、仏陀と直弟子の時代、仏陀は本当は何を言いたかったのかに関心がある人間です。

了解です。

> ですから、私は、大我というものは立てません。ア-トマンやプルシャもただのmohaだと思っています。

インド思想でない人は、むしろ考えにくいのかもしれない、と思ったりもします。
ア-トマンやプルシャという名称は、今日、違うことばに置き換わっているかもしれません。ちょっと、これという名前は出てきませんけど。
>
> ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
> 大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。

なるほど、なかなか仏法の要点を捉えていますね。
つまりは、仏法は仮設であるということでしょうか。
>
> 私は、大我やア-トマン、ブラフマンは、立てませんが、強いて言うなら、本来の心の状態というのは無量心だと思っています。
> この無量心が無明⇒行によって、五蘊が集まり、今の私のこの生があるのだと実感しています。

本来の心の状態、という風にお考えになるのですね。そこに無量心を見ると。


> 禅は仏陀の理法を洞察することがないので、私は禅の道を進もうとは思いません。
> ただ、学生の時によく、禅の本は読んで公案は好きでした。
> 十牛図など懐かしい気分で思い出しています。
> いまはあまり興味ありませんが。


そうですか。
禅は、あまり分かりませんが、道元ブッダの理法を洞察しているように思われて仕方ありません。
禅の心をもって到達したのかな、と最初は思っていましたが、実際は、すごくよく勉強しているんだなと思います。
若いうちに悟りを得ているように思いますので、巧みなのだろうと思っています。


> 私の解釈では、十牛図の第8図、第9図、第10図は、無量心の『体』、『相』、『用』なのです。

ふうむ、そうですか。そういう風にごらんになっているのですね。
おもしろい!

了解しました。。

大我は立てないということでしたが、パ-スペクティブとしては、広い視野でごらんになっているということですね。世界を見る目を得ている、という感じでしょうか。。


> ですから、第十図は極めて重要だと感じています。
> 先生の言われる菩薩道を表わしたものでしょう。


そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
イヤ、違うのかな。視野としては、最初から広い視野を持っているかもしれないと、今!、思いました。

そういうことなら、十牛図は矛盾していないかもしれません。
わたしは、禅ということなので自己の探究という要素が強いのだろうと、勝手に思い込んで理解しようとしていたので、ピンと来なかったのだと思います。

なるほどなあ、大我は立てないとしても、大我という視点は忘れていない、ということかもしれないなぁ。。(ほとんどひとりごとです)


個人的には、ゴ-パ-ル(牛飼い)であるクリシュナ(ヴィシュヌの化身)の画像と、一匹の迷える羊を探すキリストとが、重なるような図だなあと思って、まったく関係ないところで、おもしろく思っていました。
このように、どこか、一神教的な雰囲気も感じながらお話しを聞いていましたので、途中経過に大我が出てくるのも分かります。どうしても、そうなりますね。

これは、第8図がないとトンデモないことになるな、とも思います。第7図が過渡的な図で、第8図以降パ-スペクティブが、これまでとまったく違う、という風に考えます。

どうも、ありがとうございました。一つ大事なところを了解しました。


 

  [No.21811] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 08:07:19

石飛先生、おはようございます。


> 禅は、あまり分かりませんが、道元ブッダの理法を洞察しているように思われて仕方ありません。
> 禅の心をもって到達したのかな、と最初は思っていましたが、実際は、すごくよく勉強しているんだなと思います。
> 若いうちに悟りを得ているように思いますので、巧みなのだろうと思っています。


今までの日本において、仏陀の理法、特に四諦十二縁起はほとんどかえりみられることはありませんでした。
それほど五時教判が強烈に支配してきましたし、文献学が発達していない時には、圧倒的な説得力を持っていました。
日本人がスッタニパ-タを読めるようになったのも、ここ何百年かのことではないかと思います。

道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
ただ、三十七菩提分法をわざわざ取り上げているのは、さすがというしかありません。




> そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。

その通りです。
ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。
禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。

大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。

『人』がいて、『牛』を探してきたのは、顛倒妄想ということです。

その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。

と禅の門外漢が戯言を言ってみます。


 

  [No.21823] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/15(Tue) 06:35:49

ショ-シャンクさま 興味深い話題をありがとうございます。

> 今までの日本において、仏陀の理法、特に四諦十二縁起はほとんどかえりみられることはありませんでした。

なるほど、そのように受けとめられているのですね。

わたしは、最近、ようやく日本の仏教に入り込んできて、「なぜ、日本人は、ブッダの仏法をあやまたずに受けとめてきたのか」という問題を考えています。

わたしの目には、すごくうまく仏教を受けとめてきたような気がしてなりません。
庶民の仏教理解が、特に善いのかなとか思ったりもしています。

> それほど五時教判が強烈に支配してきましたし、文献学が発達していない時には、圧倒的な説得力を持っていました。

五時の教判は、それなりにあたっているところもあると思います。なるほど、と思ったりもします。
ブッダの教えを、巧みな方便(行法)として捉える捉え方だと思います。


> 道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。

う-ん、どうなんだろう。
わたしは、インドの思想を適切に読み取っていると思って、「へえ~」と感心しています。
大智度論』とかしっかり読んだのかしら。。などと思ったり。

> 小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。

偏見でしょうか。
まず、道元は、大乗の人で、空を確実に手に入れていますね。
しかし、縁起にも強く、龍樹もよく知っています。そして、ミスがない。これは禅定の成果かと思っています。


パ-リ語仏典など知らないだろうと思われるのですが、それとの間に矛盾がみられないのも、驚愕です。ブッダの論理を知っている人だという気がします。


> > そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。
>
> その通りです。
> ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。

そうですか。。断絶のあるのが禅、ですか。。
実際のところ、わたしが、素人っぽいと思うところに重なります。
禅なのに断絶があるなんて、という感じもあります。

> 禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。

あら、門外漢なのですか?!
わたしよりずっと詳しいし、禅をなさっているのかと思っていました。
この断絶のあるところが、ネックなのでしょうか。
わたしとしては、「十牛図」は、解釈がいくつもあり得るのが、ちょっと問題のように感じます。断絶する個所が、解釈によって移動するのが、何だか収まりが悪い感じがするのです。
>
> 大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
> ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。

ああ、なるほど、ここは、分かるような気がします。
大死一番、また、百尺の竿頭一歩を踏み出すのは、波羅蜜行の展開ですね。

「人」はなくなるとしても、「行(サンカ-ラ)」は強力に出てくると思います。
ここは、ここで善いけど、なんで、それが禅の中で現れるのか。。変な感じです。
>
> 『人』がいて、『牛』を探してきたのは、顛倒妄想ということです。

う-ん、「『牛』とはなんぞや?」とあらためて問いたくなりますね。
もっとスッキリした説明ができないのだろうか?
それより、「何やってんだ、何がやりたいんだ???」って言いたくなっちゃう。

もし、本当にショ-シャンクさまの説明どおりなら、空と縁起をでたらめに結びつけて修行っぽく見せてるだけのような気もしてきてしまいますが、まさかそんなことはないでしょう。

何か、わたしには分からない意図なり何なりあるのではないかと思うしかありません。

>
> その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。
>
> と禅の門外漢が戯言を言ってみます。

ショ-シャンクさまも、「門外漢」とおっしゃっているということは、この、禅という道からはずれていった、ということですね。

理解した最大の説明が、体・相・用の解釈だったと、いうことかと。

う--ん、分からん!
十牛図」は分からない、と、なりました。


そもそも、自分の中では、断絶は起こりえません。
ましてや、禅の行では、と、自分は思います。
区切りをつけるとすれば、サマ-ディということになると思います。


 

  [No.21826] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/06/15(Tue) 10:05:22


ショ-シャンクさま 興味深い話題をありがとうございます。


興味深くない話を 差し込む


***********

< 参照 > Re: 仏陀は三明者 - 春間 則廣 06/14-13:07 No.21817


> > 道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
> う-ん、どうなんだろう。
> わたしは、インドの思想を適切に読み取っていると思って、「へえ~」と感心しています。
> 『大智度論』とかしっかり読んだのかしら。。などと思ったり。

読まずに、 曹洞宗 の 十四祖 に 龍樹が存在できない

八宗兼学 は 日本仏教の要

( 道元に限らず、
玄ボウ、空海最澄法然日蓮 等々 皆、 教判出来るほどに 仏教を学んでいる )

> > 小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
> 偏見でしょうか。

道元にある偏見 か 、 小乗 という処の 偏見 か
( 言われる処の偏見 ・ 言う処の偏見 どちらか ? )

> まず、道元は、大乗の人で、空を確実に手に入れていますね。
> しかし、縁起にも強く、龍樹もよく知っています。そして、ミスがない。これは禅定の成果かと思っています。

果 ではないが、 禅定にある ということ ( 行住坐臥 に 「 禅 」 )

> パ-リ語仏典など知らないだろうと思われるのですが、それとの間に矛盾がみられないのも、驚愕です。ブッダの論理を知っている人だという気がします。

パ-リ語仏典 が ブッダの言葉そのもの ではないが、
パ-リ語仏典 からでも ブッダの行いを知ることは適う
( ただし、 「 唯仏与仏乃能究尽 」 )

頭の悪い人は、 頭の悪いなりに、
頭の良い人のことを理解する が
頭の良い人 ( その良さの仕組み )の こと を
知らぬ ・ 知ろうとしないから 、 “ 頭が悪い ” となる

悪さ が 元々ある のではなく
悪さ を 選択することにより 悪さ は 起きる
( 他によって、 悪いと 選択される )

> > > そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。

> > その通りです。
> > ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。

> そうですか。。断絶のあるのが禅、ですか。。
> 実際のところ、わたしが、素人っぽいと思うところに重なります。
> 禅なのに断絶があるなんて、という感じもあります。

禅( 禅宗・仏宗 ) には、 血脈があり 仏子 が起き、 釈家 が 起きる故に
空海 と 記名したり 、 沙門( シャ-マン ) 空海 と 記したりする

その血脈 は 、 「 血 」 そのものであり、 仏陀 を 意味する

> > 禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。

> あら、門外漢なのですか?!
> わたしよりずっと詳しいし、禅をなさっているのかと思っていました。

わたしは 「 禅 」 を行じている とは 微塵も思ってはいない

ただ、 自分の理屈 を “ 自分の(!)生き様 ” に 当てはめているだけ
だと 観る ( 看過する )

以下 そのように、 思い込みが 続けられていく 、、、、 ( 思い込みではなく、 事実かな ? )


> > 大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
> > ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。

> ああ、なるほど、ここは、分かるような気がします。

『人』はなくなる ゆえに 人ではなく 仏陀となる

> 大死一番、また、百尺の竿頭一歩を踏み出すのは、波羅蜜行の展開ですね。

あくまでも、 他人事に過ぎなくなる
何を以てして、 「 百尺の竿頭一歩を踏み出す 」 ということになるのか 、、、、



 

  [No.21827] 五時教判の見事さ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 10:32:43

石飛先生、おはようございます。

> わたしは、最近、ようやく日本の仏教に入り込んできて、「なぜ、日本人は、ブッダの仏法をあやまたずに受けとめてきたのか」という問題を考えています。
> わたしの目には、すごくうまく仏教を受けとめてきたような気がしてなりません。
> 庶民の仏教理解が、特に善いのかなとか思ったりもしています。


そうですか。
私は、仏陀が本当に言いたかったことを探しているうちに、いかにいまの仏教は仏陀が言おうとしたこととかけ離れていったのかを知って愕然としているところです。
仏陀の直説を正しく伝えていると自負している上座部仏教でさえ、『dukkhaは苦という意味ではない』などと言っていますから、仏陀が悟ったときに『説いても誰にもわからないだろう』と説くのをあきらめたのも仕方ないことかもと思っています。
それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。



> 五時の教判は、それなりにあたっているところもあると思います。なるほど、と思ったりもします。
> ブッダの教えを、巧みな方便(行法)として捉える捉え方だと思います。


五時教判は、見事というしかありません。
南三北七で、涅槃経と華厳経がそれまでの中国仏教でのツ-トップでした。

法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
それほど、華厳経と涅槃経は優れているからです。
特に、華厳経の、悟りそのままとも言える最高度に純度の高い教えをどう位置づけるか、これは難題でしょう。

その回答として、五時教判は実に見事です。
華厳経仏陀の悟り直後の教えとしました。
高くて純粋で悟りそのままの教えだけど、純粋無垢すぎて方便がなく何より教えが高度すぎて誰にも理解できなかったとしました。
そこで反省した仏陀は、誰にもわかるようにレベルの低い教えである阿含経を説いたとしました。

それから段階的に教えのレベルを上げていくのですが、その場合、最後の教えが最も素晴らしいという結論にならざるを得ません。
そうすると、最期の教えたる涅槃経が最高という結論になってしまいます。

ここでまたまたウルトラCを使います。
仏陀は最後に真髄たる法華経を説いたけれども、入滅のとき、説きもらしていたものを補足の形で説いた、落穂拾いのような経典が涅槃経としました。

なんともすごいスト-リ-テラ-です。

そして、確かに、その経典の特徴をうまく表現していて、まさしく匠の技という感じです。

他にも教相判釈は数多いですが、ここまで見事なスト-リ-仕立てになっているものはありません。




いったん、切って、あとで続きを書かせていただきます。


 

  [No.21830] Re: 五時教判の見事さ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/15(Tue) 16:48:39

ショ-シャンクさま
わたしとしては、なかなかお話ししにくいところに入ってきてしまいました。
ショ-シャンクさまとは、少しニュアンス的に異なる感触を得ているようです。

> 私は、仏陀が本当に言いたかったことを探しているうちに、いかにいまの仏教は仏陀が言おうとしたこととかけ離れていったのかを知って愕然としているところです。

ブッダが積極的に何かを言おうとしたのではなく、衆生の苦しみや悩みを見て、それをなくすような、そのような教えをそれらの人々に合わせて説いたものだろうと考えています。

そういう意味では、何をどう説いても、ブッダ衆生を救っていれば、ブッダのことばであるということで、説いた内容そのものはそれほど気になりません。

> 仏陀の直説を正しく伝えていると自負している上座部仏教でさえ、『dukkhaは苦という意味ではない』などと言っていますから、仏陀が悟ったときに『説いても誰にもわからないだろう』と説くのをあきらめたのも仕方ないことかもと思っています。

上座部の仏教であれなんであれ、、もし、こだわりを持つようになると、ブッダの説くところからはずれて行くだろうと思います。

> それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
> ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。

悟ったブッダは、別に衆生におもねる必要はないので、純粋に梵天との約束を守ってこの世で苦しむ人々を救うために、まさに「無知の闇に沈む世界で不死の太鼓を打ち鳴らし」たのだろう、と思っています。


> 法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。

大乗経典は、何か意図をもって受けとられてきたように思いますので、困ることはなかったのではないか、という感じがしています。知らない人が、この経典を受けとったわけではなく、自分なりの必然性を以て探求して行った人がであったものだったのではないか、と思うのです。

こういうものは、人為というのは、そんなにはたらいていないと思います。おのずと定まるべき位置におさまっていくのではないかという風に考えます。
インドの伝統では、人間の手になるものではない、というのが、ヴェ-ダなど聖典の特徴です。

大乗などの経典類を受けとった者たちは、ブッダの教えに深く入っていき、信をもって受けとったでしょうから、受けとった経典がどこに位置づけられ、どんなものであるか心配することはなかったと思います。

> それほど、華厳経と涅槃経は優れているからです。
> 特に、華厳経の、悟りそのままとも言える最高度に純度の高い教えをどう位置づけるか、これは難題でしょう。
>
> その回答として、五時教判は実に見事です。
> 華厳経仏陀の悟り直後の教えとしました。

そうですね。わたし自身も、あまりよくは分かりませんが、ブッダの悟りの直後瞑想に入っていましたから、その辺の事情は了解できます。

> 高くて純粋で悟りそのままの教えだけど、純粋無垢すぎて方便がなく何より教えが高度すぎて誰にも理解できなかったとしました。
> そこで反省した仏陀は、誰にもわかるようにレベルの低い教えである阿含経を説いたとしました。

部派の人に怒られそうですが、分かりやすい教えにしたのは了解できます。
ブッダは、人々に教えを説くにあたって、ものすごくいろいろと智慧を発揮しています。そこを知ると、レベルが低いなどと簡単には言えないと思います。
たとえ、分かりやすくなっていても、きちんと悟りにいけるのですから、手を抜いているわけではありません。

> それから段階的に教えのレベルを上げていくのですが、その場合、最後の教えが最も素晴らしいという結論にならざるを得ません。
> そうすると、最期の教えたる涅槃経が最高という結論になってしまいます。
>
> ここでまたまたウルトラCを使います。
> 仏陀は最後に真髄たる法華経を説いたけれども、入滅のとき、説きもらしていたものを補足の形で説いた、落穂拾いのような経典が涅槃経としました。
>
> なんともすごいスト-リ-テラ-です。

わたしは、『大般涅槃経』は、ブッダの未練(?)を感じて仕方ないですね。
涅槃に入らなければならないけど、衆生を救う気持は時を超えて持ち続けている、と、ブッダが意思表示しているように見えて仕方がありません。考えすぎかなとは思いますが。

また、『法華経』は、この世にありえないスタイルの経典だと思っています。
縁起と空を一つに何とかおさめた経典で、ありとあらゆる未来に対応し、過去にもつながる、常人の理解を超えていながら、しかし、どんな人でも読んで信仰できるように作られています。

日本人は、よく『法華経』を受容したなあと、ほんとに感心します。後、浄土教を受け容れましたね。
因果に向いた国民性だったのですかね。
一般庶民が、仏法を受け入れるだけの度量をもっていたのかなあ、と感慨深く思います。
>
> そして、確かに、その経典の特徴をうまく表現していて、まさしく匠の技という感じです。
>
> 他にも教相判釈は数多いですが、ここまで見事なスト-リ-仕立てになっているものはありません。


やはり、仏教に深い信心をもつ者たちが、智慧を駆使して出現させたのだろうと思わざるをえません。

ショ-シャンクさまとは、少しニュアンスが異なる解釈になってしまいましたが、大乗のすばらしさという点では、それは共有されているのかなと思います。


 

  [No.21838] Re: 五時教判の見事さ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 09:52:41

石飛先生、ありがとうございます。

> わたしとしては、なかなかお話ししにくいところに入ってきてしまいました。
ショ-シャンクさまとは、少しニュアンス的に異なる感触を得ているようです。

私は、今までの仏教理解をいったん白紙にして、歴史上の仏陀が言ったことは本当はどんなものだったのかを探求したいと思いましたので、大乗仏教や部派仏教の全否定を出発点としています。
ですから、様々な仏教者から反対意見をいただいてきたのですが、それでもそれを貫いてきたのでよかったと思っています。
仏陀の真意から見て、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏教という、全否定から全肯定へと進みつつあります。

部派は、大いなるものを見失ってはいけないと思いますし、大乗仏教は、仏陀の理法、仏陀の残した筏を捨て去っては、どこにも行き着かないものとなります。
その意味で、わたしのなかでは統一できつつあります。

ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。




> > それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
> > ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。
>
> 悟ったブッダは、別に衆生におもねる必要はないので、純粋に梵天との約束を守ってこの世で苦しむ人々を救うために、まさに「無知の闇に沈む世界で不死の太鼓を打ち鳴らし」たのだろう、と思っています。


これは、仏陀が世間におもねって教えをアレンジしたという意味ではありません。
後世の者が、仏陀の言った意味を理解できなくて、世間や自分の考えに合わせてアレンジしたという意味です。



> > 法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
>
> 大乗経典は、何か意図をもって受けとられてきたように思いますので、困ることはなかったのではないか、という感じがしています。知らない人が、この経典を受けとったわけではなく、自分なりの必然性を以て探求して行った人がであったものだったのではないか、と思うのです。
> こういうものは、人為というのは、そんなにはたらいていないと思います。おのずと定まるべき位置におさまっていくのではないかという風に考えます。
> インドの伝統では、人間の手になるものではない、というのが、ヴェ-ダなど聖典の特徴です。
> 大乗などの経典類を受けとった者たちは、ブッダの教えに深く入っていき、信をもって受けとったでしょうから、受けとった経典がどこに位置づけられ、どんなものであるか心配することはなかったと思います。


大乗仏教では、大乗仏典の量が膨大であるため、すべてを所依の経典にすることができず、どの経典を最勝の経典として宗を立てるかで、教相判釈が盛んでした。
仏典の最高を華厳経にする派と涅槃経にする派に分かれていましたが、天台の五時教判は、そのツ-トップをたくみに位置づけてなおかつ法華経を最高としました。
ここは見事だと思っています。
教えの高低を判釈し、最高の教えを決定する教相判釈は、大乗仏教では一般的に行なわれていました。

空海の十住心論もそうです。
真言宗大日経を最高とし
華厳宗華厳経をその次に高い教えとし、
天台宗法華経をその次としました。

大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。