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  [No.23053] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/10/24(Sun) 06:51:29

管理人エム 様

おはようございます


> > ショ-シャンクさまは仏教を理解するのに、あらかじめある「常識」を超えて理解したいとは思っていないようだ、と思います。
> 私はあらゆる『仏教の常識』を白紙にしています
> あらかじめ『解答』をもって仏陀をながめることをしたくないのです。

仏教の常識 は 白紙にできても、
白紙にする ( 為に用いる ) あなたの常識 には
( あなたなりの ) 色が付けられている
( それを、 「 常識 」 と 言いますが、
「 常識 」 は “ 常識たること ” に 常住 する )

( このこと は 「 常識 」 と は なってはいない ! )
( こういうこと を、 認識の原点とする者 は、 “ 非常識 ” と 呼ばれることが多い )

「 己事究明 」 は 其処 に 起きている 、、、、、
( 其処が何処か は “常識ある人間” は 自分で決めて、 人に決めさせない )


“ あらかじめ『解答』をもって・・をながめる ” 常識に於いての あらかじめ 起こされていること

( こういうこと=あらかじめのこと を 理解することを拒み “ 薫習された 常識 ” に 「 常住」する )

「 仏教 」 は 其処 を 観ることから 始まる 、、、、


> そうですか ?

> そうですか
との間に 何等違いがない ということに、 気づいていない
( 後者 は 疑問を起こすことを 単に 放置して、 後に残している に過ぎない )


このような事 を ( 考察しようとはしない = 読み取らない )
“ 探求する者 ” = 探求しているとする ショ-シャンク さん


> > ただ、これも仕方ないのかもしれません。どこかショ-シャンクさまの解釈の中に、わたし自身がひっかかるところがあることは確かです

管理人エム 様 の ひっかかり には ひっかかることがない ショ-シャンク さん

自蘊 の 五蘊 に ひっかかる ( こういう意味 を 知ろうとは思わない )



> 今生きている衆生が全部救われたとしても、衆生はどんどん生まれてきます。衆生を救い終わるということはないのではないでしょうか。

生れる前に 救われた衆生 から 生まれ出る 子は
救われた衆生 になる 救われた衆生 の 分身 である 子

たとえ 、 その子 が 救われていない と 仮定しようと

生れて、 生きている 衆生 が すべて救われない限り
法蔵菩薩 は 悟りをとらず ( 先途 に 先渡 させる )

「 悟り 」 は 法蔵菩薩の「行」 に 、
「 永遠 」 に 、 存在している

「 菩薩 」 が 救うのではなく
「 悟り 」 ・ 「 法 」 が 救い なのです

「 如実 」 とは 「 如法 」 である

「 如法 」 を あるがままの衆生 とする 常不軽菩薩


救われている 「 法 」 に 手を合わせる

ナム アミダブツ
南無 ア ミタ 仏 ( 帰依 「 無量 」 仏 )



 

  [No.23054] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/24(Sun) 10:28:19

ショ-シャンクさま おはようございます。

> 私には、形而上と形而下のこだわりは全くありません。ただ、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか、ということに関心があるだけです。それがすべての興味です。

「歴史上の仏陀」といわれるところに、一つ仏教的でないものが紛れ込む要素があると、わたしは思います。

歴史に添っても語れることは語れますが、それだけでは、仏教理解の半分しかいかないだろうと思います。
唯一なる神をもたない仏教は、無始なる輪廻を認めています。

> 先生が、形而上があると仏教ではないと言われたので、大乗仏教に形而上が全くないというのはおかしいと思っているだけです。

歴史上の仏陀を知りたいとしているショ-シャンクさまなら、そのように考えることはわかります。

> そうですか?私はあらゆる『仏教の常識』を白紙にしています。今までの仏教なるものの全否定から入って、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを知りたいと思っているからです。

『仏教の常識』といわれるところに、なるほど、と思うものがあります。

> 今の日本の仏教の常識の真逆であることも認識しています。

大半の人は、ショ-シャンクさまの考え方をとっていると思います。ショ-シャンクさまの考え方の方が、ふつうではないでしょうか。
わたしは、そのショ-シャンクさまのもっているような“常識”を壊すのに、ものすごく苦労して、ここまでやって来ました。

> 今の日本の仏教の常識とは、仏陀より遥かに後世の宗祖たちを絶対正しいとして、その宗祖が言ったことから仏陀の言葉を解釈しているということです。

それは、わたしの考え方ではありませんが、そうなら、問題も抱えていることだろうと思います。

> 私は、仏陀を原点としたいと思っています。
> あらかじめ『解答』をもって仏陀をながめることをしたくないのです。

その点は、わたしも同じです。といいますか、同じでした。そして、誰が、仏陀の教えを受け継いでいるのか見極めようと思って、やってきました。

> 先生がおっしゃりたいことはわかります。

> しかし、阿弥陀仏を信仰する人、例えばここでいえばミチオくんがいます。
> ミチオくんがさかんに言っているのは、空や縁起を勉強することなど要らない、阿弥陀仏がどんな人も救ってくださるということをただ信じるだけだ、と。あれこれ勉強することはかえって妨げになる、と。
> そして、それはキリスト教も同じなのだ、と。
> ほとんどの阿弥陀仏信仰において、阿弥陀仏の本願を信じることだけがすべてとなっています。
> そしてそれであれば、キリスト教の神への全面的な信仰や、ヒンドゥ-教のバクティと原理的には変わりありません。

ミチオ君が、仏教の教えをほんとうに正しく受けとっているかどうか、みなさん、見極めようとしていますね。しっかり、“本物”かどうか、あらゆる人が見ていると思います。

> 仏教以外では、縁起や空や無我を説いていないではないか、だから自我を持ったまま神に没入するしかないだろう、ということですね。

う-ん(笑)、なかなかむずかしい。まあ、「ことばで言えば、間違いではない」と言ってしまいたい誘惑にかられます。
ただ、それを、行いの中に見るわけですが。。

わかりやすいのは、ミチオ君でしょう。阿弥陀仏への信仰を説きながら、語る対象のわたしたちをバカやアホ呼ばわりしている姿を見て、ほんとうに他力本願なのだろうか、と誰でも思うことでしょう。彼は、自我をすてておらず、しかも日に日に肥大化しています。

煩悩をもつ凡夫の身でありますから、自我や我をもつのは仕方ないのです。それを知り、それを恥じて、阿弥陀さまにおすがりするわけなのです。
「我をすてる」という目的のために、阿弥陀さまにすがっていることを完全に彼は忘れているようだな、って思ってます。

> 仏陀に本証の考えはありましたか?
> 人間は本来覚っているという考え自体無かったですね。

『ダンマパダ』の一番最初の二つの詩を見てください。

1 心に先導される諸々のものごと(ダンマ)は、心を最高のものとし、心からなっている。汚れた心で話したり、行ったりするならば、苦しみは、かれにしたがう。あたかも、車輪が、車をひくもの(牛)の足跡(パダ)にしたがうように。

2 心に先導される諸々のものごと(ダンマ)は、心を最高のものとし、心からなっている。清らかな心で話したり、行ったりするならば、楽は、かれにしたがう。あたかも、影が、(そのものから)離れないように。


ここは、よく読むならば、「人は、誰でも覚りにいける」と読めなくないです。
あらゆる人(生き物)を救おうとするブッダの思いは、『ダンマパダ』の最初の二つの偈に顕れているとわたしは見ています。

わたしは、「人は本来覚っている」という表現自体、その考え方自体が、口に出して言ってはいけないものだという気がします。何か、奢りを助長する、はなはだ“まずい”見方のように思われて仕方ありません。
しかし、時代の流れの中では、如来蔵思想や仏性について語られるようになるのもわかります。悟れない人もいるのではないか、という考え方が出てくると、如来蔵思想が出てきます。
中期大乗の時代にあらわれてくる思想の流れです。

> 煩悩を滅して解脱する、というのが仏陀です。
> 仏教ができあがって、修行を因として悟りを果とする、となりました。
> それが時間的に長かろうが短かろうが、因⇒果です。修⇒証です。
> それまでの仏教に、本証妙修の考えはありましたか?

当然、あったと思いますよ。
ショ-シャンクさまが気づかないのも無理はありません。それは、「歴史上のブッダ」だけを追ってきたからです。
始めから、『ダンマパダ』では、宣言していました。それをどう読むかは、人それぞれなのです。また、彼は『スッタニパ-タ』の中で、外道のモ-ガラ-ジャンに空を教えています。空は、歴史(因果)を見るのではなく、ただありのままに現在を見る見方です。

空をもって見るならば、本証妙修はなんなく出てきます。
道元は、因果ももちろん自由自在に語れますが、空も達人です。むしろ、道元は、空がすごいな!、とわたしは思っています。

そして、道元の場合も、ほかでもそうですが、「本証」を「本来覚っている」と理解するのは、よろしくないと思います。

「修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。」

このことばを噛みしめるべきだと思います。今やっている修行、それが求める本来の悟りを証明している。それだけだ、そこにしかない。

わたしは、道元のことばをそう読んでいます。だから、「空手還郷」なんだなと思っています。

> 日本でさんざん探求して、その時の日本の禅の第一人者である栄西に聞いてもわかりませんでした。
> そして、宋にわたって、よい師匠を得てやっとわかりました。
> 少なくとも、道元にとっては『あたりまえ』ではなかったのです。

道元、24-5歳の頃ですよね。

> 時間の短長ではありません。
> 最初から覚っているというのが本証であり、その考えは仏陀の時代にはなかったことです。

わたしも、時間の短長を言っているわけではありません。ブッダの教えを体験すれば、実感できることです。聞いた瞬間にわかります。ブッダのことばは真実である、ということなのですが。

つまり、『ダンマパダ』で語ったことばを真実と実感するブッダがいるからこそ、ブッダは、人々を、それも、あらゆる人々を救おうとして、『ダンマパダ』の詩を語っているのだ、と知るのです。

「最初から覚っている」という考え方を珍重するショ-シャンクさまには、そこに魅力を感ずる何かがあるのだろうと思います。

わたし自身でいうならば、この解釈の表現の中に、いわく言いがたい自我のかけら(煩悩)を見ています。


> そうですか。『唯物論も、ある種の形而上学とも言えます』と書かれていたので、唯物論形而上学に入れておられるのだと思っていました。

やっぱり誤解されました。わたしが、入れているのではなくて、ショ-シャンクさまの見方を拝借すれば、唯物論というのも、形而上学というのを認める人の考え方から出てくる考え方だ、ということだったのですが、誤解を招く言い方であったのはその通りかもしれません。申し訳なかったです。

ブッダ自身が、唯物論を説かないのは、唯物論を認めてしまうと善悪が説けなくなってしまうからだ、という意見もあります。多くの人が、そうなのか、と納得しているところもあるので、そう言うこともできるのですが、正直に言いますと、わたしは、そういう功利主義的な解釈も、ブッダの真意ではないだろうと思っているので、言わなかったのです。
>
>
>
> そうですか。極楽世界は法蔵菩薩が建設したのですか?
> 私は、西方極楽浄土は、阿弥陀仏仏国土だと思っていました。
> つまり、仏=如来がいると、そこに自然に展開しているのがその如来仏国土だと思っていました。

自然に展開してはいないです。世自在王如来に、法蔵菩薩(後に阿弥陀仏となる)は、一切衆生を救うために、あらゆる諸仏の仏国土の見事な特徴や装飾や配置を集めてとりいれた、そういう仏国土に住して、衆生に法を説いているのです。

48願は、そういう仏国土の特徴を述べたものでもありますね。三悪趣のない仏国土で法を説くわけです。

> 仏国土である以上、菩薩が建設するようなものではないと認識していましたが。

まあ、ふつうは「建設」しないと思います。建設としたのが、正しいのかどうかはわかりませんが、「仏国土の見事な特徴・装飾・配置を集めてとりいれた」というのを、そのように述べたのです。

=======
ダルマ-カラ(法蔵)比丘は、これら八十一の十万・百万・千万倍という仏達の仏国土の功徳との厳飾と荘厳の成就を、すべて又、一つの仏国土の中におさめとって、世尊ロ-ケイシュヴァラ・ラ-ジャ如来の両脚を頭にいただいて礼拝し、右回りにまわって、かの世尊のもとから退いた、そして、さらに五劫の間、より広大で、より勝妙な、十方の一切の世間においてかつて現れたことのない、仏国土の功徳の厳飾と荘厳の成就をおさめとったうえで、より広大な誓願を立てた。
============梵文和訳 藤田宏達訳『新訂 梵文和訳 無量寿経阿弥陀経』p.72.

> もし、阿弥陀如来仏国土であれば、阿弥陀如来がおられる限り、その仏国土もなくならないと思っていますが。

なくならないでしょう。不備が出てくれば、修復して使い続け、生類を救い続けるだろうと思います。そして、法蔵比丘の特別な誓願(48願)により、阿弥陀仏となっている現在、かの仏国土は不可思議な功徳の厳飾と荘厳をそなえたものとなっているわけだと思います。

そして、法蔵比丘の、この行為は、ほかの多くの菩薩たちの手本となって、未来において同じように仏国土成就の誓願がおさめとられていくだろうと、世自在王如来は述べています。

> また、今生きている衆生が全部救われたとしても、衆生はどんどん生まれてきます。
> 衆生を救い終わるということはないのではないでしょうか。

そうですね、きっと。衆生が生まれる限り、阿弥陀仏は極楽浄土で救い続けることでしょう。ですが、完全に成就した暁には、滅する性質のものであることには変わりがありません。


 

  [No.23060] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/24(Sun) 18:48:48

石飛先生、こんばんは。

> 「歴史上の仏陀」といわれるところに、一つ仏教的でないものが紛れ込む要素があると、わたしは思います。
> 歴史に添っても語れることは語れますが、それだけでは、仏教理解の半分しかいかないだろうと思います。
> 唯一なる神をもたない仏教は、無始なる輪廻を認めています。

たぶん、大丈夫です。歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったかを探求し、そして仏陀の真意の復興運動として大乗などを捉えなおしつつありますから。


> > 今の日本の仏教の常識の真逆であることも認識しています。
>
> 大半の人は、ショ-シャンクさまの考え方をとっていると思います。ショ-シャンクさまの考え方の方が、ふつうではないでしょうか。
> わたしは、そのショ-シャンクさまのもっているような“常識”を壊すのに、ものすごく苦労して、ここまでやって来ました。

大半の人は、白紙まではしないとは思います。
原始仏教と後世のものを並行して学ぶ感じでしょうか。
先生が壊したという、私が持っているような『常識』とは具体的には何ですか?


> > 私は、仏陀を原点としたいと思っています。
> > あらかじめ『解答』をもって仏陀をながめることをしたくないのです。
>
> その点は、わたしも同じです。といいますか、同じでした。そして、誰が、仏陀の教えを受け継いでいるのか見極めようと思って、やってきました。

過去形と言うことはすでに仏陀の教えを受け継いでいる人を見つけたということですね。
先生は龍樹研究者ですから、それが龍樹であることは察しがつきますが、
先生の心の中での予定調和で、龍樹という結論なのでしょうか。
それとも、いったん、龍樹も白紙にされて、しかし、再認識されたということでしょうか。

> わかりやすいのは、ミチオ君でしょう。阿弥陀仏への信仰を説きながら、語る対象のわたしたちをバカやアホ呼ばわりしている姿を見て、ほんとうに他力本願なのだろうか、と誰でも思うことでしょう。彼は、自我をすてておらず、しかも日に日に肥大化しています。
> 煩悩をもつ凡夫の身でありますから、自我や我をもつのは仕方ないのです。それを知り、それを恥じて、阿弥陀さまにおすがりするわけなのです。
> 「我をすてる」という目的のために、阿弥陀さまにすがっていることを完全に彼は忘れているようだな、って思ってます。

禅にはこういう人は多いような気がします。一度、見性をして、『これで俺はもう悟った。』とその体験を誇ってしまう人です。
悟ったと思い込む人には、他の人がバカに見える人もいるみたいです。
禅にしても他の道にしても、慚愧または自我の洞察は絶対に必要で、それがないと自らの宗教体験を自我に組み込んでしまいます。


> > 仏陀に本証の考えはありましたか?
> > 人間は本来覚っているという考え自体無かったですね。
>
> 『ダンマパダ』の一番最初の二つの詩を見てください。
>
> 1 心に先導される諸々のものごと(ダンマ)は、心を最高のものとし、心からなっている。汚れた心で話したり、行ったりするならば、苦しみは、かれにしたがう。あたかも、車輪が、車をひくもの(牛)の足跡(パダ)にしたがうように。
>
> 2 心に先導される諸々のものごと(ダンマ)は、心を最高のものとし、心からなっている。清らかな心で話したり、行ったりするならば、楽は、かれにしたがう。あたかも、影が、(そのものから)離れないように。
> >
> ここは、よく読むならば、「人は、誰でも覚りにいける」と読めなくないです。
> あらゆる人(生き物)を救おうとするブッダの思いは、『ダンマパダ』の最初の二つの偈に顕れているとわたしは見ています。

確かにそう読めなくはないかもしれませんが、私はこの2つは、『行為によってバラモンとなるのである』と同じような、kamma(行為)とその報いの法則を説いたものだと思います。覚りに限定するよりも、それを含んでもっと広範囲な因果ではないでしょうか。


> わたしは、「人は本来覚っている」という表現自体、その考え方自体が、口に出して言ってはいけないものだという気がします。何か、奢りを助長する、はなはだ“まずい”見方のように思われて仕方ありません。
> しかし、時代の流れの中では、如来蔵思想や仏性について語られるようになるのもわかります。悟れない人もいるのではないか、という考え方が出てくると、如来蔵思想が出てきます。
> 中期大乗の時代にあらわれてくる思想の流れです。

確かにそうです。かなりわざと「人は本来覚っている」という表現を使いました。
道元に限らず鎌倉新仏教は天台本覚思想の影響を受けていると思っているからです。
そのうち、道元は、本覚思想を超克したと見ています。
天台本覚思想は、すべての人は本来覚っているとして、修行を否定し堕落しましたが、
道元は『本来覚っているのになぜ修行するのか』という疑問から出発して、見事に本覚思想を超克していきました。
ですので、天台本覚思想の『修行は要らない』という結論と真逆になっています。


> > 煩悩を滅して解脱する、というのが仏陀です。
> > 仏教ができあがって、修行を因として悟りを果とする、となりました。
> > それが時間的に長かろうが短かろうが、因⇒果です。修⇒証です。
> > それまでの仏教に、本証妙修の考えはありましたか?
>
> 当然、あったと思いますよ。
ショ-シャンクさまが気づかないのも無理はありません。それは、「歴史上のブッダ」だけを追ってきたからです。
> 始めから、『ダンマパダ』では、宣言していました。それをどう読むかは、人それぞれなのです。また、彼は『スッタニパ-タ』の中で、外道のモ-ガラ-ジャンに空を教えています。空は、歴史(因果)を見るのではなく、ただありのままに現在を見る見方です。

ダンマパダの最初の2つに『本証妙修』を見ることは、ちょっと力技過ぎませんか。
私には無理のようです。


> 「最初から覚っている」という考え方を珍重するショ-シャンクさまには、そこに魅力を感ずる何かがあるのだろうと思います。

全く珍重していません。むしろ、批判的に見ているのです。
特に、仏陀を知るようになってからは、かなり批判的です。


> わたし自身でいうならば、この解釈の表現の中に、いわく言いがたい自我のかけら(煩悩)を見ています。

私もそう見ています。
本覚の考え方は、大乗起信論から始まり、如来蔵思想とも融合しながら、日本では平安後期に天台本覚思想としてピ-クを迎えました。大乗起信論の本覚からはかなり違ったように意味づけされていきました。
天台本覚思想の影響はかなり大きかったように思えます。



> そうですね、きっと。衆生が生まれる限り、阿弥陀仏は極楽浄土で救い続けることでしょう。ですが、完全に成就した暁には、滅する性質のものであることには変わりがありません。


ここは、真宗内部の人に聞きたいですね。
極楽浄土や阿弥陀仏が、滅する性質のものだと考えて、信仰している人がどれだけいるのか、です。
外部の人はそのように言うこともできるでしょうけど、内部の人は、自分が信仰しているものが滅するものと考えているでしょうか。
極楽浄土にずっと住めると考える人は、その極楽浄土がいつか滅するとなるとどういう気持ちになるのでしょう。


 

  [No.23068] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/25(Mon) 07:35:08

ショ-シャンクさま おはようございます。

ショ-シャンクさまの書き込みを読み落としていました。
遅くなってしまったかもしれません。すみません。

> たぶん、大丈夫です。歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったかを探求し、そして仏陀の真意の復興運動として大乗などを捉えなおしつつありますから。

ああ、そうなんですね。それなら、よかったです。
>

> 大半の人は、白紙まではしないとは思います。
> 原始仏教と後世のものを並行して学ぶ感じでしょうか。
> 先生が壊したという、私が持っているような『常識』とは具体的には何ですか?

「歴史上のブッダ」という見方・考え方です。
従来言われていることは、最初の頃は、ブッダには教えを説くつもりはなく、次第に発展するうちに弟子たちの力もあって様々な仏教の思想が整ってきた、ということで、多くの人々はこのような意識で、仏教を見ることが多いのです。
簡単に言えば、最初は「素朴だ」という考え方ですね。

ほんとうにそうであれば、「それでよい」とわたしも思うと思いますが、そうでない要素が多すぎるので、疑問に思ってやってきたのです。

> > その点は、わたしも同じです。といいますか、同じでした。そして、誰が、仏陀の教えを受け継いでいるのか見極めようと思って、やってきました。
>
> 過去形と言うことはすでに仏陀の教えを受け継いでいる人を見つけたということですね。

そうですね。たくさんいることがわかりました。

> 先生は龍樹研究者ですから、それが龍樹であることは察しがつきますが、
> 先生の心の中での予定調和で、龍樹という結論なのでしょうか。
> それとも、いったん、龍樹も白紙にされて、しかし、再認識されたということでしょうか。

龍樹研究者といわれるようになったのは、結果論です。
最初は、龍樹を攻撃する学派を研究していて、龍樹はトンデモないヤツだと思っていました。いや、龍樹かどうかもわかっていなかったのです。

どうやら、龍樹という人らしい、と目星をつけて見る頃になると、どんどん見えてきたのです。実際に起こったことがどんなことだったのか、ということが。

わたしの書いた論文を読むとおもしろいです。最初は、インド論理学派ニヤ-ヤ学派の立場から、仏教の側を批判しています。ところがどんどん研究が進むと、龍樹だということがわかって来始めると、論調が変わって、龍樹の真意をつかんで語り始める、という論文になっています。

分岐点は、これかな。。
「インド論理学史における『方便心論』の反論理学――論詰論法の論理形態――」
http://manikana.la.coocan.jp/paper/ryuju.html

「仏教とニヤ-ヤ学派の論争をめぐって―『方便心論』の謎の解明―」
http://manikana.la.coocan.jp/paper/houben.html

ニヤ-ヤ学派も、すごいはすごいです。最後まで龍樹に対抗しましたから。又、龍樹の論法は、すべてブッダから来ています。それは確かめました。
この二つの論文は、わたし自身が覚ったことを書いているので、論文のかたちをしていますが、内容的には一種の「見性」なのかもしれませんね。

> 禅にはこういう人は多いような気がします。一度、見性をして、『これで俺はもう悟った。』とその体験を誇ってしまう人です。
> 悟ったと思い込む人には、他の人がバカに見える人もいるみたいです。
> 禅にしても他の道にしても、慚愧または自我の洞察は絶対に必要で、それがないと自らの宗教体験を自我に組み込んでしまいます。

こういう姿をごらんになると「本証妙修」をおっしゃるように解釈するのも、わかりますね。

> 道元に限らず鎌倉新仏教は天台本覚思想の影響を受けていると思っているからです。
> そのうち、道元は、本覚思想を超克したと見ています。
> 天台本覚思想は、すべての人は本来覚っているとして、修行を否定し堕落しましたが、
> 道元は『本来覚っているのになぜ修行するのか』という疑問から出発して、見事に本覚思想を超克していきました。
> ですので、天台本覚思想の『修行は要らない』という結論と真逆になっています。

全くです。修行は要らないという結論が出た段階で、ふつうなら、それはおかしいと思わなくてはなりません。楽して得られるものは何もないです。仏教でなくてもわかります。

その上、道元は「ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり」と述べて、ミチオ君の述べていることを述べていますね。これまた、全くその通りで、素直であることは一つの才能だとわたしも思います。ブッダも龍樹も、これ以上ないくらい素直に先生に従った人です。

> ダンマパダの最初の2つに『本証妙修』を見ることは、ちょっと力技過ぎませんか。
> 私には無理のようです。

そうかぁ!力技か。。ちょっと、コツがあります。空に繋がるのですが、ほんのちょっとしたことです。

西洋的な考え方では、自家撞着はいけないことになっていますね。自己矛盾といいますか、そういうことにならないように、あらかじめ、自己をその主張の外に置くようにして語るのが、西洋風です。「客観的」といわれるとき、自分が関わらないことであれば、あくまでも事実に基づいて語れるので、皆、自分自身をその問題の対象に含めないようにあらかじめ設定します。

ところが、空というのは、自家撞着の構造をそのまま取り込んでいるのです。下手すると、自己矛盾が起こるような構造の中で、あえて自分の身を置いて語るのです。常にです。

これが空の正体といってもいいのです。ですから、自家撞着すれば、あっという間にわかってしまうのです。

『ダンマパダ』も、心がどんなことにも先行していると語り、悪い心で行うと苦しみが起こってくる。牛の足跡に荷車の轍がついていくようなものだ、といいます。

客観的に事実を説いた文章だと読めば読めます。しかし、ブッダは、自分のことを語っているのです。荷車をはずすと、牛は一人で歩けるのです。一方、善いことをすれば、楽が従って来ます。それは、影が付き従うようだ、とあって、日のあたるところにいけば常に影はついてくるのですから、一度でも善いことをすれば、何度も日があたる度楽を感ずるのだな、と分かるのです。

そうなると、自分(ブッダ)の教えるとおりにすると、心を清らかにしていくことができると語っていることがわかりますし、誰も例外を設けていないことも分かります。
また、心が先行しているのですから、心を浄めるということは、原因を浄めることだから、それによって、行いを浄めることができるとわかるのです。

こういうことからすると、もともと人間は誰でも清らかな心をもっているけど、諸般の事情で汚くなるのだ、という説明もつけようと思えばつけられる、ということなのです。
>
> > 「最初から覚っている」という考え方を珍重するショ-シャンクさまには、そこに魅力を感ずる何かがあるのだろうと思います。
>
> 全く珍重していません。むしろ、批判的に見ているのです。
> 特に、仏陀を知るようになってからは、かなり批判的です。

そうなりますよね。>

> > わたし自身でいうならば、この解釈の表現の中に、いわく言いがたい自我のかけら(煩悩)を見ています。
>
> 私もそう見ています。
> 本覚の考え方は、大乗起信論から始まり、如来蔵思想とも融合しながら、日本では平安後期に天台本覚思想としてピ-クを迎えました。大乗起信論の本覚からはかなり違ったように意味づけされていきました。
> 天台本覚思想の影響はかなり大きかったように思えます。

天台本覚思想は、詳しく勉強したことはありませんが、もとから覚っているといわれると、怠けたい人には、よい言い訳になりますね。
>
> > そうですね、きっと。衆生が生まれる限り、阿弥陀仏は極楽浄土で救い続けることでしょう。ですが、完全に成就した暁には、滅する性質のものであることには変わりがありません。
>
>
> ここは、真宗内部の人に聞きたいですね。
> 極楽浄土や阿弥陀仏が、滅する性質のものだと考えて、信仰している人がどれだけいるのか、です。
> 外部の人はそのように言うこともできるでしょうけど、内部の人は、自分が信仰しているものが滅するものと考えているでしょうか。

> 極楽浄土にずっと住めると考える人は、その極楽浄土がいつか滅するとなるとどういう気持ちになるのでしょう。

往相回向還相回向ということもいわれますが、そこは考えないのですかね。
極楽が滅するより前に、娑婆の穢土にもどってくるんだぞ、って、これは、教えないのかな?


 

  [No.23070] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/25(Mon) 10:20:27

石飛先生、おはようございます。

> 「歴史上のブッダ」という見方・考え方です。
> 従来言われていることは、最初の頃は、ブッダには教えを説くつもりはなく、次第に発展するうちに弟子たちの力もあって様々な仏教の思想が整ってきた、ということで、多くの人々はこのような意識で、仏教を見ることが多いのです。
> 簡単に言えば、最初は「素朴だ」という考え方ですね。
> ほんとうにそうであれば、「それでよい」とわたしも思うと思いますが、そうでない要素が多すぎるので、疑問に思ってやってきたのです。


私はそうは思っていません。
仏陀は、成道の時に、三明により四諦の法を見ていますし、7日後に十二縁起を順逆観じています。
最初から理法はあったと思います。それもかなり完成形に近い形で。
仏陀が天才であったからでしょう。モ-ツァルトが譜面を書き直さず、すべて頭の中で曲が完成形としてあったというようなものに近い気がします。



> 龍樹研究者といわれるようになったのは、結果論です。
> 最初は、龍樹を攻撃する学派を研究していて、龍樹はトンデモないヤツだと思っていました。いや、龍樹かどうかもわかっていなかったのです。
>
> どうやら、龍樹という人らしい、と目星をつけて見る頃になると、どんどん見えてきたのです。実際に起こったことがどんなことだったのか、ということが。
>
> わたしの書いた論文を読むとおもしろいです。最初は、インド論理学派ニヤ-ヤ学派の立場から、仏教の側を批判しています。ところがどんどん研究が進むと、龍樹だということがわかって来始めると、論調が変わって、龍樹の真意をつかんで語り始める、という論文になっています。
>
> 分岐点は、これかな。。
> 「インド論理学史における『方便心論』の反論理学――論詰論法の論理形態――」
http://manikana.la.coocan.jp/paper/ryuju.html
>
> 「仏教とニヤ-ヤ学派の論争をめぐって―『方便心論』の謎の解明―」
http://manikana.la.coocan.jp/paper/houben.html
>
> ニヤ-ヤ学派も、すごいはすごいです。最後まで龍樹に対抗しましたから。又、龍樹の論法は、すべてブッダから来ています。それは確かめました。
> この二つの論文は、わたし自身が覚ったことを書いているので、論文のかたちをしていますが、内容的には一種の「見性」なのかもしれませんね。


そうですか。後で時間があるときに読まさせていただきます。ありがとうございます。


> > ダンマパダの最初の2つに『本証妙修』を見ることは、ちょっと力技過ぎませんか。
> > 私には無理のようです。
>
> そうかぁ!力技か。。ちょっと、コツがあります。空に繋がるのですが、ほんのちょっとしたことです。
>
> 西洋的な考え方では、自家撞着はいけないことになっていますね。自己矛盾といいますか、そういうことにならないように、あらかじめ、自己をその主張の外に置くようにして語るのが、西洋風です。「客観的」といわれるとき、自分が関わらないことであれば、あくまでも事実に基づいて語れるので、皆、自分自身をその問題の対象に含めないようにあらかじめ設定します。
> ところが、空というのは、自家撞着の構造をそのまま取り込んでいるのです。下手すると、自己矛盾が起こるような構造の中で、あえて自分の身を置いて語るのです。常にです。
> これが空の正体といってもいいのです。ですから、自家撞着すれば、あっという間にわかってしまうのです。

これは、大事なことが書かれているように思えますので、考えさせてください。


> > ここは、真宗内部の人に聞きたいですね。
> > 極楽浄土や阿弥陀仏が、滅する性質のものだと考えて、信仰している人がどれだけいるのか、です。
> > 外部の人はそのように言うこともできるでしょうけど、内部の人は、自分が信仰しているものが滅するものと考えているでしょうか。
> > 極楽浄土にずっと住めると考える人は、その極楽浄土がいつか滅するとなるとどういう気持ちになるのでしょう。
>
> 往相回向還相回向ということもいわれますが、そこは考えないのですかね。
> 極楽が滅するより前に、娑婆の穢土にもどってくるんだぞ、って、これは、教えないのかな?


真宗内部の人に聞きたいと言っているのだから、こう言うときこそ、ミチオくんの出番でしょうに、反応がないですね(笑)
単発スレを乱立させないで、ここにきちんとした答えを返信してくれたら皆さんもミチオくんを見直すと思いますが。

ミチオくんへの質問としては、
1,阿弥陀仏は滅するものか?
2,極楽浄土は滅するものか?
3,極楽浄土が滅するとすれば、滅する前に、娑婆世界に還る(還相回向)ことは教えられているのか?

要は、阿弥陀仏も極楽浄土も滅する性質だと言うことがキリスト教との違いと石飛先生は言われていますが、
真宗の信者さんで、阿弥陀仏も極楽浄土も滅するものだと思って信仰している人はどのくらいいるものだろうか、ということです。


 

  [No.23077] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/25(Mon) 13:28:35

> > 1,阿弥陀仏は滅するものか?
>
> 大乗涅槃経に、迦葉(カッサパ)の質問に、世尊は次のように仰せられているところがあります。
>
> ・善男子よ、法に依るとはこの「大般涅槃経」に依ることである。一切の仏の法(教え)はすべて法性のあらわれである。如来はその法性を悟られた。故に法性が如来である。それ故に如来は常住不変と説くのである。もし如来を無常と見るものは、法性を知らず、見ないものである。そのようなものは依りどころとならない。
>
> ・「人に依らず」と教える時の「人」は、如来は無常で変易すると考える声聞の弟子たちを指すのである。かれらに依るべきではない。
>
>
> ということは、「大乗涅槃経」の信奉者であれば、
>
> 阿弥陀仏、極楽浄土は常住不変であると信じているのではないかと思いますが、どうなんでしょうね。



そうですね。
大乗涅槃経はそう説いてますね。

仏陀は、如来は死後存在するか存在しないかについては無記としました。
つまり、如来は永遠であるのか、実体があるのかないのか、ということは説かないということです。


それに対し、龍樹は、如来も実体がないとしたのではないかと思います。
それで、石飛先生も、阿弥陀如来も極楽浄土も滅するもの、と言われているのでしょう。

ところが、大乗涅槃経には、如来は常住不変としています。

しかし、如来に実体がなく滅するものとみる見方も、如来は常住不変とする見方も、どちらとも、仏陀が言った無記ということには反すると思っています。

『私が説かなかったことは説かなかったこととして受け取りなさい』のはずなのですが。


 

  [No.23082] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/25(Mon) 18:53:22


> 仏陀は、如来は死後存在するか存在しないかについては無記としました。
> つまり、如来は永遠であるのか、実体があるのかないのか、ということは説かないということです。
>
>
> それに対し、龍樹は、如来も実体がないとしたのではないかと思います。
> それで、石飛先生も、阿弥陀如来も極楽浄土も滅するもの、と言われているのでしょう。
>
> ところが、大乗涅槃経には、如来は常住不変としています。
>
> しかし、如来に実体がなく滅するものとみる見方も、如来は常住不変とする見方も、どちらとも、仏陀が言った無記ということには反すると思っています。
>
> 『私が説かなかったことは説かなかったこととして受け取りなさい』のはずなのですが。



『善男子よ、法に依るとはこの「大般涅槃経」に依ることである。一切の仏の法(教え)はすべて法性のあらわれである。如来はその法性を悟られた。故に法性が如来である。それ故に如来は常住不変と説くのである。もし如来を無常と見るものは、法性を知らず、見ないものである。そのようなものは依りどころとならない。』


大乗涅槃経によると、『仏性は常住不変』『如来は常住不変』『仏性は無常ではない』『如来は無常ではない』
常住不変ということは、実在ということです。
実体があるということです。

仏教が仏教であるのは縁起と空があるからだとするある仏教学者が、如来蔵思想は仏教ではないと言いました。
大乗涅槃経は如来蔵思想の代表経典です。

その仏教学者はこう言っています。
『私 が ここで"dhatu-vada"と して紹 介 した考 え方 は, 実 は釈尊その人が批判 した対象 であ った。
い うまで も
な く, ウパ ニシ ャッドの ブラフマン ・ア- トマ ン論 であ る。 如来蔵思想 とウパ ニシャッ ド哲学 の類似性 について は,
す でに高崎博士 が繰 り返 し指摘 されてい る13)。
釈尊 の批判 した対象が"dhatu-vada"で あつた ことを文献 に即 して証 明 す る こ と
は今 ここではできないが, しか し何 よ りも重要な ことは, 縁 起説 とい うものが,
「唯一の実在た る万物の根源」 を認め る説, つま り"dhatu-vada"に 対す るア ンチ
テ- ゼとして しか意味 を もちえないとい うことで ある。従 つて如来蔵思想(dhatu vada)と は, 仏教 即 ち縁起説が批判 した当の対象であ つた とい うこ とに な る。
この様 に して, 如来蔵思想 は仏教 ではない ことが示 された。』

確かに、同じ大乗仏教でありながら、
1,すべては縁起であり自性がなく実体がない。実在するものはなく、如来にも実体はない。
2,如来は常住不変である。

この2つは、矛盾しているように思えます。
どうなのでしょうか。


 

  [No.23084] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/25(Mon) 23:45:16

ショ-シャンクさま Satya さま こんばんは

> 『善男子よ、法に依るとはこの「大般涅槃経」に依ることである。一切の仏の法(教え)はすべて法性のあらわれである。如来はその法性を悟られた。故に法性が如来である。それ故に如来は常住不変と説くのである。もし如来を無常と見るものは、法性を知らず、見ないものである。そのようなものは依りどころとならない。』
>
>
> 大乗涅槃経によると、『仏性は常住不変』『如来は常住不変』『仏性は無常ではない』『如来は無常ではない』
> 常住不変ということは、実在ということです。
> 実体があるということです。

いや、そうとは限りません。 [No.23080][No.23081] の、わたしの書き込みも参考にしてください。Satyaさまの書き込みも、もっともだと思います。

法性というのは、涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないのである。(『中論頌』18.7)
と龍樹も述べています。
この辺は微妙ですが、「生じもしなければ滅しもしない」ところから、「常住」と見ているということもできます。
如来を無常と見るものは法性を知らない」という風にいわれると、確かに、法性を如来とするなら、無常とは言えない、と思いますね。

有為と無為という分け方をすれば、有為の世界は、作られた無常の世界ですが、無為はそうではありません。

> 仏教が仏教であるのは縁起と空があるからだとするある仏教学者が、如来蔵思想は仏教ではないと言いました。
> 大乗涅槃経は如来蔵思想の代表経典です。

そうですね。そのような主張がなされていました。わたしは、ちょっとこの説はどうなのだろうと思っています。

> 確かに、同じ大乗仏教でありながら、
> 1,すべては縁起であり自性がなく実体がない。実在するものはなく、如来にも実体はない。

如来をどのようなものと見るか、ですよね。お父さんとお母さんからもらった身体をもつと見れば、それは縁起に従うでしょうけど、「行くこともなく没することもないのが、苦しみの滅である」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』26.20)という境地に到達した者について、有為と同じようには扱えないだろうと思います。

> 2,如来は常住不変である。

「常住不変」と言ってしまうと、語弊が生じてくるかもしれませんが、大乗中期になりますと、こういう言い方が出てきます。
なぜ、こういう言い方になるのかも分かります。

こだわりを持たないようにするからです。

無常・苦・無我は、ブッダの頃、重要なテ-マでした。常住・楽・我というウパニシャッド思想に見られる考え方に反対するように、これらが説かれていきます。しかし、時代が経ってくると、今度は、無常・苦・無我が行きわたり、ワンパタ-ンに主張されてくるようになって、そこにこだわりが見え始めます。

そうすると、もはや、これらの表現は逆に否定されていき、対して、常・楽・我という表現が逆に新鮮に聞こえてくるのだろうと思います。常に、認識の領域で語っていることを忘れなければ、文脈によっては、種々の表現が可能だろうと思うからです。

文脈を抜いて、二つ並べると、表現だけからすると矛盾に見えるかもしれませんが、いつもどうしてそういう言い方になったのかを考えると、逆に、言い方を変えている方が一貫した思想にあることもあるだろうと思います。今回がそうかどうかは、まだ検討していませんが、阿弥陀仏については、[No.23081]に少し書きました。


 

  [No.23085] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/26(Tue) 00:59:58

石飛先生、こんばんは。

> 法性というのは、涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないのである。(『中論頌』18.7)
> と龍樹も述べています。
> この辺は微妙ですが、「生じもしなければ滅しもしない」ところから、「常住」と見ているということもできます。
> 「如来を無常と見るものは法性を知らない」という風にいわれると、確かに、法性を如来とするなら、無常とは言えない、と思いますね。
>
> 有為と無為という分け方をすれば、有為の世界は、作られた無常の世界ですが、無為はそうではありません。

> 如来をどのようなものと見るか、ですよね。お父さんとお母さんからもらった身体をもつと見れば、それは縁起に従うでしょうけど、「行くこともなく没することもないのが、苦しみの滅である」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』26.20)という境地に到達した者について、有為と同じようには扱えないだろうと思います。

> 「常住不変」と言ってしまうと、語弊が生じてくるかもしれませんが、大乗中期になりますと、こういう言い方が出てきます。
> なぜ、こういう言い方になるのかも分かります。
>
> こだわりを持たないようにするからです。
>
> 無常・苦・無我は、ブッダの頃、重要なテ-マでした。常住・楽・我というウパニシャッド思想に見られる考え方に反対するように、これらが説かれていきます。しかし、時代が経ってくると、今度は、無常・苦・無我が行きわたり、ワンパタ-ンに主張されてくるようになって、そこにこだわりが見え始めます。
>
> そうすると、もはや、これらの表現は逆に否定されていき、対して、常・楽・我という表現が逆に新鮮に聞こえてくるのだろうと思います。常に、認識の領域で語っていることを忘れなければ、文脈によっては、種々の表現が可能だろうと思うからです。
>
> 文脈を抜いて、二つ並べると、表現だけからすると矛盾に見えるかもしれませんが、いつもどうしてそういう言い方になったのかを考えると、逆に、言い方を変えている方が一貫した思想にあることもあるだろうと思います。今回がそうかどうかは、まだ検討していませんが、阿弥陀仏については、[No.23081]に少し書きました。


石飛先生の一貫して主張されていたのは、仏教と他の宗教(キリスト教イスラム教やヒンドゥ-教など)と違うのは、
仏教では、実在する神、永遠不変な神を持たない、という一点でした。
仏教では、すべては生じれば滅する、すべては縁起で実体を持たない、空である、それは神々であってもそうである、ということでした。
実在するもの、永遠なもの、不変なものを教義として持ってしまうと、こだわり、執着となって、苦となる。そこを徹底的に無常と見、空と見るのが仏教である・・・
先生が言われるのはそういうことだと私は捉えていました。

> この辺は微妙ですが、「生じもしなければ滅しもしない」ところから、「常住」と見ているということもできます。
> 「如来を無常と見るものは法性を知らない」という風にいわれると、確かに、法性を如来とするなら、無常とは言えない、と思いますね。

それでは、龍樹のいう法性と大乗涅槃経がいう仏性は同じということですね。
龍樹は、法性=如来、大乗涅槃経は仏性=如来 でした。
法性、仏性、如来という、無常ではなく、常住なものがあると見るのですね。
それでは、キリスト教の神とどう違うのですか?


> 有為と無為という分け方をすれば、有為の世界は、作られた無常の世界ですが、無為はそうではありません。

ということは、作られたものは無常であるが、作られざるもの=無為の世界は無常ではなく、常住ということですね。
ここにおいて、常住、不変、永遠であるものを認めているということになります。

それであれば、キリスト教の神と変わらないのではないですか?

私はやはり、『すべては縁起であり空であって無常であるとするのが仏教で、無常でないもの、永遠であるものを立てるのが外道』という分け方は違うと思います。
そういう分け方をしてしまうと、その仏教学者のように、如来蔵思想は仏教ではない、大乗涅槃経は仏教ではない、というようになってしまいます。


これを考えると、仏陀が、一切を厭離し解脱した如来がずっと存続するのか存続しないのかについては無記としたのは、なんと素晴らしいことかと感嘆せざるを得ません。

ここにおいて、仏陀が言う『私が説かなかったものは説かなかったものとして受け止めなさい』という言葉の重要性がわかってきます。


 

  [No.23083] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:Satya  投稿日:2021/10/25(Mon) 19:34:54

<ショ-シャンクさんのN0.23077に返信しようとしたら、No.23082がUPされていましたが、そのまま返信しときます。>


> しかし、如来に実体がなく滅するものとみる見方も、如来は常住不変とする見方も、どちらとも、仏陀が言った無記ということには反すると思っています。(No.23077)

釈尊は当時、神々とも、悪魔とも対話していたようですが、如来と対話したというお話しはないですね。

ただ法華経にも、「仏の寿命が永遠であるのは、過去の長い間の修行の結果です。」と説かれていますし、この経典には、こう説かれています、初期仏典では、無記ですよとケ-スバイケ-スにしておく方が無難なように思います。

> 極楽浄土は、もはや無用のものになりますね。(No.23080)

阿弥陀経に極楽浄土は永遠のやすらぎの世界だと説かれているのなら、阿弥陀経にはそう説かれていると、そこでとどまりたいですね。

> ただ、どんなに果てしないように見えても、「他力回向の力によって、成仏がある」という点は、仏法の通りだと思います。&#8232;> 果てしなくても、解脱を目指すのが、我々なのだとすれば、阿弥陀仏への信をもったとき、極楽往生が約束されるように、阿弥陀仏への信をもったとき、自らの成仏も約束された、ということではないかと思います。終わりが見えたということでしょう。(No.23081)

成仏が約束されたならば、すばらしきことで、そこから先は終わりと判断されているのですね。

> こう考えると、キリスト教イスラム教の神ならびに天国と、阿弥陀仏ならびに極楽浄土とは、同じにならないと思うのですが。(No.23081)

ワタシは、終わりだとか、永遠だとか考えるより、成仏が約束されること、または解脱することを望んでいます。


 

  [No.23080] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/25(Mon) 16:06:48

Satyaさま ショ-シャンクさま

> > 1,阿弥陀仏は滅するものか?
>
> 大乗涅槃経に、迦葉(カッサパ)の質問に、世尊は次のように仰せられているところがあります。
>
> ・善男子よ、法に依るとはこの「大般涅槃経」に依ることである。一切の仏の法(教え)はすべて法性のあらわれである。如来はその法性を悟られた。故に法性が如来である。それ故に如来は常住不変と説くのである。もし如来を無常と見るものは、法性を知らず、見ないものである。そのようなものは依りどころとならない。
>
> ・「人に依らず」と教える時の「人」は、如来は無常で変易すると考える声聞の弟子たちを指すのである。かれらに依るべきではない。
>
>
> ということは、「大乗涅槃経」の信奉者であれば、
>
> 阿弥陀仏、極楽浄土は常住不変であると信じているのではないかと思いますが、どうなんでしょうね。

なるほど、そうですね。 如来を法性と見るなら、法性を如来と見るなら、常住不変と信じているのかもしれません。
浄楽我常といわれるようになりますか。
ただ、それは「信」と関わってきそうですね。報身(または法身)の阿弥陀仏としてみるとき、本願を信じるものは、阿弥陀仏に常住不変を見るかもしれません。

言い表されるべきものは消滅し、心の領域は消滅してしまう。法性
というのは、涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないので
ある。『中論頌』18.7

> 極楽が滅するより前に、娑婆の穢土にもどってくるんだぞ、って、これは、教えないのかな?

極楽浄土は、菩薩の誓願によって荘厳されたものとなっていますから、救う衆生がいるうちは阿弥陀仏はそこで救い続けるだろうと思います。

そして、極楽浄土にいる衆生がみな成仏してしまうなら、涅槃寂静ですね。
衆生はなくならないだろう、と思う人には、常住のように見えるかもしれないです。だから、常住といわれる、ということではないかと思います。

> > 1,阿弥陀仏は滅するものか?

ここは、わたしも、ちょっとひっかかります。
阿弥陀仏は、法身・報身であれば、衆生がいる限り、働き続けるだろうと思います。

衆生が尽きれば、阿弥陀仏については、涅槃寂静ですよね。
極楽浄土は、もはや無用のものになりますね。

わたしの理解は、今のところこうです。


 

  [No.23018] 仏教の知覚一切は所謂コモンセンスではない 投稿者:o  投稿日:2021/10/22(Fri) 16:47:12

エム先生、

これは一切を現代人がコモンセンスと捉えることが問題なのではないでしょうか?

一切には神通も神々も餓鬼なども含まれますから。

一切はコモンセンスではない。知覚対象は有情それぞれだということ、そこら辺を説明しないと誤解されるように思います。

それから、ショ-シャンクさまの捉えている大乗仏教は、明治以降のプロテスタント化した変な大乗仏教のようにも危惧します。

ちなみに神通も神々も餓鬼も我々と同様の縁起する空なる法と捉えております。


 

  [No.23020] Re: 仏教の知覚一切は所謂コモンセンスではない 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/23(Sat) 00:21:40

oさま こんばんは。
>
> これは一切を現代人がコモンセンスと捉えることが問題なのではないでしょうか?

ショ-シャンクさまへのお返事を書き終わってから、じっくりと拝読しています。
なるほどお~、そうですね。「一切」か。。

コモンセンスというのも、何だかすごくピッタリしたことばですね。

現代の日本人の感覚は、ずいぶん欧米的な思想のもとにあるのだな、と「コモンセンス」の語を聞いて思いました。

因果応報など、今時流行らないかもしれませんが、でも、よくよく話をしていくと、皆、因果応報をそれなりに信じていたりします。
心の深いところでは、仏教の見方を残しながら、欧米の考え方を常識として取り込んで来たのですね。

>
> 一切には神通も神々も餓鬼なども含まれますから。

地獄もありますし。
でも、今の若者達も、けっこうゲ-ムの世界では仏教や神話の世界に浸っているようですから、意外と「コモンセンス」だけではないかもしれません。

> 一切はコモンセンスではない。知覚対象は有情それぞれだということ、そこら辺を説明しないと誤解されるように思います。

ここもそうですね。外界実在論を受け容れてしまっていますから、認識はそれぞれによって異なる、というのは、一応はわかってもなかなかピンと来ないかもしれません。

> それから、ショ-シャンクさまの捉えている大乗仏教は、明治以降のプロテスタント化した変な大乗仏教のようにも危惧します。

確かに。。大乗になると、自分の好き勝手に考えていいのだとなるような感触を受けました。

ブッダと離れてしまったからでしょうか。龍樹も、ブッダとはちがうようにいわれますし。。心配になってきますね。


> ちなみに神通も神々も餓鬼も我々と同様の縁起する空なる法と捉えております。

ああ、いいですね。幻の如く、夢の如し。


 

  [No.23049] Re: 仏教の知覚一切は所謂コモンセンスではない 投稿者:Satya  投稿日:2021/10/23(Sat) 14:19:37

> ちなみに神通も神々も餓鬼も我々と同様の縁起する空なる法と捉えております。(10/22 No.23018)

具体的でわかりよく、このような説明はなかなかできるものではないと思います。

<ところで、チベット密教にお詳しいであろうoさんにお聞きしたいことがあります。>

五大元素「地・水・火・風・空」の「空」(の崩壊)についてです。

**** **** ****

神仏の力などにより各元素が崩壊し、微細な物質に再構成されるらしいのですが、

その境地が「大パリニッバ-ナ経」などにも記載されています。(元素崩壊の色だと考察しています。)

(第三章に)最後の境地として、

「例えば白く、白色の、白い外観の、白い艶の、明けの明星のごとくであるとか、・・・・・
これが第八の支配して打ち克つ境地である。」とあり、

ワタシはこの「空」の崩壊による「白色」体験が、如来である証ではないかと考察していましたが、

つい最近、大般涅槃教(巻の第十三、聖行品第十九の三)に次のように記載されているのを知りました。

「白色三昧を得て能く初禅の有を断ち、種種三昧を得て能く大梵天の有を断ち・・・(A)」

これを見つけたとき「えっ!!」となりました。

その続きも読むと、非想非非想処の有を断つのは「我三昧」で「白色三昧」ではないことになっています。

では、よく(チベット密教で)表図されている(ネット上でよく見かけます。)

大日如来 白色 法界体性智 (貪欲を滅し)・・・(B)
・阿しゅく如来 青色 大円鏡智 (嫉妬を滅し)
宝生如来 黄色 平等性智 (痴を滅し)
阿弥陀如来 赤色 妙観察智 (嗔を滅し)
・不空成就 緑色 成所作智 (慢を滅し)

はどういうこと? ()内もネットからの添付参考資料。

と再考察しています。

以前にupした[「喜」と悪意、「楽」と心の浮動・後悔 、「一境性」 と貪欲がトレ-ドオフの関係にあることがわかりました。10/13 No.22926]の

「貧欲」と「一境性」の関係と(B)は一致しそうだし、釈尊が明けの明星を見て解脱したというのも矛盾しませんし、第四禅の無我についても純白の心と関係していますが、

大般涅槃教の(A)と矛盾します。

それとも、「白色三昧」は如来に至るまで、ベ-スにあるのでしょうか。

**** **** ****

もし、oさんが「空元素」の崩壊による白色体験について何かご存知であれば、お時間のある時、
または、先生とショ-シャンクさんとの対話が落ち着いた頃にでも、簡単にでも示唆していたたければと思っています。

空元素の崩壊について、具体的に書かれている書籍はないだろうし、この辺りは師から弟子への伝授に関係していることで、
掲示板に書くことは憚れるとご判断されるのであるならば、「書けない。」の一言でも、OKです。


 

  [No.23050] Re: 仏教の知覚一切は所謂コモンセンスではない 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/23(Sat) 18:06:21

oさん、こんばんは。

> これは一切を現代人がコモンセンスと捉えることが問題なのではないでしょうか?
> 一切には神通も神々も餓鬼なども含まれますから。
> 一切はコモンセンスではない。知覚対象は有情それぞれだということ、そこら辺を説明しないと誤解されるように思います。


oさんが言われるコモンセンスとは、具体的にどのようなものを指すのでしょうか。

私は、一切とは、眼耳鼻舌身意とその対象の色声香味触法だと考えています。
oさんの言われる『神通』とは、眼耳鼻舌身意と色声香味触法のどれに当たるでしょうか?
『神々』や『餓鬼』はどれに当たりますか?
たぶん、神々は、『法』に当たるのではないかと思いますが、法は考える対象ですから、その範囲を広げていって考えることができるもの全部となると無制限となってしまいます。


> それから、ショ-シャンクさまの捉えている大乗仏教は、明治以降のプロテスタント化した変な大乗仏教のようにも危惧します。

前にも書かれていましたが、oさんの言われる『明治以降のプロテスタント化した変な大乗仏教』の意味がよくわかりません。
教えていただけると幸いです。


 

  [No.23013] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/10/22(Fri) 11:13:33


> もちろん、どの宗教にも、修行の部分や自分たちの生き方に密接に結びつく要素を重要視するのです ・・・・ 多くの人々は行道の中で何となく感得していったでしょうから、何も言わなくても、「あ、これだな」と察知したことと思います。
> 禅で不立文字というのも、そういうことだろうと思っています。覚っているのかどうか等、そんなことは言葉を解さないとわからないのか、というと、そんなことはないのです。

言葉を介しても 分かることです

> 出会ったこともないブッダを指定して、修行する者たちが出るのも、わかるような気がします。

「 修行 」 が あるのは ブッダに出会っている からなのです
ブッダ が そこにいて、 仏陀と共 に 「 (修・衆)行 」 に あるのです

出会っている・出会ったこともない ということ は
言葉の解釈 の 上 に 成り立ちます

知らなければ出来ない のではなく、 している事を 知る ( 善知識 )
知らなくとも 行ないにある 善行
知っていてもしない のは 悪行

諸仏に並ぶ 自己を知る時、 そこに 、 諸仏としてある 「 仏 」

自己を知る者には いつも 仏の加護があり 、
加護 ゆえに 、 自己を観ることが適う


> その意味では、多くの勝れた修行者が輩出して、聖者がゴロゴロあふれているインドにおいても、ブッダは、他とは一線を画しているのです。いってみれば、彼は、何も説くものをもたないという点で、他を圧倒しているのです。

「 拈華微笑 」 ・ 「 唯仏与仏 乃能究尽 」

究尽に於いて 語るべき言葉は 不要

そこにおいて
> 説くべき法もないのに、人々に教えを説いて救うとは、ほんとに、信じられないと思います。

救う人には 救われる人が 必須です( 「 縁起 」 している )

そのような意味では、
「 世間 」 に 於いて は 、 「 仏 」 にも 「 縁起 」 が 起きる


> 仏教が人々や生き物を癒やしてきたのは、「何も説かない」ことを守ってきたからではないでしょうか。

寂滅 ・ ニッバ-ナ

> 実は、ショ-シャンクさまが、[No.22992]で、「それなら納得です」といわれた時、おそらく春間さまもひっかかったと思いますが、わたしも、ちょっと「ん?」と思い、なぜだろうと思ってかんがえていった結果、ここにたどり着きました。

> 「何か大事なものがあるのだろう」ということではなく「そうではないのだ」とただ説くだけの教えが仏教なのかもしれません。

説かれて ( 絡まったことが ) ホドケレバ 、 ホトケ となる


「 仏 」 は 捨てることさえ 捨てている



 

  [No.22979] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/20(Wed) 09:08:11

ショ-シャンクさま おはようございます。

> グレゴリ-・ショペンの本を確認しましたら、なんとも衝撃的な事が書いてありました。
> 根本説一切有部律の中に書かれてあるそうですが。
> グレゴリ-・ショペンによると、
> 『マハ-カッサパがいかに裕福あったかは、彼が仏陀の死体のための供養を完全にやり直したという事実によってテキスト中に直接示されています。その供養の品物には、特に必要な特定の量の綿芯、五百セットの綿布、火葬に必要な香木とが含まれています。最初の折にはこれらの葬儀の用品を揃えるためにクシナ-ラ全村がそれにかかった・・・(後略)』
> と書かれています。
> 私有財産を認められてない、サンガ共有財産しか認めてないはずですので、それを前提として、ショペンの私有財産説はいまは置いておくとして、この記述であれば、やはり、マハ-カッサパが葬儀委員長であったということですね。
> ただ、やり直したという記述が、信じられないでいますが。
> 本当に、そんな記述が根本説一切有部律にあるのでしょうか。

ここは、わたしも、びっくりです。ですが、この点は、どなたか詳しい方に説明していただいた方がよさそうです。わたしは、まったく分かりません。
>
> マハ-カッサパは、第一結集が終わるとすぐ元のように精舎を離れ山か森に引っ込んで修行し、後のことはア-ナンダに任せたということを読んだことがあります。本当かどうかはわかりませんが、そうであれば、素晴らしいですね。

なるほど、そんな気がしていました。頭陀行の人ですものね。いかにもそんな感じだなと思っていたので、ショ-シャンクさまからご説明を聞いて、とても納得しています。
>
> なるほど、そういう分け方であれば、阿羅漢と正等覚者の二つの特徴を持つ人は、仏陀の他にも舎利弗がそうではないでしょうか。

そうですね。ブッダも、同じように思ったようで、「自歓喜経」の中で、「一つの世界に完全な覚りに到達した者が二人出現することはない」ということも教えられて、納得していますので、サ-リプッタ自身は、あくまでブッダの弟子という立場に立とうとしたのだと思っています。奥ゆかしいサ-リプッタなら、そうなのかな、とちょっと思ったりもします。

> 舎利弗は当然阿羅漢でもありましたが、仏陀舎利弗に説法を任せる場面が結構あります。そしてそのどれもが理路整然としてわかりやすい説法になっています。

そうですね。サ-リプッタ独特のところもあるようにも思いますが、理論的でわかりやすい説明になっていて、さすが智慧第一というところがあります。

> 舎利弗はまさしく正等覚者だったでしょうね。
> 舎利弗仏陀より先に亡くなって、仏陀が寂しがったのはわかる気がします。

そうですねえ。正等覚者でもあったろうと思われますが、惜しいことに、おっしゃるようにブッダより先に亡くなり、随所で惜しまれる存在となりました。大乗経典などでも、舎利弗の名は、よくでてきます。偉大な声聞として、一目置かれていたのだろうと思います。


 

  [No.22981] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:シャン坊  投稿日:2021/10/20(Wed) 11:37:17

エム先生、ショ-シャンクさま

おはようございます。
横から失礼します。

> > グレゴリ-・ショペンの本を確認しましたら、なんとも衝撃的な事が書いてありました。
> > 根本説一切有部律の中に書かれてあるそうですが。
> > グレゴリ-・ショペンによると、
> > 『マハ-カッサパがいかに裕福あったかは、彼が仏陀の死体のための供養を完全にやり直したという事実によってテキスト中に直接示されています。その供養の品物には、特に必要な特定の量の綿芯、五百セットの綿布、火葬に必要な香木とが含まれています。最初の折にはこれらの葬儀の用品を揃えるためにクシナ-ラ全村がそれにかかった・・・(後略)』
> > と書かれています。
> > 私有財産を認められてない、サンガ共有財産しか認めてないはずですので、それを前提として、ショペンの私有財産説はいまは置いておくとして、この記述であれば、やはり、マハ-カッサパが葬儀委員長であったということですね。
> > ただ、やり直したという記述が、信じられないでいますが。
> > 本当に、そんな記述が根本説一切有部律にあるのでしょうか。
>
> ここは、わたしも、びっくりです。ですが、この点は、どなたか詳しい方に説明していただいた方がよさそうです。わたしは、まったく分かりません。

このショペンの本とは、邦訳のある『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』(春秋社)でしょうか?
本書はかなり前に、私も読んだことがあります。
ショペンの研究も、また、本書も、明治以来、未だに日本の学会に残る「西洋崇拝(?)」のせいか、
研究者の間でもそれなりに評価が高かったようですが、
正直言って、「大乗仏教興起時代」(1~2世紀頃)をテ-マとしながら、
現存する各部派の律では最後期(たぶん、グプタ朝の4~6世紀頃)の状況を示す「根本説一切有部律」(漢訳は7世紀頃の義浄)に基づいて、
「僧院における私有財産」その他の重要なテ-マを論じる本書は、
資料の用い方に、かなり問題があると思います。

もし、「大乗仏教興起時代」の僧院生活を論じるために「律」を資料として用いるならば、
十誦律」「四分律」「五分律」「摩訶僧祇律」などの漢訳でしか残らない「北伝系の古い律」を、
南伝のパ-リ律と比較し、詳しく違いを調査しながら、それぞれの傾向を探っていくべきですが、
ショペンは、そうした「最も基礎的で、重要な文献学的作業」を、全く抜かしてしまっています。
いったいどうしたことか? と思いますが、
もしかしたら、欧米の研究者に良くあるように、パ-リ、サンスクリットチベット語の各資料は読むことができても、
漢訳の資料は読めないから……という、案外、単純な理由なのかもしれません。
(「根本説一切有部律」は、サンスクリットチベットが残っています。)

今、問題となっている「大迦葉による釈尊の葬儀」について言えば、
各部派の「律」や「仏伝」(その古いものは、パ-リ以外は、多くが漢訳のみで残っています)を精査すれば、
もしかしたら、様々な伝承があるのかもしれません。
「律文献」では、現在の僧院での状況を「ブッダの当時に遡って権威づける」ために、
各部派によって様々な記述が加えられることもありますので、
この伝承も、「根本説一切有部律」における、そうした問題として考えてみる必要もありそうです。
(ショペンが根拠とする「テキスト」とは、たぶん、最後期の「根本説一切有部律」か、
たぶん、それに近い系統のサンスクリットチベットで残る文献でしょうから。)

ただ、これをやり出すと大変な作業になり、
結局「学位論文1つ分位の研究」になりかねませんから(笑)、今は行うことができません。

……なお、以上を踏まえて、エム先生の「龍樹研究」を拝見しますと、
多くの研究者のように「後世の注釈書」をベ-スに理解するのではなく、
ニヤ-ヤという「同時代の対論者」との関係から理解する点に、大きな特色と、優れた点があります。
それだけに、資料的にも、漢訳しかない『方便心論』『大智度論』という古い論書をベ-スにすることになり、
そこに、難しさと、面白さがあります。
こうした姿勢は、ある意味で「後世の資料から見る」ショペンとは正反対ですが、
そうしたエム先生のご研究の「集大成」の出現を、心待ちにしております。

長くなって失礼しました。
私の書き込みは、多忙につき、取りあえずこの辺にしておきますが、
何かのご参考になれば幸いです。

シャン坊

【2021/10/20(Wed) 12:03:21 投稿者により修正されました。】


 

  [No.22985] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/20(Wed) 15:57:45

シャン坊さん、はじめまして。


> もし、「大乗仏教興起時代」の僧院生活を論じるために「律」を資料として用いるならば、
> 「十誦律」「四分律」「五分律」「摩訶僧祇律」などの漢訳でしか残らない「北伝系の古い律」を、
> 南伝のパ-リ律と比較し、詳しく違いを調査しながら、それぞれの傾向を探っていくべきですが、
> ショペンは、そうした「最も基礎的で、重要な文献学的作業」を、全く抜かしてしまっています。
> いったいどうしたことか? と思いますが、
> もしかしたら、欧米の研究者に良くあるように、パ-リ、サンスクリットチベット語の各資料は読むことができても、
> 漢訳の資料は読めないから……という、案外、単純な理由なのかもしれません。
> (「根本説一切有部律」は、サンスクリットチベットが残っています。)
>
> 今、問題となっている「大迦葉による釈尊の葬儀」について言えば、
> 各部派の「律」や「仏伝」(その古いものは、パ-リ以外は、多くが漢訳のみで残っています)を精査すれば、
> もしかしたら、様々な伝承があるのかもしれません。
> 「律文献」では、現在の僧院での状況を「ブッダの当時に遡って権威づける」ために、
> 各部派によって様々な記述が加えられることもありますので、
> この伝承も、「根本説一切有部律」における、そうした問題として考えてみる必要もありそうです。
> (ショペンが根拠とする「テキスト」とは、たぶん、最後期の「根本説一切有部律」か、
> たぶん、それに近い系統のサンスクリットチベットで残る文献でしょうから。)


グレゴリ-・ショペンが自分のことや自分の研究につき話した内容が、訳者あとがきにありますので、書いておきます。
↓↓↓
根本説一切有部律に仏陀当時の教団の様子がどれほど反映されているかという質問をよく受けますが、根本説一切有部律には仏陀在世当時の教団が実際にどういうものであったかについては何も述べられていません。
というのは、根本説一切有部律は西暦一、二世紀の頃に書かれたかあるいは編集されたか編纂されたかしたものです。
だから、それはその当時の僧院制度を語っているにすぎないからです。
根本説一切有部律だけでなく、現存の律はどれをとっても、仏陀在世当時の教団を物語るものではありません。
なぜなら、パ-リ律は、ブッダゴ-サ(五世紀)以前にその実際の内容がどういうものであったかは分かりませんし、また漢訳の諸律もすべて五世紀以後に訳されているからです。
つまり現存の律はすべて仏陀在世当時よりかなり後になって作られたものだからです。
↑↑↑

つまり、グレゴリ-・ショペンは現存の律につき
根本説一切有部律は西暦一世紀か二世紀。
パ-リ律は西暦五世紀。
漢訳律は、西暦五世紀以後。
というように捉えていたようです。

グレゴリ-・ショペンの研究は、西暦一世紀から西暦六世紀くらいまでのいわゆる大乗仏教興起時代の僧院生活であって
仏陀在世中の僧院の様子ではなかったようです。

ですから、グレゴリ-・ショペンが語るマハ-カッサパによる仏陀の葬儀も確かなものでは全くないでしょうね。

実際、西暦一世紀から六世紀くらいまでの様子は碑文や根本説一切有部律から明かしていったものである程度参考にはなりますが、仏陀在世中の僧院に関しては、グレゴリ-・ショペンの説はまゆつばなところがあると思いますし、実際、まゆつばであってほしいと思う自分がいます(笑)

ただ、碑文からの取り組みは画期的だったと思っています。


 

  [No.22987] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:シャン坊  投稿日:2021/10/20(Wed) 16:30:42

ショ-シャンクさま

さっそくのご返信、ありがとうございました。

ショペンが「根本説有部律」を1~2世紀頃と考え、漢訳の律をそれより遅れる……と考えていたこと、
よくわかりました。
(彼の本を読んだのはずいぶん前で、今もしまい込んだままですので、忘れていました。)
それならば、彼自身としては、大乗仏教興起の時代に使えると考えたのもわかります。

ただ、日本の学会では、説一切有部の律としては「十誦律」が先行し、
それから展開したものが「根本説一切有部律」とすることが一般的です。
これはもちろん、漢訳年代の前後と、それぞれに言及する年代の確実な文献から割り出したもので、
かなり確実性が高いと思います。
その例として、以下の論文を挙げておきます。
(ここでは、『大智度論』が「十誦律」に言及するとするなど、興味深い内容もあります。)

「「根本説一切有部」と「説一切有部」」(榎本文雄)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/1/47_1_400/_pdf/-char/ja

「古い時代の北伝仏教文献」で年代の確実なのは、やはり漢訳ですが、
欧米の研究者でこれが利用できる人は限られていますので、
しばしば、その年代推定には、あまりに古く遡らせることもありますが、
ショペンもその一例だった、ということかもしれません。

いずれにせよ、以上は、エム先生とのお話の「本題」ではありませんので、
私もこの辺で失礼します。
エム先生とのお話の続きを、楽しみにしております。


 

  [No.23004] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/21(Thu) 10:41:07

シャン坊さん、ありがとうございます。

グレゴリ-・ショペンの矛盾しているところは、
『根本説一切有部律に仏陀当時の教団の様子がどれほど反映されているかという質問をよく受けますが、根本説一切有部律には仏陀在世当時の教団が実際にどういうものであったかについては何も述べられていません。
というのは、根本説一切有部律は西暦一、二世紀の頃に書かれたかあるいは編集されたか編纂されたかしたものです。
だから、それはその当時の僧院制度を語っているにすぎないからです。
根本説一切有部律だけでなく、現存の律はどれをとっても、仏陀在世当時の教団を物語るものではありません。
なぜなら、パ-リ律は、ブッダゴ-サ(五世紀)以前にその実際の内容がどういうものであったかは分かりませんし、また漢訳の諸律もすべて五世紀以後に訳されているからです。
つまり現存の律はすべて仏陀在世当時よりかなり後になって作られたものだからです。
これらの内、どれが古くてどれが新しいかと問われると、それに答えるのはむつかしいと思います。
また、仏陀在世当時の教団が一、ニ世紀の頃のどの教団に似ているかということに答えることも同様に困難です。
紀元一世紀以前の教団の存在を証明するような考古学的な証拠は何も存在しません。
つまり、教団が存在していたことは事実であったとしても、それは何の痕跡も残していないのです。』
と言っていながら、
仏陀在世当時の教団の様子について断定しているところです。

マハ-カッサパについても、仏陀の葬儀をやり直したということで、最初にクシナ-ラ-全村がかかったことをマハ-カッサパが自分の私有財産でやり直したとして、彼の財産は村全体の財産を凌ぐものだったと断定しています。
頭陀行に専念していたマハ-カッサパに関してそのような断定を行なうのですから、かなり眉唾だと思っています。

紀元一世紀以降の仏教教団は確かにそのような私有財産を持つものがあったかもしれず、そのような堕落が、大乗仏教が起こった一因かもしれません。

しかしながら、グレゴリ-・ショペンは自ら、『仏陀在世当時の教団を記した、その当時のものはない』と言っているのですから、仏陀在世当時に関する断定は矛盾していますね。


 

  [No.22966] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/18(Mon) 20:01:57

すみません。

いま、中村元大般涅槃経でなく、片山一良訳の大般涅槃経を読むと、4人が火をつけようとしたが付かず、神々の意向によりマハ-カッサパの到着を待ってマハ-カッサパが火をつけた、ということのようですね。

何かの本で、葬儀は初めからマハ-カッサパが取り仕切ったと書いてあったような気がしましたが。グレゴリ-・ショペンの本でしたか、うろ覚えです。勘違いかもしれません。


 

  [No.22952] 自分の歩み を 口から出す 投稿者: 春間 則廣   投稿日:2021/10/17(Sun) 08:20:36


> だんだん話しがむずかしくなってきますね。


> > 大乗仏教のメインテ-マは四無量心特に慈悲だと思います。

解脱( 心解脱 ) です
メイン という概念は、 一つの特出したことを言います

> > 法華経でも浄土経典でも大日経でも、慈悲が強く打ち出されています。

何の為に 、 「 慈悲 」 が 起こされるか ということです

> > 部派以前の原始仏教でも慈経は極めて大切にされていたと思います。

解脱( 心解脱 ) です

> なるほど、ショ-シャンクさまは、原始仏教と部派仏教を分けて考えられるのですね。
> 原始仏教で言えば、『スッタニパ-タ』の「八偈品」の最後にある「サ-リプッタ経」に「慈しみ」が教えられています。
> 慈しみは、空とも関わると思っています。ですから、空がわからないと、慈しみは育てにくいのではないかと思います。

「 慈しみ 」 は 仏にあって 慈しみ となり
人にあって 人が、 世間で 望むモノ となる

> > 部派仏教にも慈悲の瞑想はあるのですが、涅槃に至らないという経典の言葉があり、
> > 時代を経るたびに四無量心の地位が下がっていった、少なくとも慈悲をメインとはしなかったように思えます。

仏の慈悲 は 仏のモノ であり
あなたの慈悲 は あなたのモノ である

あなたの慈悲 と 仏の慈悲 とは
同じモノ ではないが、 同じ言葉にある

> 現在の日本のテ-ラワ-ダ仏教では、「慈悲の瞑想」と名づけられる瞑想は行われていて、特に大事なものとされているようです。ここを強調するのは、スマナサ-ラ長老の考えによるところも大きいのかなと思ったりします。

仏の慈悲 は 「 瞑想 」 で 得られます

「慈悲の瞑想」と名づけられる瞑想 によって では
誰も得たことがない
( 得たと知る者 は いない )
( 得なければ 知ることが出来ない )

仏の慈悲 を 知る者 は 「 仏 」 である


( 知りもしない慈悲 に 存在の場所はない → 慈悲 は 「 空 」 である )

> > 大乗仏教はそれへの反発があったように感じます。
> > もちろん、これは私が考えているだけで、的外れかもしれませんが。

「 仏教 」 には 反発 は ない
一つだけを認めるとき 反発が 起きる

「 縁起 」 を知る者には 「 反論 = 論争 」 は 起きない
( 知らない者の “土俵” の上 で “ 相撲 ” が 起こされる )

> そう言われますと、空をメインにする大乗で、慈悲を説くのは、自然なことかと思います。わたしが思うことなのですが、倫理的に追究して行くと、その語りは論理的にどんどんなっていき、逆に、論理を求めて行くと、その語りはどんどん倫理的になっていくということのような気がします。

主食 は パンにあらず 口から出る 言葉にある ( コへレト 11-1 ・ マタイ 4-3 )

あなたのパン は 水面に浮かべられている

「 四食 」 に 生きる ( 口 から 口 へ )


> 仏教を見ていると、そんな気がします。「何か善いこと」を求めて出家した沙門ゴ-タマは、論理と法の地を歩んでいきます。
> また、逆に、大乗になって、龍樹のような人が出てくると、論理の世界に足を踏み入れて語りますが、その語りは非常に倫理的な側面が強く出てきます
> 心解脱を求めて阿羅漢をめざすと、語りは論理的に限定されてきて、慈悲の側面が出てきにくいのかもしれないとは思います。慈悲がないのではなく、語りの論理性の中に入っている、と言えるかもしれません。

論理 を 主眼とすれば 、 論理 が 目につく

「 心 」 を 大切に保てば 、 論理 は その後に続く

「 荷車をひく〔牛の〕足を追う車輪の如く その人についてくる 」 < ダンマパダ >

人の生き様 に 廻る車輪 は 付き従う


> サンガを作らない人々は、その活動は目立たなくて、社会的に認知されにくかったとは言えると思います。種々様々な人が、勝手に自分の道を模索していたとすれば、大乗の流れは、あっても一つの大きな運動になるには、時間を要したことだろうと想像しています。

サンガ の意味は 場所 にはなく 「 心 」 に ある
あらゆるところ に 起こされる 「 心 」 に サンガは起き得る

( 人の心 は どこへでも行くことが出来る → どこにでも 起きる )

「 心によってどこに行こうとも 」 ( 相応部経典 マッリカ-経 )


> > 仏陀の死の凄いところは、人間として何の変哲もない死が、仏陀の理法の根幹である、生じたものは必ず滅するという偉大なるメッセ-ジになっているということですね。
> > 日本でも、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすとして謳われるくらいですから。

ブッダ は 永遠にある ( 輪廻することのない ただ一つの )生 に ある

ゆえに 「 無量寿如来 」 と 唱えられる

> ブッダを見るものは法を見て、法を見たものはブッダを見てますね。日本でも、正しく仏教は伝わったのだなあと感慨深く思います。

あなたが 正しさ である ( 心に問うべきこと )

すべての人 の 「 心 」 は
( どのような場面においても )
正しさ を 出発点としている
( 間違っていたと知る 正しさ = 間違ってはいない正しさ )

> ナ-ガの道だなあ、と思います、ほんと。

どの道 を 歩もうと
( 所詮 )
我が道 を 歩む ( ナ-ガ の 「 道 」 )


 

  [No.23120] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 16:03:43

石飛先生、こんにちは。

仏陀が、自分の死後、衆生浄心に資するために、仏塔を建てるように言った、というのはその通りだと思います。

私の最も疑問としているところは、
それが何故仏陀自身の遺骨でなければならなかったのか、ということです。

仏陀の理法は、五蘊非我です。肉体は仏陀ではなく、法を見る者が仏陀を見るのです。

そうであれば、修行や浄心よすがとして仏塔なり石碑という目に見える礼拝施設があったほうがいいのであれば、
三法印四法印の言葉を刻み付けた仏塔や石碑を、仏陀の生誕地と成道の地と初転法輪の地と入滅の地に建てたほうが
『法を見るものは私を見る』という仏陀の理法にかなうはずです。

世間一般としては、その人の肉体がその人だと強く思っていますから、遺体や遺骨を礼拝する気持ちはわかるのですが、
仏陀の理法はそういう世間の常識を顛倒妄想であると喝破したものである以上、
どうしても遺骨をまつって礼拝するように言ったわけが知りたいのです。


 

  [No.23121] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/10/29(Fri) 04:06:03

ショ-シャンクさま

> 私の最も疑問としているところは、
> それが何故仏陀自身の遺骨でなければならなかったのか、ということです。
>
> そうであれば、修行や浄心よすがとして仏塔なり石碑という目に見える礼拝施設があったほうがいいのであれば、
> 三法印四法印の言葉を刻み付けた仏塔や石碑を、仏陀の生誕地と成道の地と初転法輪の地と入滅の地に建てたほうが
> 『法を見るものは私を見る』という仏陀の理法にかなうはずです。
>
> 世間一般としては、その人の肉体がその人だと強く思っていますから、遺体や遺骨を礼拝する気持ちはわかるのですが、
> 仏陀の理法はそういう世間の常識を顛倒妄想であると喝破したものである以上、
> どうしても遺骨をまつって礼拝するように言ったわけが知りたいのです。

「仏塔を作って拝むべきである」と言っていますが、遺骨については特に表記はないようですね。みなが遺骨を納めたのは、ブッダの塔であることをはっきりさせるためかもしれません。

ショ-シャンクさまと同じように考えた人が、アショ-カ王だと思います。様々な場所に石柱を建て、磨崖には法勅を刻んでいます。「生き物を殺してはならない」など、様々な碑文が残されています。特に、碑文などでは仏教の教えが強調されることはありませんが、アショ-カ王は仏教に帰依したことが知られます。また、ブッダの遺骨を集めて分配し、さらに多くの仏塔をインド各地に建てたとされます。

まあ、それはよいのですが、「なぜ遺骨をまつって礼拝したか」ですよね。

この『大般涅槃経』では、特に、ブッダが、法を厳格に指導する指導者ではない要素が目立ちます。比丘の人たちには、それなりに厳しく教えますが、しかし、ア-ナンダに対する態度や、一般の人々に対する対応など、ブッダの慈悲と見られる部分が強く打ち出されているように、わたしには思えてなりません。

「ずいぶん優しくなったなあ」という感じがします。亡くなる直前だからでしょうか。それとも、「衆生を救う」という側面が強く出てきたせいでしょうか。

この教えの変化や、遺骨を納めることなど、様々に微妙に変化していくのを理論的に説明しようとすると、一つには「中道」の教えから来ることも考えられます。

『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.35に、十二支縁起を説いたブッダに対して、「どれが老死なのですか」「誰にその老死があるのですか」と尋ねた比丘に対して、ブッダは、こう言っています。

この二つの質問は適切ではない。老死とそれをもつ人が別のように聞こえると述べ、、結局、これは「命と身体は同じである」「命と身体はちがう」という内容につながると述べます。

そして、そのどちらも否定します。「命と身体が同じである」という見解をもつ人は、清浄行に住していることはないし、また、「命と身体がちがう」という見解をもっても、清浄行に住していることはない、と言います。
そのどちらにもよらず、中道を行くのが、ブッダなのです。

ここで、出てきましたね。龍樹が、必要になって来るわけがわかるかと思います。
めったに説かないのですが、このように、言語や見解などに関わることも語っています。

こうして、考えると、身体と命が同じであるとも異なっているとも説かず中道によるのであれば、遺骨をまつってもまつらなくてもよいことになりませんか。

一般の人々は、ブッダの遺骨がまつられている場所に行きたいでしょう。どこにでもブッダはおられると思う人は、法を思うだけで祈ることができるでしょう。仏塔に経巻をおさめてお参りするようになるかもしれません。

仏法が広がると、いろいろな現象が起きてくると思います。これも、縁起ですね。


 

  [No.23125] Re: 仏陀は何故、自分の遺骨の塔を作るように言ったのか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/29(Fri) 09:49:46

石飛先生、おはようございます。

> 「仏塔を作って拝むべきである」と言っていますが、遺骨については特に表記はないようですね。みなが遺骨を納めたのは、ブッダの塔であることをはっきりさせるためかもしれません。
>
ショ-シャンクさまと同じように考えた人が、アショ-カ王だと思います。様々な場所に石柱を建て、磨崖には法勅を刻んでいます。「生き物を殺してはならない」など、様々な碑文が残されています。特に、碑文などでは仏教の教えが強調されることはありませんが、アショ-カ王は仏教に帰依したことが知られます。また、ブッダの遺骨を集めて分配し、さらに多くの仏塔をインド各地に建てたとされます。


そうですね。もう一度、片山一良訳と中村元訳を読み直しましたが、
転輪王の遺体を荼毘に付します。それから大きな四つ辻に転輪王の塔を建てます。』『ちょうど、転輪王の遺体にたいしてするように、如来の遺体に対してされるべきです。』とあります。

自然な流れとしては、荼毘に付した場合は、遺骨を塔に収めるのが普通でしょうけど、仏陀自身がはっきりと、遺骨を納めた塔だとは言ってないですね。
とすると、かなり強引に考えると、舎利がない塔も考えていたかもしれません。
実際、舎利が足らなくなって、瓶や灰を収める塔を作って、舎利の8つと合わせて10の塔ができたらしいですから。

仏陀は遺骨にはこだわっていないということで、ある程度すっきりしました。
ありがとうございます。


 

  [No.23184] ここのよさとはな 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/11/02(Tue) 01:24:02

仏教を中心軸にしているだろ

そして 竜樹を信奉 そして 親鸞も見据えているだろう

ギリギリ セ-フなんだよ

いちおう 流れには 沿っている 条件には はいったまま

仏教おたくが 功を奏していると

ここが 外れると 手に付けられなくなる

だいたいはな 大乗否定的になり はい おしまいが 多い

学者は ど-しても そうなりやすい

ギリギリ セ-フ

殆どは 駄目なんだからさ ここは ましなほうなのよ

知が先行し墓穴 驕りもな

その意味でも ショ-シャンクは いつも危険な位置


 

  [No.23166] これでは 知のおままごと 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/11/01(Mon) 20:23:51

永劫やっても 一緒だよ

なにも 結論がでない

出家しか ないかだからさ そこを誤魔化しているから--

子供にも わんるんだよ

な--んにも それでは 進めない


それを 知的遊戯だと 特に ショ-シャンクは矛盾だらけ


 

  [No.23102] ショ-シャンクよ 笑 投稿者:ミチオ  投稿日:2021/10/27(Wed) 22:23:29

ブッダの教えが 本当に知りたいか ?

爆笑


以下


 

  [No.22691] Re: メッタ-様、ショ-シャンク様の言葉も「神の愛」 投稿者:芳和  投稿日:2021/09/20(Mon) 19:10:40

> そのオッさんについては、人間的な評価最低といっておこう。

あれあれ、マルコという神に仕える者のお言葉ではないですね。
からしたら「大日如来の大悲のコトバ」ですが、
クリスチャンにしたら、「始めにコトバありき」と、
神の愛のコトバが世界を創造なさった。
何から何まで「神の愛」ではなにのでしょうか。
ショ-シャンク様の言葉も「神の愛」と受け止められないのでしょうか。

悲しいではありませんか。
そんなメッタ-様に懺悔し、頭を垂れ、神の前に跪けば、
神の愛に満たされていることを「お気づき」になると言いますが…。

神の愛の「気づき」がほしいところですね。

愛は恐れを取り除く――統べは愛

とクリスチャンの校長から学んだ経験があります。


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